第57回 「リクルーティング」

月曜の朝(2日)、課のミーティングを終えると、東城の執務室へと向かった。
出張報告のためである。

部屋に入ると、皇居の森を眺める東城の姿が目に入った。
相変わらず背筋が伸び凛とした後ろ姿だ。

「まぁ、座れ」と言いながら、自身も窓に背を向けた。

「何とか、任務を終了致しました」

「そうか、ご苦労だった。
短期決戦ということもあって、何かと大変だったろう。
そのうち、労うよ」

「ありがとうございます。

山際さんのロスは全部取り戻しましたので、その件で山下が清水さんからプレッシャーを受けることはないかと思います。

しかしながら、清水さんはまだ、焦げ付いたローン債権の償却分を多少でも他部門の収益で補いたいと考えている様です」

「あっちでお前が清水さんとやりあったこと、嶺さんから聞いている。

清水さんは頭取に相当厳しく言われたらしい。
そのことを根に持ってる様だから、また難題を押し付けてくるかもな。

こっちに戻れば、ナンーバーツーの目もあるだけに、彼も躍起だ。
この先何もなければいいが。
特に山下が心配だな」

「そうですね。
ケアしておきます」

「頼んだぞ。
それじゃ、近いうちに一席設けるよ」

「期待しています。
やはり寿司が良いですね。
海外出張で和食に飢えてますから」

「’Chisa’で毎晩和食にありついてたくせにか」と冷やかしてくる。

照れ笑いで返すしかなかった。

「それじゃ、‘本格的’な和食でもアレンジするか」と言いながら、
東城は執務机に向かって歩き出していた。

‘相変わらず温かいな、この人は’

 

デスクに戻り、あらためて沖田に留守の間の礼を言った。

「山際さんの具合はやはり良くないみたいだ。
いずれにしても、もう直ぐ帰国する。

相場どうだ?」

「ドルがビッド気味ですが、上値を追いかけて買う向きは少ない様です。
市場が米中貿易戦争の動向を気にしているのは明らかですね。

それにアメリカの独立記念日を控えてますし、ドル円は110円台を中心とした保ち合いでしょうか」

「多少ドルロング気味か・・・。

アメリカの雇用統計発表(6日)前にポジション調整があるはずだから、一旦売りがワークしそうだな。

貿易摩擦は米中や米欧だけの問題じゃない。
日米通商交渉を控えていることを考えれば、対円ではドルショートが根っこのポジションになるかも知れないな。

いずれにしてもドルを売るか。

50本売ってくれ」

「02(111円02銭)です」

「了解。
利食いもストップも不要だ。

野口、ユーロドルはどんな感じだ?」

「はい、もう少し下がるかも知れませんが、移民問題を巡るドイツ政権内での対立が収まれば、上かと思います」

「目先で1.15台で止まれば、チャートはトリプルボトムっぽいな。
どこまで下がると思う」

「16(1.1600)割れぐらいでしょうか」

それじゃ、1.1605で50本の買いを入れておいてくれ」

「了解です」

‘市場がダレる8月に長い休暇を取りたい。
行先はヨーロッパでもアメリカでも良いから旅に出たい。

そのためには少し稼いでお必要がある’

 

ドル円は週半ばに110円27銭まで落ち、110円前半で週を終えた。

米6月雇用統計は、NFP(非農業部門雇用者数)が市場予測を上回って増加したものの、失業率が上昇し、平均時給が悪化した。

雇用市場に何らかのスラック(たるみ)がある証拠だ。

‘米中貿易戦争は必ず米経済に何らかの悪影響をもたらす。

この先の景気指標が悪化すれば、年内2回の米利上げ見通しが1回になる可能性もある。
市場にそうしたコンセンサスが生まれれば、予想外にドルの下値は脆いかもしれない’

週初に作ったドル円のショート、ユーロドルのロングはそのまま持ちキャリーしている。

 

土曜日の晩、志保と会う約束がある。

普段より早めに国際金融新聞の木村にドル円相場予測のメールを書き出した。

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木村様

 

巨額な米貿易赤字は対米黒字国の対米証券投資でファイナンスされているのは言うまでもありません。

急激なドル安が訪れると、海外投資家の資本流出が強まり、一段とドル安が加速することになります。

トランプが仕掛けた対中貿易戦争への対抗措置として、中国が保有する米国債を売るという戦略を取った場合、世界経済が金融ショックと財(モノ)ショックのダブルパンチを食らいかねません。

11月の中間選挙までの時間を考慮すれば、トランプは落としどころを考えているのでしょうが、そ以前に金融市場の懸念が昂じると拙いですね。

木村さんの筆に期待しています。

予測レンジ:108円~111円50銭

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

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志保とは帝国ホテルのロビーで6時に待ち合わせていた。
自腹ではないが、彼女は帝国ホテルを東京での定宿にしている。

エントランスに入ると、左手前方のピラーに背をもたれる様に雑誌を読む彼女が目に入った。
ジーンズに白いブロードのシャツというシンプルな出で立ちが、背の高い美貌の持ち主を一層引き立てている。

‘美人だ’

俺に気がついた彼女が小走りにこっちに寄って来る。
二人の距離が縮まっても、この日の彼女はハグをしようとしなかった。
例の件があったので、厳しく言ってある。

「相変わらず綺麗だな」

「ヘぇー、了もお世辞を言うのね。
綺麗だなんて言ってくれたの初めてよ」

「そうだっけ?
でも、綺麗だから綺麗と言ったまでだ。

ところで、何を奢ってくれるの?」

「マイクは何でも美味しいものを食べて来いって言ってくれたから、高級店のお寿司かな。
和食に飢えてるので」

‘つい最近、俺が言った台詞だ’

「分かった」

寿司処‘下田’へは別館に通じる裏口から出た方が近道だ。
志保は歩き出した俺の左側に回り、手をつないできた。

銀座の土曜の午後6時過ぎ、知り合いに見られても不思議でない場所と時間である。
だが、なぜか人の目も気にならなかった。

‘下田’には10分とかからないで着いた。

引き戸を開けて、顔を覗かせると、
「おっ、了さん。珍しいね、土曜日に来るとは」。
いつもながらの店主の威勢のいい声が飛んできた。

「ええ、ちょっとヤボ用で。
二人大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫だよ」

その言葉が聞こえたのか、志保も店内に入ってきた。

それと同時に、
「おい、了さん、凄い別嬪さんを連れてきたね」
と店主が驚きの声を上げた。

「だから、そのうち飛び切りの美人を連れて来るって言ったろ」

「そうだったな。
一体どこで?」
とか、少ししつこい位に聞いてきたので、適当に話を遮った。

「大将、お任せで頼むよ」

「はいよ」と言うと、店主は本来の仕事に励みだした。

数貫の寿司をつまんだところで、
「本当に美味しい、やはり日本のお寿司は凄いわ」と感激の声を志保が上げた。

「それは良かった。
ところで、何か話があるんじゃないの?

いくらマイクが俺の親友だからって、ヤンキース・レッドソックス戦のチケット代わりに’志保’ってのも不自然だしな」

「その話は事実よ。
チケットのことを本当に申し訳ながってたから。

でも、マイクに‘コネチカットに来る気はないか聞いてきてくれ’って頼まれたのも事実」

「そうか。
それじゃ、一応答えを持って帰らないと拙いな。

‘今は無理だけど、いつかそんな日が来るかも知れない’って言うのが答えだ」

「ふーん、そうなんだ。
残念ね。

そうなれば、あっちで一緒に暮らせるかも知れないのに・・・」

「おいおい、話が飛躍し過ぎだぞ。
万が一俺があっちに行っても、志保と一緒に暮らすことにはならないだろ」

「それはそうね」
少し悲しそうな声を出して言う。

その後、他愛のない会話が2時間ほど続いた。

少し客が増え始めたのを潮時に店を出た。

 

ホテルへの道すがら、
「今晩はずーっと一緒にいてくれるんでしょ?」
と俺の顔を覗き込む様に聞いてくる。

「ああ、そのつもりだけど」

「えっ、そうだったの。
ふーん」

‘何だか嬉しそうである’

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。