第60回 「台風の後」

既にドル円は110円75銭まで下落している。
悩み処に差し掛かった。

110円75銭は年初来安値の104円64銭からの支持線水準でもある。
この水準を完全に下回らない限りは、一連のドル高トレンドが終わったとは言えない。

既にトランプ発言は、ムニューシン財務長官により否定されてもいる。
来週から長期の休暇に入ることを考えると、ポジションを整理しておかなければならない。

‘ここは、利食いかもしれないな’

「沖田、先週のショート300本、これから全部買い戻す。
シンガポールにも頼んで、少しずつ買ってくれ」
一挙に買い戻すと、自分でドルを押し上げてしまい、コストが悪くなる。

一時間後、
「全部、買い戻しました。
アベレージ、90(110円90銭)です」と沖田が言う。

「了解。
流石に良い捌きだな」

「課長にそう言われると、照れますね」
嬉しそうに言う。

その後、相場は111円台へと振れた。

‘これで当分、ポジションを取らなくて済む’

ディーリング・チェアから立ち上がり、窓際に向かった。
皇居の森がいつもと違う美しさを見せている。
仕事が一段落した後の心のゆとりのせいだろうか。

次の日、東城と銀座の寿司処‘下田’で酒を酌み交わした。

「お前とこうして飲むのも久しぶりだな」
実感の籠った声である。

‘つくづく、そう思う’

「本当にそうですね。
東城さんも株主総会とかでお忙しかったし、僕もニューヨーク出張がありましたから」

「そうだったな。

ところで、先週のドルショート、上手く行った様だな。
これでもう、上期のバジェットを50%オーバーか、確かにお前は凄い。

だけど、どうしてそんなに急ぐんだ?」

「はぁ、少し夏休みを頂きたくて」

「なるほど。
で、海外へでも行くのか?」

「ドジャーズ・マリナーズ・レッドソックス・ヤンキースの試合観戦です。
それにスケジュールが合えばですが、エンジェルスの試合も」

「へー、お前らしいと言えばお前らしいな。
西海岸と東海岸制覇か。

分かった。
まあ、ゆっくりしてこい」

「ありがとうございます。

それに山下のことが気懸りなので、彼にも会い、支店の状況を聞いて来ようかと思ってます。

横尾さんが敢えて僕に喧嘩を売ってきたことを考えると、山下が犠牲になる可能性もあるので・・・」

「そうだな。

俺に挨拶に来たときも、妙に挑戦的な感じを受けたが、清水、嶺、横尾、皆あっち(日和銀行)の人間だから、当然って言えば当然ってことか。

統合から15年近く経つというのに、まだ両行に軋轢が残っているのは事実だ。
頭取もそのことを気に病んでる様だが、なかなか解決できない。

お前は統合後の人間だが、連中は住井出身の俺のラインに組み込まれていると思ってる。

そして山下がお前を慕っているため、彼にも住井派というレッテルが張られてしまった。

馬鹿な話だが、それが現実だ。

そんな馬鹿話に決着をつけられるのは、統合後の入行者だけかもしれないな。
そしてその人物は際立った実績を残し、誰からも人望がなければならない。

そんな人物になれるのはお前ぐらいかもしれないな。
頼んだぞ」
東城は、ときおり冷酒の注がれたグラスに口をつけながら、とつとつと語った。

「確かに僕の同期やその下の連中にはそうした軋轢はないかもしれません。

ただ、出自やら出身校をひけらかす人間は残り続けるのでしょうね・・・」
将来を託されたことには触れずに、感想を言った。

「まあ、そうだろうな。

ところで、岬君とはもう本当にだめなのか?」

「そっちへ話が飛びますか。

もうだめですね」
彼女の家の事情なども説明し、無理だと言い切った。

「そうか、残念だが仕方ないな。
まぁ、お前はモテるから、まだまだ縁はある。

もっとも、お前に結婚する意思がなければ無理だが」
笑いながら言う。

「ここは笑うところじゃないでしょ。
罪滅ぼしに二軒目はこの辺りのクラブへでも連れてって下さい」

「銀座のクラブか、自腹では無理だな。
六本木で良ければ、連れて行くが」

「はい、そこで全然問題ありません」
二人の笑いが店内に響き渡った。

他にも客がいたが、店主は何も言わずに微笑ましく語らう二人を温かい眼差しで見つめていた。

ドル円相場はその日以降も軟調地合いが続き、木曜日(26日)には110円58銭まで下落したが、節目の110円割れは逃れた。

週末の金曜日は概ね111円を挟んでの模様眺めに終始し、世界の市場はやる気を無くしたかの様だった。

来週には日銀の金融政策決定会合や7月米雇用統計など多くの重要指標もあるため、相場が動く可能性がある。

そろそろ欧米では、市場参加参加者が長期休暇に入る頃だ。

市場が薄くなる分だけ相場が動きやすくなり、夏相場は大きく動く時がある。

だが、来週から休暇を控えているため、相場のことは忘れることにした。

相場が動けば、休暇明けに考えれば良いのだ。

既にマイクにもMLBのチケットの手配とホテルの予約を頼んである。

日曜の晩、横浜ロイヤルパークホテルに宿泊した。

月曜の羽田発午後の便でLAに向かう。
ここから羽田までのアクセスはそう悪くない。

敢えてロイヤルパークに泊まる必要はなかったが、60階以上の部屋でラフロイグを飲みながらベイエリアを眺めたかったのだ。

岬との思い出の場所でもある。
セピア色の景色に戻りたくもあった。

台風一過で淀んだ空気が流されたせいか、ベイエリアの光景が美しい。
日はまだ明るいが、ラフロイグのボトルとグラスを窓際のテーブルに運んだ。

BGMに、Y.KishinoのManhattan Daylight 以外の選択肢はない。
2週間後には、ボストンでレッドソックス戦を観戦した後、ニューヨークへと飛ぶ。
ヤンキースとメッツのサブウェイシリーズ*を見るためだ。

重たいのを覚悟でBose の Soundmini Linkも持参している。
ウオークマンをブルートゥース接続すると、Kishino の Portrait を選択した。
Manhattan Daylightはアルバムの6番目にある。

これで準備万端だ。

琥珀色の液体とベイエリアの景色に心が満たされていく。

‘このままずーっと時が流れてくれればいいのに・・・。

無理だな’

窓外の観覧車がゆっくりと回り続けている。
喜び・悲しみ・苦しみは順番に訪れるものだ。
それが人生なのだと教える様に。

夫との不仲に苦しみ抜いた岬は将来を見据えて、凛とした気持ちでニューヨークに向かう。
山下は希望していたニューヨーク勤務を実現し、高みを目指すための一歩を踏み出した。
俺自身は市場と闘いながらも、行内外の問題を解決し、そして収益を改善した。

‘人生は何とか回転するもんだな。

でも、俺のこの先には闘いに次ぐ闘いが待っている。

この休暇が終われば、横尾との一戦が待っている。
行内の派閥問題もある。

そして市場と向き合い、再び稼がなければならない’

帰国後の出来事やこの先のことに思いを巡らせていると、スマホが鳴った。

志保である。

「元気?
またこっちに来るの?」
明るい口調で立て続けに聞いてくる。

「えっ!
どうしてそんなこと知ってるんだ?」

「マイクがMLBのチケットの手配を頼んできたの。
普通なら直属の秘書に頼むのに。

これって、了がこっちに来るってこと、教えてる様なものよね」

「あいつもお節介だな」
苦笑いが零れる。

「ヤンキース戦は二枚ゲットしたわ。

二人でサブウェイシリーズの観戦なんて、昔に戻ったみたな気分で嬉しいわ。

その日のホテルはヘルムズレーで良い?」
本当に嬉しそうだ。

‘勝手にしろ’

「それは良いけど、じっくり野球観戦だけはさせてくれよ。

いずれにしても、チケットの手配、感謝するよ。

それじゃ、切るぞ。

おっと、言い忘れたことがある。

会えるのを楽しみにしてるよ」
素直に言った。

「えっ、今何て言ったの?」

「二度は言わない」

「初めてね、了がそんなこと言うの。
気まぐれでも嬉しいわ」
ちゃんと聞こえている。

‘余計なことを言ったかな’

電話の向こうでフランク・シナトラの「ニューヨーク・ニューヨーク*」が聞こえた様な気がした。

(第一巻、了)

 


*サブウェイシリーズ:ヤンキース(ヤンキー・スタジアム)とメッツ(シティ・フィールド)とのインターリーグ(ア・リーグ、ナ・リーグ)戦はホームであろうと、アウェイであろうと、「地下鉄」で球場に行くことができる。サブウェイシリーズはこのことに由来している。但し、これは現代版の由来であって、歴史を辿ると深い謂われがある。

*ニューヨーク・ニューヨーク:ヤンキー・スタジアムで行われるヤンキース戦の試合終了時に、フランク・シナトラがカバーしたニューヨーク・ニューヨークが流れる。

 

読書の方々へ

『ディーラーは死なず』も今回で60回目を迎えました。

主人公の仙崎了は行内外において、一年以上も獅子奮迅の戦いを演じたため、疲れたことと思います。

そこで少し休暇を取らせてあげることにしました。

その間、作者の仙崎了も、休暇を取らせて頂きます。

休暇中に新たな構想を練りながら、第二巻に備えたいと考えています。

これからも主人公の活躍にご期待ください。

読者の方々には。ここまでお読み頂きましたこと、厚く御礼申し上げます。

仙崎 了(2018年7月29日)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。