月別アーカイブ: 2017年11月

第25回 「勝負のとき」

週初(20日)のオセアニア市場でドル円の下値を試す展開となったが、11円90(111円90銭)までだった。

先週末に予測した通り、テクニカル・ポイントの多い11円台後半は簡単に崩し切れない様だ。

東京では12円台前半で保ち合ったが、その日のニューヨークで12円71まで跳ねた。

9年ぶりの米2年債利回りの上昇が要因である。

だが、翌日(21日)になっても積極的なドル買いは見られない。

相場は12円台後半で膠着した。

木曜日(23日)に日米共に祝日を控えているとは言え、ドル買いに動意が見られない。
‘やはり頭が重い’

14円15でショート50本、13円80でショート50本、それに12円05で暫定の買い50本が現在のドル円のポジションである。

‘買い50本はやはり、上の利食いに当てるのはもったいないな’

客足の途絶えた昼前、
「山下、どう思う?」
と尋ねた。

「ええ、上値が重たそうですね。
下でまだコツンと当たった印象がありませんし、まだ下値を試すと思います」
‘山下が上下の感触を大切にする様になってきたのが嬉しい’

「そうだな、まだ下が正解だな。
俺は100本売る。
50本は下の買いの利食い、残りの50本はショートの積み上げにする」

「勝負に出るつもりですね」

「下にモメンタムが付いている相場で下値が確認できてなければ、売るしかないだろ。

ただこのところ、マイクのファンドと彼の顧客が日本株の為替ヘッジで円売りドル買いに動いていた。

厚みのない市場で、今百数十本売ると、一挙にドルが下がってしまう可能性がある。
義理を欠くと拙いので、先にあいつに連絡を入れておく。

お前は今、売って構わないぞ」

「了解しました。
それじゃ、ここで20本だけ売っておきます」

「そうだな。
それが良い」
と部下を鼓舞する様に言った。

そして直ぐに、マイクが仕事で使っているmobileにメールを入れた。
‘I’m still bearish.
So, I’ll sell 100 bucks just before LDN comes in’

すぐさま、
‘Gotcha!
I’ll go with u.
Thanks’
と返事が返ってきた。

「山下、マイクとスイスのファンドも3時頃から売りに出る」
マイクが運営するファンドにはスイスからの資金も入っている。

「そうですか。
それは心強いですね」

「3時頃に50(12円50)が売りになったところで、東京で50本、ロンドンで50本、売り捌いておいてくれ。

3時から営業部を交えての会議があるから、頼む」
50givenが勝負処である。

「50がgivenしない場合(売りにならない場合)はどうします?」

「given する」
言い切った。

「了解です」

2時間後、会議から戻ると、
「50で50本、49で50本売れました」
と山下が言う。
‘間違いなく、今週中に11円台後半は崩れる’

 
 
 ドル円はその日のニューヨークでは12円17で下げ止まったが、翌日には11円14、そして日米が祝日の23日に11円07まで下落した。

ドル下落の呼び水は22日のイエレンによる「早過ぎる引締めはインフレ率を2%未満に留めかねない」との発言だった。

そしてその後を押したのがニューヨークの朝方に公表された10月分のFOMC議事録である。

議事録で‘中期的に物価の低迷が継続するリスク’を指摘するメンバーが予想外に多かったことが判明したからだ。

ドルの軟調地合いが続くなか、FEDサイドからの二つの大きな発信は格好のドルの下押し材料である。
 
 
 日米の祝日と週末に挟まれた金曜日の東京は、11円前半で模様眺めの展開となった。

そんななか、息抜きに社食にコーヒーを飲みに行くと、バックオフィスを仕切る山根が窓際で休憩をとっていた。

キッチンカウンターからコーヒーを受け取ると、
山根の座るテーブルに近づき、
「ここ、座っても良いですか?」
と声をかけた。

「あら、仙崎君。
良いに決まってるじゃない。
あんたにそう言われて断る女はいないって。
マーケット、暇なの?」
明るい声である。

「あっちもこっちも祝日と週末の狭間で、そんな感じですね。
山根さんは?」

「そうね、暇って言えば暇だけど、やることは山ほどあるわ。
世界から金融市場がなくならない限り、こっちの仕事はエンドレスってとこかしら。
それに仙崎君が戻ってから為替の連中のディール件数が急に増えたのも問題ね」

「済みません」

「ごめん、変な意味はないわ。
どんどん頑張って稼いで。
こっちもボーナス増えるから。

ところで先日、田村から‘仙崎はなかなか結婚しない様だけど、彼女はいなのか?’って聞かれたけど、突然変よね」
山根は田村のことを陰では呼び捨てにするほど嫌っている。

「それで、山根さんは何て答えたんですか?」

「‘あんたと違って、仙崎君はモテて困ってる様だし、心配には及ばない’って言っておいたわ」

「そうですか、何で田村さんがそんなことを山根さんに聞いたのかな?」
と怪訝そうな面持ちで言葉を返したが、少し岬の夫と田村との関係が気になる。
‘だとすれば、東大法学部つながりということか’

時間に追われてるわけではないが、腕時計を見ながら「そろそろ戻らないと、山下に叱れるので」と言って、椅子から立ち上がった。

「オバサンに付き合ってくれてありがとう。
仕事、頑張って!」
笑みを浮かべながら言う。

「はい」と言い残して、その場を後にした。

 
 

 ディーリングルームに戻ると、皇居の森を眺める田村の後ろ姿が目に入った。
身長が低く少し猫背のせいか、少しうらぶれた感じがする。
背筋が通り、凛とした東城の後ろ姿とは比べ物にならない。

「晴れて向こうがスッキリ見えますね」
少し探りを入れるつもりで、田村に声をかけた。

「おう、お前か。
今日みたいな天気だと、ここからの眺めは最高だな。
最近、ディーリングの調子が良い様だが、まだドルは落ちそうか?」

「そうですね。
大分ドルの上を攻めた後ですからね」

「そうか、まぁ、しっかり稼いでくれ」

「はい、そのつもりです。
ところで部長は、大学時代に何かクラブに所属してらしたんですか?」
突拍子もない質問だが、思い切って聞いてみた。

「予算策定研究会っていうところに入っていた。
企業予算や国家予算のあり方を研究するクラブだが、今じゃ何の役にも立ってないな」
少し機嫌の良いせいか、あっさりと言う。

「でも上に行けば、役立ちそうじゃないですか」
もはや彼に上の目はないのは分かっているが、お世辞100%で言った。

「それもそうだな。
じゃ、嶺常務の後でも狙ってみるか」
嬉しそうに言いながら、自席へと踵を返した。

‘東大の研究会つながりかもな’

 
 

 ドル円は海外でも模様眺めの展開に終わり、11円半ばで引けた。
来週は10円割れもありそうな雲行きだが、11円02(111円02銭)次第である。
ここが抜ければ、面白い展開になりそうだ。

ユーロドルは独連立政権樹立に向けての期待の高まりで1.19台まで上昇して引けた。

‘総体的にドルが弱い。弱い通貨には弱気材料が付き、買い材料も無視される’ってとこか。

 
 
土曜の晩、ラフロイグを飲みながら国際金融新聞の木村宛てのメールを書いた。
いつもながらのドル円予測である。

***
木村様

来週のドル円は引き続き下値テストの展開を予測します。

ただ、11円02(107円32銭→114円73銭、50%)が抜けない場合は、一旦プルバックする可能性があります。

予測レンジ:109円80銭~112円80銭

行間の埋め草は適当にお願いします。

IBT国際金融本部外国為替課長:仙崎了

なお、以下のこと、プライベートでお調べ願えますでしょうか。

東大の予算策定研究会に所属していた43歳前後の財務官僚名(法学部出身者のみ)。
***
 
 
直ぐに木村から返信があった。

仙崎様

相場予測、いつもありがとうございます。

プライベートの件、了解しました。

分かり次第ご連絡致します。

国際金融新聞 木村
 
 
この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第24回 「甦った相場感」

週初(13日)の東京、ドル円は3円台(113円台)後半で保ち合った後、海外で3円25まで下落した。

それでも前の週に4円15で作ったショート50本(5000万ドル)を利食わずに、キープしてある。

3円を割り込めば、根っこのポジションになる可能性があるからだ。

翌日(14日)の東京も前日と同じようなレベルで寄り付いた。
予想外に3円近辺が底堅い。

ここを割り込めば、間違いなく面白い相場になるはずだが、そう簡単には行きそうにない。
この日も事務仕事をこなしながら、ときおり山下等のサポートに回った。

4時過ぎ、東城から電話があった。
ドル円が3円60程度で膠着しているのを見計らっての呼び出しである。

 断りを入れから執務室のドアを開けると、皇居の森を眺めている東城の後ろ姿があった。
相変わらず背筋が伸びていて、53歳の年齢を感じさせない。

「まあ、座れ」と言いながら、自身もソファーの方に歩み寄ってきた。

「ドル円の感覚が戻ってきた様だな」

「はい、本部長の先日のアドヴァイスのお蔭で。

もっとも、追加のショートを作れなくて逡巡しています。
どこかで、50本売り増しておきたいのですが・・・。

勝負所ならここで売っても、もう少し上で売っても同じですが、その辺りの決断の鈍さがあります。

まだ本調子でない証拠でしょうか?」

「そうだな。
1.18台からのユーロドルのショートが上手く回転し出したときは流石と思ったが、結局は1.15台止まりだった。

利益は出ているが、まぁ、絶好調ではなさそうだな。
でも、どこかで踏ん切りを付けないと、良い時期を逃すかもな」
‘さり気なく話しているが、アドヴァイスの様だ’

「そうですね。
ちょっと済みません、一分電話をさせて下さい」
と断って、直ぐにスマホで山下を呼び出した。

「山下です。
今、東城さんの部屋ですよね。
何か?」

「場はどうだ?」

「丁度今、75 がtakenされたところで、少しビッド気味です」

「分かった。
80で50本のリーブを頼む。
それと‘俺が動き出したこと’を客に仄めかす様に浅沼に伝えてくれ」

「了解です」

「済みませんでした」
話を遮ったことを東城に詫びた。

「俺の話でスイッチが入ったのか?」
東城が言う。
嬉しそうな顔だ。

「はい、勝負に出ます」

「ところで、さっきMOFの国際金融局長から電話があった。
勉強会の講師依頼を断ったそうだな。

主計からの依頼ごとで、何とかお前に頼めないかとのことだ。
何か断った理由はあるのか?」

「わざわざ竹中さんが本部長に電話をしてきたのですか?
それは参りましたね。
本件の依頼元が岬のご主人らしいので、万が一のことを考えて断りました」

「そうか。
その辺りが絡むとなると、ここで話す様な内容じゃなさそうだな。

たまには、一杯やるか。
そろそろ鍋の季節だな。

新橋の‘末げん’で良いか?」
‘末げん’は三島由紀夫が最後の晩餐をとったことでも知られる鳥料理を中心とした新橋の割烹料理屋で、今でも著名人が通う老舗である。

「‘末げん’の鳥鍋と熱燗の組合せですか、この季節、最高ですね。
今晩でしょうか?」

「いや、今週は木曜日以外は難しい。
それで良いか?」

「はい、大丈夫です」

「お前もあの時以降、苦労が絶えないな」
あの時とは、田村の仕掛けた罠に嵌り、1日で1億以上の損失を出した日のことである。

確かにあのことがなければ、恐らく岬と結婚していたはずだ。
だがそれを悔いても仕方がない。

「ええ、プラザ合意*前夜のレート(240円台)で作ったドルロングを抱えてる様なものですね。

もっとも、プラザ合意当時の僕はまだ洟垂れ小僧で為替の‘か’の字も知りませんでしたが」

「でも、今では世界で屈指の為替ディーラーじゃないか。

今年もインターナショナル・マネー・ウォッチャーズ誌でナンバー2に選ばれてる。
大したもんだ」
部下の成長を素直に喜んでくれているのが嬉しい。

「本部長のお陰です。
それじゃ、木曜の晩、楽しみにしています」
部屋を辞しながら頭を下げると、東城はいつも通り右手を少し挙げて微笑んだ。

 席に戻るなり、
「80、出来てます」
と山下が言う。

「了解。
やはり、4円はもう覗けないか。
今週中に3円割れは間違いないな」

「大分、力が入ってきましたね。
僕も80でショートを振ってみました」
嬉しそうだ。

「ああ、良いポジションになる。
お前も、がつがつ利食わないで少し我慢してキープしておけ」

「がつがつはないでしょう、課長。
利食い千人力ですから、多少手仕舞いが早いだけですよ」
二人の笑声がディーリング・ルームに響き渡った。

 翌日(水曜日)の海外でドル円は113円を割り込み2円前半まで沈んだが、翌日には再び3円台へと反発してきた。

だが、50(3円50)がtaken されなければ、もう一段下がある。
ここは踏ん張りどころだ。
‘我慢しよう’

 木曜の夜、約束の7時前に‘末げん’着いたが、既に東城は部屋で待っていた。

「お疲れ様。
熱燗は注文しておいたが、あとは面倒なのでお任せにした。
場はどうだ?」

「3円前半ですが、昨日の高値3円49を付けなければ、また下がると思います。
念のために、4円があれば電話を貰うことにしてありますが」

「そうか。
どこまで下がると思ってるんだ?」

「目先は1円後半(111円後半)ですが、その先は10円前半もあり得ると考えてます。
でも、2円直前は今日のニューヨークで50本買っておこうと思います。
ショートの利食いに当てるかどうかは、来週の展開を見てからにしますが」

相場の話や世間話をしながら徳利を4本空けたところで、
話はMOFの勉強会の件に移った。

一連の経緯を話し終えると、
「なるほど、お前と岬君の懸念が当ってるかもな。
お前が講師の依頼を断ったのも無理がないってとこか」
と頷きながら東城が言う。

「委員会ならともかく、有志の勉強会の講師役にそこまで固執するのは理解できません。

局長クラスを動かせる人物だとすれば、彼女の夫は相当将来を嘱望されてるってことですかね」

「そうなるかな。

いずれにしても、講師を引き受けたところでお前のプラスになることは一つもない。

気を付けるに越したことはないから、この話、断っておくよ」
東城は平然と言い放った。

だが、国際金融局長からの直々の依頼である。
断れば、銀行のマイナスになりかねないことを東城は承知しているはずだ。

「東城さん、もう少し考えさせて下さい。

国家予算を編成する部署で嘱望されている人物であれば、かなり上の人物ともつながりがあるはずです。

受けて立つしかないのかも知れませんね」

「まあ、あまり無理をするな」
部下を気遣う気持ちが東城の顔に滲む。

それから暫く酒と鳥料理を楽しんだ後、二人は新橋駅前で別れた。

 ドル円は週末のニューヨークで111円94銭まで下落した後、112円15近辺で週を終えた。

 土曜の午後、国際金融新聞の木村にメールを送った。
月曜朝刊の‘今週の為替相場予測’用の原稿である。

「引き続きドルの下値を試す展開を予測する。
テクニカル・ポイントの多い111円台後半を破れば、110円台前半もありえるか。
但し、111円台後半で下げ渋る様であれば、113円台後半までの反発も。
予想レンジは110円~113円80銭」

IBT国際金融本部外国為替課長:仙崎了

行間の埋め草は木村が書く。
それが原稿を引き受けた際の条件である。
時折り意にそぐわない埋め草が書かれていることもあるが、意図が伝われば良い。

(つづく)


*プラザ合意(1985年9月22日):1980年代前半、当時のレーガン米大統領の経済政策が失敗に終わり、米経常収支は史上最悪の赤字を記録した。

これを是正すべく、米政権は日独など対米黒字国の中央銀行総裁・蔵相を呼びつけ、ドル高是正合意を結ばせた。

これがドル円相場の分水嶺となる。
合意名は会議が開かれたセントラルパーク・サウスに位置するプラザホテルの名に因む。

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第23回 「解け出した謎」

岬を松本の市街地でピックアップした後、国道147号経由で碌山美術館に車を向けた。

途中、予想外に車が多いのに気づき、
「連休明け(6日)だと言うのに、観光と分かる車やバスが結構多いな」とひとりごちた。

「そうね、この辺りは有名なわさび田もあるので、仕方ないのかしら。
観光客で潤う人達もいるけれど、シーズン中は渋滞で住民の人達が大変みたい」

「京都や鎌倉ほどではないにしても、そうだろうな」

そんな話をしていると、ナビが左折を促した。
穂高駅前方面への指示である。
美術館は近い。

昔の記憶が甦り、もうナビは要らないほどの距離まで来ている。

穂高駅前の信号待ちで横に座る岬に目をやった。
8年以上も前の真夏、同じ場所で同じ様に岬を見たことが思い出される。

‘あの時、岬はTシャツ姿だった。
そしてその胸の膨らみが眩しかった’

少し自分の顔が緩んだのを見てのことか、岬が言う。
「何、嬉しそうな顔をしてるの?」

「確かあの時もここで岬の横顔を見たことを思い出していた。
そして胸の膨らみにも目が行ったこともね」
’初めて二人が結ばれたあの夏の日が懐かしい’

「了も普通の男だったってことね」
ふふっと笑いながら言う。

そんな他愛のない会話をしているうちに、信号が青に変わり、ステアリングを右に切った。
美術館は数分先のところにある。

 

ざっと100台は駐車可能と思われるパーキング・エリアには、20台ほどの車が停められている。

館内に入り、人影が少ないのを確かめると、
「了、手をつないで良い?」
と聞いてきた。

昔ならそんなことを聞かなかったが、今は自分の置かれた状況をわきまえているのだ。

「ああ、別に構わないけど」
と言うと、微笑んで手を差し伸べてきた。

‘本当に嬉しそうだ。
夏に会った時より、少し元気になった様な気がする’

「ここは本当に落ち着くわ。
でも、了はフライフィッシングやトレッキングのフィールドの方が良いんでしょう?」

「まあ、仕事が仕事だから、自然と向き合ってる方が気分が晴れるのは事実だ。
ところで、調子はどうだ?」

「体調はまずまずね。
でも抱えてるものが重いので、気分がたまに塞ぐわ。
ところで、今日は何処に泊まるの?」

「ブエナビスタだけど。
伯父さんの店からは少し歩くけど、あそこがホテルらしいホテルで気に入っている」

「思い出のホテルね。
なんだか切ないわ」

「早くそっちの件が片付くと良いけどな。
ご主人からは何も?」

「ええ、省内の立場もあるとか言ってる。

人一倍プライドの高い人だから、難しいわね。

でも、もうこれ以上、自分の人生を無駄にしたくないわ。

最近は協議離婚も考えてるの」

「そうか・・・。

官僚の世界では、いまだに離婚が出世とかに関係しているのかもな。

先日話した大学の後輩の話では、霞が関にはまだ何かと古い慣習が残っているらしい。

後輩の話で思い出したけど、岬は俺のことでご主人に何か話したことはないか?」

「あれから考えてみたんだけど、少し思い当たることがあるの。

了は向こうでテレビ局の経済番組に出ていたわよね。

結婚当初、主人がその番組を見ていて
‘凄いな、彼の英語は。
話も理路整然としていて分かりやすい。
IBTニューヨークの為替ディラーの様だが、お前の知り合いか?’って聞かれたことがあるの。

仕事上の関係で多少とだけ答えたわ。
本当は‘私の付き合っていた人’と自慢したかったけど・・・。

その時、少し私の顔が微笑んだのかもしれない。
思い当たるのはそれだけね」

「なるほど。

人間っていうのはちょっとした仕草や言葉に不自然なことを感じるものだ。
もし君のご主人が人一倍そうした感性を持っていれば、その時何かを感じたのかもしれないな」

「確かに神経質で感受性が強い人だと思う」

「そうか、いずれにしても財務省からの講師依頼は断ることにする」
と言って、その話は打ち切りにした。

 

それから岬の手の温もりを感じながら、暫く彫像や壁面の絵画を眺めて歩いた。
まるで昔の二人に戻った様である。

館外に出ると、真紅に色づく紅葉が目に飛び込んできた。

「まあ、綺麗! 凄いわ。
今日はここに連れてきてくれてありがとう」
‘岬の明るい声を聞くのは嬉しい’

 

松本の街に引き返し、中町にある竹風堂で遅い昼食をとった後、岬は母の営むクラフト店に戻り、そして自分はホテルでのチェックインを済ませることにした。

チェックインを済ませ、部屋に入るなり、持参したノートパソコンをWiFiに接続した。

画面で為替の値動きを追いながら銀行に電話を入れると、
山下が出た。
「あっ、課長。
今何処ですか?」

「松本のホテルだが」

「岬さんとご一緒ですか?」

「お前らしい第一声だな。
それなら良いが、そんなハズないだろ」

「それは残念ですね」

「上は73(114円73銭)までか?」

「はい、そうです」

「少しオファーの様だが、上の売り筋は?」

「投機筋は五井商事などの総合商社、
機関投資家は大手生保、
実需は豊中などの自動車といったところでしょうか。

まともな筋は皆、売ってきましたね。

そのお蔭でこっちは高値で買わされてしまい、上手く捌ききれませんでした。

申し訳ありません」

「幾らやられた?」

「片手です」

「少し痛い数字だな。
今いくらだ?」

「15 aroundです」

「100本売ってくれないか」

「アベレージ15で売れました」

「了解。

20本は先週のロングの利食いに当ててくれ。

残りの50本は俺の分、30本はお前の分だ。

お前は75(113円75銭)で一旦、利食いを入れておいた方が良い。

今日のお前はツキがなさそうだけど、75では利食えると思う。

少しはやられの足しにはなるだろう」

「分かりました。
課長の利食いは?」

「ストップだけ50(114円50銭)で入れておいてくれ。

利食いは放って置けば良い。

週後半に必ず落ちる。

次に反発したところが良い売り場になるかもしれない。
俺のストップが付かなければ、そこから落ちる。
お前はそこでショートを持つと良い。

明日は電話をしないから、後は自分で判断しろ。
それじゃ、留守を頼む」

「はい、ダメなときに課長のサポートがあると勇気が湧きますね」

「ニューヨークに行けば、俺はいないんだぞ。
お前が部下の面倒を見ることになる。
頑張れよ!」

 

縣倶楽部へは歩いて向かった。
ホテルからは15分ほどの処にある。

店に着き引き戸を開けると、既に岬がカウンターに腰かけていた。

「いらっしゃい。
お久しぶりです」
店主である岬の伯父が丁寧に挨拶をしてくれた。

「本当にお久しぶりですね。
お元気そうで何よりです」
と返した。

「ご活躍の様子、こいつから聞いています。
なにせ結婚してからも、自分の亭主より仙崎さんのことばかり話してましたから」
姪を茶化す様に言う。

「伯父さん、止してよ。
きまり悪いじゃない。
それより早く美味しい物を沢山作って。
それと信州のお酒もね」
照れを隠す様に、岬は伯父に料理と酒を急かせた。

「昔に戻った様だな。
あの時もこんな雰囲気でしたね」
感じたままを口にした。

そんなやりとりで始まった楽しい宴だったが、時間はあっと言う間に過ぎて行く。
9時近くになると、いつの間にかカウンターも奥の小上がりも客で埋まっていた。

そんな様子を見て、二人は店を出ることにした。

帰り際、
「今日はありがとうございました。
またお待ちしています。

これからも岬の力になってあげて下さい」
と店主が深々と頭を下げる。

それには上手く答え様もなく、
「ご馳走様でした。
料理はどれも皆、美味しかったです。

また寄らせて下さい。
それでは、失礼します」
と言って店を後にした。

 

それから二人は中町の北側を流れる田川沿いを歩くことにした。
田川の上流部は女鳥羽川と呼ばれるが、松本の人には馴染みの深い川である。

縣倶楽部から少し南に下って田川を渡り、そのまま川に沿って西に歩いた。
人気のない夜道のせいもあり、二人は腕を組みながらゆっくりと千歳橋に向かって歩く。
自然と左側に岬がいる。
昔のままの二人である。

千歳橋の向こうに時計博物館が見える。
博物館からは岬の母が営むクラフト店までは程ない距離だ。

千歳橋の少し手前まで来たとき、岬が‘強く抱きしめて’と言った。
夏の城山公園のときと同じである。
左手で体を引き寄せ、強く抱きしめた。

11月の松本は寒い。
そんな寒さも互いの温もりで心地良く感じられる。

暫くして、どちらからともなく放れた。

すると岬が凛とした口調で言った。
「ごめんね、了。
仕事まで迷惑かけてしまったわね。
でも、もう少し強くなって、主人と向き合ってみる。
だから、見守ってて。
今日はありがとう。
楽しかったわ」

時折り振り向きながら、岬は千歳橋の交差点を小走りに渡って行く。
背中がとても小さく見えた。
‘切ないな’

 

ドル円は木曜日に週安値となる3円09(113円09銭)まで沈んだ後、3円50近辺で引けた。

7月の高値114円49銭を抜き、114円73銭を付けたものの、ドルの上値は重たい。
週初の50本ショートはそのままにしてある。

来週3円を割り込む様出れば、面白いポジションになりそうだ。

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第22回 「迷路」

週初(10月30日)の早朝、東城から電話が入った。
相場の話を聞きたいので、場が落ち着いたら部屋に来てくれという。

朝方は仲値が輸入超ということもあって、寄り付き前からドル買いが優勢となり、10時前に13円83(113円83銭)を付けた。

だが、そこからはドルを追いかけて買う気配はない。
‘この分だと、東京は13円台後半で様子見だな’

そう決め込み、東城の執務室に向かった。
ドアをノックすると、
「おう、入れ」という落ち着いた声が聞こえる。

部屋に入ると、東城は執務机ではなく応接用のソファーに腰かけていた。
彼にしては珍しいことである。

「まあ、座れ」の言葉に従い、テーブルを挟んで反対側のソファーに腰を下ろした。

Wall Street Journal がテーブルに広げられている。
並外れた英文の読解力を持つ東城は、新聞だけでなく向こうの雑誌も愛読している。

「何か、面白い記事はありましたか?」

「特にないが、イエレンの次はどうやらパウエルで落ち着きそうだな。
とりあえずはFEDのスタンスに変更はないということか。
ところで、ドル円はどうだ?」

「今週は少し調整が入ると考えていますが、ドルの下値は堅そうですね。

米系ヘッジファンドのCEOを務める友人の話では、同業の多くが保有している日本株の為替ヘッジで円を売っている様です。

それに、本邦の輸入筋が比較的高い水準でドルを買っているのが足下の状況でしょうか。

元々、‘FEDの金融政策の正常化、米金利上昇、日米金利差の拡大’というドル買い円売りの市場のロジックがそうさせているのかも知れません。

とすれば、FF(フェドファンド)レートの中立金利(将来の終着水準)と10年米国債利回りのギャップが問題視され出した場合、ドル円は落ちると思うのですが・・・。

FOMCメンバーが想定しているFF誘導目標の中立金利が2.75%、10年債利回りの節目の2.4%ですから、誘導目標の上げ余地は知れています」

「つまり、超長期の趨勢としてFFレートが10年債利回りを超え続けることはない。

だから、延々とFFレートの誘導目標を引き上げ続けるのには無理があるってことか。

確か9月時点で来年のFFの見通しは2.125%だったな。
それが現実となれば、現状の10年債利回りに近づくことになるか・・・。

賃金が速いピッチで上昇しインフレ圧力が強まれば、中立金利も引き上げられ、
FFの引き上げ幅も広がるが、あまりそれは期待できそうにないな」

「そうですね。
問題は12月のFOMCでドットチャート(政策メンバーによる金利見通し)がどの様になるかでしょうか。

FEDが利上げを再開した15年12月のFFレートの中立金利は3.75%でしたが、それが徐々に切り下がり、直近では2.75%まで低下しています。

この12月のFOMCでさらに下がる様でしたら、市場のドル買いロジックが崩れるかもしれません」

「そうだな。

もっとも、問題は足下の相場でドル円が何処まで上がるかだ。
ロジックが崩れる前にレベルが切り上がる可能性も考えておく必要がある。

最近、お前はユーロドルのショートがメインらしいな」

「はい、今申し上げた様に、市場のドル買い円売りのロジックについて行けないこともあるのですが、14円台にテクニカルポイントが多いのと、実需のドル売りが旺盛な状況を見ていると、ドル買いに食指が出ないと言ったところでしょうか。

中旬に11円65までのディップがったのですが、その局面でドルを拾えなかったのが拙かったと反省しています。

収益面では、幸いにもユーロドルのショートの回転が良いので救われています。

ドル円は今週、調整で少し落ちるはずです。
そこは少し買いでしょうか?」

「そうだな。
収益は別として、ユーロドル・ショートが機能している間に、ドル円の感覚を取り戻した方が良いかもしれないな」

「そうですね。
少しディップを拾っておくことにします」

「時間を取らせて悪かったな。
実は今日の午後に経団連の上の人間と会う予定で、そこで為替の話をしなければならない。

それと山下と沖田の入れ替え人事の件、さっき人事部長から電話が入り、正式に許可が下りるそうだ」

「了解しました。
早速、彼らに伝えておきます。
それと本部長、来週の月曜日と火曜日、休暇を取らせて頂きます」

「岬君のところか?」
微笑みながら言う。

「ええ、まぁ。
でもどうして分かったのですか?」

「顔に書いてあったからな。
会ったら宜しく伝えておいてくれ。

でも人妻だから、何かと気を付けろよ。
何かあっても、この問題だけは俺にはどうしょうもしてあげられないからな。
まあそのうち、二人の話は酒の席で聞くよ」
声を出しながら笑うと、東城は皇居の森を臨む窓の方に歩き出していた。

「それでは失礼します」
と言い残して部屋を後にした。

「どうだ、相場は?」
デスクに戻るなり、山下に聞く。

「動きませんね。

でも、朝方の様子を見ると少し上にロングが残ってる感じがするので
雇用統計前に一旦ポジション調整が入ると思います。

どうします?」

「うーん、そうだな。
少しドル円を買ってみるか。

先週の安値は3円25(113円25銭)だったよな。
25で50本、’until further notice’でリーブを入れて置いてくれないか。

If doneで、4円30で利食いの売り30本、残り20本はそのままキープ。
コールレベル*は12円ハーフで頼む」

「了解です」

「それと、お前の転勤は正式に決まったそうだ。
ビザは沖田と入れ替わりだから間違いなく下りると思うが、その点は人事部から話を聞いておくと良い」

「ありがとうございます。
家内も喜びます」

「まあ、あっちの生活を存分に楽しんでこい。
但し、しっかり稼げよ。
それと、来週の月・火と休むが良いか?」

「問題ありません。
松本ですか?」

「お前も東城さんみたいだな。
想像に任せるよ」
からかわれているのが分かったが、悪い気分がしなかった。

ドル円はその日のニューヨークで13円02まで下落し、25で50本の買いオーダーが付いた。

翌日(火曜日)の東京でドルは反発し、13円後半を付けたが、依然として上値が重たい展開が続いた。

週半ばになると再び14円台を覗き出したが、高値は14円28止まりで、相変わらず5月以降の戻り高値近辺で押し戻されてしまう。

‘やはり、上は重たいのか・・・。
どうもドル円のロングの居心地が悪いな‘

週末の金曜日、米10月雇用統計が発表された。
NFPや平均時給が市場の予想を下回ったため、発表直前の14円台から13円65まで振り落とされた。

だが、直ぐに14円43まで反発した。
10月のISM非製造業景況指数や9月の製造業受注指数が予想を上回る結果となったからだ。

でも、この二つは大して重要な指標じゃない。
ドルが反発した本当の背景は買い遅れ組が上値を追いかけ出していることにある。

いずれにしても、14円30に置いたロング30本の利食いはダンとなった。
残りは20本のロングだ。
‘14円台で利食うこともできるが、来週まで持っていることにしよう’

ドル円は週末のポジション調整で14円割れ寸前まで落ちたが、とりあえず14円台で週末を迎えた。

週末を14円台で迎えるのは3月以来のことである。
‘ドル一段高のサインなのだろうか’

確かに14円台~15円台に複数のテクニカルポイントが存在し、ドルの上値は重たい。
だが、何か起きる様な気もする。
来週はドル上昇の正念場になるかもしれないな。

’上が抜けなければ、大きな反落もありと心得ておけばいい’

祝日の金曜日の夜、岬に電話を入れた。
「来週の月曜日にそっちへ行くけど、何処か行きたいところは?

「秋の碌山美術館に行きたい。
昔、二人で行ったときは夏だったわ。
今はきっと、趣が違って素敵だと思う」

荻原碌山は穂高村が生んだ東洋のロダンとして知られる明治時代の彫刻家であり、美術館には彼の作品が多く展示されている。
建物は安曇野にあり、キリスト教の教会を思わせる素敵な建造物である。

「そうか。

それじゃ、いつものパルコ前のパーキングに着いたら、電話を入れる。
昼前にはそっちに着く様にするよ。

それと夜、‘縣(あがた)倶楽部’で旨い酒を飲みたいけど、月曜はやってるかな?」

縣倶楽部は名前こそ欧風だが、純粋な小料理屋で岬の伯父が営む。
店主の伯父は油絵を描き、店内のBGMにジャズを流している様な人物で、語り口調に好感の持てる人柄である。

「ええ、水曜が定休だから大丈夫。

伯父は了に一度しか会ったことがないのに、いまだにあの好青年はどうしてるって聞くの。

余程、了のことが気に入ったのね。

行ったら、きっと喜ぶわ」

「あの好青年は、もう中年だけどな」
互いの笑い声を聞きながら、二人は電話を切った。

電話を切った後も、岬の笑い声が脳裏に残り続けた。
‘久しぶりに聞く明るい笑い声だったが、無理に抱えている悩みを振り払っていたのかもしれない’

何となくセンチメンタルな気持ちが心に広がった。
そんな気持ちに耐えられず、ラフロイグをショットグラス注ぐと一気に飲み干した。

二杯目を注ぎ終えると、Kieth JarrettのJasmineをBoseの Wave Music Systemに差し込んだ。

‘この先、二人はどうなるのだろう’
そんな気持ちを無視するかの様に、‘’Where can I go without you’が聞こえてきた。

(つづく)


*コール・レベル:電話を必要とする水準。
何かディールをしたいと考えている水準だが、場の状況をとりあえず聞きたい場合に、電話依頼をすることがある。

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。