第37回 「途絶えた連絡」

―――財務省に依頼された勉強会は無事終了した。

勉強会とは名ばかりで、実際には局長クラスを中心とした講演会的なものだった。

大学の後輩である吉住の話では、会の前日になって急遽、坂本が部屋の変更を伝えてきたという。

吉住は局長クラスが出席することも知らされてなかったとのことだ。

俺が当日になってお歴々を目の前にすれば、たじろぐとでも思っての企みだったのである。

だが、俺は慌てることもなくテーマを変更せずに事前に用意した『行動経済学と為替相場』についての話をした。

抽象的なテーマだが、内容が市場心理を追及したものだっただけに、参加者全員を話に引き込めた様である。

話の内容に納得する声が漏れ聞こえたことや閉会後の拍手が、スピーチが成功だったことを物語った。

逆にそのことは坂本を苛立たせ、そして妻のかつての恋人だった俺への嫉妬を募らせた様だった。

勉強会の後に俺を呼び止めた彼は、「これから先、何が起きるか楽しみにしておけ」と捨て台詞を残して自局のある建物へと消えて行った―――

 

週初(12日)の東京市場は建国記念日の振り替え休日で休場となった。

東京市場が休場の日は余程の事が起きないと、アジアの時間帯は静かである。

この日も同様で、ドル円は108円台後半、ユーロドルは1.22台での模様眺めの展開に終始した。

だが、翌日には再び幅広い通貨に対してドルが売られ出した。

特にドル円は黒田日銀総裁が「低金利の銀行収益への影響」に言及したことで、下方モメンタムが付いてしまった。

本邦要人から急速に進む円高に対する牽制発言も出たが、市場はそれらを無視してドル円を売り込んだ。

昨年のドル円最安値107円32銭を割り込むと、ストップロスを巻き込む格好で一挙に106円台へと突っ込んだ。

週末(16日)の東京では、午後に入り、ドル円は1年3か月ぶりの水準となる105円台半ばまで急降下した。

そんな折、東城からの電話が入った。

「どうだ?」
当然、市場のことである。

「はい、これ以上は無理だと思います。

実需筋がドルを売り始めたのは110円割れ、そして108円割れといった水準です。

ですが、7円32銭を割り込んで以降は実需ではなく、アルゴリズム系も含んだ投機筋の動きが中心かと。

何の理屈もないことですが、ドル円の5円刻みの水準では上りも下りも止まるか揉み合います。

足下の105円近辺も同じ様な展開になるのではないでしょうか。

まだドルの先安感は残っているのですが、とりあえず、ここらで少し買ってみます。

戻りが悪い様でしたら、直ぐに手放しますが」

「そうか、分かった。

ところで、まだ約束した新年会もやってなかった。
財務省の件もとりあえず終わったことだし、今日は銀座の‘下田’へでも行くか?」
下田とは銀座6丁目にある寿司処である。

「はい、そろそろかと期待していました」
電話の向こうで東城が渋い笑い顔を浮かべてるのが手に取る様に分かる。

「それじゃ、7時に予約をいれておく。
俺は出先から直行するから、現地で会おう」

「それでは、失礼します」
と言って、受話器を置いた。
久しぶりの東城との酒席である。
‘楽しみだ’

 

‘下田’の暖簾をくぐると直ぐに、
「おっ、いらっしゃい。若旦那」と言う、
威勢のいい店主の声が迎えた。

「若旦那はないでしょ、大将」

「東城さんの跡継ぎだから、若旦那で良いじゃないですか」
笑ってごまかすしかなった。

席に着くと間もなく東城が現れた。

笑い声が入口の外まで届いたのか、
「楽しそうじゃないか
どうせ俺の悪口でも言ってたんだろう」
と東城が言う。

 

「まぁ、そんなとこですか。
ところで、飲み物は何にしましょうか?」
店主が話をそらす様に言う。

「ビールの後、熱燗かな。
後はいつも通りで頼む」
下田では、特別な依頼をしない限り、店主任せだ。

運ばれてきたビールで乾杯し終えると、財務省の話を自分から切り出し、一連の話を東城に伝えた。

「そうか、それは御苦労だったな。
国金局長の竹中さんから礼の電話を貰ったが、良い内容だったらしいじゃないか。
彼も随分喜んでたよ。

それにしても坂本さんには弱ったもんだな。
彼が御主人じゃ、岬君も相当に苦労しただろう。

あの時彼女がお前の後を追っていたらと思うが、人生の悪戯ってやつに引っかかってしまった様だな。

そう考えると、俺がお前をニューヨークに行かせたことに責任を感じるよ」

「そんなことはありませんよ。
この件は僕自身の不甲斐なさから生じたことです。

坂本さんを夫に選んだのは彼女の不幸ですが、その不幸への引き鉄を引いてしまったのは僕です。
僕さえ田村さん等の罠に嵌らなければ良かったわけですから・・・」

「ところで、彼女は元気にしてるのか?」

「大分元気にはなった様な気がします。
ですが、さっきお話しした様に坂本さんが例の写真を彼女に送る可能性があります。

もしかしたらもう、送ってるかもしれません。
あれを見たら、少なからず岬も傷つくでしょうね。

2・3日に一度は必ずメールか電話があるのですが、このところ途絶えています。
僕の方から電話すればいいんでしょうが、写真の件でなんとなく探りを入れる様な気がして・・・。
拙いですよね」

「お前らしいとは言えないな。
早めに連絡をとってあげた方が良い。
市場にいる時の仙崎了らしくな。

それはそうと、下期も目標以上の成果を上げている。
市場以外の問題も多くて大変だったが、良く頑張ってくれた。
感謝するよ」
と言いながら、空いた盃に熱燗を注いでくれた。

「残り一カ月半で何も起きなければ、良い結果を残せそうです」
今度は東城の盃に注ぎ返した。

旨い寿司で、旨い酒を飲んだ後、二人は店を出た処で別れた。

「それじゃ」
と言い残すと、後ろ手を振りながら東城は7丁目方向へと歩き出した。

何処へ向かうのかも問わず、
「ご馳走様でした」と応えて、自分は晴海通り方向へと向かった。
目的はカウンター・バーの‘やま河’である。

 

‘やま河は’すずらん通りを晴海通り方向に向かって5丁目の真ん中近辺にある。
バーは地下一階にあるため、目立たない。
そのためか、カウンターが一杯になるのを見たことはないが、ママは‘あまり混まない方が良いのよ’と言う。

少し重いドアを押し開けると、
ママの声が聞こえてきた。
「いらっしゃい。
今日は山下さん、一緒じゃないの?」

「ええ、上司に誘われて、今そこで別れたところです。
いつものヤツを頼みます」

ラフロイグを注いだクラスとドライド・フィグ(イチジク)をカウンターに置きながら、
「少しお疲れの様ね」
と言う。

「そう見えますか?」
市場から離れ、アルコールが入ると岬のことが気になる。
それが顔に出るのかも。
‘拙いな’

一気にグラスを空けると、次のグラスを頼んだ。
心配する様にママは見つめるが何も言わない。
それが今は嬉しい。

Keithの’Melody at Night, with you’が静かに流れ、少しずつ心に潤いを帯びてくる。
そんな心の中を見透かすように
「仙崎さんは本当にKeith Jarrettがお好きなのね」
と微笑みながら言う。

「ええ、ジャズ・ミュージシャンの中では3本の指に入るかもしれません。
ママも何かお好きなものをどうぞ」
とアルコールを誘う。

 

土曜日の晩、国際金融新聞の木村宛てに来週のドル円相場予測をメールした。

木村様

とりあえず、ドルが戻すかと思います。

‘三陰線連続の叩き’は買いのサインとも言いますしね。

当り続けてきた予測も外し頃なので、もっと落ちるかも知れませんが・・・。

埋め草は適当に!

予測レンジ:105円~108円75銭

 

すかさず、木村からの返信があった。

仙崎様

毎週、予測をお送り頂きありがとうございます。

毎週当り過ぎですね。

ウェブ刊では仙崎さんのドル円相場予測のヒット数がダントツです。

今後共、宜しくお願い致します。

国際金融新聞 木村

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。