第二巻 第3回 「You’re fired」

週初(3日)から、ドル円は111円台前半での揉み合いが続いていた。

そんな展開が続く中、5日の午後11時過ぎ、スマホが鳴った。
いつになく、音が大きく聞こえる。

‘こんな時は、悪い話が多い’

「課長、お寛ぎのところ、申し訳ありません」
いつになく山下が慌てている。

「どうした?」

「はい、東京からのリーブ・オーダー75(111円75銭)の売り100本(1億ドル)ですが、一本も付けることができませんでした。

私のミスです」

「確か、それは曙生命のオーダーだな。
とすれば、他行にもオーダーを預けてるはずだ。

それで、上はどこまでだ?」

「76(111円76銭)です」

「とすると、一本も付けられないって話は先方に通じないな。
で、今幾らだ?」

「60アラウンドです」

「200本売ってくれ。
少し時間がかかるかもな。

出来たら、電話をくれ」

「了解です」
スマホを切る瞬間、山下の部下達が動き出す気配が聞こえた。

数分後、スマホが鳴った。

「アベレージ、60(111円60銭)です」

「分かった。
ところで、76でどの位出合ったと思う?」

「ブローカーに聞いてみたのですが、30本程度と言ったところでしょうか?」

「そうか、30本か。

76がそこまで出合っている以上、全部付けないと、曙が苦情を言ってくるな。

ここは俺が全部被る。

100本分の75と60との値差は俺が持つ。
残りの100本の売りコストを下げて処理しておいてくれ」

「了解しました。
ご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした」

「そんなことはどうでも良い。

どうせドルは下がる。

100本のショートが利益を生むから問題ない。

ところで、75で一本も売れなかったとはどういうことだ?

ブローカー預けか、EBSにでも入れて置けば、多少でも売れたはずだが・・・。

お前、俺に何か隠してないか?」

‘山下ほどの男がそんなミスを犯すはずはない’

「実は・・・。

横尾さんが絡んでいます」

と言いながら、山下が事の顛末を語り出した。

 

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「おい、山下、バジェットの件で話があるから、ミーティングルームに来てくれ」

「ちょと場がバタついているので、午後に回せませんか?」

「支店長が急ぎで資料が必要だと言ってる。
急ぎだ」

「分かりました。
ジム、このオーダー、皆と一緒に処理しておいてくれ。
できるだけ、先にブローカーに預けるか、EBSに入れて置け」

「ハイ、ボス。
Leave it to me!(任せて下さい)」

「I’ll have a meeting with Mr.Yokoo.

Just let me know if something happens」

「Yes, I got it」

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そんな会話から10分後に事件は起きたという。

 

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ブレグジットを巡って「ドイツとイギリスが‘主要な要求を取り下げた」との報が流れ、ユーロ円やポンド円が買われた。

その結果、ドル円は50前後から76(111円76銭)まで急騰し、その後直ぐに下がり出した。

油断していたジムは、オーダーをブローカーに預けず、EBSにも置かなかったため、75の売りを全く捌けなかったという。

トレイニー(実務研修者)がその状況をミーティングルームにいる山下に知らせに来たが、‘時すでに遅し’だった。

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山下の話が終わった後、「それで、横尾さんはどいう指示を?」と尋ねた。

「自分にも責任の一端があることを自覚していたせいか、オーダー処理については何の指示も。

ただ、ジムに‘クビ’だと怒鳴っただけでした。

ジムは自分の手抜かりもあって、横尾さんの‘クビ’という言葉を真に受けた様で、真っ青な顔をして何処かに行ってしまいました。

ちょっと、ヤバイ状況です」

「話は分かった。

お前が‘ミーティングを午後にしてくれ’と言ったにも関わらず、それを無視した横尾さんに大きな落ち度がある。

もうお前は何も心配しなくていい。

ただ、ジムを気遣ってやれ」

「ありがとうございます。

実は、課長に電話する前に、自分でも65(111円65銭)で50本売ってあります。

ですから、さっきの100本のうちの50本は僕の負担ということで」

「そっか。
その売りは賢明だったな。

できれば、100本売っておいて欲しかったけどな」
笑いながら返した。

「あの時点で、そこまではできませんでした」

「そうだな。

お前の売った50本は自分のポジションとして持っておけ。

きっと、ドルは下がる」

「ありがとうございます。

それでは失礼します。

おやすみなさい」

‘それにしても、横尾はずるいヤツだな’

 

山下との話を終えた後、社宅の固定電話から横尾に電話を入れた。

「おう仙崎君か、掛かってくると思ったよ。
例の曙のオーダーの件だろ。

お前がこっちにいる時、ジムの教育が足りなかったから、こういうことになったんだ」

「へぇー、横尾さんも随分と勝手なことを言う人なんですね。

それじゃ、山下が‘場がバタついてるから、ミーティングは午後にしてくれ’と言ったにも関わらず、それを無視したことはどう釈明するんですか?」

「支店長に‘急ぎで頼む’と言われた用件だ。
それを優先するのは当然だろうが」

「横尾さん、あなた、馬鹿じゃないか。
市場を預かる現場の人間の言うことを無視してどうするんですか?

どうせ、清水さんに媚び諂うためにとった行動でしょう」

「貴様、誰に向かって物を言ってる。
俺はお前よりも年次では6年も上だぞ」

「あなたがそう言うのであれば、敢えて言わせて貰う。

ニューヨークのトレジャラーと国際金融本部外国為替課長の行内等級は同じだ。

それに私は業務上の報告をあなたにする義務はないが、あなたは私に報告する義務がある」

横尾が年次のことさえ言わなければ、口に出す必要のなかった下卑た言い方だっただが、この場合、
仕方がなかった。

「貴様、黙って聞いていれば、いい気になって。
ふざけるな!」

「何もふざけてはいませんが。

それにもう一言、言わせてもらいます。

なぜ、あなたはスベってしまった客のオーダー処理に手を貸さなかったんですか?

山下はあの時、損を承知で50本売った。

ニューヨークのトレジャラーとして、あなたはそれを見ていただけなんですか?」

「どうせ、お前のところの客だ。

76(111円76銭)を付けたときの出合い状況から、山下の50本で十分じゃないか」

「曙が付き合っている銀行がウチだけならそうかも知れませんね。

他行が100本オーダーのうち60本付けたら、これから先、曙はウチにオーダーを置かなくなりますよ。

そんなことも分からないんですか?」

「そこを何とかするのが、本店の仕事だろう。
えっ、違うか?」
威圧的である。

‘こんなヤツと話していても時間の無駄だ’

無言で電話を切った。

 

翌日の早朝、曙生命の運用部長から電話があった。

「仙崎さん、やはりお宅のオーダー処理は一番だ。

他行はどこも、20本だけしか付けてくれなかったよ。

これからもオーダーを沢山だすから、宜しく頼むよ」

「ありがとうございます。

頑張りますので、宜しくお願い致します」

‘ディリーングには客のフローは欠かせない。

損して得取れだな’

 

ドル円は金曜日の東京で、110円38銭まで下落した。

前日にトランプが‘日本との貿易の争いの公算を示唆’したことが要因である。

この展開で111円台半ばのショート100本のうち、50本は110円55銭で利食ったが、残りの50本はキープすることにした。

‘トランプの目が対日貿易赤字に向かい出しているのは間違いない。

下旬の日米首脳会談やFFR(新日米通商協議)に向けて、ドル円は下がる様な気がする’

 

週末の土曜日に送ることになっている国際金融新聞の木村宛てのドル円相場予測は簡単に済ませた。

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木村様

少しドルの上値・下値共に切り下がる様な気がします。

来週もドルの上値が111円台後半で重たい様であれば、110円割れもあり得るかと考えています。

予測レンジ:109円20銭~111円80銭

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メールを送信し、デスクの時計を見ると、0時を回っていた。

デスクの上のラフロイグをグラスに注ぎ、北側の窓へと向かい、カーテンを全開にした。

向かいの棟のほとんどの灯りが消えている。

‘真夜中か。
この時間、俺はいつも一人だな’

Miles Davis の ‘Round about midnight’をCD用のシェルフから取り出すと、Bose のミュージック・システムに滑り込ませ、グラスを口に運んだ。

重く切ないトランペットの音色が、真夜中のしじまの中を、湿った空気を運びながら流れて行く。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。