第二巻 第8回 「戦略会議」

日米共に休日となった週初の月曜日(8日)、為替市場は模様眺めの展開かと思われたが、ユーロ円の売りに連れてドル円が112円台後半へと下落した。

「先週までは‘115円突破か’などと騒いでいたくせに、今日はもうそんな声は全くありませんね」

休日の夕方にも関わらず、宿泊先のアストリア・ホテルのバーに出向いてくれた山下の開口一番の声だ。

「ロンドンと話してたのか?」

「はい、東京の客のオーダーも113円台前半まで降りてきたそうです。
やはり、114円台は重たいですね」

「そっか。
まだロングのシコリもある様だし、ドルは一段安だろうな・・・。

まあ、今日は相場の話は止めておこう。

食い物は、オードブルと少し腹に溜まるものをオーダーしてあるけど、アルコールは自分で選べ」

「了さんは何を飲んでるんですか?」

「マカランの18年だ」

「じゃ、同じもので行きます」
と言い終えると、バーテンダーに注文を入れた。

大分仕草や話ぶりが、手慣れてきた様だ。

「ところで人事の件だが、明後日(水曜日)の午後、レイノルズ・リサーチが推薦してきた五人と会う予定だ。

俺がその内の二人に絞るから、最終的にはお前がインタビューしてどちらかを選べ。

今回は横尾が口を挟めない様にしてあるから、お前が決めればいい。

これが五人のレジュメだ。

目を通しておいてくれ」

「了解しました。

でも、横尾さんも面白くないでしょうね。

自分が管轄する部門の人事にも関与できないんですから」

「それはそうだが、彼に任せれば、間違いなく自分に忠実な人間を採用する。

そうなれば、お前が仕事をやりづらくなるだけだ」

「そうですね。

ところで前回の出張で‘横尾さんを市場部門から叩き出す’って言ってましたけど、その件はどうします?」

「自分から他人の脚を引っ張るのは気が進まない性分だ。

だから、相手が先に動いてくれた方が俺はやりやすい。

実は、日和時代に為替部門で横尾と一緒に働いていた人物が名古屋支店にいる。

融資部次長で、田所さんという人だ。

先週本店に出張してきた際に、横尾の話を聞くことが出来た。

田所さんは横尾より年次は一つ下だが、本人曰く自分の方がディーリングでは上だったそうだ。

そんな彼を横尾は外しに掛かったという。

手口は彼のポジションとは逆サイドのポジションを数倍持ち、時には他行の知り合いにも上乗せを頼んでいたらしい。

多勢に無勢で勝てる訳はない。

幾度か文句を言ったそうだが、‘何の証拠があって、そんなことを言う? そんなことより、技量を上げろ’と切り返されたそうだ。

当時の二人の上司が田村で、横尾とは兄弟の様な付き合い方だったらしい。

その翌年、田所さんは福岡支店に異動になった。

要は、‘仕掛けられた’ってことだ」

「酷い連中ですね。

それで、了さんとしては、横尾さんが仕掛けてきたら、切り返すってことですか?」

「まあ、そんなところかな。

今の彼はかつてよりポジション・リミットが大きい。

それにスイス時代にあっちで何らかの人脈を作っているはずだから、かつてよりもパワーアップしている。

そのパワーを利用して、俺を潰しに来る日はそう遠くないはずだ。

一連の意趣返しもあるが、何よりも彼は俺の上に立ちたいと思っている。

当分、彼の動向をウオッチしておいてくれ」

二人はアストリアのバーを後にすると、ダウンタウンのジャズクラブへと向かった。

アメリカンリーグ・地区シリーズの第三戦、ヤンキースがレッドソックスに1-16で大敗したことを知ったのは、帰りのタクシーの中だった。

ポスト・シーズン16失点は、球団史上ワースト記録である。

‘明日の試合もだめかな’

 

翌朝(NY火曜日の朝)、マイクから電話があった。

チケットは入手できなかったという。

 

‘残念だが、ポスト・シーズンでのヤンキース・ボストン戦の大詰めだ。
無理もないな’

 

マイクからの電話の直後、志保からメールが届いた。

〈チケット、残念だったわね。

でも、私が行くから我慢して。

6時過ぎにホテルに行くわ〉

 

《部屋は40XXだ。

待ってる。

混雑時のグラセン(グランドセントラル駅)、気を付けてな》

 

〈了にしては、珍しく優しい言葉ね。

ありがと、気を付ける。OX〉

 

オフの日中、ブルックス・ブラザーズやポールスチュアートなどで買い物をしながら時間を潰し、志保を待った。

 

メールの通り6時過ぎに部屋に来た志保は、いきなり俺の胸に飛び込んできた。

人目があろうとなかろうと構わない、いつもの彼女の仕草である。

そのまま俺にしな垂れてくるかと思いきや、
今度は「了、ルームサービスをお願い。急いできたのでお腹空いちゃった」と言う。

 

‘呆れてモノも言えないな’

 

「何でも良いのか?」
少しふてくされ気味に言った。

そんなことも気にせず、
「ええ、スープとサンドイッチとか、それにスパークリング・ワインもお願い」と言いながら、バスルームへと消えて行った。

 

‘奔放だな。

そこが彼女らしいって言えばそうだが、とても嫁さん向きではないな’

 

その晩、抱き合った後、彼女にそれとなく言った。

「もしかしたら、こっちに来るかもしれない。

マイクに伝えておいてくれ」

「えっ、コネティカットで働くってこと?」

「ああ、但し、‘もしかしたら’ってことを付けくわておいてくれ。

50:50程度の感じかな」

「何か銀行であったの?」
怪訝そうな顔だ。

「これから、あるかも知れないってことだ。

もうこの件では、これ以上話すことはない」と言い放ち、テレビのリモコンのスイッチを入れた。

【4-3 loss to the Red Sox】

 

‘やはりな。

今年のヤンキースにはガッカリだ’

 

志保は‘残念ね’と言いながらも、何故か嬉しそうだ。

「ねぇ、グリニッジ近辺に二人が住むのに良い場所を探してみる」
などと言っている。

「おいおい、まだ決めたわけじゃないからな。

それに志保と一緒に住むなんて誰も言ってないだろ!?」

「了解、了解」などと言いつつ、既にスマホで住宅を探してる様子だ。

 

翌日、5人とのインタビューを熟し、二人を選んだ。

二人共、キャリアに問題はなく、30代前半の妻子持ちである。

後の選択は山下に任せてある。

‘彼がやりやすい人物を選択すれば良い’

 

ドル円相場は、週後半に入って111円83銭を付けた後、112円20近辺で週を終えた。

まだドルが一段安となりそうな気配だ。

 

土曜の夜11時過ぎに神楽坂の社宅に戻ると、やおらPCにログインした。

国際金融関連のヘッドラインを一覧すると、『ムニューシン米財務長官、日本に為替条項要求』の一行が目に飛び込んできた。

 

‘為替相場が日米通商協議での争点の一つなることは市場参加者の誰もが予想していたことだが、ドル円が崩れ始めている時だけに週明けから左に(ドル安に)触れる可能性がある。

市場が慌てれば、110円割れがあるかも知れないな。

15日に発表が予定されている米財務省の【為替報告書】で、日本が為替操作国として認定されるとは思わないが、記載される内容には要注意だな’

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第7回  「人選」

週初(10月1日)の朝方、相場は模様眺めの展開となった。

ドル円は113円台後半でやや強含みに推移しているが、積極的にドルを買う向きも少ない。

そんな状況を見て、東城の執務室に向かった。
市場が一段落したら、’時間を貰いたい’と早朝に伝えてある。

「仙崎です」

「入れ」
いつもの落ち着いた低い声がドア越しに聞こえてきた。

ドアを開け、指示されるままにソファーに座ると、
「あっちは落ち着いたのか?」という。
あっちとはニューヨーク支店のことである。

「はい、ジムの奥さんにはマイクのファンドで働いて貰う様、提案しています。

問題は空席となった人事です。

今は小野寺を長期で出張させてますが、FED(ニューヨーク連銀)の事後調対応などを考えると、やはり英語の問題を含めてジム程度の能力がある現地人を雇う必要があるかと思います。

ただ、横尾さんが人選した場合、その人間が必ずしも山下や他のスタッフ達と調和するとは限りません。

というよりも、横尾さんは‘自分に忠実と見られる’人間を雇うと思います。

本来であれば、横尾さんに人事を任せるのが筋かと思いますが、今回は私が人選出来る様にお取り計らい願えませんでしょうか?

「分かった。

人事については、何とかする。

ところで、下半期の収益についてだが、お前個人のバジェットが20億円は大き過ぎないか?」

「確かにそう思います。

ですが、海外店のトレジャラーやチーフ連中に厳しい収益を課した手前、示しがつかないかと・・・」

「まあ、お前に任せるが、無理はするなよ。

超低金利が続いてるお陰で、銀行の収益が悪化している。

その皺寄せがこっちに回ってきているだけだ。

だめで元々のバジェットと俺は考えてる」

「分かってますが、頑張れるだけ頑張ります」
きっぱりとした声で返した。

納得していない様子が東城の顔に滲む。

重たい空気が流れ出したのを振り払う様に

「最近、どこへも行ってませんね。

どこか旨いものでも食べに連れてって下さい」と明るい声で誘い掛けた。

「そうだな。

近いうちに寿司か河豚でも行くか」

「それは良いですね。

できれば、秋ですから河豚の方が」
東城の顔に笑みが戻った。

場が和んだのを見計らって、ソファーから立ち上がり、ドアへと向かった。

「あっちの人事、週の半ばまでには話を付けておく。

ヤンキースがワイルドカードを勝ち上がれば、あっちで地区シリーズのボストン戦にありつけるかもな」
背中で東城の声を聞いた。

「はい、チケット次第ですが」
後ろ手にThumb up をしながら言う。

 

‘見抜かれたか’

 

ドアを閉めると、深々と頭を下げた。

 

ドル円相場は週半ば(3日)に114円54銭、そして翌木曜日に114円55銭を付けたが、昨年11月の高値114円73銭を抜くことはできなかった。

そして週末の金曜日、米9月雇用統計のNFP(非農業部門雇用者数)が予測を下回ったことを受けてドル円は113円56銭まで沈んだ。

先週の土曜日に国際金融新聞の木村宛てに送った予測では「来週のドル円は一旦伸び切り、反落する可能性が高い」と書いたが、正にそんな相場展開となった。

 

ニューヨーク支店の人選は仙崎に一任された。

東城の要請に常務の嶺は強く反対したそうだが、ジムの死に横尾が関係している可能性を示唆すると仕方なく折れたという。

土曜の午後、明日からの出張に備えてのパッキングをしていると、国際金融新聞の木村から電話が入った。

「珍しですね。

木村さんから電話とは?」

 

「今、社で‘ドルの強さは本物か’というテーマで原稿を書いてるんですが、行き詰ってしまい、つい仙崎さんに電話してしまいました。

何か良いアイディアはありませんか?」

「埋め草でもいいですか?」

「ええ、仙崎さんのことだから、単なる埋め草ってこともないでしょうし。
是非、お聞かせ下さい」

「最近ではあまり、真剣に議論されてませんが、ドルの信認を深刻な問題と捉えています。

トランプ政権は経済成長と経常収支のインバランス(不均衡)是正の両取りを狙っています。

財政拡大で大幅経済成長を目論めば、経済成長が叶っても、そこには財政赤字拡大と輸入増が伴いますよね。

つまり、現状の財政拡大を続けて行けば、財政赤字の増加と経常赤字の拡大は避けられないってことでしょうか。

双子の赤字とGDP比の問題は早晩、ドルの信認問題につながるため、‘ドルの強さは本物か’という、木村さんが今お書きになっているテーマにマッチングしてるかと思います。

今は取り沙汰されていませんが、何かが切っ掛けとなって、大きくクローズアップされても不自然ではない問題と考えています。

ちなみに、来週の木曜(11日)にアメリカの9月財政収支の発表がありますが、この先注意深く見ておいた方が良いかも知れません」

「なるほど、何となく良い原稿が書けそうな気がしてきました。

ありがとうございます。

ついでに、来週のドル円はどんな感じでしょうか?」

 

‘抜け目がないな、この人も’

 

「多少ドルが上がっても、やはり上値は重いと考えてます。

そろそろ本格的な調整局面入りかと。

予測レンジは112円20銭~114円75銭にしておきます。

それじゃ、ちょっと忙しいので、この辺で失礼します」

「お忙しいところ、申し訳ありませんでした」

 

パッキングを終えると、ウィスキーグラスを片手に電話を入れた。

相手はマイクである。

頼み事を告げると、

‘Whaat!?  Are u serious?’

と怒ってる様な口ぶりで言う。

来週火曜日のヤンキース・レッドソックス戦のチケットを頼んだのだから無理もない。

そう言いながらも、

「泊まりはアストリアか?

もし取れたら、Shihoに届けさせる。

でも、あまり期待するなよ。

何せ、カードがカードだからな」

と続けた。

 

‘Friends are the most valuable assets.

I owe u one’

と、多少は感謝の気持ちを込めて言った。

‘Not one,
Right?’

‘Right.
I lost!

Thank u as always’

 

‘良いヤツだ。

チケットが取れなくても、きっと志保を立ち寄らせるに違いない’

 

ボストンで行われた地区シリーズ第一戦は、ヤンキースが失った。

第二戦はマー君が5回一失点と健闘し、ヤンキースが勝利をものにしたという。

羽田でそのことを知った俺は、

‘マイク、何とかチケットを手に入れてくれ’と祈らざるを得なかった。

♪♪・・・・・ニューヨーク、ニューヨーク・・・・・♪♪・・・・・

フランクシナトラの歌声が搭乗案内と重なった。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第6回 「古傷」

週末の金曜日(28日)、日経平均株価は約27年ぶりの高値を付け、ドル円相場は昨年12月以来の高値水準となる113円71銭まで跳ねた。

貿易摩擦、ブレグジット、そして新興国問題など、何一つ眼前に横たわるリスクが払拭されていないにも関わらず、市場はリスクを選好し出している。

もっとも、上半期末を控えて、インターバンク・デスクは顧客のフローを捌くことに徹し、ドル高の流れを淡々と受け止めている様だ。

俺自身は大企業の為替関連の部長連中から、下半期に備えての相場予測の問い合わせに追われ、それなりに忙しい。

6月調査の日銀短観によれば、大手輸出企業の下半期の為替想定レートは107円26銭と、
足下のドル円相場と比べれば、かなりのドル安水準に設定されている。

正に嬉しい誤算だ。

そのせいか、彼らの口調はやけに明るい。

「うちは114円台で、下期のエクスポージャー(晒されている為替リスク)を半分ヘッジしておこうと考えてるけど、それで良いんでしょうね、仙崎さん?」

俺が‘そうだ’と言えば、気が済むのだろうか、そんな念の押し方をしてくる連中が多い。

ドル建て輸出の多い自動車メーカーなどは、1円の円高で100億円単位で円の手取り額が減り、逆に1円の円安では想定外の利益が生まれる。

昨年4月以降、115円以上のドル高水準を見ていないため、やはり114円台で売り逃したくない輸出企業が多い様だ。

そんな中、輸入企業は一連のドル高の流れに焦りがある様で、113円台でもドルを買ってくる。

 

土曜(29日)の晩、外に出るのも面倒で、夕飯は宅配ピザとハートランドで済ませた。

 

‘まだ9時か。

NHKのMLBサマリーまではまだ時間があるな。

来週のドル円相場予測を早く片付けておくか’

 

食器棚からラフロイグのボトルとグラスを取り出し、デスクへと向かった。

 

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木村様

 

この一週間を振り返ると、対円だけでなく、ユーロやスイス・フランに対しても、ドルが買われてますね。

市場がドル買いに安心感を持ち始めてる様ですから、もう少し買い気配が続くのかと思います。

もっとも、オシレーター系のチャートが示している様に、ドル買いに過熱感が強まってる感じがします。

伸び切る時期が近いのかと。

FOMCのドットチャートは20年にFRBの利上げが終わることを示唆しているのですが、メンバーはこの先、比較的早い時期に減税効果が薄れると感じてるのかも知れませんね。

彼らが一番読み切れないのは、貿易戦争が米経済にもたらすマグニチュードの大きさでしょうか。

IMFは7月の時点で、貿易戦争が最大規模となった場合、来年の世界のGDPは0.4%減と試算しています。

とすれば、それなりに米国自体も自らが振り下ろした剣の返り血を浴びることになるでしょうし、予想外に早く利上げ局面の終了があるかも知れません。

この点、木村さんの一筆を期待しています。

来週のドル円は節目の115円を目前にして、一つの山場を迎えそうですね。

前述したオシレーター系のチャート水準を見ると、ドル買いが先行した場合は、結構大きな反落があると見ています。

ただ新しい期でもあり、自身のポジションは少し様子を見てから取ろうと考えています。

 

来週の予測レンジ:111円75銭~114円75銭

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

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Outlook の送信をクリックすると、ベッドへと向かい、サイドテーブルにラフロイグをなみなみと注いだグラスを置いた。

何のアルバムが挿入されているのかも気にせず、無造作にBose の Wave Music Systemのリモコンをオンにした。

‘Come Rain Or Come Shine’が流れ出した。

ジムの弔いで聴いた ’Keith’ の ‘Still Live’ のDisc 2がSystem に入れっ放しになっていたのだ。

‘「降っても晴れても」か。

何があっても、やるべきことは、決まってるってことかな’

ベッドの上に寝転びながら、ジムのリベンジのことを考えていると、自分が罠に嵌められた過去の出来事が脳裏に甦ってきた。

 

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「おい仙崎、俺達は重要なミーティングがある。

あとは頼んだぞ」

田村が有無を言わせない口調で言った。

シニアの二人を連れて、デスクを離れるという。

 

‘それでも現場の責任者か。

まったくいい加減な課長だ’

 

「そうだ、思い出したけど、さっきワールド生命の斎藤さんがドル円100本(1億ドル)買うって言ってたぞ」

田村にしては珍しく、親切に情報を残していった。

「ありがとうございます。
心しておきます」

一応、礼を言った。

 

‘ワールドが買うとなると、最低でも300本、場合によっては500本か。

500本が一遍にバラまかれたら、確実に10銭は滑るな。

先に半分だけでもカバーを取っておくか’

 

ワールドが100本プライスを聞いてきたのは、丁度50本を買い終えた時だった。

ほぼ間髪を入れずに、
「80-82」をクオートした。

 

‘82でマイン(Mine:ドル買い)のハズである。

50本は、70で買っているから楽勝にカバーできるな’

 

その瞬間、コーポレート・デスクから
「ユアーズ(yours:ドル売り)」の声が聞こえた。

一瞬耳を疑った。

 

‘田村は確か、ワールドがドルを買うと言ってた。

なぜだ?’

 

束の間考えたことが、事態を余計に悪化させた。

気配は見る見るうちに、左(ドル安)に振れて行く。

‘兎も角、150本売り捌くしかなかった’

「皆、売ってくれ」
叫んだ。

「30-40」

「ダン」

「10-30」

「ダン」

カバーし終えた時には、損失は1億を超えていた。

田村はワールドの運用部長から事前にディールの中身を聞いていて、俺を嵌めたのだ。
二人が東大で同期だったことは後で知った。

他部署から国際金融本部外国為替課に異動を命ぜられ、あっと言う間に頭角を現した俺を田村やシニアの連中が嫉み、そして憎み出していたのだ。

 

‘部下をこんな形で甚振ってどうするんだ。

そこまで、俺が憎いのか?

もう、こんな組織で働いても仕方がないな’

 

その日以降、ひたすら顧客からのカバー・ディールに徹し、自分から積極的にポジションを取らなくなっていた。

そんな俺を見守り、救ってくれた人物がいた。

当時まだ、部長だった東城である。

コロンビア大学MBA留学という道を作ってくれたのも彼だった。

後に人伝に聞いた話では、東城はそのために、人事部長や一部の役員連中に幾度も頭を下げてくれたそうである。

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‘込み上げてきた怒りの気持ちが、当時の東城の心遣いを思うと薄れて行く’

 

感傷的になりかけた気持ちを振り払う様に、グラスに残っていた琥珀色の液体を飲み干した。

 

‘横尾だけでなく、田村も消えてもらうしかないな。

もう行内の醜い争いごとは終わりにしなければ’

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第5回 「墓前に誓う」

週初(17日)、ニューヨークへと向かった。

ジムの墓前に花と誓いの言葉を手向けるためである。

クイーンズにある墓地にはジムの妻・カレンが付き添ってくれた。
彼女とは銀行のクリスマス・パーティーで一度だけ会ったことがある。

やっと一人歩きし始めたばかりの彼の愛娘、ステイシーが彼女の傍らにいる。
父親が死んだことの意味を深く理解していないのか、母親に手を繋がれた幼子は何故か嬉しそうだ。

暫く歩くと、カレンが「ここよ」と言って、ジムの眠る墓の前で立ち止まった。

墓前に花束を手向けると、目を瞑りながら、
「二人のことは任せておけ。そしてお前の仇は必ず俺が取る」と誓った。

カレンは小さな声で祈りを捧げ、その横でステイシーが同じ仕草をしている。

 

’痛ましいな’

 

それぞれに祈りを終えると、カレンが話出した。

「主人は貴方のことをとても尊敬していたわ。

‘自分は良いボスを持てて幸せだ’とも言ってた。

貴方がこっちにいる時は、‘銀行へ行くのが毎日楽しい’と言ってたぐらいだから、彼は本当にあなたや同僚の方達が好きだったのね」

「僕らはああいう環境の中で仕事をしてるので、どうしてもチームワークが重要なんだ。

彼はそのことを良く心得ていて、チームの成績が悪い時でも皆を元気づけてくれていた。

だから皆、彼のことが大好きで、本当に良いチームが出来上がったと思う」

「そんな彼の話を聞けて嬉しいわ。
ありがとう、Ryo」

「ところで、カレン。
仕事の当ては?」

首を横に振りながら、
「まだそこまで考えるほど、気持ちに余裕がないの」と言う。

「それはそうだな。でも考える気持ちの余裕が出来たら、僕に連絡をくれないか?

親子二人が食べて行くのに十分な給料を貰える仕事がある。

ただ、場所はコネティカットのオールドグリニッジだから、引っ越すしかないけど・・・」

 

‘ここはマイクに頼むしかない’

 

「ありがとう。

考えてみるわ」

「ああ、是非考えてほしい。

友人が運営している会社だ。

彼には相当儲けさせてるから、君の給料ぐらいは全く問題ない」

彼女の顔に少し笑みが浮かんだ。
ステイシーも母親のそんな顔を見てか、無邪気に笑う。

 

‘ジムが亡くなってから、初めて見る母親の笑顔なのかもしれない’

 

「Gimme a hug, Stacy」と言って、腰を下ろしながら手を広げた。

躊躇いもせずにステイシーは胸に飛び込んでくると、軽く頬にキスをしてくれた。

 

‘可愛い子だ。生前のジムはステイシーを見る度、娘にハグとキスを求めていたに違いない。

切ないな’

 

ハグが解けると、幼子は母親の傍らに寄り添った。

「カレン、僕はそこでタクシーを拾う。
連絡を待ってるよ」

「ありがとう。

わざわざ日本から来てくれただけでも嬉しいのに、私の仕事の話まで考えていてくれて、
貴方は本当にジムの言ってた通りの人だわ。

仕事、お願いすることになると思う。

その時はお願いね」

「Contact me anytime.

Take care!」

二人を乗せた車が墓地のゲートを出るまで見送り続けた。

 

二人と別れた後、タクシーを拾い、そのまま支店へと向かった。
一泊の予定なので、ホテルに預けるほどの荷物もない。

支店に行くことは、山下にも伝えていなかった。
突然ディーリング・ルームに現れた俺の姿を見て、皆唖然とした顔をした。

「突然、どうしました?」
山下が聞く。

「ジムの墓前に花を手向けに来ただけだ。

ついでに横尾に挨拶をと思って」

「挨拶って?」

「挨拶は挨拶だ。

まあ、ジムへの手向けは花だけじゃ淋しいからな。

アイツのテンプルに一発喰らわせて、市場部門から叩き出す。

上半期はもう何も数字を動かせないので何もできない。

下半期に入ったら、お前にも手伝って貰う」

「了解です。今日のお泊りは?」

「いつものアストリアだ。

明日帰る。

夜は何のケアも要らない。

ところでご家族はこっちに慣れたか?」

「はい、徐々にピックアップしている様です」

「そっか、それは良かった。

俺は今日アイツに一言残したらそのまま帰るから、見送りも不要だ。

今話した件、また東京から連絡を入れるよ。

それじゃ、奥さんによろしく」

そう言い残すと、横尾のデスクへと向かった。

 

「おう仙崎君、突然に今日は何の用だ?」
平然と言葉を発したが、内心は穏やかでないはずだ。

「何の?

そんなことはお分かりのはずでしょう。

僕の大切な友人が死に追い込まれた。

誰かのせいでね。

墓前に花を手向けに来るのは当然でしょう」

「誰かのせいって、誰のことを言ってるんだ?」

「今更、私に聞くまでもないでしょ。

あなたが一番知ってるはずじゃないんですか?」

「貴様、何の根拠があってそんなことを・・・」

横尾が伏目がちに顔を歪めた。

「根拠って物証のことですか?

あれがそうだとすれば、そうとも言えますが・・・」

横尾の顔がみるみると曇って行く。

 

‘ここは、相手に不安を与えておくだけで十分だ。
きっと俺が帰った後、支店長室に駆け込むに違いない’

 

「勿体を付けやがって。

用件がないのなら、さっさと帰れ。

こっちは仕事で忙しいんだ」

「仕事?

ポジションでも凝ってるんですか、それとも支店長に頼まれた何かの代筆仕事ですか?

それはそれとして、今日は伝達事項があって、ここに寄らせてもらいました。

下半期からは部全体の収益もさることながら、ディーラー個人の収益もしっかりと管理させて頂きます。

もちろん、横尾さん、トレジャラーであるあなた自身の収益もね。

外銀と違って、邦銀ではややもするとその点が曖昧になりがちですが、今後は許されません。

もっとも、日和のエースだった横尾さんに限ってバジェット未達なんてことはないでしょうが。

これは本部長の方針ですから、宜しくお願いしますね、トレジャラーの横尾さん」

テレビドラマの様なクサイ言い回しだが、ジムの無念を込めて念を押す様に言い放った。

二の句が継げないのか、右手の甲をこっちに向けながら振った。
もう帰れと意味だ。

こっちを心配そうに見つめる山下に、thumb up しながら、ディーリング・ルームを後にした。

支店が入るビルを出ると、曇ってるせいもあってか、5時過ぎだと言うのに結構暗くなっていた。

パークアヴェニューを南北に走る車の半分はヘッドライトを点灯している。

改めて見るそんな光景は実に美しい。

 

‘やはり、こっちは良いな。
戻ることはあるのだろうか?’

 

週初に112円を挟んでうろうろしたいたドル円相場は、週末の金曜日に(21日)1月以来の高値水準となる112円88銭へと上昇した。

IMFが7月に公表した「貿易戦争に関する国際的な影響」関する資料によれば、最悪のシナリオで米国のGDPは1年目で0.8%減、世界では0.4%減である。

過去最高水準に上るNYダウ、それに連れるかの様に日経平均株価も高値を追う。

ひと頃はトランプが中国への追加関税発動を示唆する度にリスク回避に走った市場だが、今リスクを無視し出した。

円売りドル買いに動き出した為替市場、高値を追いかける株式市場、阿鼻叫喚の修羅場が近いのかもしれない。

リーマンショックから丁度10年の時が流れた。

‘身を引き締めなければ’

そんな内容を連ねた雑文を書いた後、「来週の予測レンジ:110円50銭~113円40銭」を文末に添えるのを忘れなかった。

いつもの国際金融新聞の木村へドル円相場予測である。

outlookの「送信」にマウスのポインターを合わせると、ゆっくりクリックした。

その瞬間、ウィスキーグラスの中の氷がカタっと音を立てながら琥珀色の液体を揺らした。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第4回 「ヘンリー・ハドソンの悲劇」

ブレグジットを巡って「英国とEUとが現実的な合意に至る」との見方が強まる中、ポンドとユーロが対円で買われ、その結果ドル円が強含み出したのである。

どことなく新興国に対する懸念も薄らぎ、前週までのリスク回避の円買いムードは市場から消えたかの様である。

ニューヨーク支店が客のオーダー処理をミスしたことで、期せずして取ったドルショートも
全て手仕舞った。

110円割れの可能性もあった先週時点から場の雰囲気が一変しているのだ。
そんな市場の機微が感じ取れる。

‘これでもう、下期に入るまでポジションを取るのは止めておくか。

上手く相場に乗っている時は徹底的にポジションを取るべきだが、今はただ、余裕のある時に過ぎない。

こんな時は、得てしてポジション管理が甘くなる。

だから、場に入らない方が良い‘

「もうインターバンクもコーポレートも、バジェット(収益目標)は完全にクリアしている。

そろそろ上期の収益を固めることにする。

これからは当分、客のカバーに徹するから、そのつもりでいてくれ」

ドル円が111円台後半を覗きだした火曜日(11日)の午後、沖田に告げた。

「了解しました」

「お互い、少しのんびりしよう。

でも、お前のことだ。
多少でもポジションを持っていたいだろうから、それはお前に任せる。

但し、収益が増える分には問題ないが、マイナスは片手(5000万)までにしておいてくれ。

それと、例のテレビ番組の方もお前に任せっぱなしだが、大丈夫か?」

沖田が右手の親指を立てて、ニコリと笑う。
ディーリング・ルームでは見たことのない笑みを浮かべた。

’仕事もでき、真面目だが、そっちに関しては普通の男だな’

「美人の中尾さんに会えるのが楽しみですし・・・」

「おいおい、気を付けろよ。

俺と違って、お前は妻子持ちだぞ。

‘投資の最終判断は自己責任で’だけどな」
二人の笑いがデスク中に広がった。
笑いの意味も知らない他の部下達が、怪訝そうにこっちを見た。

その日の晩、ラフロイグを飲みながら寛いでいるところに、固定電話が鳴った。
11時直前、もう直ぐNHKのMLBサマリーが始まる時間だ。
画面だけは追いたくて、テレビの音をミュートし、固定電話の子機を手にした。

電話の向こうは山下だった。

「課長、ジムに拙いことが・・・」
言葉を続けられないほど慌てている。

「落ち着け!
ジムがどうした?」
山下の息を吸い込む様子が伝わってくる。

「はい。

ジムが今朝、元気そうな顔でオフィスに現れ、いつも通り業務に就きました。

ところが、暫くすると様子が変だったので、隣を見ると一件のメールを食い入る様に読んでいました。

読んでいる間中、‘fuck’とか‘shit’とか、ダーティーワードの連発です。

その後、メールを何処かに転送し終えると、急に椅子から立ち上がり、横尾さんのデスクの前に行き、一言二言発した後、横尾さんの左顔面に右ストレートを一発。

ざっと、そんなところです」

「それで?」

「ジムはデスクに戻ると、PCをオフにし、真っ赤な顔をして何処かに消えてしまいました。

横尾さんは今、応接室で横になっているところですが、恐らく今日はデスクに戻ることはないと思います」

「それで、ジムはお前に何も言わなかったのか?」

「‘もう、戻れない。
いままでありがとう‘とだけ」

「結構拙い話だな。

横尾からのメールを読んで、そんな行動に出たことは間違いないが、一体何が書かれていたんだ?

彼は冷静で、滅多なことで人を殴る様な男じゃない。
余程のことがメールに書かれていたに違いないな」

それで、携帯に電話は入れてみたのか?」

「はい、もう5回も入れたのですが、電源オフの様です」

「自宅へは?
奥さんが電話に出たのですが、戻っていないとのことでした」

「そうか・・・。
いずれにしても、コンタクトできるまで動きが取れないな。
彼と連絡が取れたら、必ず俺に電話を入れる様に伝えてくれ」

「了解しました」
どちらからともなく、電話を切った。

後味の悪い電話だった。

グラスに半分ほど残っていたラフロイグを一気に喉に流し込んだ。
喉が受け入れず、咽返った。

山下からジムの訃報が届いたのはそれから6時間後(12日早朝)のことだった。

朝のコーヒーを飲み終え、社宅を出ようとした矢先のことである。

「課長、ジムが亡くなったそうです。
少し前、彼の奥さんから電話があり、ヘンリー・ハドソン・パークウェイ*のガードレールに激突・・・。

ブレーキ痕もなく、大量のアルコールが検出された・・・。
つまり、自殺ということです。

課長、もうこれ以上の話は・・・」
山下の声が途絶えた。
涙で話が出来なくなった様だ。

ディーリング・ルームのデスクに着くなり、
「沖田、ジムが交通事故で亡くなった」
と言葉を発した。

「えっ、ジムってニューヨークのジムですか?」

「ああ、山下の話では、どうやら自殺らしい。
自殺だとすれば、原因は先週の曙生命のオーダー処理に関係している」

「でも、横尾さんの‘クビ’発言は物の弾みで出ただけですよね?」

「そうだ、周囲の皆もそう受け止めた。
そして本人もそう受け止めた。
その証拠に昨日、ジムは元気に支店に出勤してきたそうだ。

ところが、あるメールを見た途端、彼の態度が急変したらしい」
昨晩の山下の話を沖田に聞かせた。

沖田と話をしながら、オーバーナイトで送られたきたメールを一覧した。
海外から毎日30~40件のメールが送られてくる。

メールの取捨選択をしいていると、ニューヨーク支店からのメールの中に見慣れない@マーク前のアドレスを見つけた。
件名は「I.O.U.*」、そしてadobeが添付されている。

間違いなくジムからのメールだ。
あいつが支店のPCから最後に送ったメールに違いない。

メールの本文は簡単な内容だが、彼の俺への気持ちが込められていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Ryo

いつもボスには借金ばかりしていたな。
プライベートでも、そしてディーリングでも。

曙の件でも、助けてくれたらしいね。
山下さんから聞いたよ。
ありがとう。

Ryoは最高のボスで友人だった。
貴方と巡り合えて良かった。
そして貴方とまた、仕事がしたかった。

Good Luck!
Thanks again

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

沖田が俺を見ていたが、流れる涙を堪えようとはしなかった。

少し気持ちが落ち着いてきたところで、添付ファイルを開くと、そこには愕然とする内容が書かれていた。

横尾と清水の連名で書かれたジムへの解雇通知である。

読み進むうちに、握りしめる拳が震え出すのが自分でも分かった。

‘これが部下を持つ立場にある人物、そして組織の頂点に立つ人物が書くべき言葉なのだろうか’

メールに一言だけ添えて、東城に転送した。

数分後に「お前がそう思うのなら、それで良い。俺が責任を持つ」とのメールが返ってきた。

‘あの人らしいな’

週末(14日)、ドル円はクロス円の買いに背中を押されながら、112円17銭へと跳ねた。

ブレグジットや新興国に対する懸念が薄らぐ中、「リスク回避的な円買いの巻き戻しで円売りが加速している」とメディアも煽っている。

だが、もう相場のことはどうでも良くなっていた。

いつも土曜の晩に送っている国際金融新聞の木村への来週の予測も簡単に済ませた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

木村様

友人が急逝しました。

心中、穏やかならぬものがあり、簡単な予測とさせてください。

ドル円は少しビッド気配ですが、112円台ではドルの上値が徐々に重くなるかと思います。

予測レンジ:110円50銭~113円。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

送信し終えると、ソファーテーブルに置いてあるラフロイグのボトルを手に取り、琥珀色の液体をショットグラスに注いだ。

こんな日のBGMは’Late Lament’ 以外にない。
それも、この作品を生み出したPaul Desmond のサックス演奏ではなく、Keith のピアノ演奏に限る。

’Late Lament’が組み込まれたアルバム「枯葉」のDISC2をBOSEのWave Music Systemに押し込み、トラックを一つ送った。

‘ジム、何もしてあげられなくて悪かったな。

墓参りは遅くなる。

今はこの曲で許してくれ’

Lament、どの国の言葉にも負けないほど、今の心境に合う響きだ。
そしてこのメロディーも。

目を瞑ると、アイツが‘Two thumbs ’を青空にupした姿が浮かんできた。

支店のソフトボール大会で、彼が逆転ホームランで勝利を決め、ホームに戻ってくる時の姿だ。

‘お前の好きなヤンキースの今年の地区優勝はもうだめだけど、もしかしたらワイルドカードを勝ち上がり、リーグ優勝、そしてワールドチャンピオンもあるかもな’

涙が頬を止めどなく伝い落ちた。

(つづく)

*ヘンリー・ハドソン・パークウェイ
ハドソン川沿いを南北に走るパークウェイ(乗用車専用道路)

*I.O.U.
I owe you

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第3回 「You’re fired」

週初(3日)から、ドル円は111円台前半での揉み合いが続いていた。

そんな展開が続く中、5日の午後11時過ぎ、スマホが鳴った。
いつになく、音が大きく聞こえる。

‘こんな時は、悪い話が多い’

「課長、お寛ぎのところ、申し訳ありません」
いつになく山下が慌てている。

「どうした?」

「はい、東京からのリーブ・オーダー75(111円75銭)の売り100本(1億ドル)ですが、一本も付けることができませんでした。

私のミスです」

「確か、それは曙生命のオーダーだな。
とすれば、他行にもオーダーを預けてるはずだ。

それで、上はどこまでだ?」

「76(111円76銭)です」

「とすると、一本も付けられないって話は先方に通じないな。
で、今幾らだ?」

「60アラウンドです」

「200本売ってくれ。
少し時間がかかるかもな。

出来たら、電話をくれ」

「了解です」
スマホを切る瞬間、山下の部下達が動き出す気配が聞こえた。

数分後、スマホが鳴った。

「アベレージ、60(111円60銭)です」

「分かった。
ところで、76でどの位出合ったと思う?」

「ブローカーに聞いてみたのですが、30本程度と言ったところでしょうか?」

「そうか、30本か。

76がそこまで出合っている以上、全部付けないと、曙が苦情を言ってくるな。

ここは俺が全部被る。

100本分の75と60との値差は俺が持つ。
残りの100本の売りコストを下げて処理しておいてくれ」

「了解しました。
ご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした」

「そんなことはどうでも良い。

どうせドルは下がる。

100本のショートが利益を生むから問題ない。

ところで、75で一本も売れなかったとはどういうことだ?

ブローカー預けか、EBSにでも入れて置けば、多少でも売れたはずだが・・・。

お前、俺に何か隠してないか?」

‘山下ほどの男がそんなミスを犯すはずはない’

「実は・・・。

横尾さんが絡んでいます」

と言いながら、山下が事の顛末を語り出した。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「おい、山下、バジェットの件で話があるから、ミーティングルームに来てくれ」

「ちょと場がバタついているので、午後に回せませんか?」

「支店長が急ぎで資料が必要だと言ってる。
急ぎだ」

「分かりました。
ジム、このオーダー、皆と一緒に処理しておいてくれ。
できるだけ、先にブローカーに預けるか、EBSに入れて置け」

「ハイ、ボス。
Leave it to me!(任せて下さい)」

「I’ll have a meeting with Mr.Yokoo.

Just let me know if something happens」

「Yes, I got it」

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そんな会話から10分後に事件は起きたという。

 

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ブレグジットを巡って「ドイツとイギリスが‘主要な要求を取り下げた」との報が流れ、ユーロ円やポンド円が買われた。

その結果、ドル円は50前後から76(111円76銭)まで急騰し、その後直ぐに下がり出した。

油断していたジムは、オーダーをブローカーに預けず、EBSにも置かなかったため、75の売りを全く捌けなかったという。

トレイニー(実務研修者)がその状況をミーティングルームにいる山下に知らせに来たが、‘時すでに遅し’だった。

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山下の話が終わった後、「それで、横尾さんはどいう指示を?」と尋ねた。

「自分にも責任の一端があることを自覚していたせいか、オーダー処理については何の指示も。

ただ、ジムに‘クビ’だと怒鳴っただけでした。

ジムは自分の手抜かりもあって、横尾さんの‘クビ’という言葉を真に受けた様で、真っ青な顔をして何処かに行ってしまいました。

ちょっと、ヤバイ状況です」

「話は分かった。

お前が‘ミーティングを午後にしてくれ’と言ったにも関わらず、それを無視した横尾さんに大きな落ち度がある。

もうお前は何も心配しなくていい。

ただ、ジムを気遣ってやれ」

「ありがとうございます。

実は、課長に電話する前に、自分でも65(111円65銭)で50本売ってあります。

ですから、さっきの100本のうちの50本は僕の負担ということで」

「そっか。
その売りは賢明だったな。

できれば、100本売っておいて欲しかったけどな」
笑いながら返した。

「あの時点で、そこまではできませんでした」

「そうだな。

お前の売った50本は自分のポジションとして持っておけ。

きっと、ドルは下がる」

「ありがとうございます。

それでは失礼します。

おやすみなさい」

‘それにしても、横尾はずるいヤツだな’

 

山下との話を終えた後、社宅の固定電話から横尾に電話を入れた。

「おう仙崎君か、掛かってくると思ったよ。
例の曙のオーダーの件だろ。

お前がこっちにいる時、ジムの教育が足りなかったから、こういうことになったんだ」

「へぇー、横尾さんも随分と勝手なことを言う人なんですね。

それじゃ、山下が‘場がバタついてるから、ミーティングは午後にしてくれ’と言ったにも関わらず、それを無視したことはどう釈明するんですか?」

「支店長に‘急ぎで頼む’と言われた用件だ。
それを優先するのは当然だろうが」

「横尾さん、あなた、馬鹿じゃないか。
市場を預かる現場の人間の言うことを無視してどうするんですか?

どうせ、清水さんに媚び諂うためにとった行動でしょう」

「貴様、誰に向かって物を言ってる。
俺はお前よりも年次では6年も上だぞ」

「あなたがそう言うのであれば、敢えて言わせて貰う。

ニューヨークのトレジャラーと国際金融本部外国為替課長の行内等級は同じだ。

それに私は業務上の報告をあなたにする義務はないが、あなたは私に報告する義務がある」

横尾が年次のことさえ言わなければ、口に出す必要のなかった下卑た言い方だっただが、この場合、
仕方がなかった。

「貴様、黙って聞いていれば、いい気になって。
ふざけるな!」

「何もふざけてはいませんが。

それにもう一言、言わせてもらいます。

なぜ、あなたはスベってしまった客のオーダー処理に手を貸さなかったんですか?

山下はあの時、損を承知で50本売った。

ニューヨークのトレジャラーとして、あなたはそれを見ていただけなんですか?」

「どうせ、お前のところの客だ。

76(111円76銭)を付けたときの出合い状況から、山下の50本で十分じゃないか」

「曙が付き合っている銀行がウチだけならそうかも知れませんね。

他行が100本オーダーのうち60本付けたら、これから先、曙はウチにオーダーを置かなくなりますよ。

そんなことも分からないんですか?」

「そこを何とかするのが、本店の仕事だろう。
えっ、違うか?」
威圧的である。

‘こんなヤツと話していても時間の無駄だ’

無言で電話を切った。

 

翌日の早朝、曙生命の運用部長から電話があった。

「仙崎さん、やはりお宅のオーダー処理は一番だ。

他行はどこも、20本だけしか付けてくれなかったよ。

これからもオーダーを沢山だすから、宜しく頼むよ」

「ありがとうございます。

頑張りますので、宜しくお願い致します」

‘ディリーングには客のフローは欠かせない。

損して得取れだな’

 

ドル円は金曜日の東京で、110円38銭まで下落した。

前日にトランプが‘日本との貿易の争いの公算を示唆’したことが要因である。

この展開で111円台半ばのショート100本のうち、50本は110円55銭で利食ったが、残りの50本はキープすることにした。

‘トランプの目が対日貿易赤字に向かい出しているのは間違いない。

下旬の日米首脳会談やFFR(新日米通商協議)に向けて、ドル円は下がる様な気がする’

 

週末の土曜日に送ることになっている国際金融新聞の木村宛てのドル円相場予測は簡単に済ませた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
木村様

少しドルの上値・下値共に切り下がる様な気がします。

来週もドルの上値が111円台後半で重たい様であれば、110円割れもあり得るかと考えています。

予測レンジ:109円20銭~111円80銭

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

メールを送信し、デスクの時計を見ると、0時を回っていた。

デスクの上のラフロイグをグラスに注ぎ、北側の窓へと向かい、カーテンを全開にした。

向かいの棟のほとんどの灯りが消えている。

‘真夜中か。
この時間、俺はいつも一人だな’

Miles Davis の ‘Round about midnight’をCD用のシェルフから取り出すと、Bose のミュージック・システムに滑り込ませ、グラスを口に運んだ。

重く切ないトランペットの音色が、真夜中のしじまの中を、湿った空気を運びながら流れて行く。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第2回 「頭取の計らい」

週初27日から翌日までドル円は111円前半で淡々と流れた。

相場が動き出したのは水曜日(29日)のニューヨーク時間のことである。

ブレグジットの実質的な合意期限である10月が近づく中、英EU双方の見解が折り合わないことに市場は懸念を抱いていた。

そうした状況下、離脱交渉においてEU主席交渉官のバルニエが「特例的な提携関係を英国に提示する用意がある」と発言したのだ。

この発言で、ユーロやポンドが買われクロス円が上昇した結果、ドル円も111円83銭まで押し上げられた。

もっとも、翌日(30日)の東京では、次第にドルの頭が重くなり、週末に111円を完全に割り込んだ。

そんな折、国際金融新聞の木村から電話が入った。
「仙崎さんの今週の予測では、111円台後半でのドルの上値は重く、高値は精々112円前後まででしたが、正にその通りでした。
流石ですね」

確かに予測通りの展開だった。
俺も沖田も111円70銭前後で作ったドルショート100本をキープしたままで、今利益を生んでいる。

「ところで、木村さんの今日の用件は?」

「うちの社で、‘年末に向けての国際金融市場の予測’というテーマで株・債券・為替のトップアナリストやトップディーラーによるセミナーを開きたいのですが、仙崎さんに為替部門の講師をお願いできないかと思いまして」

「いや、上半期末の仕上げ時期なので、ちょっと無理ですね。
申し訳ありませんが、お断りします。
他の銀行に目立ちたがり屋が沢山いるので、そっちに当たってくれませんか?」

「でも、デスクが為替は仙崎さんと決めているので、是非ご検討下さい」
話をしているうちに、ドル円が急に下落し、110円69銭に触った。

「木村さん、ちょっと場が動いたので、また」
と言って、受話器を置いた。

「沖田、どう思う?」

「そうですね、このところ110円半ばは上りも下りも引っかかりますね。
一旦、閉じましょうか?」

「そうしよう。
半分、そっちで頼む」

「79(110円79銭)です」

「こっちは77だ。
お前の分は77を使え」

「ありがとうございます」

「もう今日は下がらないな。

ニューヨークはロング・ウィークエンドを控えて、場も静かだろう。

今晩、山下に電話してみるよ。

昨日、頭取とあいつが面談をしているはずなので、何か話を聞けるはずだ」

「よろしくお願いします」
真顔で言う。
沖田も山下のことを相当に気に掛けているのだ。

 

その日の午後11時、ニューヨークの午前10時、社宅に備え付けられた固定電話の短縮番号2を押した。

ニューヨーク支店の為替デスクへとつながる電話番号だ。

「IBT」
現地人の発音だ。
ジムの声に違いない。

「Hi. It’s me」

「アッ、Ryo サン。
オゲンキデスカ?」

「ああ、元気だ。
日本語、上手くなったな」

「ホントデスカ。
ジョウダンデモ ウレシイデス。
イマ、ヤマシタサンニカワリマス」
電話は山下にパスされた。

「課長、こんばんは」

「ああ、今大丈夫か?
問題なければ、会議室からでも電話をくれ。
人に聞かれると拙い」

数分すると、リターンコールが入った。

「頭取との話を聞かせてくれ」

「一応、ここまでの横尾さんの言動をすべて話ました。

実はことが私の妻にも及んでしまいまして、それも合わせて話しました」

「どう言うことだ?」

「課長もご存じの様に、こっちでは機会のあるごとに支店長宅で奥様会があるのをご存知ですよね」

「ああ、奥様連中が支店長婦人を持ち上げる会だな。

支店長婦人に取り入り、ダンナの出世に貢献しようってわけか。

清水さんは本店に戻れば、ナンバーツーも狙える立場だ。

そりゃ、奥様方も夫の出世を狙って一生懸命になるな」

「まあ、そんなところでしょうか。

その奥様会が私の妻と横尾夫人の歓迎会として今週の火曜日に開かれたんです。

その際、妻はまだ娘が乳児なので、一緒に連れて行ったのですが、それが横尾夫人の逆鱗に触れた様で・・・。

‘こういう場に出席するときは、子供はベビーシッターに預けるのが国際畑の夫を持つ妻としての心得じゃないの。非常識よ!’

と、横尾夫人が声を荒げて妻をなじったそうです。

そう言われればそうですが、酷過ぎますよね。

人前で面罵された妻はその場に居たたまれなくなり、気分が悪くなったことを理由にそそくさと帰宅したそうです」

「それは奥さんも辛かったな。
それで頭取は何て?」

「奥様会については、内外を問わず、全面的に中止する様、各支店長宛てに指示を出すそうです。

‘奥様会を通じての関係が良い意味で機能するときもあるが、夫の立場を自分の立場だと勘違いする婦人達も多く、時折り問題にもなっていると聞く。

今後、これを一切禁止にする’

というのが頭取のお言葉でした。

横尾さんのパワハラについては、清水支店長から厳重注意を与えるそうですが、頭取自身がパワハラ禁止とそれが確認された場合の具体的処分を明記し、全店に‘御触れ’を出すことになりました」

「それにしても、お前の奥さんにまでパワハラを仕掛けて来るとは、驚きだな。
確かに横尾は支店長に上手く取り入ってる様だし、恐らく支店長夫妻・横尾夫妻は会食などで既に交流がある。

つまり、嶺常務、清水支店長、田村部長、そして横尾、この連中は日和派ということを相当に意識していることは事実だ。

お前の奥さんの件が、横尾の指図によるものなら、厄介だな。

いずれにしても、頭取の計らいで取り敢えず、一安心ってことか。

だが、横尾って男がこのまま引き下がるとは思えない。
十分気を付けろよ」

「了解しました」

「明日から三連休だ。

奥さんの気晴らしに何処かへ連れて行ってあげると良い」

「はい、そうします。
お気遣いありがとうございます」

本来、横尾が付くはずもなかったニューヨーク・トレジャラーのポストだが、山際の病気の悪化で彼はそれを物にした。

そしてこの人事で、山下の銀行マン人生が捻じ曲げられ様としている。

 

‘あいつの身に何か起きなければいいが。

日和の元エース為替ディーラーである横尾のターゲットは俺のはずだ。

早く俺にかかって来い。

絶対に潰してやる’

 

山下との電話を終えると、冷蔵庫からハートランドのボトルを取り出し、栓を抜くと、そのまま口に運んだ。

ベッドのヘッドボードにピローを立て、そこに背中をもたれた。

BGMには Keith JarrettのピアノとCharlie Haden の ダブルバスのマッチングが素晴らしい『Last Dance』を流した。

Keith の 美しい旋律を Charlieのバスが静かにフォローする様に流れる。
心を静めるには最適なアルバムかもしれない。

ハートランド一本で普段は酔うわけもないが、この日は一本飲み干したところで、睡魔に襲われた。

気が付くと、日付も変わって1時過ぎになっていた。

 

少し体が休まると、ベッドから飛び跳ねる様にして、PCの置いてあるデスクへと向かった。

国際金融新聞の木村への来週のドル円相場予測を書くためである。

ラフロイグをショットグラスに並々注ぐと、PCにログインした。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

木村様

 

正直なところ、右左の与件が多すぎて、予測することが無意味にも思える今日この頃です。

ただ、貿易摩擦問題に決着を見るまでは、ドル安に振れやすいことは事実なので、どこかで根っこのドルショートを持てればと考えていますが、良い売り場を見つけられない状況です。

この秋の火種は欧州でしょうか。

ブレグジットの完全合意への疑問、イタリアの財政政策を巡る政権内の問題、シチリア島に勾留されている難民受け入れでイタリアとEUとの反りが合わないこと、そして10月に開始される拡大資産購入プログラム(APP)縮小とユーロ圏景気鈍化、などなど。

欧州ショックに注意しておきたいところです。

ドル円は基本的に前週と同じ予測。

つまり、110円半ば~111円半ばでの揉み合いを予測しますが、その後の相場はどちらか、抜けた方に付く、そんな展開でしょうか。

111円台後半は一旦こなれているので、タイミング次第で112円前後までは覚悟していますが、その辺りはもう一度だけ売ってみたいと考えています。

来週の予測レンジは109円50銭~112円15銭。

ちなみに、週末の米8月雇用統計ですが、世界の耳目がこの統計に集中している割には最近では相場の方向性を決めるほどの要因にはなっていない様ですね。
従って、あまり興味がありません。

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

(つづく)

 

徐々に横尾が仙崎に牙を剥き始める。
何を仕掛けてくるのだろうか。

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第1回 「休暇明け」

 

長期休暇明けの初日(8月20日)、朝方の市場が落ち着くと、東城の執務室へと向かった。

 

久々に見る東城の顔は日に焼けていて、一段と精悍に見える。

「ゴルフですか?」

「ああ、人事の島に誘われてな。
メンバーに頭取の中窪さんがいた。

仕事や行内の話はまったく抜きの楽しいゴルフだった。

もっとも、ゴルフよりも‘俺と頭取との間を風通し良くしておきたい’というのが、島の狙いだ。

それはそうと、お前のMLB観戦の方はどうだった?」

「楽しかったですが、今年のヤンキースの不甲斐なさには呆れました。

ジャッジのDL(故障者リスト)入りで打線も低下、先発投手陣も振るわず、それにブルペン陣も論外と言った状況ですから。

鉄壁の守備を見せたジーター、完璧なクローザーを務めたリベラ、そして通算696本のホームランを放ったA・ロッドが活躍していた頃のヤンキース、懐かしい限りです」

「そうだな。

まあそれでも、久しぶりに向こうの野球に没頭できたんだから、少しはゆっくりできたんじゃないのか?」

「はい、お陰様で。

ところで、山下の件ですが、やはり横尾さんのハラスメントが少しずつ始まった様です」

「というと?」

「現地に着いたばかりの家族のケアで、山下が7時頃に帰ろうとすると、
横尾さんが‘もう、帰るのか? 稼ぎの良いヤツは気楽でいいな’とか、皮肉を言うそうです。

日中もディーリングの件数を見ては、‘もっと手数を増やせとか、客のフローを増やせ’とか、頻繁に口を挟んでくるらしいのですが、あの元気印の山下も流石にウンザリしている様子でした」

「そうか、横尾が評判通りの男だったってことか。

それで、山下は大丈夫なのか?」

「ええ、今の処は大丈夫かと。

ただこの先、横尾さんのハラスメント・レベルは上がってくると思われます。

山下が持ち堪えてる間に、手を打つ必要があるかと考えますが、何か妙案はありませんか?」

「妙案はないが、頭取が来週、ニューヨーク支店に出向く予定だ。

支店長の清水さんの内規違反があったばかりなので、視察に行くらしい。

その時、山下と会う様に頭取に伝えておく。

山下には、ありのままを頭取に伝える様に話してしておいてくれ。

取り敢えず、頭取の判断に任せよう」

‘ゴルフで東城と頭取の距離が縮まった様だ。
頭取も人を見る目があるな。

まだまだIBTも大丈夫か’

「了解しました。

私も山下をケアする様に心がけておきますが、頭取に宜しくお伝え下さい。

それでは失礼致します」

ソファーから立ち上がり、軽く頭を下げ終えると、ドアに向かった。

ドアノブに手が掛かったところで、東城の声が聞こえた。

「俺のために、お前までくだらない派閥争いに巻き込んでしまった様だな。
そのうち、‘下田’の寿司で労うよ」。

「六本木のクラブ付きでお願いします」と言いながら、振り向かずに右手の親指を立てて見せた。

‘部下が上司にとる行為ではないな’
でも、何故かこの時はそれが許される様な気がした。

 

翌日(21日)の東京で、ドル円は心理的節目の110円を割り込み、109円78銭まで沈んだ。

節目を割り込んだことで、ドルロング(買い持ち)の落としや衝動的なドル売りも出るが、客のフローは圧倒的にドル買いが多い。

沖田や彼のアシスタントは、客のドル買いで掴まされたショートを抱えて、カバーに苦戦している様だ。

昼近くになって、相場は110円台を確実のものとした。

「だいぶカバーに手こずった様だな?」
沖田に言う。

「ええ、客のフローで2000万ヤラレました」
沖田が平気な顔で答える。

「そっか、それで今のポジションは?」

「30本ロングです」

「ならば、朝のヤラレは取り戻せるな。
長期休暇明けの俺には、今の相場は分からないが、感覚的には一旦戻すと思う。

俺も手伝うよ。
50本買っておくか。
気配は?」

「マルニ~マルヨン(110円02~04銭)です」

「買ってくれ」

「05です」

「了解。
この相場、外がもう一回売ってくるはずだ。

そのとき、再び10円(110円)を割り込む様なら、ドルが崩れる。
ただ、10円を耐える様なら、今週中に11円台への反発もあるってとこか。

利食いはどうする?」

「課長のポジションと合わせて80本ロングですから、30銭も抜けば、ヤラレと相殺してもお釣りがきます。

とりあえず、40(110円40銭)で40本、45で40本、それで如何でしょうか?

利食いオーダーが付いた後、110円を割り込まない様であれば、再びロングする。
そんな戦略で行こうと思います」

「ああ、ヤラレを早く取り戻しておいた方が、後が楽だ。
それで良い。

それに、今の相場は長期休暇明けの俺よりもお前の方が見えているはずだ。
任せるよ」

二人のポジションはその日のニューヨークで実りを生んだ。

それ以降、ドル円は110円を割り込むことなく上昇し、金曜日に111円48銭まで跳ねた。

 

その晩、沖田を連れて青山の‘Keith’を訪れた。
留守の間、俺が任せた諸々の業務を完璧にこなしてくれた礼のつもりである。

重いドアを押し開けると、「いらっしゃい」といういつもの声が聞こえた。
マスターである。

まだ7時過ぎだと言うのに、テーブル席は満席で、仕方なしにカウンター席に座ることにした。

「お久しぶりです」
マスターが穏やかな笑みを浮かべながら話しかけてきた。

「ええ、ずーっと、MLB観戦行脚でアメリカ中を飛び回っていたので。

その間、彼にデスクを任せていたんですが、しっかりと守ってくれました。

今日は彼に高い酒を飲ませてあげてください」

「そうですか。
それじゃ、マカランの18年は?」

「そいつは良いですね。
それじゃ、グラスビールの後、それをロックでお願いします」
沖田が遠慮なく言う。

続けざまに「BGMはコルトレーンの‘ Say it なんとか’の入ったアルバムをお願いします」

‘オーダーの仕方が山下に似てきたな’

「Say it( over and over again)の入ったBalladsですね。

かしこまりました。

仙崎さんの飲み物は沖田さんと同じでよろしいですか?」
ラフロイグでなくて良いのかという意味だ。

「いや、僕はビールといつもので。
それと山形牛があれば、ステーキ二人分、お願いします」

「はい、久々に入荷しています。
了解しました」

「留守中は何かと世話になった。
ありがとな」
ビールグラスを目の高さまで上げながら、沖田にあらためて礼を言った。

「いや、課長がいない間に収益を増やすこともできずに、返って申し訳ありませんでした」

「事務処理、マスコミ対応、そんなどうでもいい仕事が増えたんだから、収益増までは無理だろう。

それはそれとして、どうやら横尾さんが山下にプレッシャーを掛け始めたのが気に懸かる」

「そんなに酷いんですか?」

「陰湿なパワハラってとこか。

相手をジャブで追い詰め、疲れ果ててガードが下がったところでのストレート狙い。
そんな戦略だろうな。

山下がストレートを浴びる前に、横尾さんの矛先が俺に向いてくることを願うよ。

頭取が来週ニューヨークに向かうらしいが、その際、頭取が山下に直接話をする様、東城さんが手配してくれた。

今のところは、頭取の差配に頼るしかない」

「そうですか。

山際さんがダウンしなければ、横尾さんのニューヨーク転勤もなかったのに・・・。

山下もツイてないですね」

「ああ、それもそうだが、未だに日和と住井との間に軋轢があることが根っこの問題だ」

話が重くなってきたところに、ステーキが運ばれてきた。

沖田が「旨そう」と言いながら、素早くフォークとナイフを手にした。

そんな沖田の仕草が山下と重なる。

 

それから二時間ほど‘Keith’で飲み、神楽坂の社宅に戻った。

酔った勢いでデスクに向かうと、PCにログインした。

国際金融新聞の木村宛てに来週のドル円相場予測を送るためである。

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木村様

今週から現場に復帰しました。

沖田の方が丁寧な原稿を書くので、彼の方が木村さん向きかもしれませんね。

沖田に引き続き送らせましょうか?
忌憚なく、仰ってください(笑)。

ところで、来週は「基本的には110円後半~111円半ば」で、揉み合う展開かと考えています。

下押した後なので、やや上に振れやすいかもしれませんが、精々112円前後まででしょうか。

チャートやテクニカルポイントを見る限りでは、111円半ばが重そうなので、そこを試すとすれば、結構腰を使うかと思います。

従って、111円半ば以上を買い上げるエネルギーが不足する可能性が高く、後に反落という展開も考えられます。

それ以前に、111円半ばテストにフェイルすれば、早めの反落とい展開もありえるかと。

予測レンジは「109円20銭~112円15銭」としておきます。

休み明けなので、ラフな予測ですが、ご容赦ください。
(あっ、いつもラフでしたね)

 

ところで、今更感のあるダラーラが、何故ブルームバーグで「通商協議が通貨の問題を含む傾向が強まる」なんて語ったのでしょうかね?

何か分かりましたら、お教えください。

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

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送信し終えると、再び山下のことが頭に浮かんできた。

‘心の重い晩だな’

デスクに置いてあるラフロイグのボトルを手に取ると、琥珀色の液体をグラスに注いだ。

BGMで部屋の空気を変えるため、ウォークマンとBoseのMusic System とをBluetooth 接続した。

選曲したアルバムは‘Pat Metheny の ‘One Quiet Night’。

‘流れる様な重いギターの音色が心に沁みる。
Bad Choiceだったかな’

 

(つづく)

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第60回 「台風の後」

既にドル円は110円75銭まで下落している。
悩み処に差し掛かった。

110円75銭は年初来安値の104円64銭からの支持線水準でもある。
この水準を完全に下回らない限りは、一連のドル高トレンドが終わったとは言えない。

既にトランプ発言は、ムニューシン財務長官により否定されてもいる。
来週から長期の休暇に入ることを考えると、ポジションを整理しておかなければならない。

‘ここは、利食いかもしれないな’

「沖田、先週のショート300本、これから全部買い戻す。
シンガポールにも頼んで、少しずつ買ってくれ」
一挙に買い戻すと、自分でドルを押し上げてしまい、コストが悪くなる。

一時間後、
「全部、買い戻しました。
アベレージ、90(110円90銭)です」と沖田が言う。

「了解。
流石に良い捌きだな」

「課長にそう言われると、照れますね」
嬉しそうに言う。

その後、相場は111円台へと振れた。

‘これで当分、ポジションを取らなくて済む’

ディーリング・チェアから立ち上がり、窓際に向かった。
皇居の森がいつもと違う美しさを見せている。
仕事が一段落した後の心のゆとりのせいだろうか。

次の日、東城と銀座の寿司処‘下田’で酒を酌み交わした。

「お前とこうして飲むのも久しぶりだな」
実感の籠った声である。

‘つくづく、そう思う’

「本当にそうですね。
東城さんも株主総会とかでお忙しかったし、僕もニューヨーク出張がありましたから」

「そうだったな。

ところで、先週のドルショート、上手く行った様だな。
これでもう、上期のバジェットを50%オーバーか、確かにお前は凄い。

だけど、どうしてそんなに急ぐんだ?」

「はぁ、少し夏休みを頂きたくて」

「なるほど。
で、海外へでも行くのか?」

「ドジャーズ・マリナーズ・レッドソックス・ヤンキースの試合観戦です。
それにスケジュールが合えばですが、エンジェルスの試合も」

「へー、お前らしいと言えばお前らしいな。
西海岸と東海岸制覇か。

分かった。
まあ、ゆっくりしてこい」

「ありがとうございます。

それに山下のことが気懸りなので、彼にも会い、支店の状況を聞いて来ようかと思ってます。

横尾さんが敢えて僕に喧嘩を売ってきたことを考えると、山下が犠牲になる可能性もあるので・・・」

「そうだな。

俺に挨拶に来たときも、妙に挑戦的な感じを受けたが、清水、嶺、横尾、皆あっち(日和銀行)の人間だから、当然って言えば当然ってことか。

統合から15年近く経つというのに、まだ両行に軋轢が残っているのは事実だ。
頭取もそのことを気に病んでる様だが、なかなか解決できない。

お前は統合後の人間だが、連中は住井出身の俺のラインに組み込まれていると思ってる。

そして山下がお前を慕っているため、彼にも住井派というレッテルが張られてしまった。

馬鹿な話だが、それが現実だ。

そんな馬鹿話に決着をつけられるのは、統合後の入行者だけかもしれないな。
そしてその人物は際立った実績を残し、誰からも人望がなければならない。

そんな人物になれるのはお前ぐらいかもしれないな。
頼んだぞ」
東城は、ときおり冷酒の注がれたグラスに口をつけながら、とつとつと語った。

「確かに僕の同期やその下の連中にはそうした軋轢はないかもしれません。

ただ、出自やら出身校をひけらかす人間は残り続けるのでしょうね・・・」
将来を託されたことには触れずに、感想を言った。

「まあ、そうだろうな。

ところで、岬君とはもう本当にだめなのか?」

「そっちへ話が飛びますか。

もうだめですね」
彼女の家の事情なども説明し、無理だと言い切った。

「そうか、残念だが仕方ないな。
まぁ、お前はモテるから、まだまだ縁はある。

もっとも、お前に結婚する意思がなければ無理だが」
笑いながら言う。

「ここは笑うところじゃないでしょ。
罪滅ぼしに二軒目はこの辺りのクラブへでも連れてって下さい」

「銀座のクラブか、自腹では無理だな。
六本木で良ければ、連れて行くが」

「はい、そこで全然問題ありません」
二人の笑いが店内に響き渡った。

他にも客がいたが、店主は何も言わずに微笑ましく語らう二人を温かい眼差しで見つめていた。

ドル円相場はその日以降も軟調地合いが続き、木曜日(26日)には110円58銭まで下落したが、節目の110円割れは逃れた。

週末の金曜日は概ね111円を挟んでの模様眺めに終始し、世界の市場はやる気を無くしたかの様だった。

来週には日銀の金融政策決定会合や7月米雇用統計など多くの重要指標もあるため、相場が動く可能性がある。

そろそろ欧米では、市場参加参加者が長期休暇に入る頃だ。

市場が薄くなる分だけ相場が動きやすくなり、夏相場は大きく動く時がある。

だが、来週から休暇を控えているため、相場のことは忘れることにした。

相場が動けば、休暇明けに考えれば良いのだ。

既にマイクにもMLBのチケットの手配とホテルの予約を頼んである。

日曜の晩、横浜ロイヤルパークホテルに宿泊した。

月曜の羽田発午後の便でLAに向かう。
ここから羽田までのアクセスはそう悪くない。

敢えてロイヤルパークに泊まる必要はなかったが、60階以上の部屋でラフロイグを飲みながらベイエリアを眺めたかったのだ。

岬との思い出の場所でもある。
セピア色の景色に戻りたくもあった。

台風一過で淀んだ空気が流されたせいか、ベイエリアの光景が美しい。
日はまだ明るいが、ラフロイグのボトルとグラスを窓際のテーブルに運んだ。

BGMに、Y.KishinoのManhattan Daylight 以外の選択肢はない。
2週間後には、ボストンでレッドソックス戦を観戦した後、ニューヨークへと飛ぶ。
ヤンキースとメッツのサブウェイシリーズ*を見るためだ。

重たいのを覚悟でBose の Soundmini Linkも持参している。
ウオークマンをブルートゥース接続すると、Kishino の Portrait を選択した。
Manhattan Daylightはアルバムの6番目にある。

これで準備万端だ。

琥珀色の液体とベイエリアの景色に心が満たされていく。

‘このままずーっと時が流れてくれればいいのに・・・。

無理だな’

窓外の観覧車がゆっくりと回り続けている。
喜び・悲しみ・苦しみは順番に訪れるものだ。
それが人生なのだと教える様に。

夫との不仲に苦しみ抜いた岬は将来を見据えて、凛とした気持ちでニューヨークに向かう。
山下は希望していたニューヨーク勤務を実現し、高みを目指すための一歩を踏み出した。
俺自身は市場と闘いながらも、行内外の問題を解決し、そして収益を改善した。

‘人生は何とか回転するもんだな。

でも、俺のこの先には闘いに次ぐ闘いが待っている。

この休暇が終われば、横尾との一戦が待っている。
行内の派閥問題もある。

そして市場と向き合い、再び稼がなければならない’

帰国後の出来事やこの先のことに思いを巡らせていると、スマホが鳴った。

志保である。

「元気?
またこっちに来るの?」
明るい口調で立て続けに聞いてくる。

「えっ!
どうしてそんなこと知ってるんだ?」

「マイクがMLBのチケットの手配を頼んできたの。
普通なら直属の秘書に頼むのに。

これって、了がこっちに来るってこと、教えてる様なものよね」

「あいつもお節介だな」
苦笑いが零れる。

「ヤンキース戦は二枚ゲットしたわ。

二人でサブウェイシリーズの観戦なんて、昔に戻ったみたな気分で嬉しいわ。

その日のホテルはヘルムズレーで良い?」
本当に嬉しそうだ。

‘勝手にしろ’

「それは良いけど、じっくり野球観戦だけはさせてくれよ。

いずれにしても、チケットの手配、感謝するよ。

それじゃ、切るぞ。

おっと、言い忘れたことがある。

会えるのを楽しみにしてるよ」
素直に言った。

「えっ、今何て言ったの?」

「二度は言わない」

「初めてね、了がそんなこと言うの。
気まぐれでも嬉しいわ」
ちゃんと聞こえている。

‘余計なことを言ったかな’

電話の向こうでフランク・シナトラの「ニューヨーク・ニューヨーク*」が聞こえた様な気がした。

(第一巻、了)

 


*サブウェイシリーズ:ヤンキース(ヤンキー・スタジアム)とメッツ(シティ・フィールド)とのインターリーグ(ア・リーグ、ナ・リーグ)戦はホームであろうと、アウェイであろうと、「地下鉄」で球場に行くことができる。サブウェイシリーズはこのことに由来している。但し、これは現代版の由来であって、歴史を辿ると深い謂われがある。

*ニューヨーク・ニューヨーク:ヤンキー・スタジアムで行われるヤンキース戦の試合終了時に、フランク・シナトラがカバーしたニューヨーク・ニューヨークが流れる。

 

読書の方々へ

『ディーラーは死なず』も今回で60回目を迎えました。

主人公の仙崎了は行内外において、一年以上も獅子奮迅の戦いを演じたため、疲れたことと思います。

そこで少し休暇を取らせてあげることにしました。

その間、作者の仙崎了も、休暇を取らせて頂きます。

休暇中に新たな構想を練りながら、第二巻に備えたいと考えています。

これからも主人公の活躍にご期待ください。

読者の方々には。ここまでお読み頂きましたこと、厚く御礼申し上げます。

仙崎 了(2018年7月29日)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第59回   「岬の旅立ち」

土曜(14日)の晩、国際金融新聞の木村宛てにメールを送った直後にスマホが鳴った。

岬からである。

「了、やっとVISAが下りたの。
それで連絡をと思って」

「そっか、いよいよか。
淋しくなるな。
でも、岬の望んでいることが少しずつ叶って行くのだから仕方ないってことか。

それでいつ頃行くんだ?」

「夏は日本人観光客が多いので、MOMAの方では早めに来てもらいたって。
一応、来月上旬には行こうと思ってる。

既に当座の住まいも用意してくれてるらしいし・・・」

「結婚できないのは分かってるつもりだけど、これで決定的だな」

「そうかもしれないけど、もしかしたらってことも。
人生なんて分からないものよ」
長い間離婚がまとまらずに沈み込んでいたが、今は何の屈託もない様だ。

「ヘー、岬も随分と成長したと言うか、強くなったって感じだな。
いずれにしても、元気でな。

岬がそっちに行くのは山下に伝えてある。
何かあれば、必ず彼に相談しろよ」

「ええ、分かってる。
了も元気で。

そして出張であっちに来るときは連絡してね。
それじゃ、切るけどいい?」

「・・・ああ、それじゃ」
同時にスマホが切れた。

人生とは皮肉なものである。

俺がニューヨーク勤務を終え、岬がニューヨークで働く。
‘岬の離婚は俺との結婚’と考えていたら、それが永遠の別離となった。

‘9年前のあの時、しっかりと掴んだはずの手を何故離してしまったのか’
悔やんでも悔やみ切れない思いが切なく胸に残り続けた。

途中でpauseにしておいたthe Fabulous Baker Boys のサントラを再びplay モードに戻した。

いつもならドライブと仕事を快適にしてくれるメロディーだが、今は映画のテーマ通りの大人の失恋を描いた切ない旋律でしかない。

ベッドのサイドテーブルに置いてあるラグロイグのボトルを手に取ると、液体をグラスに注ぎ、ゆっくりと喉に流し込んだ。

‘来週は久々に思いっきりポジションを取るか’

 

日本が休日となった週初の16日、ドル円は海外を通じて112円台前半での模様眺めの展開となった。

そんな相場展開にも、翌日(17日)の海外時間に変化が現れ、ドルが買い気配になった。

この日、パウエルFRB議長の議会証言がある。
彼から新味のある言葉飛び出てくるとは思わないが、今の市場はドル買いに前掛かりだ。

‘米景気に楽観的である’や‘漸進的利上げを続ける’と言った従来と同じ証言でも、市場はドル買いの理由にするはずだ。

果たして、議会証言は正にそんなものだった。

銀行を出る前、山下にメールを入れておいた。
・・・・・90(112円90銭)以上で、100本売ってくれ・・・・・

午前2時過ぎ(東京の18日)、スマホにメールが届いた。

・・・・・昨日のうちに90で50本、数分前に92で50本、ダンです。
おやすみなさい・・・・・

・・・・・了解。
悪いけど、マイクにこのことを連絡しておいてくれるか。
そして東京でも、あと100本売るつもりだということも・・・・・

 

翌日(18日)の東京の朝方も、ドル円は買い優勢の展開になった。

「さっきから客は結構売ってくるけど、あまり落ちないな?」
誰に言うともなく、言葉が出た。

「はい、買いが引きませんね。丁度(113円丁度)を割ると、買いが出てきます」
沖田が返事をする。

「そんな感じだな。
もう少し待つか」
今日、さらに100本売るつもりだ。

午後に入ってもドルの買い気配は変わらなかった。
3時過ぎ、急に動きが早くなり、朝方売れなかった水準の113円08銭を抜き、113円14銭まで上昇した。

‘ここで売るしかないか’

「沖田、100本売る。
そっちで50頼む」

「10(113円10銭)で50」

「了解、俺は09(113円09銭)で50」

「ニューヨークで100本、こっちで100本、トータル200本ですか。
課長が勝負するときは、根拠以前に何か感じるんですか?」

「はっきりした根拠があるときもあるが、今日のはちょっと違うかな。
敢えて言えば、なぜ皆がこんな高値でドルを買っているのか良く分からない、というのが根拠って言えば根拠かも。

米中貿易摩擦の解釈は人それぞれだと思う。
ただ、俺はそれがドル買いに結びつくという理屈が釈然としないんだ。
112円前後までの買いは大方ショートカットだろうが、今買っている連中は俄かロングだ。

市場の大勢がセンチメントに負けることがある。
それが今のドル買いの様な気がする。

そんなときは、誰かのちょっとした発言や出来事で、急落することが多い。

俺に運があれば、誰かが何かを言ってくれるかもな。

まぁ、そんあところか。

それはそれとして、山下にGTC(good till cancel)で3円15(113円15銭)でもう100本の売りオーダーを出しておいてくれ。

あと、3円40は年初来高値だから、一応call levelということで頼む」
年初来高値を抜けると、必ずメディアが騒ぎ立てる。
それが市場心理を煽ることがある。

「了解です」

沖田にリーブオーダーを頼むと、東城に電話を入れた。

 

「仙崎です。

今、宜しいでしょうか?」

「おう、大丈夫だ。
どうした?」

「私のオーバーナイトのポジション・リミットの件ですが、もう100本頂けますでしょうか?

今、日中は無制限ですが、オーバーナイトは200本なので、300本にして頂きたいと」

「分かった。
勝負にでるのか?」

「はい。
既にショート200本振ってますが、もう100本追加するつもりです」

「そうか、お前のことだ、何か感じるものがあるんだろう。
さして根拠もないのにな」
笑いながら言う。

「本部長、幾ら何でもそれは言い過ぎじゃないでしょうか?」

「悪い悪い。

ところで、来週の火曜日、‘下田’でどうだ?
先日のニューヨーク出張の労いだ」

「もちろん、喜んでお引き受けします。
それでは、リミットの件、宜しくお願い致します」

 

それ以降、ドル円は19日に113円18銭まで上昇したが、その日のうちに相場付きが一変した。

トランプがFRBの利上げ姿勢に不満を示す一方で、「強いドルは米国にとって不利」と発言したのだ。

週末の金曜日にも、同じ内容がツイッターに書き込まれたことで、ドル円は111円38銭まで沈んだ。

別にラッキーとも思わなかった。
頭に浮かんだのは、‘これで夏休みが取れる’、それだけである。

 

土曜日の晩、ラフロイグのボトルとグラスを手にしながら、デスクへと向かった。

国際金融新聞の木村に来週のドル円相場予測を書くためである。

G20中銀総裁・財務相会合でブエノスアイレスに出張するが、メールを送ってくれと言う。

BGMにはソールシンガーJohn Legend の ‘Get lifted’をチョイスした。

インストルメント・アルバムではないが、文字通り気分を持ち上げてくれるのが良い。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

木村様

 

遠隔地への出張、ご苦労様です。

先週のメールで、‘最近相場が見えていない’と書きましたが、今週ドルを売ってみました。

112円以上のドル高はマーケットに従った単なる俄かロングによって作られた相場であり、さもない切っ掛けで簡単に崩れると考えてのことです。

今月下旬に日米新貿易協議を控えていることを考えれば、トランプの「ドル高に否定的な発言」は正にグッドタイミングでした。

他方、米国のイールドカーブのフラットニングが気になるところですが、米株が足踏みした出したこともあり、この辺りがもう少しクローズアップされてくると、ドル一段安もありというところでしょか。

来週のドル円相場は、ドルが急落した後だけに若干の反発があるかもしれませんが、110円割れもありと見ています。

予測レンジ:109円20銭~112円80銭。

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

p.s. 暫く夏休みを取ります。
メールは部下の沖田に頼んでおきますので、宜しくお願い致します。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。