第24回 「甦った相場感」

週初(13日)の東京、ドル円は3円台(113円台)後半で保ち合った後、海外で3円25まで下落した。

それでも前の週に4円15で作ったショート50本(5000万ドル)を利食わずに、キープしてある。

3円を割り込めば、根っこのポジションになる可能性があるからだ。

翌日(14日)の東京も前日と同じようなレベルで寄り付いた。
予想外に3円近辺が底堅い。

ここを割り込めば、間違いなく面白い相場になるはずだが、そう簡単には行きそうにない。
この日も事務仕事をこなしながら、ときおり山下等のサポートに回った。

4時過ぎ、東城から電話があった。
ドル円が3円60程度で膠着しているのを見計らっての呼び出しである。

 断りを入れから執務室のドアを開けると、皇居の森を眺めている東城の後ろ姿があった。
相変わらず背筋が伸びていて、53歳の年齢を感じさせない。

「まあ、座れ」と言いながら、自身もソファーの方に歩み寄ってきた。

「ドル円の感覚が戻ってきた様だな」

「はい、本部長の先日のアドヴァイスのお蔭で。

もっとも、追加のショートを作れなくて逡巡しています。
どこかで、50本売り増しておきたいのですが・・・。

勝負所ならここで売っても、もう少し上で売っても同じですが、その辺りの決断の鈍さがあります。

まだ本調子でない証拠でしょうか?」

「そうだな。
1.18台からのユーロドルのショートが上手く回転し出したときは流石と思ったが、結局は1.15台止まりだった。

利益は出ているが、まぁ、絶好調ではなさそうだな。
でも、どこかで踏ん切りを付けないと、良い時期を逃すかもな」
‘さり気なく話しているが、アドヴァイスの様だ’

「そうですね。
ちょっと済みません、一分電話をさせて下さい」
と断って、直ぐにスマホで山下を呼び出した。

「山下です。
今、東城さんの部屋ですよね。
何か?」

「場はどうだ?」

「丁度今、75 がtakenされたところで、少しビッド気味です」

「分かった。
80で50本のリーブを頼む。
それと‘俺が動き出したこと’を客に仄めかす様に浅沼に伝えてくれ」

「了解です」

「済みませんでした」
話を遮ったことを東城に詫びた。

「俺の話でスイッチが入ったのか?」
東城が言う。
嬉しそうな顔だ。

「はい、勝負に出ます」

「ところで、さっきMOFの国際金融局長から電話があった。
勉強会の講師依頼を断ったそうだな。

主計からの依頼ごとで、何とかお前に頼めないかとのことだ。
何か断った理由はあるのか?」

「わざわざ竹中さんが本部長に電話をしてきたのですか?
それは参りましたね。
本件の依頼元が岬のご主人らしいので、万が一のことを考えて断りました」

「そうか。
その辺りが絡むとなると、ここで話す様な内容じゃなさそうだな。

たまには、一杯やるか。
そろそろ鍋の季節だな。

新橋の‘末げん’で良いか?」
‘末げん’は三島由紀夫が最後の晩餐をとったことでも知られる鳥料理を中心とした新橋の割烹料理屋で、今でも著名人が通う老舗である。

「‘末げん’の鳥鍋と熱燗の組合せですか、この季節、最高ですね。
今晩でしょうか?」

「いや、今週は木曜日以外は難しい。
それで良いか?」

「はい、大丈夫です」

「お前もあの時以降、苦労が絶えないな」
あの時とは、田村の仕掛けた罠に嵌り、1日で1億以上の損失を出した日のことである。

確かにあのことがなければ、恐らく岬と結婚していたはずだ。
だがそれを悔いても仕方がない。

「ええ、プラザ合意*前夜のレート(240円台)で作ったドルロングを抱えてる様なものですね。

もっとも、プラザ合意当時の僕はまだ洟垂れ小僧で為替の‘か’の字も知りませんでしたが」

「でも、今では世界で屈指の為替ディーラーじゃないか。

今年もインターナショナル・マネー・ウォッチャーズ誌でナンバー2に選ばれてる。
大したもんだ」
部下の成長を素直に喜んでくれているのが嬉しい。

「本部長のお陰です。
それじゃ、木曜の晩、楽しみにしています」
部屋を辞しながら頭を下げると、東城はいつも通り右手を少し挙げて微笑んだ。

 席に戻るなり、
「80、出来てます」
と山下が言う。

「了解。
やはり、4円はもう覗けないか。
今週中に3円割れは間違いないな」

「大分、力が入ってきましたね。
僕も80でショートを振ってみました」
嬉しそうだ。

「ああ、良いポジションになる。
お前も、がつがつ利食わないで少し我慢してキープしておけ」

「がつがつはないでしょう、課長。
利食い千人力ですから、多少手仕舞いが早いだけですよ」
二人の笑声がディーリング・ルームに響き渡った。

 翌日(水曜日)の海外でドル円は113円を割り込み2円前半まで沈んだが、翌日には再び3円台へと反発してきた。

だが、50(3円50)がtaken されなければ、もう一段下がある。
ここは踏ん張りどころだ。
‘我慢しよう’

 木曜の夜、約束の7時前に‘末げん’着いたが、既に東城は部屋で待っていた。

「お疲れ様。
熱燗は注文しておいたが、あとは面倒なのでお任せにした。
場はどうだ?」

「3円前半ですが、昨日の高値3円49を付けなければ、また下がると思います。
念のために、4円があれば電話を貰うことにしてありますが」

「そうか。
どこまで下がると思ってるんだ?」

「目先は1円後半(111円後半)ですが、その先は10円前半もあり得ると考えてます。
でも、2円直前は今日のニューヨークで50本買っておこうと思います。
ショートの利食いに当てるかどうかは、来週の展開を見てからにしますが」

相場の話や世間話をしながら徳利を4本空けたところで、
話はMOFの勉強会の件に移った。

一連の経緯を話し終えると、
「なるほど、お前と岬君の懸念が当ってるかもな。
お前が講師の依頼を断ったのも無理がないってとこか」
と頷きながら東城が言う。

「委員会ならともかく、有志の勉強会の講師役にそこまで固執するのは理解できません。

局長クラスを動かせる人物だとすれば、彼女の夫は相当将来を嘱望されてるってことですかね」

「そうなるかな。

いずれにしても、講師を引き受けたところでお前のプラスになることは一つもない。

気を付けるに越したことはないから、この話、断っておくよ」
東城は平然と言い放った。

だが、国際金融局長からの直々の依頼である。
断れば、銀行のマイナスになりかねないことを東城は承知しているはずだ。

「東城さん、もう少し考えさせて下さい。

国家予算を編成する部署で嘱望されている人物であれば、かなり上の人物ともつながりがあるはずです。

受けて立つしかないのかも知れませんね」

「まあ、あまり無理をするな」
部下を気遣う気持ちが東城の顔に滲む。

それから暫く酒と鳥料理を楽しんだ後、二人は新橋駅前で別れた。

 ドル円は週末のニューヨークで111円94銭まで下落した後、112円15近辺で週を終えた。

 土曜の午後、国際金融新聞の木村にメールを送った。
月曜朝刊の‘今週の為替相場予測’用の原稿である。

「引き続きドルの下値を試す展開を予測する。
テクニカル・ポイントの多い111円台後半を破れば、110円台前半もありえるか。
但し、111円台後半で下げ渋る様であれば、113円台後半までの反発も。
予想レンジは110円~113円80銭」

IBT国際金融本部外国為替課長:仙崎了

行間の埋め草は木村が書く。
それが原稿を引き受けた際の条件である。
時折り意にそぐわない埋め草が書かれていることもあるが、意図が伝われば良い。

(つづく)


*プラザ合意(1985年9月22日):1980年代前半、当時のレーガン米大統領の経済政策が失敗に終わり、米経常収支は史上最悪の赤字を記録した。

これを是正すべく、米政権は日独など対米黒字国の中央銀行総裁・蔵相を呼びつけ、ドル高是正合意を結ばせた。

これがドル円相場の分水嶺となる。
合意名は会議が開かれたセントラルパーク・サウスに位置するプラザホテルの名に因む。

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第23回 「解け出した謎」

岬を松本の市街地でピックアップした後、国道147号経由で碌山美術館に車を向けた。

途中、予想外に車が多いのに気づき、
「連休明け(6日)だと言うのに、観光と分かる車やバスが結構多いな」とひとりごちた。

「そうね、この辺りは有名なわさび田もあるので、仕方ないのかしら。
観光客で潤う人達もいるけれど、シーズン中は渋滞で住民の人達が大変みたい」

「京都や鎌倉ほどではないにしても、そうだろうな」

そんな話をしていると、ナビが左折を促した。
穂高駅前方面への指示である。
美術館は近い。

昔の記憶が甦り、もうナビは要らないほどの距離まで来ている。

穂高駅前の信号待ちで横に座る岬に目をやった。
8年以上も前の真夏、同じ場所で同じ様に岬を見たことが思い出される。

‘あの時、岬はTシャツ姿だった。
そしてその胸の膨らみが眩しかった’

少し自分の顔が緩んだのを見てのことか、岬が言う。
「何、嬉しそうな顔をしてるの?」

「確かあの時もここで岬の横顔を見たことを思い出していた。
そして胸の膨らみにも目が行ったこともね」
’初めて二人が結ばれたあの夏の日が懐かしい’

「了も普通の男だったってことね」
ふふっと笑いながら言う。

そんな他愛のない会話をしているうちに、信号が青に変わり、ステアリングを右に切った。
美術館は数分先のところにある。

 

ざっと100台は駐車可能と思われるパーキング・エリアには、20台ほどの車が停められている。

館内に入り、人影が少ないのを確かめると、
「了、手をつないで良い?」
と聞いてきた。

昔ならそんなことを聞かなかったが、今は自分の置かれた状況をわきまえているのだ。

「ああ、別に構わないけど」
と言うと、微笑んで手を差し伸べてきた。

‘本当に嬉しそうだ。
夏に会った時より、少し元気になった様な気がする’

「ここは本当に落ち着くわ。
でも、了はフライフィッシングやトレッキングのフィールドの方が良いんでしょう?」

「まあ、仕事が仕事だから、自然と向き合ってる方が気分が晴れるのは事実だ。
ところで、調子はどうだ?」

「体調はまずまずね。
でも抱えてるものが重いので、気分がたまに塞ぐわ。
ところで、今日は何処に泊まるの?」

「ブエナビスタだけど。
伯父さんの店からは少し歩くけど、あそこがホテルらしいホテルで気に入っている」

「思い出のホテルね。
なんだか切ないわ」

「早くそっちの件が片付くと良いけどな。
ご主人からは何も?」

「ええ、省内の立場もあるとか言ってる。

人一倍プライドの高い人だから、難しいわね。

でも、もうこれ以上、自分の人生を無駄にしたくないわ。

最近は協議離婚も考えてるの」

「そうか・・・。

官僚の世界では、いまだに離婚が出世とかに関係しているのかもな。

先日話した大学の後輩の話では、霞が関にはまだ何かと古い慣習が残っているらしい。

後輩の話で思い出したけど、岬は俺のことでご主人に何か話したことはないか?」

「あれから考えてみたんだけど、少し思い当たることがあるの。

了は向こうでテレビ局の経済番組に出ていたわよね。

結婚当初、主人がその番組を見ていて
‘凄いな、彼の英語は。
話も理路整然としていて分かりやすい。
IBTニューヨークの為替ディラーの様だが、お前の知り合いか?’って聞かれたことがあるの。

仕事上の関係で多少とだけ答えたわ。
本当は‘私の付き合っていた人’と自慢したかったけど・・・。

その時、少し私の顔が微笑んだのかもしれない。
思い当たるのはそれだけね」

「なるほど。

人間っていうのはちょっとした仕草や言葉に不自然なことを感じるものだ。
もし君のご主人が人一倍そうした感性を持っていれば、その時何かを感じたのかもしれないな」

「確かに神経質で感受性が強い人だと思う」

「そうか、いずれにしても財務省からの講師依頼は断ることにする」
と言って、その話は打ち切りにした。

 

それから岬の手の温もりを感じながら、暫く彫像や壁面の絵画を眺めて歩いた。
まるで昔の二人に戻った様である。

館外に出ると、真紅に色づく紅葉が目に飛び込んできた。

「まあ、綺麗! 凄いわ。
今日はここに連れてきてくれてありがとう」
‘岬の明るい声を聞くのは嬉しい’

 

松本の街に引き返し、中町にある竹風堂で遅い昼食をとった後、岬は母の営むクラフト店に戻り、そして自分はホテルでのチェックインを済ませることにした。

チェックインを済ませ、部屋に入るなり、持参したノートパソコンをWiFiに接続した。

画面で為替の値動きを追いながら銀行に電話を入れると、
山下が出た。
「あっ、課長。
今何処ですか?」

「松本のホテルだが」

「岬さんとご一緒ですか?」

「お前らしい第一声だな。
それなら良いが、そんなハズないだろ」

「それは残念ですね」

「上は73(114円73銭)までか?」

「はい、そうです」

「少しオファーの様だが、上の売り筋は?」

「投機筋は五井商事などの総合商社、
機関投資家は大手生保、
実需は豊中などの自動車といったところでしょうか。

まともな筋は皆、売ってきましたね。

そのお蔭でこっちは高値で買わされてしまい、上手く捌ききれませんでした。

申し訳ありません」

「幾らやられた?」

「片手です」

「少し痛い数字だな。
今いくらだ?」

「15 aroundです」

「100本売ってくれないか」

「アベレージ15で売れました」

「了解。

20本は先週のロングの利食いに当ててくれ。

残りの50本は俺の分、30本はお前の分だ。

お前は75(113円75銭)で一旦、利食いを入れておいた方が良い。

今日のお前はツキがなさそうだけど、75では利食えると思う。

少しはやられの足しにはなるだろう」

「分かりました。
課長の利食いは?」

「ストップだけ50(114円50銭)で入れておいてくれ。

利食いは放って置けば良い。

週後半に必ず落ちる。

次に反発したところが良い売り場になるかもしれない。
俺のストップが付かなければ、そこから落ちる。
お前はそこでショートを持つと良い。

明日は電話をしないから、後は自分で判断しろ。
それじゃ、留守を頼む」

「はい、ダメなときに課長のサポートがあると勇気が湧きますね」

「ニューヨークに行けば、俺はいないんだぞ。
お前が部下の面倒を見ることになる。
頑張れよ!」

 

縣倶楽部へは歩いて向かった。
ホテルからは15分ほどの処にある。

店に着き引き戸を開けると、既に岬がカウンターに腰かけていた。

「いらっしゃい。
お久しぶりです」
店主である岬の伯父が丁寧に挨拶をしてくれた。

「本当にお久しぶりですね。
お元気そうで何よりです」
と返した。

「ご活躍の様子、こいつから聞いています。
なにせ結婚してからも、自分の亭主より仙崎さんのことばかり話してましたから」
姪を茶化す様に言う。

「伯父さん、止してよ。
きまり悪いじゃない。
それより早く美味しい物を沢山作って。
それと信州のお酒もね」
照れを隠す様に、岬は伯父に料理と酒を急かせた。

「昔に戻った様だな。
あの時もこんな雰囲気でしたね」
感じたままを口にした。

そんなやりとりで始まった楽しい宴だったが、時間はあっと言う間に過ぎて行く。
9時近くになると、いつの間にかカウンターも奥の小上がりも客で埋まっていた。

そんな様子を見て、二人は店を出ることにした。

帰り際、
「今日はありがとうございました。
またお待ちしています。

これからも岬の力になってあげて下さい」
と店主が深々と頭を下げる。

それには上手く答え様もなく、
「ご馳走様でした。
料理はどれも皆、美味しかったです。

また寄らせて下さい。
それでは、失礼します」
と言って店を後にした。

 

それから二人は中町の北側を流れる田川沿いを歩くことにした。
田川の上流部は女鳥羽川と呼ばれるが、松本の人には馴染みの深い川である。

縣倶楽部から少し南に下って田川を渡り、そのまま川に沿って西に歩いた。
人気のない夜道のせいもあり、二人は腕を組みながらゆっくりと千歳橋に向かって歩く。
自然と左側に岬がいる。
昔のままの二人である。

千歳橋の向こうに時計博物館が見える。
博物館からは岬の母が営むクラフト店までは程ない距離だ。

千歳橋の少し手前まで来たとき、岬が‘強く抱きしめて’と言った。
夏の城山公園のときと同じである。
左手で体を引き寄せ、強く抱きしめた。

11月の松本は寒い。
そんな寒さも互いの温もりで心地良く感じられる。

暫くして、どちらからともなく放れた。

すると岬が凛とした口調で言った。
「ごめんね、了。
仕事まで迷惑かけてしまったわね。
でも、もう少し強くなって、主人と向き合ってみる。
だから、見守ってて。
今日はありがとう。
楽しかったわ」

時折り振り向きながら、岬は千歳橋の交差点を小走りに渡って行く。
背中がとても小さく見えた。
‘切ないな’

 

ドル円は木曜日に週安値となる3円09(113円09銭)まで沈んだ後、3円50近辺で引けた。

7月の高値114円49銭を抜き、114円73銭を付けたものの、ドルの上値は重たい。
週初の50本ショートはそのままにしてある。

来週3円を割り込む様出れば、面白いポジションになりそうだ。

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第22回 「迷路」

週初(10月30日)の早朝、東城から電話が入った。
相場の話を聞きたいので、場が落ち着いたら部屋に来てくれという。

朝方は仲値が輸入超ということもあって、寄り付き前からドル買いが優勢となり、10時前に13円83(113円83銭)を付けた。

だが、そこからはドルを追いかけて買う気配はない。
‘この分だと、東京は13円台後半で様子見だな’

そう決め込み、東城の執務室に向かった。
ドアをノックすると、
「おう、入れ」という落ち着いた声が聞こえる。

部屋に入ると、東城は執務机ではなく応接用のソファーに腰かけていた。
彼にしては珍しいことである。

「まあ、座れ」の言葉に従い、テーブルを挟んで反対側のソファーに腰を下ろした。

Wall Street Journal がテーブルに広げられている。
並外れた英文の読解力を持つ東城は、新聞だけでなく向こうの雑誌も愛読している。

「何か、面白い記事はありましたか?」

「特にないが、イエレンの次はどうやらパウエルで落ち着きそうだな。
とりあえずはFEDのスタンスに変更はないということか。
ところで、ドル円はどうだ?」

「今週は少し調整が入ると考えていますが、ドルの下値は堅そうですね。

米系ヘッジファンドのCEOを務める友人の話では、同業の多くが保有している日本株の為替ヘッジで円を売っている様です。

それに、本邦の輸入筋が比較的高い水準でドルを買っているのが足下の状況でしょうか。

元々、‘FEDの金融政策の正常化、米金利上昇、日米金利差の拡大’というドル買い円売りの市場のロジックがそうさせているのかも知れません。

とすれば、FF(フェドファンド)レートの中立金利(将来の終着水準)と10年米国債利回りのギャップが問題視され出した場合、ドル円は落ちると思うのですが・・・。

FOMCメンバーが想定しているFF誘導目標の中立金利が2.75%、10年債利回りの節目の2.4%ですから、誘導目標の上げ余地は知れています」

「つまり、超長期の趨勢としてFFレートが10年債利回りを超え続けることはない。

だから、延々とFFレートの誘導目標を引き上げ続けるのには無理があるってことか。

確か9月時点で来年のFFの見通しは2.125%だったな。
それが現実となれば、現状の10年債利回りに近づくことになるか・・・。

賃金が速いピッチで上昇しインフレ圧力が強まれば、中立金利も引き上げられ、
FFの引き上げ幅も広がるが、あまりそれは期待できそうにないな」

「そうですね。
問題は12月のFOMCでドットチャート(政策メンバーによる金利見通し)がどの様になるかでしょうか。

FEDが利上げを再開した15年12月のFFレートの中立金利は3.75%でしたが、それが徐々に切り下がり、直近では2.75%まで低下しています。

この12月のFOMCでさらに下がる様でしたら、市場のドル買いロジックが崩れるかもしれません」

「そうだな。

もっとも、問題は足下の相場でドル円が何処まで上がるかだ。
ロジックが崩れる前にレベルが切り上がる可能性も考えておく必要がある。

最近、お前はユーロドルのショートがメインらしいな」

「はい、今申し上げた様に、市場のドル買い円売りのロジックについて行けないこともあるのですが、14円台にテクニカルポイントが多いのと、実需のドル売りが旺盛な状況を見ていると、ドル買いに食指が出ないと言ったところでしょうか。

中旬に11円65までのディップがったのですが、その局面でドルを拾えなかったのが拙かったと反省しています。

収益面では、幸いにもユーロドルのショートの回転が良いので救われています。

ドル円は今週、調整で少し落ちるはずです。
そこは少し買いでしょうか?」

「そうだな。
収益は別として、ユーロドル・ショートが機能している間に、ドル円の感覚を取り戻した方が良いかもしれないな」

「そうですね。
少しディップを拾っておくことにします」

「時間を取らせて悪かったな。
実は今日の午後に経団連の上の人間と会う予定で、そこで為替の話をしなければならない。

それと山下と沖田の入れ替え人事の件、さっき人事部長から電話が入り、正式に許可が下りるそうだ」

「了解しました。
早速、彼らに伝えておきます。
それと本部長、来週の月曜日と火曜日、休暇を取らせて頂きます」

「岬君のところか?」
微笑みながら言う。

「ええ、まぁ。
でもどうして分かったのですか?」

「顔に書いてあったからな。
会ったら宜しく伝えておいてくれ。

でも人妻だから、何かと気を付けろよ。
何かあっても、この問題だけは俺にはどうしょうもしてあげられないからな。
まあそのうち、二人の話は酒の席で聞くよ」
声を出しながら笑うと、東城は皇居の森を臨む窓の方に歩き出していた。

「それでは失礼します」
と言い残して部屋を後にした。

「どうだ、相場は?」
デスクに戻るなり、山下に聞く。

「動きませんね。

でも、朝方の様子を見ると少し上にロングが残ってる感じがするので
雇用統計前に一旦ポジション調整が入ると思います。

どうします?」

「うーん、そうだな。
少しドル円を買ってみるか。

先週の安値は3円25(113円25銭)だったよな。
25で50本、’until further notice’でリーブを入れて置いてくれないか。

If doneで、4円30で利食いの売り30本、残り20本はそのままキープ。
コールレベル*は12円ハーフで頼む」

「了解です」

「それと、お前の転勤は正式に決まったそうだ。
ビザは沖田と入れ替わりだから間違いなく下りると思うが、その点は人事部から話を聞いておくと良い」

「ありがとうございます。
家内も喜びます」

「まあ、あっちの生活を存分に楽しんでこい。
但し、しっかり稼げよ。
それと、来週の月・火と休むが良いか?」

「問題ありません。
松本ですか?」

「お前も東城さんみたいだな。
想像に任せるよ」
からかわれているのが分かったが、悪い気分がしなかった。

ドル円はその日のニューヨークで13円02まで下落し、25で50本の買いオーダーが付いた。

翌日(火曜日)の東京でドルは反発し、13円後半を付けたが、依然として上値が重たい展開が続いた。

週半ばになると再び14円台を覗き出したが、高値は14円28止まりで、相変わらず5月以降の戻り高値近辺で押し戻されてしまう。

‘やはり、上は重たいのか・・・。
どうもドル円のロングの居心地が悪いな‘

週末の金曜日、米10月雇用統計が発表された。
NFPや平均時給が市場の予想を下回ったため、発表直前の14円台から13円65まで振り落とされた。

だが、直ぐに14円43まで反発した。
10月のISM非製造業景況指数や9月の製造業受注指数が予想を上回る結果となったからだ。

でも、この二つは大して重要な指標じゃない。
ドルが反発した本当の背景は買い遅れ組が上値を追いかけ出していることにある。

いずれにしても、14円30に置いたロング30本の利食いはダンとなった。
残りは20本のロングだ。
‘14円台で利食うこともできるが、来週まで持っていることにしよう’

ドル円は週末のポジション調整で14円割れ寸前まで落ちたが、とりあえず14円台で週末を迎えた。

週末を14円台で迎えるのは3月以来のことである。
‘ドル一段高のサインなのだろうか’

確かに14円台~15円台に複数のテクニカルポイントが存在し、ドルの上値は重たい。
だが、何か起きる様な気もする。
来週はドル上昇の正念場になるかもしれないな。

’上が抜けなければ、大きな反落もありと心得ておけばいい’

祝日の金曜日の夜、岬に電話を入れた。
「来週の月曜日にそっちへ行くけど、何処か行きたいところは?

「秋の碌山美術館に行きたい。
昔、二人で行ったときは夏だったわ。
今はきっと、趣が違って素敵だと思う」

荻原碌山は穂高村が生んだ東洋のロダンとして知られる明治時代の彫刻家であり、美術館には彼の作品が多く展示されている。
建物は安曇野にあり、キリスト教の教会を思わせる素敵な建造物である。

「そうか。

それじゃ、いつものパルコ前のパーキングに着いたら、電話を入れる。
昼前にはそっちに着く様にするよ。

それと夜、‘縣(あがた)倶楽部’で旨い酒を飲みたいけど、月曜はやってるかな?」

縣倶楽部は名前こそ欧風だが、純粋な小料理屋で岬の伯父が営む。
店主の伯父は油絵を描き、店内のBGMにジャズを流している様な人物で、語り口調に好感の持てる人柄である。

「ええ、水曜が定休だから大丈夫。

伯父は了に一度しか会ったことがないのに、いまだにあの好青年はどうしてるって聞くの。

余程、了のことが気に入ったのね。

行ったら、きっと喜ぶわ」

「あの好青年は、もう中年だけどな」
互いの笑い声を聞きながら、二人は電話を切った。

電話を切った後も、岬の笑い声が脳裏に残り続けた。
‘久しぶりに聞く明るい笑い声だったが、無理に抱えている悩みを振り払っていたのかもしれない’

何となくセンチメンタルな気持ちが心に広がった。
そんな気持ちに耐えられず、ラフロイグをショットグラス注ぐと一気に飲み干した。

二杯目を注ぎ終えると、Kieth JarrettのJasmineをBoseの Wave Music Systemに差し込んだ。

‘この先、二人はどうなるのだろう’
そんな気持ちを無視するかの様に、‘’Where can I go without you’が聞こえてきた。

(つづく)


*コール・レベル:電話を必要とする水準。
何かディールをしたいと考えている水準だが、場の状況をとりあえず聞きたい場合に、電話依頼をすることがある。

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第21回 「財務省からの電話」

 衆院選での与党圧勝が確定的となった日曜(22日)の夜、ニューヨークの沖田から電話があった。

「今晩は。
自民は強いですね」

「まあ、小池や前原の失態の裏返しという側面もあるが、自民は強いな。

これでアベノミクスが再評価され、市場は束の間、日銀の超金融緩和継続を囃すと言ったところか。

明日のオセアニアでドル円がギャップアップしてオープンするのは間違いなさそうだな」

「課長はドル円で何かやりますか?」

「多分何もしない。

13円44(113円44銭)から11円65まで反落する局面で、ロングすれば良かったが、あの時はショートの利食いばかりを考えていて、頭を切り替えられなかった。

あれ以降どうも手が出ないんだ。

でも、相場感を失っている訳ではない。
今週は5月と7月に上値の重たかった14円半ばを試しに行くと思う。

問題は何かするかどうかだな・・・。
俺は当分ドル円でポジションを取るのを止めるが、お前はどうする?」

「そうですね。
課長の言う様にあそこを試しに行くと思います。

ただ、仮に13円台後半でロングを仕込めたとしても、小掬いに終わりそうで面白くなさそうですね」

「うーん、そうだな。
14円半ばは一挙に抜けないだろうから、14円台で一旦売ってみても良いんじゃないか。

5月以降の相場展開を考えれば、実需は14円台で必ずドルを売ってくる。
ロングはその動きを見てからでも遅くはないと思う。

その線で行けば、お前の今週の出だしは好調なはずだ。
俺は暫く、ユーロドルで勝負してみる」

「分かりました。
それじゃ、シドニーで14円台を売ってみます。

課長は1850(1.1850)のユーロドルショート50本を一旦1750で閉じた様ですが、その後新たに1825で50本、1800givenで50本のショートを作ったんでしたよね。

まだユーロが下がるとお思いなんですか?」

「ユーロ圏というよりも、どうも欧州全体の雰囲気が気持ち悪い。
カタルーニャ州の問題がスコットランド独立やイタリアの南北問題に伝播する可能性もある。

それにマクロンとメルケルが目論んでいるEUの深化も画餅に終わる可能性が高い。

ユーロ圏に限って言えば、ECBはAPP*の期間延長と減額という選択をしそうだが、それもユーロ売りに繋がる。

8月以降に形成されたヘッドアンドショルダーのネックラインは1660近辺だったと思うが、そこを抜けるとやばいな。

とりあえずは、1500を抜くかどうか眺めることにするよ。

まー、そんなところかな。
じゃ、また明日からも宜しく頼む」

「ありがとうございました。
それじゃ、お休みなさい」

 週初(23日)の東京、ドル円は寄り付き前に14円10(114円10銭)を付けたが、久しぶりに14円台を見たことで、やはり輸出のドル売り意欲が旺盛だった。

ドルがじり安の展開となり、海外ではロングの投げを巻き込みながら、13円25銭へと下落した。

沖田は今日、そこそこ稼いだはずだ。
‘良かった’

ドル円はその日以降、毎日14円台を付けるものの、市場は7月の高値14円49を試そうともしなかった。

週半ばには、米10年債利回りが節目の2.4%を上回ったことで面白い展開になるかと思ったが、14円24止まりと、市場には49を試す雰囲気も見られない。

‘やはり相当に14円前半は重たいな’
そんなことを感じながら人事関連のメールに目を通していると、ジュニアの前島が
「課長、MOF(財務省)から電話です」と少し声を低めて言う。

「はい、仙崎ですが」

「先輩、吉住です。
円はどうですか?」
吉住は東京外語大時代の同好会の後輩で、国際金融部外国為替市場課*に所属している。

「どうせ、他行の連中にも聞いた後で俺のところに掛けてきたんだろ。
俺も他と大体同じだ。

少しだけ違うとすれば、円安はこのところの米系ファンドの日本株買いに関係しているという点かもな。

少なくても俺の親友が運営している米系ヘッジファンドは日本株を買い、その為替ヘッジで円を売っている。

つまり、ドル買いの与件が多い中で、‘そうした彼等の動きがドル高円安を加速させている’というのが俺の見方だ。

その辺りはそっちのルートで調べれば、分かるところだから信憑性は自分で調べろ。

いずれにしても、ドルはもう少し上だと思うが、14円ハーフが勝負処だ。

これで十分か?」

「はい、ありがとうございます。
ところで、先輩にお願いがあるのですが・・・」

「おい、まだあるのか?
お前は俺のことを相当に暇だと思ってるな」

「まさか。
たまには思いますが」

「馬鹿、もう切るぞ」

いつもながらの先輩後輩のやりとりだ。

「実は先日、省内の勉強会で座長を務める人から先輩に講師を頼んでくれないかと言われました。

彼は僕と先輩が同じ出身校ということを知りませんが、僕が外国為替市場課だから先輩を知っていると思ってのことらしいです。

何とかお願いできませんか?」

「下期が始まったばかりだから、当分は無理だ。
それに他行に幾らでも人材はいるだろう」
と突き放した。

「いや、座長がこの世界で一目置かれている仙崎さんに目を付けてのことで、たってのご指名です。

また、近いうちに電話しますので、是非考えておいて下さい」

「まあな。
ところで、その座長の所属と名前は?」

「主計局・特別税制課*の坂本です」

「ふーん、主計も為替の勉強をするのか?」

「はい、省内の勉強会ということなので、各局が持ち回りで色々と。
相場の話、ありがとうございました。
それじゃ、失礼します」
と言って、電話を切った。

依頼の理屈は通っているが、確か岬の夫も財務省の主計だと聞いている。
‘少し不可解だな。苗字は坂本か、週末にでも岬の苗字を聞いてみるか’

 週末、ドル円は14円44を付けた後に13円64まで反落し、ユーロドルは1.1575まで下落した。

相場感を失ったドル円のポジションはないが、ユーロドルのショートが機能してるのが嬉しい。

 土曜の夜、神楽坂のイタリアン・レストラン‘カターニア’で食事を済ませた後、岬に電話を入れてみた。

「変わりはないか?
ほぼ毎日メールでやりとりしてるのに、そんなことを聞くのは変だな」

「そんなことないわ。
やはり声を直接聞ける電話での気遣いは嬉しいものよ」

「そんなもんか」

暫く取り止めのない話を交わした後、今の岬の苗字を尋ねてみた。

「坂本だけど。
突然、何でそんなこと聞くの?」

先日の吉住の依頼の件を話すと、

「主計ならば、主人に間違いないわ。
単なる偶然だとは思うけど、この間の件もあるし、少し注意した方が良いと思う」
と申し訳なさそうに言葉を返してきた。

「分かった。引き受けた訳ではないし、吉住には悪いが断ることにするか。

それより、そっちは栗の美味い季節だな。

小布施の‘竹風堂’の栗強飯や‘栗の木テラス’のモンブランも食べたいけど、週末は混んでいるんだろうな。

でも、近いうちにそっちに行くよ」

「本当! 嬉しいわ。
必ずね。
それじゃ、そろそろNHKのワールドMLBの時間だから切るわ。
了の一番の楽しみを奪っちゃ悪いものね」
屈託のない笑い声が聞こえた。

「こいつ。
おやすみ」

既に日中のLIVEでドジャーズが負けたことを知っているが、それでもコントローラーのBS1を押した。

ドジャーズはダルビッシュを先発に立て満を持したが、スライダーのコントロールが定まらないまま2回に4点を失い、それが致命傷となった。

1勝2敗で迎える明日の第4戦もドジャーズが負けるかもしれない。
ホームでのアストロズは驚異的な強さを発揮する。

ここは、ワールド・シリーズに入ってから不調のベリンジャーに期待するしかない。

(つづく)


*APP:拡大資産購入プログラム
*国際金融局外国為替市場課:実際の財務省の外国為替部門は国際局為替市場課の所管である。
*主計局・特別税制課:主計局は存在するが、特別税制課は存在しない。

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第20回 「下がらないドル」

 週初16日、ドル円相場は111円90前後で始まった。

仲値にかけてドルが買われる展開となったが、12円08止まりで買いが続かない。
どこかでもう一度ドルが売られそうな気配がある。

だが、その後も積極的なドル売りは見られず、ややじり安の展開で東京は終わろうとしていた。

そんな中、欧州市場に入りかけた頃、ドルがグラッときた。
東京での上値の重たい展開を見て、ドル売りが出たのだ。

それでも、安値は11円65止まりと、期待してたほどドルが落ちない。

「山下、先週末の71(12円71銭)のショート50本、どうも根っこのポジションにはなりそうにないな。
この辺で30本だけ買い戻すけど、お前はどうする?」

「はい、ここら辺りが良いところですかね。
僕も一緒に買い戻します」
山下が素早くEBS(電子ブローキング・システム)のキーを叩き出した。

「82です」

「了解。
残りの20本は11円11と12円丁度のOCO*でリーブを入れてくれ。
5時過ぎに東城さんに呼ばれているので、後はよろしく頼む」

 東城の執務室のドアをノックすると、
「おう、入れ」という声が聞こえた。
いつもの落ち着いた声である。

ドアを開けると、皇居の森と対峙するかの様に立つ、凛とした東城の後ろ姿が目に入った。

「雨で良く見えませんね」
皇居の森はその輪郭だけがぼんやりと見える程度である。

こんな情景も時に悪くはないが、この頃の自分の気持ちには相応しくない。
半期末は何とか乗り切ったものの、下期に入ってから顧客との問題や内部の事務処理で稼ぎの方が進んでいないことが気に懸っている。

「そうだな、少し鬱陶しい天気だな。
どうだ、市場は?」

「ドルが落ちそうで落ちませんね。
先週末に2円後半で売ってみたのですが、根っこのポジションにはなりそうもないので、手仕舞うことにしました。
シカゴ(IMM)が強気に円ショート(ドルロング)を膨らましているのも気懸りで、まだ(ドルが)上に伸び切っていないのかもしれません。
ところで、お話しがおありとか?」

「その件だが、大学時代の友人がテレビ国際の役員をやってるのは、以前話したことがあったな。
彼のところの経済番組・ワールドファイナンスに週一でレギュラー出演してくれないかという依頼があった。
むろん、お前への話だ。
NYCBTの経済番組にお前が出演していたのを見ていて、帰国後に出演を依頼しようと思っていたと言ってる。
一度親会社の国際金融新聞の木村君経由で依頼したが、お前ににべもなく断られたと言って笑ってたよ。
でも、俺に義理立てする必要はないぞ。
お前が決めれば良い。
どうする?」

「そうですね。
僕はエコノミストやストラテジストと違って、ただ喋ったり書いたりして給料を貰っているわけではありません。
市場で稼がなければならない人間です。
それに時間もないので、今は二束の草鞋は無理かと・・・。
ただ、東城さんのご友人の依頼とあっては、素気無く断るのも拙いですよね。
とりあえずは、通年の収益見通しが付いてからとお答えしておいてください。
多分、来年以降の話ですが」

「そうか、お前らしい答えだな。
少しは俺の顔も立つってとこか」
その顔に少し微笑みが浮かんでいる。
‘やはり、無下に断らずに良かった’

「それは何よりです。
でも、うちは出演料や原稿料を当人が受け取れない規則ですから、出演料は東城さんの奢りで‘下田’の寿司ということで宜しいでしょうか?」

「こいつ、調子づくなよ。
お前は独身だから自由に給料を使えるけど、俺は家内から小遣いを貰ってる身だ」
と言いながらも、顔は嬉しそうである。

「世の中、Pay it Forward ですから。
僕も大食いや酒豪の部下を抱えているので」と笑いながら言い、部屋を辞した。
Pay it Forward とは、ある人から受けた恩(善意)を他の人に渡していくことを言う。

 ドル円はその日のニューヨークで12円台に上った。
12円71の20本ショートの利食いが上で付いてしまったということだ。
ドルが少し跳ねそうな気がする。

その日の夜中、ニューヨークの沖田に電話を入れてみた。
「どうだ?」

「ドル円は目先、12円を割りそうもないですね。
何かしますか?」

「ユーロドルを少し売りたいが、18台(1.18台)はありそうか?」

「少しショート気味なので、可能性はありますが、もう少し先でしょうか・・・。
カタルーニャの件で、まだ下があると思ってる連中が結構多い様です」

「分かった。
それじゃ、1.1850で50本、until further noticeでリーブを頼む。
それと、お前の転勤の件だが、来月には内示が出ると思う」

「ありがとうございます。
家内も喜ぶかと・・・。
それでは失礼します」

 その後、ドル円は11円台を見ることもなく、週末には13円56銭まで跳ねた。
ユーロドルは木曜から週末にかけて、1.18半ばで時間足のトリプルトップを付けてから1.1763まで反落した。

 世間が衆院選で喧しい週末、興味はヤンキースのリーグ・チャンピオンシップにあった。

選挙当日、3勝-3敗のタイで迎えたアスレティックスとの第7戦目が行われ、ヤンキースは0-4で負けた。
2009年以来のWS(ワールドシリーズ)への出場を逃してしまったのだ。

呆然とする田中将大の顔がTVの画面にアップで映る。
為替の世界では幾度も勝負できるが、メジャーリーガーがWSで戦える機会はそう簡単には訪れてくれない。

ふと外を見ると、雨が小降りになった感じがする。
神楽坂のイタリアン・レストランで、一人ヤンキース敗退残念会を開くことに決めた。

坂上から坂下に向かって左側二つ目の路地を曲がったところにある‘カターニア’のカウンター席に座ると、辛口の白ワインとポルチーニのクリーム・パスタを注文した。

冷えた白ワインをビールの様に飲み干すと、ヤンキース敗退で沈んだ気持ちが少し癒された感じがする。

 雨のせいか、いつもなら混み合う日曜のこの時間、客もそれ程多くない。
それでも、日曜の午後を楽しむカップルがそこそこいる。
二杯目の白ワインを飲みながら、語らいあうカップル達を見ていると、岬のことがたまらなく懐かしく思えてきた。

‘社宅に帰ったら、電話をしてみよう’

(つづく)


*OCO: One side done then Cancel the Other order (One Cancel Other)
‘二つのオーダーを同時に出し、一つがdone になったら、他のオーダーはcancelする’リーブオーダーの出し方

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第19回 「一件落着」

週初の9日、日米が休日のなか、北朝鮮・朝鮮労働党創設記念日を翌日に控えていることもあって、どの通貨ペアも小動きに終始した。

ドル円も112円台で動意に欠ける展開だったが、どことなく上値に重たさが感じられる気配だ。

そんな日の早朝、コネティカット社のオーエンから浅沼に電話が入った。

「ドルを売りたいそうで、課長の意見を聞いてくれとのことです。
先週、損失の半分を取り戻したせいで、少し調子づいているのかも知れませんね。
どうしましょうか?」
浅沼が困った様に言う。

「多分、お前の言う通りだ。
相場は簡単だと思わせてしまうと、上司である彼自身がスペック(投機)にのめり込んでしまう可能性があるな。
そうなれば、また含み損を抱えかねない。
あまり俺もこの件だけに関わっているわけにもいかないし、
そろそろで決着を付けるか」

「申し訳ありません。
こっちの件で課長の足を引っ張ってしまって・・・」
やや俯き加減に浅沼が言う。

「いや、そんなことはどうでも良い。
とりあえず、彼に‘俺が何故、先週ドルロングのポジションをとらせたのか分かるか’と聞いてくれないか。
そして‘その答え次第で、ドルショートを取らせると言うのが俺の申し送りだ’と伝えてくれ」

「なるほど、‘コネティカット社東京の本来の為替エクスポージャー(晒されているリスク)が何なのかを考えてみろ’ってことですね。
了解です。
僕は課長の様に流暢に英語が喋れませんから、上手く言えるかどうか分かりませんが、やってみます」

「お前は将来また、海外に出たいんだろ?
英語でやりとりが出来なくてどうする。
大丈夫だ、頑張ってこい」
浅沼は20代の頃、トレイニーとしてロンドン支店で1年間勤めている。
この程度の英語なら喋れるはずだ。

自席に戻った浅沼が電話を掛けるのを見届けて、スクリーンに目を戻した。
ドル円は12円70(112円70銭)前後の小動きだが、どうやら13円に届く気配はない。

コーポレート・デスクの方から浅沼が英語で話しているのが聞こえた。
少したどたどしいが、正確に喋っている。
‘問題ないな’

 30分ほど経った頃、浅沼がオーエンの答えを持ってきた。

「‘彼等の実需のエクスポージャーがドルショートであり、ドルロングのポジションであれば、たとえhead wind(アゲインスト)になっても、それを本店向けの決済に当てられる’というのが彼の答えでした。
どうやら、ドルロングを彼に持たせた課長の真意を理解した様ですね」

「そうらしいな。
それを理解しているなら、ここは売らせても良いか。
但し、損失を全部回収したら、‘スペックにはもう手を出さないことが条件だ’と言ってくれ。
40本売って、60銭抜ければ、先週の利益と合わせて損失はほぼ回収できるな。
今70~72か。
よし、オーエンに電話して、俺が‘ドルの上値は重いと言ってる’と伝えてくれ」

「了解です」

数分後、ディーリング・ルームに浅沼の声が響いた。
「円(ドル円)、50本」
その右手人差し指は下*を向いている。
オーエンがドル50本売ってきたのだ。

それを見て、自分もドルを売ることにした。
自分で暗にドル売りを薦めた以上売らないわけにはいかない。
「山下、50本売ってくれ」

「71です」

「了解。ストップを45(113円45銭)で頼む。
利食いは入れなくて良い」

数分後、浅沼が‘オーエンが利食いのリーブ・オーダーを20(112円20銭)で20本、10(112円10銭)で30本、置いてきた’と伝えてきた。

その日の海外でドル円は111円99銭を付けた。
‘これでやっと、コネティカットの件も決着が付いたな’

 週後半のドルは112円半ばまで戻すのが精一杯となり、111円台は間違いない状況になっていた。

年初来安値の107円32銭を付けた後、ドルは112円台まで順調に上昇してきたが、その後は時間の割に伸びに欠ける展開が続いている。

上値遊びが長過ぎるのだ。
こうした状況は調整局面を迎えるか、一相場の終わりを示す兆候である。

そんなことを考えていた週末の夕方、山下が
「スポットが転換線を下回りだしてから一週間です。
どうやら、あのポジションが根っこになる可能性が高いですね。
僕も課長に乗っかって、同じ水準で20本ショートしてみました」

「それは良かった。
まだ利食ってないのか?」

「はい」

「じゃ、’Don’t count your chickens before they are hatched.’ ってところか」

「何ですか、それ」

「捕らぬタヌキの何とやらって感じかな。
ところで、今夜何処か行くか?」

「はい、少し寒くなってきたので、おでんで熱燗はどうでしょう?」

「それは良い。
浅沼も誘っておいてくれ。
ここのところ、あいつもコネティカットの件で疲れているはずだ」

 山下の選択した店は湯島にある‘こなから’だった。
金曜の夜の予約は難しいと言われる店だが、運良く空いていたという。
新丸ビル店などの支店もあるが、‘本店の味がどことなく良い’というのが彼の評価である。

「浅沼、ご苦労様。
これでオーエンも、晴れて本社の役員に成れるってことか」

「今回の件ではお世話になりました。
彼も相当に課長には感謝している様です。
お蔭様で、あそこの為替は全部うちにくれることになりました」

「そうか。
それは何よりだ。
サイドも分かる玉だからインターバンクにとっても楽なフローだな、山下」

「はい・・・。
何の話でしょうか?
ちょっとおでんの選択に気を取られ、聞き逃してしまいました。
すみません」

「本当に食い意地が張ってるな、お前ってヤツは。
また腹が少し出てきてないか」

それを聞いた浅沼が大きな声を上げて笑うと、客が一斉にこっちを振り向いた。

‘和やかな夜だ’

 楽しいひと時を過ごした後、タクシーを拾うと、‘銀座へ’と告げた。
目的はカウンター・バーの‘やま河’である。

「今夜はお一人?」

「ええ、今まで山下等と飲んでいたところです。
最後は一人で過ごしたくて、ここに来ました。
いつものヤツをお願いします。
それと、先日僕が持ってきたビージー・アデー(Beegie Adair)のCDを他のお客さんに迷惑にならない音量でかけてくれますか?」

「はい、了解」

ラフロイグ、チェイサー、ドライド・フィグ(干しイチジク)がカウンターに並ぶと、
Beegie Adairの女性らしいピアノの音色が丁度良い音量で流れ出した。
‘Love me tender’、’Smile’と続く。

近くの客が、
「良いメロディーだね。何ていうアルバム?」
とママに聞いている。

至福の時が流れ出した。

‘来週もまだ、ドルが下がりそうだな。
頑張るか’

 (つづく)


*手振りで売買を示す場合、yours(ここではドル売り)では人差し指を下に、mine(同ドル買い)では人差し指を上に向ける。
また、yoursでは手の平を相手(ここではインターバンク)に向けて倒し、mineでは自分の方に向けて引く様な仕草をすることもある。

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第18回 「ミーティング」

―――9月末の最終週にコネティカット・ファーマシーとの取引に疑問が生じた。

急増した取引、膨らむ含み損の背景に何があるのか?

コネティカット社の上層部も事実を知っていれば問題ない。
だが、財務・経理担当者の一存による取引の結果がもたらした含み損であれば、話が拗れる可能性がある。

先方の担当者とコーポレート・ディーラーの安居とが男女の関係にあるとの噂もある。

猶予はならない状況だ。

今回の件はJMIが一方的に理不尽な要求を突き付けてきた問題とは話が違う。

早急に先方の上層部に会う必要がある―――

 週初2日の朝方に公表された日銀短観は大企業製造業のDIが4期連続の改善となったが、為替市場への影響は限定的だった。

ドル円は112円66銭でオープンしたが、動意が薄い。

‘今日は12円後半でのキャッチボール相場になる’と決め込んで、コーポレート・デスクの浅沼をディーリング・ルームに近い会議室に呼んだ。

「どうだった? コネティカットのコンファメーションに不自然な点はなかったか?」

「そうですね。直近のディール分まで全て戻ってきています。代理人届が済んでいるSignatureもあるので、表面上は問題ありません」

「手掛かりはなしか・・・。
ところで、担当者の直属の上司はあっちの人間か?」

「はい、Jason Owen というアメリカ人で、肩書はCFOです」

「自分でコンファメーションにサインしながらも、ここまでの含み損を見過ごしてきたのだから、為替には無頓着なのかな?」

「はい、一度会ったことがありますが、年齢40歳位の誠実そうな人物です。
アカウンティングやファイナンスは詳しい様ですが、為替にはあまり関心がなさそうです」

スラックスのカフは3cm強、靴はプレイントウという出で立ちで、IVY リーグ出身らしい人物像が浮かぶ。
本国に帰れば、ボードメンバーの席が約束されているといったところか。

全米有数の製薬メーカーのボードメンバーに加わるためには、大きなミスは許されないはずだ。
とすれば、今回の問題を解く鍵はその辺りにあるのかもしれない。

「そうか。それで、安居と先方の担当者との関係について、何か分かったか」

「彼女は付き合ってる事実はないときっぱり言ってました。
先方の堂島という担当者が彼女のことを気に入ってしまった様で、気を引くために取引を頻繁に行い、幾度も食事に誘ってきたというのが真相のようです」

不透明な部分もあるが、それ以上考えても下種の勘繰りになるだけだ。

「分かった。
Courtesy Call(表敬訪問)ということで、早速オーエン氏とアポを取ってくれないか。
日時は先方の都合に合わせる。
それと安居をインターバンクに異動、インターバンクの中村をコーポレートに異動。
それで良いか?
丁度期が移ったところで不自然ではないと思うが」

「了解しました。
アポの件、早速手配します」

 オーエンとのアポは4日11時に決まった。

「Nice to meet you, Mr. Owen. 」

「Thank you for coming today, Mr.Senzaki」

「How’s your business going on?」

「Everything’s going well, busy though.
What about yours?」

「The same as usual」

暫く今年のMLBなど世間話をした後、例の話を切り出した。
オーエンは瞬きもせずに話を聞きながら、時折メモを取っている。
一通りの説明をし終えると、少し戸惑いを見せながら語り始めた。

「What I’m gonna tell you is still confidential.
So, can you keep it between us?」

「Sure, I will promise you. Please go ahead.」

「I’m supposed to be transferred to Head Quarter next year.
You know what I mean?」

「You will be promoted, right?」

「Exactly. So, I need your help, Mr. Senzaki.」
ボードメンバー(経営陣)に加わる予定だという。

‘助けを求めている。そうであれば、話は早い’

「How can I help you?」

部下が作った損失だが、自分が管理を怠ったのが悪い。
だから、自分で含み損を取り戻したいという。
為替取引の経験はないが、アドヴァイスしてくれないかと懇願する。

彼の真摯な態度が気に入り、
「Ok, I’ll do all what I can do.」
と言うと、挨拶した時の笑顔に戻った。

もっとも、銀行が’売れとか買え’とかの直接的な指示を顧客に行えば法に触れる。

「コーポレート・デスクの浅沼が私の相場感を伝えるために電話を掛け、そこで貴方が売買の判断をする。
それで良いですか?」 
と提案した。

「Can I do it?」
不安そうに言う。

「I’ll be there for you」
と言うと、’Thank you, Thank you’ と幾度も言いながら、握手を求めてきた。

一応の方針が決まったところで、
オーエンに浅沼に電話を掛ける様、促した。
現在のポジションをすべて手仕舞うためである。

含み損は実現損となった。
これで、前向きなディールを行えることになる。

約4500万円の損失だ。
‘直ぐに取り戻せる金額である’

別れ際、
「Ryo-san, doumo arigato gozaimasita」
と、たどたどしい日本語で礼を言う。

「どう致しまして」
と笑って返した。

 銀行に戻ると直ぐに浅沼を呼び、オーエンとのミーティングの内容を伝えた。

「どうもありがとうございました。
でも、彼に稼がせなければなりませんね」
と心配そうに言う。

「それは問題ない、俺が稼がせる。
浅沼、俺が出かけている間、ドル円はどんな様子だった?」

「実需の買いが入るせいか、50(12円50銭)近辺はそこそこビッドですが、もう少し下がる様な気がします」

「そうか、オーエンに電話を入れて、40近辺でリーブを出させる様に誘導してくれ。
今週はもう、’ドルがそれ程下がらない’というのが俺の見立てだと伝えろ。
ただ、くれぐれも言っておくが、お前からリーブの水準、金額、サイドは一切言うな。
法に触れる。
ここはコーポレート・ディーラーとしてのお前の手腕が問われるところだな」
最後の言葉に笑いを添えた。

暫くすると、浅沼から報告があった。
「40で20本、35で20本のドル買いを置いて来ました」

「そうか。良くやった。
それじゃ、次に80~90で利食いのオーダーを取ってこい」

オーエンに電話を掛けながら、浅沼がこっちに向けて右手の親指を立てた。
‘順調だ’

 その日の3時過ぎ、一連の顛末を東城に報告した。

「お前も苦労が絶えないな。
労い酒と行くか」

「良いですね」

その日の晩、二人で銀座の寿司処‘下田’に出向いた。
‘本当にここの寿司は旨いな’

 週末に公表された米9月の雇用統計では、NFP(非農業部門雇用者数)がかなり悪化したものの、賃金の上昇が確認された。

NFPの悪化はハリケーンの影響がある。
そして市場は賃金上昇だけを捉え、発表直後にドルを買った。

ドル円は直近最高値の13円26銭を抜き、13円43銭を付けた。
だが、‘北朝鮮が長距離ミサイルの試射準備を行っている’との報を受けて、ドルは敢え無く12円61まで反落した。

‘上値が伸びない割に、時間を食い過ぎてる・・・。
そろそろドルの反落に備える必要があるのかもしれないな’

(つづく)

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第17回 「顧客の含み損」

―――9月期も今週で終える。

帰国してから5カ月も経っていないが、多くの出来事があった。

収益改善での苦労、JMI(日本海上保険)とのトラブル、田村との確執、部下の前島の失踪などが脳裏に浮かぶ。

こうした問題の多くは、尊敬する上司の東城、必死に自分をサポートしてくれる部下の山下、そして社外の友人・知人のお蔭で何とか解決してきた。

もっとも、解決の糸口すら見つかっていない問題もある。
かつての恋人・岬との関係だけは、彼女が人妻である以上はどうにもならない。
夫と別居中の身とは言え、簡単に彼女との距離を縮めるわけにはいかないのだ。

だが、まだ攻め時は来ていない。
もしかしたら、永遠に攻め時は来ないのかもしれない。
‘辛い関係が続きそうだな’

いずれにしても来週からは下期が始まる。
‘頑張らねばならないな’―――

週前半(25日~26日)、ドル円は12円半ば(112円半ば)で上値の重たい展開から11円半ばまで反落した。

市場が先週の高値12円72~99銭(昨年12月の高値118円66銭からの安値107円32銭の半値戻し)を攻めることに躊躇しているのだ。

しかしながら、週半ばにはイエレンFRB議長のタカ派的発言で、ドルの買い方が勢いづき、2カ月半ぶりの水準となる13円26銭を付けた。

9月末でなければ、関心を抱く状況だが、この時点で収益を振らすことはできない。

ここは少し相場から離れる良い機会と捉え、事務仕事に専念することにした。

そんな折、廊下ですれ違ったバックオフィスの山根美佐子が耳に入れておきたい話があると声を掛けてきた。

山根には外国為替部に異動になった当初、事務的なことで随分と世話になった。

為替取引やマネー取引に関する知識が豊富であることや、国内外のバンキング・システムにも通じていることが評価され、今は事務管理統括部長にまで昇進している。

インテリジェンスの権化みたいな風貌でややきつい顔つきに見えるが、根はやさしい人である。

「仙崎君、君の管轄だから当然カスタマーの収益管理もしてるわよね?」
相当に歳下なので、昔から君づけで呼ばれているが、気にしたこともない。

「もちろんしてますけど、何か?」

「ここ半年急速に為替の取引高と収益が増えている企業があるけど、何か変だと思わない?」

「それって、コネティカット・ファーマシーのことですよね。
チーフの浅沼にその辺のことは聞いてますが、担当の安居真紀が頑張って取引を増やしてきたという話なので、彼の言葉を文字通り受け取っています」

「少し気を付けた方が良いかもね。
先日うちの若い子達と食事に行ったときの話だけど、彼女達がこの夏、銀座のイタリアン・レストランで安居さんと30代の男性とが一緒に食事をしてるところに出くわしたらしいの。
そのときはコネティカットの担当者だと紹介され、接待だと言ってたそうよ。
でも、若い子達の一人が数日後にまた青山通りでその二人が仲良さそうに歩いているのを見かけたと言ってる。
まあ、だとすると恐らくそういう話よね」

「銀行の顧客担当が顧客企業の担当者と付き合う、それはあり勝ちな話ですよね。
仮に二人が真剣に付き合っていれば問題はないでしょうが、取引が急増したというのは色々な意味で拙いかもしれませんね。
情報、ありがとうございます。
早速調べてみます。
山根さんのことだから、本件、彼女達には他言無用と言って頂いてますよね」

「当たり前でしょ。
それにうちの子達全員、仙崎君のファンだから、あなたに不利になる様なことは言わないわ。
それより、たまにはおばさんとも付き合いなさいよ。
昔より美貌は衰えてるけどね」
と笑いながら言う。

「今でも、美貌を十分に維持してるじゃないですか。
それじゃ、失礼します」
と言って、その場を辞した。
別れ際、どことなく彼女の顔が赤らんだ様に見えた。

 デスクに戻り、改めてカスタマーの取引状況を確認すると、確かにコネティカットの取引高が急増し、コミッション収益も前年比で3倍に上っている。

この点では問題はないが、コネティカットの含み損が大きいのが気懸りだ。

確かに未決済残高(決済期日前の残高)はリミットこそ超えていないものの、含み損はリミットの5000万円に近い。

コネティカットの担当の上司はこのことに気付いているのだろうか。

外資系企業は経理・財務関連部署を少人数でやりくりしているケースが多い。

チェック機能が十分に働かなくなる可能性がある。

一応、全てのディールのコンファメーション(確認書)が戻ってきているかを確認しておく必要がある。

コーポレート・デスクのチーフ浅沼に電話を入れ、5分後に社食で会うことにした。
2時過ぎともなると、もう利用者はいないはずである。

「山下、社食に行ってくるが、後は頼む」
と言って、席を離れた。

既に浅沼は皇居の森が一望できる窓際の特等席に座っていた。

山根との会話のあらましを話した上で、
「取引が急増してるのは兎も角としても、含み損が大分増えているのが気になる。
仮にそのことを担当者の上司が知らないと拙い。
土台、製薬会社がこんなに沢山のスペック(投機取引)を行っているのも不自然だ。
まずは、先方から戻ってきた今期のコンファメーションに不信な点がないか調べてくれないか?
本件は山根さんも心得ているから、バックオフィスからコンファメーションを借りることに問題はない」

「そうですね。うちから提供しているクレディット・ライン(与信枠)や損失リミットには抵触してませんが、担当者が何か隠していると拙いですね。
了解しました」

「それと、安居君と担当者との関係も気になる。
それとなく探りを入れておいてくれ。
先方との接待の回数とかもな。
お前も月末・期末で忙しいだろうから、来週初辺りまでに調べておいてくれればいい。
話はそれだけだ。
今期もご苦労だったな。
大分お前のところの収益も回復してきた様で良かった。
それじゃ、本件、また来週に話そう」

 週後半のドル円は再び直近高値の13円26銭を試したが、抜けないまま再び12円台に押し戻された。
実需のドル売りが出るなか、少し高値警戒感もある。

週末の東京市場は12円半ばを中心とした模様眺めの展開に終始し、海外市場も動意薄の展開になりそうな雰囲気である。

 
 週末の夜、久々に山下を誘い、銀座のカウンターバー‘やま河’に出向いた。
「9月期はご苦労さん、お蔭で助かったよ。
まずは、ビールで乾杯だな」

直ぐにカウンターにラガービールのボトルと麻布十番の塩豆が置かれた。

塩豆を一つ二つ口に放り込みながら一杯目を飲みほしたところで、グレフィデックのロックとラフロイグのロックを注文した。

ウィスキーグラスがカウンターに置かれるや否や、山下が
「タマゴサンド1.5、野菜サンド1.5、それに何かこれに会いそうなアテをお願いします」
とママに頼んだ。

「それは俺の分も入れてのオーダーだろうな」

「もちろんですよ。
減量中ですからね」
と半ばふてくされて言う。

ロックが二杯目に移ったところで、コネティカットの話を持ち出した。
「そうだったのですか。この半年あそこのディールが増えているのは分かっていたのですが、少しやっかいな問題に発展しそうですね」
心配しているのだろうが、彼の問題ではない。
トレーディング収益に追われ、カスタマー管理に目が行き届かなかった俺の責任が大きい。

「そうだな。男女の関係にビジネスが絡んでいるとなると、ちょっと拙いな。
なかなか全ては上手く行かないもんだ」
溜息をふーっと吐いた。

そんな様子を見て山下が励ます様に言う。
「岬さんという、心の支えがあるじゃないですか」

「ばか、今は心の支えどころではなく、むしろ心配の種だ。
彼女の夫が岬の身辺を探っているらしいという話も何となく気懸りだしな。
まあ、残念ながら岬の件は当分、様子見だな」

「そうですね。家内も心配なので、毎日の様に電話を入れている様です。
今日はとりあえず、飲みましょう。
了さんの相場予測をつまみにして」

「俺の今の予測はだめだ。このところ、JMIや前島の件があったので真剣に相場を見ていない。
お前の方が相場が見えてるんじゃないのか。
どうなんだ?」

「今週、市場は実需の(ドル)売りを意識していた様です。
ドルが続騰してますから、ディーラー仲間も相当に高値警戒感を持っているのも事実です。
でも、予想外にドルの下値が堅いですね。
シカゴがまた円売りに動いたというのも気になります。
一応、来週は13円26が抜けた場合は14円台前半もあり、抜けない場合は10円台後半もありといったところでしょうか」

「本邦では週初の日銀短観、衆院選を控えての株価動向、アメリカではISM、米雇用統計、気の緩んだところでの米朝問題復活など、盛りだくさんだな。
お前の言う様に、10円台~14円台程度で構えておくのが無難か。
まぁ、期初だから慎重に行くか」

(つづく)

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第16回 「会えなくなった二人」

―――9月末決算のバジェットに大方の目途が付いた先週、東城から休暇を取る様に命令された。

それに従って休暇を取り、松本の奈川に出かけることにした。

禁漁前のフライフィッシングが目的だが、松本に暮す岬の近況もこの目で確認しておきたいという思いもある。

三連休(16日~18日)でフィールドを訪れるフライマンが多いため、19日(火曜日)の午後に出発することにした。

そんな折、山下からジュニア・ディーラーの前島の様子が変だという連絡が入った。

そして岬からも奇妙な電話が入る―――

 日本が祝日の週初(18日)、アジア時間の相場は模様眺めの展開となり、ドル円も11円台前半(111円台前半)で終始した。

ところが、海外で重要水準の11円65*を抜き、66を付けた。

完全に抜けた訳ではないが、一度抜けたレベルを再度試しに行くのが相場の習性である。

果たして翌日の東京でそこを抜きにかかった。

そんななか、山下から携帯に電話が入った。

奈川に向かう直前の午後2時過ぎのことである。

「ジュニアの前島が突如消えてしまいました」

「どういうことだ?」

山下は

‘クルーシャル(重要な)・レベルの65(11円65)が完全に抜けたので前島がドルを10本、75で買った。

その直後に彼がディーリング・ルームを飛び出して行った‘と訳の分からない説明をした後、

「何かにショックを受けたというのが周囲の話ですが、細かな事情は分かりません」と言葉をつないだ。

「それで、あいつの携帯に電話を入れてみたのか?」

「はい、今独身寮に帰る途中の様です。
嘘を付く様な男ではないので、多分、あと30分ほどで寮には着くと思いますが」

「先週お前に、‘月末まではカバーに徹する様に皆に指示しておけ’と言ったが、それは伝えてあるよな?」

「はい、今朝のミーティングで伝えてあります」

「ふーん、そうか。
とすると、何か裏があるな。
確かあいつの限度(取引可能額)は5本までだったよな。
それが何で10本のディールをやったんだ??? 
その辺に理由があるのかも知れないな。
万が一のことがあると拙い、俺が寮まで行ってみるよ」

「だけど課長、これから奈川へ出かけるところじゃないんですか?」

「それより、前島のことが気になる。また後で電話を入れる。お前はデスクに残れ」と命令口調で言った。

‘今日はもう、あっちに向かうのは無理そうだ’
奈川のペンション‘野麦倶楽部’に電話を入れ、チェックインを明日にしてほしい旨を伝えた。

 前日に四谷のトヨタレンタカーで借りておいたプラドに乗り込むと、船橋にある独身寮の住所をナビに入力した。

かつて自分が住んでいた場所だが、神楽坂からの道順はさっぱり分からない。

取り敢えず、飯田橋ICから首都高5号線に入り、後はナビの指示従うことにした。

‘こういうときはナビが便利だ’

一時間ほど走ると、京葉道路の‘原木’で高速を降りろという指示が出た。

ランプウェイを降りた後は一般道を船橋市内に向けて走れば良いらしい。

指示通りに20分ほど走ると、ランドマークの船橋市役所近辺に出た。

確か独身寮は市役所の裏手方面だったはずだ。

寮を離れてから8年以上も経つが、この辺りは昔とあまり変わっていない様子で土地勘が甦ってくる。

同時に‘目的地周辺です’のナビの案内が聞こえ、間もなく見慣れた寮の建物が目に入ってきた。

敷地内に入り、車を玄関の前に止めると、管理人が近づいてきた。
見慣れた顔である。

「おう、了君か。元気だったか? 活躍してる様だな。
寮に居た人間が活躍してるのを聞くと、管理人としても嬉しくなるよ。
ところで、今日はどうした?」

「唐突な話ですみませんが、前島君は戻ってますか?」

「ああ、さっき戻ってきた。調子悪いので、早引けしてきたと言ってたけどな」

「そうですか、彼の部屋番号は?」

「303だ」

「ありがとうございます。車、このままで良いですか?」

「ああ、大丈夫だ」

「ちょっと、部屋に行かせてもらいます」

303は3階の3号室だ。
4階建ての寮にはエレベーターが付いていない。
一挙に3階まで駆け上がり、303のドアをノックした。

中から
「おじさんですか?」
前島の声だ。

声を聞いたところで、安堵した。

そして一息つき、
「管理人さんじゃない、仙崎だ。中に入れてくれ」
と落ち着いた声で言う。

「えッ、課長。本当ですか? ちょ、ちょっと待って下さい」
ドア一枚を隔てただけなので、少し慌ててる様子が伝わってくる。

数分すると、前島がドアを開け、
「どうぞ、入って下さい」と招じ入れてくれた。

「おう、どうした? 心配したぞ。山下から電話を貰ったが、突然消えたそうだな」

「はい、申し訳ありませんでした。どうもあの場にいるのが辛くなってしまったので・・・」

「良かったら、話を聞かせてくれないか?」
急かせずに、相手の出方を待った。

前島は状況をとつとつと語り出した。
その目にはかすかに涙が滲んでいる様だ。

・・・・・

一年先輩の中村と相場感を照らし合わせているうちに、‘ここは買い場だ’という話になった。

そこで二人合意のもと、5本・5本、計10本を75で買ったが、その直後に中村が寝返った。

中村は
「やっぱり俺は止めた。
10本全部のお前のポジションにしておいてくれ。
俺は今月マイナスでちょっとこれ以上は拙い」
と命令口調で言い放ったという。

その後、言い争っているうちにドルがオファー(売り気配)になり、50でストップを置いて銀行を後にした。
・・・・・

というのがお凡そのストーリーである。

改めて聞けば、大した話ではないが、問題は先輩に裏切られた前島の心が傷ついている点だ。

限度オーバーも気にしているに違いない。

かつての俺も田村の罠に嵌り、深く傷ついた。

同僚や上司に裏切られた気持ちは痛い程分かる。

‘真剣に対応してあげなければな’

「凡その内容は分かった。
ところで、お前はまだ、市場に残っていたいのか? 
むろん、遠い将来のことではなく、今の話だ」

「はい、課長の下で仕事を続けたいと思ってます」

「そうか、ちょっと待ってろ」と言い、
携帯を取り出し、山下に電話を入れた。

「あっ、課長。どうでしたか?」
真剣な声だ。
余程心配していたのだろう。

「前島は大丈夫だ。
悪いが、前島の限度枠を今日付けで10本に訂正しておいてくれ。
また詳しいことは後で連絡する」

「課長、どういうことですか?」と前島が訝しげに尋ねてきた。

「お前は今日、正当な枠の中でポジションを取ったわけで、行内ルールを犯していないということだ。
そしてこれからは、これまでの倍のポジションを取れることになる。
不足ならもっと枠を増やすか」
微笑みながら答えた。

「いえ、10本で十分です。ありがとうございます」
深々と頭を下げ続けている。

「もう良い、顔を上げろ。
じゃ、俺は帰るが、山下に電話を入れておけよ。
その時、25と30(11円25、30)で5本ずつ、買いのリーブを入れておくと良い。
今週中にまだドルは上がる。
きっと利食える。
ただ、これは俺が特別に許可した月中の最後のポジション・テイキングだ。
10月に入るまではカバー以外に手を出すな」
きっぱりと言った。

’もうこれ以上、言うことはない’
そっと、部屋を後にした。

階段を下りかけたところで、
「課長、ありがとうございました。また頑張ります」
という前島の声が聞こえた。
寮中に響き渡る様な大声である。

 管理人夫妻がホールのテーブル席で待っていてくれた。
仲の良い夫妻である。

「お帰りですか?」
奥さんが言う。

「はい、今日は手ぶらで来てしまって申し訳けありません。
次回はお二人が好きだった‘岡埜栄泉の豆大福’を持ってきます。
あいつの件は、もう心配要りません。
昔の僕ですよ」
管理人夫妻はかつて俺が悩んでいたときのことを良く知っている。

「それは良かった。
かつての了君の経験が今日は生きたってところだな。
それじゃ、気を付けてな。
今度は泊りがけで来いよ。
いつでも部屋は空いてるから」

「はい、是非。それじゃ、失礼します」
と言い残し、プラドに乗り込んだ。
フェンダーミラーに手を振る二人の姿が映っている。
窓を開けて、手を振り返した。

帰路の途中で幾度も渋滞に巻き込まれ、神楽坂の社宅に着いたときには、時計の針は8時を回っていた。
‘今日も、宅配ピザだな’

ピザが届くのを待つ間、ベッドに横たわって目を瞑った。
疲れが出たのか、眠りに落ちた様である。
夢の中で携帯電話の鳴る音が聞こえる。
やがてそれが現実の音に変わった。

「了、私」
岬である。

「どうした?」

「来るのは金曜日よね?」

「ああ、そうだけど。何か都合でも悪くなったの?」

「うーん・・・。上手く説明できないんだけど、どうもここ最近、見知らぬ人がお店の様子を窺っているの。
母は夫が雇った私立探偵じゃないかって。
そう言われてみれば、そういう気もするの。
猜疑心の強い人だから、やりかねないわ」

「つまり、岬が誰かと付き合ってるかどうか、探ってるってことか?」

「多分。もちろん、了にこの間、会ったことも知らないし、他に疑われる様なことは何一つないわ」

「でも、そういう状態だと、金曜日は拙いな。
少し間を空けて様子をみた方が良いかも」

「そうね。でもせっかく了が奈川に来てるのに会えないのは残念だわ」

「実は、今まだ神楽坂にいるんだ」
前島の件を説明した。

「そうなの。大変だったのね。でもフライフィッシングはやりたいんでしょ?」

「まあな。でもこの際、釣りはどうでも良い。また10月に入って、状況が変わったらそっちに行くよ」

「分かった。なんだか貴方に迷惑をかけそうで、とても恐いわ。ごめんね」
涙ぐんでいる様だ。

「そこまで心配しなくて良いよ。
それじゃ何かあったら、連絡をくれ。おやすみ」

「おやすみなさい」

電話を切ってから、彼女が別居を始めた理由が少しずつ分かり出した。

 今回の奈川行きは取り止めにし、翌日から横浜の実家へ帰ることにした。

久しぶりに見る母の顔である。

中華街でペキンダックを奢り、みなとみらいでハンドバッグを買ってあげた。
母の喜ぶ顔を見ながら、‘早く結婚しないと拙い’という気持ちになったが、当分は無理そうだ。

かつて岬とロイヤルパークから夜のベイブリッジを延々と眺めていたことが思い出される。
‘もうあんな日は来ないのかも’

ドル円は木曜日に7月17日以来の高値水準となる112円72銭まで上昇し、112円前後で週末のニューヨークを終えた。
どこかで前島は利食えたはずだ。

7円32(107円32銭)から続いている一連のドル高局面で、調整らしい調整が入っていない。

この先の焦点はフィボナッチ水準の12円99(112円99銭)*だが、その直前に年初来高値18円60(118円60銭)を起点とする抵抗線が走っているし、来週は調整かな。

もっとも、10月に入るまではポジションを取らない。

深く考えるのは止めておこう。

(つづく)


*11円65: 118円66銭(昨年12月15日)と107円32銭の38.2%戻し
*12円99:同50%戻し

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第15回 「近づく9月末」

―――日本海上保険(JMI)運用部からの理不尽な要請を拒絶したが、その反動は思いのほか大きかった。

先方が他部署との取引をも見合わせると通達してきたのだ。

行内にも動揺の輪は広がったが、市場を歪めることはできない。
JMIの総意と良識を信じ、正攻法で押し切った。

果たして禍転じて福となす格好で決着が付いた。

旧知のJMI副社長有村が動いてくれたのである―――

 JMIの件で時間を取られ、収益回復が少し遅れてしまった。

9月末まで、それほど時間が残されていない。

自分の立てた目標を達成するためには、少しトレーディングのピッチを上げる必要がある。

気持ちだけは逸るが、相場付きが悪くなり出しだ。

週初の11日のシドニーで、8円05近辺でギャップアップ・オープンとなってしまったのである。

その前の週に年初来安値8円13を潰し、7円32を付けた後に7円85(107円85銭)で越週した。

その状況を考えて、週初はドルの下値をテストすると見ていたが、もはや市場にその雰囲気はない。

北朝鮮が建国記念日(9日)に軍事行動に及ばなかったことや、ハリケーン‘イルマ’の勢力が弱まったことが背景にあるとは言え、やや虚を突かれた感がある。

この先、ショートカットが出ることは間違いない。

先週9円台で作ったドルショートは8円70で閉じ、1.1880のユーロドルのロングも1.19台で閉じた。

とりあえず利を残したものの、明らかに相場感を失っている。
手詰まりだ。

ドルの上昇は節目々のドル売りで一時的に止まるが、下がらない。

ショートカットを巻き込みながら、その日のニューヨークでドル円は9円51まで吹き上がった。

翌日(12日)もドル円は110円を付け、戻り売りが機能しなくなった。

ECB理事会でユーロ高牽制が出るのを恐れ、少しずつユーロもオファー(売り)気配である。
ECBが実弾介入に出るはずもないのだが、ポジションがユーロ・ロングなのだ。

‘少し状勢を見極める必要があるな。焦るのは止めよう’

 そんな気持ちでスクリーンを眺めていると、嶺常務から電話が入った。

「常務から直接のお電話とは、何か急用でしょうか?」

「いやー、仙崎君、君のお蔭でJMIが大きな取引を持ち込んできてくれたよ。
IBT証券で100億の株式を購入し、国際フィナンス部にもJMIがリードする(幹事役である)シンジケート・ローンの話を持ち込んできてくれたそうだ。
さすが、君はわが行のエースだな。礼を言うよ。
まあ、そのうち一杯やろうじゃないか」

と言うと、一方的に電話を切った。

‘先週あれだけ俺のことを面罵し叱責していた人物が発した言葉とは思えない。
まあ良い、事が上手く運んだんだ’

それはそれとして、全く相場が読めないのが困った。
山下等のカバーは手伝っているものの、プロップ・トレーディング(ポジション・テーキング)ができない。

そんななか、ふとジェネラル・アカウント*(一般勘定)に目をやると、それまでマイナスだったトータル金額がプラスに転じている。

「山下、先週からアカウントに目を通す時間がなかったが、ジェネラル・アカウントがプラスになっている。何故だか分かるか?」

「はい、東城さんだと思います。
先週、課長が離席している間にドルを100本買ってました。
その収益が原因だと思いますが」

‘東城さんらしいな’
「そうか、少し東城さんの部屋に行ってくる」

 東城の執務室のドアを叩きながら、
「仙崎ですが、少しお時間、宜しいでしょうか?」

「おう、入れ」
声がドアと反対側に向かって発せられている様だ。
果たしてドアを開けると、皇居の森を眺める東城の後ろ姿が目に入ってきた。
‘相変わらず、背筋が伸び、凛としている’

「失礼します」

「まあ、座れ」
と言いながら、窓を背にした東城もソファーに近づいてきた。

「JMIの件ではお騒がせしましたが、首尾よく決着が付いた様です」

「そうらしいな。
さっき、嶺さんから電話があったよ。
それにJMIの有村副社長からもな。
お前に感謝していた。
お前から連絡を貰わなければ、会社の評判を落とすところだったと」

あっちで(ニューヨークで)、有村に東城の存在を話したことはあったが、お互いに面識はない。

‘東城さんに電話を入れてくるとは有村さんらしい気遣いだな’

「そうですか。良い方ですよね」

「ああ、これもお前をあっちに行かせたことの成果だな。ところで、話とは?」

「本部長、先週ポジションをお取りになったのですか?
ジェネラル・アカウントがプラスに転じてました。
どうもありがとうございます」

「なあに、礼を言われるほどのことじゃない。
お前がJMIの件で忙しそうだったから、少し手伝わせて貰っただけだ。
途中ヘッドウィンド(逆風)に吹かれたが、昨日からの動きで大分プラスになった様だな。
マイナスを出さなくて良かったよ」
と笑って言う。

‘うちの連中もドル売りに前掛かりになっていた。
敢えて東城はその逆を張り、彼等がロスを出したときの防波堤となったのである。

なかなか抜けきれなかった年初来安値8円13銭を抜いた後の相場で、もう少しドルが下押される可能性があった。
そんな局面での逆張りには勇気がいる。

凄い人だ。
この人の下で働けて良かった’

「確かに私のトレーディングが疎かになっていました。助かりました」

「まあ、たまには俺も市場に入らないと、偉そうなことも言えないからな。
それはそれとして、この数カ月お前には随分と働いて貰った。
お蔭で本部の4~9(上半期)は何とかなりそうだ。
海外もまずまずだ。
ニューヨークはお前が抜けた後、嵩上げこそ出来なかったが、それでもバジェットは達成しているし、他の海外店も問題はない」

「本当ですか。それは良かったですね。じゃ、前祝いですか?」

「調子づくな。それは9末(9月末)を越してからだ。
ところで、お前は夏休みらしい休みを取っていなかったな。
少し休め。

最近、人事も有給休暇の消化については神経質だ。
社宅でも仕事をせざるを得ないだろうが、それは為替ディーラーとしてのお前の宿命だ。
だがここでお前に倒れられたら、俺の監督責任になる。

それにうちもブラック企業扱いされかねない。
そろそろ長野の川も禁漁だろう」

「ありがとうございます。
それでは、来週にでも。
ただ、まだ自分の立てたターゲットに少しだけ届いていません。
それを熟してからということで」

「まあ、勝手にしろ」
苦笑いしながら、呆れた様子を見せた。

「ところで、人事の件ですが、年度末で山下と沖田を入れ替えようと思っているのですが、上に話を付けておいて頂けますでしょうか?」

「そうだな。山下もそろそろ、あっちへ行かせる時期だな。それに沖田も大分、長くなったし、了解した」

来月早々に一杯やることを約束して、部屋を辞した。

 翌日も相場が読み切れないまま、暫くインターバンクをサポートしながら、ジョビングに徹することにした。

ドルを買う気にもなれない、売る気にもなれない、そんな展開である。

週後半の木曜日になっても良く分からない展開が続き、早めに社宅に帰って海外の市場を見ることにした。
来週のFOMCを控えて、今日発表される8月の米CPIを見ておきたかった。

部屋に入ると、ダイニング・テーブルにメモが置かれていた。
母の字である。

‘お前の好きな稲荷寿司と煮つけを作っておきました。
酢飯だけど、念のために冷蔵庫に入れておきます。
お彼岸には帰ってくるのでしょうか? 
たまには父さんのお墓参りにでも出かけませんか。
健康に気を付けてください。母より’

少し感傷的になるが、頭を振って堪えた。

稲荷寿司と煮つけ、それにビールをデスクに運ぶと、マーケット専用のPCのスイッチを入れた。
時刻は8時過ぎである。
10円半ばで少しビッド気配。
CPI発表前だというのに、誰かがドルを買い出したのだ。

9時半、数字が発表された。
総合指数もコアも予想より良い。
ドルが跳ねた。

直ぐにニューヨークの沖田に電話を入れた。
「上はどこまでだ?」

「05(11円05銭)です」

「レベルは?」

「80 around(10円80近辺)」

「50本売ってくれ」
’8月4日の高値11円05は肝の水準だ。
ここを完全に抜けないのであれば、一旦は売りだ’

「81で出来ました」

「ありがとう。ストップだけ11円65で入れておいてくれ。忙しいところ、悪かったな」

「どう致しまして。何かあったら、お電話しますが、とりあえずお休みなさい」

ドルを売ったところで少し気が晴れた。
残りの稲荷寿司を口に頬張った。
‘やはり、お袋の作ったこいつは旨い’

落ち着いたところで、ラフロイグを飲みながら母親にメールを入れることにした。
BGMは Al Haig の ‘Duke’n’Bird 。
芸術的なピアノが良い。

「稲荷寿司、旨かった。どうもありがとう。23日に帰ります」
’少し気の利いたことを書こうとしたが、どうも母親宛てのメールは苦手だ。
短いメールになってしまったが、まあ由とするか’

実家は横浜の永田にあるので、社宅のある神楽坂からは少し遠い。
だが、母は時間を見つけては、社宅の掃除や夕飯の用意をするために、ここまで来てくれているのだ。
それを思うと、遠いなどと言ってはいられない。

 翌日の早朝、またもや北朝鮮が北海道を跨いでミサイルを発射した。
有事の円買いは9円半ばまでだった。
それでも、昨晩10円81で作ったショート・ポジションにとっては慈雨である。

北朝鮮の軍事的挑発に少し食傷気味となった市場は(ドル売り)円買いに積極的でなくなりつつある。
9円95で買い戻すことにして、後は様子見と決め込んだ。

そんな俺の様子を窺いながら、山下が例のごとく、
「来週はどうでしょうか?」と聞いてきた。

「フィボナッチ水準の11円65*をブレイクすれば、112円前半もありえるが、それにはFOMCのドットチャート(参加者の政策金利見通し)で12月利上げ見通しの人数が多く、イエレンの強いタカ派的発言が必要になる。

ただ、このところFEDの利上げ決定や観測はドルを下支えてはきたが、押し上げてはいない。

だから、11円65ブレイクは難しい様な気がする。

逆に11円65を超えられなければ、再び8円台への反落もあると思う」

「そうですか。それじゃ、少し静かにしておきますかね」

「そうだな。もう9月期の数字もほぼ固まった。
ここからはカバー中心で行く様に、皆に伝えておいてくれ。
来週は東城さんの命令で夏休みをとることにした」

「また松本方面ですか、岬さんと会えますね。
この間の話もまだ聞いてませんから、今度まとめて聞かせて下さい」

「あまり、上司をからかうな。ニューヨークへの転勤を取り消すぞ」

「えっ、それは困りますよ」

「大丈夫だ。東城さんにも伝えてある。それじゃ、来週は頼んだぞ」

その日のニューヨークは11円33を付けたものの、8月の米小売売上高が予想を下回ったことからドルが反落し、10円85で終えた。

(つづく)

*ジェネラル・アカウント(general account):
予期せぬことで生じた利益や損失を暫定的に処理するための勘定。通常は損失が発生することが多い。呼称は銀行によって異なる。

*111円65銭: 118円66銭(16年12月15日)と9月8日の安値107円32銭の38.2%リトレースメント

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。