月別アーカイブ: 2017年6月

第3回 「嫉み」

山下を労うために訪れた銀座のバー‘やま河’は
元米系銀行の人事部長だった女性が早期退職して出した店である。

下町生まれらしい彼女の気風の良さが好きで、
ニューヨークに渡る前から訪れていた店だ。

山下はシングルモルトのグレンリベットをテイスティング・グラスで
飲むのをすっかり気に入った様子だった。

次々とグラスを重ねる彼を見ているうちに、
自分もついつい飲み過ぎてしまった様である。

神楽坂の社宅に戻った後、ソファーで少しだけ休むつもりだったが、
いつしかそのまま眠ってしまった。

気付いたときは5時を過ぎていた。

帰りの車中で少しドルを買ってみようと考えていたが、もう遅い。

ニューヨークは金曜日の午後4時過ぎである。

週末のその時間、銀行もブローカーも市場への関心をなくし、
ディーリング・ルームではミニチュアのアメフト・ボールや
バスケット・ボールを投げ合っている頃だ。

そして5時になると皆、家族や恋人の元へと急ぐ。

このとき正に、世界中の為替ディーラーも束の間の休息を迎える。

それは俺や山下も同じだ。

何かやりたければ、月曜日のオセアニアまで待つしかない。

 

週が変わって月曜のオセアニアで多少ドルは売られたが、
10円80銭で止まった。

市場の中心が東京に移ると、ドルは寄り付き近辺でややビッド気配になった。

金曜の晩に山下から「来週はどうですかね?」と聞かれ、

「5月からのウェッジを上に放れたので、もう少しドルが上がる様な気がする。」

と返したものの、12円直前から垂れ込めている一目の雲や
フィボナッチ水準の11円60銭と12円25銭を一挙に潰せるとは思えなかった。

11円台は5月下旬に揉んだ水準でもある。

そうした水準では輸出などのヘッジャーが必ずドルを売ってくる。

だが、基本的に下降ウェッジの上放れは買いである。

酔い潰れて週末のニューヨークでドルを買いませなかったこともあり、
少し躊躇った後、20本だけ買うことにした。

「高ちゃん、今どんな感じ?」

パシフィック短資の高橋に聞く。

「少しビッドが出てきた感じです。」

「20本買ってくれ。」

「96です。カウンターパーティーはマディソン東京です。」

「了解。」

‘マディソンが売ったということはニューヨークのロングがまだ残っているのか。

とすれば、この先も東京で11円台後半は無理かも’

「浅沼。客はどんな様子だ?」

コポーレート・デスク(顧客担当デスク)のヘッドに客の動向を聞いた。

コーポレート・デスクの情報も重要である。

浅沼は報告のために自分の傍らまで来てくれた。

自分の席はインターバンク・デスクに置いているが、
コーポレート・デスクもオプション・デスクも自分の管轄下にある。

「朝から輸出筋は11円台後半から12円前半にリーブを置いてきています。

豊中自動車や日の出自動車も11円台後半からは売るみたですね。

メーカーはそんなところでしょうか。

機関投資家は今、様子見だと思います。

商社は、朝方に五井商事がうちで20本、他で20本買っています。

イギリスの総選挙後に売り続けていたポン円(ポンド円)も、
このところ大分買い戻したようです。

菱田物産も同じ様な動きです。

仙崎さんはさっき、ドルを少し買った様ですが、何か根拠は?」

「下降ウェッジを上に放れたこと以外は特に理由はないが、
80程度まではあると思っただけだ。

だめなら、適当なところで倍売るよ。

少し動いてきた様だな。

それじゃ、今日も頑張ってくれ!」

ディーリング・ルームに
‘マイン(mine、買い)、ユアーズ(yours、売り)’
の声が飛び交い出した。

そのタイミングを見計らって、話を終えた。

「了解しました。」

 

週初からドル買いが先行したが、やはり一目の雲の直下で止まってしまった。

火曜日に79を付けたものの、ドルは伸び悩んだ。

ムニューシン米財務長官の
「強いドルには不利な面もある。」
という発言に多少懸念を抱いて、45で50本を売っておいた。

20本は昨日買った20本の利食いに当てた。

残りの30本は8円90銭で作った30本のロングの利食いに当てても良いし、
10円80で下げ止まる様ならそこで利食っても良い。

根っこのポジションがあると、上手く回転が効く。

現在のポジションは
8円90銭のロング30本、
11円45銭のショート30本である。

先のことを考えると、この程度の本数で売買していては不十分だが、
焦っても上手くいかないのは分かっている。

ポジションを捌いているうちに帰国してからの腰の座らない感触が
薄らいできたのが分かる。

 

‘勝負はこれからだな’

週後半に入ると、ドルがじり安の展開となり、
束の間10円95銭へと下落した。

だが、不思議なことに11円割れで買いが入り直ぐに11円台に値を戻す。

手詰まり感が広まるなか、週末の東京は11円台前半で動意がなくなり、
午後3時過ぎになると顧客からの電話も完全に途絶えてしまった。

‘海外もこんな感じかな’と思いながら、
デスクの左手に見える皇居を眺めていると、横に人の気配を感じた。

目をやると、部長の田村が立っている。

「どうだ。少しは落ち着いたか?」

「そうですね。まだ家具も電化製品も買い揃えていないので、
まだまだでしょうか・・・」

立ちながら、答えた。

「でも、ディーリングの方は上手く行ってる様だな。

流石、世界の仙崎か。

随分と東城さんにも可愛がられている様だし、
この本部でのお前の将来は明るいってわけか。」

口元に小さな笑を浮かべているが、
銀縁の眼鏡の向こうには狡猾そうなキツネ目が光る。

文字通り薄気味の悪いやつだ。

東京国際銀行は2002年に住井銀行と日和銀行とが統合して出来た銀行である。

日和出身の田村は俺が住井出身の東城を慕っているのを快く思っていない。

統合後に入社した俺にとって、かつての出身行話はどうでもいいことだが、
依然として上層部にはそれを意識している雰囲気もある。

そしてそれが、下の連中も少なからず影響しているのだ。

「そう首尾よく事が運べば良いのですが。

今うちの状況が悪いのは部長もご存じのハズですが。」

と切り返した。

「俺はもう単なる事務屋だ。金稼ぎはお前等若い連中に任せるよ。」

「そうですか。もうポジションをお取りにならないんですか?」

「お前みたいに優秀なヤツがいちゃ、その気もならんよ。

まあ精々、頑張ってくれ。」

嫌味たっぷりの捨て台詞を言い残すと、踵を返して自席に戻って行った。

部長席には田村のデスクの他に、本部長用のデスクと秘書のデスクがある。

執務室のある東城はその席に着くことはめったにない。

そのため、外部からは田村がディーリング・ルームを仕切っている様に見えるが、
マネーデスクの管理と市場部門の事務責任を負っているに過ぎない。

かつて俺が多額のロスを出した時の外国為替課長が田村だった。

このデスクに異動した直後から頭角を現した俺に、
当時の部長であった東城が何かと目を掛けてくれた。

それを妬んだ田村と彼に組みした部下の二名がある日、俺に罠を仕掛け、
そしてその罠に見事に嵌ってしまった。

そんな振り返りたくもない過去が脳裏を過ったとき、

「課長、国際金融新聞の木村さんからお電話です。」

と部下の斉藤の声が聞こえ、頭を振った。

 

「お久ぶりですね。お元気ですか?」

「お帰りなさい。マーケットが閑散なときを見計らってお電話させて頂きました。

ご活躍のご様子で何よりです。

まだ私的にも公的にもお忙しいでしょうから、
また落ち着いたら夜の席を設けさせて頂きます。」

「ありがとうございます。」

「ところで、来週はどうです?」

「正直言って、少し迷いがあります。

まだ少しドルがビッドだと思うのですが、
11円の後半に行くと売りが出てくるので、
なかなか俄かロングは堪えきれない様ですね。

来週中に80(11円80)を抜けないと、
ドルが振り落とされる様な感じを持っています。

下の80(10円80銭)か上の80(11円80)が抜けると、
少し動意づくといったところでしょうか。

アメリカの5月個人所得・消費支出、
それに5月コアPCEデフレーターの市場予想は悪い様ですが、
注意しておいた方が良いと思います。」

「そうですか。予測レンジもお聞きしていいですか?」

「109円95銭、112円25銭と言ったところでしょうか。

25が抜けたら、12円90銭位はあるかも知れませんね。

その可能性は低いのですが・・・」

「どうもありがとうございます。

それでは近い中にお会いできるのを楽しみしています。」

新聞記者は疎ましいときもあるが、
常識のある記者は場の雰囲気を心得て電話を掛けてくる。

 

木村はそんな一人である。

それから2時間後の6時過ぎ、まだ居残る部下達に今週の労いの言葉をかけてから、
ディーリング・ルームを後にした。

外の空気を思いきり吸うと、人並みの気持ちが甦ってくる。

久々にジャズを聴きながら飲みたい気分である。

タクシーを拾うと、‘246沿いの青山3丁目の真ん中辺りで降ろしてください’
と運転手に告げた。目当ては‘Keith’である。

(つづく)

第2回 「業務命令」

月曜の朝、市場が一段落した後、東城の執務室に向かった。

先週末に帰国祝いの宴を設けてくれた銀座の寿司処‘下田’での約束事である。

ディーリングルームの南側に位置する部屋は市場の動きがつぶさに分かる様にガラス張りだが、
ミーティングのときはブラインドを下ろすのが彼の習慣だ。

ドアをノックし「どうぞ。」の声を待って部屋に入ると、
皇居の森を眺める後ろ姿があった。

東京国際銀行(IBT)本店は大手町交差点を日比谷方面に向かい
ツウーブロック目に位置し、国際金融本部はその14階にある。

1月に53歳になったという東城だが、背筋が伸び、
肩も落ちていない姿からは微塵もその歳が感じられない。

この人を見ていると、本当に自分が小さく見えてならない。

「金曜日はありがとうございました。

久しぶりに東城さんと落ち着いて話ができ、
やっと帰国した気分になれました。」

「そうか、それは良かった。

今週はFOMCが予定されているとあって、
市場は週初から静かだな。

利上げはほぼ確定的なのだろうが、
声明次第では多少のインパクトがあるんだろうな・・・」

「そうですね。直前にCPIの発表もあるので、
それまで様子見でしょうか。

もっとも、CPIの結果に関わらず、
FOMCは声明を変更しないと思います。

このところの経済指標がやや弱いと言っても、
基調としてそれが認められない限り、
今回の声明に‘年内の追加利上げと
バランスシートの縮小’を入れてくるのは間違いありません。」

「ということは、CPIの結果が悪く、俄かにドル売りとなっても、
追いかけるとショートカットの憂き目にあうということか。」

「そうですね。

CPIが予想外に悪く、結果的に8円台(108円台)が拾えれば、
少し買ってみたいと思います。

もっとも、長期の話になると別かと。

なかなかイールド・カーブがスティープニングしてこないので、
マネーの連中もアメリカの実体経済がそれほど強くないと踏んでいる様です。

このままFEDが正常化路線を継続すれば、
景気をオーバーキルしかねません。

ここ数カ月の個人消費や物価指数を見ても、
性急な正常化は無理筋かと思います。

最悪はドルの大きな下げにつながるかも知れません。」

「俺も、お前の見立てが正しいと思う。

ところで、先日言いかけた話だが、先進国の金利がこんな状態なので、
今期はマネー・デスクもこれまでのところ今一つだ。

お前の知ってのとおり、為替の収益も低空飛行が続いている。

昨年も市場部門はバジェット未達に終わっている。

お前には帰国早々で悪いが、9月期の未達は避けたい。どうだ?」

「東城さんがそう言うときは、命令ですよね。」

「お前とは話が早く済んで助かるよ。」

「リミット(限度額)は任せて頂けますか?」

「必要とあれば、自分で判断しろ。

リミット・オーバーは事後報告で良い。後は俺が責任を持つ。

ところで、明日ロンドン支店に行くことになった。

うちがEU内の営業認可をロンドンで取得しているのはお前も知っての通りだ。

ブレグジットが縺れそうな気配なので、
念のために新たな認可拠点を設けておく必要がある。

そのための会議に出席する。俺はフランクで行こうと思うが、お前はどう思う?」

フランクとはドイツの金融の中心都市、フランクフルトのことである。

出張で幾度か行ったことがあるが、
地味でまったく色気のない街という印象だけが頭に残っている。

「あそこにECBの本部がある以上、この先何かと都合が良いかと。」

「分かった。後は頼んだぞ。」という東城の言葉を最後に、
ミーティングは終わった。

 

FOMCの2日目が終了する現地水曜日の朝8時半、
5月のCPIとリテール・セールスが発表される。

東京時間では午後9時半だ。

時刻丁度になったとき、モニターにヘッドラインが走った。

「出ました。」

居残りを頼んでおいた山下の声が広いディーリングルームに響き渡った。

「両方とも悪い数字だな。少し待とう。」

「はい。長期金利も下がっています。」

10円台から急落したドルは30(9円30銭)辺りで下げ止まったが、
11時を過ぎた頃に再び売り気配となり、
やがて12(9円12銭)がギブン(given)*した。

「先週の安値だから、ここはロスカットが出るな。

ニューヨークの沖田を呼んで9円割れで30本*買う様に伝えてくれ。」

尋常でない速度で山下の指がキーボードを叩いた。

「98で20本、97で10本ダン(done、成立)です。」

「そうか。ストップロス・オーダーは全額、8円13銭ギブンで入れておいてくれ。

アカウントの処理は、98の20本が俺の分、97の10本はお前の分で頼む。」

108円13銭は4月17日に付けた中期の重要水準である。

ストップを入れざるを得ない水準だ。

「了解です。」

「とりあえず、下げ止まった様だな。」

「はい。9円台に戻しました。」

「どうしますか。この後。」

もう日付が変わっていた。

「少し疲れたので、今日はこのまま神楽坂に戻るよ。

まだ水曜だし、お前も帰った方が良い。

悪いけど、一応FOMCの後に沖田に連絡を入れてみてくれないか。

声明後に8円台がある様だったら、後30本買っておいてくれ」

「買えたら、リーブはどうしますか?」

「ストップだけ、前のやつと同じレベルで頼む。

利食いは前の20本を9円の80で、後の30本は放って置いてくれ。

お前の10本は自分で処理しろ。今日は急に居残らせて悪かったな。

この埋め合わせは、近いうちにするよ。それじゃ、お先に。」

「お疲れ様でした。」

 

社宅は神楽坂にある。

その方向を考えて日比谷通りを反対側に渡り、タクシーを拾った。

「神楽坂へお願いします。牛込北の交差点近辺で降ろしてください。」

と運転手に告げると、目を瞑った。

疲れのせいか、少し走り出したところで眠ってしまった様である。

「お客さん、着きましたよ。」という運転手の声で起こされ、時計に目をやると、

針は1時を指していた。

何処にも寄らないことにした。

交差点から程ない場所にある社宅に着くと直ぐにシャワーを浴び、
ビールとトーストで腹を満たし終え、そのままベッドに倒れ込んだ。

 

翌朝7時半にディーリングルームに入ると、
部下全員が自分のすべき仕事を進めていた。

ディラーの朝は早い。

「山下、昨晩はありがとう。」

「いいえ。追加の30本、90で出来ています。

それと、20本の利食いもダンです。」

「そうか。まずまずだな。お前の分はどうした?」

「9円の80で利食ってしまいました。」

「利食い千人力だからな。

でも、少し買っておくと良いかもな。今いくらだ?」

「40アラウンド(around)です。」

「20本買ってくれ。」

「40でダンです。」

「そのままキープでしておいてくれ。

これでトータル50本のロングだったな?」

「はい。」

「ところで、今日はこれから、MOF、BOJ、
それと重要顧客のところに挨拶回りに出かける。

終日かかると思うので直帰するが、何かあったら電話をくれ。」

ドル円はその日のニューヨークで110円98銭を付けたが、利食うのを止めた。

普通なら、80辺りで利食っておきたかったが、
東城からの命令を思うと、堪えるしかなかった。

金曜の晩、一昨日の罪滅ぼしで山下を銀座に誘った。

といっても、すずらん通りにあるカウンター・バーである。

「ニューヨークの沖田はもうオフィスにいる頃だな。

少しドル円の様子を聞いてくれないか。」

「11円の40を付けた後、少し上値が重たいそうです。」

スマートフォンを塞ぎながら言う。

「20本、売ってくれ。」

沖田の声が小さく聞こえる。

「25でダンです。」

「ありがとう。週末のポジション調整で、
ニューヨークはもう少し売ってくるハズだ。

稼がなければならないが、念のため、少しギアを落とすことにする。」

「来週はどうでしょうか? 了さん」

「5月からのウェッジを上に放れたので、もう少しドルが上がる様な気がする。

でも、一目の雲が12円手前にあり、フィボナッチも11円の60と12円の25にある。

根っこのロングがあるから、とりあえず週初は様子見かな。

それにしてもラフロイグは旨いな。」

「えっ、薬臭くないんですか。

僕はグレンリベットの方がフルーティーで好きですが。」

「そうか。でも、そのシングルモルトは水割りやロックで飲むもんじゃない。

テイスティング・グラスで飲むと、香が立ってもっと旨いぞ。

ママ、こいつにテイスティング・グラスで同じものをやってくれ。

それにママも、何かどうぞ。」

今日はとことん飲むことにした。


1)given:ある値で売りになった(売られた)ことを言う
2)本:1本は100万ドルを指す

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第1回 「帰国祝い」

国際金融本部外国為替課長として帰任してから
2週間が過ぎた6月9日の午後3時過ぎ、
東城から電話が入った。

「どうだ、ポンドは?」

いつもなら「市場はどうだ?」が東城からの電話の第一声だが、
英総選挙で与党保守党が過半数の議席を確保できなかった後だけに、
ポンドの様子が気になったのだろう。

「少し下げ止まった感じで、
 主要通貨に対してややビッド気味でしょうか。

 窓を開けてから売り始めた連中のコストは悪いので、
 ショートカバーでしょうね。」

「そうか。ドル円も少しビッドの様だが、どうだ?」

「ショートカバーでもう少し戻しそうですが、
 先週から11円(111円)台で上値が重たくなっていましたから、
 ニューヨークでもその手前の80~90辺りが一杯じゃないでしょうか。
 
 週末のにわかロングの落としもあるので、
 引けは10円の前半だと思います。
 
 13~14日のFOMCでの利上げは相当に織り込まれているので、
 利上げ決定でも大きなドル買いの
 インセンティヴにはならないと思いますが、
 ドットチャートの読み方次第では多少の上下はあるかもしれません。
 
 ただ、最近の物価関連指標の動向が思わしくないのが気に懸ります。
 そのため、FED内部でもハト派色が強まっている感もあって、
 年後半であと2回の追加利上げは難しいかもしれません。
 
 それに最近、米金利引き上げはドルの下支えにはなっていますが、
 押し上げ効果は薄れているのも事実です。」

「そうか。いずれにしても足下のドルの上値は重いということだな。
 
 ところで、今晩は大丈夫か?
 まだ帰国直後で何かと忙しければ、日を改めても構わない。
 
 ただ、話をしておきたいこともあるので、できれば早い方が良い。」

「いえ、問題ありません。どうせ、社宅に戻るだけですから。」

「一人ものは気楽ってわけだな。何か食いたいものはあるか?」

「下田でも良いですか?
 
 自分のカネではあそこの寿司は食えませんので。」

下田は銀座6丁目にある寿司処である。

カウンター6席と小上がり2卓の小さな構えだが、
寿司が旨いのと店主の客あしらいの良さが気に入っている。

場所が場所だけに決して安くはないが、
帰国祝いだから許されるかと決め込んだ。

「分かった。7時に予約を入れておく。
 
 それじゃ、直接現地で会うことにしよう。」

下田には7時5分前に着いた。

「お帰り、了さん。少し痩せたかい。嫁さんは?」

暖簾をくぐるや否や、店主が少ししゃがれた声を浴びせてきた。

この店に来るのは、昨年の夏に出張してきたとき以来である。

「痩せもしないし、嫁もまだだ。」と少し投げやりに返した。

最近では皆、俺に会うたびに結婚を話題にする。

38歳にもなって適齢期もないもんだが、
自分でも若干の焦りがあるだけに、
あまりしたくはない話だ。

「了さんは背も高いし、見てくれも良い。
 
 それにエリート銀行マンとあっちゃ、モテ過ぎて仕方がない。
 
 だから選択に困るんだろうけど、そろそろ潮時じゃないの。」

「その話はもういいよ、大将。
 
 それより、喉が渇いた。ビールを頼むよ。」

「はいよ。」と言って、
弟子に一番搾りの中ビンを運ぶように指示した。

手酌でビールをグラスに注ぎかけたとき、東城が現れた。

互いのグラスにビールを注ぎ終えたところで、
東城が宴の口火を切った。

「長い間、ご苦労だったな。
 
 席を設けるのが遅くなったが、
 
 お前が少し落ち着いてからと思っていた。
 
 どうだ、久々の東京は?」

「そうですね。東京は銀行の内外共に窮屈ですね。
 
 東京の街は僕にとっては、
 何の魅力もないところに変貌してしまいました。
 
 行内は東城さんからお聞きしていた通り、
 少し人材不足の感があると考えています。
 
 調整して宜しいでしょうか?」

「お前の部署だ。お前のやりやすい様に調整しろ。
 
 東京の街はお前の云う通り、
 金太郎飴の様なモールや震災も恐れない高層ビルの乱立など、
 どうしょうもないな。」

そんな話の後は、旨い寿司と酒を堪能しながら、
ニューヨーク時代の話で盛り上がった。

かつて東城もニューヨークを経験していたため、
現地に関する会話もスムーズで楽しかった。

2時間も話が進んだ頃だろうか、

「本当にお2人は仲がよろしいですね。」

という店主の声で2人の会話は中断した。

その合間に店主が酒の瓶をカウンターに置いた。

酒好きなら垂涎の銘酒、“獺祭 磨き その先へ”だった。

「了さんが戻られたときの祝いにと、手に入れておいた酒です。
 
 ‘いかに困難が予想されても、
 いかに現在が心地良くても、
 この先へ、我に安住の地なし’
 
 が、この酒を仕込んだときの蔵元の心意気だそうです。
 
 了さんにピッタリの酒です。
 
 了さんが留守の間、
 東城さんからはあなたのニューヨークでの活躍ぶりを
 耳にタコができるほど聞かされてきました。
 
 登れるところまで登ってください。
 
 世界経済だの、外国為替だのことは良く分かりませんが、
 この寿司職人も応援していることを忘れないでください。」

涙腺が緩まずにはいられなかった。

「了。仕事の話は来週オフィスでしよう。
 
 今日はおやじと3人でそいつを飲もう。」

黙って頷いた。

(つづく)

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

はじめに

この物語は外国為替相場と同時進行で描く、
ひとりの為替ディーラーの奮戦記である。

業績回復、行内の派閥争い、
そして顧客企業との揉め事など、
次々と難題が主人公・仙崎了に降り懸かる。

烈々と動く市場の中で、
如何に難題向き合って行くのか。

彼の相場予測を交えながら、
物語は展開していく。

注:
物語が外国為替市場を取り扱う関係上、
FRBなどの公的機関やそこに帰属する要人など、
実在する機関や人物が登場することがある。

ただ、そうした機関に帰属しながらも、
単に主人公と個人的に親交のある人物はその限りでない。

また、仮に物語に記された私的企業名や人物名が実在する場合があったとしても、
それは単なる偶然に過ぎない。

**前振り**
メジャー・バンク一つである東京国際銀行の為替ディーラー仙崎了は7年半前の11月、
大手生命保険会社とのディールで一億円の損失を出してしまった。

それ以来、
不調の波に襲われ出した彼はいつしかカバー以外のディールに手を出さなくなっていく。

そんな彼を救ったのが部長の東城だった。

東城は彼にニューヨーク支店の転勤と、
支店在籍のままコロンビア大学MBAへの留学を命じる。

「お前は一流のディーラーになれる資質を持っている。

ここで、お前を潰すわけにはいかない。

この3年間の功績に対する褒美だと思って、あっちで少し勉強してこい。

きっと将来、お前自身と我行の役に立つ。」と励ました。

東城の自分への深い気遣いに、
仙崎は「はい。」と応えるのがやっとだった。

コロンビア大学でMBAを取得し終えた仙崎に、
ニューヨーク支店トレジャリー部門外国為替課マネージャーのポジションが与えられた。

支店在勤中の彼の業績は目覚ましく、
その名は世界中に知れ渡るほどになっていた。

そうしたなか、
国際金融本部長兼執行役員に上っていた東城から帰国命令が下った。

「お前のお蔭で、支店の収益も安定してきたようだな。

そこを卒業して、こっちに戻ってこい。

外国為替課をお前に任せる。」

「了解しました。」と返しながら、
姿の見えない東城に頭を深々と下げた。

2017年5月のことである。

↓ ↓ ↓

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登場人物

■主な登場人物

主人公 : 仙崎 了 東京国際銀行(IBT)国際金融本部外国為替課長

東城 : 東京国際銀行(IBT)国際金融本部・本部長長兼執行役員、仙崎が尊敬する上司。かつて仙崎が窮地に立たされたとき、彼を救う。

山下 : インターバンク・チーフディーラー、仙崎を慕う部下→NYへ転勤。

浅沼 :コーポレート・デスクのヘッド

沖田 : ニューヨーク支店課長(元の仙崎の直属の部下)→山下と交代で本店へ転勤。

現在は仙崎の右腕に。

田村 : 国際金融本部部長、元日和出身で、東城や仙崎を憎む。

野口 : シニアディーラー、ユーロ等欧州通貨担当

浅野 : シニアディーラー、アジア・オセアニア通貨担当

小野寺 : IBT証券外債部から外国為替部に転属、若手のホープ

岬(みさき) : 旧姓中谷、仙崎の元恋人。財務官僚(坂本)と結婚するも離婚。
松本にある母が営むクラフト店の将来を考えて、ニューヨーク近代美術館(MOMA)に勉強を兼ねて働く。
マイク(マイケル)・フィッツジェラルド : コロンビア大MBA時代の友人。
ヘッジファンド‘パシフィック・フェローズ’のCEO、仙崎をサポートする。

武村 : 五井商事の外国為替課長、ディーラーとして優れているが、市場では訝られている。

木村 : 国際金融新聞記者

嶺 : 市場部門担当常務

山根美佐子 : バックオフィスの部長

吉住 : 財務省国際金融局外国為替市場課、仙崎が大学時代に所属した同好会の後輩

山上 : 財務省国際金融局外国為替市場課課長

竹中 : 財務省国際金融局長

坂本 : 主計局特別税制課、岬の元夫

阿久津志保 : 仙崎のNY時代の恋人。ヘッジファンド‘パシフィック・フェローズ’に勤務。

仙崎の本店転勤で関係が薄れるが、再び距離が縮まりつつある。実の父は民自党元幹事長。

徳田 : IBT大阪支店長

大河内 : IBT資金課長、田村の子飼い

中尾紗江 : TV国際のキャスター

中窪 : IBT頭取(日和出身)

島 : 人事担当役員、東城と同期入行。

横尾 : ニューヨーク支店トレジャラー、ジュネーブ支店から転勤し、山下の上司となる。
仙崎を敵対視しているため、山下にハラスメントを行う。