第50回 「失われた方向感」

週初月曜日(14日)の早朝、ドル円は小緩んだものの、9円(109円)を割り込む気配は失せていた。

持ち込まれる顧客のフローもドル買いばかりだ。

「沖田、上手く捌けてるか?」
場の感触を確かめるのには、インターバンク・ディーラーの肌感覚に頼るのが良い。
沖田は人一倍その感覚が鋭く、意見も頼りになる。

「はい、少し捌きづらくなってきたのは事実です。
この状態が続くと、カバーするので一杯一杯でしょうか」

‘時間を追うごとにビッドになって行く感じがする’

「そっか、そんな感じか。
10円台の客の売りオーダーも先週末の半分に減ってるな。
先日から持ち続けてる90(109円90銭)の売り50本、手仕舞っておくか。

どうも今週は上だな」

「そうですね。
10円(110円)は2回蹴られて、今度で3回目ですか。
抜け頃、落ち頃ですが、場から受ける感触は上でしょうね」

「大京(大京生命)をはじめとした8円台後半の資本の買いオーダーは300本か。
この状況だと、彼らは買い水準を上げてくるな。

もしかすると、今日の午後にでもリーブを外して、買ってくるかもしれない。
沖田、カバー用として150本、上の売りの手仕舞い用に50本、合わせて200本買うことにする。

それと、ユーロドルを100本売る。
ドル円は一連の流れで利益こそ出ているが、居心地が悪い中での稼ぎだ。

その点、ユーロドルは自信を持って臨めそうだ」

「であれば、資本が買ってくる前に、私もカバー用にドル円50本、買っておきます。
どんな感じでやりますか?」

「そうだな。
ドル円は時間差を付けてこっちとシング(シンガポール)で買う。

ユーロドルは戻り売りのリーブで行く。

始める前に、マイクにメールを入れておくから少し待っててくれ」

「了解です」

 

沖田との打ち合わせを終えると、直ぐにマイクにチャット・メールを入れた。
マイクはコロンビアMBA時代の親友で、コネティカットでヘッジファンド‘パシフィック・フェローズ’のCEOである。

俺が大きく動くときは、彼に連絡することにしているが、それは自分のためでもあり、そして彼のためでもある。

‘Hi, Mike!
How are u doing?’

‘I’m all right.
How abt yourself?’

‘ Tks, fine same as usual.
I don’t have much time, tdy.
Just a point.
I’ll buy usdjpy here.
Institutions are likely to buy it’

‘Gotcha!
I’ll follow u.
Tks.
Oops!
I’ve got a phonecall.
One second’

‘急ぎの電話の様だ’

‘I’m back.
Here’s a present for u.
There’s a rumor Italy will ask ECB to reduce their debt.
This is just a rumor, but may be useful.

Good Luck!
I’ll let u go’

‘Talk to u soon.
Bye now’.

「沖田、マイクへの連絡は終えた。

イタリアがECBに債務の減額を申請するという噂があるらしい。
メディア・ネタにはなるな。
ヘッドラインだけでも、ユーロ売りだ。

それはそれとして、ドル円を仕込むとするか。

まずはこっちで小刻みに150本を買い、ビッド気配を作っておく。
これで恐らく、30(109円30銭)以下に落ちづらくなると思う。

その後、100本をシングとこっちで分けて買う。

小野寺と一緒にすべてを1時間以内に終わらせてくれ」

「了解です」
沖田が小野寺を呼び、手配を始めた。

「野口、ユーロドル100本売りたいが、どこまで戻りそうだ?」

「1.20は無理かと思います。
1.1975辺りでしょうか・・・。

やはり、売りでしょうか?」

「だろうな。

どうもドイツをはじめ、ユーロ圏の景気動向が悪化しているのが気になる。
この状態では、ECBの正常化は儘ならないはずだ。

それに、ほぼ利上げと同じ意味を持つユーロ高はECBにとって好ましくない。
ユーロ安は外需増効果がある一方、正常化(緩和解除)の環境を整えるのに都合が良い。

何よりも、IMMの投機的ユーロの買い越しが相当残っているのが気になる。

ともかく、リーブを頼む。

お前が推薦する1.1975で100本の売りをuntil further noticeで出しておいてくれ。
ストップロスは不要だ」

「了解です」

 

一時間後、沖田からディールの結果が届いた。

沖田の分と合わせて250本、9円28銭(109円28銭)で仕上がった。

「沖田、利食いに充てる50本以外は、全部客のカバーで使っていいぞ」

「ありがとうございます」

ドル円が上がり始めたのはそれから30分後のことである。
大京をはじめとする大手生保や有象無象の客がドル買いに動き出したのだ。

沖田が隣で大口のフローを捌いているが、余裕でこなしている。
予め買っておいて分は客に全て持って行かれたが、それで良い。

インターバンク・ディーラーのこうした対応は、自らのカバー業務の助けになる一方、顧客にも良いプライスを提供できるというメリットもある。

そして、それが顧客のフローを増やし、コーポレート・デスクへ収益をもたらすのだ。

 

その日以降、ドル円は上がり続け、週末には11円08(111円08銭)まで跳ねた。

ユーロドルは1.1996まで戻した後、週後半に1.1750まで下落した。
50本を利食い、残りの50本はそのままキープした。

方向感を失ったドル円とは逆に、ユーロドルの方向は合っている。

‘このまま、根っこのポジションになればいいが・・・。

米中通商交渉が縺れるなか、そのトバッチリがドイツの対米黒字話に向かえば、米国サイドからのユーロ安牽制に繋がりかねない、それだけが気懸りだ’

 

ドルが上昇した今週、インターバンク・デスクも上手く乗り切り、コーポレート・デスクの収益も上出来だった。

まずまずの気分で迎えた週末の土曜日だが、少しだけ憂鬱なことを抱えている。

昨日、テレビ国際の中尾からメールが送られてきた。

‘俺のコメンテーターとしての評判は良く、視聴率が上昇していることに感謝している。

だが、コメントがいささかマーケット・オリエンティド(市場寄り)になっているため、修正してくれ’

という趣旨のことが書かれていた。

面倒なことは早く片付けておくのに越したことはない。
その日の内に、返事を書いて送った。

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中尾様

御趣旨は良く分かりました。

しかしながら、私は為替市場という現場で体を張っているディーラーであり、コメントがマーケット・オリエンティドになるのは当然かと考えています。

仮に私のコメントが番組の趣旨を曲げているとすれば、中尾様や貴局にご迷惑を掛けることになりかねません。

従って、差し障りのない、通り一遍の講釈を得意とする人物をあなたの横に座らせては如何でしょうか?

他の銀行や総研のアナリストなど、テレビに出演したい人間は山ほどいる様ですから、私の後釜にお困りになることはないでしょう。

来週の月曜日からという訳にはいかないでしょうから、今月最後の月曜日までは出演させて頂きます。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

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話がこのまま終わるハズがないことを承知の上で送ったメールである。

その日のうちに、中尾から電話があった。

「メールでの依頼の仕方が悪かった。
撤回したい」
というのが電話の趣旨だったが、最後に「詫びとして、近いうちに一席設けます」という言葉が付け加えられた。

‘本件、手仕舞いまでに時間がかかりそうだな’

憂鬱な気分を引き摺りながら、週末の一日が無下に過ぎて行く。

 

夕飯は神楽坂のイタリアン・レストランで済ませた。
その帰り道、国際金融新聞の木村から電話が入った。

「今晩は。
これからメールを打とうと思ってたところです」

「いや、話は相場の件じゃないんです。

例の番組、テレビ国際の若手局員によると月曜の視聴率が相当上がったそうで、それをお伝えしようと思いまして。

月曜の視聴率が上がったということは仙崎効果ですから、仙崎ファンの私としても嬉しい限りですよ」
本当に嬉しそうな声を出して言う。

「そうですか・・・。
それはそれで悪い話じゃないんですが、例の彼女にはあまり嬉しい話じゃないみたいですね」
昨日の経緯を話した。

「そんなことがあったんですか。

他の曜日も視聴率が上がったのであれば、彼女の実力や番組構成の成果ですが、月曜だけだとそうではないことになる。

それは彼女にとって都合の悪い出来事ですね」

‘先日若手局員が、
「これは今、視聴者から局に送られてきたメールの一部です。
中尾にも渡されているものですが、仙崎さんにお渡しすることは伏せてあります」と言っていた意味が少し分かってきた’

「結構、彼女も崖っぷちに立たされてる様ですね。

木村さん、暫く放っておきましょう。
仕事以外の悩み事は増やしたくないんで。

頂いた電話ですが、ついでに来週の相場の話をしておきます。

うちでも今週、結構資本が入ったのは事実です。
ただ、俄かロングがこの先も踏み止まれるかどうか?

10円台(110円台)の売りを飲み込みながら買ってるので、彼らも苦しいはずです。
12円を見る前に一旦落ちても不思議ではないですね。

予想レンジは108円65銭~111円90銭です」

「そうですか。
分かりました。
後は適当に埋めておきます。

それでは、失礼します」

‘視聴率か・・・。
キャスターって仕事も大変だな’

 

社宅に戻ると、冷蔵庫からハートランドのボトルを出し、栓を開けた。
グラスに注がず、ボトルのまま口に運んだ。
いつもより、少し苦い感じがした。

BGMはKeith の ‘Standard, Vol.2’。
どのトラックのタイトルも、岬を失いかけている今の俺には相応しくないが、Keithのピアノが軽快なのが良い。

In love in vain
Never let me go
If I should lose you

‘それにしても暗いタイトルが多いな・・・’
自然と苦笑いが漏れる。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。