月別アーカイブ: 2018年7月

第60回 「台風の後」

既にドル円は110円75銭まで下落している。
悩み処に差し掛かった。

110円75銭は年初来安値の104円64銭からの支持線水準でもある。
この水準を完全に下回らない限りは、一連のドル高トレンドが終わったとは言えない。

既にトランプ発言は、ムニューシン財務長官により否定されてもいる。
来週から長期の休暇に入ることを考えると、ポジションを整理しておかなければならない。

‘ここは、利食いかもしれないな’

「沖田、先週のショート300本、これから全部買い戻す。
シンガポールにも頼んで、少しずつ買ってくれ」
一挙に買い戻すと、自分でドルを押し上げてしまい、コストが悪くなる。

一時間後、
「全部、買い戻しました。
アベレージ、90(110円90銭)です」と沖田が言う。

「了解。
流石に良い捌きだな」

「課長にそう言われると、照れますね」
嬉しそうに言う。

その後、相場は111円台へと振れた。

‘これで当分、ポジションを取らなくて済む’

ディーリング・チェアから立ち上がり、窓際に向かった。
皇居の森がいつもと違う美しさを見せている。
仕事が一段落した後の心のゆとりのせいだろうか。

次の日、東城と銀座の寿司処‘下田’で酒を酌み交わした。

「お前とこうして飲むのも久しぶりだな」
実感の籠った声である。

‘つくづく、そう思う’

「本当にそうですね。
東城さんも株主総会とかでお忙しかったし、僕もニューヨーク出張がありましたから」

「そうだったな。

ところで、先週のドルショート、上手く行った様だな。
これでもう、上期のバジェットを50%オーバーか、確かにお前は凄い。

だけど、どうしてそんなに急ぐんだ?」

「はぁ、少し夏休みを頂きたくて」

「なるほど。
で、海外へでも行くのか?」

「ドジャーズ・マリナーズ・レッドソックス・ヤンキースの試合観戦です。
それにスケジュールが合えばですが、エンジェルスの試合も」

「へー、お前らしいと言えばお前らしいな。
西海岸と東海岸制覇か。

分かった。
まあ、ゆっくりしてこい」

「ありがとうございます。

それに山下のことが気懸りなので、彼にも会い、支店の状況を聞いて来ようかと思ってます。

横尾さんが敢えて僕に喧嘩を売ってきたことを考えると、山下が犠牲になる可能性もあるので・・・」

「そうだな。

俺に挨拶に来たときも、妙に挑戦的な感じを受けたが、清水、嶺、横尾、皆あっち(日和銀行)の人間だから、当然って言えば当然ってことか。

統合から15年近く経つというのに、まだ両行に軋轢が残っているのは事実だ。
頭取もそのことを気に病んでる様だが、なかなか解決できない。

お前は統合後の人間だが、連中は住井出身の俺のラインに組み込まれていると思ってる。

そして山下がお前を慕っているため、彼にも住井派というレッテルが張られてしまった。

馬鹿な話だが、それが現実だ。

そんな馬鹿話に決着をつけられるのは、統合後の入行者だけかもしれないな。
そしてその人物は際立った実績を残し、誰からも人望がなければならない。

そんな人物になれるのはお前ぐらいかもしれないな。
頼んだぞ」
東城は、ときおり冷酒の注がれたグラスに口をつけながら、とつとつと語った。

「確かに僕の同期やその下の連中にはそうした軋轢はないかもしれません。

ただ、出自やら出身校をひけらかす人間は残り続けるのでしょうね・・・」
将来を託されたことには触れずに、感想を言った。

「まあ、そうだろうな。

ところで、岬君とはもう本当にだめなのか?」

「そっちへ話が飛びますか。

もうだめですね」
彼女の家の事情なども説明し、無理だと言い切った。

「そうか、残念だが仕方ないな。
まぁ、お前はモテるから、まだまだ縁はある。

もっとも、お前に結婚する意思がなければ無理だが」
笑いながら言う。

「ここは笑うところじゃないでしょ。
罪滅ぼしに二軒目はこの辺りのクラブへでも連れてって下さい」

「銀座のクラブか、自腹では無理だな。
六本木で良ければ、連れて行くが」

「はい、そこで全然問題ありません」
二人の笑いが店内に響き渡った。

他にも客がいたが、店主は何も言わずに微笑ましく語らう二人を温かい眼差しで見つめていた。

ドル円相場はその日以降も軟調地合いが続き、木曜日(26日)には110円58銭まで下落したが、節目の110円割れは逃れた。

週末の金曜日は概ね111円を挟んでの模様眺めに終始し、世界の市場はやる気を無くしたかの様だった。

来週には日銀の金融政策決定会合や7月米雇用統計など多くの重要指標もあるため、相場が動く可能性がある。

そろそろ欧米では、市場参加参加者が長期休暇に入る頃だ。

市場が薄くなる分だけ相場が動きやすくなり、夏相場は大きく動く時がある。

だが、来週から休暇を控えているため、相場のことは忘れることにした。

相場が動けば、休暇明けに考えれば良いのだ。

既にマイクにもMLBのチケットの手配とホテルの予約を頼んである。

日曜の晩、横浜ロイヤルパークホテルに宿泊した。

月曜の羽田発午後の便でLAに向かう。
ここから羽田までのアクセスはそう悪くない。

敢えてロイヤルパークに泊まる必要はなかったが、60階以上の部屋でラフロイグを飲みながらベイエリアを眺めたかったのだ。

岬との思い出の場所でもある。
セピア色の景色に戻りたくもあった。

台風一過で淀んだ空気が流されたせいか、ベイエリアの光景が美しい。
日はまだ明るいが、ラフロイグのボトルとグラスを窓際のテーブルに運んだ。

BGMに、Y.KishinoのManhattan Daylight 以外の選択肢はない。
2週間後には、ボストンでレッドソックス戦を観戦した後、ニューヨークへと飛ぶ。
ヤンキースとメッツのサブウェイシリーズ*を見るためだ。

重たいのを覚悟でBose の Soundmini Linkも持参している。
ウオークマンをブルートゥース接続すると、Kishino の Portrait を選択した。
Manhattan Daylightはアルバムの6番目にある。

これで準備万端だ。

琥珀色の液体とベイエリアの景色に心が満たされていく。

‘このままずーっと時が流れてくれればいいのに・・・。

無理だな’

窓外の観覧車がゆっくりと回り続けている。
喜び・悲しみ・苦しみは順番に訪れるものだ。
それが人生なのだと教える様に。

夫との不仲に苦しみ抜いた岬は将来を見据えて、凛とした気持ちでニューヨークに向かう。
山下は希望していたニューヨーク勤務を実現し、高みを目指すための一歩を踏み出した。
俺自身は市場と闘いながらも、行内外の問題を解決し、そして収益を改善した。

‘人生は何とか回転するもんだな。

でも、俺のこの先には闘いに次ぐ闘いが待っている。

この休暇が終われば、横尾との一戦が待っている。
行内の派閥問題もある。

そして市場と向き合い、再び稼がなければならない’

帰国後の出来事やこの先のことに思いを巡らせていると、スマホが鳴った。

志保である。

「元気?
またこっちに来るの?」
明るい口調で立て続けに聞いてくる。

「えっ!
どうしてそんなこと知ってるんだ?」

「マイクがMLBのチケットの手配を頼んできたの。
普通なら直属の秘書に頼むのに。

これって、了がこっちに来るってこと、教えてる様なものよね」

「あいつもお節介だな」
苦笑いが零れる。

「ヤンキース戦は二枚ゲットしたわ。

二人でサブウェイシリーズの観戦なんて、昔に戻ったみたな気分で嬉しいわ。

その日のホテルはヘルムズレーで良い?」
本当に嬉しそうだ。

‘勝手にしろ’

「それは良いけど、じっくり野球観戦だけはさせてくれよ。

いずれにしても、チケットの手配、感謝するよ。

それじゃ、切るぞ。

おっと、言い忘れたことがある。

会えるのを楽しみにしてるよ」
素直に言った。

「えっ、今何て言ったの?」

「二度は言わない」

「初めてね、了がそんなこと言うの。
気まぐれでも嬉しいわ」
ちゃんと聞こえている。

‘余計なことを言ったかな’

電話の向こうでフランク・シナトラの「ニューヨーク・ニューヨーク*」が聞こえた様な気がした。

(第一巻、了)

 


*サブウェイシリーズ:ヤンキース(ヤンキー・スタジアム)とメッツ(シティ・フィールド)とのインターリーグ(ア・リーグ、ナ・リーグ)戦はホームであろうと、アウェイであろうと、「地下鉄」で球場に行くことができる。サブウェイシリーズはこのことに由来している。但し、これは現代版の由来であって、歴史を辿ると深い謂われがある。

*ニューヨーク・ニューヨーク:ヤンキー・スタジアムで行われるヤンキース戦の試合終了時に、フランク・シナトラがカバーしたニューヨーク・ニューヨークが流れる。

 

読書の方々へ

『ディーラーは死なず』も今回で60回目を迎えました。

主人公の仙崎了は行内外において、一年以上も獅子奮迅の戦いを演じたため、疲れたことと思います。

そこで少し休暇を取らせてあげることにしました。

その間、作者の仙崎了も、休暇を取らせて頂きます。

休暇中に新たな構想を練りながら、第二巻に備えたいと考えています。

これからも主人公の活躍にご期待ください。

読者の方々には。ここまでお読み頂きましたこと、厚く御礼申し上げます。

仙崎 了(2018年7月29日)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第59回   「岬の旅立ち」

土曜(14日)の晩、国際金融新聞の木村宛てにメールを送った直後にスマホが鳴った。

岬からである。

「了、やっとVISAが下りたの。
それで連絡をと思って」

「そっか、いよいよか。
淋しくなるな。
でも、岬の望んでいることが少しずつ叶って行くのだから仕方ないってことか。

それでいつ頃行くんだ?」

「夏は日本人観光客が多いので、MOMAの方では早めに来てもらいたって。
一応、来月上旬には行こうと思ってる。

既に当座の住まいも用意してくれてるらしいし・・・」

「結婚できないのは分かってるつもりだけど、これで決定的だな」

「そうかもしれないけど、もしかしたらってことも。
人生なんて分からないものよ」
長い間離婚がまとまらずに沈み込んでいたが、今は何の屈託もない様だ。

「ヘー、岬も随分と成長したと言うか、強くなったって感じだな。
いずれにしても、元気でな。

岬がそっちに行くのは山下に伝えてある。
何かあれば、必ず彼に相談しろよ」

「ええ、分かってる。
了も元気で。

そして出張であっちに来るときは連絡してね。
それじゃ、切るけどいい?」

「・・・ああ、それじゃ」
同時にスマホが切れた。

人生とは皮肉なものである。

俺がニューヨーク勤務を終え、岬がニューヨークで働く。
‘岬の離婚は俺との結婚’と考えていたら、それが永遠の別離となった。

‘9年前のあの時、しっかりと掴んだはずの手を何故離してしまったのか’
悔やんでも悔やみ切れない思いが切なく胸に残り続けた。

途中でpauseにしておいたthe Fabulous Baker Boys のサントラを再びplay モードに戻した。

いつもならドライブと仕事を快適にしてくれるメロディーだが、今は映画のテーマ通りの大人の失恋を描いた切ない旋律でしかない。

ベッドのサイドテーブルに置いてあるラグロイグのボトルを手に取ると、液体をグラスに注ぎ、ゆっくりと喉に流し込んだ。

‘来週は久々に思いっきりポジションを取るか’

 

日本が休日となった週初の16日、ドル円は海外を通じて112円台前半での模様眺めの展開となった。

そんな相場展開にも、翌日(17日)の海外時間に変化が現れ、ドルが買い気配になった。

この日、パウエルFRB議長の議会証言がある。
彼から新味のある言葉飛び出てくるとは思わないが、今の市場はドル買いに前掛かりだ。

‘米景気に楽観的である’や‘漸進的利上げを続ける’と言った従来と同じ証言でも、市場はドル買いの理由にするはずだ。

果たして、議会証言は正にそんなものだった。

銀行を出る前、山下にメールを入れておいた。
・・・・・90(112円90銭)以上で、100本売ってくれ・・・・・

午前2時過ぎ(東京の18日)、スマホにメールが届いた。

・・・・・昨日のうちに90で50本、数分前に92で50本、ダンです。
おやすみなさい・・・・・

・・・・・了解。
悪いけど、マイクにこのことを連絡しておいてくれるか。
そして東京でも、あと100本売るつもりだということも・・・・・

 

翌日(18日)の東京の朝方も、ドル円は買い優勢の展開になった。

「さっきから客は結構売ってくるけど、あまり落ちないな?」
誰に言うともなく、言葉が出た。

「はい、買いが引きませんね。丁度(113円丁度)を割ると、買いが出てきます」
沖田が返事をする。

「そんな感じだな。
もう少し待つか」
今日、さらに100本売るつもりだ。

午後に入ってもドルの買い気配は変わらなかった。
3時過ぎ、急に動きが早くなり、朝方売れなかった水準の113円08銭を抜き、113円14銭まで上昇した。

‘ここで売るしかないか’

「沖田、100本売る。
そっちで50頼む」

「10(113円10銭)で50」

「了解、俺は09(113円09銭)で50」

「ニューヨークで100本、こっちで100本、トータル200本ですか。
課長が勝負するときは、根拠以前に何か感じるんですか?」

「はっきりした根拠があるときもあるが、今日のはちょっと違うかな。
敢えて言えば、なぜ皆がこんな高値でドルを買っているのか良く分からない、というのが根拠って言えば根拠かも。

米中貿易摩擦の解釈は人それぞれだと思う。
ただ、俺はそれがドル買いに結びつくという理屈が釈然としないんだ。
112円前後までの買いは大方ショートカットだろうが、今買っている連中は俄かロングだ。

市場の大勢がセンチメントに負けることがある。
それが今のドル買いの様な気がする。

そんなときは、誰かのちょっとした発言や出来事で、急落することが多い。

俺に運があれば、誰かが何かを言ってくれるかもな。

まぁ、そんあところか。

それはそれとして、山下にGTC(good till cancel)で3円15(113円15銭)でもう100本の売りオーダーを出しておいてくれ。

あと、3円40は年初来高値だから、一応call levelということで頼む」
年初来高値を抜けると、必ずメディアが騒ぎ立てる。
それが市場心理を煽ることがある。

「了解です」

沖田にリーブオーダーを頼むと、東城に電話を入れた。

 

「仙崎です。

今、宜しいでしょうか?」

「おう、大丈夫だ。
どうした?」

「私のオーバーナイトのポジション・リミットの件ですが、もう100本頂けますでしょうか?

今、日中は無制限ですが、オーバーナイトは200本なので、300本にして頂きたいと」

「分かった。
勝負にでるのか?」

「はい。
既にショート200本振ってますが、もう100本追加するつもりです」

「そうか、お前のことだ、何か感じるものがあるんだろう。
さして根拠もないのにな」
笑いながら言う。

「本部長、幾ら何でもそれは言い過ぎじゃないでしょうか?」

「悪い悪い。

ところで、来週の火曜日、‘下田’でどうだ?
先日のニューヨーク出張の労いだ」

「もちろん、喜んでお引き受けします。
それでは、リミットの件、宜しくお願い致します」

 

それ以降、ドル円は19日に113円18銭まで上昇したが、その日のうちに相場付きが一変した。

トランプがFRBの利上げ姿勢に不満を示す一方で、「強いドルは米国にとって不利」と発言したのだ。

週末の金曜日にも、同じ内容がツイッターに書き込まれたことで、ドル円は111円38銭まで沈んだ。

別にラッキーとも思わなかった。
頭に浮かんだのは、‘これで夏休みが取れる’、それだけである。

 

土曜日の晩、ラフロイグのボトルとグラスを手にしながら、デスクへと向かった。

国際金融新聞の木村に来週のドル円相場予測を書くためである。

G20中銀総裁・財務相会合でブエノスアイレスに出張するが、メールを送ってくれと言う。

BGMにはソールシンガーJohn Legend の ‘Get lifted’をチョイスした。

インストルメント・アルバムではないが、文字通り気分を持ち上げてくれるのが良い。

 

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木村様

 

遠隔地への出張、ご苦労様です。

先週のメールで、‘最近相場が見えていない’と書きましたが、今週ドルを売ってみました。

112円以上のドル高はマーケットに従った単なる俄かロングによって作られた相場であり、さもない切っ掛けで簡単に崩れると考えてのことです。

今月下旬に日米新貿易協議を控えていることを考えれば、トランプの「ドル高に否定的な発言」は正にグッドタイミングでした。

他方、米国のイールドカーブのフラットニングが気になるところですが、米株が足踏みした出したこともあり、この辺りがもう少しクローズアップされてくると、ドル一段安もありというところでしょか。

来週のドル円相場は、ドルが急落した後だけに若干の反発があるかもしれませんが、110円割れもありと見ています。

予測レンジ:109円20銭~112円80銭。

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

p.s. 暫く夏休みを取ります。
メールは部下の沖田に頼んでおきますので、宜しくお願い致します。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第58回 「挑戦」

月曜日(9日)の午前中、ドル円に下がる気配は見られなかった。

「沖田、もう下は無理そうだな」

「そうですね。
客も輸入(ドル買い)が多いですし、微妙に上に行きたがってる感じもありますね」

「そっか、50本買ってくれるか?」

「45(110円45銭)です」

「ありがとう、先週のショート(111円01銭の売り)の利食いで処理を頼む」

「了解です」

「野口、ユーロドル、50本売ってくれるか?」

「65(1.1765)です」

「サンキュー、下のロング(1.1605の買い)の利食いに充ててくれ」

「了解」

「二人共、どう思う?」

「ドラギ(ECB総裁)が利上げに慎重な姿勢を維持していることを考えると、ユーロ圏全体の景況感が今一つなんだと思います。

主軸国ドイツのIFO景況感指数が低下しているので、ユーロを追いかけて買うのはリスクが高過ぎるかと。

ここからのユーロドルはショートで臨もうと考えています」
ユーロについて野口が言う。

それに沖田が続く。
「CPIの水準は2%に達してますし、この先のフェド(FRB)の仕上げは正常化ではなく、引き締め的なものと考えて良いかと思います。

言い換えれば、最近課長が言ってる様に、‘フェドがこのまま利上げを急げば、先々景気をオーバーキルする可能性が高い’ということです。

ただ、現時点で市場はそこまで考えて動いていないのも事実です。
まぁ、9月のFOMCが近づくに連れて、年内の利上げ回数とか、利上げ幅とかの話が、また市場の材料になるのかと。

中期的な話ば別として、今週辺りは、ここから少し買って、過熱感が出たとろこで売るという戦略で良いのかと考えています。

値動きも上ですしね。

第一ターゲットは1円39(111円39銭)、第二ターゲットは13円40(113円40銭)ですが、その水準の手前で止まる様でしたら、利食いの売りか、ショートを振る。

逆に抜ける様でしたら、伸びたところで売る、そんな感じでしょうか」
沖田が冷静にまとめた。

「そうだな。
二人共、正しいと思う。

米中のやりとりに惑わされ、リスクオンになったり、リスクオフになったりするが、少しドルの上、ユーロの下を見ておくか。

それじゃ、今週も頑張ろう」
そう言い、意見の摺り合わせを終えた。

午後に入ってもドル円は110円50銭を中心とした模様眺めの展開が続いた。

ディーリングをするには最悪の日だが、事務処理や未読メールを整理するには最適な日である。

Outlook を クリックすると、50以上の新規メールが入っている。
件名を一覧して、不必要なと思われるものを削除すると、二件しか残らなかった。
一件は重要会議の日時の連絡であり、別の一件は東城からのものだった。

東城からのメールはニューヨーク支店長清水から東城宛て送られてきたものの、転送である。

 

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清水さんからのメールを転送する。

横尾君がNYへの転勤に際して挨拶に来るそうだが、現場間の打ち合わせもあるだろうから、適宜取り回しておいてくれ。

 

東城

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東城本部長

 

仙崎を支店に出張させてくれた件、改めて感謝する。

ただ、彼が極めて優秀なことは認めるが、もう少し上の者に敬意を払う様、教育しておいてくれ。

ところで、スイスの横尾がNYに転勤する際、君のところに挨拶で寄りたいと言っている。

彼もNYのトレジャラーだ。

「縦割りの本部制」だから、彼が本部長である君のところに転勤の挨拶に行くのは当然だ。

宜しく頼む。

 

NY支店 清水

p.s.横尾の出張日時は7月12日(金曜日)

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東城には‘了解しました’とだけ書いて返信した。

清水は東城が俺にメールを転送するのを承知の上で、嫌みを書いてきたのだ。

敢えて「縦割り本部制」を挿入してきたのは、頭取から本部制ルールを破ったことを叱責されたことを根に持っていることの証である。

‘呆れてものも言えないな’

 

金曜日の午後、人事部の女性に付き添われた見慣れない男がディーリング・ルームに入ってきた。

横尾である。
身長は175センチ前後、がっちりした体躯の持ち主は目が鋭い。

女性は横尾を東城の部屋に案内すると、その場を後にした。

それから小一時間ほどすると横尾が部屋から出てきた。
二人の会話が終わった様である。

すると部長の田村が
「よく来たな、横尾」
と言って、自ら東城の部屋の前まで歩み寄って行った。

二人は日和の上司と部下の関係だ。
田村の話では、横尾は自分が手塩にかけて育てた優秀な為替ディーラーだそうである。

数日前、田村が「横尾があっちのトレジャラーになれば、うちの本部も相当に強固になるのは間違いない」などと言っていたが、それはそれで良いことだ。

ただ、横尾の人間性が気に懸かる。

二人は部長席で談笑しているが、田村はいつになく楽しそうだ。

暫くすると、田村の「オーイ、仙崎君」という声を背中で聞いた。
ディーリング・チェアを回転させると、田村が手招きしている。

‘自分で横尾をこっちに連れてくれば済むものを、自身の行内における立場を見せつけたいのだろう’

「仙崎君、彼が横尾君だ。
まあ、宜しく頼むよ」
田村が機嫌良さそうに言う。

「初めまして、宜しくお願いします」
と素直に挨拶した。

「こちらこそ、宜しく。
優秀な仙崎君と一緒に仕事ができて嬉しいよ」
親しみの籠った挨拶が返ってきた。

‘挨拶からは何の違和感も感じられない。
噂とは違い、本当は好人物なのか’

横尾を部内の人間に紹介し終えたところで、彼が‘少し話がある’と切り出してきた。

「場所を移動した方が良いでしょうか?」

「そうだな。
できれば」と横尾が言う。

「応接室にいる。
何かあったら、呼んでくれ」と沖田に言い残し、ディーリング・ルームの隣にある応接室へと向かった。

 

「お話とは?」

「言っておくが、俺は稼げる男だ。
ただ、部下に足を引っ張られるのは困る。

山下は君を尊敬し、そしてディーリングもそこそこと聞いているが、バジェット(予算)クリア程度の実力じゃ物足りない。

そう、彼にはもう少しグリーディーになって(欲を出して)貰いたいんだ。

それにローカルスタッフも、それ程優秀なヤツはいないらしいな。
それも困る。

つまり、状況次第で人事に手を加えるつもりってことだ」
ディーリング・ルームでは紳士然としていた横尾が突然、牙を剥いてきた。

‘どうやら、噂通りの男の様だな。
それにしても、やけにニューヨーク支店の内部事情に詳しいのが気に懸かる。

清水支店長はローカルスタッフのことまでは知らないはずだから、トレジャリー部門に内通者がいるってことか’

「横尾さん、私に何が言いたいんですか?」

「端的に言えば、君に勝ちたいだけだ。
世界でも有数の為替ディーラーと言われている仙崎了という男にな」

「であれば、ご自身のトラックレコードで示すだけで良いじゃないですか。
何も山下や他のスタッフを巻き添えにする必要はないでしょう」

「だめだ。
自身の実績もさることながら、部門のヘッドとしては全体の収益も重要だからな。
適宜、人の入れ替えは行っていく」

「横尾さん、あなたの考えは間違ってる。

部門のヘッドは自身の実績を上げながら、部下一人一人のポジション管理もしなければならない。

部下のポジションが偏り過ぎていれば、あなた自身のポジションで調整しなければならないんだ。

たとえそのポジションが自身の相場観とは違っていても。

そしてあなたは自分の行動で部下を引っ張って行くべきなんだ。

むやみに人を入れ替えるのは止めた方が良い」

 

「言ってくれるじゃないか。
だがな、そうやって部下を庇ってしまえば、部下は成長しない。

まぁ、いい。
俺は俺のやり方でやるよ」
その顔にはさっきまで見せていた穏やかな目つきはもう微塵もなかった。

‘もはや会話を続け様がない’

彼に先んじてソファーから立ち上がった。

 

ドル円相場は、日々続伸し、金曜日には112円80銭を付けた後、112円35~40銭の気配で週を終えた。

 

横尾という人物に会い、暗澹たる気持ちで迎えた週末の土曜日、体が気怠く夕方までベッドに体を横たえていた。

志保と贅沢な時間を過ごしていた一週間前の気分とは雲泥の差である。

このままだと山下が苦境に立たされるのは目に見えているが、今彼に言えること、やってあげられることは何もない。

‘まぁ、何かが起きたら、その時に動くしかない’

一気にベッドから抜け出ると、シャワーを浴びた。

少しずつ生気が甦ってくる。

ザっと髪の毛を乾かし、冷蔵庫からハートランドのグリーンボトルを取り出すと、一気に半分ほど飲み干した。

‘早いとこ、一仕事済ませてしまうか’

Dave Grusin の ‘Fabulous Baker Boys’のサントラをBose のミュージック・システムに差し込んだ。

映画の内容を知っていると切なくも聞こえるメロディーだが、不思議と仕事のノリが良くなる。

PCに向かうと、outolookをクリックした。
国際金融新聞の木村に来週のドル円相場予測を書くためである。

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木村様

トランプは貿易収支の赤字を企業収益の赤字と勘違いしている節がありますね。

「赤字=マイナス=悪」というイメージしか彼の頭にはないんでしょうか。

国際収支表の見方・読み方を今更彼に教えても仕方のないところですが、ムニューシン(財務長官)あたりがその辺を教える必要があるのかとも。

もっとも、‘トランプの頭ではそれを理解しえないから、教えない’というのが事実でしょうか。

話はドル円相場に変わりますが、正直言って最近相場が見えていません。

感覚的にはドルに底堅さを感じていますが、ここまで買われたのは節目節目でショートが出来たからだと思っています。

そんな程度ですから、予測レンジだけをお伝えしておきます。

来週の予測レンジ:111円~113円75銭

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

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メールを送り終えた途端、スマホが鳴った。

岬からである。

 

(つづき)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第57回 「リクルーティング」

月曜の朝(2日)、課のミーティングを終えると、東城の執務室へと向かった。
出張報告のためである。

部屋に入ると、皇居の森を眺める東城の姿が目に入った。
相変わらず背筋が伸び凛とした後ろ姿だ。

「まぁ、座れ」と言いながら、自身も窓に背を向けた。

「何とか、任務を終了致しました」

「そうか、ご苦労だった。
短期決戦ということもあって、何かと大変だったろう。
そのうち、労うよ」

「ありがとうございます。

山際さんのロスは全部取り戻しましたので、その件で山下が清水さんからプレッシャーを受けることはないかと思います。

しかしながら、清水さんはまだ、焦げ付いたローン債権の償却分を多少でも他部門の収益で補いたいと考えている様です」

「あっちでお前が清水さんとやりあったこと、嶺さんから聞いている。

清水さんは頭取に相当厳しく言われたらしい。
そのことを根に持ってる様だから、また難題を押し付けてくるかもな。

こっちに戻れば、ナンーバーツーの目もあるだけに、彼も躍起だ。
この先何もなければいいが。
特に山下が心配だな」

「そうですね。
ケアしておきます」

「頼んだぞ。
それじゃ、近いうちに一席設けるよ」

「期待しています。
やはり寿司が良いですね。
海外出張で和食に飢えてますから」

「’Chisa’で毎晩和食にありついてたくせにか」と冷やかしてくる。

照れ笑いで返すしかなかった。

「それじゃ、‘本格的’な和食でもアレンジするか」と言いながら、
東城は執務机に向かって歩き出していた。

‘相変わらず温かいな、この人は’

 

デスクに戻り、あらためて沖田に留守の間の礼を言った。

「山際さんの具合はやはり良くないみたいだ。
いずれにしても、もう直ぐ帰国する。

相場どうだ?」

「ドルがビッド気味ですが、上値を追いかけて買う向きは少ない様です。
市場が米中貿易戦争の動向を気にしているのは明らかですね。

それにアメリカの独立記念日を控えてますし、ドル円は110円台を中心とした保ち合いでしょうか」

「多少ドルロング気味か・・・。

アメリカの雇用統計発表(6日)前にポジション調整があるはずだから、一旦売りがワークしそうだな。

貿易摩擦は米中や米欧だけの問題じゃない。
日米通商交渉を控えていることを考えれば、対円ではドルショートが根っこのポジションになるかも知れないな。

いずれにしてもドルを売るか。

50本売ってくれ」

「02(111円02銭)です」

「了解。
利食いもストップも不要だ。

野口、ユーロドルはどんな感じだ?」

「はい、もう少し下がるかも知れませんが、移民問題を巡るドイツ政権内での対立が収まれば、上かと思います」

「目先で1.15台で止まれば、チャートはトリプルボトムっぽいな。
どこまで下がると思う」

「16(1.1600)割れぐらいでしょうか」

それじゃ、1.1605で50本の買いを入れておいてくれ」

「了解です」

‘市場がダレる8月に長い休暇を取りたい。
行先はヨーロッパでもアメリカでも良いから旅に出たい。

そのためには少し稼いでお必要がある’

 

ドル円は週半ばに110円27銭まで落ち、110円前半で週を終えた。

米6月雇用統計は、NFP(非農業部門雇用者数)が市場予測を上回って増加したものの、失業率が上昇し、平均時給が悪化した。

雇用市場に何らかのスラック(たるみ)がある証拠だ。

‘米中貿易戦争は必ず米経済に何らかの悪影響をもたらす。

この先の景気指標が悪化すれば、年内2回の米利上げ見通しが1回になる可能性もある。
市場にそうしたコンセンサスが生まれれば、予想外にドルの下値は脆いかもしれない’

週初に作ったドル円のショート、ユーロドルのロングはそのまま持ちキャリーしている。

 

土曜日の晩、志保と会う約束がある。

普段より早めに国際金融新聞の木村にドル円相場予測のメールを書き出した。

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木村様

 

巨額な米貿易赤字は対米黒字国の対米証券投資でファイナンスされているのは言うまでもありません。

急激なドル安が訪れると、海外投資家の資本流出が強まり、一段とドル安が加速することになります。

トランプが仕掛けた対中貿易戦争への対抗措置として、中国が保有する米国債を売るという戦略を取った場合、世界経済が金融ショックと財(モノ)ショックのダブルパンチを食らいかねません。

11月の中間選挙までの時間を考慮すれば、トランプは落としどころを考えているのでしょうが、そ以前に金融市場の懸念が昂じると拙いですね。

木村さんの筆に期待しています。

予測レンジ:108円~111円50銭

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

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志保とは帝国ホテルのロビーで6時に待ち合わせていた。
自腹ではないが、彼女は帝国ホテルを東京での定宿にしている。

エントランスに入ると、左手前方のピラーに背をもたれる様に雑誌を読む彼女が目に入った。
ジーンズに白いブロードのシャツというシンプルな出で立ちが、背の高い美貌の持ち主を一層引き立てている。

‘美人だ’

俺に気がついた彼女が小走りにこっちに寄って来る。
二人の距離が縮まっても、この日の彼女はハグをしようとしなかった。
例の件があったので、厳しく言ってある。

「相変わらず綺麗だな」

「ヘぇー、了もお世辞を言うのね。
綺麗だなんて言ってくれたの初めてよ」

「そうだっけ?
でも、綺麗だから綺麗と言ったまでだ。

ところで、何を奢ってくれるの?」

「マイクは何でも美味しいものを食べて来いって言ってくれたから、高級店のお寿司かな。
和食に飢えてるので」

‘つい最近、俺が言った台詞だ’

「分かった」

寿司処‘下田’へは別館に通じる裏口から出た方が近道だ。
志保は歩き出した俺の左側に回り、手をつないできた。

銀座の土曜の午後6時過ぎ、知り合いに見られても不思議でない場所と時間である。
だが、なぜか人の目も気にならなかった。

‘下田’には10分とかからないで着いた。

引き戸を開けて、顔を覗かせると、
「おっ、了さん。珍しいね、土曜日に来るとは」。
いつもながらの店主の威勢のいい声が飛んできた。

「ええ、ちょっとヤボ用で。
二人大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫だよ」

その言葉が聞こえたのか、志保も店内に入ってきた。

それと同時に、
「おい、了さん、凄い別嬪さんを連れてきたね」
と店主が驚きの声を上げた。

「だから、そのうち飛び切りの美人を連れて来るって言ったろ」

「そうだったな。
一体どこで?」
とか、少ししつこい位に聞いてきたので、適当に話を遮った。

「大将、お任せで頼むよ」

「はいよ」と言うと、店主は本来の仕事に励みだした。

数貫の寿司をつまんだところで、
「本当に美味しい、やはり日本のお寿司は凄いわ」と感激の声を志保が上げた。

「それは良かった。
ところで、何か話があるんじゃないの?

いくらマイクが俺の親友だからって、ヤンキース・レッドソックス戦のチケット代わりに’志保’ってのも不自然だしな」

「その話は事実よ。
チケットのことを本当に申し訳ながってたから。

でも、マイクに‘コネチカットに来る気はないか聞いてきてくれ’って頼まれたのも事実」

「そうか。
それじゃ、一応答えを持って帰らないと拙いな。

‘今は無理だけど、いつかそんな日が来るかも知れない’って言うのが答えだ」

「ふーん、そうなんだ。
残念ね。

そうなれば、あっちで一緒に暮らせるかも知れないのに・・・」

「おいおい、話が飛躍し過ぎだぞ。
万が一俺があっちに行っても、志保と一緒に暮らすことにはならないだろ」

「それはそうね」
少し悲しそうな声を出して言う。

その後、他愛のない会話が2時間ほど続いた。

少し客が増え始めたのを潮時に店を出た。

 

ホテルへの道すがら、
「今晩はずーっと一緒にいてくれるんでしょ?」
と俺の顔を覗き込む様に聞いてくる。

「ああ、そのつもりだけど」

「えっ、そうだったの。
ふーん」

‘何だか嬉しそうである’

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第56回 「ミッドタウン・トンネル」

月曜日(25日)、‘トランプ大統領が中国資本による米ハイテク企業への投資を制限する’との報を受けてドル円は109円37銭まで下落したが、その直後にそれを否定する政府高官の発言があり、110円台へと急反発した。

先週末に作ったショートのコスト(110円65銭)が良過ぎたため、109円前半で利食いそびれた格好である。

このディールで山際が出した損失200万ドルを完全に取り戻すことが出来たのに、明らかなミスだ。

だが、運の良いことに、翌日(26日)のオセアニア市場で再びドルが下がり出した。

6時(NY午後6時)過ぎ、東京に電話を入れた。
電話に出たのは小野寺である。

「この売りは何だ?」

「昨日報道された米国の中国資本に対する規制話がぶり返した様です。
コストの悪い俄かロングの落としの様ですが・・・」

「そうか、これから俺の言うことをよく聞け。
その結果次第で、俺が今週中にもこっちを引き払えるかどうかが決まる」

「はい」
緊張しているのが伝わってくる。

「必ずこの局面で、昨日の安値(109円37銭)を試しに行くはずだ。

だが、37を抜けない場合は、この流れは一旦止まる。

つまり、お前が37を抜けないと思ったら、適当に50本買え。

抜けた場合は、自分で50本の買い場を見つけろ。

分かったか?」

「はい、了解しました」

「結果は電話をくれ。
そっちの午前中には決着がつくはずだ。
それじゃ、頼んだぞ」

「頑張ります」

 

午後11時を回りかけた頃、小野寺から電話が入った。

「課長、今のところ下は37(109円37銭)までです。
自分の判断で43で買いました。

月曜からの下値テストはこれで3回目なので、この局面での下値更新は難しいと判断しました。

それで宜しかったでしょうか?」

「ああ、上出来だ。
お前がそう思い、そう感じたのなら、それで良い。
よくやってくれた。
ありがとう。

これで、来週からはそっちで働けそうだな。
そう沖田にも伝えておいてくれ。
それじゃ、来週会おう」

「失礼します」

‘一戦終了だな’

 

翌朝(27日NY)、8時に支店に向かった。
少し遅めの出勤である。

支店のあるビルのセキュリティーを抜け、エレベーターで21階へと昇る。
ディーリング・ルームに入ると、もう空気が動いているのが感じられた。
ディーラーの朝は早い。

「Good Morning!  お早う!」と皆に声をかけながらデスクへと向かう。

ディーリング・チェアに座りながら、山下に朝の気配を聞いた。

「トランプの中国投資制限の件、当初伝わったよりも緩くなるという話で、少しドルがビッド気味です。

彼の右左の発言で振り回されて、ウンザリですね」

「まったくだな。
それでも、彼の言動で実際に相場が動く。
仕方ないな。

ところで、昨日までで230万ドル程稼いだから、例の件は決着が付いた。
週末には東京に帰る。
ここに来るのは今日が最後だ」

「そうですか、また淋しくなりますね」

「そうだな。
また定例の出張もあるし、数か月後には会えるさ。

山際さんの件だが、お前が責任を持って帰りの飛行機に乗せてくれ。
頼んだぞ」

「はい、間違いなく。

ところで、来週スイスの横尾さんがこっちに出張してくるそうです。
正式の異動日は16日ですが、山際さんの帰国が来週なので、引き継ぎを済ませておくとのことです」

「そっか、お前は手探りで横尾さんとの関係を構築していくしかないな。
無茶するなよ。

俺はこれから清水支店長のところに報告に行ってくる。
それじゃ夜、‘Chisa’で会おう」

 

支店長の清水には、9時に挨拶に行くと予め伝えてある。
約束の9時に支店長室に行くと、直ぐに部屋に通された。

「一応、山際さんの損失は取り戻しましたので、これで帰らせて頂きます」

「そうか、ご苦労だった。
しかし、本当に君は凄いやつだな。
僅かの間に230万ドルを稼ぎ出すとは。

もう少しこっちで稼いでってくれないか?」

‘半ば本気で言っている。
調子の良いやつだ。
付き合ってられないな’

「もう直ぐ、スイスから横尾さんが来るらしいじゃないですか。
相当に優秀な方だとお聞きしてますから、それで十分じゃないですか」

「まぁ、それもそうだ。
ところで今回の出張で、頭取から本部制の内規を遵守する様に厳しく言われたが、あれは誰の仕業だ?

東城か、それとも他の住井出身者か?」

’自分の咎を顧みもせず、よくもそんなことを聞けたものだ’

「私と思って頂いて結構です」
半ば憤りを込めて答えた。

「ほう、随分と潔良いな」

「私は部下を守る立場にあります」

「部下とは山下のことか?」

「部下であれば、誰でも同じです。

今回の問題はそもそも支店のローン債権のコゲツキが事の発端であって、ファイナンス本部の問題です。

それを無関係の部に皺寄せするのは理に適いません。

ましてや今回、目の前に転勤を控えた山際さんや赴任して間もない山下に無理を押し付けた。

あなたは、北米・中南米の頂点に立つ身であり、たかだか3000万ドル程度のコゲツキでその地位が揺らぐとも思えません。

帰国すれば筆頭常務、否、副頭取の地位も約束されている。
だが、あなたは自身のキャリアに少しでも傷がつくのを恐れた。

私は人生は為替相場みたいなものだと思っています。
ディーリングは上手く行くこともあれば、行かないことも度々ある。
我々為替ディーラーは、それぞれの意思で一切相場を動かせないからです。

つまり、支店長のご自身の人生も思いのままにならないってことじゃないでしょうか?

あなたの部下は組織やそのルールに縛られながら、一生懸命働いている。
そうまでして銀行に尽くしている彼らに、内規を歪めてまで余計な負荷をかけるのは如何なものかと・・・」

「仙崎、今この俺に何を言ったか、分かってるのか?
お前がさっき言った様に俺はまだ上に昇る。
そのことを承知の上での言葉だな。

もう日本に帰れ、この馬鹿者が」
憤りで声が震えている。

‘勝手にほざけ’

 

その晩、山下と’Chisa’で夜更けまで飲み続けた。
支店長室での出来事は一切口にしなかったが、早晩彼も知ることになる。

山下との別れ際、「何かあったら、必ず俺に相談しろよ」とだけ言葉を残した。

「はい、もちろんです」
元気の良いリターンだ。

‘頑張れよ’

 

木曜(28日)はコロンビア大MBA時代の友人が勤務するニューヨーク連銀を午後に訪ね、その後早々とホテルの部屋に戻り、ベッドに身を投げ出した。

疲れ切っていたせいか、かなりの時間寝てしまった様だ。
腕時計に目をやると、時刻は7時半を回っている。
もっとも、この時刻のニューヨークはまだ明るく、真昼間の様である。

外が明るいので何となくアルコールを入れるのも気が引ける。
だが、自然とミニバーからマカラン18年のミニボトルを取り出し、グラスに注いでいる自分がいる。
誰が最初に発した言葉か知らないが、‘滑らかな舌触りと芳醇な香り’とは上手い表現だ。

少し酔いが回った頃、明日、ヤンキース対レッドソックス戦があることを思い出した。

今シーズン、3勝3敗で迎えた第7戦が、ヤンキー・スタジアムで開催される。
このところ、ほぼゲーム差なしで首位争いを続けている人気チーム同士の一戦だ。

’行かない手はない’

だが、今更チケットが手に入るはずはない。
Sold outを承知の上で、ホテルのコンシェルジュに聞いて見たが、答えを待つまでもなかった。

‘でも、行きたい’

困ったときのMike頼みだ。
まさかを祈って電話をしてみた。

‘No kidding!’
と一蹴された。

‘それはそうだな’

 

ドル円相場は金曜(29日)のニューヨークで5月22日以来の高値水準となる110円94銭まで上昇した。

山下の話では、NYダウが堅調さを取り戻したことで、このところのショートが切らされたという。

だが、この二日間、自身で相場を見ていない。

‘感覚的には少しドルがビッドだが、依然として上値は重たい。
そんなイメージしか湧かない‘

国際金融新聞の木村へは正直にそのことを伝え、来週の予測レンジ:109円50銭~111円50銭とだけ書いてメールした。

 

ヤンキース対レッドソックス戦はテレビでしか見ることができなかったが、ヤンキースが8-1で大勝した。
これでヤンキースがゲーム差なしの首位に返り咲いたが、当分この2チームの首位争いは続きそうだ。

 

土曜の午前10時過ぎ、チェックアウトを済ませると、タクシーでJFKへと向かった。
フライトは13時10 分発のJL005だ。

車はミッドタウン・トンネルを抜け、トールゲート(料金所)に差し掛かった。

ここの通過には時間がかかるため、運転手は必ずゲート横の’Stay alive’のプレートを見ざるを得ない。
安全運転を促す上手い仕組みである。

‘大きなお世話だ。
ディーラーは死なない’

ゲートを通過し、クイーンズに入った。
束の間のニューヨーク生活もこれで終わりである。

空港に着いた後、搭乗までには相当の間があった。
ビジネス・クラス以上が使えるラウンジで、スコッチを飲みながら時間を潰すしかない。

ラウンジの奥のテーブルでニューヨーク・タイムズを広げ、スコッチを飲みながら寛いでいると、「Ryo」と呼ぶ声が聞こえた。

聞き覚えのある声だ。

‘でも、まさかここにいるハズがない’

でもそのまさかだった。
志保である。

「どうして、ここに?」

「マイクよ。
今日、了がこのフライトで東京に帰るから、一緒に行って来いって」

「そいう言えばアイツ、一昨日の電話で‘何日の何時のフライトだ?’って聞いてたな」

「野球のチケット、ダメだったんですってね。
私はその代わりらしいわ」
胸の前で両掌を下に広げながら言う。

その仕草で、ふと彼女が愛おしくなり、優しく微笑んだ。

‘余計なことをして、でもアイツらしいな’

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。