第54回 「山下との再会」

火曜(12日)、10時40分羽田発JL006便でニューヨークへと向かった。
便はJFK(ケネディー空港)に10時35分に到着した。
ほぼ予定通りの到着である。

空港建物から外に出ると、タクシーを拾い、運転手に「Waldorf」と告げた。

JFKのあるクイーンズ地区とマンハッタン地区(島)とを繋ぐミッドタウン・トンネルで渋滞に巻き込まれ、ホテルまでは1時間半近くもかかってしまった。

’ウォルドルフ=アストリア´は内部のしつらえが金持ちが好みそうなアールデコ調で好きではない。
だが、支店がホテルから2ブロックのところにあり、利便性を優先した。

チェックインを済ませ、部屋に入ると人心地がついた。
そんなときにミニバーに向かうのは長年の習性である。

ミニバーからマカラン18年のミニボトルを取り出すと、琥珀色の液体をグラスに注ぎ終えた。
その液体をゆっくりと舌で転がしながら喉へと送り込む。
マカラン18年特有の滑らかな舌触りと喉越しが良い。
勝手にミニバー付きの部屋を選択したが、今回の出張は支店勘定だ。

2本目のボトルをミニバーから取り出すと、ソファーに座り、山下に電話を入れた。
「さっきホテルに着いた」

「お疲れ様です。
今晩はどうします?」

「おい、いきなり今晩の話か。
いや、何も構わなくていい。
勝手知ったる場所だから、適当にやるよ。

明朝、会おう」

「そうですか。

米朝会談で相場も大きく動きませんでしたが、こっちの連中は総じて‘やっぱりな’という印象を持った様です」

「俺も機内のテレビで大体の様子を見ていたが、‘トランプの、トランプによる、トランプのための政治ショー’って感じだったな。

まぁ、米朝騒動はどうでも良い。
それよりも、貿易摩擦と日米欧の金融政策の跛行性が当面の問題だろう。

いずれにしても、仕事は明日から始める。
宜しく頼んだぞ」

「了解です」

その晩は外出もせず、夕食もラウンジバーの軽食で済ませた。
ラウンジ・ピアニストが奏でるジャズ風にアレンジしたバラードが心地いい。

 

 

翌日、7時にホテルを出た。

アストリア・ホテルの番地は奇数番号の301 Park Avenue、支店も奇数番号の5XX Park Avenueである。

南北に走るAvenueでは、通りの東側の番地は奇数であり、ワンブロック北に上がるごとに100番ずつ増える。

支店はホテルと同じサイドにあり、歩いて数分のことろだ。

ホテルから支店までの間に幾つかのベンダーが並んでいる。
一つのベンダーでコーヒー、それにクリームチーズとブルーベリー・ジャムを挟んだベーグルを調達した。

支店のあるビルに着くと、セキュリティー・チェックで山下が待っているのが目に入った。

見慣れた笑顔を浮かべながら、
「お早うございます」と言う。

「暫くぶりだな。

また少し太ったか」
とからかった。

「まぁ、食いものが食いものですし」
体重増を隠そうともしない。

支店は20階と21階を使用し、ディーリング・ルームは21階にある。
リテール(窓口業務)は行っていないので、路面店舗はない。

21階に着き、エントランス・エリアに入ると、受付に2名のセクレタリーがいる。
20歳代半ばのジェシーと50歳前後のナンシーである。

二人とも相変わらず元気そうで、ハグで迎えてくれた。

受付の先を右に曲がり、通路を20メートルほど進むと左手にディーリング・ルームが広がる。
手前に為替部門、そしてその奥にマネー部門がある。

まだニューヨークを離れて1年程しか経っていないせいか、ローカル・スタッフ達は気軽に声を掛けてくる。

転勤族の若手は皆、近づいてきて挨拶をする。

時間が早いせいか、まだ年長の転勤族の姿はない。
‘彼らへの煩わしい挨拶をしなくて済む’

早速、山下のデスクの横に座った。
山際のデスクである。

さっき買ってきたベーグルを食べながら、山下に状況を聞くことにした。

 

 

「ところで、山際さんの体調はどうなんだ?」

「精神的にも大分参っている様で、ディーリングどころではないですね。
昨日から有給休暇をとっています。

東城さんからの命令の様です」

山際の体調のこともあるが、彼が支店で勤務していると俺がディーリングをできないのだ。
本店の人間が稼いだ収益を支店の収益とした場合、それは本店からの利益供与に当たり、税金の問題が生じる。

山際が病気療養で休暇をとり、そのカバーで俺が出張し、その間に稼いだ分であれば、支店の収益としても問題はない。

そのため、東城に山際を休ませる様に頼んだのだ。

「それで、幾ら稼げばいいんだ?」

「例の清水支店長からの話がなければ、このところの山際さんのヤラレだけです。
つまり、200万ドルほどでしょうか・・・」

「そっか、その程度なら、そんなに時間はかからないな。
ところで、デスク本来の収益は順調なのか?」

「はい、ほぼバジェット通りです」

「分かった。
清水さんは今、本店の会議で出張中だ。
そこで頭取が清水さんに今回の話をする予定だから、例の件は心配いらない。

とりあえず、200万ドルを稼ぐことにする」

「了解しました。

課長がいると、何でもできそうですね」

「甘えるな!
そんなことじゃ、この先持たないぞ。

7月に入れば、スイスの横尾さんが来る。
彼は仕事はできるが、人間性に問題があると聞く。

気を引き締めておいた方が良い」
山下のために、少し厳しい口調で言った。

彼は素直にそれを受け入れた様だ。

「さて、仕事に取り掛かるとするか」

「はい」

 

 

13日(水曜日)のニューヨークの午後、FOMCでFFレートの目標値が0.25bp引き上げられた。

利上げは大方の予想通りだったが、政策金利見通し(ドットチャート)で年内の利上げ回数が4回に上方修正されたことでドルが買われた。

ドル円は直前の10円台半ばから急騰している。

「山下、売れるだけ売ってくれ!」
一瞬の急騰・急落では、かなり特別な与件でない限り、相場の動きと逆のポジションを取る方が有効だ。

「75で20本、81で10本、あっ、急落しました」

「もう追うな。
おれも76で10本しか売れなかったが、もういい」

’合わせて、50本だけだが、一瞬の変化での深追いは禁物だ’

「上は85(110円85銭)までです」

「今いくらだ?」

「35around(110円35銭程度)です」

「全部買い戻してくれ」
‘肌感覚で下がらない感じがする’

「アベレージ、42です」

「了解。
ドル円は動きづらいな」

「そうですね」

「ところで、顧客のリーブ・オーダーは大丈夫か?」

「EBSとブローカーに置いておきましたから、問題ありません」

「そっか、それは良かった。
今日はもう止めておこう」

‘利上げ回数の上方修正はそれほど大騒ぎすることではないが、FEDがいよいよ引き締めモードに入った様だ’

その後のドル円は109円92銭まで下落したが、どことなくドルに底堅さが感じられる。

14日(木曜日)、ECBの理事会で「年末で資産の新規購入を停止する」と発表され、ユーロドルが1.17台から1.18半ばまで上昇した。

だが、その直後に「マイナス金利は少なくても来年夏まで維持」との報道が流れ、一挙に1.15半ばへと反落した。

ドル円もこれに連れて上昇モードに転じ、週末には110円90銭まで反発した。

ユーロドルのディールは全く乗り切れず仕舞いだったが、ドル円は揉み合いの中でそこそこの収益を上げた。

‘目標の200万ドルには遠いいが、来週から頑張るか’

 

 

週末の晩、グランドセントラル駅地下にあるオイスター・バーで山下と夕飯を共にした。
週末ということもあってか、結構混んでいる。

注文は山下に任せた。
オフィスにいるときよりも、レストランでの英語の方が上手く聞こえる。
’食い意地の張った山下らしい’

白ワインで数種類のオイスターを味わった後、支店の話に戻った。

「山下、どことなく店の雰囲気が暗いが、何かあったのか?」

「コーポレート・ファイナンス部門が別のコゲツキを出したらしいんです。
それで支店長が他部門にプレッシャーを掛けている様です。
それが原因かと」

「今度のは大きいのか?」

「1000万ドル程度とか」

「前の2000万ドルと合わせて、3000万ドルか・・・。
他で大き収益が出てないとすると、結構厳しい金額だな」

「そうですね。
山際さんへのプレッシャーの掛け方も異常でした。

誰の目から見ても完全にパワハラそのもので、
部屋に呼んで言うのならともかく、ディーリング・ルーム全体に聞こえる様な調子でしたから」

「そうか。
それじゃ、山際さんも辛かったはずだ。

話が暗くなったな。
今日は飲むか!」

「そうしましょう!」

 

 

昨晩飲み過ぎたせいか、ジェットラグの影響が出たせいか、翌日(土曜)の昼過ぎになっても頭が重い。

やっとの思いでベッドから出ると、国際金融新聞の木村へ来週のドル円相場予測を送るために、PCをWifiに接続した。

 

****************************************

木村様

今、ニューヨークに出張中ですので、簡単に済ませます。

市場が米欧の金融政策の逆行性を材料視しているので、まだユーロドルが下がりそうですね。

日米の金融政策も同様のことが言えますが、本邦の輸出や一部機関投資家がドル売り意欲を示しているので、ドル円の伸び代はそれ程大きくない気がします。

来週の予測レンジ:108円80銭~111円80銭

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

追伸
テレビ国際の出演は当分、部下の沖田に任せることにしました。

 

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第53回 「ニューヨークへ」

先週末に発表された米5月雇用統計は市場の予測を上回る好結果となった。

これで次回FOMC(12~13日)での25BPの利上げはほぼ確実となったが、市場の焦点はFRBの正常化ペースが加速するかどうかにある。

つまり、声明文や理事会後のパウエル議長の記者会見が重要ということだ。

他方、先月末から月初にかけて開催されたG7財務大臣・中央銀行総裁会議で、米国の貿易規制に対抗したG6が激高したため、G7はG6+1の様相を呈し出した。

世間の耳目は米朝首脳会談に集まるが、国際金融市場にとってはFRBの正常化ペースと米国絡みの貿易摩擦こそが主要な与件である。

ドル円は、週初(4日、月曜日)からFRBが正常化を加速させるとの観測や米10年債利回りの上昇で堅調に推移したが、110円に近づくと押し戻されるといった展開に陥った。

そうした109円台後半を中心とした揉み合い相場に多少変化が生じたのは週半ばのことである。
NYダウの大幅上昇と米10年債利回りの上昇がドル買いを煽り、ドル円が完全に110円台に乗ったのだ。

そんななか、NYの山下から電話が入った。

「お寛ぎのところ、済みません。
でも、きっと今もモニターを見てらっしゃるんですよね?」
時計を見ると、丁度日付が変わろうとしていた。

「ああ、ラフロイグ入りのグラスを片手にな。
どうした?
ドルがビッド(買い気配)だって話か?」

「ええ、それもあるんですが、山際さんの件でお話しておきたいことが」

「そっか、それじゃまず、ドル円の気配を先に教えてくれ」

「ダウの大幅高がドル買いの主因ですが、買い筋はショートカットとイントラデイのロングかと。

高値は今の処、22です。

ただ、うちにも50(110円50銭)以上に生保と自動車の売りオーダーが300本近くあるので、10円前半が一杯かと思います」

「分かった。

この上のテクニカルポイントはどこだ?」

「27がフィボナッチです」

「どの値幅のだ?」

「13円75(113円75銭:昨年12月の高値)と4円64(104円64銭:年初来安値)ですが」

「61.8か・・・。

リーブを頼む。

20の売り50本、25の売り50本」

「了解です。

ところで山際さんの件ですが、清水支店長が相変わらず例のグレー債権の償却で、各部署にプレッシャーを掛けてる様です。

そこで、山際さんがポジションを取る様になったのですが、ロスばかりで・・・。

もう山際さんの体調や精神状態を考えると、ポジションを取れる様な状況じゃありません」

「それは妙だな。

先日の役員会議で、頭取の本部制遵守の意向が嶺常務経由で清水支店長のところに届いているはずだが。

‘21日の株主総会を控えて18日に国内外の主要拠点のトップが集まり、その際に頭取が彼らとも面接し、本部制の指揮系統に乱れはないかを再確認する’、それが頭取の考えだ。

だから、お前の言ってる通りだとすれば、日和同士の慣れ合いが続いてることになる」

「そうですね。

でも、山際さんは私に一切収益増の話をしてきませんが」

「それが山際さんという人物だ。

だから、俺はお前をそっちに送り出した。

だけど、彼が体調を崩したため、スイスの横尾さんと交替することになってしまった。
これは誤算だったけどな。

いずれにしても、嶺さんと清水さんの悪だくみの件は俺が預かる。

ところで、山際さんのロスはいくらになる?」

「ざっと、200万ドルです」

「そっちの損失としては大きいな。

この件も俺が預かる。

少し考えさせてくれ。

それじゃ、切るぞ」

翌日(7日、木曜日)、ディーリング・ルームに入るなり、デスクの部下全員に聞こえる様に「お早う」と声をかけた。

全員が「お早うございます」と言う。

ミーティングを終えると、東城の執務室に向かった。

ノックと同時に、
「仙崎ですが、宜しいでしょうか?」と声をかけた。

「おう、入れ」
といつもの落ち着いた声がドア越しに心地良く響く。

ドアを開けると、ソファーの方に手を向けながら
「まぁ、座れ」と言う。

言われるままにソファーに腰を下ろし、
「申し訳ありません。
電話でご都合もお伺いもせずに」
と詫びた。

「いや、そんなことはいい。
そんなときのお前の要件は、重要かつ緊急と決まってるからな」
渋い顔に笑みを浮かべながら言う。

「まぁ、そうですね」
笑って返すしかなかった。

「それで?」
重要書類を読んでいるところなのか、東城は執務机から離れないで聞いてくる。

「ニューヨークのグレー債権の処理については、本部長のお計らいで役員全員に頭取の示唆があったと了解しています。

ただ、現実にはそれが無視されてるやに聞いております」

昨晩の山下の話をありのままに伝えた。

「なるほどな。
十分にありえる話だ。

頭取には連絡しておく。
嶺さんと清水さんにも弱ったものだ。

だけど、お前の話はそれだけじゃないな?」

‘すべて見抜かれている’

「はい、話は二つあります。

一つ目は、山際さんを一刻も早く、こっちに戻すこと。
そして二つ目は、山際さんのロスを取り戻すことです」

「一つ目は、可能だ。

だが、二つ目は少し難しいな。
お前があっちにでもいれば別だが・・・」
もう俺の考えていることを見抜いてる様な口ぶりだ。

「はい、‘そのあっちにいれば’を考えています。
ご許可、頂けますでしょうか?」

「それで何時行く」

‘東城との話は早くて良い’

「来週中にでも」

「そうか、分かった。
しかし相変わらずだな、お前ってやつは」
二人同時に発した笑い声は異常に大きい。
笑い声は部屋の外のディーリング・ルームへと響き渡る。

部屋を辞するとき、
「気を付けてな」
という穏やかな声を背中で聞いた。

ドアを閉め終えると、あらためて深々と頭を下げた。

金曜日(8日)の海外でドル円は9円20(109円20銭)まで下落した。

海外時間の8日から開催されるG7サミット絡みの不透明感から逃避通貨の円が買われたとメディアは報じるが、そんなことは関係ない。

所詮はポジション調整に過ぎない。

110円台のショート100本は、9円55(109円55銭)と9円25で利益を確定した。

土曜日の晩、デスクに向かいPCにログインすると、outlookをクリックした。
国際金融新聞の木村に来週のドル円相場の予測を書くためである。

木村はG7サミットの取材でカナダのケベックにいるが、通常通りメールを入れてくれと言う。

時ならぬ暑さに見舞われ、喉が渇いて仕方がない。
ハートランドをボトルごと口に運びながら、キーボードを叩き出した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

木村様

出張、ご苦労様です。

サミットでは貿易摩擦の具体的解決策が出るはずもなく、土産話は期待していません。

どうせ先週のG7財務大臣・中銀総裁会議と同じで、G6+1の様相でしょうね。

来週も今週と同様に109円台を中心とした揉み合いかと思いますが、依然としてバイアスはドルベアです。

ただ、幾つかイベントがあるので、週足は予想外に長い上髭・下髭を引くかもしれません。

予測レンジ:107円50銭~110円75銭

気を付けて、お帰りください。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(つづく)

第52回 「それぞれの道」

「了、私、MoMAに行くことに決めた。

恐らくは私が継ぐことになる母の店、このままではダメになると思う」

そう切り出すと、岬は自分の思いをしっかりとした口調で語り始めた。

「店のロケーションやクラフトの品揃えなど、色々と問題を抱えている。
だから、母がまだ働けるうちに、将来の店の構想を考えておきたいの」

そのために、‘MoMA*で働きながら勉強したい’と言う。

岬はかつてニューヨークの大学に留学していたが、その頃ボランティアで、MoMAの案内係をしていたと言っていたのが思い出される。

その時の担当上司にMoMAで働きたい意思を書いてメールしたところ、丁度この夏に一人空きができるから、受け入れても良いということになったらしい。

‘こういう時の彼女はもう後に引かない。
ここは潔く送り出すしかないな’

「そうだな。

ここ数カ月、岬は大学の聴講生として工芸を学び、一生懸命に勉強してきた。

折角の良いチャンスだから、あっちで頑張ってこい。

きっと、岬と店の将来に役立つと思う」

「ありがとう。

だけど、了とは結婚はできなくなる。

それでも、良いの?」

「良い訳はないけど、‘行くな’と言ったって行くんだろう?」

「そうね。

了なら、幾らでも相応しい女性が見つかるから、もしそうなったら小母さんのためにも早くそうしてあげて」

少し気乗りしない感じで言う。

「まあ、そういうことがあるかも知れないけど、今はそんなことはどうでも良い」

それから暫く、二人は昨年来の出来事や付き合っていたときの思い出など、とりとめもない話しをし続けた。

ソファーの左側で少し俺に体を預けながら話をしていた岬だが、いつの間にか話が途絶えた。

ふと見ると、小さな寝息を立てている。

クラフト・フェアの運営で疲れたところに、炭酸水で割ったグレンリベットの酔いが回ったのかもしれない。

そっと彼女をソファーに横たえると、洋服ダンスの上の棚に置いてある予備の毛布を取り出し、掛けてあげた。

 

まだソファーで寝入っている岬を後にして、早めに東京に戻ることにした。

フロントで精算を済ませる際、係が‘こちらをお預かりしています’と言い、封筒を渡して寄越した。

岬からのものである。

‘俺が寝ている間に、自分が先にホテルを出ようと思い、予めフロントに預けておいたのだろう’

そんな彼女がとても愛おしく思え、部屋に戻りたくなったが、辛うじて気持ちを抑えた。

開けると数枚の便箋が入っている。

‘長文だな。

岐路の途中、何処かのサービスエリアで読むことにするか’

 

松本インターから長野自動車道に入り込んだ。

時間が早いせいか、それほど車は多くない。
まだ銀嶺の北アルプスを眺めながら、走行車線をゆっくり走る。

フライフィッシングでは訪れることがあっても、恐らくはもう岬に会う目的では来ない場所だ。
感傷的になる気持ちを抑え込むように、アクセルを力任せに踏み込んだ。
スピードメーターが130キロまで上がったところで、ペダルを少し緩めた。

手紙を読もうと立ち寄った横川インターに着いたとき、時刻は8時を回ったところだった。

丁度スタバが開いたところである。
トールラテとサンドウィッチを手にして、まだ誰もいないテラスに腰を下ろした。

ジャケットの内ポケットから手紙を出すと、一気に読み通した。

詫びの言葉とこの1年間の礼が書かれている。

その中の一文が、再び心を複雑にした。

・・・・・もしも、もしもね、将来、了と一緒になることができたら、クラフトの店にカフェを併設したい。

そのとき、カフェのマスターが了だったらと思ってる。

笑わないでね・・・・・

‘笑わないでねか。

50歳も過ぎれば、そんな光景に心地よさを感じるのかもしれないけど、当分ありえない話だな’

苦笑いがこぼれた。

この時間の軽井沢近辺はまだ寒い。

少し冷めかけたラテを喉に流し込んだ。

テラスのイスから立ち上がり、深呼吸をすると冷たい空気が肺に沁み込む様である。

‘さて、東京まで一気に飛ばすか’

社宅に帰ったら、何かとすることもある。
そして夜にはテレビ国際に出向かなければならない。

 

週初(28日、月曜日)は、ロンドン・ニューヨークは休場だが、イタリアやスペインの政局が混迷するなか、市場にはどことなくリスク・オフのムードが漂っている。

沖田によれば、’リスク回避で円が買われている’と言う。

‘リスク回避の円買いか。

リスク満載の国の通貨円が有事に買われるか、笑えるな’

翌日(29日、火曜日)、ドル円は一挙に108円12銭まで下落した。

ポピュリズムが席巻するイタリアやスペインでの政治不安が、ユーロ圏の遠心力を強めている様だ。

ユーロ売り円買いにドル円も連れている。

だが、週末には米5月雇用統計がある。

イベントを控えて、週半ばからポジション調整が入る可能性が高い。

翌日(30日、水曜日)の早朝、どことなくドルにビッド気配が漂う。

「沖田、少しビッドだな?」

「はい、少し戻すかもしれませんね。

例のポジション締めますか?」

111円台前半でのドルショートのことを聞いている。

「そうだな。

できれば、7円前半(107円台前半)とも思ったが、週末までの時間を考えると、ここで利食っておくべきかな。

50本買ってくれ」

「45(108円45銭)です」

「了解、後の処理は頼む。

野口、ユーロドルの感じは?」

「昨日のニューヨークで自分も売ってみたのですが、どうも押し戻される感じを受けます。

朝のミーティングでお話した様に、買い手はスイスやロンドンのファンドみたいですが、恐らくは利食いだと思います。

ここ(1.1500)は一応節目なので、一旦戻ると考えています」

「分かった、シング(シンガポール)で50本買ってくれ」

「38です」

「OK、それは1.1975の利食いで処理しておいてくれ。

それにしても、やけに素早くプライスが出てきたのが、気に入らないな。

野口、ここはショートカットを狙って、買っておくか。

100本買ってくれ。

小野寺、野口を手伝え」

「はい」
と小野寺が元気良く答える。

少し間をおいて、

「全部で130本買いました。
32で50本、35で50本、36で30本です」

「そっか、それじゃ、お前の分は32でいいぞ」

「ありがとうございます」

「あまり、長く持ちたくないポジションだが、一カ月半のトレンド線が抜ければ、少しは儲かりそうだな」

「どの辺でしょうか?」

「100も抜ければ、御の字かな。

あまり、グリーディーにならない方が良いと思う。

16ハーフ(1.1650)で利食い、15丁度(1.1500)givenでストップを入れておいてくれ」

「了解です」

 

週末(6月1日)、米5月雇用統計が発表された。

NFP、失業率共に、事前予測よりも良い結果となったことを受けて、ドル円は109円73銭まで買われたが、ドル買いは続かなかず、109円半ばで週を越えることとなった。

イタリアでは連立政権が樹立される見通しとなり、ユーロの下落は一服した様だが、ユーロ圏にポピュリズムの輪が広がる気配が残る。
まだまだ予断を許さない状況が続きそうだ。

11月に米中間選挙を控えてトランプ政権の無手勝流の通商戦略が続く。

‘非核化先行、見返りは後’というリビア方式を迫る米国、段階的な非核化という甘い期待を抱く北朝鮮、米朝首脳会談の行方も不透明だ。

当分は混沌の中で市場は揺れる。

‘このところ、課も自分も収益は順調だ。

こういうときに、筋読みをしてポジションを持つ必要はない。

市場の動きに任せてポジションの偏りを待つに限る’

 

土曜日の晩、岬からメールが届いた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この間は松本に来てくれて本当にありがとう。

前向きに生きてみる。

そして、もしかして、遠い将来、あんな夢が叶うと良いとも思う。

だから、了がクラフト・フェアに出向いてくれたこと、本当に嬉しかった。

ビザが下り、出発の日が決まったら、また連絡する。

了のことを本当に好きな「みさき」より

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

簡単に返すしかなかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

頑張れよ。

俺が50歳を過ぎてもまだ独身だったら、岬の描いている遠い夢が叶うかもな(笑)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

もう梅雨に入る。

心もそんな感じだ。

こんな季節に似合う Kiev Acoustic Trio の ‘Moment’を Bose のMusic System に押し込むと、ラフロイグをショット・グラスに注いだ。

そのグラスをデスクに運ぶと、PCにログインし、Outlook のアイコンをクリックした。

国際金融新聞の木村に来週のドル円相場予測を送るためである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

木村様

結構重大な与件が飛び交い出しましたね。

そちらは書くことに困らなくて良い、そんな状況でしょうか。

ドル円相場ですが、依然としてドルの上値は重たいと感じています。

与件は沢山あるから適当に拾ってください。

ところで、ユーロ圏絡みの与件は少し、否結構大きな問題に発展するかもしれませんね。

やはり、OCA(最適通貨圏)*の理論に依拠したユーロ圏の将来は、つまりユーロの将来は明るくないのかもしれません。

来週の予測レンジ:107円20銭~110円70銭

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

(つづく)

 


*MoMA(The Museum of Modern Art)についての記述は架空のことであり、事実ではない。仮にそうした事実があったとしたら、それは単なる偶然に過ぎない。

*OCA(optimum currency area)の理論は、複数の国が共通通貨を利用する場合、どの様な条件が整えば最適な経済域が成立するのかを追求している。

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第51回 「岬の決意」

「俄かロングがこの先も踏み止まれるかどうかに疑問があります。

10円台(110円台)の売りを飲み込みながら買っているので、彼らも苦しいはずです。
12円を見る前に一旦落ちても不思議ではないですね。

予想レンジは108円65銭~111円90銭です」

と今週の相場予測を伝えた。

今週の相場は正にそんな展開となった。

週初(21日、月曜)こそ、ドル円は111円39銭を付けたものの、翌日(火曜)から上値が切り下がり出したのだ。

トランプ米大統領による米朝首脳会談の延期示唆や‘輸入車に25%の関税を賦課する’という示唆がドル売り円買いを誘発し、俄かロングの落としを誘ったのだ。

水曜に心理的節目の110円を割り込むと、木曜には一挙に108円96銭まで下落した。

そんなドル円相場も、週末(金曜)のトランプ米大統領による「今後の(米朝)首脳会談は6月12日に開催される可能性すらある」という発言で、地政学的リスクが後退し、下げ止まった。

だが、米10年債イールドは3%を割り込んだままで、軟調なドルの地合いは変わらず、結局109円40銭前後で週を跨いだ。

111円20銭と30銭で振った都合100本のドルショートは上手く機能した。

109円台前半で50本は利食ったが、残り50本はキープしたままである。

ユーロドルは1.16台へと沈み、先週からキープしている1.1975のユーロドル50本のショートも相当に利が乗っている。

金曜のニューヨーク市場を見届けた後、月曜は休むことを決めた。

土曜日の午前中、国際金融新聞の木村にメールを送った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
木村様

来週は揉み合う展開と見ますが、バイアスはドルの下方リスク。

再び110円台に乗る様であれば、111円を覗く可能性もありますが、そこからは上値は重たいと予測します。

下値圏では108円65銭が肝で、ここが抜ければ、107円台前半も。

予想レンジ:107円25銭~110円80銭

簡単で申し訳ありません。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

木村にメールを送った後、沖田に電話を入れた。

「来週の月曜、休むが、いいか?」

「はい、問題ありません。
今週はたっぷり稼いだ様ですから、存分にロッド(竿)を振ってきてください」

‘俺がフライフィッシングに出かけると思ってるらしいが、今回は無理だろうな’

「ありがとう。
それじゃ、休むことにする。
時折、電波が届かない処にいるかもしれないから、その時はお前に一任だ」

「ええ、今週の課長の稼ぎ、全部飛ばすかも知れませんけど」

「お前なら、そんなことはないと信じてるよ。

一応、ドル円50本の利食いは、10円10銭(110円10銭)takenで入れておいてくるれか。
Minimum profit だが、無いよりましだ。

そこが抜けなければ、放っておいてくれ。

ユーロドルもそのままでいい」

神楽坂の社宅を出たときには、既に11時を回っていた。

車は早朝に四ツ谷のトヨタレンタカーで調達してきたプラドである。
関越道・長野道を一気にプラドを駈り、更埴ジャンクションで松本方面へと向かった。

快晴の下、高速をひた走るのは気持ちが良い。
途中、横川SAのタリーズでコーヒーを飲みながら休憩しただけだが、全く眠くならない。

‘最高のドライブ日和だ’

安曇野インターに差し掛かると右手の遠方にまだ雪を残す北アルプスの連山が眩しい。

ふと、Yoshiko Kishino の アルバム 「face」が聴きたくなった。
トラックに‘凛嶺(rinrei)’が入っているからだ。

木住野はこの楽曲を‘雄大で凛とした立山連峰をイメージして作った’という。

かつて岬と付き合っていた頃、‘松本市街から北アルプスを見ると、勇気が湧いていくるの’と彼女が語ったことがあった。

‘凛嶺’のメロディーが岬の言葉と重なって流れる。

‘無性に当時が懐かしい。
もう時間は取り戻せないのか。

9年前に、田村の罠に嵌まり、ディールで1億円のロスを出した。
そのことがきっかけとなって、‘強く握っていた’はずの岬の手を放してしまったことが悔やまれる’

そんな後悔の念が脳裏を強く叩き出したところで、プラドは松本インターに着いた。

インターから20分程のところに宿泊予定のホテル・ブエナビスタがある。
岬と初めて結ばれたホテルだ。

チェックインを済ますと、客室係が12階にあるエグゼプティヴ・ゲストルームへと案内してくれた。

係が部屋を出ていくと、ツインベッドの一つに体を投げ出した。

‘もう何を言われようと、岬の好きにさせておくしかないな。

坂本と結婚した後、岬は長い間苦しみ続けたきた。
そんな今の彼女にとって、俺と結婚することだけが幸せではない’

そんなことを考えているうちに、寝入ってしまった様である。

大分寝た様な感覚で目覚めたが、この時期の日は長い。
時計に目をやると、6時半である。

一人で所在がなくなり、‘縣倶楽部’へと出向くことにした。
‘縣倶楽部’は岬の伯父が営む小料理屋である。

松本では毎年5月の最終土日にクラフトフェアが‘あがたの森公園’で開催される。

初日のこの日、フェアを目当てに県内外からの観光客やクラフトマニアで街は結構な賑わいだ。

岬が以前、‘松本クラフト・フェアは規模・レベル共に日本一よ’と自慢げに言っていたが、
街の賑わいでそのことが良く分かる。

ホテルを出て20分ほどで‘縣倶楽部’に着いた。

季節の良いこの時期、店の一間引き戸の片側が開いている。
暖簾をくぐる様にして入ると、岬の伯父がカウンターの向こうで忙しそうに動いているのが見えた。

「今晩は」と声を掛ける。

「おっ、了さん、やっと来たか」と岬の伯父が応えてくれた。
待ちわびていてくれた様子が声の調子で分かる。

「空いてますか?」

「岬から了さんが来るかも知れないって聞いていたので大丈夫ですよ」

「久しぶりですね。
今日はフェアの初日で店が混雑していて話相手になれないけど、
旨いものを出すからゆっくりしてってください」

「それじゃ、料理はお任せで、アルコールはビールの後に辛口の冷酒にします」

二杯目の冷酒飲み終えたところで酔いが回った。
話し相手のいない、外での一人酒は酔いが回るのが早い。

早々に店を後にして、ぶらぶらと歩きながらホテルへと戻った。

ホテルの部屋に着いたところで、岬に電話を入れた。

「今、伯父さんの店で飲んできたところだ。

ホテルはブエナビスタにした。
部屋番号は12XXだ。

明日、来られそうか?」

「ええ、フェアの打ち上げの途中で抜けるわ。

多分、8時頃になると思う」

「分かった」

「了は明日の日中、どうするの?」

「気が向いたら、奈川。

そうでなかったら、‘あがたの森’にでも行ってみるよ」

「本当に!

了がクラフトに興味を持ってくれるととっても嬉しいわ」
何故だか本当に嬉しそうな声を返してきた。

「へぇー、そうなのか。

意味が良く分からないけど。

それじゃ、明日の晩、待ってるよ」

「おやすみなさい」

‘俺がクラフトに興味か・・・’

結局、翌日の日曜日は奈川に行かなかった。
プラドを飛ばせば、1時間半ほどで行ける場所だが、体が動かなかった。

昼頃、クラフト・フェア会場の‘あがたの森’へと足を向けた。

確かに人気のフェアの様だ。
誰もいなければ、広々とした公園だろうに、人で埋め尽くされている。

人混みを縫う様に園内をザーッと一回りすると、どっと疲れた。
クラフトを見るどころではない。

やっとの思いで公園の外に出ると、旨いコーヒーを飲みたくなり、気に入っている‘まるも’へと足を向けた。

ここも凄い混みようで、店の外に待ち客が並ぶ。

‘こんな日もあるか’と思いつつ、コーヒーも飲まずにホテルへと戻った。

岬が部屋にやってきたのは8時過ぎだった。

「打ち上げ会、上手く抜けられた様だな」

「ええ、結構な人数に上るので一人ぐらい抜けても分からないの」

「そっか、それは良かった」と言うと、いきなり岬が胸に飛び込んできた。
愛おしさに力を込めて抱きしめた。

息苦しくなったのか、少し俺を後ろへ押しながら「シャワーを浴びてくるね」と言って、バス・ルームへと消えて行った。

30分後、バスローブ姿の岬がベッドで寝転ぶ自分の方に近づいてきた。
少し痩せて見えた。

それを確認する様に抱き寄せると、やはり少し痩せた感触が伝わってくる。

’フェアの準備で忙しかったのだろうか’

二人が結ばれたのは、岬が失踪した冬の奈川以来のことである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

薄明りの下、
「了、話があるの」と恐々と岬が声を出す。

「この間言ってた、真剣に考えてっるて話のことか?」

「ええ、真剣なの」
少し泣き声である。

‘Head wind(向かい風)のポジションか・・・。
市場の向かい風には慣れているが、この向かい風は手強いな’

(つづく)

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第50回 「失われた方向感」

週初月曜日(14日)の早朝、ドル円は小緩んだものの、9円(109円)を割り込む気配は失せていた。

持ち込まれる顧客のフローもドル買いばかりだ。

「沖田、上手く捌けてるか?」
場の感触を確かめるのには、インターバンク・ディーラーの肌感覚に頼るのが良い。
沖田は人一倍その感覚が鋭く、意見も頼りになる。

「はい、少し捌きづらくなってきたのは事実です。
この状態が続くと、カバーするので一杯一杯でしょうか」

‘時間を追うごとにビッドになって行く感じがする’

「そっか、そんな感じか。
10円台の客の売りオーダーも先週末の半分に減ってるな。
先日から持ち続けてる90(109円90銭)の売り50本、手仕舞っておくか。

どうも今週は上だな」

「そうですね。
10円(110円)は2回蹴られて、今度で3回目ですか。
抜け頃、落ち頃ですが、場から受ける感触は上でしょうね」

「大京(大京生命)をはじめとした8円台後半の資本の買いオーダーは300本か。
この状況だと、彼らは買い水準を上げてくるな。

もしかすると、今日の午後にでもリーブを外して、買ってくるかもしれない。
沖田、カバー用として150本、上の売りの手仕舞い用に50本、合わせて200本買うことにする。

それと、ユーロドルを100本売る。
ドル円は一連の流れで利益こそ出ているが、居心地が悪い中での稼ぎだ。

その点、ユーロドルは自信を持って臨めそうだ」

「であれば、資本が買ってくる前に、私もカバー用にドル円50本、買っておきます。
どんな感じでやりますか?」

「そうだな。
ドル円は時間差を付けてこっちとシング(シンガポール)で買う。

ユーロドルは戻り売りのリーブで行く。

始める前に、マイクにメールを入れておくから少し待っててくれ」

「了解です」

 

沖田との打ち合わせを終えると、直ぐにマイクにチャット・メールを入れた。
マイクはコロンビアMBA時代の親友で、コネティカットでヘッジファンド‘パシフィック・フェローズ’のCEOである。

俺が大きく動くときは、彼に連絡することにしているが、それは自分のためでもあり、そして彼のためでもある。

‘Hi, Mike!
How are u doing?’

‘I’m all right.
How abt yourself?’

‘ Tks, fine same as usual.
I don’t have much time, tdy.
Just a point.
I’ll buy usdjpy here.
Institutions are likely to buy it’

‘Gotcha!
I’ll follow u.
Tks.
Oops!
I’ve got a phonecall.
One second’

‘急ぎの電話の様だ’

‘I’m back.
Here’s a present for u.
There’s a rumor Italy will ask ECB to reduce their debt.
This is just a rumor, but may be useful.

Good Luck!
I’ll let u go’

‘Talk to u soon.
Bye now’.

「沖田、マイクへの連絡は終えた。

イタリアがECBに債務の減額を申請するという噂があるらしい。
メディア・ネタにはなるな。
ヘッドラインだけでも、ユーロ売りだ。

それはそれとして、ドル円を仕込むとするか。

まずはこっちで小刻みに150本を買い、ビッド気配を作っておく。
これで恐らく、30(109円30銭)以下に落ちづらくなると思う。

その後、100本をシングとこっちで分けて買う。

小野寺と一緒にすべてを1時間以内に終わらせてくれ」

「了解です」
沖田が小野寺を呼び、手配を始めた。

「野口、ユーロドル100本売りたいが、どこまで戻りそうだ?」

「1.20は無理かと思います。
1.1975辺りでしょうか・・・。

やはり、売りでしょうか?」

「だろうな。

どうもドイツをはじめ、ユーロ圏の景気動向が悪化しているのが気になる。
この状態では、ECBの正常化は儘ならないはずだ。

それに、ほぼ利上げと同じ意味を持つユーロ高はECBにとって好ましくない。
ユーロ安は外需増効果がある一方、正常化(緩和解除)の環境を整えるのに都合が良い。

何よりも、IMMの投機的ユーロの買い越しが相当残っているのが気になる。

ともかく、リーブを頼む。

お前が推薦する1.1975で100本の売りをuntil further noticeで出しておいてくれ。
ストップロスは不要だ」

「了解です」

 

一時間後、沖田からディールの結果が届いた。

沖田の分と合わせて250本、9円28銭(109円28銭)で仕上がった。

「沖田、利食いに充てる50本以外は、全部客のカバーで使っていいぞ」

「ありがとうございます」

ドル円が上がり始めたのはそれから30分後のことである。
大京をはじめとする大手生保や有象無象の客がドル買いに動き出したのだ。

沖田が隣で大口のフローを捌いているが、余裕でこなしている。
予め買っておいて分は客に全て持って行かれたが、それで良い。

インターバンク・ディーラーのこうした対応は、自らのカバー業務の助けになる一方、顧客にも良いプライスを提供できるというメリットもある。

そして、それが顧客のフローを増やし、コーポレート・デスクへ収益をもたらすのだ。

 

その日以降、ドル円は上がり続け、週末には11円08(111円08銭)まで跳ねた。

ユーロドルは1.1996まで戻した後、週後半に1.1750まで下落した。
50本を利食い、残りの50本はそのままキープした。

方向感を失ったドル円とは逆に、ユーロドルの方向は合っている。

‘このまま、根っこのポジションになればいいが・・・。

米中通商交渉が縺れるなか、そのトバッチリがドイツの対米黒字話に向かえば、米国サイドからのユーロ安牽制に繋がりかねない、それだけが気懸りだ’

 

ドルが上昇した今週、インターバンク・デスクも上手く乗り切り、コーポレート・デスクの収益も上出来だった。

まずまずの気分で迎えた週末の土曜日だが、少しだけ憂鬱なことを抱えている。

昨日、テレビ国際の中尾からメールが送られてきた。

‘俺のコメンテーターとしての評判は良く、視聴率が上昇していることに感謝している。

だが、コメントがいささかマーケット・オリエンティド(市場寄り)になっているため、修正してくれ’

という趣旨のことが書かれていた。

面倒なことは早く片付けておくのに越したことはない。
その日の内に、返事を書いて送った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

中尾様

御趣旨は良く分かりました。

しかしながら、私は為替市場という現場で体を張っているディーラーであり、コメントがマーケット・オリエンティドになるのは当然かと考えています。

仮に私のコメントが番組の趣旨を曲げているとすれば、中尾様や貴局にご迷惑を掛けることになりかねません。

従って、差し障りのない、通り一遍の講釈を得意とする人物をあなたの横に座らせては如何でしょうか?

他の銀行や総研のアナリストなど、テレビに出演したい人間は山ほどいる様ですから、私の後釜にお困りになることはないでしょう。

来週の月曜日からという訳にはいかないでしょうから、今月最後の月曜日までは出演させて頂きます。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

話がこのまま終わるハズがないことを承知の上で送ったメールである。

その日のうちに、中尾から電話があった。

「メールでの依頼の仕方が悪かった。
撤回したい」
というのが電話の趣旨だったが、最後に「詫びとして、近いうちに一席設けます」という言葉が付け加えられた。

‘本件、手仕舞いまでに時間がかかりそうだな’

憂鬱な気分を引き摺りながら、週末の一日が無下に過ぎて行く。

 

夕飯は神楽坂のイタリアン・レストランで済ませた。
その帰り道、国際金融新聞の木村から電話が入った。

「今晩は。
これからメールを打とうと思ってたところです」

「いや、話は相場の件じゃないんです。

例の番組、テレビ国際の若手局員によると月曜の視聴率が相当上がったそうで、それをお伝えしようと思いまして。

月曜の視聴率が上がったということは仙崎効果ですから、仙崎ファンの私としても嬉しい限りですよ」
本当に嬉しそうな声を出して言う。

「そうですか・・・。
それはそれで悪い話じゃないんですが、例の彼女にはあまり嬉しい話じゃないみたいですね」
昨日の経緯を話した。

「そんなことがあったんですか。

他の曜日も視聴率が上がったのであれば、彼女の実力や番組構成の成果ですが、月曜だけだとそうではないことになる。

それは彼女にとって都合の悪い出来事ですね」

‘先日若手局員が、
「これは今、視聴者から局に送られてきたメールの一部です。
中尾にも渡されているものですが、仙崎さんにお渡しすることは伏せてあります」と言っていた意味が少し分かってきた’

「結構、彼女も崖っぷちに立たされてる様ですね。

木村さん、暫く放っておきましょう。
仕事以外の悩み事は増やしたくないんで。

頂いた電話ですが、ついでに来週の相場の話をしておきます。

うちでも今週、結構資本が入ったのは事実です。
ただ、俄かロングがこの先も踏み止まれるかどうか?

10円台(110円台)の売りを飲み込みながら買ってるので、彼らも苦しいはずです。
12円を見る前に一旦落ちても不思議ではないですね。

予想レンジは108円65銭~111円90銭です」

「そうですか。
分かりました。
後は適当に埋めておきます。

それでは、失礼します」

‘視聴率か・・・。
キャスターって仕事も大変だな’

 

社宅に戻ると、冷蔵庫からハートランドのボトルを出し、栓を開けた。
グラスに注がず、ボトルのまま口に運んだ。
いつもより、少し苦い感じがした。

BGMはKeith の ‘Standard, Vol.2’。
どのトラックのタイトルも、岬を失いかけている今の俺には相応しくないが、Keithのピアノが軽快なのが良い。

In love in vain
Never let me go
If I should lose you

‘それにしても暗いタイトルが多いな・・・’
自然と苦笑いが漏れる。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第49回 「久々のTV出演」

テレビの経済番組に出演するのは久々のことである。
昨年の今頃までニューヨークのテレビ局の経済番組に出演していたが、それ以来のことだ。

番組の放送が始まるのは午後11時、とてもやっかいな時間だ。
相場が動いているときは、銀行で市場と向き合っていればいいが、相場が死んでいるときはそうもいかない。

番組出演の初日(7日)の欧州時間、ロンドン市場が休場で銀行に残るほどのこともなさそうな相場付きだった。

‘一旦、社宅に帰って、テレビ局に向かうことにするか’

緊急時の出勤や居残り以外は銀行からタクシー代は支給されないが、帰国後の通勤はタクシーである。

この日も銀行を出ると日比谷通りの反対側に渡り、タクシーを拾って神楽坂の社宅に戻った。

 

社宅の敷地に入ると、何故か自分の部屋の灯りが点いている。

不思議に思いながら、自室のある棟の階段を上がりだすと、そこで母と出くわした。

「あら早いのね、今日は」
時刻は午後7時半である。

「なんだ、母さんか。
部屋に灯りが点いていたので、誰かと思ったよ。

今日から毎週月曜日にテレビ出演するんだけど、番組までに時間があるから、一旦社宅に戻ることにしたんだ。

外で酒を飲んでから生出演するってのも流石に問題があるからな」

「そうなの。
それなら、丁度良かった。

お前の好きな稲荷寿司と簡単なおかずを作っておいたから、それを食べてから出掛けるといいわ」

「本当、そいつは良い。
ありがとう、いつも助かるよ」

「いい加減、お嫁さんを貰ってよ。
こっちはもう歳で、家政婦仕事でこんな遠くまで出かけて来るのも大変だからね。

その後、岬さんとのお付き合いはどうなの?」

‘痛いところを突かれた’

「ああ、だめそうだな」
小さい頃から母には誤魔化しが効かないので、正直に答えた。

「そう、残念ね。
まぁ、こればっかりは縁だから。

ところで、今日はテレビ何時から。
どうせお前の出る番組だから、局はテレビ国際だろうけど」

「ああ、11時からだ」

「そう、でも今日はお前の顔を見ちゃったから、番組を見る必要ないわね。
それじゃ、帰るわ」
微笑みながら言う母の顔は年齢を感じさせながらも、若かった頃の美しい面影を残している。

「気を付けてな・・・。

週末には永田に帰るから、中華街に何か旨いものでも食べに行こう」
少し大きな声で言った。

今度の日曜日は母の日である。

‘たまには親孝行もしないとな’

 

麹町のテレビ国際には10時半に着いた。
初日とあって、セキュリティー・ルームの前で若手局員が出迎えてくれ、10階にある経済部の応接室へと案内してくれた。

「時間が来たら、また私がお迎えに上がりますが、その前に中尾が5分程度打ち合わせにくると思います」
と言い残すと、若手局員は部屋から出て行った。

ほどなくして、ノックと同時にドアが開いた。
中尾佐江とアシスタントと見られる中堅の男子局員である。

「お疲れのところ、今日はありがとうございます。
さっそくで恐縮ですが、打ち合わせをさせてください」

番組の打ち合わせ場所を兼ねている応接室のテーブルは少し高い。

男子局員が今日の番組スケジュールをテーブルに広げて、こっちに向けた。
テーマと進行時間が書かれている。

「仙崎さんには、11時20分ぐらいからお話をお伺いする予定です。

今のホットな話題となっている米中貿易摩擦などを私の方で適当に話させて頂きます。

その後、仙崎さんをご紹介させて頂き、FRBの金融政策、それに市場のお話をお聞きしたいと考えておりますが、それで宜しいでしょうか?」
畳み込むように中尾が言う。

「結構です」

「それに仙崎さん、今日は初めてのご出演なので、プロとしての市場の考え方についてお聞かせ願えればと・・・」
こっちの出方を窺う様に言葉を切った。

「構いませんが、市場の機微を語ると長くなるので、大凡でということであれば・・・」
こっちも、言葉を切った。

「ええ、それでもちろん結構です。
それでは、本日は宜しくお願い致します」
言い残すと、素早くドアの方へと歩き出した。
その後を男子局員が追う。

‘小池都知事も人気経済番組のキャスターを務めていたそうだ。
その頃の彼女、こんな感じだったのだろうか’
高校生の当時、小池百合子の番組を見た記憶がないので、二人を結びつけることはできない。

 

11時5分前になると例の若手局員が応接室にやってきてスタジオのゲスト・コメンテーターの席まで案内してくれた。

11時になると、番組のテーマ音楽が勢いよく流れ出した。
ニューヨークのTV局よりも若干音が大きく聞こえる。

「今日はまず、このニュースからです」という言葉で番組は始まり、米中貿易摩擦問題、米長期金利上昇と新興国利上げなど、主要なテーマが紹介されていく。

予定の11時20分になると、中尾の声のトーンが少し変わった。
「ところで今日は、新たなゲスト・コメンテーターとして、東京国際銀行の仙崎了さんをお招きしております」

一台のカメラが寄ってくるのが分かる。
カメラの先端部にある赤色の光を向けられると、自然とそこに目が向く。
カメラ目線に自然となっていくのが分かる。

少し長い様に思われた紹介も終わり、今年の米金融政策についてのコメントを求められた。

この手合いの質問の答えは簡単である。
有体の答えにプロとしてのコメントを少しだけ付け加えた。

俺のコメントに対して、
「なるほど、流石プロらしいお考えですね」と言って、中尾がほめてきた。

次の質問が難しかった。
「ところで先崎さんは、為替市場でのキャリアがお長いですが、為替ディーラーとして生き残るための秘訣とは何でしょうか?」
時速100マイルのフォーシームを苦手なインサイド高目に投げ込まれてきた感じだ。

‘体を後ろにステップして逃れれば、今度は外角について行けなくなる’

上半身のみをスウェイして、かわした。

「そうですね、短時間で市場の機微まで答えるのは難しいですが、一言で言えば、‘市場のポジションの偏りを把握すること’でしょうか」

「つまり、市場で言うところの逆張りですか?」
案の定、外角のスライダーが投げ込まれてきた。

「むろん、その意味も含みますが、市場参加者の立場によってその捉え方は異なるのかと考えています。

インターバンク・ディーラー、ポジション・テーカー、機関投資家、そして実需筋など、それぞれの立場でポジションの考え方が異なります。

刹那刹那のポジションの偏り、中長期の基礎的需給はどうなのか、という様に」
下半身が浮くのを必死に堪えながら、アームを一杯に伸ばし、少しだけ手首のコックを解いてバットをボールに当てた。

そして間違いなく、右打ちの俺が打ったボールはファーストの頭上を越えて行った。

‘時間が限られた中で語ることのできる、プロとしてのコメントはこれが限界だ’

中尾もそれを察知した様だ。
「なるほど、流石ワールド・ファイナンス誌で常にトップ・ディーラーの座を維持している仙崎さんならではのコメントですね。

仙崎さん、本日はどうもありがとうございました」
打ち合わせでは、自分のコーナーが終わったら退席して良いことになっている。

中尾の
「それでは、ここでトレンド・ビジネスについてのコーナーに移らせて頂きます」
という言葉を聞き終えると、スタジオから出た。

エレベーターに向かう通路の途中で、誰かの呼び止める声が聞こえた。
先刻案内してくれたの若手局員である。

俺に追い着いた彼は、十数枚程度のA4版の一束を渡して寄越した。

「これは今、視聴者から局に送られてきたメールの一部です。
中尾にも渡されているものですが、仙崎さんにお渡しすることは伏せてあります。

凄い評判ですね。
本日はどうもありがとうございました」
彼はそう言い残すと、再びスタジオの方に戻って行った。

‘なぜ、俺に渡すことを伏せておくのだろうか’

正面玄関の車寄せには数台のハイヤーが待っていた。
局員から告げられたナンバーのハイヤーを見つけると、‘東京国際銀行の仙崎ですが’と告げて乗り込んだ。

神楽坂の社宅までは僅かの距離だが、手持無沙汰に先刻渡された紙の束に目をやった。

・・・先崎さんの様な方がコメンテーターになることを待ち望んでいました・・・
・・・流石に市場のど真ん中にいる人のコメントは迫力がある。彼にもっと市場のことを語らせる時間を与えてほしい・・・

どのメールにもそんな内容のことが書かれたいた。

‘なるほどね。
今はそんな時代なのか’

 

その日以降、ドル円相場は強含みに推移し、木曜日(10日)には10円02(110円02銭)まで上昇した後、9円40で週を終えた。

市場から北朝鮮絡みの地政学的リスクという言葉が忘れ去られ、「WTIの上昇が米物価上昇期待を煽り、その結果FEDが利上げを加速させる」といった観測が今はドル買いの軸になっている。

‘そう簡単に行くのだろうか’

 

土曜の晩、ラフロイグを注いだグラスを片手に国際金融新聞の木村にメールを送った。

木村様

110円台でうちが預かっているドル売り、ほとんど捌けていません。

こんな状況は知らない方が良いのか、知っていた方が良いのか。

不思議なことに、一つのオーダーが外れると、それを見ていた様に、別のオーダーも外れて行くことがあり、気を付けたいところです。

そんなことを思いながらも、まだドル・ショートで頑張ってますが(笑)。

来週の予想レンジ:107円50銭~110円20銭。

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第48回 「杞憂か事実か」

ゴールデンウィーク中の2日、ニューヨーク市場でドル円は米長期金利の上昇を背景に一時10円05(110円05銭)を付けた。

臨場感のない社宅にいるせいか、大台が変わった割にはモニターの値動きが淀んで見える。
もう6杯目になるラフロイグで緩み切った脳の影響があるのかもしれない。

先週仕込んだドルロングを手仕舞うのなら、この局面しかないはずだがピンと来ない。

既に日付が変わった夜中、山下に電話を入れてみることにした。
ニューヨーク支店長に背負わされた収益増の話が潰れたことも連絡しておく必要がある。

サイドテーブルに置いてあるスマホに手を伸ばした。
「今、大丈夫か?」

「あっ、了さん、今晩は。
大丈夫ですが」

「どうだ、儲かってるか?」

「はい、こっちにいるとユーロが良く見えて助かります。
ユーロドルの売り回転が順調で上手く行ってます」

「そうだな、確かにそっちはユーロが見やすいことは事実だ。
いずれにしても何よりだ。

ユーロが軟調な理由は、正常化に向けてのECBの具体的言質が得られないことやドイツの景気悪化というのがメディアの理屈だが、何かお前からのコメントはないか?」

「1.19の手前では、欧州のファンドが一旦買い戻すという話ぐらいでしょうか・・・」

「そこは年初来安値だからそうだろうな。

ドル円はどうだ?

東京から110円台の売りオーダーが大分回ってるはずだが、追加は入ってないか?」

「大京(大京生命)から40(110円40銭)で100本、豊中から50で50本がダイレクトで入ってきました。

10円台は都合、400本ほどの売りでしょうか」

「予想以上に10円台の売りが多いな。

今いくらだ?」

「92(109円02銭)アラウンドです」

「それじゃ、ロンドンで50本、そこで50本、売ってくれ」

「Both 93です」

「了解、90で良いよ」

「ありがとうございます」

「ところで例の件、片付いたぞ。

もう心配しなくても良い」

「えっ、本当ですか! 一体、どんな手を?」

「俺は東城さんを頼っただけだ。

あの人が役員会で大博打に出たらしい。

そのうち、田村経由で嶺さん(常務)の仕返しが俺に飛んでくるかもな」

‘粘着質の彼らのことだ。
あり得ない話ではない’

「ありがとうございました。
でも、了さんに迷惑がかかると拙いですね」
心配そうに言う。

「彼らの嫌がらせにはもう慣れっこだから大丈夫さ。

ところで、さっきの売り50本は利食いだけど、残りの50本はショートメイクだ。

こっちが休みの間、上の50(110円50銭)がtakenしたら電話をくれ。

それじゃ、頑張れよ」

「はい、頑張ります。

ありがとうございました」

‘ディールも上手く行ってる様だし、彼も当分の間は大丈夫だな’

 

それ以降、ドル円は週末まで高値を更新することはなかった。

週末のニューヨークで発表された米4月雇用統計ではNFP(非農業部門雇用者数)増が市場の予測を下回ったことや平均時給が前月比低下したことがドルの上値を抑え込んだ。

’FEDの利上げペースの加速観測が後退したことがドル売りにつながった’というのがメディアの論調だが、統計前に作り過ぎたドルロングの投げもある。

ドル円は一時8円65(108円65銭)まで下落した後、再び9円台へと反発したところで週を越すことになった。

 

土曜日の晩、BGMにKeithの‘Last Dance’を流しながら、社宅のベッドで仕事のことを考えていた。

Keithの優しいピアノの音色に乗せてCharlie Hadenのダブル・バスが2LDKの空間に響く。

時折ベッドから起きては、サイドテーブルに置いてあるハートランドのボトルを口に運ぶ。

口を潤してはまた寝転ぶ。
1時間ほど前からこんなことを繰り返しているが、考えがまとまらない。

新年度に入ってからも収益を重ねてはいるものの、最近根っこのポジションが持てていないことが苛立ちにつながる。

確かに4月以降はそんな相場付きではあったが、自分本来の稼ぎ方ではないのが気に入らない。

本店の外国為替市場課長のポジションは何かと会議などの雑務が多く、一日中ボードに張り付いていられないという問題もある。

だからこそ、根っこのポジションが必要なのだ。

あれこれ考えているうちに、少しずつ足元のことが頭の中でまとまってきた。

 

‘一連のドル買いの正体は資本筋と投機筋だが、腹いっぱいになるまで売りを飲み込んだはずだ。

週末の米雇用統計で投機のロングはそこそこ投げさせられた感じもするが、まだ結構残っている。

とすれば、来週の9円台後半は彼らのヤレヤレ売りが出る可能性が高い。

とりあえず、来週前半までは90(109円90銭)のドルショートは放っておくことにしよう。

もしかしたら、こいつが根っこのポジションになってくれるかもしれない’

 

そんな期待感が湧いてくると、少し気分も晴れ、岬の声が聞きたくなってきた。

‘現金なものだ’

 

ピローの横に置いたスマホを手にすると、岬の短縮番号を押した。
「まだ、金沢か?」
連休中は金沢美術工芸大の集中講義を受けると言っていた。

「ええ、明日松本に戻る予定。
了は、また社宅でスコッチ?」

「まあ、そんなところだ。
いつ会えそうだ?」

「今月の松本クラフト・フェアが終われば、母の店が少し暇になるわ。
そしたら、いつでも」

「そっか、わかった。
ところで、金沢では何か収穫があったのか?」

「ええ。
特に工芸に関してはなかったけど、何となく将来の方向性が見えてきた様な気がする」

「ふーん、例えば?」

「そうね、上手く言えないけど、やるべきこととかかな・・・。
今度会う時までにまとめておくわ」

「随分、大袈裟だな?」

「坂本の件で懲りたし、少し新しい生き方を考え直してるところ。

だから大袈裟になったって当然でしょ」

「何となく分かるけど、その新しい生き方ってやつに俺は入ってるのか?」

「入っている様な、いない様な」
電話越しの笑い声もどことなく思わせぶりである。

やりとりが面倒になり、
「まぁ、何だか込み入ってる様なので、会った時に聞くよ。
それじゃ、切るけど」と半ばなげやりに言った。

「おやすみなさい」という岬の声が普段通りに返ってきた。

 

音量を落としたままの‘Last Dance’がまだ流れている。
トラックは皮肉にも‘Goodbye’だ。

岬の姿が少しずつ遠くなるのがわかる。

‘勘が当たらなければ良いが’

自然とデスクに置いてあるラフロイグのボトルに手が伸びる。
ショット・グラスに注いだ琥珀色の液体がいつになく濃く見えた。

 

国際金融新聞の木村宛ての来週のドル円相場予測のメールには、

「再び110円台を覗けなければ、108円台割れも。
予測レンジ:107円~110円20銭」

とだけ書いて送った。

 

ほどなく返信があった。

「いつもありがとうございます。

来週からのTV出演も宜しくお願いします」と書かれていた。

‘余計なお世話だ’

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第47回 「東城の賭け」

日曜(22日)の晩、Junior Mance Trioの‘Junior’をBGMにラフロイグを注いだグラスを傾けていると、山下から電話が入った。

「すみません、お寛ぎのところ」

「おー、元気か?」

「はい、なんとか落ち着いて仕事ができる様になってきました」

「そうか、それじゃこれからは毎日お前と電話で話ができるな。
ところで、今は世界中の市場が閉じてるのに、何か急用か?」

「急用ってわけじゃないんですが、金曜日に山際さんからバジェット(収益目標)の変更を告げられました。

支店長の指示で、トレジャリー部門は500万ドルのアップだそうです。

理由はファイナンス部門が被った不良債権2000万ドルの償却分を稼ぎ出すためだそうですが、妙な話ですよね?」

「ああ、その件は沖田から大凡の話を聞いてるが、確かにお前が言う様に本部制で予算が組まれている以上、勝手に支店長の裁量でそんな決定をできるはずはない。

本店と協議の上での話なら別だが、東城さんからはそんな話は一切聞いていない。
仮にそういう話が正式にあったとしても、お前は心配しなくていい。
俺が何とかする」

「ありがとうございます」

「それで、ご家族はいつそっちに?」

「6月に入ってからでしょうか」

「そうか、それまでの間、独身生活をエンジョイするんだな。
話は分かった。

心配するな。
それじゃ、切るぞ」

‘そうは言ったものの、勝手に動くのは拙い。

このイッシュー、やはり東城さんに相談するしかないな’

少しニューヨーク支店長のやりくにちに腹立たしさを覚える。

ソファーテーブルに置いてあるウィスキーグラスを手にすると、残りを一気に飲み干し、そのままベッドに倒れ込んだ。

寝ころんだまま、再びミュージック・システムとWalkman をbluetooth 接続し、Keith の ‘Somewhere’をセレクトした。

重いトーンで始まる楽曲だが、次第にKeith のピアノが軽快になり、Gary Peacock のベースがそれを浮き立たせる。

少しずつ気分が解れてきた様だ。

 

翌日(23日・月曜日)の午後、東城の執務室に出向き、ニューヨークの件を話した。

「これでは、山下が潰れてしまいます。

収益の問題だけなら私が彼を助けることも可能ですが、本件はうちの本部制のルールからすれば、筋が違うのかと・・・」

「そうだな。
お前なら、彼を救えるのは分かってる。

だが、これはお前の言う通り、何かがおかしい。
もしかしたら、内々に清水さんが日和出身の各部門担当常務に話をしているのかもしれないな。

この話、俺が預かる。
暫く時間をくれ。

お前のことだ、もう山下には‘何も心配するな’と言ってあるんだろ?」
半ば決めつけ気味に問われた。

「お察しの通りです」
二人は笑みを交わし合った。
信頼の証である。

 

自席に戻ると、4時を回っていた。
ロンドン市場が厚みを増してくる時間だ。

「どうだ場は?」と沖田に聞く。

「さっきから90(107円90銭)を食い始めています」

「あっち(米国)の長期金利の上昇と北絡みの地政学的リスクの後退が、メディアの論調か?」

「まあ、そんなところです」

「うちのポジションはどんな感じだ?」

「そうですね、うちの客は総じてドル売りが多かったので、随分買わされましたが、マーケットはなんとなくビッド気配なので、全部はカバーをとってません。

まだ30本ほど、ロングのままです」

「それは正解だな。
90が食われたってことは、まだ上があるってことだ。

俺もここで買う。
ロンドンで50本買ってくれ」

「93です」

「了解。

ところで、例の件だが、いま東城さんに話してきた。
とりあえず、彼にゲタを預けた。

その結果次第では、俺達が山下をサポートしてあげることになる。
それだけは覚悟しておいてくれ」

「了解です」

「それと上の25(108円25銭)がtakenされたら、50本の買いを入れておいてくれないか?

ここは少し買いに乗ってみるよ」

「今週の上はどの辺ですかね?」

下降局面の2月中旬に9円を挟んで揉んでるから、9円前半かな。

とりあえず、週末まで9円25で50本の利食いを回しておいてくれ。
残りの50本は放っておく。

ところで、ここから下はあるかな?」

「うちのオーダー状況を見てください。
50から丁度(7円50銭~7円丁度)までで資本の買いが300本あります。

潜在的な買いを含めれば、50の下は恐らく相当な本数にのぼるはずです。

多分、この局面で7円前半はないかと」

’沖田の返事はきっぱりしているのが良い’

「ということは、先に8円台があれば、そのうちの何分の一かは高値を追ってくる可能性があるってことか」

「そうだと思います」

「そんな結論で行くか」

「はい」

 

その日の海外からドル円は力強く上昇し始め、翌日には9円台へと上昇した。

 

週末の金曜日の午後、月末の定例取締役会議が開かれた。
東城も出席する。

‘彼が「本件、俺が預かる」と言ったのはこの日に何か行動を起こすということか’

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「他に何かないか?」
中窪頭取が発するいつもの会議終了前の言葉である。

東城は挙手をすると、
落ち着いた声で言った。

「これは伝聞ですが、宜しいででしょうか?」

「おう、東城君か、もちろんだ。
君が発言をするぐらいだから、重要な話に違いない。
構わん、続けてくれ」

日和銀行出身の頭取だが、出身銀行に捉われない公平な見識の持ち主で、住井出身の東城を高く評価している人物である。

「ありがとうございます。
それでは、続けさせて頂きます。

我が行が本部制を敷いているのは言うまでもないことですが、最近ある海外店において支店裁量で物事が進んでいるやに聞いております」
出席者の一部から‘ほー、どこだどこだ’などのどよめきが上がる。

そのどよめきが静まるのを待って東城は話を続けた。
「その海外店では、それを実行する資金を稼ぎ出すために、支店内の一部の部門に‘本来のバジェット以上の収益を生み出せ’という通達を出したとのことです。

仮にこれが事実だとすれば、当該支店長の一存ではなく、ここにご出席の常務以上の役員と内々に打ち合わせをしていることが推測されます」
再び、会議室内にどよめきの声が上がった。

その声を振り払う様に、東城は語調を強めてさらに続けた。
「仮にこのことが事実だとすれば、海外で予期せぬグレー債権が蓄積したり、良からぬ支店長申し送り事項が延々と後世に残されてしまう危険性があります。

我が国で最も信頼に足るべきはずの「霞が関」においてすら改竄問題などが噴出していることに照らしても、ここは我が行も襟を正すべく、念のため頭取からのご言葉を賜れればと存じます。

私の申し上げるべきことは以上です」

東城の話が終わると室内がまた騒然となったが、頭取がそれを制した。
「東城君の話、一応伝聞とのことだ。
よもや当行においてその様なことはないと信じている。

だが、仮に事実だとすれば、彼の言っている様に将来への負の遺産となりかねない。
6月の株主総会前の行内会議が開かれる際に、海外支店長並びに現地法人社長と面談する。

それでは、本日はこれで散会とする」

ほぼ末席に位置する東城は、他の役員連中が会議室を後にするのを待って席に留まった。
すると、その肩を後ろから軽く叩く者がいた。
頭取の中窪である。

「ありがとう。
少しこれで、行内が引き締まると良いのだが。

ところで、君のところの仙崎君はなかなか評判が良いな。
顧客の社長連中と会食をする度にそんな話を耳にする。
流石、君の部下だ」

「恐れ入ります。
少し無茶をするところもありますが、頑張ってくれてます」

二人は既に役員連中が消え去った後の誰もいない廊下を談笑しながらエレベーターの方へと向かった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

人事担当役員の島がこの会議でのやりとりを伝えてきた。
「聞いてる方は冷や冷やしたが、相変わらず肝が座ったやつだ。
多分、仙崎君に関連しているイッシューだと思うので、電話した」
と笑って言う。

島は東城と同期入行で、俺のコロンビア大MBA行きを後押ししてくれた人物である。
「どうも、ご連絡ありがとうございます」と言い、頭を下げながら受話器を置いた。

東城に呼ばれたはのそれから数分後のことだった。
執務室のドアを開けると、皇居の森を見据えて立つ、普段と変わらない凛とした後ろ姿があった。

東城は振り返ると、
「例の件、もう片付いた。
山下にはそう伝えておいてくれ」
と言葉を渡して寄越した。

その顔には優しい笑みが浮かんでいる。

「ありがとうございます」と、深々と頭を下げた。
目頭が熱くなりそうだったが、必死に堪えた。

 

週末のニューヨークでドル円は109円54銭を付けた後、109円05銭前後で週を終えた。

 

土曜の晩、ラフロイグをグラスに注ぐとデスクのPCに向かった。
国際金融新聞の木村に来週のドル円相場のメールを打つためである。

木村様

109円台は実需の売りが結構出ていますね。
企業が日銀のアンケートにまともに回答しているとは思えませんが、とりあえず短観の想定レート109円66銭を前に上げ渋っているのは事実です。

うちでも109円台後半~110円台前半には実需を中心とした有象無象の売りが並んでいます。

一応、私も108円台前半のロングを持っていますが、来週初の状況次第でスクエアにします。

落ちれば、108円近辺まで速いかと。

ここでホールドすれば、110円台前半もありでしょうか。

予測レンジ:107円50銭~110円50銭

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第46回 「沖田の帰国」

やっと、ニューヨークの沖田が戻ってきた。
これで、新年度の臨戦態勢が整う。

週初(16日)の早朝、いつも通りの時間にディーリング・ルームに入ると、既に沖田はインターバンクのデスクに座っていた。

数週間前までは山下が陣取っていた席である。
太目の山下の体形とは違い、痩身で精悍だ。
日頃、テニスで体を整えてきた成果だろう。

沖田はあっちで地元のカントリークラブに所属し、週中の疲れを発散していた。
彼と幾度か対戦したこともあったが、学生時代にテニス同好会に所属していただけあって、ただひたすら遊ばれたという記憶しか残っていない。

「一年ぶりか、顔を見るのは。
毎日の様に電話で話してるから、あまり懐かしさも湧かないな」
右手を差し出しながら、声をかけた。

「そうですね。
でもまた、リアルな現場でご一緒できて光栄です」
その右手を力一杯握り返しながら、元気そうな声で言う。

‘一段と頼もしくなった様だ’

「それじゃ、とりあえず、この部屋の皆に紹介しておくか」
と言い、ディーリング・ルームを一緒に回った。

一通り、紹介し終えたところで、
「東城さんには自分一人で挨拶してこい。
その方が良い」と指示した。

 

週末の米英仏のシリア攻撃も単発で終わるとの見方が拡がり、金融市場全体にどことなくリスク・オンの気配が漂う。

日本株がそこそこ堅調に推移するなか、ドル円も107円前半で強含みに推移している。

翌日(17日)、日米首脳会談で‘トランプが安倍首相に通商上の厳しい注文を突き付けてくるのでは’との懸念が浮上し、午後に入るとドル円は一時6円89銭(106円89銭)まで下落した。

だが、下値圏でのドルは底堅さを示す。

‘もう今週は落ちそうもないな’

「沖田、ここはどう思う?
俺は先週末にショートを振ってる。
コストは60(107円60銭)だ」

「そうですね。
仲の良いヘッジファンドがドルショートを手仕舞うと言ってました。
週末までに買い戻してくるでしょうから、7円後半までは上がるかもしれませんね」

「そうか、それじゃ、50本買い戻すか。
そして新たに50本ロングする。
俺はこっちで50本買うから、お前はロンドンで50本買ってくれ」

「96(106円96銭)です」

「了解、こっちは95だ。
そっちの50本は上の利食いに充ててくれるか。

お前、昨日のニューヨークで7円25で20本ショート・メイク(ドル売り)した様だが、コストがあまり良くないな。

俺が買った50本のうち20本使うか?」

「はい、そうですね。
お言葉に甘えて、95の20本、使わせて頂きます。
残りの30本はどうしますか?」

「先週の高値は7円78だったから、
75で利食いのリーブを週末まで回しておいてくれ。
もう落ちないから、ストップは不要だ」

「了解しました」

「ところで、山下はどうだ?」
沖田がディールの処理をし終えたところで聞いてみた。

「多少英語に問題はある様ですが、何とかこなしている様なので大丈夫だと思います。
それより、支店の問題で少し気になることがあるのですが」

その会話が右手のデスクに座る野口に聞こえたらしく、こっちを向いた。

‘沖田の話は公にできない内容らしい。
場所を変えた方が無難だ’

「急ぎの話でなければ、お前の歓迎会を兼ねて金曜日の晩に聞くということでどうだ?
もっとも、帰国して間もないから、ご家族のこともある。
日を改めて構わないが」

「大丈夫です。
家内は金曜から週末にかけて、実家に行くと言ってましたから」

 

その日以降、ドル円は、日米首脳会談が波乱なく終了したことや日経平均が節目の2万2000円を抜いたことで、107円台で強含みに推移した。

 

金曜日の晩、沖田を銀座の寿司処‘下田’に連れて行った。

「旨いですね。
ここは東城さん御用達のお店ですね」

「ああ、昨年の俺の帰国祝いもここだった。
今日は東城さんの支払いで良いそうだ。
だから存分に食って飲んでくれ」

「それじゃ、遠慮なくいきますか」
小上がりに座る二人の笑い声がカウンターの方まで響き渡った。
6時半という時間のせいか、まだ店内には二人だけで、他の客に気を遣う必要もない。

その笑いに乗じて、大将が声を掛けてきた。
「了さん、楽しそうだね。
お酒は、あの時と同じ獺祭の極上版で良いかい?

東城さんからさっき電話を貰ったよ。
お二人に最高の寿司と最高の酒をだってね」
あの時とは、東城が俺の帰国祝いをしてくれた日のことだ。

‘相変わらず、気の付く人だ’

旨い寿司と酒で気持ちがほぐれたところで、
「例の支店の話って何だ?」
と切り出した。

「実は、現地企業に融資した金が焦付き、その件で山下さんにも影響が出そうなんです。
金額は2000万ドルほどですが、支店としては小さくありません。

貸出前の審査が甘かったことが原因の様ですが、支店のコーポレート・ファイナンス部門が負う不良債権に変わりはありません。

支店長は、他の部門でターゲット以上の収益を上げ、その分で不良債権を償却するという考えの様です。

要は、山下さんにも負担がかかる可能性があるということです」

「それは理不尽な話だな。

部門ごとの損失は本部制の縦割りで解決すべきことだが、支店長にも統括の責任がある。
だから店内の他部署の上がりで償却分を賄い、支店収益を落としたくないってことか。

それは、既定事実なのか?」

「支店上層部ではそうですね。
山際さんからはそう聞いています。

コンフィデンシャルとは言っても、店全体に行き亘るのは時間の問題でしょう」

「それで、山下には伝えてあるのか?」

「はい、ただ各部署の具体的負担額が決まっていないので、今の処は山下さんも動き様がありません」

「あいつも赴任早々、ついてないな。
山際さんの後任はもうスイスの横尾さんで決定だし」

‘いざとなったら、助けるしかない’

「俺も山下のことは気遣うが、お前もあいつと話していて気づいたことがあったら、教えてくれ。

あいつは体形に似合わず繊細なところがある」

「はい、心得ています」

それから一時間後、その場をお開きにした。

明日の早朝、沖田は仙台の実家に帰国の挨拶に行くという。
無理に二件目を誘わなかった。

 

沖田と別れた後、数十メートル歩いたところにある‘やま河’へと足を向けた。

「いらっしゃい、お一人?」

「ええ、山下の替わりが着任したので、今度連れて来ますよ」

「お願いします。
仙崎さんの同僚や部下でしたら、品も良いでしょうから大歓迎よ。
飲み物とアテは、いつもので良いかしら?」

「はい。
BGMはColtraneの‘Ballads’を。
音量は他のお客さんの邪魔にならない程度で」
カウンターの奥に、男同士の二人連れ、二組が静かに話し込んでいる。

‘Say it(Over and Over Again)’がTenor Saxの音色に乗って流れ出すと、彼らの聴き入る空気が伝わってきた。

トラックが‘Too Young to go steady’に移る頃には、どこからともなく「ママ、もう少し音量を上げて」という声が聞こえた。

‘嬉しい限りだ’

ラフロイグとColtrane、最高の組み合わせで至福の時が流れる。

 

社宅に戻ると直ぐ、デスクの上のPCにログインした。
モニターで全ての通貨ペアを一覧した後、チャートに目を移す。

ドル円は7円86(107円86銭)へと跳ねた様だが、その後は伸び悩んでいることを映し出している。

‘日米金利差拡大が背景’と、メディアは伝えているが、実態は沖田が言っていたヘッジファンドが買っていた円を売り戻しただけだ。

色気のない相場に見切りをつけて、Outlookをクリックした。
国際金融新聞の木村宛てに来週のドル円予測を書かなければならない。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
木村様

見えている与件でポジションを持つと、やられる展開ですね。

ここからは上はドルの需給が緩いと思うのですが、本邦の機関投資家も少しずつ外物を買いたがっているのは事実です。

8円台(108円台)は売りたい実需がいて、6円台は買いたい実需と機関投資家がいる。
つまり、来週もその間での揉み合いでしょうか。

でも、いずれはUSTR(米通商代表部)が動いてきますね。
中間選挙の時期を考慮すると、その動きは年前半でしょうか?

1990年代前半のパターンだとすると、ライトハイザーが‘右手に自動車部品等の輸入数量増、左手に円高’というプラカードを掲げてくることは間違いないと思います。

日本が歴然とした対米黒字国であり、‘実質実効レートで円は25%も過小評価されている’というIMFのエヴィデンスを持っているのであれば、‘ドル円の下値’はまだ深いところにあると考えておいた方が無難かもしれません。

問題は、上で書いた様にその時期ですね。
木村さん、USTRの動きで何かあったら、教えてください。

来週の予測レンジ:105円50銭~108円50銭

IBT国際金融本部外国為替課長  仙崎 了

追伸:埋め草はいつも通りお任せ致します。

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第45回 「誘い」

週初(9日)の東京市場で107円直前で寄り付いたドル円は、米中貿易摩擦やシリアを巡る米露の対立を材料に、週後半まで揉み合いが続いた。

だが、ドルの下値は先週よりも1円ほど切り上がり、安値は週前半の106円62銭で止まっている。
少しドルが上に動く兆しである。

‘1月上旬に113円台で推移していた相場が3月下旬に104円64銭まで下落したことを振り返れば、この程度のドルの戻りは当然のことだ’

相場が変化したのは、週末の金曜日のことだった。

シリア情勢を巡って米国の態度が軟化したため、日本株が堅調となり、ドル円も2月下旬以来の水準となる107円後半まで上昇したのだ。

‘ただこの先、誰が積極的にドルを買うのかが問題だ。
買うとしたら、短期のスペック(投機筋)か新年度入り直後の機関投資家か’

シリア問題の行方が見えないなか、週越えのポジションを持つにはリスクが高い状況だ。
だが、ポジションを持たないことには場が良く見えない。

思い切って、ドルを売ることにした。

 

「小野寺、ロンドンを読んでドル円50本(5000万ドル)売ってくれ」

「はい、60(107円60銭)です」
山下に匹敵するぐらいのレスポンスだ。

「了解。
ストップは入れなくて良い。
8円25(108円25銭)taken のコールレベルだけ頼む」

小野寺は「はい」と言いながら、
「課長はキナ臭い与件があるときに、週越えのポジションを持って怖くないんですか?」
と聞いてきた。

「怖くないと言えば嘘になるが、仮にトランプのシリアに対する姿勢が軟化しても、ドル円は精々108円台前半だ。

逆にシリア攻撃が行われた場合は、ドル円の下値は結構深いかもしれない。
そんな状況では様々な情報が飛び交い、市場はバタつく。

そんなときに作ったポジションは、持ち切るのが難しい。
だから、今売ってみただけだ。

それにまだ新年度が始まったばかりだ。
やられても取り戻せるしな」

「そうですか、僕はそんな勇気を持てませんが」

「ならば、試しにここで売ってみろ。
でないと、場の味も良く分からないだろ?」

「はい、それじゃ、勇気を出して10本売ってみます」
EBS(電子ブローキング・システム)のキーを叩き終えると、ニコッとしながらこっちを見た。
覚悟が決まった顔つきである。

 

そんな折、
「課長、テレビ国際の中尾さんからお電話です」
と誰かの声がした。

‘来たか’

「ディーリング用でない電話番号を教えて、そこに掛けてくれと伝えてくれ」
こっちから掛け直す必要もない相手だ。
時を待たず、デスクの上のディーリング用でない電話が鳴った。

「初めまして、仙崎です。
さっきの電話はディーリング用のなので、こちらに掛けて頂きました。
失礼致しました。

話は番組の件ですね?」

「はい、番組のキャスターを務めている中尾と申します。
番組の件でお電話させて頂きました。

お忙しいところ、突然申し訳ありません。
それで早速ですが、打ち合わせで今晩お時間を頂けませんでしょうか?」

急な話である。

「4月入りでコメンテーターを入れ替えているのですが、仙崎さんにご担当をお願いする予定の月曜日だけが決まっておりません。

今は、局の経済部の人間が担当していますが、できればゴールデンウィーク開けからでもお願いできればと存じます。

そのためには、来週中にも上に報告書を提出する必要があります。

今日の番組打ち合わせは8時からですので、その前にお時間を頂けたらと・・・」

言葉は丁寧だが、相手の言い分は関係なく、畳みかける様な口調である。
局内では誰も太刀打ちできないほどの才女らしい。

「分かりました。
それで、局にお伺いすれば、良いのですね」

「はい、そうして頂ければ、助かります。
局の入り口のセキュリティーで仙崎さんのお名前を伝えて下されば、問題ない様に手配しておきます。

今5時半ですから、6時半頃ということで宜しいでしょうか?」

「はい、それで結構です」

「それでは、お待ちしております」

 

6時過ぎに銀行を出たところでタクシーを拾い、
運転手に「麹町のテレビ国際へお願いします」と告げた。

タクシーは日比谷通りを南に下り、日比谷濠、桜田濠を右手に見ながら、局へと向かう。
桜の時期を終え、綺麗な新緑が濠沿いの歩道を飾る。

6時過ぎという時間帯のせいか三宅坂付近で少し渋滞に出合ったが、6時半前には局に着いた。

セキュリティー室の脇で待っていてくれた若手男子局員が10階にある経済部の応接室まで案内してくれた。

数分すると、身長160センチほどの細身の女性が現れた。
ウィキペディア調べでは43歳だが、幾分若く見える。
細面の美人だが、冷たい印象を受けるのは彼女の性格のせいなのか、局内で一線を維持するために被ったベールのせいなのかは分からない。

国際金融新聞の木村が言う様に男癖が悪い様には見えないが、先入観を持たない方が無難だ。

「初めまして、中尾佐江です」
と言いながら、名刺を差し出す仕草は腰が低い。

「仙崎です、宜しくお願い致します」
こっちも名刺を渡した。

早速、番組の申し合わせ事項についての説明を切り出してきた。
「ワールド・マーケット」という番組の趣旨や内容についての説明はない。
当然、銀行員ならこの番組を見てるという前提で話は進む。
とんでもない思い込みである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
経済番組のコメンテーターの話には全く興味がないので、ほとんどこの番組を見たことがない。

ポジションも持ったことのない経済学者やエコノミスト連中の市場の話が役に立つはずはない。

一般経済についても、ロイターや新聞の情報があれば十分だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

暫しの間、番組の進行や事前の打ち合わせ事項についてのレクを受けた。

大凡の話を終えたところで、
「仙崎さんは独身ですか?」
と聞いてきた。

「ええ、そうですが・・・」

「私もですの。
でもバツイチで、子供付きですが」
何となく顔付きが普通の女性に変わっていた。

「へぇー、そうですか。
それは何かと大変ですね」

「ええ、でも母が子供の面倒を見てくれてますから、日常は全く独身と変わりませんのよ」
やたらと独身を強調してくる。

「そうは言っても、これだけの番組のキャスターを務めてらっしゃるのだから、何かと大変かと思いますが」

「‘慣れてしまえばって’とこかしら。
それより先崎さんのお仕事こそ、24時間だから大変でしょ。
さぞおモテになるでしょうに、デートも儘ならないんでしょうか?」

「そうかもしれませんね」と笑いながら言い、彼女の言葉をあしらった。

‘そろそろ潮時だな’

「申し訳ありません。
これから銀行に戻らなければならないので、そろそろ失礼します」
と言い、ソファーから立ち上がった。

「そうですか、それは気づきませんで、失礼しました。
それでは、5月7日にお待ちしていますので、宜しくお願いします」

応接室から出たときの彼女の顔は、既に仕事モードのベールを被っていた。
‘流石だな’

 

局を出たところでタクシーを拾うと、青山へと向かった。
ジャズ・バーの’Keith’が目的の場所だ。

人と会ったときに日時と場所を名刺に記入しておくのを習慣にしている。
車中でそれを記入しようと、彼女の名刺を取り出すと、裏面に何かが書き込まれているのが目に留まった。

そこには手書きで携帯番号、090xxxxxxxxと書かれていた。
「男癖が悪い」という彼女の片鱗を見た様な気がした。

 

Keith の重いドアを押し開けると、
マスターの「お久しぶり」という元気な声が飛んできた。

「本当にお久しぶりです。
今日は一人だから、カウンターで。

酒とアテはいつもの、そしてBGMはMiles の‘Round about midnight’をお願いします」

「山下さんがいなくなって、連れに困るでしょ?」

「でももう直ぐ、ジャズ好きがニューヨークから帰ってくるから、連れて来ますよ」

そう言いながら、スマホを取り出すと、メールを書き出した。
国際金融新聞の木村宛てである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
木村様

今日、例の中尾さんに会って来ました。
噂は本当かも知れませんね。

だとすると、この先疲れそうな気がします。

それはそれとして、来週の予測をお伝えします。

あっちの友人からの話では週末に米国がシリアを叩く可能性が高いとのことです。

もしそうであれば、とりあえずは「株安→ドル円下落」でしょうか。

‘今晩にも発表されるかもしれない「米財務省の為替政策報告書」では日本が監視対象国に入るでしょうし、来週の日米首脳会談でトランプが貿易不均衡を追求してくることも間違いないと思います’、そう考えれば円高に振れる。

ですが、そんな筋書きは誰にでも描けそうなので、疑問が残るところです。

私もドルショートで構えていますが、先週と同様にチャートの顔つきからはあまりドルが下がらないのかもしれません。

与件から離れて予測すれば、揉み合い継続の様な気がします。

予測レンジ:104円50銭~108円25銭

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。