週初16日、ドル円相場は111円90前後で始まった。
仲値にかけてドルが買われる展開となったが、12円08止まりで買いが続かない。
どこかでもう一度ドルが売られそうな気配がある。
だが、その後も積極的なドル売りは見られず、ややじり安の展開で東京は終わろうとしていた。
そんな中、欧州市場に入りかけた頃、ドルがグラッときた。
東京での上値の重たい展開を見て、ドル売りが出たのだ。
それでも、安値は11円65止まりと、期待してたほどドルが落ちない。
「山下、先週末の71(12円71銭)のショート50本、どうも根っこのポジションにはなりそうにないな。
この辺で30本だけ買い戻すけど、お前はどうする?」
「はい、ここら辺りが良いところですかね。
僕も一緒に買い戻します」
山下が素早くEBS(電子ブローキング・システム)のキーを叩き出した。
「82です」
「了解。
残りの20本は11円11と12円丁度のOCO*でリーブを入れてくれ。
5時過ぎに東城さんに呼ばれているので、後はよろしく頼む」
東城の執務室のドアをノックすると、
「おう、入れ」という声が聞こえた。
いつもの落ち着いた声である。
ドアを開けると、皇居の森と対峙するかの様に立つ、凛とした東城の後ろ姿が目に入った。
「雨で良く見えませんね」
皇居の森はその輪郭だけがぼんやりと見える程度である。
こんな情景も時に悪くはないが、この頃の自分の気持ちには相応しくない。
半期末は何とか乗り切ったものの、下期に入ってから顧客との問題や内部の事務処理で稼ぎの方が進んでいないことが気に懸っている。
「そうだな、少し鬱陶しい天気だな。
どうだ、市場は?」
「ドルが落ちそうで落ちませんね。
先週末に2円後半で売ってみたのですが、根っこのポジションにはなりそうもないので、手仕舞うことにしました。
シカゴ(IMM)が強気に円ショート(ドルロング)を膨らましているのも気懸りで、まだ(ドルが)上に伸び切っていないのかもしれません。
ところで、お話しがおありとか?」
「その件だが、大学時代の友人がテレビ国際の役員をやってるのは、以前話したことがあったな。
彼のところの経済番組・ワールドファイナンスに週一でレギュラー出演してくれないかという依頼があった。
むろん、お前への話だ。
NYCBTの経済番組にお前が出演していたのを見ていて、帰国後に出演を依頼しようと思っていたと言ってる。
一度親会社の国際金融新聞の木村君経由で依頼したが、お前ににべもなく断られたと言って笑ってたよ。
でも、俺に義理立てする必要はないぞ。
お前が決めれば良い。
どうする?」
「そうですね。
僕はエコノミストやストラテジストと違って、ただ喋ったり書いたりして給料を貰っているわけではありません。
市場で稼がなければならない人間です。
それに時間もないので、今は二束の草鞋は無理かと・・・。
ただ、東城さんのご友人の依頼とあっては、素気無く断るのも拙いですよね。
とりあえずは、通年の収益見通しが付いてからとお答えしておいてください。
多分、来年以降の話ですが」
「そうか、お前らしい答えだな。
少しは俺の顔も立つってとこか」
その顔に少し微笑みが浮かんでいる。
‘やはり、無下に断らずに良かった’
「それは何よりです。
でも、うちは出演料や原稿料を当人が受け取れない規則ですから、出演料は東城さんの奢りで‘下田’の寿司ということで宜しいでしょうか?」
「こいつ、調子づくなよ。
お前は独身だから自由に給料を使えるけど、俺は家内から小遣いを貰ってる身だ」
と言いながらも、顔は嬉しそうである。
「世の中、Pay it Forward ですから。
僕も大食いや酒豪の部下を抱えているので」と笑いながら言い、部屋を辞した。
Pay it Forward とは、ある人から受けた恩(善意)を他の人に渡していくことを言う。
ドル円はその日のニューヨークで12円台に上った。
12円71の20本ショートの利食いが上で付いてしまったということだ。
ドルが少し跳ねそうな気がする。
その日の夜中、ニューヨークの沖田に電話を入れてみた。
「どうだ?」
「ドル円は目先、12円を割りそうもないですね。
何かしますか?」
「ユーロドルを少し売りたいが、18台(1.18台)はありそうか?」
「少しショート気味なので、可能性はありますが、もう少し先でしょうか・・・。
カタルーニャの件で、まだ下があると思ってる連中が結構多い様です」
「分かった。
それじゃ、1.1850で50本、until further noticeでリーブを頼む。
それと、お前の転勤の件だが、来月には内示が出ると思う」
「ありがとうございます。
家内も喜ぶかと・・・。
それでは失礼します」
その後、ドル円は11円台を見ることもなく、週末には13円56銭まで跳ねた。
ユーロドルは木曜から週末にかけて、1.18半ばで時間足のトリプルトップを付けてから1.1763まで反落した。
世間が衆院選で喧しい週末、興味はヤンキースのリーグ・チャンピオンシップにあった。
選挙当日、3勝-3敗のタイで迎えたアスレティックスとの第7戦目が行われ、ヤンキースは0-4で負けた。
2009年以来のWS(ワールドシリーズ)への出場を逃してしまったのだ。
呆然とする田中将大の顔がTVの画面にアップで映る。
為替の世界では幾度も勝負できるが、メジャーリーガーがWSで戦える機会はそう簡単には訪れてくれない。
ふと外を見ると、雨が小降りになった感じがする。
神楽坂のイタリアン・レストランで、一人ヤンキース敗退残念会を開くことに決めた。
坂上から坂下に向かって左側二つ目の路地を曲がったところにある‘カターニア’のカウンター席に座ると、辛口の白ワインとポルチーニのクリーム・パスタを注文した。
冷えた白ワインをビールの様に飲み干すと、ヤンキース敗退で沈んだ気持ちが少し癒された感じがする。
雨のせいか、いつもなら混み合う日曜のこの時間、客もそれ程多くない。
それでも、日曜の午後を楽しむカップルがそこそこいる。
二杯目の白ワインを飲みながら、語らいあうカップル達を見ていると、岬のことがたまらなく懐かしく思えてきた。
‘社宅に帰ったら、電話をしてみよう’
(つづく)
注
*OCO: One side done then Cancel the Other order (One Cancel Other)
‘二つのオーダーを同時に出し、一つがdone になったら、他のオーダーはcancelする’リーブオーダーの出し方
この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。