第11回 「脅し」

普段なら翌週の相場展開を概ね練り上げることができる。
だが、先週末はどうも考えがまとまらなかった。
‘8円台・9円台は揉んでも不自然ではない水準’という確信だけはあったが、それ以上のことは思い浮かばなかったのである。

実際に週初(14日)のドル円は、9円半ば(109円半ば)を中心に揉み合う展開となった。
やはり少し(ドル)ショートなのだ。
そして考えがまとまらないまま、結局は先週売っておいた10円75の20本と76(10円76 銭)の30本は、9円55で買い戻すことにした。

翌日(15日火曜日)からドルが上昇し出した。
昨日の海外で米朝のチキンゲームが一時的に緩和したことから、ショーカバーが出だしたのだ。
ディーリング・ルームには ’mine(ドル買い)’ の声が早朝から飛び交い出した。
五井商事や菱田物産もドル買いに動いている。
所謂5・10日*ということもあって、実需筋もドル買いを入れてくる。
コーポレート・デスク(顧客担当デスク)のフローを捌くのでインターバンク・デスクは朝から慌ただしい。
ドル円はショートカットを巻き込みながら、10円45を付けたが、自分ではこの時点でも新しいポジションを持てず仕舞いだった。
忙しかった山下等をサポートしたこともあったが、実際に相場を読み切れなかったせいもある。

仕方なしに、10円80と90で50本ずつのドル売りリーブを置いた。
値頃感からのリーブなので、’If done’ のストップはタイトに11円05銭とした。
11円05は、8月に入りドルが軟調となった後の戻り高値(8月4日)である。
ここがtaken されれば、12円前半まで持って行かれる可能性がある。
値頃感での売買は、所詮はジョビング向きだ。
だから、そんなポジションのストップや手返しは早いに越したことはない。
ジョビングでシコったポジションを引き摺っても時間が無駄になるだけである。
‘今の俺にはそんな時間は残されていない。ともかくリーブが付いてドルが下がってくれれば、それで良い’

その日のニューヨークでドルは10円85まで上昇し、80の50本だけがダンとなった。
その翌日(水曜日)もドルは堅調に推移し、週半ばのニューヨークで10円95を付け、90でも50本を売ることができた。
ニューヨークのその日の午後、高値圏で模様眺めの展開となった。
社宅に帰った後も、ジーッとデスクに置いたモニターを見ていたが数銭しか動かない。
ここは前週のドル高値(10円92)近辺ということもあって、誰も追いかけてドルを買おうとはしない。
’これは良い兆候だ。もしかしたら、あれは良いリーブだったのかもしれない’
少し期待が膨らんだ。

そんなとき、ドル円が左に振れ、ユーロドルが右に振れ出した。
‘a few others suggested that continuing low inflation expectations may have been downward pressure on inflation…’
今し方発表された7月のFOMC議事録の内容に‘インフレの先行き見通しに不透明が増した’との見方を示す文章が散見される。
読めば読むほどFED内部にテーパリングに対する慎重論が少なくないことを示すセンテンスが多い。
‘ラッキーだ’
午後に入ると10円03まで急落した。
そして翌日(木曜日)の東京でも、ドルは売られ、9円台へと下落した。

朝方ディーリング・ルームが少し騒々しい雰囲気に包まれたが、大きな動きはなく、少し余裕を持ちながらモニターを眺めていた。
そんななか、デスクの横に人影を感じた。
部長の田村である。
「ちょっと時間あるか?」と低めの声で聞く。
「良いですよ」と素気無く答えた。
「じゃあ、あっちで話そう」と、インターバンク・デスクから少し離れた処にある窓際のテーブルを指した。簡単な打ち合わせ用のテーブル席だ。
「山下、ドル円、50本の買い、8円85で出しておいてくれるか。 Until further noticeで良い。何だか知らないが、部長がお呼びだ」
10円85と95で作ったショート100本のうち、とりあえず50本で利食うことに決め、残りは放って置くことにした。

 

「相変わらず、調子が良いようだな」と言いながら、田村が愛想笑いを浮かべた。
口角を少しだけ緩めただけの薄気味の悪い笑いだ。
「まあ、何とか。ところで、お話しとは何でしょうか?」
「最近、いやお前が帰国してからというのが正確かな、アカウントのコレクション(訂正)が多い様だが、少し注意が足りないんじゃないか」
確かに多い。
だが、多くなっているのには理由がある。
帰国した頃のインターバンクには、無能だった前任の課長やチーフ・ディーラーの行状の悪さから沈滞ムードが蔓延していた。
市場に向かう姿勢が失われていたのである。
この状況を一新させるためには、部下達に勇気を持って市場に向かわせるしかなかった。
収益が上がってくれば、彼等も自信を取り戻していくハズである。
だから、自分のポジションを彼等の損失を減らすために使った。
それが、アカウント・コレクションの理由だが、それをこいつに言っても理解されない。
‘ここは、素直に聞いておくのが得策だ’

「そうでしたか、それは申し訳けありません。以後、気を付ける様に部下にも伝えておきます」
「やけに素直だな。だがな、圧倒的にお前のアカウント絡みのコレクションが多いのが気に懸る。何か特別な訳があるんじゃないだろうな?」
「いや、そんなことはありません。少し疲れが溜まっているせいかもしれません。何と言っても、為替ディーラーは不眠不休の日が続くことも少なくないので。その辺のことは部長もよくご存じですよね」と、二の句が継げない様に力強く言った。
「・・・。だが、コンプライアンスがうるさい昨今、あまりコレクションが多いと、事後調の指摘対象になる。そうなれば、査問員会騒ぎになるぞ」
「でもそうなれば、部長も監督責任を問われることになりませんか?」
「お前ってやつは、・・・」
言葉を無くした田村は「まあ、9月期を終えたら、覚悟しておくんだな」と捨て台詞を残すと、椅子を蹴るようにして部長席に戻って行った。
‘とうとう圧力をかけてきたか’

デスクに戻ると、
「課長、部長が大分怒っていた様ですが、大丈夫ですか?」と山下が心配そうに聞いてきた。
「ああ、心配するな。ところで、リーブは付きそうにないな。付くのは明日のニューヨークかな。‘果報は寝て待て’か」

週末の金曜日、東城と二人で銀座の寿司処‘下田’に出向いた。
「了、冷酒にするか?」、とりあえずのビールを飲み終えた後、東城が聞く。
「はい、良いですね、冷酒。それにしましょう」
「冷酒ですか。軽く冷やしてお飲みになるのであれば、久保田の萬寿がお薦めですが」と、店主が言う。
「うん、それを貰おう」と店主に告げると、「昨日、あいつがコレクションのことでお前に注意したそうだな。その後、俺のところにも来て、そんな話をしていた。あいつにお前の真意を話しても仕方がないので、俺からも注意しておくとだけ言っておいたよ」
「ありがとうございます」
詰まらない話は早々に切り上げて、それから2時間ほど東城との会話を楽しんだ。
帰り際、
「どうだ、まだドル円は落ちそうか?」と聞いてきた。
「今週は、上で100本売っています。今日のニューヨークでは年初来安値の8円13銭を抜くのは無理でしょうが、来週辺りは危ないですかね。まだコツンと当たった感じがしません。シカゴ筋もまだ円ショートを捌き切っていませんし、抜けたら6円台もある様な気がしますが。それにこのところVIS指数も高水準で推移しているので、為替だけでなく、証券もアンワインディング(巻き戻し)がいつ起きても不思議ではないのかと・・・」
「そうだな。今回のアメリカのバブルは以前にも増してそれらしくないのが特徴だから、気を付けなければならない。既に米株から逃げている米系ファンドもあるとも聞く。それで、お前の今のポジションはどうする?」
「とりあえず、利食いのオーダーを半分入れてあります。後は社宅に帰ってから考えます。なので、夜食に穴子寿司を頼んでも良いですか?」
「まあな。田村の件で嫌な思いをしたことに対する、俺からのせめてもの慰めだ。ただ、あまり無理をするなよ」

東城と別れた後、中央通りに出てタクシーを拾った。
「神楽坂北へお願いします」と告げた。

その日のニューヨークで、ドルは8円台後半へと下落した。
‘残りの半分の処理は来週考えることにするか’
ラフロイグをウィスキー・グラスに三分の一ほど注ぎ、舌で転がしながらゆっくりと喉に流し込んだ。
BGMにかけておいた木住野佳子のCDに挿入されている’Manhattan Daylight ’のメロディーラインが耳に心地良い。

(つづく)


*5.10日(ごとおび):古くからの日本の慣習で、5(五)や10(十)が付く日(5、10、15、20、25、30)を決済日とする企業が相対的に多い。決済通貨としてドルの比率が高いため、当該日に輸入超であればドル買いが、そして輸出超であればドル売りが出やすくなる。公示中値が仕切り値として利用されることが多く、そのため公示時間の午前10時前に売買の動きがある。

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。