第38回 「失踪」

週初(19日)は中国や香港などが春節、そしてアメリカがプレジデント・デーということもあって、内外共にドル円は106円台で模様眺めの展開となった。

相場が動き出したのは、翌日のロンドン時間のことである。

安倍首相が「消費増税前の駆け込みとその反動減を懸念し、経済の下振れをコントロールする必要性」を主張したことが切っ掛けとなった。

市場に財政出動期待が浮上し、それがニューヨーク市場を煽り、円売り(ドル買い)に繋がった。

先週作った105円台のドルロングも奏功し、木村に送った予測も的中している。

水曜(21日)の東京では、日経平均が上昇するのに連れてドル円も107円90銭まで上昇した。

だが、期末を控えて実需筋や機関投資家が108円を一つの節目と見出した。
年初からの抵抗線も108円辺りまで下降している。
当然の如く、彼等や投機筋ドル売りが湧いて出た。

‘やはりここは上値が重たいな’

「山下、どう思う?」

「はい、東京はもう一杯でしょうか。
あとは海外がもう一回上値を試すかどうかでしょうか?

課長のコストは悪くないので、一晩だけ待ってても良いかとは思いますが・・・」

「そうか。
今、返す刀でショートを振るってアイディアはどうだ?

まだシカゴ*の円ショート(円売り持ち)は大分残ってるな。
沖田の話じゃ、少しずつ手仕舞ってる(円を買い戻してる)様だが、彼等にも焦りがあるはずだ。

やはり、売るか。
俺は50本、シング経由で売る。
お前は50本、EBSで売ってくれ」

「81で50本、80で20本」

「了解、こっちは80で全部。
50本は5円台の利食いで処理しといてくれ。
後は放っておく。

お前も20本売ったのか?
一応、8円が抜けたらストップを入れおいた方が良いな。

もう少し頑張るなら、8円60(108円60銭)takenでも良いけど」
8円60はテクニカル上の重要ポイントだ。
当然、そのことは山下も分かっている。

「いえ、8円丁度takenで入れておきます」

「もう期末の収益はあまりブラせないから、それが良い。
そうだな、そろそろ皆にもそれを徹底しておく時期か。

山下、明朝のミーティングでそのことを皆に伝える。
俺が言い忘れたら、その時はリマインドしてくれ」

「はい」

 

週後半(22日)になると、案の定ドルの上値が重たくなり出した。

ニューヨークの沖田の話では毎日昼近くになるとコンスタントにシカゴの売りが出てくるという。

前日に公表された1月のFOMC議事録はタカ派的な内容だったが、市場はむしろ地区連銀総裁のハト派的な発言に反応しやすくなっている。

この日に飛び出たブラード・セントルイス連銀総裁の「速過ぎる利上げペースは経済成長を阻害する」という発言が週末に向けての相場を決定づけた。

今年のFOMCでは3回の利上げが市場のコンセンサスだったが、それが2回という声も出始めている。

経済政策の波及経路のことも全く分からずに「低金利政策が良い」と言い続けているトランプ、そして立場も弁えずに「ドル安はいいことだ」と言い放った財務長官ムニューシン、そんな政権下でFRB新議長に就任したパウエルもややハト派的と言われる。

‘金利相場がまだ続きそうだな’

ブラード発言で長期金利が低下し、俄かロングの投げでドル円は週末に106円台半ばへと下落した。

 

土曜日は社宅から出ずに、終日片づけに徹した。
週に一度は横浜に住む母親が掃除をしに来てくれるが、デスクや書棚の整理には手を付けない。

夜の8時過ぎ、宅配ピザが届いた。

岬の言いつけである「野菜不足に注意」を守り、キャベツ、トマト、レタスそれにキューリを適当に切って粉引の中鉢に入れた。

7寸の中鉢は粉引で人気の高いらしい花岡隆の作だという。
岬からのクリスマス・プレゼントである。
磁器ものが本来好きだが、これを見ると陶器も悪くないと思う。

野菜に塩をふり、バージン・オリーブオイルをたっぷりとかけた。
その上からパルメザン・チーズを振る。
悪くはない味だ。

冷蔵庫から母親が買っておいてくれたビールのロング缶を取り出す。
すべてをPCの置いてあるデスクへと運ぶ。

Miles Davisの ‘Kind of Blue’をBose の Music System に差し込む。
So whatが流れ出した。
少し重いが、Miles の巧みなトランペットのせいか気にはならない。

ビール、サラダ、ピザの順番を繰り返しながら、腹を満たしていく。
PCのトップ画面のヘッドラインは冬季五輪のニュースだらけだ。
‘つまらないな’と思いつつ、Outlookをクリックした。
国際金融新聞の木村に来週の相場予測を送るためである。

 

木村様

まだ僕の予測、当り続けてる様ですね。

もっとも、ここからは少し難しい局面を迎える様な気がします。
恐らくは揉み合いかと。

現状が年初からの安値圏なので、ここで上下動が激しければ、‘ドル下げ一相場’は終焉するかもしれません。

ただ、本邦輸出企業が決算を迎えるこの時期、海外からの利益・配当の還流(外貨売り・円買い)も考慮すると、需給は緩い様な気がします。

FEDの年内利上げ4~5回説まである様ですが、減税の波及効果が余程前倒しで顕在化しないと無理なので、‘為にする’エコノミストや自称ストラテジストの話に過ぎないでしょう。

それはそれとして、予測ですが、一応「ドルに下方リスクが残るなか、揉み合う展開」程度でまとめて置いて下さい。

シカゴ筋の円売り越し・手仕舞いの加速には注意しておいた方が良いかもしれません。

予測レンジ:104円50銭~108円50銭

有体な予測で申し訳ありません。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

 

メール出し終えたところで、スマホが鳴った。
山下からである。

「めずらしいな、土曜日のこんな時間に。
どうした?」

「了さん、少し拙いことが起きました。
家内曰く、岬君、いえ岬さんが消えてしまったと言うんです」
山下はプライベートの時間で’俺を課長’とは呼ばない。

「どういうことだ?」

「はい、岬さんのお母さんから家内に電話があり、昨日の昼過ぎにご主人が突然店に現れたということです。

お母さんが‘岬は今、金沢美術工芸大の聴講で出かけています’と伝えると、‘これを岬に渡してくれ’と言い残し、直ぐに店を出て行ったそうです。

そして岬さんが戻ってきたところで、お母さんは坂本さんが来たことを伝え、封筒を渡したそうですが、その中身を見た途端、飛び出す様に店を出てってしまい、それから戻らない。
ざっとそんな話ですが・・・」

「それはまずいな。
それで奥さんは岬に電話をしてくれたのか?」

「それがお母さんの話によると、スマホも部屋に置かれたままだそうです。
相当動揺してた様ですから」

「分かった。
今日はもうアルコールを入れてしまったので、運転はできない。
明日、レンタカーを借りて松本に行ってくる。

多分、月曜は銀行に行けないな。
デスクは任せたぞ。

東城さんに話しておいてくれ。
彼には全部話しても構わない」

「了解です。
明日、お気を付けて。
失礼します」

 

‘少し頭を冷やさなければならない’
ラフロイグをグラスに注ぐと、’A Windham Hill’の’Christmas’をMusic Systemに挿入し、[The First Noel]のトラックをrepeat 設定にした。

シーズン外れだが、頭を冷やして物事を考えたいときには最高のトラックだ。
泣ける曲だが、岬の気持ちを考えるのには良い。

ラフロイグを数杯呷ると、脳中枢が刺激された。
The first Noelのメロディーが懐かしい雪山の小屋の光景へと誘う。
もう彼女が向かうのはあそこしかない。

 

(つづく)

 

注:
*シカゴ:IMM(International Monetary Market)、シカゴにある先物市場(CME)の通貨部門。

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。