第二巻 第11回 「情報操作」

MLBワールドシリーズは最長7試合で先に4勝したチームがチャンピオンの名を手にする。

週初の月曜日(10月29日)、ボストン・レッドソックスが第5戦目でLAドジャーズを退け、対戦成績4-1でチャンピオンシップをものにした。

これで今年のMLBも完全に終了である。

MLBが終わるこの時期、毎年喪失感が心の中に湧くが、それはニューヨーク時代から変わらない。

そんな心模様の中、為替市場は静かな展開が続き、ドル円相場も112円の手前での小動きが続く。

ただ、どことなくドルに底堅さが感じられる。

 

 

ドル円が跳ねたのはその日のニューヨーク時間のことだった。

米国債10年債利回りが3.1%台を回復したことが要因だが、値動きを見ると誰かの大きなドル買いが入った様にも見える。

ラフロイグを注いだグラスを片手にモニターを追っていると、山下から電話が入った。

「遅くにすみません。今よろしいでしょうか?」

「よろしくなくても、話があるんだろ?」

「はい。

実は今朝、横尾さんが私のデスクまで来て、‘お前の読みはどうなんだ?’と聞いてきました。

先週は112円台後半でドルの上値が重たかったので、ここは(112円半ばでは)一旦売っても良いと考えてますと答えたんですが、

‘仙崎に仕込まれたお前の相場観もその程度か。
俺は、今日からドルは売らない方が良いと思う。
聞く耳を持つか持たないかはお前次第だがな。
ただ、忠告したことだけは忘れるなよ’

と言い残して、自席へと戻って行きました」

「なるほど、ちょっとした脅しだな。
もっとも、そこまで言うからには余程の自信があるんだろう。

さっきから値動きを見ていたが、彼の頼みでサポーターのファンドがドルを買ったんじゃないのか?

お前のポジションは、今ショート(ドルの売り持ち)か?」

「はい、30本だけですが・・・。
さっき客が45(112円45銭)で50本買ったうちの30本がアンカバー(ドルショート)になっています」

「そっか。今、ショートを持っていて居心地が良いか?」

「いえ、上値は重たい感じですが、かと言ってそんなに下もない様に思います。
こっちの長期金利も上がってきたので・・・」

「それじゃ、ショートは何処かで閉じておいた方が良いな。
今、昼前か・・・。

午後に入ったら、横尾がドル買いを頼んだサポーターのファンドがロングを落としてくる(ドルを売ってくる)と思う。

聞くところでは、彼の知り合いのファンドは皆、つるんで短期の利鞘稼ぎで立ち回ってるらしいから、ロングを落としてくるハズだ。

その時に、買戻しておくといい。

お前の処理が終わったら、横尾に伝えておいてくれ。
俺が明日(火曜日)の東京で200本買い、3円台(113円台)に乗ってから徐々に利食うと」

 

‘俺のロングを利食わせたくないとすれば、必ず何処かでドルを売ってくる’

 

「了解しました。

それでは失礼します。

おやすみなさい」

 

翌日(火曜日)の東京市場が開けると、直ぐに山下から電話があった。

「昨晩の打ち合わせ通り、課長の伝言を伝えておきました」

「そっか、今38(112円38銭)で100本買った、残りの100本も今買う。

横尾や彼のサポーターはきっと、3円に乗せる前に大きな売りを入れてくるはずだ。

そこでドルが下がったら、俺は追加でドルを買う。

横尾等のショートを切らすまでな。

どうせ肝っ玉の小さい連中だ。

3円台に乗ったら慌てて切るさ」

「いよいよ面白くなってきましたね。

課長のお役に立てる時間帯がニューヨーク市場だと良いんですが」

「多分、今日のニューヨークでそうなる。

その時はしっかり頼むぞ」

「了解です」

山下との会話を終えた後、トランプ大統領の「対中貿易で素晴らしい取引を見込む」との発言で株式市場がリスクオンの姿勢となった。

日経平均株価の大幅上昇に連れて、ドル円は112円74銭まで上昇した。

ここからが肝の水準である。
前の週にドル円は113円台に乗っていないため、有象無象の売りが出やすいからだ。

 

案の定、市場の中心がロンドンからニューヨークに移り出すと、ドル円の売りが出始めた。

90(112円90銭)に届くと弛みなく売りが出る。

社宅のデスクのPCを見つめながら、ドルが下がるのを待った。

山下の情報では、横尾達は55~60(112円55~60銭)程度での買い戻しを狙ってる様だ。

 

‘そろそろ、山下に電話を入れるとするか’

 

「あっ、課長。いよいよ動き出しますか?」

「今、いくらだ?」

「80-82です」

「そっか、80がgivenしたら(ドルが80で売りになったら)50本ずつ買い続け、75がgivenしたらそこで買うのを止めてくれ。

これからロンドンの岸井に、75givenでの買いを頼むつもりだ。

了さん、いえ課長は彼らにショートを切らせることで3円台(113円台)を狙ってるんですね。

そこで跳ねたところで売る」

「まぁ、そんなところだ。
後で何本買えたか、メールを入れてくれ」

「了解です」

山下との電話を終えると直ぐにロンドンの岸井に電話を入れ、75givenで50本ずつ買う様に頼んだ。

 

結局ポジションは、昨日買った200本と合わせて都合600本のドルロング(ドル買い持ち)となった。

完全に限度オーバーだ。

しくじれば重い懲罰が下り、儲けても何らかの罰が下される。
今回は収益目標ではないだけにより罰は重い

東城には本件の話をしていない。

言えば、東城は‘お前の好きな様にやれ’と言うに違いないが、今回はそれを躊躇った。

 

‘自分だけで責任を取るつもりだ’

 

翌日の東京(水曜日)でドルは113円34銭まで跳ね上がった。

山下の話では、横尾達のドルショートは113円に乗せたところで買い戻しに転じたという。
NYダウの反発がアジア株全体を押し上げ、ドル円がそれに連れたことも幸いした。

俺の600本のドルロングは、東京で113円20、ニューヨークで113円30で売り捌いた。
収益は3億を優に超えたが、あまり後味の良い儲けではない。

 

翌日の朝、すべてを報告すべく東城の執務室を訪れた。

早朝にメールで一連の顛末を報告してあったので、東城の結論は早かった。

「俺のオバーナイトの限度は300本ある。

俺が自分自身のディールをお前に一任しておいたことにすればいい。

つまりお前の限度300本と合わせて600本だ。
お前の限度オーバーにはならないな。

それで何か問題があるか?

さっき、バックオフィスの山根君にもアカウントコレクション(口座訂正)の依頼もしてある。

もう一蓮托生だな」
と笑いながら言う。

頭を深く下げながら、
「ありがとうございます」とのみ言った。

と言うよりも、あまりの心の広さに触れ、それ以上の言葉が出なかったのだ。

熱くなる目頭を東城に見せるのを避ける様に、短く「失礼します」と言って、ドアに向かった。

「無理するなよ」
という言葉を背中で聞いた様な気がする。

部屋を出ると、ドア越しに深々と頭を下げた。
再び目頭が熱くなるのを覚えた。

 

‘この件は早晩、田村や嶺に伝わることになる。
そうなれば、俺だけでなく、東城も責めを負う。
それにも関わらず、あの人は・・・’

 

その日以降もドル円は112円半ばを割り込むこともなく、113円20銭近辺で週を跨いだ。

米10月の雇用統計で、NFP(非農業部門雇用者数)増が予想を上回ったことや、前年同月比の平均賃金の伸び率が高かったことがドルの背中を押した。

山下の話では、ショートを踏まれた後の横尾は心なしか意気消沈している様子だという。

 

‘だが、あの程度のダメージで手を引くような横尾じゃないはずだ’

 

土曜日の晩、定例となった国際金融新聞の木村へのドル円相場予測を書くため、ラフロイグのボトルとグラスを持ってデスクへと向かった。

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木村様

米中間選挙では民主党が議席数を増やし、捻じれを懸念する声が多い様ですね。

もっともトランプ弾劾については、上院改選議席数をすべて民主党が獲得しても、採決に必要な上院議席数三分の二までは至らない。

とすれば、イベント一過で、市場の反応は薄いかと見ています。

FOMCは12月利上げの地ならし程度の解釈といった感じでしょうか。

経験則から、米雇用統計が良好だった翌週はあまりドルが上がらない様な気がします。

ただ相場の焦点が少しぼやけてきたので、実践では柔軟性を持って対応したいと考えています。

来週のドル円予測レンジ:111円50銭~114円10銭

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

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(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。