月別アーカイブ: 2018年6月

第55回 「焦り」

ニューヨークも朝からそんな展開が続いていたが、午後になると、少しずつドルがビッドになり出した。

「どう思う?」
山下に感触を聞いて見る。

「多少ビッド気配ですが、これ以上買う気はなさそうですね」

「90(110円90銭)がポイントだが、確か11月の高値からの抵抗線もその辺に降りてきてるはずだが?」

「はい、85近辺でしょうか」

「動きのない相場だが、可能性のあることはすべてやるしかないな。

50本、売ってくれるか」

‘少し自分で焦っているのが分かる’

「55です」

「了解。
下がるとすれば、何処までかな?」

「基準線が9円75、雲が8円80。
それに3月からの支持線が9円10から週末に45近辺に上がってきますが」

「なるほどね。
それじゃ、さっきのショートの利食いとニューポジ(新規のポジション)、合わせて100本の買いオーダーを9円75でuntil further noticeで回しておいてくれ」

「了解です」

「ユーロドルは、ここで(1.16前後)の売買は手控えておいた方が良さそうだな。
今日はもう止めにしよう。
果報は寝て待てだ」

「そうですね。
それじゃ、‘Chisa’にでも行きますか?」
山下のこういう時の乗りは良い。

「そうだな。
俺も久しぶりだ。
行ってみるか」

‘Chisa’はニューヨーク支店御用達みたいなカウンター・バーである。
店名はママの名前‘千沙’からとったとのことだ。
千沙は美人ではないが、可愛らしくて話上手なので人気がある。

7月に家族がこっちに来る予定の山下は、ほとんど毎日、夕飯をここで食べてるらしい。

店は45ストリートを東に向かって2nd アベニューと3rdアベニューの間にあり、支店から歩いて10分ほどのところにある。

店には6時過ぎに着いたが、まだ客の姿はなかった。

「あら了ちゃん、久しぶり。
今日はご出張?」

「ええ。
お元気そうですね」

「ええ、それだけが取り柄だから」と言いながら、
カウンター越しにオシボリを渡して寄越す。

「俺はビールにする。
食い物はお前に任せる」
カウンター・バーだが、日本人客の多いこの店では、ほとんどの定番和食を作ってくれる。

「それじゃ、僕はビールとかつ丼。
あっ、かつ丼は大盛でお願いします。
後はお任せで」

「相変わらずだな、お前は」
と山下をからかう。

山下のこっちでの生活ぶりなどで話が盛り上がった頃、
「東京時代が懐かしいですね」とポツリと言う。

「おい、もう里心がついのか?
まだ先は長いぞ」

「そうですね。
それは分かってるんですが・・・。

山際さんがいなくなり、そして評判の悪い横尾さんが来る。
何となく、心細さを感じています」

「何かあれば、今回みたいに直ぐに俺が来る。
心配せずに頑張れ。
もう直ぐ、家族も来ることだしな」

「はい、頑張ります。
ところで、岬さんとはどうなりました?」
突如、思い出した様に聞いてきた。

岬がMOMAに来ることはまだ彼に伝えていなかった。

「ああ、実は彼女、当分こっちで働きたいと言い出した」
一連の話を聞かせた。

「えっ、そうなんですか!
それじゃ、当分結婚は無理ですね」

「当分というより、ほぼ絶望的だろうな。
いずれにしても、岬がこっちに来たら、何かと面倒を見てやってくれ」

「分かりました。
家内の親友ですし、その辺は任せておいて下さい」

「そっか。
頼んだぞ」

8時頃になると、支店の連中が少しずつ増えだした。
それをきっかけに店を出た。

「次は何処に行きましょうか?」
いつもの山下の常套句である。

「いや、少し疲れたので、ホテルに戻る。
お前は何処かへ寄って行くと良い」

‘200万ドルの決着を付けなければ、東京に戻れない’

山下にはそんな気持ちを明かさず、
「それじゃ」
と言って、ウォルドルフへと急いだ。

ホテルの部屋に戻り、PCにログインすると市場動向に目を通した。
ドル円は110円近辺まで落ちている。

‘何かあった’

市場関連のニュースのヘッドラインを一覧し始めると、
‘米中貿易摩擦、悪化’という文字に当たった。

‘トランプ、2000億ドル相当の中国製品に10%の追加関税、検討’との報道である。

それから数時間後の午前2時過ぎ(東京の午後3時過ぎ)、ドル円は109円55銭まで沈んだ。

ベッドサイドの電話を手にすると、本店のディーリング・ルームの番号を押した。
若手の声である。

「あっ、課長、お待ちください」と言って、沖田に代わった。

「沖田、ドル円、今幾らだ?」

「60aroundですが」

「50本買ってくれ」

「62(109円62銭)です」

「ありがとう。
これで100本ロングだ。

45(110円45銭)で100本、利食いの売りを入れておいてくれ」

「了解です。

ところで、例の件の進捗状況はどうですか?」

「今の利食いが上手く行けば、7割ほど決着がつくが、
来週までは掛かるかもな。

そっちは大丈夫か?」

「はい、問題ありません」

「そっか、手薄のときにテレビの件も頼んで悪かったな」

「いえ、美人キャスターの真横に座れてますから。
中尾さんはテレビで見るより実物の方が綺麗ですね」

「おい、おい。
大丈夫か?」

「問題ありません。
それに中尾さんは課長が好みみたいですから。

前回の打ち合わせのとき、何かと課長のことを聞かれました。
‘彼女がいるのか’とか」
笑って言う。

「馬鹿言え。
もう用件は済んだから、切るぞ」
と言って、受話器を置いた。

‘これで一息つけるな’

その後、ドル円は週半ばを過ぎると、110円台後半へと上昇した。

ドルロング100本は全て利食えた。

‘そろそろ仕上げ時かな’

21日(木曜)、東京の午後、沖田に電話を入れた。

「強いな。
パウエル発言か」

「はい、そうです」

昨日(20日)、パウエルFRB議長が‘利上げ継続には強い論拠がある’と発言した。
それがドル買いを誘発したのだ。

ポルトガル・シントラで行われたECB主催のフォーラムでの発言だった。

‘だが、パウエルは賃金の伸びが低い点も付け加えている。
株式市場も、断続的に利食い始めているのも気懸りだ。
戻りは売りかな’

「50本、売ってくれ」

「65(110円65銭)です」

「了解。
もし90(110円90銭)がtakenする様であれば、電話をくれ。
利食いもストップも不要だ」

「分かりました。

しかし、連日連夜で、体の方は大丈夫ですか?」

「正直言って、疲れてるよ。
ただ、もうひと踏ん張りだ。

心配してくれて、ありがとう。
それじゃな」

週末、ドル円は109円81銭を付けた後、109円95~00で引けた。

土曜日の夜、ふとパークアベニューを眺めたくなり、窓際へと向かった。
南北を行き交う車のヘッドライトが幾重にも重なり合い、不思議な幾何学的模様をアベニュー上に織りなしている。

‘チャート上に描かれた相場の裏にもこんな模様が描かれているのかも知れない。
否、もっと複雑なはずだ。
相場に携わる人々の恐怖と欲、それらの中には阿鼻叫喚と怨嗟が入り混じっているのだから’

頭を振り、その場を離れると、ソファーテーブルに置かれたウィスキーグラスを口に運んだ。
琥珀色の液体はマカラン18年である。
シェリー樽特有の甘い香りと滑らかな舌触りを楽しんだ後、液体を喉に流し込んだ。
市場に疲れた心が癒されていく。

やっと国際金融新聞の木村宛てにメールを書く気になった。
PCにログインし、outlookをクリックすると、無造作にキーボードを叩き出した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

木村様

時間軸や保ち合いの形状を見ると、そろそろ放れそうですね。

米利上げ話もドルの下支えにはなる様ですが、押上げ材料としては弱い気がします。

6.12関連も少し手垢がついた感じなので、貿易摩擦問題が急に顕在化するかもしれません。

来週の予測レンジ:107円50銭~110円90銭

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

追伸:来週、帰国予定です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(つづく)

 

 この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第54回 「山下との再会」

火曜(12日)、10時40分羽田発JL006便でニューヨークへと向かった。
便はJFK(ケネディー空港)に10時35分に到着した。
ほぼ予定通りの到着である。

空港建物から外に出ると、タクシーを拾い、運転手に「Waldorf」と告げた。

JFKのあるクイーンズ地区とマンハッタン地区(島)とを繋ぐミッドタウン・トンネルで渋滞に巻き込まれ、ホテルまでは1時間半近くもかかってしまった。

’ウォルドルフ=アストリア´は内部のしつらえが金持ちが好みそうなアールデコ調で好きではない。
だが、支店がホテルから2ブロックのところにあり、利便性を優先した。

チェックインを済ませ、部屋に入ると人心地がついた。
そんなときにミニバーに向かうのは長年の習性である。

ミニバーからマカラン18年のミニボトルを取り出すと、琥珀色の液体をグラスに注ぎ終えた。
その液体をゆっくりと舌で転がしながら喉へと送り込む。
マカラン18年特有の滑らかな舌触りと喉越しが良い。
勝手にミニバー付きの部屋を選択したが、今回の出張は支店勘定だ。

2本目のボトルをミニバーから取り出すと、ソファーに座り、山下に電話を入れた。
「さっきホテルに着いた」

「お疲れ様です。
今晩はどうします?」

「おい、いきなり今晩の話か。
いや、何も構わなくていい。
勝手知ったる場所だから、適当にやるよ。

明朝、会おう」

「そうですか。

米朝会談で相場も大きく動きませんでしたが、こっちの連中は総じて‘やっぱりな’という印象を持った様です」

「俺も機内のテレビで大体の様子を見ていたが、‘トランプの、トランプによる、トランプのための政治ショー’って感じだったな。

まぁ、米朝騒動はどうでも良い。
それよりも、貿易摩擦と日米欧の金融政策の跛行性が当面の問題だろう。

いずれにしても、仕事は明日から始める。
宜しく頼んだぞ」

「了解です」

その晩は外出もせず、夕食もラウンジバーの軽食で済ませた。
ラウンジ・ピアニストが奏でるジャズ風にアレンジしたバラードが心地いい。

 

 

翌日、7時にホテルを出た。

アストリア・ホテルの番地は奇数番号の301 Park Avenue、支店も奇数番号の5XX Park Avenueである。

南北に走るAvenueでは、通りの東側の番地は奇数であり、ワンブロック北に上がるごとに100番ずつ増える。

支店はホテルと同じサイドにあり、歩いて数分のことろだ。

ホテルから支店までの間に幾つかのベンダーが並んでいる。
一つのベンダーでコーヒー、それにクリームチーズとブルーベリー・ジャムを挟んだベーグルを調達した。

支店のあるビルに着くと、セキュリティー・チェックで山下が待っているのが目に入った。

見慣れた笑顔を浮かべながら、
「お早うございます」と言う。

「暫くぶりだな。

また少し太ったか」
とからかった。

「まぁ、食いものが食いものですし」
体重増を隠そうともしない。

支店は20階と21階を使用し、ディーリング・ルームは21階にある。
リテール(窓口業務)は行っていないので、路面店舗はない。

21階に着き、エントランス・エリアに入ると、受付に2名のセクレタリーがいる。
20歳代半ばのジェシーと50歳前後のナンシーである。

二人とも相変わらず元気そうで、ハグで迎えてくれた。

受付の先を右に曲がり、通路を20メートルほど進むと左手にディーリング・ルームが広がる。
手前に為替部門、そしてその奥にマネー部門がある。

まだニューヨークを離れて1年程しか経っていないせいか、ローカル・スタッフ達は気軽に声を掛けてくる。

転勤族の若手は皆、近づいてきて挨拶をする。

時間が早いせいか、まだ年長の転勤族の姿はない。
‘彼らへの煩わしい挨拶をしなくて済む’

早速、山下のデスクの横に座った。
山際のデスクである。

さっき買ってきたベーグルを食べながら、山下に状況を聞くことにした。

 

 

「ところで、山際さんの体調はどうなんだ?」

「精神的にも大分参っている様で、ディーリングどころではないですね。
昨日から有給休暇をとっています。

東城さんからの命令の様です」

山際の体調のこともあるが、彼が支店で勤務していると俺がディーリングをできないのだ。
本店の人間が稼いだ収益を支店の収益とした場合、それは本店からの利益供与に当たり、税金の問題が生じる。

山際が病気療養で休暇をとり、そのカバーで俺が出張し、その間に稼いだ分であれば、支店の収益としても問題はない。

そのため、東城に山際を休ませる様に頼んだのだ。

「それで、幾ら稼げばいいんだ?」

「例の清水支店長からの話がなければ、このところの山際さんのヤラレだけです。
つまり、200万ドルほどでしょうか・・・」

「そっか、その程度なら、そんなに時間はかからないな。
ところで、デスク本来の収益は順調なのか?」

「はい、ほぼバジェット通りです」

「分かった。
清水さんは今、本店の会議で出張中だ。
そこで頭取が清水さんに今回の話をする予定だから、例の件は心配いらない。

とりあえず、200万ドルを稼ぐことにする」

「了解しました。

課長がいると、何でもできそうですね」

「甘えるな!
そんなことじゃ、この先持たないぞ。

7月に入れば、スイスの横尾さんが来る。
彼は仕事はできるが、人間性に問題があると聞く。

気を引き締めておいた方が良い」
山下のために、少し厳しい口調で言った。

彼は素直にそれを受け入れた様だ。

「さて、仕事に取り掛かるとするか」

「はい」

 

 

13日(水曜日)のニューヨークの午後、FOMCでFFレートの目標値が0.25bp引き上げられた。

利上げは大方の予想通りだったが、政策金利見通し(ドットチャート)で年内の利上げ回数が4回に上方修正されたことでドルが買われた。

ドル円は直前の10円台半ばから急騰している。

「山下、売れるだけ売ってくれ!」
一瞬の急騰・急落では、かなり特別な与件でない限り、相場の動きと逆のポジションを取る方が有効だ。

「75で20本、81で10本、あっ、急落しました」

「もう追うな。
おれも76で10本しか売れなかったが、もういい」

’合わせて、50本だけだが、一瞬の変化での深追いは禁物だ’

「上は85(110円85銭)までです」

「今いくらだ?」

「35around(110円35銭程度)です」

「全部買い戻してくれ」
‘肌感覚で下がらない感じがする’

「アベレージ、42です」

「了解。
ドル円は動きづらいな」

「そうですね」

「ところで、顧客のリーブ・オーダーは大丈夫か?」

「EBSとブローカーに置いておきましたから、問題ありません」

「そっか、それは良かった。
今日はもう止めておこう」

‘利上げ回数の上方修正はそれほど大騒ぎすることではないが、FEDがいよいよ引き締めモードに入った様だ’

その後のドル円は109円92銭まで下落したが、どことなくドルに底堅さが感じられる。

14日(木曜日)、ECBの理事会で「年末で資産の新規購入を停止する」と発表され、ユーロドルが1.17台から1.18半ばまで上昇した。

だが、その直後に「マイナス金利は少なくても来年夏まで維持」との報道が流れ、一挙に1.15半ばへと反落した。

ドル円もこれに連れて上昇モードに転じ、週末には110円90銭まで反発した。

ユーロドルのディールは全く乗り切れず仕舞いだったが、ドル円は揉み合いの中でそこそこの収益を上げた。

‘目標の200万ドルには遠いいが、来週から頑張るか’

 

 

週末の晩、グランドセントラル駅地下にあるオイスター・バーで山下と夕飯を共にした。
週末ということもあってか、結構混んでいる。

注文は山下に任せた。
オフィスにいるときよりも、レストランでの英語の方が上手く聞こえる。
’食い意地の張った山下らしい’

白ワインで数種類のオイスターを味わった後、支店の話に戻った。

「山下、どことなく店の雰囲気が暗いが、何かあったのか?」

「コーポレート・ファイナンス部門が別のコゲツキを出したらしいんです。
それで支店長が他部門にプレッシャーを掛けている様です。
それが原因かと」

「今度のは大きいのか?」

「1000万ドル程度とか」

「前の2000万ドルと合わせて、3000万ドルか・・・。
他で大き収益が出てないとすると、結構厳しい金額だな」

「そうですね。
山際さんへのプレッシャーの掛け方も異常でした。

誰の目から見ても完全にパワハラそのもので、
部屋に呼んで言うのならともかく、ディーリング・ルーム全体に聞こえる様な調子でしたから」

「そうか。
それじゃ、山際さんも辛かったはずだ。

話が暗くなったな。
今日は飲むか!」

「そうしましょう!」

 

 

昨晩飲み過ぎたせいか、ジェットラグの影響が出たせいか、翌日(土曜)の昼過ぎになっても頭が重い。

やっとの思いでベッドから出ると、国際金融新聞の木村へ来週のドル円相場予測を送るために、PCをWifiに接続した。

 

****************************************

木村様

今、ニューヨークに出張中ですので、簡単に済ませます。

市場が米欧の金融政策の逆行性を材料視しているので、まだユーロドルが下がりそうですね。

日米の金融政策も同様のことが言えますが、本邦の輸出や一部機関投資家がドル売り意欲を示しているので、ドル円の伸び代はそれ程大きくない気がします。

来週の予測レンジ:108円80銭~111円80銭

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

追伸
テレビ国際の出演は当分、部下の沖田に任せることにしました。

 

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第53回 「ニューヨークへ」

先週末に発表された米5月雇用統計は市場の予測を上回る好結果となった。

これで次回FOMC(12~13日)での25BPの利上げはほぼ確実となったが、市場の焦点はFRBの正常化ペースが加速するかどうかにある。

つまり、声明文や理事会後のパウエル議長の記者会見が重要ということだ。

他方、先月末から月初にかけて開催されたG7財務大臣・中央銀行総裁会議で、米国の貿易規制に対抗したG6が激高したため、G7はG6+1の様相を呈し出した。

世間の耳目は米朝首脳会談に集まるが、国際金融市場にとってはFRBの正常化ペースと米国絡みの貿易摩擦こそが主要な与件である。

ドル円は、週初(4日、月曜日)からFRBが正常化を加速させるとの観測や米10年債利回りの上昇で堅調に推移したが、110円に近づくと押し戻されるといった展開に陥った。

そうした109円台後半を中心とした揉み合い相場に多少変化が生じたのは週半ばのことである。
NYダウの大幅上昇と米10年債利回りの上昇がドル買いを煽り、ドル円が完全に110円台に乗ったのだ。

そんななか、NYの山下から電話が入った。

「お寛ぎのところ、済みません。
でも、きっと今もモニターを見てらっしゃるんですよね?」
時計を見ると、丁度日付が変わろうとしていた。

「ああ、ラフロイグ入りのグラスを片手にな。
どうした?
ドルがビッド(買い気配)だって話か?」

「ええ、それもあるんですが、山際さんの件でお話しておきたいことが」

「そっか、それじゃまず、ドル円の気配を先に教えてくれ」

「ダウの大幅高がドル買いの主因ですが、買い筋はショートカットとイントラデイのロングかと。

高値は今の処、22です。

ただ、うちにも50(110円50銭)以上に生保と自動車の売りオーダーが300本近くあるので、10円前半が一杯かと思います」

「分かった。

この上のテクニカルポイントはどこだ?」

「27がフィボナッチです」

「どの値幅のだ?」

「13円75(113円75銭:昨年12月の高値)と4円64(104円64銭:年初来安値)ですが」

「61.8か・・・。

リーブを頼む。

20の売り50本、25の売り50本」

「了解です。

ところで山際さんの件ですが、清水支店長が相変わらず例のグレー債権の償却で、各部署にプレッシャーを掛けてる様です。

そこで、山際さんがポジションを取る様になったのですが、ロスばかりで・・・。

もう山際さんの体調や精神状態を考えると、ポジションを取れる様な状況じゃありません」

「それは妙だな。

先日の役員会議で、頭取の本部制遵守の意向が嶺常務経由で清水支店長のところに届いているはずだが。

‘21日の株主総会を控えて18日に国内外の主要拠点のトップが集まり、その際に頭取が彼らとも面接し、本部制の指揮系統に乱れはないかを再確認する’、それが頭取の考えだ。

だから、お前の言ってる通りだとすれば、日和同士の慣れ合いが続いてることになる」

「そうですね。

でも、山際さんは私に一切収益増の話をしてきませんが」

「それが山際さんという人物だ。

だから、俺はお前をそっちに送り出した。

だけど、彼が体調を崩したため、スイスの横尾さんと交替することになってしまった。
これは誤算だったけどな。

いずれにしても、嶺さんと清水さんの悪だくみの件は俺が預かる。

ところで、山際さんのロスはいくらになる?」

「ざっと、200万ドルです」

「そっちの損失としては大きいな。

この件も俺が預かる。

少し考えさせてくれ。

それじゃ、切るぞ」

翌日(7日、木曜日)、ディーリング・ルームに入るなり、デスクの部下全員に聞こえる様に「お早う」と声をかけた。

全員が「お早うございます」と言う。

ミーティングを終えると、東城の執務室に向かった。

ノックと同時に、
「仙崎ですが、宜しいでしょうか?」と声をかけた。

「おう、入れ」
といつもの落ち着いた声がドア越しに心地良く響く。

ドアを開けると、ソファーの方に手を向けながら
「まぁ、座れ」と言う。

言われるままにソファーに腰を下ろし、
「申し訳ありません。
電話でご都合もお伺いもせずに」
と詫びた。

「いや、そんなことはいい。
そんなときのお前の要件は、重要かつ緊急と決まってるからな」
渋い顔に笑みを浮かべながら言う。

「まぁ、そうですね」
笑って返すしかなかった。

「それで?」
重要書類を読んでいるところなのか、東城は執務机から離れないで聞いてくる。

「ニューヨークのグレー債権の処理については、本部長のお計らいで役員全員に頭取の示唆があったと了解しています。

ただ、現実にはそれが無視されてるやに聞いております」

昨晩の山下の話をありのままに伝えた。

「なるほどな。
十分にありえる話だ。

頭取には連絡しておく。
嶺さんと清水さんにも弱ったものだ。

だけど、お前の話はそれだけじゃないな?」

‘すべて見抜かれている’

「はい、話は二つあります。

一つ目は、山際さんを一刻も早く、こっちに戻すこと。
そして二つ目は、山際さんのロスを取り戻すことです」

「一つ目は、可能だ。

だが、二つ目は少し難しいな。
お前があっちにでもいれば別だが・・・」
もう俺の考えていることを見抜いてる様な口ぶりだ。

「はい、‘そのあっちにいれば’を考えています。
ご許可、頂けますでしょうか?」

「それで何時行く」

‘東城との話は早くて良い’

「来週中にでも」

「そうか、分かった。
しかし相変わらずだな、お前ってやつは」
二人同時に発した笑い声は異常に大きい。
笑い声は部屋の外のディーリング・ルームへと響き渡る。

部屋を辞するとき、
「気を付けてな」
という穏やかな声を背中で聞いた。

ドアを閉め終えると、あらためて深々と頭を下げた。

金曜日(8日)の海外でドル円は9円20(109円20銭)まで下落した。

海外時間の8日から開催されるG7サミット絡みの不透明感から逃避通貨の円が買われたとメディアは報じるが、そんなことは関係ない。

所詮はポジション調整に過ぎない。

110円台のショート100本は、9円55(109円55銭)と9円25で利益を確定した。

土曜日の晩、デスクに向かいPCにログインすると、outlookをクリックした。
国際金融新聞の木村に来週のドル円相場の予測を書くためである。

木村はG7サミットの取材でカナダのケベックにいるが、通常通りメールを入れてくれと言う。

時ならぬ暑さに見舞われ、喉が渇いて仕方がない。
ハートランドをボトルごと口に運びながら、キーボードを叩き出した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

木村様

出張、ご苦労様です。

サミットでは貿易摩擦の具体的解決策が出るはずもなく、土産話は期待していません。

どうせ先週のG7財務大臣・中銀総裁会議と同じで、G6+1の様相でしょうね。

来週も今週と同様に109円台を中心とした揉み合いかと思いますが、依然としてバイアスはドルベアです。

ただ、幾つかイベントがあるので、週足は予想外に長い上髭・下髭を引くかもしれません。

予測レンジ:107円50銭~110円75銭

気を付けて、お帰りください。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(つづく)

第52回 「それぞれの道」

「了、私、MoMAに行くことに決めた。

恐らくは私が継ぐことになる母の店、このままではダメになると思う」

そう切り出すと、岬は自分の思いをしっかりとした口調で語り始めた。

「店のロケーションやクラフトの品揃えなど、色々と問題を抱えている。
だから、母がまだ働けるうちに、将来の店の構想を考えておきたいの」

そのために、‘MoMA*で働きながら勉強したい’と言う。

岬はかつてニューヨークの大学に留学していたが、その頃ボランティアで、MoMAの案内係をしていたと言っていたのが思い出される。

その時の担当上司にMoMAで働きたい意思を書いてメールしたところ、丁度この夏に一人空きができるから、受け入れても良いということになったらしい。

‘こういう時の彼女はもう後に引かない。
ここは潔く送り出すしかないな’

「そうだな。

ここ数カ月、岬は大学の聴講生として工芸を学び、一生懸命に勉強してきた。

折角の良いチャンスだから、あっちで頑張ってこい。

きっと、岬と店の将来に役立つと思う」

「ありがとう。

だけど、了とは結婚はできなくなる。

それでも、良いの?」

「良い訳はないけど、‘行くな’と言ったって行くんだろう?」

「そうね。

了なら、幾らでも相応しい女性が見つかるから、もしそうなったら小母さんのためにも早くそうしてあげて」

少し気乗りしない感じで言う。

「まあ、そういうことがあるかも知れないけど、今はそんなことはどうでも良い」

それから暫く、二人は昨年来の出来事や付き合っていたときの思い出など、とりとめもない話しをし続けた。

ソファーの左側で少し俺に体を預けながら話をしていた岬だが、いつの間にか話が途絶えた。

ふと見ると、小さな寝息を立てている。

クラフト・フェアの運営で疲れたところに、炭酸水で割ったグレンリベットの酔いが回ったのかもしれない。

そっと彼女をソファーに横たえると、洋服ダンスの上の棚に置いてある予備の毛布を取り出し、掛けてあげた。

 

まだソファーで寝入っている岬を後にして、早めに東京に戻ることにした。

フロントで精算を済ませる際、係が‘こちらをお預かりしています’と言い、封筒を渡して寄越した。

岬からのものである。

‘俺が寝ている間に、自分が先にホテルを出ようと思い、予めフロントに預けておいたのだろう’

そんな彼女がとても愛おしく思え、部屋に戻りたくなったが、辛うじて気持ちを抑えた。

開けると数枚の便箋が入っている。

‘長文だな。

岐路の途中、何処かのサービスエリアで読むことにするか’

 

松本インターから長野自動車道に入り込んだ。

時間が早いせいか、それほど車は多くない。
まだ銀嶺の北アルプスを眺めながら、走行車線をゆっくり走る。

フライフィッシングでは訪れることがあっても、恐らくはもう岬に会う目的では来ない場所だ。
感傷的になる気持ちを抑え込むように、アクセルを力任せに踏み込んだ。
スピードメーターが130キロまで上がったところで、ペダルを少し緩めた。

手紙を読もうと立ち寄った横川インターに着いたとき、時刻は8時を回ったところだった。

丁度スタバが開いたところである。
トールラテとサンドウィッチを手にして、まだ誰もいないテラスに腰を下ろした。

ジャケットの内ポケットから手紙を出すと、一気に読み通した。

詫びの言葉とこの1年間の礼が書かれている。

その中の一文が、再び心を複雑にした。

・・・・・もしも、もしもね、将来、了と一緒になることができたら、クラフトの店にカフェを併設したい。

そのとき、カフェのマスターが了だったらと思ってる。

笑わないでね・・・・・

‘笑わないでねか。

50歳も過ぎれば、そんな光景に心地よさを感じるのかもしれないけど、当分ありえない話だな’

苦笑いがこぼれた。

この時間の軽井沢近辺はまだ寒い。

少し冷めかけたラテを喉に流し込んだ。

テラスのイスから立ち上がり、深呼吸をすると冷たい空気が肺に沁み込む様である。

‘さて、東京まで一気に飛ばすか’

社宅に帰ったら、何かとすることもある。
そして夜にはテレビ国際に出向かなければならない。

 

週初(28日、月曜日)は、ロンドン・ニューヨークは休場だが、イタリアやスペインの政局が混迷するなか、市場にはどことなくリスク・オフのムードが漂っている。

沖田によれば、’リスク回避で円が買われている’と言う。

‘リスク回避の円買いか。

リスク満載の国の通貨円が有事に買われるか、笑えるな’

翌日(29日、火曜日)、ドル円は一挙に108円12銭まで下落した。

ポピュリズムが席巻するイタリアやスペインでの政治不安が、ユーロ圏の遠心力を強めている様だ。

ユーロ売り円買いにドル円も連れている。

だが、週末には米5月雇用統計がある。

イベントを控えて、週半ばからポジション調整が入る可能性が高い。

翌日(30日、水曜日)の早朝、どことなくドルにビッド気配が漂う。

「沖田、少しビッドだな?」

「はい、少し戻すかもしれませんね。

例のポジション締めますか?」

111円台前半でのドルショートのことを聞いている。

「そうだな。

できれば、7円前半(107円台前半)とも思ったが、週末までの時間を考えると、ここで利食っておくべきかな。

50本買ってくれ」

「45(108円45銭)です」

「了解、後の処理は頼む。

野口、ユーロドルの感じは?」

「昨日のニューヨークで自分も売ってみたのですが、どうも押し戻される感じを受けます。

朝のミーティングでお話した様に、買い手はスイスやロンドンのファンドみたいですが、恐らくは利食いだと思います。

ここ(1.1500)は一応節目なので、一旦戻ると考えています」

「分かった、シング(シンガポール)で50本買ってくれ」

「38です」

「OK、それは1.1975の利食いで処理しておいてくれ。

それにしても、やけに素早くプライスが出てきたのが、気に入らないな。

野口、ここはショートカットを狙って、買っておくか。

100本買ってくれ。

小野寺、野口を手伝え」

「はい」
と小野寺が元気良く答える。

少し間をおいて、

「全部で130本買いました。
32で50本、35で50本、36で30本です」

「そっか、それじゃ、お前の分は32でいいぞ」

「ありがとうございます」

「あまり、長く持ちたくないポジションだが、一カ月半のトレンド線が抜ければ、少しは儲かりそうだな」

「どの辺でしょうか?」

「100も抜ければ、御の字かな。

あまり、グリーディーにならない方が良いと思う。

16ハーフ(1.1650)で利食い、15丁度(1.1500)givenでストップを入れておいてくれ」

「了解です」

 

週末(6月1日)、米5月雇用統計が発表された。

NFP、失業率共に、事前予測よりも良い結果となったことを受けて、ドル円は109円73銭まで買われたが、ドル買いは続かなかず、109円半ばで週を越えることとなった。

イタリアでは連立政権が樹立される見通しとなり、ユーロの下落は一服した様だが、ユーロ圏にポピュリズムの輪が広がる気配が残る。
まだまだ予断を許さない状況が続きそうだ。

11月に米中間選挙を控えてトランプ政権の無手勝流の通商戦略が続く。

‘非核化先行、見返りは後’というリビア方式を迫る米国、段階的な非核化という甘い期待を抱く北朝鮮、米朝首脳会談の行方も不透明だ。

当分は混沌の中で市場は揺れる。

‘このところ、課も自分も収益は順調だ。

こういうときに、筋読みをしてポジションを持つ必要はない。

市場の動きに任せてポジションの偏りを待つに限る’

 

土曜日の晩、岬からメールが届いた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この間は松本に来てくれて本当にありがとう。

前向きに生きてみる。

そして、もしかして、遠い将来、あんな夢が叶うと良いとも思う。

だから、了がクラフト・フェアに出向いてくれたこと、本当に嬉しかった。

ビザが下り、出発の日が決まったら、また連絡する。

了のことを本当に好きな「みさき」より

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

簡単に返すしかなかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

頑張れよ。

俺が50歳を過ぎてもまだ独身だったら、岬の描いている遠い夢が叶うかもな(笑)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

もう梅雨に入る。

心もそんな感じだ。

こんな季節に似合う Kiev Acoustic Trio の ‘Moment’を Bose のMusic System に押し込むと、ラフロイグをショット・グラスに注いだ。

そのグラスをデスクに運ぶと、PCにログインし、Outlook のアイコンをクリックした。

国際金融新聞の木村に来週のドル円相場予測を送るためである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

木村様

結構重大な与件が飛び交い出しましたね。

そちらは書くことに困らなくて良い、そんな状況でしょうか。

ドル円相場ですが、依然としてドルの上値は重たいと感じています。

与件は沢山あるから適当に拾ってください。

ところで、ユーロ圏絡みの与件は少し、否結構大きな問題に発展するかもしれませんね。

やはり、OCA(最適通貨圏)*の理論に依拠したユーロ圏の将来は、つまりユーロの将来は明るくないのかもしれません。

来週の予測レンジ:107円20銭~110円70銭

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

(つづく)

 


*MoMA(The Museum of Modern Art)についての記述は架空のことであり、事実ではない。仮にそうした事実があったとしたら、それは単なる偶然に過ぎない。

*OCA(optimum currency area)の理論は、複数の国が共通通貨を利用する場合、どの様な条件が整えば最適な経済域が成立するのかを追求している。

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。