第52回 「それぞれの道」

「了、私、MoMAに行くことに決めた。

恐らくは私が継ぐことになる母の店、このままではダメになると思う」

そう切り出すと、岬は自分の思いをしっかりとした口調で語り始めた。

「店のロケーションやクラフトの品揃えなど、色々と問題を抱えている。
だから、母がまだ働けるうちに、将来の店の構想を考えておきたいの」

そのために、‘MoMA*で働きながら勉強したい’と言う。

岬はかつてニューヨークの大学に留学していたが、その頃ボランティアで、MoMAの案内係をしていたと言っていたのが思い出される。

その時の担当上司にMoMAで働きたい意思を書いてメールしたところ、丁度この夏に一人空きができるから、受け入れても良いということになったらしい。

‘こういう時の彼女はもう後に引かない。
ここは潔く送り出すしかないな’

「そうだな。

ここ数カ月、岬は大学の聴講生として工芸を学び、一生懸命に勉強してきた。

折角の良いチャンスだから、あっちで頑張ってこい。

きっと、岬と店の将来に役立つと思う」

「ありがとう。

だけど、了とは結婚はできなくなる。

それでも、良いの?」

「良い訳はないけど、‘行くな’と言ったって行くんだろう?」

「そうね。

了なら、幾らでも相応しい女性が見つかるから、もしそうなったら小母さんのためにも早くそうしてあげて」

少し気乗りしない感じで言う。

「まあ、そういうことがあるかも知れないけど、今はそんなことはどうでも良い」

それから暫く、二人は昨年来の出来事や付き合っていたときの思い出など、とりとめもない話しをし続けた。

ソファーの左側で少し俺に体を預けながら話をしていた岬だが、いつの間にか話が途絶えた。

ふと見ると、小さな寝息を立てている。

クラフト・フェアの運営で疲れたところに、炭酸水で割ったグレンリベットの酔いが回ったのかもしれない。

そっと彼女をソファーに横たえると、洋服ダンスの上の棚に置いてある予備の毛布を取り出し、掛けてあげた。

 

まだソファーで寝入っている岬を後にして、早めに東京に戻ることにした。

フロントで精算を済ませる際、係が‘こちらをお預かりしています’と言い、封筒を渡して寄越した。

岬からのものである。

‘俺が寝ている間に、自分が先にホテルを出ようと思い、予めフロントに預けておいたのだろう’

そんな彼女がとても愛おしく思え、部屋に戻りたくなったが、辛うじて気持ちを抑えた。

開けると数枚の便箋が入っている。

‘長文だな。

岐路の途中、何処かのサービスエリアで読むことにするか’

 

松本インターから長野自動車道に入り込んだ。

時間が早いせいか、それほど車は多くない。
まだ銀嶺の北アルプスを眺めながら、走行車線をゆっくり走る。

フライフィッシングでは訪れることがあっても、恐らくはもう岬に会う目的では来ない場所だ。
感傷的になる気持ちを抑え込むように、アクセルを力任せに踏み込んだ。
スピードメーターが130キロまで上がったところで、ペダルを少し緩めた。

手紙を読もうと立ち寄った横川インターに着いたとき、時刻は8時を回ったところだった。

丁度スタバが開いたところである。
トールラテとサンドウィッチを手にして、まだ誰もいないテラスに腰を下ろした。

ジャケットの内ポケットから手紙を出すと、一気に読み通した。

詫びの言葉とこの1年間の礼が書かれている。

その中の一文が、再び心を複雑にした。

・・・・・もしも、もしもね、将来、了と一緒になることができたら、クラフトの店にカフェを併設したい。

そのとき、カフェのマスターが了だったらと思ってる。

笑わないでね・・・・・

‘笑わないでねか。

50歳も過ぎれば、そんな光景に心地よさを感じるのかもしれないけど、当分ありえない話だな’

苦笑いがこぼれた。

この時間の軽井沢近辺はまだ寒い。

少し冷めかけたラテを喉に流し込んだ。

テラスのイスから立ち上がり、深呼吸をすると冷たい空気が肺に沁み込む様である。

‘さて、東京まで一気に飛ばすか’

社宅に帰ったら、何かとすることもある。
そして夜にはテレビ国際に出向かなければならない。

 

週初(28日、月曜日)は、ロンドン・ニューヨークは休場だが、イタリアやスペインの政局が混迷するなか、市場にはどことなくリスク・オフのムードが漂っている。

沖田によれば、’リスク回避で円が買われている’と言う。

‘リスク回避の円買いか。

リスク満載の国の通貨円が有事に買われるか、笑えるな’

翌日(29日、火曜日)、ドル円は一挙に108円12銭まで下落した。

ポピュリズムが席巻するイタリアやスペインでの政治不安が、ユーロ圏の遠心力を強めている様だ。

ユーロ売り円買いにドル円も連れている。

だが、週末には米5月雇用統計がある。

イベントを控えて、週半ばからポジション調整が入る可能性が高い。

翌日(30日、水曜日)の早朝、どことなくドルにビッド気配が漂う。

「沖田、少しビッドだな?」

「はい、少し戻すかもしれませんね。

例のポジション締めますか?」

111円台前半でのドルショートのことを聞いている。

「そうだな。

できれば、7円前半(107円台前半)とも思ったが、週末までの時間を考えると、ここで利食っておくべきかな。

50本買ってくれ」

「45(108円45銭)です」

「了解、後の処理は頼む。

野口、ユーロドルの感じは?」

「昨日のニューヨークで自分も売ってみたのですが、どうも押し戻される感じを受けます。

朝のミーティングでお話した様に、買い手はスイスやロンドンのファンドみたいですが、恐らくは利食いだと思います。

ここ(1.1500)は一応節目なので、一旦戻ると考えています」

「分かった、シング(シンガポール)で50本買ってくれ」

「38です」

「OK、それは1.1975の利食いで処理しておいてくれ。

それにしても、やけに素早くプライスが出てきたのが、気に入らないな。

野口、ここはショートカットを狙って、買っておくか。

100本買ってくれ。

小野寺、野口を手伝え」

「はい」
と小野寺が元気良く答える。

少し間をおいて、

「全部で130本買いました。
32で50本、35で50本、36で30本です」

「そっか、それじゃ、お前の分は32でいいぞ」

「ありがとうございます」

「あまり、長く持ちたくないポジションだが、一カ月半のトレンド線が抜ければ、少しは儲かりそうだな」

「どの辺でしょうか?」

「100も抜ければ、御の字かな。

あまり、グリーディーにならない方が良いと思う。

16ハーフ(1.1650)で利食い、15丁度(1.1500)givenでストップを入れておいてくれ」

「了解です」

 

週末(6月1日)、米5月雇用統計が発表された。

NFP、失業率共に、事前予測よりも良い結果となったことを受けて、ドル円は109円73銭まで買われたが、ドル買いは続かなかず、109円半ばで週を越えることとなった。

イタリアでは連立政権が樹立される見通しとなり、ユーロの下落は一服した様だが、ユーロ圏にポピュリズムの輪が広がる気配が残る。
まだまだ予断を許さない状況が続きそうだ。

11月に米中間選挙を控えてトランプ政権の無手勝流の通商戦略が続く。

‘非核化先行、見返りは後’というリビア方式を迫る米国、段階的な非核化という甘い期待を抱く北朝鮮、米朝首脳会談の行方も不透明だ。

当分は混沌の中で市場は揺れる。

‘このところ、課も自分も収益は順調だ。

こういうときに、筋読みをしてポジションを持つ必要はない。

市場の動きに任せてポジションの偏りを待つに限る’

 

土曜日の晩、岬からメールが届いた。

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この間は松本に来てくれて本当にありがとう。

前向きに生きてみる。

そして、もしかして、遠い将来、あんな夢が叶うと良いとも思う。

だから、了がクラフト・フェアに出向いてくれたこと、本当に嬉しかった。

ビザが下り、出発の日が決まったら、また連絡する。

了のことを本当に好きな「みさき」より

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簡単に返すしかなかった。

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頑張れよ。

俺が50歳を過ぎてもまだ独身だったら、岬の描いている遠い夢が叶うかもな(笑)。

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もう梅雨に入る。

心もそんな感じだ。

こんな季節に似合う Kiev Acoustic Trio の ‘Moment’を Bose のMusic System に押し込むと、ラフロイグをショット・グラスに注いだ。

そのグラスをデスクに運ぶと、PCにログインし、Outlook のアイコンをクリックした。

国際金融新聞の木村に来週のドル円相場予測を送るためである。

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木村様

結構重大な与件が飛び交い出しましたね。

そちらは書くことに困らなくて良い、そんな状況でしょうか。

ドル円相場ですが、依然としてドルの上値は重たいと感じています。

与件は沢山あるから適当に拾ってください。

ところで、ユーロ圏絡みの与件は少し、否結構大きな問題に発展するかもしれませんね。

やはり、OCA(最適通貨圏)*の理論に依拠したユーロ圏の将来は、つまりユーロの将来は明るくないのかもしれません。

来週の予測レンジ:107円20銭~110円70銭

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

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(つづく)

 


*MoMA(The Museum of Modern Art)についての記述は架空のことであり、事実ではない。仮にそうした事実があったとしたら、それは単なる偶然に過ぎない。

*OCA(optimum currency area)の理論は、複数の国が共通通貨を利用する場合、どの様な条件が整えば最適な経済域が成立するのかを追求している。

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。