月別アーカイブ: 2017年9月

第16回 「会えなくなった二人」

―――9月末決算のバジェットに大方の目途が付いた先週、東城から休暇を取る様に命令された。

それに従って休暇を取り、松本の奈川に出かけることにした。

禁漁前のフライフィッシングが目的だが、松本に暮す岬の近況もこの目で確認しておきたいという思いもある。

三連休(16日~18日)でフィールドを訪れるフライマンが多いため、19日(火曜日)の午後に出発することにした。

そんな折、山下からジュニア・ディーラーの前島の様子が変だという連絡が入った。

そして岬からも奇妙な電話が入る―――

 日本が祝日の週初(18日)、アジア時間の相場は模様眺めの展開となり、ドル円も11円台前半(111円台前半)で終始した。

ところが、海外で重要水準の11円65*を抜き、66を付けた。

完全に抜けた訳ではないが、一度抜けたレベルを再度試しに行くのが相場の習性である。

果たして翌日の東京でそこを抜きにかかった。

そんななか、山下から携帯に電話が入った。

奈川に向かう直前の午後2時過ぎのことである。

「ジュニアの前島が突如消えてしまいました」

「どういうことだ?」

山下は

‘クルーシャル(重要な)・レベルの65(11円65)が完全に抜けたので前島がドルを10本、75で買った。

その直後に彼がディーリング・ルームを飛び出して行った‘と訳の分からない説明をした後、

「何かにショックを受けたというのが周囲の話ですが、細かな事情は分かりません」と言葉をつないだ。

「それで、あいつの携帯に電話を入れてみたのか?」

「はい、今独身寮に帰る途中の様です。
嘘を付く様な男ではないので、多分、あと30分ほどで寮には着くと思いますが」

「先週お前に、‘月末まではカバーに徹する様に皆に指示しておけ’と言ったが、それは伝えてあるよな?」

「はい、今朝のミーティングで伝えてあります」

「ふーん、そうか。
とすると、何か裏があるな。
確かあいつの限度(取引可能額)は5本までだったよな。
それが何で10本のディールをやったんだ??? 
その辺に理由があるのかも知れないな。
万が一のことがあると拙い、俺が寮まで行ってみるよ」

「だけど課長、これから奈川へ出かけるところじゃないんですか?」

「それより、前島のことが気になる。また後で電話を入れる。お前はデスクに残れ」と命令口調で言った。

‘今日はもう、あっちに向かうのは無理そうだ’
奈川のペンション‘野麦倶楽部’に電話を入れ、チェックインを明日にしてほしい旨を伝えた。

 前日に四谷のトヨタレンタカーで借りておいたプラドに乗り込むと、船橋にある独身寮の住所をナビに入力した。

かつて自分が住んでいた場所だが、神楽坂からの道順はさっぱり分からない。

取り敢えず、飯田橋ICから首都高5号線に入り、後はナビの指示従うことにした。

‘こういうときはナビが便利だ’

一時間ほど走ると、京葉道路の‘原木’で高速を降りろという指示が出た。

ランプウェイを降りた後は一般道を船橋市内に向けて走れば良いらしい。

指示通りに20分ほど走ると、ランドマークの船橋市役所近辺に出た。

確か独身寮は市役所の裏手方面だったはずだ。

寮を離れてから8年以上も経つが、この辺りは昔とあまり変わっていない様子で土地勘が甦ってくる。

同時に‘目的地周辺です’のナビの案内が聞こえ、間もなく見慣れた寮の建物が目に入ってきた。

敷地内に入り、車を玄関の前に止めると、管理人が近づいてきた。
見慣れた顔である。

「おう、了君か。元気だったか? 活躍してる様だな。
寮に居た人間が活躍してるのを聞くと、管理人としても嬉しくなるよ。
ところで、今日はどうした?」

「唐突な話ですみませんが、前島君は戻ってますか?」

「ああ、さっき戻ってきた。調子悪いので、早引けしてきたと言ってたけどな」

「そうですか、彼の部屋番号は?」

「303だ」

「ありがとうございます。車、このままで良いですか?」

「ああ、大丈夫だ」

「ちょっと、部屋に行かせてもらいます」

303は3階の3号室だ。
4階建ての寮にはエレベーターが付いていない。
一挙に3階まで駆け上がり、303のドアをノックした。

中から
「おじさんですか?」
前島の声だ。

声を聞いたところで、安堵した。

そして一息つき、
「管理人さんじゃない、仙崎だ。中に入れてくれ」
と落ち着いた声で言う。

「えッ、課長。本当ですか? ちょ、ちょっと待って下さい」
ドア一枚を隔てただけなので、少し慌ててる様子が伝わってくる。

数分すると、前島がドアを開け、
「どうぞ、入って下さい」と招じ入れてくれた。

「おう、どうした? 心配したぞ。山下から電話を貰ったが、突然消えたそうだな」

「はい、申し訳ありませんでした。どうもあの場にいるのが辛くなってしまったので・・・」

「良かったら、話を聞かせてくれないか?」
急かせずに、相手の出方を待った。

前島は状況をとつとつと語り出した。
その目にはかすかに涙が滲んでいる様だ。

・・・・・

一年先輩の中村と相場感を照らし合わせているうちに、‘ここは買い場だ’という話になった。

そこで二人合意のもと、5本・5本、計10本を75で買ったが、その直後に中村が寝返った。

中村は
「やっぱり俺は止めた。
10本全部のお前のポジションにしておいてくれ。
俺は今月マイナスでちょっとこれ以上は拙い」
と命令口調で言い放ったという。

その後、言い争っているうちにドルがオファー(売り気配)になり、50でストップを置いて銀行を後にした。
・・・・・

というのがお凡そのストーリーである。

改めて聞けば、大した話ではないが、問題は先輩に裏切られた前島の心が傷ついている点だ。

限度オーバーも気にしているに違いない。

かつての俺も田村の罠に嵌り、深く傷ついた。

同僚や上司に裏切られた気持ちは痛い程分かる。

‘真剣に対応してあげなければな’

「凡その内容は分かった。
ところで、お前はまだ、市場に残っていたいのか? 
むろん、遠い将来のことではなく、今の話だ」

「はい、課長の下で仕事を続けたいと思ってます」

「そうか、ちょっと待ってろ」と言い、
携帯を取り出し、山下に電話を入れた。

「あっ、課長。どうでしたか?」
真剣な声だ。
余程心配していたのだろう。

「前島は大丈夫だ。
悪いが、前島の限度枠を今日付けで10本に訂正しておいてくれ。
また詳しいことは後で連絡する」

「課長、どういうことですか?」と前島が訝しげに尋ねてきた。

「お前は今日、正当な枠の中でポジションを取ったわけで、行内ルールを犯していないということだ。
そしてこれからは、これまでの倍のポジションを取れることになる。
不足ならもっと枠を増やすか」
微笑みながら答えた。

「いえ、10本で十分です。ありがとうございます」
深々と頭を下げ続けている。

「もう良い、顔を上げろ。
じゃ、俺は帰るが、山下に電話を入れておけよ。
その時、25と30(11円25、30)で5本ずつ、買いのリーブを入れておくと良い。
今週中にまだドルは上がる。
きっと利食える。
ただ、これは俺が特別に許可した月中の最後のポジション・テイキングだ。
10月に入るまではカバー以外に手を出すな」
きっぱりと言った。

’もうこれ以上、言うことはない’
そっと、部屋を後にした。

階段を下りかけたところで、
「課長、ありがとうございました。また頑張ります」
という前島の声が聞こえた。
寮中に響き渡る様な大声である。

 管理人夫妻がホールのテーブル席で待っていてくれた。
仲の良い夫妻である。

「お帰りですか?」
奥さんが言う。

「はい、今日は手ぶらで来てしまって申し訳けありません。
次回はお二人が好きだった‘岡埜栄泉の豆大福’を持ってきます。
あいつの件は、もう心配要りません。
昔の僕ですよ」
管理人夫妻はかつて俺が悩んでいたときのことを良く知っている。

「それは良かった。
かつての了君の経験が今日は生きたってところだな。
それじゃ、気を付けてな。
今度は泊りがけで来いよ。
いつでも部屋は空いてるから」

「はい、是非。それじゃ、失礼します」
と言い残し、プラドに乗り込んだ。
フェンダーミラーに手を振る二人の姿が映っている。
窓を開けて、手を振り返した。

帰路の途中で幾度も渋滞に巻き込まれ、神楽坂の社宅に着いたときには、時計の針は8時を回っていた。
‘今日も、宅配ピザだな’

ピザが届くのを待つ間、ベッドに横たわって目を瞑った。
疲れが出たのか、眠りに落ちた様である。
夢の中で携帯電話の鳴る音が聞こえる。
やがてそれが現実の音に変わった。

「了、私」
岬である。

「どうした?」

「来るのは金曜日よね?」

「ああ、そうだけど。何か都合でも悪くなったの?」

「うーん・・・。上手く説明できないんだけど、どうもここ最近、見知らぬ人がお店の様子を窺っているの。
母は夫が雇った私立探偵じゃないかって。
そう言われてみれば、そういう気もするの。
猜疑心の強い人だから、やりかねないわ」

「つまり、岬が誰かと付き合ってるかどうか、探ってるってことか?」

「多分。もちろん、了にこの間、会ったことも知らないし、他に疑われる様なことは何一つないわ」

「でも、そういう状態だと、金曜日は拙いな。
少し間を空けて様子をみた方が良いかも」

「そうね。でもせっかく了が奈川に来てるのに会えないのは残念だわ」

「実は、今まだ神楽坂にいるんだ」
前島の件を説明した。

「そうなの。大変だったのね。でもフライフィッシングはやりたいんでしょ?」

「まあな。でもこの際、釣りはどうでも良い。また10月に入って、状況が変わったらそっちに行くよ」

「分かった。なんだか貴方に迷惑をかけそうで、とても恐いわ。ごめんね」
涙ぐんでいる様だ。

「そこまで心配しなくて良いよ。
それじゃ何かあったら、連絡をくれ。おやすみ」

「おやすみなさい」

電話を切ってから、彼女が別居を始めた理由が少しずつ分かり出した。

 今回の奈川行きは取り止めにし、翌日から横浜の実家へ帰ることにした。

久しぶりに見る母の顔である。

中華街でペキンダックを奢り、みなとみらいでハンドバッグを買ってあげた。
母の喜ぶ顔を見ながら、‘早く結婚しないと拙い’という気持ちになったが、当分は無理そうだ。

かつて岬とロイヤルパークから夜のベイブリッジを延々と眺めていたことが思い出される。
‘もうあんな日は来ないのかも’

ドル円は木曜日に7月17日以来の高値水準となる112円72銭まで上昇し、112円前後で週末のニューヨークを終えた。
どこかで前島は利食えたはずだ。

7円32(107円32銭)から続いている一連のドル高局面で、調整らしい調整が入っていない。

この先の焦点はフィボナッチ水準の12円99(112円99銭)*だが、その直前に年初来高値18円60(118円60銭)を起点とする抵抗線が走っているし、来週は調整かな。

もっとも、10月に入るまではポジションを取らない。

深く考えるのは止めておこう。

(つづく)


*11円65: 118円66銭(昨年12月15日)と107円32銭の38.2%戻し
*12円99:同50%戻し

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第15回 「近づく9月末」

―――日本海上保険(JMI)運用部からの理不尽な要請を拒絶したが、その反動は思いのほか大きかった。

先方が他部署との取引をも見合わせると通達してきたのだ。

行内にも動揺の輪は広がったが、市場を歪めることはできない。
JMIの総意と良識を信じ、正攻法で押し切った。

果たして禍転じて福となす格好で決着が付いた。

旧知のJMI副社長有村が動いてくれたのである―――

 JMIの件で時間を取られ、収益回復が少し遅れてしまった。

9月末まで、それほど時間が残されていない。

自分の立てた目標を達成するためには、少しトレーディングのピッチを上げる必要がある。

気持ちだけは逸るが、相場付きが悪くなり出しだ。

週初の11日のシドニーで、8円05近辺でギャップアップ・オープンとなってしまったのである。

その前の週に年初来安値8円13を潰し、7円32を付けた後に7円85(107円85銭)で越週した。

その状況を考えて、週初はドルの下値をテストすると見ていたが、もはや市場にその雰囲気はない。

北朝鮮が建国記念日(9日)に軍事行動に及ばなかったことや、ハリケーン‘イルマ’の勢力が弱まったことが背景にあるとは言え、やや虚を突かれた感がある。

この先、ショートカットが出ることは間違いない。

先週9円台で作ったドルショートは8円70で閉じ、1.1880のユーロドルのロングも1.19台で閉じた。

とりあえず利を残したものの、明らかに相場感を失っている。
手詰まりだ。

ドルの上昇は節目々のドル売りで一時的に止まるが、下がらない。

ショートカットを巻き込みながら、その日のニューヨークでドル円は9円51まで吹き上がった。

翌日(12日)もドル円は110円を付け、戻り売りが機能しなくなった。

ECB理事会でユーロ高牽制が出るのを恐れ、少しずつユーロもオファー(売り)気配である。
ECBが実弾介入に出るはずもないのだが、ポジションがユーロ・ロングなのだ。

‘少し状勢を見極める必要があるな。焦るのは止めよう’

 そんな気持ちでスクリーンを眺めていると、嶺常務から電話が入った。

「常務から直接のお電話とは、何か急用でしょうか?」

「いやー、仙崎君、君のお蔭でJMIが大きな取引を持ち込んできてくれたよ。
IBT証券で100億の株式を購入し、国際フィナンス部にもJMIがリードする(幹事役である)シンジケート・ローンの話を持ち込んできてくれたそうだ。
さすが、君はわが行のエースだな。礼を言うよ。
まあ、そのうち一杯やろうじゃないか」

と言うと、一方的に電話を切った。

‘先週あれだけ俺のことを面罵し叱責していた人物が発した言葉とは思えない。
まあ良い、事が上手く運んだんだ’

それはそれとして、全く相場が読めないのが困った。
山下等のカバーは手伝っているものの、プロップ・トレーディング(ポジション・テーキング)ができない。

そんななか、ふとジェネラル・アカウント*(一般勘定)に目をやると、それまでマイナスだったトータル金額がプラスに転じている。

「山下、先週からアカウントに目を通す時間がなかったが、ジェネラル・アカウントがプラスになっている。何故だか分かるか?」

「はい、東城さんだと思います。
先週、課長が離席している間にドルを100本買ってました。
その収益が原因だと思いますが」

‘東城さんらしいな’
「そうか、少し東城さんの部屋に行ってくる」

 東城の執務室のドアを叩きながら、
「仙崎ですが、少しお時間、宜しいでしょうか?」

「おう、入れ」
声がドアと反対側に向かって発せられている様だ。
果たしてドアを開けると、皇居の森を眺める東城の後ろ姿が目に入ってきた。
‘相変わらず、背筋が伸び、凛としている’

「失礼します」

「まあ、座れ」
と言いながら、窓を背にした東城もソファーに近づいてきた。

「JMIの件ではお騒がせしましたが、首尾よく決着が付いた様です」

「そうらしいな。
さっき、嶺さんから電話があったよ。
それにJMIの有村副社長からもな。
お前に感謝していた。
お前から連絡を貰わなければ、会社の評判を落とすところだったと」

あっちで(ニューヨークで)、有村に東城の存在を話したことはあったが、お互いに面識はない。

‘東城さんに電話を入れてくるとは有村さんらしい気遣いだな’

「そうですか。良い方ですよね」

「ああ、これもお前をあっちに行かせたことの成果だな。ところで、話とは?」

「本部長、先週ポジションをお取りになったのですか?
ジェネラル・アカウントがプラスに転じてました。
どうもありがとうございます」

「なあに、礼を言われるほどのことじゃない。
お前がJMIの件で忙しそうだったから、少し手伝わせて貰っただけだ。
途中ヘッドウィンド(逆風)に吹かれたが、昨日からの動きで大分プラスになった様だな。
マイナスを出さなくて良かったよ」
と笑って言う。

‘うちの連中もドル売りに前掛かりになっていた。
敢えて東城はその逆を張り、彼等がロスを出したときの防波堤となったのである。

なかなか抜けきれなかった年初来安値8円13銭を抜いた後の相場で、もう少しドルが下押される可能性があった。
そんな局面での逆張りには勇気がいる。

凄い人だ。
この人の下で働けて良かった’

「確かに私のトレーディングが疎かになっていました。助かりました」

「まあ、たまには俺も市場に入らないと、偉そうなことも言えないからな。
それはそれとして、この数カ月お前には随分と働いて貰った。
お蔭で本部の4~9(上半期)は何とかなりそうだ。
海外もまずまずだ。
ニューヨークはお前が抜けた後、嵩上げこそ出来なかったが、それでもバジェットは達成しているし、他の海外店も問題はない」

「本当ですか。それは良かったですね。じゃ、前祝いですか?」

「調子づくな。それは9末(9月末)を越してからだ。
ところで、お前は夏休みらしい休みを取っていなかったな。
少し休め。

最近、人事も有給休暇の消化については神経質だ。
社宅でも仕事をせざるを得ないだろうが、それは為替ディーラーとしてのお前の宿命だ。
だがここでお前に倒れられたら、俺の監督責任になる。

それにうちもブラック企業扱いされかねない。
そろそろ長野の川も禁漁だろう」

「ありがとうございます。
それでは、来週にでも。
ただ、まだ自分の立てたターゲットに少しだけ届いていません。
それを熟してからということで」

「まあ、勝手にしろ」
苦笑いしながら、呆れた様子を見せた。

「ところで、人事の件ですが、年度末で山下と沖田を入れ替えようと思っているのですが、上に話を付けておいて頂けますでしょうか?」

「そうだな。山下もそろそろ、あっちへ行かせる時期だな。それに沖田も大分、長くなったし、了解した」

来月早々に一杯やることを約束して、部屋を辞した。

 翌日も相場が読み切れないまま、暫くインターバンクをサポートしながら、ジョビングに徹することにした。

ドルを買う気にもなれない、売る気にもなれない、そんな展開である。

週後半の木曜日になっても良く分からない展開が続き、早めに社宅に帰って海外の市場を見ることにした。
来週のFOMCを控えて、今日発表される8月の米CPIを見ておきたかった。

部屋に入ると、ダイニング・テーブルにメモが置かれていた。
母の字である。

‘お前の好きな稲荷寿司と煮つけを作っておきました。
酢飯だけど、念のために冷蔵庫に入れておきます。
お彼岸には帰ってくるのでしょうか? 
たまには父さんのお墓参りにでも出かけませんか。
健康に気を付けてください。母より’

少し感傷的になるが、頭を振って堪えた。

稲荷寿司と煮つけ、それにビールをデスクに運ぶと、マーケット専用のPCのスイッチを入れた。
時刻は8時過ぎである。
10円半ばで少しビッド気配。
CPI発表前だというのに、誰かがドルを買い出したのだ。

9時半、数字が発表された。
総合指数もコアも予想より良い。
ドルが跳ねた。

直ぐにニューヨークの沖田に電話を入れた。
「上はどこまでだ?」

「05(11円05銭)です」

「レベルは?」

「80 around(10円80近辺)」

「50本売ってくれ」
’8月4日の高値11円05は肝の水準だ。
ここを完全に抜けないのであれば、一旦は売りだ’

「81で出来ました」

「ありがとう。ストップだけ11円65で入れておいてくれ。忙しいところ、悪かったな」

「どう致しまして。何かあったら、お電話しますが、とりあえずお休みなさい」

ドルを売ったところで少し気が晴れた。
残りの稲荷寿司を口に頬張った。
‘やはり、お袋の作ったこいつは旨い’

落ち着いたところで、ラフロイグを飲みながら母親にメールを入れることにした。
BGMは Al Haig の ‘Duke’n’Bird 。
芸術的なピアノが良い。

「稲荷寿司、旨かった。どうもありがとう。23日に帰ります」
’少し気の利いたことを書こうとしたが、どうも母親宛てのメールは苦手だ。
短いメールになってしまったが、まあ由とするか’

実家は横浜の永田にあるので、社宅のある神楽坂からは少し遠い。
だが、母は時間を見つけては、社宅の掃除や夕飯の用意をするために、ここまで来てくれているのだ。
それを思うと、遠いなどと言ってはいられない。

 翌日の早朝、またもや北朝鮮が北海道を跨いでミサイルを発射した。
有事の円買いは9円半ばまでだった。
それでも、昨晩10円81で作ったショート・ポジションにとっては慈雨である。

北朝鮮の軍事的挑発に少し食傷気味となった市場は(ドル売り)円買いに積極的でなくなりつつある。
9円95で買い戻すことにして、後は様子見と決め込んだ。

そんな俺の様子を窺いながら、山下が例のごとく、
「来週はどうでしょうか?」と聞いてきた。

「フィボナッチ水準の11円65*をブレイクすれば、112円前半もありえるが、それにはFOMCのドットチャート(参加者の政策金利見通し)で12月利上げ見通しの人数が多く、イエレンの強いタカ派的発言が必要になる。

ただ、このところFEDの利上げ決定や観測はドルを下支えてはきたが、押し上げてはいない。

だから、11円65ブレイクは難しい様な気がする。

逆に11円65を超えられなければ、再び8円台への反落もあると思う」

「そうですか。それじゃ、少し静かにしておきますかね」

「そうだな。もう9月期の数字もほぼ固まった。
ここからはカバー中心で行く様に、皆に伝えておいてくれ。
来週は東城さんの命令で夏休みをとることにした」

「また松本方面ですか、岬さんと会えますね。
この間の話もまだ聞いてませんから、今度まとめて聞かせて下さい」

「あまり、上司をからかうな。ニューヨークへの転勤を取り消すぞ」

「えっ、それは困りますよ」

「大丈夫だ。東城さんにも伝えてある。それじゃ、来週は頼んだぞ」

その日のニューヨークは11円33を付けたものの、8月の米小売売上高が予想を下回ったことからドルが反落し、10円85で終えた。

(つづく)

*ジェネラル・アカウント(general account):
予期せぬことで生じた利益や損失を暫定的に処理するための勘定。通常は損失が発生することが多い。呼称は銀行によって異なる。

*111円65銭: 118円66銭(16年12月15日)と9月8日の安値107円32銭の38.2%リトレースメント

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第14回 「敵の中の味方」

 ―――北朝鮮による北海道を跨いでのミサイル実験で「有事の円買い」を絵に描いた様な展開となった前の週、ドル円は108円27銭まで下落した。

しかしながら、その後も年初来安値の8円13銭を試すまでには至らず、徐々にショートカバーを中心にドルが買われ、木曜日には10円67銭まで値を戻していた。

週末に発表された米8月雇用統計も事前予測を大きく下回ったものの、ドルの下押しは限定的で、10円25銭近辺で週末を迎えた。

そうした展開だっただけに、来週は上値を試す展開もあると踏んだが、北朝鮮が越週中に何を起こすか分からないという懸念も残った。

果たして週末の日曜日の午後、北朝鮮が水爆実験を行った。

‘必ず有事の円買いになる’
気持ちは逸るものの、世界の為替市場がクローズしている。
明日のオセアニアを待つしかなかった。

日本海上保険(JMI)とのトラブルにも決着を付けるべきときが迫っている。

‘明日からまた、大変な一週間が始まる’―――

 案の定、週明け4日のドル円はギャップダウンし、オセアニア市場では9円30~40(109円30~40銭)でのオープン。

その後は「日米首脳が相互防衛で再認識した」ことを受けてドル円は反発し、東京市場は9円80で寄り付いた。

正に波乱の幕開けといった感もあったが、その後は9円後半で様子見が続いた。

「課長、動きませんね。どう思います?」

「ギャップを埋めに行く勢いもなさそうだし、まだ落ちそうだな。先週の8円台のドル50本のロングも一旦閉じておくか。俺は100本売るが、お前はどうする?」

「課長に便乗して作った先週のロング10本の利食い、それに10本加えて合計20本、売ることにします」

「そうか、トータル120本か。20本ずつ、皆で手分けして売ってくれ」

野口や浅野もキーボードを叩き出した。
ほどなくして、山下が
「平均75で売れました」と言う。

「ありがとう。ところで、野口、ユーロドルはどうだ」
欧州通貨担当の野口は時折、鋭いコメントをする。

「直近の1.20台からのロングは一旦、捌けた様な気がします。目先の下は1.18ハーフが一杯かと。それに仮にドラギがユーロ高牽制をしたとしても、ここで実弾のユーロ売り介入はあり得ませんから、ロングの投げの後はまた買われると思います」

「分かった。ユーロドルを買おう。シング(シンガポール支店)で30本、残りの20本は適当に頼む」

「両方等も、80(1.1880)です」

「了解。ニューヨークはLabor Dayで休場だから、動き出すのは明日以降だな」

この日、欧州も模様眺めで終始した。

 相場が動き出したのは翌日のニューヨークに入ってからだった。

ブレイナード(FRB理事)の「追加利上げに慎重になるべき」との発言をきっかけに108円台へとドルが滑った。

米債務シーリング問題、ハリケーン‘イルマ’、米株の大幅下落、次々とドルの弱気材料が浮上する。

‘弱い通貨には弱気材料が付いてくる。行けるかも’

その日のニューヨークで8円63を付けたが、問題はこの下だ。

‘8円13の存在があるために、皆突っ込んで売って行けない。市場の心理状態が手に取る様に分かる。でもここに来て、相場が8円台に相当に固執している以上、そろそろ下に抜ける’
徐々にドル下落が確信に変わって行く。

週半ば(6日)になってもドルは落ちなかった。
‘迷い処だが、もう少しショートはキープしておきたい。
できれば、戻りは売り増したいところだ。
9月末が近づいてきたし、少しピッチを上げる必要がある‘

そんなことを考えていた午後の3時前、部長の田村がデスクに寄ってきた。

「‘明日来い’と、JMIからお呼びがかかった。お前は同行しなくて良い」と告げる。

「私が同行しなくて良いとは、どういう意味ですか?」

「嶺さん(常務)が‘仙崎が同席すると、かえって事が揉める’と言ってるんだ」

「東城さんは?」

「彼も行かないよ。俺と嶺さん、それにIBT証券の小山内常務の三人で行ってくる」

「嶺さんが決めたことであれば、仕方ないですね。
ただ、繰り返し言いますが、絶対に私は彼等の申し出を受け入れませんから」
と少し突っぱねる様に言い放った。

「これ以上何も言うことはない」と言って、田村は踵を返して自席へと戻って行った。
席に着いた彼の顔はどことなくニヤついて見える。

‘俺はともかく、東城さんも同行させないというのはどうも不自然だ。
何かある。もしかすると、勝手に彼等の要望を飲むつもりかもしれない。
そしてファイナンス・ビジネスと証券取引の再開を早めるという魂胆か。
ここは先手を打ち、本件を手仕舞うしかないな‘

 「IBTの仙崎ですが、園部部長をお願いします」
意図的にディーリング・ルーム全体に聞こえる様に声を上げた。
田村を含めて全員がこっちに目を向けた。
ルーム内の全員がJMIと何が起きているかを知っているからだ。
俺のデスクの近くまで詰め寄ってくる者もいる。

「おう、仙崎さんか。君の方から電話を掛けてくるとは珍しいな。用件は何かね?」
相変わらず、不遜な声である
‘分かっているくせに’

「明日の午後、例の件でうちの嶺常務が御社に出向くそうですが、まだ本当に取り下げるつもりはないのですね」

「ああ、当然だろう。俺はとことんやるつもりだ。文句あるのか?」

「あります。私の主戦場は外国為替市場です。
その主戦場で歪んだ行為を行えば、この先私はそこで戦っていく資格を失う。
つまり、私は為替ディーラーとして死ぬことになる。
だから、あなたの理不尽な要求を呑むわけにはいかない。
これは最後の通告です。
それでも、まだあなたは歪んだ要求を取り下げないつもりですか?」

「取り下げない」
突っぱねてきた。

「であれば、次回の外国為替市場委員会でこの問題を協議します。
当然、守秘義務があるので御社の名前は出しませんがね。
ですが、市場は広いが、人間関係は狭いことだけは忘れないでください。
それでは失礼します」静かに電話を切った。

市場委員会では、外国為替取引や国際金融市場における取引の行動規範等についての勧告書・意見書を公表することも行う。
国際標準で取引の公平性や市場原理を確保・維持するためだ。

電話を終えた瞬間、コーポレート・デスクの浅沼が拍手を始めた。
それを皮切りに、ディーリング・ルーム全体に拍手の輪が広がっていく。
園部の声は聞こえないが、俺の言っていることで大体の想像はついたのだろう。

いつの間にか執務室から出てきた東城も笑みを浮かべながらこっちを見ている。
「お前のやりたい様にやれ」と言っているかの様である。
勝手に解釈し、それに軽い会釈で応えた。

ディーリング・ルームが仙崎へのエールで溢れる光景を憎々しげに眺めている男がいた。
田村である。

「課長、とうとうカードを切りましたね」
山下が満面の笑みを浮かべて言う。

「まるでお前は俺の言動を楽しんでいるかの様だな。
あきれたヤツだ。
でも、これでJMIは必ず動いてくる」
‘だが、念には念を入れておく必要がある。JMI全体の評判を落とすのは拙い’

「山下、30分ほど席を空けるが、後は頼む」

 向かったのは同じフロアーにある応接室である。
「IBTの仙崎と申しますが、副社長の有村さんをお願いします」

秘書の「暫くお待ちください」の声に続いて、
「おう、了君、久しぶりだな。
いつ電話が掛かってくるのかと待ってたよ。
冷たいじゃないか。
もっとも、稼ぎ頭の君のことだ、忙しくて暇もなかったのだろう。
今日は久しぶりに飲もうって誘いか?」

「いや、そんな話ならば良いのですが、少し御社とトラブルがありまして・・・」

「ほう、どんな?」

一連の経緯を話した。

「それは迷惑を掛けたな。
まだ、うちにそんな連中がいたのか?
残念なことだ。
分かった、今日のうちに対処しておく。
危うくうちの評判を落とすところだったな。
感謝するよ。

ところで、今度ゴルフでもどうだ。
俺が勝ったら、君が特製ペペロンチーノを作り、
君が勝ったら、俺が特製インドカレーを作るってことでな。
家内も娘も君に会いたがってるぞ」

有村とはニューヨーク時代に、とあるパーティーで知り合ったが、
当時JMIニューヨーク現地法人の社長だった彼は地位に拘らない人物で、プライベートでも親しく接してくれたゴルフ仲間だった。
高級住宅地のブロンクスビルにある邸宅にもしばしば招いてくれた。

「そうですか。是非ご家族の方ともお会いしたいですね。
ゴルフはハンデ10頂くということで良いですか?
有村さんはシングル、僕は誰からも憎まれない90プレイヤーですからね」

「まだ、そんなレベルか。ダメだな」

「僕は副社長と違って暇じゃありませんから」

「おい、相変わらず、ハッキリと本当のことを言うな」
二人の笑い声が電話空間に響き渡る。

「済みません。それでは、仕事に戻らせて頂きます。
また電話させてください。
久々に有村さんの元気な声を聞くことができて良かったです
それでは、本件宜しくお願い致します」
と電話の相手に深々と頭を下げた。

 翌朝(木曜日)、JMIからドル円100本、at best* で売りたいという電話があった。
コーポレート・デスクの浅沼が怪訝そうな顔をこっちに向けてきたが、頷いて見せる。

「ディール」を受けろとの合図である。

一斉にインターバンクの連中がボードを叩き出し、山下が手際良く電卓でプライスを計算する。

「10(イチマル、9円10銭)」と、山下がコーポレート・ディーラーに告げる。

ディール成立である。

驚いたことに、これまでJMIはコミッション(口銭)を払わなかったが、これからは1銭(100万ドルに付き1銭)払うと言う。

‘決着がついたな’

 暫くすると、部長の田村が寄ってきて、
「今日のJMIへの訪問、取り止めになった。お前は一体、どんな手を使ったんだ?」と悔しそうに言う。

「さあ、昨日私が園部さんに電話したのをお聞きになってましたよね?
園部さんも‘厳正な市場を歪めてはならない’ってことにお気づきになってのでは」
さらっと答えると、直ぐに踵を返し自席に戻って行った。
その後ろ姿に悔しさが滲む。

 ドル円の下値圏の砦8円13銭が決壊したのは、その日のニューヨーク時間だった。

ECB理事会の記者会見でドラギのユーロ高牽制が不十分であったことと、10月の理事会においてテーパリングに踏み切ることが明確になったことで、市場がユーロ買いドル売りに動いたのである。
対ユーロで下落したドルは、対円でも連れて落ちたのだ。

週末の金曜日、ドル円は大きく左に振れ7円32銭(107円32銭)を付け、そして
ユーロドルは右に振れ1.2094まで上った。

来週はドルの戻り売りの週かな。
JMIに決着を優先させたため、ドルを売り増すことができなかったのが悔やまれる。

(つづく)


*at best :プライスを聞かれた銀行が確実にカバーできるレート

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第13回 「窮地」

―――先週、日本海上保険(JMI)が「含み損の出ている過去のディールをキャンセルしてくれ」という理不尽な依頼をしてきた。

それを断ると、JMIは他部署やIBT証券とのビジネスを見合わせると通達してきた。

大口顧客である以上、‘理不尽であっても受け入れるべきだ’という担当常務の嶺に対して‘理不尽な要求は受け入れられない’と命令を突っぱねた。―――

 そのことを多少気にしながら週初(28日)を迎えた。

ドル円は109円台前半での小動きが続く。
今月の上旬からドルの下値を試す展開が続いてきたが、市場はここまで8円台を攻めきれないでいる。

そんななか、山下と相場の話をしていると、部長の田村がデスクに寄ってきた。

「お早う。今日は静かだが、この先はどんな感じだ?」珍しくマーケットについて触れてきた。
もっとも、彼が朝から話かけてきたのは、市場の様子を聞くためではなく、先週の嶺常務との会話の内容を聞くのが目的だ。
日頃の彼の行状を見ていれば、見え見えの行動である。

それでも、一応相場の話で返した。
「そうですね、8円台は実需の買いもそこそこ出てくるし、ショートを振った連中も直ぐに買い戻してくるので、落ちづらいですね。でも、今週はどこかで一旦8円13銭(年初来安値)を試しに来る様な気がします。それでダメなら、ショート・カバーで111円前後まで戻すかもしれませんね」
先週末に立てた大まかな予測をそのまま言った。

「そうか、まあお前が言うんだから、そうかもな」と相槌を打つと、「ところで、先週の嶺さんとの話はどうだった?」と続けてきた。
‘やはりな’

ここからはスクリーンから目を離し、相手の顔を見ながら答えざるを得ない。椅子を回転させて立ちあがった。
身長165センチほどの田村は、178センチの俺を少し見上げざるを得ない。
下から見上げる銀縁眼鏡の奥のキツネ目が異様だ。

「その点はもう、常務からお聞きになっているんじゃないですか?」
田村がしばしば、金曜日に嶺と酒を飲みに行くのは聞いている。
その酒席でその話が出ないハズがない。

「まあ、多少はな。だけど、直属の上司として、お前の言い分も聞いておこうと思ってな。
いずれにしても近々、JMIの件については関係者でミーティングを持たざるを得ないな」
そう言い残すと、自席の方に戻って行った。

‘ミーティングの通達をしに来たのであれば、最初からそう言えばいい。時間の無駄だ’

 
 事件が起きたのは日も替わった火曜日のオセアニア時間だ。
北朝鮮が北海道を跨いで飛翔体を発射したという。
ディーリング・ルームに入ったのは6時45分頃だったが、ざわついた空気が流れている。

「一度8円33銭を付けた後、ドルが8円後半へと戻しました」
山下が言う。

「そうか、ということは33が付いたのは反射的な有事の(ドル売り)円買いか。とすれば、これを切っ掛けにもう一回、ドルを売ってくるな。どう思う?」

「はい、そう思います。問題は8円13ですかね」

「そうだな。ただ、今見ている感じだと、少し下は(ドル)ショートか。一旦、9円辺りまで戻りそうだな」
その後、8円後半で戻り売りと買戻しが交錯した。

 
 ディーリング・ルームの天井には大型テレビが2台吊り下げられ、自分のデスクの横にも中型テレビが一台置かれている。

すべての映像は北朝鮮のミサイル発射関連だ。
したり顔で自説を語る所謂評論家の映像、適切に対応している旨を語った安倍首相や小野寺防衛大臣の早朝の映像である。

事態に進展が見られないまま、ややビッド気配のままドル円は8円後半で推移した。
相場が動き出したのはロンドン市場に厚みが出始めた4時過ぎである。
市場に浸透した「地政学的リスク=円買い」を絵に描いた様に、欧州勢が円買い(ドル売り)に動いてきた。

ロンドン前に96(8円96銭)まで値を戻していたドルだが、70given*、60given、50given、と相場は一挙に左(ドル売り)に振れたが、27(8円27銭)で止まった。

その後ドルの買戻しが出始めると、売りも引いた様で、少しビッド気配だ。
時計を見ると、針は6時を回っている。

そのとき、
「仙崎君」と、田村の声がした。
後ろを振り向くと、部長席まで来いと手招きをしている。

「山下、見ての通りだ。ちょっと、あっちへ行ってくる。悪いけど、50本買っておいてくれるか。10円台のショートの利食いに当てておいてくれ」

「了解しました」

 
 「はい、何でしょうか?」

「例の件で、先方が来週初に会いたいと言ってきた」

「それで、金曜日に内部でミーティングを開くことにした。嶺常務、山岡国際フィアナンス部長、IBT証券の小山内証券担当常務が出席する。うちからは、東城さん、君、それに私ということで良いか?」

「良いも悪いも、決まったことでしょうから」

「ふぅむ。会議は午後3時過ぎに、役員フロアーの第1会議室で行う」

「了解しました」

‘どうでも良い会議だ’

 
 デスクに戻ると、山下が
「部長の話は例のJMIの件ですか?」と聞いてきた。

「ああ、そうだ。でも、お前は気にしなくて良い。ところで、幾らで出来た?」

「あっ、すいません。55でダンです」

「これでポジションはなくなったな。ところで、ロンドンは何て言ってる?」

「ユーロドルは1.20台で一旦売り、ドル円はショート・カバーを見込んで‘上’というのが大勢の見方らしいです」

ユーロ高牽制の真偽はともかく、取り敢えず1.20台は相場が伸び切るところだ。
「ユーロドルが売られるなら、ドル円は右(上)だな。
彼等の見方は多分当りだ。
ロンドンを呼んで、ドル円50本買ってくれ」

「59で30本、61で30本」

「あッ、お前も買ったのか。じゃ、お前の分は59で」

「ありがとうございます。リーブはどうします?」

「8円13 のストップだけ頼む。俺は帰るけど、お前もほどほどにな。それじゃ」

 それ以降、ドル円はショート・カバーを中心に買われ続け、木曜には10円67(110円67銭)を付けた。だが、それ以上の伸びはなかった。

‘チャートポイントの10円95は無理か?? だが、俺のロングのコストは8円半ばだ。もう少し我慢してみるか’

 
 米8月雇用統計の発表を控えた金曜日(9月1日)の東京は110円前後で寄り付いた後、110円前半での様子見となった。
‘統計が発表される夜の9時半まで相場は動かないな’

3時過ぎ、役員フロアーの第一会議室に向かった。
予定されたメンバー全員が集まったところで、田村の音頭取りで会議は始まった。

田村の簡単な経緯と現状説明が終わると、
「仙崎君、君の考えを述べたまえ」と言う。

「はい、事の経緯は部長からご説明のあった通りですが、私は判断を間違えたとは思っておりません。仮に一度そうしたことを受け入れれば、彼等はこの先も同じことを言ってくるに違いありません」

「だが、君。現に彼等はうちとのビジネスを見合わせると言ってるんだぞ」と、IBT証券の小山内常務が気色ばんだ。

「常務、失礼ですが、IBT証券では彼等との株取引でこんなことを飲んでいるわけではありませんよね?」

「無礼な、第一、今はそんな問題を話しているんじゃない」
‘少し声が淀んでいる。怪しい’
こういう時は切り込むチャンスだ。

「分かりました。ところで、仮に私が彼等の言い分を飲んだとしたら、他社への利益提供になりませんか? 当然、それはコンプライアンス上の問題行為であり、事後調で発覚すれば何らかの咎めを受けることになりますが・・・。IBTホールディングズとして、それでも宜しいのですか?」

「し、しかし、巨額の取引を失いかけているんだぞ」

「行政処分を受けても良いと言うことですね」

「おい、仙崎、言葉過ぎるぞ」
慌てて、常務の嶺が口を挟んできた。

「やはり、仙崎の言うことが正しいのではないでしょうか。
取り敢えずここは、正式な先方の申し出を聞いてみてはどうでしょう。
私も本件がJMIの総意だとは思いません」
東城の落ち着いた物言いには説得力があり、皆頷かざるを得なかった。
来週早々に先方に出向くことで会議はお開きである。

 「本部長、ありがとうございます」

ディーリング・ルームに戻りながら東城に礼を言うと、
「いや、あれで良い」と言葉が返ってきた。

「はい」

「しかし、お前の攻めるタイミングはディーリングそのものだな」
東城は笑いながら、茶化す様に部下を労った。

夜の9時半、米雇用統計が発表された。
事前予想より相当に悪い結果である。
市場は取り敢えずドルを売ったが、9円56止まりだ。
元々、年内の再利上げが見送られるとの見方もあったせいか、直ぐにドルは10円42まで値を戻した。

 
 
 統計後の相場が一段落した後、山下とコーポレート・ヘッドの浅沼を誘って、青山の’
Keith‘へと出向いた。

「二人ともご苦労さん。それじゃ、まずは乾杯だ」
それぞれのグラスにカールスバーグを注ぎあった。

例によって、山下の手がサンドイッチに伸びる。
続いて、浅沼の手も伸びた。

「浅沼、例の件は大丈夫だ。もう忘れろ。第一、俺達は何も間違ったことをしていないんだ。なっ、山下」

「はい、そうですね。まあ、飲みましょう。了さん、例のロングどうするつもりですか?」

「一応、先月16日の高値10円95を抜けない様なら、どこかで売るよ。
あそこが抜けないと、まだ8円台への反落もありそうだしな。
逆に抜ければ、テクニカルには11円50とか、12円20辺りまではあるかも知れない。
でも、依然としてドルの下値リスクを脅かす材料が多いし、週末に何があるかも分からない」

「じゃ、分からない相場に皆で乾杯しましょう」
浅沼が元気な声で言う。
‘元気が戻ってきた様で、良かった’

知らぬ間に、Bill Evans の ‘peace peace’ が聞こえてきた。
マスターの配慮である。
だが、中年男三人に聴かせるにはもったいないほど美しいメロディーだ。
ふと、‘岬のことが頭に浮かぶ’

 週末の日曜日の午後、北朝鮮が水爆実験を行ったとのニュースが報じられた。
‘やってられないな’

(つづく)


*given:あるレートで(ここでは)ドルが売りになること

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。