シーズンⅠ 「NY支店との闘い」」カテゴリーアーカイブ

第二巻 最終回 「ディーラーは死なず」~Bad News & Good News~

仕事始めの4日(金曜日)の4時過ぎ、東城と俺は頭取室に呼ばれた。

昨年12月に行われた懲罰会議や査問委員会に関連して、頭取から二人に何らかの裁定が下されることになっていた。

秘書の案内に従って頭取室に入るなり、
「明けましてあめでとう!」と、中窪が明るい声で二人を迎えた。

二人も、
「明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します」と返した。

「正月早々の昨日、仙崎君は銀行に来ていたそうだが、大変だったな」
ドル円が104円10銭まで急落したため、出勤していた。
そのことを誰かから聞いていた様だ。

「ありがとうございます。

市場部門の人間としては当然のことですから・・・」
有体に礼を言った。

 

挨拶が終わったところで、
「まぁ、腰を下ろしたまえ」と言いながら、中窪自身もソファーに近づいてきた。

三人がソファーに座り終えたところで、中窪が切り出した。
「ところで、今日二人をここに呼んだのは、他でもない君たちの裁定の件だ。

まずは仙崎君についてだが・・・、色々と考えてみた。

君はMOFのヒアリングに絡んで懲罰会議にかけられたが、その事案については何らの責任を問われることはなかった。

しかしながら、横尾君との争いで市場を多少なりとも歪めた事実は曲げられない。

また国際金融本部や当行の将来を見据えて取った捨て身の行動、それには感服するが、まかり間違えば、IBTの内紛などの醜聞として行外に流布する可能性があった。

思慮に欠けた行動と言わざるを得ない。

よって、君の処分だが、半年間20%の減給を課すと同時に、現職を解くことにした。

次のポジションは島人事部長と東城君に委ねる。

何か言い分はあるか?」

「特にございません」

 

‘辞める覚悟で臨んだ行動だ。

この程度の傷は当然だろう’

 

「さて、次に東城君の処分だが・・・、君は懲罰会議と査問委員会の事案のいずれにも、直接は関与していない。

だが、現場の総監督として配慮に欠ける点があったと思う。

その点について、君はどう思っている?」
日頃から東城と懇意にしている割には、厳しい口調で中窪が聞いた。

「はい、頭取の仰る通りかと存じます。

しかしながら、・・・」
珍しく東城が言い淀んだ。

「しかしながら、何だ?」
中窪が続けろと促した。

「恐縮です。それでは、続けさせて頂きます。

近年の超低金利で銀行の収益が急速に衰える中、我が行も御多分に洩れない状況であり、
もはや行内の派閥争いなどに時間を取られている場合ではないと常々感じておりました。

従いまして、私は最も信頼する部下である仙崎の行動を看過し、否むしろその行動を側面から支持して参りました。

それが本部内にある軋轢を取り払う、逸早い方法だと確信したからです。

また、そして我が本部の風通しが良くなれば、やがてそれが行内全体に行き渡る、そう信じてこその決意でもありました。

そうした思いに一点の曇りもなく、取った行動に後悔の念は微塵もございません。

如何なる処分もお受けする所存です」
低音だが、張りのある東城の声が頭取室に凛と響いた。

暫く間を置いてから、中窪が苦笑いを浮かべながら、口を開いた。
「あいわかった。

いつも潔いな、君は・・・。

それでは、君の処分について申し渡す。

実は来期、君を常務取締役に昇進させ、本格的に経営に参加させるつもりだった。

だが、島君の話では、君の現職の後釜が見つからないらしい。

従って、君には常務になってもらうが、現職と兼務という形でだ。

つまり、‘忙しくなる’、それが君への処分だ。

それと仙崎君同様に、半年間20%の減給を課す。

それでいいかな?」

「過分なるご配慮、ありがとうございます」
東城は背筋を曲げずに深々と頭を下げた。

「それじゃ、これでお開きにするか。

おっと、言い忘れ事がある。

俺の裁量で、期末に特別ボーナスを優秀な行員二人に渡すことができる。

それ以上は言えないがな」
笑いながら、窓際へと歩いて行った。

それを見計らい、二人は「それでは失礼致します」と言い残し、部屋を辞そうとした。

するとまた、中窪の声がした。
「そうそう、もう一つ言い忘れていた。

仙崎君、君は大のMLBファンだそうだね。

今度俺にも、MLBのこと教えてくれないか」

「はあ、いつでも」
不可解に思いながらもそう答えて、東城と共に頭取室を後にした。

 

「俺の部屋に寄らないか?」
ディーリング・ルームに戻ったところで、東城に誘われた。

「頭取らしい計らいだな。
行内の体面上では俺達を罰し、締め括りでは帳尻を合わせてくる。

まぁ、ちゃんと見ている人は見ているってことだ。

まだまだ捨てたもんじゃないな、IBTも」
執務室に入るなり、東城が背伸びをしながら言う。

その目線の先には、暮れかかった遠景に薄っすらと浮かぶ皇居の森があった。

「そうですね。

まだまだ大丈夫そうですね」
東城の真似をして、背伸びをしながら言った。

「ところでお前から預かってる辞表、どうする?」

「島さんと本部長の決定次第ですかね」

「そうか、島と話して早急に決めるとするか。

いずれにしても、お前みたいな優秀なディーラーをこのまま死なせるわけにはいかないな。

まぁ、楽しみに待ってろ」

「はい。

それでは、失礼します」
と言い、窓を背にして歩き出した。

ドアに手を掛けたところで、
「了、今晩寿司でもどうだ?」の声がかかった。

右手を後ろ手に挙げて親指を立てて言った。
「待ってました。

一人、余計なのを連れてっても良いですか?」

「Sure, why not?」
暫くぶりに聞く東城の英語だが、良い発音だ。

半開きのドアの外に、二人の大きな笑い声が広がった。

 

‘帝国ホテルの部屋で待ちくたびれているであろう志保のことが気にかかる。

既にご機嫌斜めかも知れないが、旨い寿司を食べに行こうと誘えば、直ぐに機嫌が良くなるはずだ’

 

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5時過ぎに支店を出ると、パーク・アヴェニューの歩道を南に向かって歩き出した。

3月中旬とは言え、夕方のニューヨークは結構寒い。

だが、ニューヨーク支店にトレジャラー(為替・資金部長)兼支店長補佐として戻れたことで心は温かい。

東城の粋な計らいである。

‘今度、MLBについて教えてくれ’と言っていた頭取の気配りもあったに違いないが、敢えてそのことを東城には尋ねなかった。

 

‘やはり、ニューヨークは良いな’

 

そんな思いで歩いていると、宿泊先のウォルドルフ・アストリアが見えてきた。

そのメイン・エントランスの前で志保が手を振っている。

 

‘寒いからロビーで待ってろと言ったのに・・・。

彼女らしい’

 

彼女も俺を見つけたらしく、こっちに向かって走ってくる。

二人の距離が1メートルほどに縮まったところで、志保が抱きついてきた。

いつものことだ。

転勤の決まった1月、親友のマイクが運営するファンドへの移籍を辞退した。
そのことを彼女に伝えた時は酷くがっかりしていた。

だが、今はもうそんな様子は微塵もない。
車を飛ばせば一時間で会える、そんな距離に俺がいることが嬉しいらしい。

そのまま抱き締めていたかったが、ホテルのベルボーイが羨ましそうにこっちを見つめているのが気になり、そっと志保を放した。

予約してあるレストランに向かって歩き出すと、
‘了、もう直ぐあなたの好きなMLBも開幕ね’と言いながら、右手を俺の左手に絡ませてきた。

 

‘たまらなく愛おしい’

 

さっきまで冷たく感じられたパーク・アヴェニューを流れる風が、ふと温かく感じられた。

 

’♪ New York, New York ♪’

嬉しそうに志保が鼻歌を口ずさんでいる。

 

(完)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第19回(最終回前) 「予想外の証人」

クリスマス(火曜日)の朝、東城から電話が入った。

これから大阪に出張するという。

経済フォーラムで「来年の世界経済」をテーマとする講演を依頼されていたそうだ。

いつもなら、かなり前に出張スケジュールを伝えてくる東城だが、この件の連絡はなかった。

「いつお戻りですか?」

「今晩かな」

「そうですか。

お気をつけて」

 

‘何となく不可解だ’

 

ドル円相場はその日の午後、心理的節目の110円丁度を付けたが、そこからは積極的なドル売りもないまま、翌日(水曜日)には110円台後半へと値を戻していた。

査問委員会は3時から開かれることになっている。

「そろそろですね?」
沖田が気遣う様に言う。

「そうだな・・・。

ニューヨークの二人は落とせそうだが、あの二人(田村・嶺)を落とすのは難しそうだな」

「残念ですね」

「ところで、どうだドル円は?」

「短期のオシレーターを見ると、少し売られ過ぎでしょうか?」

「そっか、イギリスはボクシングデイの休日だし、マーケットも薄いから、ポジション調整で111円台半ば位までは戻すかもな。

一応、週末まで25(111円25銭)で100本の売りを出しておいてくれないか」

「了解です」

「それじゃ、上に行ってくる」
そう言い残し、役員用の小会議室へと向かった。

 

会議室は10人用にしては大きめの横長の部屋で、日比谷通りに面し、皇居の森に臨む。

部屋の形状に合う様に、重厚なオーバルテーブルが置かれている。

メジャーバンクの雄であるIBTの本店らしい設えだ。

査問される立場のニューヨークの清水支店長とトレジャラーの横尾は、窓に向かって座ったが、座位では皇居の森を見ることはできない。

査問する立場の島人事部長、松岡コンプライアンス室長、それに管理部門担当の林常務が窓を背にして座った。

オーバルテーブルの南側に嶺常務と田村部長が、そしてその反対の北側に東城本部長と俺が、参考人として座った。

全員揃うと、速やかに島が委員会の口火を切った。
「それでは、これからニューヨークの清水支店長と横尾君が現地雇員にとった行為、並びに横尾君の内部情報漏洩についての査問委員会を開催します。

これに先立って、まずは松岡コンプライアンス室長から調査結果の報告があります。
それでは、松岡室長、宜しくお願い致します」

「この場は行内で生じたコンプライアンスに関わる事案の裁定の場であり、いわゆる裁判ではありません。

従って、判定は白、黒という言葉でお伝え致します」
そう切り出した松岡は、証拠となる文書やDiscを精査した結果、いずれの事案も黒と判断した旨を述べた。

松岡の話を島が受け継いだ。
「裁定は、私、松岡室長、それに林常務の三人が議論に議論を重ねた上で下したものです。

これについて清水支店長、横尾君、何か反論あるいは意見はありますか?

まずは、現地雇員に取った行為についてですが、如何でしょうか?」

清水が挙手をし、意見を述べたいと発した。

「どうぞ」
島が淡々と言う。

「あれは、横尾君が勝手に私の名前を列記し、雇員に宛てた書面であって、私は預かり知らないことだ」
清水がふてぶてしく言い放った。

「えっ、それはないでしょう、支店長。

私はあなたにドラフトを見せ、それで良いと言うので、正式な書面として彼にメールした」
横尾が憤って言う。

「ほう、その証拠は?」
清水が切り返す。

「清水さん、私はあんたが小狡いのをよく知っている。

だから、あんたが見たという確認のサインをドラフトに取り付けた。

それを私は保存してますが?」
横尾はもう支店長ではなく、清水、そしてあんた呼ばわりだ。

「あんな簡単なサイン、お前が真似て書いたんだろう?」
清水は飽くまでも、白を切るつもりだ。

その時、どこからか清水の言葉を叱責する重みのある声が会議室に響き渡った。
「清水君、見苦しいぞ。
いい加減で、その辺にしておいたらどうなんだ」

頭取の中窪の声だった。
いつの間に会議室に入ったのか、ドアの近くに立っていた。

中窪の言葉は止まなかった。
「清水君、何なら筆跡鑑定に書けてもいいんだが、どうなんだ?」

清水は返す言葉を失った様子で、俯いたままだった。

そんな清水を無視し、
「進行を遮って悪かった。
松岡君続けてくれたまえ」
中窪が松岡に促した。

「それでは、横尾君の内部情報の漏洩に関する事案に移らせて頂きます。
横尾君、君は本事案について、事実を認めますか?」
松岡の口調は強い。

「はい、認めます。
申し訳ございませんでした」
中窪が会議室にいるせいか、神妙な面持ちである。

「そうですか。
それでは、二つの事案について、当委員会では最終的に黒判定としますが、島部長、林常務、宜しいでしょうか?」

「異議なし」
島・林は同時に声を発した。

それを受けて、松岡が続けた。
「処分については、当委員会並びに然るべき役員の方々に諮った上で、両名にお伝えすることとします。

ところで、本会議には参考人として嶺常務をはじめ、四人の方々にご出席願っています。

四人の方々には議事進行中の発言権はありませんが、既に最終判定が出ましたので、最後にご意見があれば、どうぞ」

 

‘この一言を待っていた。
一か八かだ’

 

「松岡室長。

本件と同時に調査をお願いしました、私に対するハラスメントについて、進捗状況なり、ご意見を賜れればと存じますが?」

「仙崎君、過日も述べた通り、何分にも古い話です。
私から意見を述べるのは難しい。

証人でもいれば別ですが・・・。

でも、折角ですから、君がハラスメントを加えたとする人物、つまり田村部長の意見を聞いてみますか。

田村部長、よろしいでしょうか?」

「はっ、何のことか分かりませんが、私にやましいところはありませんので、どうぞ」
語尾が少し震え、多少狼狽えている様子が窺える。

「そうですか、それではお聞きします。
田村部長、あなたは9年前、仙崎君に対して罠を仕掛ける様なハラスメントを行ったことはありますか?」
松岡の声に緩みはなかった。

「いえ、全く記憶にありあませんが・・・」
言葉が続かない。

「あなたが外国為替課長だった頃、あなたの心無い罠に嵌り、仙崎君がディーリングで億を超える損失を出した件と言えば、何か思い当たりますか?」
松岡が厳しく追及した。

「ああ、例の件ですか。
あれは彼が不用意にもサイド(売りと買い)を間違えた結果の大ロスですよ。

あの時、私が会議で離席する際に‘ある生保がドルを買ってくるかも知れないから気を付けろ’と言い残しただけですが、それが罠だと言うんですか?」
田村は飽くまでもふてぶてしい。

「そうですか・・・。
ただ、仙崎君は、あなたがはっきりと‘生保が数百本ドルを買う’と言っていたと話していますが、それをあなたは否定するのですね。

仙崎君はあなたの言葉を信じて事前の対応をしたが、生保の取った行動は全く逆のドル売りだった。

いくら仙崎君の様な優秀なディーラーでも、それでは対応仕切れませんよね。

あなたは巧妙に策を練ったのではありませんか?」

「松岡さん、既にあんたは私を罪人呼ばわりしてるが、何か根拠でもあるのか、えっ?」
口ぶりは一流銀行の部長のそれではなかった。

「そうですね。
根拠というか、証人ならいますが。

時間の無駄ですから、ここに呼びましょうか。

島部長、彼を部屋に連れてきてください」
誰かが会議室の外にいる様な口ぶりだ。

数分後に会議室に現れたのは大阪支店の木戸だった。

今は大阪支店の融資第一部の次長を務める木戸は、9年前に外国為替課長だった田村の一番の部下だった。

慌てたのは田村だけではなく、それまで話のやりとりを素知らぬ顔で聞いていた嶺常務も狼狽し出している。

部屋に少し異様な空気が漂い出したのを感じた松岡は、
「少し休憩しますか?」と提案したが、
頭取の中窪がそれを制して「続けてくれ」と言った。

 

「それでは、続けさせて頂きます。

木戸さん、時間がかかっても構いませんので、9年前のことを少し詳しくお話し願えませんか?」
松岡の口調は丁寧だ。

かつての上司の目の前で、その悪事を暴く以上、それなりの覚悟が必要だ。
そんな木戸の心情を気遣ってのことである。

木戸は一時間ほど、とつとつと語った。

罠を仕組んだのは田村であり、それに加担したのは自身と同僚の大竹だったという。

大竹も木戸自身も‘手を貸さないのなら、お前等は国際畑に居られなくなる’と脅されたそうである。

さらには、田村をそう仕向けたのは、当時はまだ本部長だった嶺常務だったことも話してくれた。

当時の国際金融本部は住井銀行出身の常務が頂点に立ち、その片腕が実力では抜きんでていた東城部長だった。

そして二人の間に挟まれ、地団太を踏んでいたのが日和出身の嶺本部長だった。

 

「そうですか。
木戸さん、よく思い切って話してくれました。

もうお引き取り頂いて結構です」
松岡が労う様に言った。

ドアに向かい歩き出した木戸に、
田村が「貴様、俺を裏切りやがって」と罵声を浴びせた。

木戸はそれを無視した。
そして静かにドアに手をかけながら、一瞬俺の方を見て、僅かに微笑んだ。

俺は右手の親指を少し立て、笑みを返した。

 

‘あの笑みは、借りは返したという意味か。

ありがとう、木戸さん’

 

「さあ、もうこれで十分だろう。
こんなことばかりに気を使ったり、時間を費やしていては、うちの将来が危ない。

嶺君、清水君の処分は役員会議で決める。
田村君、横尾君の処分は島君に任せる。

ちなみに本件では、東城君や仙崎君にも何等かの減点を付けざるを得ないな。
それは私が決めるが、それで良いかな」
委員会は、中窪頭取の有無を言わせぬ言葉で終わった。

一同は起立し、会議室を出て行く中窪に深々と頭を下げた。

 

散会後、松岡の部屋に向かった。

「ハラスメントの件、木戸さんを証人として連れてきて頂き、ありがとうございました。

それにしても、いつの間に木戸さんとコンタクトを取っていたんですか?」

「私じゃありません。

君のことを常に考えている、そして君を一番信頼している、あの人が木戸君に頭を下げて連れてきたんですよ」

「えっ、東城さんですか」

 

‘そう言えば昨日、大阪に出張に行ってたな。

そういうことか’

 

「あの人は、本当に君のことを思ってくれてるな。

羨ましいよ、あんな上司に恵まれた君が」

「本当ですね。

いずれにしても、一連の件、ありがとうございました」
礼を言って、その場を辞した。

 

「本部長、仙崎です」
執務室のドアをノックしながら言う。

「おう、入れ」
いつもながらの低い落ち着いた声が返ってきた。

夕闇でかすかに輪郭だけを残す皇居の森を眺める東城の姿が窓際にあった。

「本部長、大阪出張の目的、講演じゃなかったんですね?」

「どうした?

入ってくるなり、そんな質問をして。

いや、講演が目的だったが。

まあ、支店にもちょっと寄ったけどな」
背中を向けている東城の表情は窺えないが、窓に反射して見える顔は少し笑っている様だった。

 

‘あいかわらずだな’

 

「本部長、そっちへ行っても良いですか?」

「もちろんだ。

下を見ろ、綺麗だぞ」
日比谷通りを幾筋もの車のヘッドライトが南北に行き交っている。

「ほんとに綺麗ですね」

「正月はどうするんだ?

よかったら、うちに遊びにこないか?」

「ありがとうございます。

ただ、母に帰ると言ってしまったので・・・。

それとまだ、彼女がこっちにいるので、そのケアも」

「へぇー、そりゃ、うちに来るより彼女といた方が良いよな。

のろけやがって」と言いながら、
軽く握った拳を頭の上に落としてきた。

部屋に二人の大きな笑い声が広がった。

二人共、頭取の裁定を待つ身となったが、‘気分は爽快’だった。

 

ドル円相場は、クリスマスの火曜日に110円丁度を付けた後、111円台前半まで反発したが、週末には再び110円台前半へと押し戻された。

国際金融新聞の木村に頼まれている相場予測もテレビ番組の出演も、もう完全に沖田の仕事に振り替わっている。

沖田の来年の予測によれば、「ドル円、100円割れもあるか」だった。

 

‘そうかもな’

 

志保は昨日(金曜日)から帝国ホテルを引き払い、四ツ谷にある実家に戻っている。
年明けの三日にはまたホテルに戻るというが、それまでは一人だ。

 

‘社宅で迎える一人の週末はやはり侘しいな’

 

デスクの上に置きっぱなしだったラフロイグのボトルを手に取り、琥珀色の液体をグラスに注ぐと、ベッドへと向かった。

ベッドのヘッドレストに頭を凭れて、目を瞑った。

BGMに流しておいたコルトレーンのアルバム’Ballads’が心に沁みる。

既にトラックは4曲目の‘’All or Nothing at All‘’に差し掛かっていた。

 

‘中途半端はだめってことか。

志保との関係もこのままじゃ拙い。

来年には右か左か、決める必要がありそうだな’

 

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第18回 「調査結果」

前週に開かれた懲罰会議を切っ掛けに、本部内にある軋轢の除去や不逞の輩を排斥する行動に出た。

ニューヨーク支店長の清水と横尾が連名でジム宛てに送信した添付ファイル、そして横尾と外部との会話が録音されたDiscなどをコンプライアンス室長の松岡に手渡し、調査を申し出たのである

松岡は今週中(17日の週)に調査結果を出すと言っていた。

組織とは不思議なもので、秘密裡に行われたはずの会議の内容、さらには俺の申し出がいつの間にか内外の支店にまで流布していた。

沖田の話では、’仙崎も馬鹿な行動に出たな’などと囁かれてるらしい。

 

‘こっちは、辞める覚悟だ。
勝手な風評などどうでもいい’

 

月曜(17日)の朝、松岡から電話が入った。

10時過ぎに部屋に来てくれという。

113円半ばで寄り付いたドル円は小幅な値動きが続いている。

「沖田、やはり上値が重たいな。
売っておくか?」

「そうですね」

「俺は松岡さんに呼ばれてるので、これから彼の部屋に行ってくる。
100本売っておいてくれ」

「了解です」

 

「本件では、結構思い切った決断をされましたね。

ここまでしなくても解決策はいくらでもあったと思うのですが、私や人事部長が関わったとなると、ちょっと事が大きくなるかもしれません。

日和派でも、住井派でもない君がここまでの決断をするのには、何か特別な思いがあるんでしょうね?」
松岡が切り出してきた。

「ええ、まぁ・・・。

日和と住井が合併してから、15年の時が流れました。

この間、国際金融本部関連では、住井出身の担当常務や副頭取が逝き、それ以降、日和出身の嶺常務が後を受け継いだ格好となっています。

嶺さんが公平な方であれば問題はないのですが、どう見ても差配が日和寄りに傾いている、少なくても私にはそう見えます。

そろそろIBTも、風通しの良い、働きやすい職場にしないと拙いんじゃないでしょうか?」

「そうですか・・・。

私は君の本部の人間ではないので、詳しい内情までは分からないが、先週の懲罰会議の件にしても、君が東城さん寄りの人間であるがために開催されたのは明らかな様ですね。

君を守るべき立場にあるはずの田村君が、敢えて君を懲罰会議にかけた。

私も嶺常務から会議の開催を促されたし、君の言っていることが正しいと考えています。

ところで君のくれた資料やDiscについてだが、実は既に調べさせてもらいました。

清水さんや横尾君が現地雇員に宛てた解雇通知の内容は酷いものだ。

彼の死は自殺と判断された様だが、私でもあんなものを上司から突き付けられたら、自殺は兎も角としても、鬱病になっていると思う。

この件では、どう足掻いても、あの二人は処分対象だ。

横尾君が外部のファンドに君のディール内容を漏らしていたことも、Discの録音から明らかになった。

外部への情報漏洩で、内規違反だ。

それと横尾君と田村君の会話には君を追い落とそうとする意図が含まれていたのも確認した。

だが、田村君は狡猾だな。

‘うん’とか、‘そうだな’とか、確かに横尾君の策略に相槌を打ってはいるが、共謀的な発言は控えている。

従って、田村君をこの件で査問委員会に呼ぶとしても、精々、参考人程度ということになる。

その程度だと、田村君・嶺常務路線を崩すことはできない。

また仮に田村君に何等かの処分が下ることになれば、東城本部長にも影響が出る。

もっとも、彼はそのことを承知の上で、今回の件を君に委ねた。

実に度胸が据わってるな、東城さんって人は。

多くの人に信望されているのも当然だな。

いずれにしても、来週中に査問委員会を開催しようと思う。

これから、本件について中窪頭取に報告してくる。

コンプライアンス室長は頭取に直結する部署だからな」

「そうですか、何かとありがとうございます。

ところで、田村さんの私に対するハラスメントですが、あれはもう問うことはできませんか?」

「大分古い話だし、ちょっと難しいな。

ただ、当時の証人でもいれば、別だけど・・・」

「証人ですか・・・、分かりました。

もし証人がいれば、取り合って頂けるということで宜しいでしょうか?」

「ああ、そうだな」
気のない返事だが、一応コンプライアンス室長の言質をとった格好だ。

 

‘いずれにしても、査問委員会でジムの仇だけは取れそうだ。

ただ、田村・嶺路線崩しが難しそうだな’

 

ドル円は20日の東京市場で、それ以前のサポート水準だった112円台前半を突き破り、その日のニューヨーク市場で一挙に110円台後半へと急落した。

FRBの利上げのペースダウン、NYダウの大幅下落、それに予算不成立を巡っての政府機関の閉鎖、これだけドルの悪材料が出れば、当然のことだった。

 

金曜日(21日)の午後、松岡から電話があった。

‘来週の水曜日に、清水ニューヨーク支店長、横尾トレジャラーの査問委員会を開催する’という連絡だ。

処分対象者としてニューヨークから清水・横尾の二名、裁定者としては松岡本人の他に島人事部長と管理部門担当の林常務が出席する。

また参考人として、俺の他に、嶺常務・田村部長・東城本部長が呼ばれている。

 

‘罰の度合いを決めるだけの査問委員会はどうでもいい。

問題は、委員会で田村・嶺を崩せる策があるかだ’

 

「課長、ここからどうしますかね?」
111円台でもたついているドル円の動きを見て、沖田が聞いてきた。

「今年の値動きを振り返ると、111円台で結構揉んでいる。

だから、今日の海外でもあまりちない気がする。

ここは少し様子を見ても良いと思うが・・・」

「そうしますか。

ところで例の件ですが、結構あちこちに広まってますね」

「そうだろうな。

自分は無実だと言わんばかりに、馬鹿部長が一生懸命に内外の支店に電話しまくってる様だし。

まるで他人事だな」

「呆れてものも言えませんね。

ところで、木村さんへの来週の相場予測はどうしますか?」

「わざわざ聞いてくれたってことはお前に頼んで良いってことか?」

「まあ、Keithのサンドイッチとスコッチ3杯ほどで」

「調子づくなよ。
今晩は拙いが、近いうちにな」
笑って言う。

「今晩は彼女ですか?」

「まあな」
図星だ。

「それじゃ、早くお帰りください。

来週の予想レンジは109円50銭~112円50銭。

‘揉み合い後に、ドルの下値を試す展開’的な感じで宜しいでしょうか」

「そうしてくれ」
と言い残すと、ディーリング・ルームを後にした。

 

志保が宿泊している帝国ホテルへは歩いて向かったが、10分とかからなかった。

ホテルの下に着いたところで、‘もう直ぐ部屋に着く’とメールを入れた。

ほどなく‘ドアを開けておくわ’というリターンがあった。

東側の出入り口からホテルに入ると、エレベーターに乗り、31階のボタンに触れた。

最上級の部屋があるフロアーだ。

エレベーター・ホールのルーム案内に従って、31XXの部屋へと向かった。

部屋に着きドアを押し開くと、バスローブ姿の志保がいつもの調子で抱きついてきた。

こういうときの志保はもう止まらない。

 

‘流れに任せるしかないな’

 

抱き合った後、志保の額に軽く唇をあて、ベッドから飛び出た。

窓に向かい日比谷通りを見下ろすと、行き交う無数の車のヘッドライトが目に入った。

 

‘パーク・アヴェニューの夜景が懐かしい。
やはりニューヨークが良いな’

 

そんな想いに耽っていると、後ろで‘シュパッ’という大きな音がした。

志保がシャンパン・ボトルを少し上にかざしながら、嬉しそうに笑みを浮かべている。

 

‘相変わらず、無邪気だな’

 

いつの間にか、‘The First Noel’が流れ出した。

 

‘俺がこのシーズンに好んで聴く曲を覚えてたのか。

案外気が利くな’

 

ふと、彼女が愛おしく思えた。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第17回 「逆転」

週初月曜(10日)の早朝、東城の執務室に出向いた。

先週のうちにメールでニューヨークでの調査結果は報告済みだったが、改めて口頭で説明するためである。

「出張、ご苦労だったな。
先週のメールで、横尾君の行為に悪意があったことは承知した。

ただ、お前のディールがいたずらに市場を混乱させたことで、MOF(財務省)から注意・勧告を受けたことが、懲罰に値するかどうかが今回の会議の目的だ。

確かにその切っ掛けを作ったのは横尾君だが、それで多少、場が荒れたのも事実だ」

「仰る通りです。
従って、会議では受け入れるべきところは受け入れるつもりです。

しかしながら、これを機会により深いところに切り込んでいけたらとも考えています。

つまり、この会議を本部内にある軋轢の除去や不逞の輩を排斥する切っ掛けにしいたい、そう考えているのですが、如何でしょうか?」

東城はソファーから立ち上がり、日比谷通りに面した窓際に歩き出した。
皇居の森を眺めるためだ。
深く物事を考えるときの彼の習慣である。

暫くすると、振り返り、落ち着いた低い声で語り始めた。
「曇天の下の皇居の森はどこか師走を感じさせるな。
平成最後の年の瀬か・・・。

そこに何の意味もないが、これを機に本部内も整理を付けるときが来たってことか。
お前がやりたい様にやれば良い。

ただ、お前には国際金融本部に残ってほしいと思っている。
お前が辞めるのは、本部だけでなく、我が行の将来にとってマイナスだ。

将来はお前が本部の核となり、そして銀行を担って行ってほしい。
そう思ってるのは俺だけじゃない」

既に俺が辞める決意を固めているのを知っていての東城の言葉だ。
「本部長、身に余るお言葉、ありがたく存じます。
私の進退については、考えさせていただきます」
この場では、そう応える以外になかった。

 

‘辞める辞めないは兎も角、眼前に懲罰会議が控えている。
戦うしかないな‘

 

懲罰会議は木曜の午後3時に始まった。
出席者は嶺常務、島人事部長(人事担当役員)、松岡コンプライアンス室長、田村部長、東城本部長、そして俺である。

会議は島人事部長によって仕切られた。

「本件の対象者は仙崎君、それに監督責任の観点から東城本部長です。

本会議は‘仙崎君のディーリングに問題があり、その件でMOFから注意を受けた’点について、その事実関係の確認とそれが処分対象になるかどうかを議論することを目的としています。

まず、田村部長にお伺いします。
田村部長、あなたは本件をMOFからの聴取で確認したとのことですが、それに相違ないですか?」

「相違ありません」
毅然として田村が答える。

「では、MOFのどなたにそれを確認したのですか?」

「守秘義務があるため、お答えできません」
少し田村の目線が島から外れた様に見えた。

「そうですか、それではMOFの外国為替市場課内の誰かですか?」
島の追求は結構厳しい。

「そう受け止めて頂いて結構です」

「相違ないですか?」

「はい」

「そうですか、そうなるとコンプライアンス室長の松岡さんに調べて頂いたこととは少し話が違うのですが・・・。
田村部長、相違ないということで宜しいですね?」
念を押す様に島が言った。

「まさか彼が嘘を言うとは思いませんので・・・」

「実はですね、田村さん。

松岡さんがMOFの外国為替市場課長の山上さんに話を聞いたところ、仙崎君と会ったことは課内の誰にも話していないそうです。

そして、山上さんが仙崎君と会った理由は単に‘市場動向を聞くため’だったということです。

これについてのご意見は?」
鋭く、島が迫った。

 

‘俺が窮地に立てされていることを知った山上の計らいだ’

 

「仮にそうだったとしても、仙崎のディーリングの痕跡と市場の値動きを見れば、場を荒らしたことは歴然としています。

IBTの外国為替課長の立場である人間がとるべき行動ではないと思えますが」
田村が辛うじて応えた。

旗色の悪くなった田村の姿を見ても、嶺は素知らぬ顔で窓の外を眺めているだけだった。

「そうですね、確かに市場を混乱させる様な行動は慎むべきことかも知れません。

ただ、田村さん、あなたの本件の訴えは、仙崎君のディーリングに問題があり、それでMOFから注意・勧告を受けた、そのことに対する問題意識からですよね。

つまり、一つ間違えば、行政処分にもなりかねない仙崎君の行為、これを罰しろというものじゃなかったんですか?」

田村は「はあ」とだけ発するのがやっとだった。

そんな情けない田村の姿を見た島は、彼に助け船を出した。
「仙崎君、君がMOFから注意・勧告を受けた事実はないことが明白になりました。

ただ、田村部長の言う様に、市場を混乱させる様な行動は慎むべきかもしれませんね。

もっとも、君には大きなバジェットが課せられている。
外野席からは分からない事情もあるのでしょう。
その点は十分に理解しています。

ということで、田村部長、あなたが発議した議案について、‘不問にする’という結論で宜しいでしょうか?」

田村は暫く考え込んでいたが、
やがて「はい、結構です」と力のない声で言った。

「それでは、本日の懲罰会議はお開きに致しますが、他に何かご意見は?」

ここぞとばかり、俺は言葉を発した。
「島部長、私の方からハラスメント行為並びに情報の社外漏洩に関する疑いで、行内の然るべき会議に諮って頂きたい件があります。

本日の議案と関係することでもあり、コンプライアンス室長を中心にご検討頂ければと存じます」

「ほう、例えばどんなことですか?」

「ニューヨーク支店の現地行員の自殺に関する件、私のディールが外に漏れていた件などです。

それと思しき事柄を一覧にしておきました。

ちなみに、関連の書類並びにDiscをここに用意してあります。

調査、お願いできますでしょうか?」

「松岡部長、如何でしょう?」
突然の依頼に、戸惑いを覚えた島が松岡に尋ねた。

「仙崎君ほどの人物からの依頼とあっては、調べない訳にはいかないでしょう。
一式、こっちで預からせてもらいしょうか。

内容の真偽に当たりを付けて、必要とあれば、それなりに対処させて頂きます。

島部長、ということで、本日はそろそろ」

「それでは、本日の懲罰会議は終了と致します」

 

会議が終わると、真っ先にMOFの山上に電話を入れた。

「山上さん、うちのコンプライアンス部長からの調査に対して柔軟なご回答を頂き、ありがとうございました」

「ああ、例の件ですか。

先日、東城さんがうちを訪ねて来ましてね。
‘仙崎を救いたい’と頭を下げられました。

私は東城さんから為替市場のことをすべて教わった様なもので、今こうして私があるのもあの人のお陰です。

元々電話で済む話だったにも関わらず、仙崎さんをここにお呼び立てしたことが切っ掛けで、ご迷惑をお掛けしてしまいました。

申し訳ございません。

いずれにしても、礼を言うなら、私より東城さんに言った方が良い」

「そうでしたか。

それじゃ、これから東城の部屋に行ってきます。

ありがとうございました」

 

「仙崎です。
入っても宜しいでしょうか?」

「おう、入れ」
落ち着いた低い声がドア越しに届いた。

ドアを開けるなり、
「ありがとうございました」と、深々と頭を下げながら言った。

「何の件だ?」

「MOFの山上さんからお聞きしました。

本部長が山上さんをお訪ねになったことを」

「おしゃべりめが」
苦笑いを浮かべて言いながら、「明日の晩、寿司でも食いに行くか?」と続けた。

「良いアイディアですね、喜んで。
それでは、失礼致します」と言うが早いか、ドアに向かって踵を返した。

「なんだ、もう帰るのか?」
残念そうな声を背中で聞いた。

「ええ、少しは仕事をしないと拙いですから」
振り向かずにそう応えた。

 

週初に112円25銭まで下落したドル円はこの日(木曜)の海外で113円71銭まで跳ねた。

イタリア予算案の不透明感や独仏の政局混迷が燻る中、ECBが2019年のインフレ見通しを下方修正したことを受けて、ユーロが売られ、ドルが買われた。

ドル円相場もその反動でややドル高に振れたのだ。

ただ、113円台後半ではドルの上値が重たく、週末には113円21銭まで下落した。

国際金融新聞の木村へのドル円相場予測は最近、沖田に任せ放しだ。

****************************************

・114円台でのドルの上値は重たい。
・揉み合いが続くが、依然としてドルの下方リスクが高い。

来週の予測レンジ:111円80銭~114円20銭

****************************************

こんな相場観と適当なコメントを付けて、メールを送ったという。

 

土曜日の晩、BGMにBill Evansの名盤 ‘You Must Believe in Spring’をBoseのミュージック・システムに滑り込ませた。

 

‘俺にもまた春は来るのかな’

 

ラフロイグを注いだグラスを片手に、過ぎゆく時を感じながら、ニューヨークを想った。

少し心がセンチメンタルになりかけたころ、スマホが鳴った。

志保からだった。

「来週、そっちに行くわ。
待ってて!」

 

‘そう言えば、マイクが20日頃にプレゼントを届けるって言ってたな’

 

「ああ、楽しみにしてるよ。

気を付けてな!」

トラックは‘We will meet again’に移っていた。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第16回 「崩れた証拠隠滅」

月曜(3日)の8時半に、支店を訪れた。

顔馴染みの受付嬢に通り一遍の挨拶をすると、まっしぐらにディーリング・ルームへと向かった。

部屋に入ると、目敏く俺を見つけた横尾が歩み寄り、前に立ちはだかった。
これ以上一歩も前に進ませまいとする気持ちが伝わてくる。

そんな横尾の顔を平然と見つめ、
「お早うございます。その節は、楽しませて頂きありがとうございました」と淡々と言った。

俺を潰そうと思って仕掛けたつもりのディールが上手く行かず、返り討ちにあったのだから、気分の良いはずがない。

苦虫を噛みつぶした様な顔で、「今日は一体、何の用だ?」と憮然と聞いてきた。

「それを今更、横尾さんが私に尋ねるんですか?
私の懲罰会議で身の潔白を晴らすための証拠収集に決まってるじゃないですか」

「なんでそんなモノがこっちにあるんだ?」

「あるかどうかは、これから調べなければ分かりません。
一応、これがありますので、ご確認下さい」
東城からの調査許可書である。

本部長の署名入りの調査許可書を見せられては、横尾もぐうの音もでない。
「勝手にしろ」と言い残すと、自席へと踵を返していった。

 

鍔迫り合いが終わった頃合いを見て、山下が傍に寄ってきた。
「お疲れ様です。これ、準備しておきました」と言う。

11月中のディーリング・レコード(一覧表)である。

レコードには横尾と戦った際のディールにマーカーで線が引かれ、その時の日時が一目で分かる様になっていた。
山下の気配りである。
今回の調査ではその日時、それも分単位の時刻が重要なのだ。

顧客とのディーリングは電話で行うことが多い。
ディーリングには言い間違い、聞き間違いが付き物だ。
事後チェックのため、銀行はすべてのディールを録音している。
当然、ディール以外の会話も録音される。

そこに出張の狙い目があった。
山下から受け取ったレコードを持って、バック・オフィスへと向かった。

 

バックオフィスのヘッドを務めるルイスに録音調査の申し入れをすると、快く受け入れてくれた。

本部長のサインを付した許可書が物を言った様だ。

昔から彼と仲が良かったことも幸いした。

 

ただ、その前にトレジャラーである横尾に承諾のサインを取り付けてくれと言う。

「分かった。
ところでルイス、このチェックには相当時間がかかるが、誰がケアしてくれるんだ?」

「Won’t you let me help with that?

了、君はこっちにいるとき、僕や部下によくしてくれた。
是非、君の役に立ちたいんだ。

 

‘何かを感じ取っているのかも知れないな’

 

「ありがとう。助かるよ。

それじゃ、昼過ぎから始めるけど、頼むよ」

「OK、了。
とりあえず、1時にナンバー3のミーティング・ルームに来てくれ」

「See you then」

 

ルイスから渡された承諾書を持って、横尾のデスクに向かった。

横尾のデスクにそれを置き、サインを求めると、何食わぬ顔で応じた。
そればかりか、不敵な笑みを浮かべている。

 

‘あの平然とした態度は何なんだ。
俺がアイツのことを調べに来たことは分かっているのに’

 

不可解に思いながらも、山下を誘い、空いているミーティング・ルームへと向かった。

「山下、何かとご苦労だったな。
あいつに文句を言わせない様に、お前には通常業務が終わった後、手伝って貰う」

「了解です。それより、課長の調べたいこととは何なんですか?」

「横尾の内規違反、つまり、コンプライアンス違反だ。

彼が俺のポジションを潰しにかかったことは、ディーリング・レコードで明白だが、彼のことだ、通常業務だと白を切るに決まっている。

俺の知りたいのは、外部との会話の内容だ。
そこに内部情報の漏洩に関することがあれば、貴重な証拠になる。

さっき横尾のデスクを見たが、電話はディーリング・ボードに直結したものだけだった。

彼がスイス系ファンドや外部とのコンタクトで、スマホだけを利用していれば別だが、数件に一回位はディーリング用の電話を使っていると俺は読んだ」

「なるほど、分かりました
私は5時を過ぎたら、お手伝いに向かいます」

 

昼過ぎに指定されたミーティング・ルームに向かった。

既にルイスが部屋に来ていた。

「了、君に話しておかなければならないことがある。
もう、今日の調査はしなくていいんだ」
と言いながら、数枚のDISCを渡して寄越した。

「どういうことだ?
何でも言ってくれ、遠慮せずに。
ここには君と俺しかいない」
差し出されたDISCも気になったが、まずは話を聞くことにした。

「あまり大っぴらにできないことだったので、さっきまで悩んでいたんだ。

実は先週、Yokoo-sanが僕のところに来て、これから了が行おうとしていることをやった。

それ自体は問題なかったが、その後にとんでもない依頼をしてきた。

‘録音の一部を削除しろ’という話だ。

コンプライアンス上、それは絶対できないと断ったが、支店長の許可も得ているから、絶対命令だと・・・」
少し思い詰めて話したせいか、話が途切れた。

暫く間を置いて、
「それで?」と尋ねた。

「一晩考えさせてくれと言い。
そして翌日、彼の話を受け入れた。
Shimizu-sanからも電話があったので、仕方なかったんだ。

ただ、事後調査で録音の一部が欠落していたことが発覚すると、僕自身が処罰の対象になる。
だから、自分なりに策を練った。

了がビッグディール(大きな金額のディール)を行い出した日からの録音を事前にコピーしておいた上で、Yokoo-sanが指摘する箇所を彼の目の前で削除した。

ざっと、こんな話だ。

了が調べれば、録音が欠落していることが直ぐ分かるから、その前に話した」

「そうか、よく話してくれたな。
このDISCが削除した箇所のコピーか?」

「ああ、全部じゃないが、その数枚を聞けば、彼のコンプライアンス違反が証明できる。

もし、全部をコピーしたければ、録音室で出来るけど、どうする?」

「ルイス、君の話を聞けば、余分な仕事をする必要はなさそうだな」
笑って応えながら、握手を交わした。

「あっ、それと言い忘れたことがある。
僕は日本語が分からないけど、Tamuraって人とも随分話している様だった」

「ああ、それも知りたかったことだ。
助かったよ。
本件、君は何も心配することはない。

ありがとう、よく話してくれたな。

I wish you a happy holiday!」

 

ルイスと別れると、山下のデスクに向かった。

「すべて終了した」

「えっ、随分と早く済みましたね?」

「ああ、誰かが墓穴を掘ってくれたお陰で、ことが早く済んだ。
これで懲罰会議に臨む準備は整った。

会議は水曜日の午後だから、明日の便で東京に戻る」

「えーっと、その件ですが、本部長からのメールで会議は来週に延期になったそうです」

「ヘぇー、そっか。
それじゃ、東城さんにメールで伝えておいてくれ。

‘首尾上々。
従って、少し休暇を頂きます’と」

「了解。

それじゃ、今晩は、何処かに繰り出しますか?」

「ああ、それは良いな。
俺はこれからサックス5thアヴェニューにでも寄って、お袋の土産を買うことにする。
仕事が片付いたら電話をくれ」

帰りがけに横尾に声を掛けた。
「横尾さん、調べが終わったので、これで帰らせて頂きます」

「えっ、もう終わったのか・・・?」
怪訝そうに言う。

「ええ、お陰様で」

「気を付けてな」と精気のない声が返ってきた。
先刻見せた不敵な顔は不安に怯える顔に変わっていた。

 

支店のビルを出ると、外は薄暮だった。
まだ4時を少し過ぎたばかりだ。
改めてニューヨークの冬の夕暮れは早いと思った。

サックス5thアヴェニューは、支店からパークとマディソンの二つのアヴェニューを跨いでツーブロック先にある。

パークアヴェニューで信号待ちをしていると、反対側の歩道を歩く日本人女性を目が捉えた。

 

‘ボブの髪型、凛とした歩き方、間違いなく岬だ’

 

声をかけようとしたが、長い幅員や南北を行き交う車の騒音を考えると、とても声が届くとは思えなかった。

そんな戸惑いを覚えていると、岬が誰かに向けて手を振っているのが目に入った。
岬から10メートルほど先に、中年の白人男性が手を振り返している。

 

‘30代半ばの小柄な可愛い日本人女性、欧米人が如何にも好みそうなタイプだ。
松本にある母親の店はどうするんだろう?

もう俺が心配することでもないか’

 

ほろ苦さを覚えながら、パークアヴェニューを西へと渡った。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

‘You Don’t Know What Love Is’がサックスの音色に乗って流れてきた。

路上で黒人男性がサックスを奏でている。

Coltrane には遠く及ばないが、薄暮のマンハッタンには良く似合う音色だ。

そして今の俺の心にも・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

‘今夜は山下とゆっくり、スコッチでも飲みかわすか’

 

ドル円相場は週初に113円87銭を付けた後、週後半に112円23銭へと沈んだ。

金曜日の晩、社宅の固定電話が鳴った。
沖田からである。

「出張の成果、山下から聞きました。
良かったですね」

「ありがとう。
休んで悪かったな。
それで、用件は?」

「国際金融の木村さんには、来週の相場予測メールしておきました。

基本、ドル一段安。
戻っても113円台半ば程度。
予測レンジ:111円50銭~113円65銭。

ほぼそんな内容ですが、宜しかったでしょうか?」

「申し分ない。
ありがとう」

「課長、辞めないでくださいね」
切りかけた電話で声を聞いた。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第15回 「査問会議」

週初(26日)から、ドルが底堅い展開となった。

サンクスギヴィング・デー(11月第4木曜日)の翌日に当たるブラックフライデー(大規模安売り)の売り上げが極めて好調だったことが引き鉄である。

年末商戦の初日イベントが好調であれば、米株式市場に大きな期待が湧かないはずはない。
リスクオンの動きで米株が上昇し、米長期金利が上昇した。

為替市場の参加者がドルを買わざるを得なくなったのは言うまでもない。

ショートカットを巻き込みながら、ドルが上昇し続け、週半ば(28日)のニューヨークでドル円は114円03銭まで上昇した。

だが、その直後のパウエルFRB議長による「政策に既定路線はなく、金利は中立金利をやや下回る」との発言でムードが一変した。

FRBが「世界経済の鈍化が米景気に影響を与える」可能性を直視し出した証である。

ドル円はパウエル発言直後から、一挙に113円台前半へと沈んだ。

翌日(29日)、東京では市場が戸惑いを見せていた。

東城から呼び出しが掛かったのは、その日の午後のことだった。

 

「お前のディール絡みでMOFからの呼び出しを受けた件だが、嶺さんが査問会議を開きたいと言って来た」
執務室のソファーに座るなり、東城が言う。

「予想通りですね。

それで、他の出席者はどなたでしょうか?」

「田村、嶺、それにコンプラと人事から誰かといったところかな」

「ニューヨークからは?」

「とりあえずは誰も来ない。
ただ、いずれかの時点で清水支店長と横尾は呼ばざるを得ないだろうな」

「田村さんや嶺さんは、私と東城さんの話を聞いた上で、彼等と打ち合わせをしたいってことでしょうか?」

「まあ、そんなところだろう。
で、お前は、どこまでやるつもりだ?」

「はい、本部内の風通しを良くするためには、すべてです。

つまり、横尾、田村、清水、嶺の一掃です。

横尾さんについては、ディールに関連して不審な行為が見られること、それにジムを自殺に追い込んだ可能性があること。

清水さんについては、他本部の損失をうちの本部に押し付けた結果、山際さんの病を悪化させ、さらには横尾さんと共にジムを自殺に追い込んだ可能性があること。

田村さんについては、多々ありますが、9年前に私に罠を仕掛けたこと。

本部の最高責任者である嶺さんについては、田村さんや横尾さんの行動を看過し、保身に励んだこと。

私はズーッと、これらの件を公の場で暴き、正式に処分する機会を待っていました。
今回の査問会議はその絶好の機会です。

彼等はこの査問会議で私と本部長を追い落としたいと考えているのでしょうが、私は逆に、その場で過去の彼等の行為を責めるつもりでいます。

私は住井派でもなく、日和派でもなく、両者の統合銀行であるIBTに入行しました。

ただ、入行して以降、できるだけ公平な目で見る様にして来ましたが、日和派のやり方はあまりにも歪んでいます。

住井銀行出身の副頭取や本部の担当常務が去った後、嶺さんがうちを恣意的に仕切っているのは歴然としています。

実力では本部長に敵わず、やがては追い抜かれると恐れているため、嶺さんは本部長や私に不条理なことを押し付けてきました。

本部長は以前、私に‘お前なら、行内の軋轢を払拭できる’と仰いましたが、正々堂々とそうできる日は遠い先のことかと思います。

そこまでは待てません。

ですから、やや強引ですが、この機会を捉えて彼等を駆逐したい・・・」
そこまで話すのが精一杯だった。

「分かった。
お前がそう言うくらいだ。
どうせ辞めることを考えてるんだろう。
だったら、お前の好きな様にやれ。

こうなるんだったら、お前をニューヨークから呼び戻さなければ良かったのかも知れないな」
怪訝なのか、少し屈託のある重い声を残すと、窓際へと歩いて行った。

いつもなら遠くの皇居の森に目をやるはずの東城が、眼下の日比谷通りを見下ろしていた。
何か考えているのが窺える。

「会議は来週水曜日の午後3時からだ」
暫くして声を発した。

「了解しました。
ご迷惑をお掛けします」
と言い残し、ソファーから立ち上がり、ドアへと向かった。

すると、
「了、ニューヨーク出張を命ずる。明日の便で立て。
こうなったら、彼等に有無を言わせないほどの証拠を持って帰れ」という声が背後で響いた。

「はい、本部長」
振り返り、東城の目を真っ直ぐに見据えて応えた。

東城はレポート用紙に一筆添え、「何かのときにはこれを使え」と言いながら、手渡して寄越した。

ボトムに「International Finance Headquarters」と印刷された用紙には、東城のサインだけが記されていた。

用紙に調査項目を記載し、関連部署のスーパバイザーに見せれば、本部関連のことはすべて調べることができる。

 

‘このひと(男)は俺が山下に頼もうと思ったことを、自分でやってこいと言ってるのだ’

 

礼を言い終えると、再びドアへと向かった。

「年末までには一杯やろうな」
背中で聞いた東城の声からは、数分前までの厳しさが消えていた。

右手を後ろ手に挙げ、親指を立てた。

 

‘やることは一つだ。
横尾が田村やスイス系ファンドと電話で話した内容を調査するだけである’

横尾のレポーティングラインは俺だが、行内の階級は同じだ。
だから、俺の調査を横尾が阻止する可能性がある。

だが、本部長東城のお墨付きがあれば、彼も阻止はできない’

 

自席に戻ると、「悪いが、明日ニューヨークに行くことになった」と沖田に告げた。

「例の件ですか?」

「ああ、俺の査問会議が来週の水曜日にある。
そのためには、敵を封じ込めるためのエヴィデンス必要だ。

悪いが、土曜日に国際金融新聞の木村に来週の予測を送っておいてくれ。

時間がなければ、114円台があれば売りだとだけ伝えれば良い。
予想レンジは112円30銭~114円50銭だ。

もっとも、お前に頼んだんだ。
お前の書きたい様に書いて構わない」

「いえ、私もそんなところです。
いずれにしてもお気をつけて!」

 

翌日(30日)、羽田10:20発NH110でJFKに向かった。

CAを呼び、次の食事はスキップする旨を伝え、マカラン12年を頼んだ。

持参したBose のQuiet Comfortをウオークマンに繋ぐと、Y. Kishino のアルバム Rendez-Vousを選択した。

最初のトラックが ’Manhattan Daylight’だ。

心がニューヨークへと飛ばないはずがない。

 

‘週末は久々にマンハッタンでクリスマス気分かな。

できれば、マイクが20日頃に送ってくるというクリスマス・プレゼント、前倒しでアストリア・
ホテルまで送ってほしいものだが’

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第14回 「財務省からの呼び出し」

週初(19日)から、ドル円は前週末のクラリダFRB副議長のハト派的な発言の影響を受けた。

「米経済の先行きが懸念される中、金融当局は利上げに配慮が必要」とする趣旨の発言でドルが売られ、20日には112円30銭まで下落した。

だが、そこからは積極的なドル売りは見られず、徐々にドルが買い戻されていった。

22日が米国のサンクスギヴィング・デイに当たり、そして23日が日本の勤労感謝の日となるため、市場に積極性が見られないのだ。

21日の午後も活性のない市場となり、所在無いまま、溜まった未読メールを読み続けていた。

東城から電話がかかってきたのは、そんな時である。

「ちょっと部屋に来れるか?」

「はい、市場が至って暇なので、直ぐにお伺いします」

 

「失礼します」と言いながら、執務室のドアを押し開くと、背筋の通った東城の後ろ姿を窓の正面に捉えた。

皇居の森を眺めているのだ。

「今日は晴れて、森が良く見えますね」

「そうだな。
うちのビルは本当に良いロケーションにある」
そう言いながら、ソファーに座る様、促した。

「お話というのは?」

「実はまたMOF(財務省)から電話があったんだ。

今度は山上さん(外国為替市場課長)からで、省に来てくれと言って来た」
少し顔を曇らせながら言う。

「先週の私の動きが拙かったってことですね」

「まあ、そうだろうな。
お前から直接話を聞きたいと言って来たんで、手数だが行ってくれるか。

それとちょっと気懸りなことがある。
田村君から電話が転送されてきたことだ。

山上さんが下の番号を間違えたんだろう」

「それはちょっと、拙いですね。

こういうことだけは勘の鋭い田村さんですから、既にもう、市場課に探りを入れてる可能性があるってことですか・・・。

でも、そんなことを気にしてても仕方ありませんから、とりあえず山上さんに会って来ます」

「悪いが、そうしてくれるか」

 

山上とは木曜(22日)の午後3時に会うことにした。

 

「お久しぶりです。

2月のセミナー以来でしょうか?」

「そうでしたね。

あのセミナーは、実に良かった。

また来年も講師をお願いしますよ」

「都合が合えば、お引き受け致します。

ところで、ご用件は私のディールの件でしょうか?」

「まあ、そうです。

最近、仙崎さんは日米で大きな玉を動かしてるらしいですね。

時期が時期だけに、立場上、仕方なしにお呼び立てしました。

申し訳ありません」

来年から本格的に日米通商協議が始まる。
それ以前は円相場を安定させておきたいというのが話の趣旨だった。

「いえ、山上さんのお立場は良く理解しています。

当分は大きなディールを控えます」

「当分はというのは、当面の目的を果たしたってことですか?」
笑いながら言う。

「まあ、そんなところです」
こっちも笑って応えるしかなかった。

 

‘俺との争いでニューヨークの横尾は相当に痛手を被っている。
もう、余計なことはしないはずだ’

 

「そうですか、何かと大変そうですね、大手銀行の為替課長の仕事も。

それはそうと、東城さんにお電話した際、間違えて田村さんのところに掛けてしまいました。

今日は’何の用件だ?’と、執拗に聞いてきましたが、無視しておきました。

大学の先輩風を吹かす彼の癖、相変わらずですね。

彼のことだから、今日のヒアリングの件、省内の大学の後輩を捕まえて聞き出すかもしれません。

私の電話の掛け間違いで、仙崎さんや東城さんに迷惑が掛からなければいいのですが・・・。

一応、念のためお伝えしておきます。

それじゃ、お互い忙しい身なので、この辺にしておきましょう。

東城さんにも宜しくお伝えください」

「ご心配をお掛けしました。
それでは、失礼致します」

 

‘ここの人間にしては、珍しく腰の低い好人物だな’

 

銀行に戻ると、その足で東城の執務室へと向かった。

「おう、ご苦労だったな。
やはり、お前のディールの件だったか?」
部屋に入るなり、東城が言う。

「はいそうですが、ディールについてのお叱りは何もありませんでした。

’日米協議前に場を荒らしたくない’

そのことを分かってもらいたいというのが話の趣旨でした」

「そんなところだろうな。
彼の省内の立場を考えれば、見せかけのヒアリングも重要だからな」

「ところで、例の電話番号違いの件、申し訳ないと言ってました。

それと、田村さんが省内の誰かから今日のヒアリングの件を聞きつけるかもしれないので、注意する様にとのことでした」

「そっか、あり得ることだがどうしょうもない。

何か起きたら、その時に考えれば良いことだ。

ご苦労だったな」

「それでは、失礼します」
頭を軽く下げ、執務室を辞した。

 

執務室から自席に戻る途中で、田村に呼び止められた。

「仙崎、ちょっと話がある」と言いながら、さっさと窓際のテーブル席の方へと歩き出していた。
あっちで話そうという意味だ。

面倒だが、従うしかなかった。

「話とは何でしょうか?」

「お前、MOFのヒアリングを食らったんだって?」

「えっ、何でそれを?」

「お前、俺を見くびるなよ。

お前のこのところの行動、まぁディールだけど、市場じゃちょっと目を引いたらしいじゃないか?

それが連中(MOF)の耳に入らないとでも思ってたら、お前も相当に甘ちゃんだな。

先週随分と、外国為替市場課内でお前のディールが話題になったそうだ。

その直後の今週、山上からの呼び出しだ。

彼の目的が、その件でのヒアリングって読むのは当たり前だろう。

どうだ、図星だろ?」
まるで勝ち誇った様に田村が言う。

「それが事実だったとして、どうだと?」

「お前も食えないヤツだな。

MOFのヒアリングだぞ。

ひょとしたら行政処分ってこともあるかもな。

そうなりゃ、お前も東城さんも懲罰もんだ」
笑いながら言う。

「あんたは何処まで馬鹿なんだ」

「俺はお前の上司だぞ。

馬鹿呼ばわりはないだろ、えっ?」
田村の甲高い声が周辺に広がり、驚いた連中の目線が窓際のテーブル席に集中した。

「部下が上司を逆パワハラしたってことで、コンプラにでも駆け込んだらどうですか?

それ以外に用件がなかれば、私はこれで失礼します」
冷静に応えて、自席へと戻った。

 

席に着くなり、「田村さん、MOFの件ですか?」と沖田が心配そうに聞いてきた。

「そうだ。

MOFとの関係は問題ないが、来週には嶺(常務)さんから何か話があるだろう」

その晩、沖田を連れて青山の’Keith’に出向いた。

 

いつものテーブル席が埋まっていたので、仕方なしにカウンター席に腰を下ろした。

「まずはハートランドとサンドイッチでよろしいですか?」
笑みを浮かべながら、マスターが聞いてきた。

「ああ、それでお願いします。
BGMはKeithとCharlie Hadenの‘Last Dance’で」

Keithの心地いいピアノをCharlieのバスが優しく支えたアルバムだ。
静かに語らうには持って来いのBGMになる。

「なあ、沖田。

お前、俺の代わりを務める自信があるか?」
少しアルコールが回ったところで聞いてみた。

「えっ、急にどうされたんですか?」
沖田が声を張り上げた。

「万が一ってことさ。

派閥間の軋轢、それに馬鹿な上司や同僚との関係、そんな腹の足にもならない本部内にある柵・・・。

そろそろ外しておかないと、流れるものも流れなくなる。

さっき言った様に、近々、田村・嶺が動いて来ると思う。

その時がチャンスだ」

「えっ、あんな馬鹿部長と刺し違えるつもりですか?」

「俺は間違ったことは一つもしていない。

だから刺し違えるつもりは毛頭ない。

だが、揉め事を嫌うのが組織の上だ。

だから、彼らは揉め事を作った人間を消しにかかるに違いない。

間尺に合わないが、喧嘩両成敗って便利な言葉がある。

日和の連中もそうだろうが、俺と東城さんも何らかの咎めを負うことになるだろう。

だが、東城さんは将来のうちに欠かせない人物だ。

どうあっても彼だけは守りたい。

そのために、俺は最後まで戦うつもりだ」

その言葉を受け入れたのか、その後、沖田は一言も喋らずに淡々とウィスキーグラスを煽り続けていた。

ただ別れ際、
「絶対に辞めないでください。
僕にはまだ課長の、仙崎了の代わりは務まりませんから」と声を振り絞って言った。

店から出ると、ドアの上に掛けられたランプシェードに滲む乳白色の灯りが、沖田の顔を捉えた。
その顔に涙が伝い落ちていた。

’俺がいなくなっても頑張れよ’

 

沖田と別れた後、青山通りでタクシーを拾い、「神楽坂へ」と伝えた。

スマホをブリーフケースから取り出すと、国際金融新聞の木村へのドル円相場予測を書き出した。

 

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木村様

 

日米に休日があったせいか、今週はあまり変化がなかったですね。

でも、依然としてドルの上値が重たい展開が続くと考えています。

テクニカルポイントの多い112円台前半が抜ければ、111円台半ばもあるかと。

逆に抜けない場合は、ドルの反発もあるでしょうが、113円台後半までと予測します。

来週の予測レンジ:111円50銭~113円75銭

筋書きはお任せします。

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

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メールを送り終え、窓外に目をやると、街路樹がクリスマス・ライトで覆われ出している。

ふと、このシーズンのパークアベニューの光景が脳裏に浮かんだ。

 

‘来月の20日頃にはマイクがクリスマス・プレゼントを送ってくれるという。

間違いなく送られてくるであろうプレゼントの温もりが、今はとても愛おしく感じられる’

ルームミラーにやついた顔が映ったのか、
「お客さん、今日は何か良い事でもあったんですか?」
と聞いてきた。

 

‘まあね’と躱した。

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

 

(つづく)

第二巻 第13回 「内通者」

ニューヨーク市場が休場となった週初(12日)の午前中、ドル円は114円を挟んで方向感のない展開を続けていた。

だが午後になると、日経平均株価が前日比プラスとなり、これに連れてドル円は114円21銭まで上昇した。

「沖田、10(114円10銭)以上で売れるだけ売ってくれ」

「了解です」

沖田が15分後、「今のところ、アベレージ15(114円15銭)で200本売れてますが、続けますか?」と聞いてきた。

「俺も16で100本売ったから、とりあえず止めてくれ。
それにしても、なかなか落ちないな」

「そうですね、先週の高値(114円9銭)を抜いたので、55(114円55銭)を試すと思ってる連中が多いのかもしれません」

暫くそんな話をしていると、やっと114円が売りになった。

欧州株が大幅に下落したことでリスクオフ・ムードが一挙に高まり、円が買われ出したのだ。

「どうします?」と沖田が聞いてくる。
利食いの買い戻しを入れるかという意味だ。

「100本の買いを75(113円75銭)でリーブしておいてくれないか。
どうせまた、114円台に戻すだろうから、その時に売り余力が必要だ。

ちょっと、東城さんに呼ばれてるので、執務室に行ってくる。
俺が戻るのを待たないで、適当なところで帰って良いぞ」

「了解です」

 

「先週の大阪出張、ご苦労だった。
好評だったそうじゃないか」
執務室のソファに腰を下ろすなり、東城が労いの言葉をかけてくれた。

「はい、お陰様で」

「ところで今朝、MOF(財務省)の吉村さんから電話があった。

‘最近、うちのフローが頻繁に飛び交ってるが、特に理由があるのか’と聞いてきた。

来年からアメリカとの物品貿易協定(TAG)の交渉が始まるので、上層部は円相場が荒れるのを嫌ってるらしい」

「それで、本部長は何とお答えになったんですか?」

「海外のファンドや日本の機関投資家を客に持ってるが、最近彼らのフローはうちに流れて来ない。

だが、うちもディーリングで稼ぐ必要があるので、積極的にディールもやってる。

必要があれば、その点はお前に直接聞く様にと言っておいた。

うちに好意的な吉村さんのことだ。

お前のディールがMOFに漏れてることを暗に知らせてくれたんだろう。

情報源は内部の人間かもな」

「そうですか。

たとえ吉村さんからでも、MOFのヒアリングには違いありません。

頻繁に動かない方が良いでしょうか?」

「まあそうだろうが、あまり気にせずに動きたいときに動け。

通常のディールに法的規制はないからな」
笑みを浮かべて言う。

その笑みは‘最後は俺に任せておけ’と言ってる様だった。

「了解しました」
と言って、その場を辞した。

 

翌日(火曜日)の朝方、ドル円は113円58銭を付けたものの、午後に入ると急騰し出した。

200本のドルショートは残したままだ。

 

‘でも、ここは手仕舞わずにじっと耐えるしかない。
自分でも少し掌に汗をかいているのが分かる’

 

そんな折、ロンドンの岸井から電話が入った。
「仙崎さん、パーマー銀行とシッスルズ銀行がそれぞれ300本ずつ買ったそうです。

裏はスイス系と英系のファンドというのがこっちの情報です。

上は14(114円14銭)までですが、少し下がると買いが湧いて来る感じですね。

もしかしたら、横尾さんの差し金でしょうか・・・?」

「彼がファンドに働きかけたとすれば、俺のショートを潰しにかかってるってことだ。

いずれにしても、情報ありがとう。
また何かあったら教えてくれ」

「承知しました」

 

翌日(水曜日)になっても、ドル円が落ちない。

113円70~80銭で執拗に買って来るヤツがいる。

上値も重いが下値も堅いといった展開が続く。

ここを潰さないと、上に持って行かれかねない状況だ。

その日の晩、社宅から山下に電話を入れた。

「どうだ?」

「欧州通貨は不安定過ぎて、あまり手を出す人間はいない様です。

ドル円は買いも出てきますが、少し上値が重たい感じでしょうか・・・」

「分かった。

ドル買いが出たら、その買いを叩く様に売ってくれ。

そして114円が付く様なら、そこで売れるだけ売ってくれないか。

電話を待ってる。

頼んだぞ」

電話を切ると、マイクに電話を入れた。

 

「Hi Mike, it’s me」

「Hi Ryo, how can I help u today?」

「昨日からスイス系のファンドがドル円を買ってるらしいけど、お前の客じゃないか知りたいんだ。

俺はこれからドル円を落とすつもりだから、念のために確認してくれないか?

お前の客だったら、悪いからな。

もしそうでないなら、80(113円80銭)が売りになったら、客に売る様に勧めてくれないか。
必ずドルは落ちるから」

「Wait a second」と言うと、少し間が空いた。

「ああ、俺の客じゃないみたいだ。
80givenで売る様に頼んでおいたよ。

ところで、いつこっちに来てくれるんだ?」

「今その準備中だ。

この電話もその一環だから、もう少し待ってろ。
約束はできないけどな」

「そうか、期待してるぞ。

それとクリスマス・プレゼント、来月の20日頃に届けるよ。

今のお前が一番欲しいものをな。

それじゃ、Good luck!」

 

ドルが落ち出したのは0時を過ぎてからだった。

80がgivenし出した(売りになり出した)頃、固定電話が鳴った。
山下からだ。

「課長、114円以上では30本しか売れませんでした。

それと小刻みに売った合計は120本です」

「そっか、今幾らだ?」

「一度80がgivenした後の80-82です」

「良く聞け。

ここからマイクの客も売る、俺も売る。

70以上で売れるだけ売ってくれ」
止めを刺しておきたかった。

 

‘必ずドルは落ちる’

 

ラフロイグをなみなみと注いだグラスを片手に、ソファーに座り込んだ。

BGMには明るい曲が良い。
Michael Franks の CD‘The Music In My Mind’をBose のミュージック・システムに挿入した。

ジャズ・フュージョン・ボッサを融合した都会的メロディーにヴォイスが上手く乗っている。

4杯目のグラスを空けたところで、山下から電話が入った。

「今、50がgivenしたところです。

こっちで売れたのは都合250本です。

どう処理しますか?」

「放っておけ。

もう直ぐ彼等が全部投げる(買ったドルを損切る)。

それで決着はつく。

横尾の様子はどうだ?」

「さっきから、誰かにあやまり続けている様子です。

横尾さん自身もロング(ドルの買い持ち)なので、相当に焦っている感じでしょうか」

「分かった。

ところで、誰かが俺のディールをMOFに漏らしてるらしいんだ。

横尾か田村だとは思うが、お前はどう思う?」

「レポーティング・ライン(業務報告ライン)を考えると、横尾さんは課長のディールを見ることができません・・・。

とすると、田村さんということになるんでしょうか?」

「そっか、本部の序列では、俺のポジションを見ることができるのは田村と東城さん。

管理やコンプライアンスの観点からは、バックオフィスの連中かコンプライアンス・オフィサーってことか。

消去法でいけば、田村だ。
横尾が俺のポジションを直ぐに把握していたのも、田村が流していたのか。

まぁ、そんなとこかな。

今日のお前は冴えてるな」

「冴えてるのはいつもでしょ」
笑って言う。

「そうだな、いつもだな。
それじゃ、今日はありがとう」

「お疲れ様でした」

 

ドル円は週末の金曜日に112円65銭まで下落し、112円80銭前後で週を跨いだ。

 

週末の土曜日、天気は完璧な秋晴れだった。
たまには横浜の実家へ帰ろうかとも思ったが、一昨日に夜通しのディールを行ったせいか、ベッドから起き上がることもできない。

二度寝を決め込んだ。

目が覚めたとき、外は既に暗かった。

 

‘長時間眠れるのはまだ若いってことか、本当に疲れ切っていたのか。
「秋の日は釣瓶落とし」って便利な言葉もあるか’

 

やっとの思いでベッドから出ると、冷蔵庫からハートランドを取り出し、喉を潤すと今度はソファーにどかっと座り込んだ。

テーブルの上のスマホを手にし、国際金融新聞の木村宛てに来週の予測を書いた。

 

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木村様

112円台前半が抜ければ、111円台前半もあるかと。

ドルの反発があったとしても、113円台後半までと予測します。

予測レンジ:111円50銭~113円75銭

筋書きはお任せします。

 

IBT 仙崎 了

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10分もすると、木村からの返信が届いた。

 

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仙崎様

いつもありがとうございます。

先週の予測‘114円台は上髭’は流石でしたね。

大分お疲れの様なので、神楽坂にある行きつけの寿司屋に特上寿司を届ける様に頼んでおきました。

‘旨いですよ’

 

国際金融新聞 木村

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‘泣かせてくれるな’

夕飯の心配をしなくて済む安堵感から、ソファーに寝そべった。

再び覚えたまどろみの中で、ミッドタウンを歩く岬の姿を見た。
だが、直ぐにその姿は消え、脳裏には明るく手を振る志保の姿が浮かんできた。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第12回 「証言を求めて」

米中間選挙の結果が固まった後の金曜日(9日)、大阪支店へと向かった。
支店が開催する顧客向けのシンポジウムで、「来年の世界経済と為替動向」について講演するのが目的である。

世界でも有数の為替ディーラーという枕詞が俺に付けられてしまったせいで、支店からの講演依頼が多い。
昨年同様に今年も政令都市の支店すべてから依頼を受けていたが、とても全部は無理だ。
大阪・仙台・横浜に絞らせてもらった。

IBT大阪支店は中之島にある日銀大阪支店にほど近い。
シンポジウムは支店から徒歩で数分のところにある堂島川沿いのAホテルで行われる。
シンポジウム後に行われる懇親会パーティーを考慮してのことだ。

午後3時過ぎにAホテルに着いたが、ロビーでの幹事役との打ち合わせの4時までには少し間がある。

新幹線で資料の下読みは済んでいるので、それまで特にやることはない。
ベッドサイドのテーブルに備え付けられた時計のアラームを3時45分に合わせると仮眠をとった。

 

5時からのシンポジウムは簡単な支店長の挨拶で始まり、自分の講演、国内経済担当の講演、そしてパネル・ディスカッションという手順で無事終了した。

もっとも、顧客には直接俺と話すことを目的としている役員や部長クラスが多いため、その相手も結構疲れる。

パーティー終了時間の9時半を過ぎても、質問者が絶えなかった。
来年の円相場や、米捻じれ議会の下で苦しい内外政策を強いられるトランプ政権の行方などの質問ばかりで、少し辟易とした。

すべて講演やディスカッションで話したことばかりだが、直接俺から話を聞きたいらしい。

幹事役が‘それではお時間が参りましたので、そろそろお開くに・・・’という挨拶にも関わらず、俺の周辺に人が群がっている。

そんな状況を見かねて、幹事役が客に‘ホテル側の都合もありますので、申し訳ございませんが’と救いの手を差し伸べてきた。

その寸隙をぬって、会場から出るとエレベーターで24階のラウンジバーへと急いだ。

 

「仙崎君、講演やシンポジウム、良かったよ。
俺にはとてもあんな話はできないな。

やはり君は我が行のエースであり、広告塔だ」

「いや、先輩にそう言われるとお恥ずかしい限りです。
ところで今日は、お時間を頂きありがとうございます」

待ち合わせた相手は9年前に俺に罠を仕掛けた一人である木戸で、今は大阪支店の融資第一部の次長を務める。
当時まだ、田村が国際金融本部の外国為替課長だった頃、一番の部下だった。

「それはいいが、今日は俺に何の用だ?」

「木戸さんもご存じの様に、統合から15年経った今もIBTには住井銀行出身者と日和銀行出身者との間に軋轢が残っています。

特に国際業務関連の部門では。

うち(国際金融本部)でも同じです。

 

「それで、お前は二行の軋轢をどうしたいんだ?」

「取り除きたいと考えています。

と言っても、うちの本部内にある軋轢ですが。

そのためには、何かと本部に介入してくるニューヨークの清水支店長や横尾さんとの間も整理したいと・・・。

そこで、木戸さんのお力をお借りできないでしょうか?」

「俺の力ってどういうことだ?」

「はい、木戸さんは当時、田村さんや大竹さんと一緒になって私に罠を仕掛けましたよね。

あれは田村さんが木戸さんや大竹さんに無理強いしたものと考えていますが、その点、如何でしょうか?」

「ああ、確かにそうだ。

田村さんは常々、‘外国為替課を一つにまとめたい。そのためには、ああいう出来すぎたヤツは不要だ’と言っていた。

ヤツとはお前のことだ。

あの日の前日、‘手を貸せ’と言って、俺と大竹に罠の話を持ち掛けてきた。

手を貸さないのなら、‘お前等は国際畑に居られなくなる’とも脅かされたよ。

嶺さんはもう直ぐ、常務に昇格し、田村が部長・本部長へと昇ることも仄めかしてな。

国際分野で働くことが学生時代からの俺の夢だったし、国際金融本部に残りたかったから、軽い気持ちで引き受けてしまった。

ただ、あの罠があれほどお前を痛めつけてしまうとは思わなかった。

今更だが、悪かった。

本当に悪かった」

「そのことはもういいんです。

その代わりと言っては何ですが、この先もしかしたら、木戸さんに当時のことを話して貰うことになるかもしれません。

お願いできませんでしょうか?」

「おいおい、それは結構難しい相談だぞ」

「分かっています。

下手をすれば、嶺・清水の力で左遷されかねないってことですよね。

でも、上手く行けば、彼等を今の立場から外すことも可能です。

そして木戸さんが田村さんの席につけばいい。
きっと東城さんが手を貸してくれますよ。

私は住井派でも、日和派でもない。

ただ、国際金融本部を風通しの良い部署とし、やがてそんな雰囲気がIBT全体に広がって行けばと考えているだけです」

「お前、本気か?
まさか、うちを辞めるつもりじゃないだろうな?

さっきも言ったけど、お前はうちのエースだぞ。
お世辞で言ってるんじゃない。
お前の講演やディベートを聞いていて、本当にそう思ったんだ」

「お言葉、ありがとうございます。

ただ、仮に私がいなくなったとしても、木戸さんもいるし、沖田や山下も育っています。
それに何と言っても、軸となる東城さんがいるじゃないですか。
来年にも彼は常務になり、将来はさらに上に行くと信じています」

’木戸が為替ディーラーとして一流の腕を持っている。
田村の妙な小細工がなければ、今頃は部長席で東城の片腕として力を発揮していたのは間違いない。

俺がいなくても、この本部は大丈夫だ’

 

「まぁ、その件、考えておくけど、俺もサラリーマンだ。
左遷だけは勘弁願いたいがな」

「その節は宜しくお願いします」
頭を深々と下げながら、頼んだ。

請求書を手にしてその場を去ろうとすると、木戸がその手を掴んだ。

「ここはいい。
俺に払わせてくれ。
せめてもの当時の詫びだ。
詫びにしてはちょっと安すぎるけどな」
苦笑いを浮かべて言う。

遠慮せずに礼を言い、出口へと向かった。

 

「おい、辞めるなよ!」という声を背中で受け止めた。

 

‘助けてくれればいいが。

田村を落とすためには彼の証言がほしい’

 

ドル円相場は昨日(木曜日)のニューヨーク市場で114円9銭まで上昇し、113円80銭前後で週を越した。

 

米中間選挙では大方の予測通り、下院では民主党が過半数を超え、上院では共和党が過半数を超え、捻じれて終えた。

週末の各テレビ局の報道番組は、‘米政権の今後を占う’的なもので占められていた。
したり顔の評論家連中のコメントはもっともらしいが、どれも核心をついていない。

 

‘どうでもいい話ばかりだ。

そろそろ、国際金融新聞の木村に「来週のドル円相場予測」を送っておくとするか’

 

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木村様

 

ドルは堅調に見えますが、そろそろ調整が入る頃かと考えています。

目先でドルが買われても、114円以上は上髭と踏んでいます。

 

予測レンジ:112円~114円73銭。

 

今日の午後、大阪から帰ってきたばかりで少し疲れているため、短文にて失礼致します。

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

 

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メールを出し終えると、ソファーに横たわった。

BGMに流しておいたMelody Garnet の アルバムが丁度‘The Rain’に差し掛かったところだ。

Rain came down in the sheets that night and you and I stared out to the left to the right・・・・・・

甘く悩ましい、そして少し枯れた声が静かに流れ、まどろみを誘った。

「了、強く抱きしめて」
確かに夢の中で志保の声を聞いた。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第11回 「情報操作」

MLBワールドシリーズは最長7試合で先に4勝したチームがチャンピオンの名を手にする。

週初の月曜日(10月29日)、ボストン・レッドソックスが第5戦目でLAドジャーズを退け、対戦成績4-1でチャンピオンシップをものにした。

これで今年のMLBも完全に終了である。

MLBが終わるこの時期、毎年喪失感が心の中に湧くが、それはニューヨーク時代から変わらない。

そんな心模様の中、為替市場は静かな展開が続き、ドル円相場も112円の手前での小動きが続く。

ただ、どことなくドルに底堅さが感じられる。

 

 

ドル円が跳ねたのはその日のニューヨーク時間のことだった。

米国債10年債利回りが3.1%台を回復したことが要因だが、値動きを見ると誰かの大きなドル買いが入った様にも見える。

ラフロイグを注いだグラスを片手にモニターを追っていると、山下から電話が入った。

「遅くにすみません。今よろしいでしょうか?」

「よろしくなくても、話があるんだろ?」

「はい。

実は今朝、横尾さんが私のデスクまで来て、‘お前の読みはどうなんだ?’と聞いてきました。

先週は112円台後半でドルの上値が重たかったので、ここは(112円半ばでは)一旦売っても良いと考えてますと答えたんですが、

‘仙崎に仕込まれたお前の相場観もその程度か。
俺は、今日からドルは売らない方が良いと思う。
聞く耳を持つか持たないかはお前次第だがな。
ただ、忠告したことだけは忘れるなよ’

と言い残して、自席へと戻って行きました」

「なるほど、ちょっとした脅しだな。
もっとも、そこまで言うからには余程の自信があるんだろう。

さっきから値動きを見ていたが、彼の頼みでサポーターのファンドがドルを買ったんじゃないのか?

お前のポジションは、今ショート(ドルの売り持ち)か?」

「はい、30本だけですが・・・。
さっき客が45(112円45銭)で50本買ったうちの30本がアンカバー(ドルショート)になっています」

「そっか。今、ショートを持っていて居心地が良いか?」

「いえ、上値は重たい感じですが、かと言ってそんなに下もない様に思います。
こっちの長期金利も上がってきたので・・・」

「それじゃ、ショートは何処かで閉じておいた方が良いな。
今、昼前か・・・。

午後に入ったら、横尾がドル買いを頼んだサポーターのファンドがロングを落としてくる(ドルを売ってくる)と思う。

聞くところでは、彼の知り合いのファンドは皆、つるんで短期の利鞘稼ぎで立ち回ってるらしいから、ロングを落としてくるハズだ。

その時に、買戻しておくといい。

お前の処理が終わったら、横尾に伝えておいてくれ。
俺が明日(火曜日)の東京で200本買い、3円台(113円台)に乗ってから徐々に利食うと」

 

‘俺のロングを利食わせたくないとすれば、必ず何処かでドルを売ってくる’

 

「了解しました。

それでは失礼します。

おやすみなさい」

 

翌日(火曜日)の東京市場が開けると、直ぐに山下から電話があった。

「昨晩の打ち合わせ通り、課長の伝言を伝えておきました」

「そっか、今38(112円38銭)で100本買った、残りの100本も今買う。

横尾や彼のサポーターはきっと、3円に乗せる前に大きな売りを入れてくるはずだ。

そこでドルが下がったら、俺は追加でドルを買う。

横尾等のショートを切らすまでな。

どうせ肝っ玉の小さい連中だ。

3円台に乗ったら慌てて切るさ」

「いよいよ面白くなってきましたね。

課長のお役に立てる時間帯がニューヨーク市場だと良いんですが」

「多分、今日のニューヨークでそうなる。

その時はしっかり頼むぞ」

「了解です」

山下との会話を終えた後、トランプ大統領の「対中貿易で素晴らしい取引を見込む」との発言で株式市場がリスクオンの姿勢となった。

日経平均株価の大幅上昇に連れて、ドル円は112円74銭まで上昇した。

ここからが肝の水準である。
前の週にドル円は113円台に乗っていないため、有象無象の売りが出やすいからだ。

 

案の定、市場の中心がロンドンからニューヨークに移り出すと、ドル円の売りが出始めた。

90(112円90銭)に届くと弛みなく売りが出る。

社宅のデスクのPCを見つめながら、ドルが下がるのを待った。

山下の情報では、横尾達は55~60(112円55~60銭)程度での買い戻しを狙ってる様だ。

 

‘そろそろ、山下に電話を入れるとするか’

 

「あっ、課長。いよいよ動き出しますか?」

「今、いくらだ?」

「80-82です」

「そっか、80がgivenしたら(ドルが80で売りになったら)50本ずつ買い続け、75がgivenしたらそこで買うのを止めてくれ。

これからロンドンの岸井に、75givenでの買いを頼むつもりだ。

了さん、いえ課長は彼らにショートを切らせることで3円台(113円台)を狙ってるんですね。

そこで跳ねたところで売る」

「まぁ、そんなところだ。
後で何本買えたか、メールを入れてくれ」

「了解です」

山下との電話を終えると直ぐにロンドンの岸井に電話を入れ、75givenで50本ずつ買う様に頼んだ。

 

結局ポジションは、昨日買った200本と合わせて都合600本のドルロング(ドル買い持ち)となった。

完全に限度オーバーだ。

しくじれば重い懲罰が下り、儲けても何らかの罰が下される。
今回は収益目標ではないだけにより罰は重い

東城には本件の話をしていない。

言えば、東城は‘お前の好きな様にやれ’と言うに違いないが、今回はそれを躊躇った。

 

‘自分だけで責任を取るつもりだ’

 

翌日の東京(水曜日)でドルは113円34銭まで跳ね上がった。

山下の話では、横尾達のドルショートは113円に乗せたところで買い戻しに転じたという。
NYダウの反発がアジア株全体を押し上げ、ドル円がそれに連れたことも幸いした。

俺の600本のドルロングは、東京で113円20、ニューヨークで113円30で売り捌いた。
収益は3億を優に超えたが、あまり後味の良い儲けではない。

 

翌日の朝、すべてを報告すべく東城の執務室を訪れた。

早朝にメールで一連の顛末を報告してあったので、東城の結論は早かった。

「俺のオバーナイトの限度は300本ある。

俺が自分自身のディールをお前に一任しておいたことにすればいい。

つまりお前の限度300本と合わせて600本だ。
お前の限度オーバーにはならないな。

それで何か問題があるか?

さっき、バックオフィスの山根君にもアカウントコレクション(口座訂正)の依頼もしてある。

もう一蓮托生だな」
と笑いながら言う。

頭を深く下げながら、
「ありがとうございます」とのみ言った。

と言うよりも、あまりの心の広さに触れ、それ以上の言葉が出なかったのだ。

熱くなる目頭を東城に見せるのを避ける様に、短く「失礼します」と言って、ドアに向かった。

「無理するなよ」
という言葉を背中で聞いた様な気がする。

部屋を出ると、ドア越しに深々と頭を下げた。
再び目頭が熱くなるのを覚えた。

 

‘この件は早晩、田村や嶺に伝わることになる。
そうなれば、俺だけでなく、東城も責めを負う。
それにも関わらず、あの人は・・・’

 

その日以降もドル円は112円半ばを割り込むこともなく、113円20銭近辺で週を跨いだ。

米10月の雇用統計で、NFP(非農業部門雇用者数)増が予想を上回ったことや、前年同月比の平均賃金の伸び率が高かったことがドルの背中を押した。

山下の話では、ショートを踏まれた後の横尾は心なしか意気消沈している様子だという。

 

‘だが、あの程度のダメージで手を引くような横尾じゃないはずだ’

 

土曜日の晩、定例となった国際金融新聞の木村へのドル円相場予測を書くため、ラフロイグのボトルとグラスを持ってデスクへと向かった。

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木村様

米中間選挙では民主党が議席数を増やし、捻じれを懸念する声が多い様ですね。

もっともトランプ弾劾については、上院改選議席数をすべて民主党が獲得しても、採決に必要な上院議席数三分の二までは至らない。

とすれば、イベント一過で、市場の反応は薄いかと見ています。

FOMCは12月利上げの地ならし程度の解釈といった感じでしょうか。

経験則から、米雇用統計が良好だった翌週はあまりドルが上がらない様な気がします。

ただ相場の焦点が少しぼやけてきたので、実践では柔軟性を持って対応したいと考えています。

来週のドル円予測レンジ:111円50銭~114円10銭

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

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(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。