第14回 「敵の中の味方」

 ―――北朝鮮による北海道を跨いでのミサイル実験で「有事の円買い」を絵に描いた様な展開となった前の週、ドル円は108円27銭まで下落した。

しかしながら、その後も年初来安値の8円13銭を試すまでには至らず、徐々にショートカバーを中心にドルが買われ、木曜日には10円67銭まで値を戻していた。

週末に発表された米8月雇用統計も事前予測を大きく下回ったものの、ドルの下押しは限定的で、10円25銭近辺で週末を迎えた。

そうした展開だっただけに、来週は上値を試す展開もあると踏んだが、北朝鮮が越週中に何を起こすか分からないという懸念も残った。

果たして週末の日曜日の午後、北朝鮮が水爆実験を行った。

‘必ず有事の円買いになる’
気持ちは逸るものの、世界の為替市場がクローズしている。
明日のオセアニアを待つしかなかった。

日本海上保険(JMI)とのトラブルにも決着を付けるべきときが迫っている。

‘明日からまた、大変な一週間が始まる’―――

 案の定、週明け4日のドル円はギャップダウンし、オセアニア市場では9円30~40(109円30~40銭)でのオープン。

その後は「日米首脳が相互防衛で再認識した」ことを受けてドル円は反発し、東京市場は9円80で寄り付いた。

正に波乱の幕開けといった感もあったが、その後は9円後半で様子見が続いた。

「課長、動きませんね。どう思います?」

「ギャップを埋めに行く勢いもなさそうだし、まだ落ちそうだな。先週の8円台のドル50本のロングも一旦閉じておくか。俺は100本売るが、お前はどうする?」

「課長に便乗して作った先週のロング10本の利食い、それに10本加えて合計20本、売ることにします」

「そうか、トータル120本か。20本ずつ、皆で手分けして売ってくれ」

野口や浅野もキーボードを叩き出した。
ほどなくして、山下が
「平均75で売れました」と言う。

「ありがとう。ところで、野口、ユーロドルはどうだ」
欧州通貨担当の野口は時折、鋭いコメントをする。

「直近の1.20台からのロングは一旦、捌けた様な気がします。目先の下は1.18ハーフが一杯かと。それに仮にドラギがユーロ高牽制をしたとしても、ここで実弾のユーロ売り介入はあり得ませんから、ロングの投げの後はまた買われると思います」

「分かった。ユーロドルを買おう。シング(シンガポール支店)で30本、残りの20本は適当に頼む」

「両方等も、80(1.1880)です」

「了解。ニューヨークはLabor Dayで休場だから、動き出すのは明日以降だな」

この日、欧州も模様眺めで終始した。

 相場が動き出したのは翌日のニューヨークに入ってからだった。

ブレイナード(FRB理事)の「追加利上げに慎重になるべき」との発言をきっかけに108円台へとドルが滑った。

米債務シーリング問題、ハリケーン‘イルマ’、米株の大幅下落、次々とドルの弱気材料が浮上する。

‘弱い通貨には弱気材料が付いてくる。行けるかも’

その日のニューヨークで8円63を付けたが、問題はこの下だ。

‘8円13の存在があるために、皆突っ込んで売って行けない。市場の心理状態が手に取る様に分かる。でもここに来て、相場が8円台に相当に固執している以上、そろそろ下に抜ける’
徐々にドル下落が確信に変わって行く。

週半ば(6日)になってもドルは落ちなかった。
‘迷い処だが、もう少しショートはキープしておきたい。
できれば、戻りは売り増したいところだ。
9月末が近づいてきたし、少しピッチを上げる必要がある‘

そんなことを考えていた午後の3時前、部長の田村がデスクに寄ってきた。

「‘明日来い’と、JMIからお呼びがかかった。お前は同行しなくて良い」と告げる。

「私が同行しなくて良いとは、どういう意味ですか?」

「嶺さん(常務)が‘仙崎が同席すると、かえって事が揉める’と言ってるんだ」

「東城さんは?」

「彼も行かないよ。俺と嶺さん、それにIBT証券の小山内常務の三人で行ってくる」

「嶺さんが決めたことであれば、仕方ないですね。
ただ、繰り返し言いますが、絶対に私は彼等の申し出を受け入れませんから」
と少し突っぱねる様に言い放った。

「これ以上何も言うことはない」と言って、田村は踵を返して自席へと戻って行った。
席に着いた彼の顔はどことなくニヤついて見える。

‘俺はともかく、東城さんも同行させないというのはどうも不自然だ。
何かある。もしかすると、勝手に彼等の要望を飲むつもりかもしれない。
そしてファイナンス・ビジネスと証券取引の再開を早めるという魂胆か。
ここは先手を打ち、本件を手仕舞うしかないな‘

 「IBTの仙崎ですが、園部部長をお願いします」
意図的にディーリング・ルーム全体に聞こえる様に声を上げた。
田村を含めて全員がこっちに目を向けた。
ルーム内の全員がJMIと何が起きているかを知っているからだ。
俺のデスクの近くまで詰め寄ってくる者もいる。

「おう、仙崎さんか。君の方から電話を掛けてくるとは珍しいな。用件は何かね?」
相変わらず、不遜な声である
‘分かっているくせに’

「明日の午後、例の件でうちの嶺常務が御社に出向くそうですが、まだ本当に取り下げるつもりはないのですね」

「ああ、当然だろう。俺はとことんやるつもりだ。文句あるのか?」

「あります。私の主戦場は外国為替市場です。
その主戦場で歪んだ行為を行えば、この先私はそこで戦っていく資格を失う。
つまり、私は為替ディーラーとして死ぬことになる。
だから、あなたの理不尽な要求を呑むわけにはいかない。
これは最後の通告です。
それでも、まだあなたは歪んだ要求を取り下げないつもりですか?」

「取り下げない」
突っぱねてきた。

「であれば、次回の外国為替市場委員会でこの問題を協議します。
当然、守秘義務があるので御社の名前は出しませんがね。
ですが、市場は広いが、人間関係は狭いことだけは忘れないでください。
それでは失礼します」静かに電話を切った。

市場委員会では、外国為替取引や国際金融市場における取引の行動規範等についての勧告書・意見書を公表することも行う。
国際標準で取引の公平性や市場原理を確保・維持するためだ。

電話を終えた瞬間、コーポレート・デスクの浅沼が拍手を始めた。
それを皮切りに、ディーリング・ルーム全体に拍手の輪が広がっていく。
園部の声は聞こえないが、俺の言っていることで大体の想像はついたのだろう。

いつの間にか執務室から出てきた東城も笑みを浮かべながらこっちを見ている。
「お前のやりたい様にやれ」と言っているかの様である。
勝手に解釈し、それに軽い会釈で応えた。

ディーリング・ルームが仙崎へのエールで溢れる光景を憎々しげに眺めている男がいた。
田村である。

「課長、とうとうカードを切りましたね」
山下が満面の笑みを浮かべて言う。

「まるでお前は俺の言動を楽しんでいるかの様だな。
あきれたヤツだ。
でも、これでJMIは必ず動いてくる」
‘だが、念には念を入れておく必要がある。JMI全体の評判を落とすのは拙い’

「山下、30分ほど席を空けるが、後は頼む」

 向かったのは同じフロアーにある応接室である。
「IBTの仙崎と申しますが、副社長の有村さんをお願いします」

秘書の「暫くお待ちください」の声に続いて、
「おう、了君、久しぶりだな。
いつ電話が掛かってくるのかと待ってたよ。
冷たいじゃないか。
もっとも、稼ぎ頭の君のことだ、忙しくて暇もなかったのだろう。
今日は久しぶりに飲もうって誘いか?」

「いや、そんな話ならば良いのですが、少し御社とトラブルがありまして・・・」

「ほう、どんな?」

一連の経緯を話した。

「それは迷惑を掛けたな。
まだ、うちにそんな連中がいたのか?
残念なことだ。
分かった、今日のうちに対処しておく。
危うくうちの評判を落とすところだったな。
感謝するよ。

ところで、今度ゴルフでもどうだ。
俺が勝ったら、君が特製ペペロンチーノを作り、
君が勝ったら、俺が特製インドカレーを作るってことでな。
家内も娘も君に会いたがってるぞ」

有村とはニューヨーク時代に、とあるパーティーで知り合ったが、
当時JMIニューヨーク現地法人の社長だった彼は地位に拘らない人物で、プライベートでも親しく接してくれたゴルフ仲間だった。
高級住宅地のブロンクスビルにある邸宅にもしばしば招いてくれた。

「そうですか。是非ご家族の方ともお会いしたいですね。
ゴルフはハンデ10頂くということで良いですか?
有村さんはシングル、僕は誰からも憎まれない90プレイヤーですからね」

「まだ、そんなレベルか。ダメだな」

「僕は副社長と違って暇じゃありませんから」

「おい、相変わらず、ハッキリと本当のことを言うな」
二人の笑い声が電話空間に響き渡る。

「済みません。それでは、仕事に戻らせて頂きます。
また電話させてください。
久々に有村さんの元気な声を聞くことができて良かったです
それでは、本件宜しくお願い致します」
と電話の相手に深々と頭を下げた。

 翌朝(木曜日)、JMIからドル円100本、at best* で売りたいという電話があった。
コーポレート・デスクの浅沼が怪訝そうな顔をこっちに向けてきたが、頷いて見せる。

「ディール」を受けろとの合図である。

一斉にインターバンクの連中がボードを叩き出し、山下が手際良く電卓でプライスを計算する。

「10(イチマル、9円10銭)」と、山下がコーポレート・ディーラーに告げる。

ディール成立である。

驚いたことに、これまでJMIはコミッション(口銭)を払わなかったが、これからは1銭(100万ドルに付き1銭)払うと言う。

‘決着がついたな’

 暫くすると、部長の田村が寄ってきて、
「今日のJMIへの訪問、取り止めになった。お前は一体、どんな手を使ったんだ?」と悔しそうに言う。

「さあ、昨日私が園部さんに電話したのをお聞きになってましたよね?
園部さんも‘厳正な市場を歪めてはならない’ってことにお気づきになってのでは」
さらっと答えると、直ぐに踵を返し自席に戻って行った。
その後ろ姿に悔しさが滲む。

 ドル円の下値圏の砦8円13銭が決壊したのは、その日のニューヨーク時間だった。

ECB理事会の記者会見でドラギのユーロ高牽制が不十分であったことと、10月の理事会においてテーパリングに踏み切ることが明確になったことで、市場がユーロ買いドル売りに動いたのである。
対ユーロで下落したドルは、対円でも連れて落ちたのだ。

週末の金曜日、ドル円は大きく左に振れ7円32銭(107円32銭)を付け、そして
ユーロドルは右に振れ1.2094まで上った。

来週はドルの戻り売りの週かな。
JMIに決着を優先させたため、ドルを売り増すことができなかったのが悔やまれる。

(つづく)


*at best :プライスを聞かれた銀行が確実にカバーできるレート

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。