第4回 「人事」

月曜のシドニー時間に多少オファーになったドルだが、
東京に入るとビッドづいてきた。

やはり5月からの下降ウェッジを上放れたのが効いている。

この流れで、
直近最高値の111円79を抜いて行く様であれば多少相場が動意づく。

「フィボナッチ水準の112円25銭*を潰せば、112円90銭近辺までありそうだ。」

先週金曜日に国際金融新聞の木村に今週の相場予測を聞かれてそう答えたが、
‘今日の朝方の気配からすると、予測通りになるかもしれない’、
そんな考えが頭を過った。

だが、実際にはドル買いが湧いてこなかった。

市場全体が動意薄となってしまったのだ。

 

場が暇なのを見計らって、東城から任されていた人事を練ることにした。

東城は前任の外国為替課長の川原を関西支店の法人営業部に、
チーフディーラーの大竹をパリ支店の資金・為替部門へ転勤させていた。

帰国後はお前の好きにやれという東城の計らいだろうが、
手薄となった分は自分でカバーしなければならない。

市場が忙しくなると自分もディーリング・ボードに張り付くが、
これも早晩限界がくる。

場が荒れるときは顧客や国内外インターバンクのフローの他に、
支店からのフローも殺到する。

現在自分を含めてインターバンク・デスクは10名体制で回しているが、
手一杯の状態だ。

管理職となった今、必然的に会議も増えているため離席することも多い。

早急に一人を補充する必要があった。

「山下、少し早いが社食に行こう。この分だと場は静かだろう。」

「はい。」

人事の話と悟ったのか、山下が少し声を強張らせた。

「野口、浅野、大口のフローはお前等二人で責任を持ってカバーしておけ。

俺と山下は社食にいる。頼んだぞ。」

「了解しました。」

野口と浅野がほぼ同時に答えたが、二人共声が上ずっていた。

上の二人が居なくなることで不安を覚えたのがよく分かる。

こうして若手ディーラーは皆、不安と恐怖を感じながら一歩ずつ
成長していくのである。

野口はユーロやその他欧州通貨、そして浅野はアジア・オアセアニ通貨を
担当しているが、日頃からドル円を担当する山下のフォローも
しっかりとこなしている。

任せても問題はない。

また万が一失敗しても、その責任は俺がとればいいだけのことだ。

 

13階にある社食は朝7時半から開いているが、昼食は11時からである。

ディーラー連中はデスクで弁当をとることが多く、あまりここは利用しない。

普段なら眺望の良い日比谷通りに面している窓際の席は一杯だが、
少し早めに来たせいもあって空いている。

人事の話をするには好都合だ。

「あそこにしよう。」と言いながら、
両手で抱えた焼き魚定食のトレーを席の方に向けた。

生姜焼き定食を選択した山下が、
「めずらしく特等席ゲットですね。」と少し嬉しそうに言う。

席に座ると直ぐに、本題を切り出した。

「さっそくだが、明日からお前がチーフをやってくれ。

もうお前なら問題ない。

俺は9月期を乗り切るためにプロップ(ポジション・テイキング)に専念する。いいな。」

激励の意味を込めて、力強く確認の言葉を付け加えた。

「はい。喜んでお引き受けします。でも仙崎さんも大変ですね。」

「いや、所詮ポジションの大きさが変わるだけだ。

もっとも、夜なべは増えるだろうな。

それに言っておくけど、
お前もそれに付き合うことが多くなるってことは分かっているよな。」

「はい、でも精々離婚されない程度にしてくださいね。」

少し大きな二人の笑声が混み始めた食堂に響き渡った。

「ところで直ぐにでも、一人補充したい。誰かいないか?

ただ、あっちの息のかかったのは拙い。」あっちとは日和銀行のことである。

「そうですね。それでしたらIBT証券外債部の小野寺が良いかと。

年次は2年下ですが、なかなか考え方もしっかりしているし、
うちに向いていると思います。

確か部長は住井出身ですし、横槍が入ることはないでしょう。

それに何よりもあいつは仙崎ファンですから、きっと本人も快諾しますよ。」

「そうか。分かった。明後日東城さんが長旅から戻ってくるから、
さっそく話してみるよ。

それとお前の件だが、来春にニューヨーク転勤ということで良いか?」

「本当ですか。ニューヨーク大好き人間の家内もきっと喜びますよ。」

声を弾ませていう。

「そうだな。良いところだよ。特に郊外が良い。

頃合いを見て東城さんに話しておくが、それまでは誰にも話するなよ。

悪いが、奥さんにもだ。」

 

社食を後にした二人はまるで何もなかった様に、ディーリング・ルームに戻った。

「それじゃ、明日から宜しくな。」と言って、
自分のデスクに戻ると目先の戦略を練った。

暫くして、
USDJPY
Buy 50 mio(本)at 11円80銭), Buy 50 mio at 12円25銭. If all done, sell
50 mio at 12円90銭)。
EURJPY
Buy 30 mio at 25円85銭(125円85銭). If done, sell 30mio at 128.00.
と書いたオーダー用紙を山下に渡した。

「山下、悪いけど後でこのリーブ、俺がオフするまで回し続けておいてくれ。

買いはすべてall taken next*で頼む。

勝負処だから、ストップは入れないが、
ドル円は朝方のシドニーで付けた1円13(111円13銭)、
ユーロ円は25円(125円)を割り込む様であれば、
電話連絡だけする様に手配を頼む。

週末のデフレーターの予測が悪いので、
にわかロングは必ず投げてくる。

ドル円はそこでもう一度買ってみよう。」

「了解です。」

 

結局、週前半で利食い以外のリーブはすべて付いた。

11円80銭の買い50本のうち、30本は11円45銭のストップロスに回した。

これで現在のポジションは、ドル円は108円90銭で30本のロング、
111円80銭で20本のロング、112円25銭で50本のロング、
そしてユーロ円は125円85銭で30本のロングとなった。

 

水曜日の午後3時過ぎに、東城の執務室に呼ばれた。

「お疲れ様でした。ロンドンの後、フランクフルト、シカゴ、
そしてニューヨークへ行かれたと聞いておりましたが、
随分と強行軍でしたね。」

「まあ、世界の市場部門の実質的責任者なのでたまには仕方がない。

例のEUの業務認可はフランクで決まる方針だ。

ハードブレグジットとなれば、法人営業もロンドンのままでは拙いだろうしな。

ところで、少しは調子が出て来たか?」

「収益はまずまずですが、その件で人事を少し動かしたいと考えています。」

「そうか。それでどうするつもりだ。」

一昨日山下と話し合って決めたことをそのまま伝えた。

「了解した。山下のチーフ昇格は常務に伝えた後、人事に報告しておく。

証券の小野寺君の件も、債券部長の倉本とは親しい仲だから多分大丈夫だ。

出来るだけ早く着任する様に手配する。」

「恐縮です。」

「ところで、市場はどうだ?」

「概ね金利相場というか、利上げ期待相場といった感じです。

ECBのテーパリングは直ぐに実行には移せないでしょうが、
市場は期待が先行するため、当分はユーロ買いが優勢となるでしょうか。

ただ、ユーロ圏要人のユーロ高牽制には気を付けたいところです。

BOEの引締めは、ブレグジットの結果としてのポンド安で
一年前と比べて大幅にCPIが上昇しているため、
止むを得ずの政策と言えます。

ブレグジットの経過も考慮すると、ポンド買いは控えた方が無難かと。

FEDはvoting member9人のうち6人が年内利上げ支持派(中立派)、
残り3人がハト派です。

夏休み前のjobless dataとインフレ指標次第で9月利上げ説も浮上しそうですが、
このところの実体経済を見る限りでは12月の可能性の方が高いと思います。

このままイールドがスティープニングしてこなければ、
中立派の2人がハト派に転じる可能性も排除できません。

その場合は年内の追加利上げなしということになります。」

「分かった。それより、社宅の方は落ち着いたのか?」

「いえ、まったく。母親と姉が生活必需品は用意してくれたのですが、
自分の居所とは呼べる状態ではないですね。」

「それは拙いな。物事は基盤が重要だ。

明日から休暇をやるから、日曜日までの4日間で何とか部屋らしくしておけ。

これは業務命令だ。

現在のポジションはリーブで凌いで、来週からまた心機一転頑張ってくれ。」

「了解しました。ありがとうございます。

それでは本部長も出張の疲れを癒してください。失礼します。」

と言い残してその場を辞した。

 

席に戻るなり、東城との会話を山下にそのまま伝えた。

「山下、東城さんは先日話した通りで動いてくれるそうだ。

お前のチーフ昇格の件は今日、常務の承認を経て人事に届く。

小野寺君の件も問題ないと思う。

ところで悪いけど、東城さんの命令で俺は明日と明後日、休暇をとることにした。

少しねぐらを整えておけとのことだ。

そこでリーブだが、12円85銭で50本は売ってくれ。

それがdoneしたら、11円85銭で50本の買いを入れて置いてくれないか。

ユーロ円の利食いは128円のままで良い。

今週残りの二日間の相場を見てみないと分からないが、
ドル円は年初来の抵抗線が抜ける様なら、
13円80銭位があっても不自然ではない。

ただ、如何せん108.81からの上昇が速過ぎるので、
そろそろドル買いに過熱感がでそうな気がする。

下は111円前半まで落ちる様だと、そこからの反発は難しくなるので、
下値を試す展開もあり得る。

ユーロはこの先、ユーロ高牽制発言が入る可能性も排除しない方が良いと思う。
それじゃ、留守の間の二日は頼む。」

「任せておいてください。

ところで仙崎さんに言うか言うまいか、迷っていたことがあります。

でも家内と話をしていて、やはり話す方が良いとの結論に至りました。

岬君のことですが、どうも結婚後、ハッピーではないらしく
今は実家のある松本に戻っているそうです。

来週また飲みに行ったときにでも詳しくお話し致します。」

「そうか、分かった。話してくれてありがとう。それじゃ、来週。」

岬はニューヨークに転勤する前の半年ほど、付き合っていた行内の女性である。

俺が多額の損失を出した頃から少しずつ、会うのも間遠になっていた。

(つづく)


*5月10日高値114円38銭と6月14日安値108円81銭との61.8% retracement
*売り物がすべてこなれた状態

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。