前の週から急速に悪化したドルの地合いは今週になっても回復しなかった。
週初(15日)に日銀が公表した‘さくらレポート(地域経済報告)’で三地域が景気判断を引き上げたことで、「日銀が2018年の経済見通しで強気を報告をする」との観測が円高の背中を押した。
テーパリングではFEDに周回遅れとなっている黒田日銀には焦りがある。
それだけに、市場は日銀サイドからの正常化プロセスに向けての示唆を気にしているのだ。
そんな中、市場がややドル円売りに前掛かりなのが気にかかる。
水曜日(17日)の東京は、早朝からドル売り一色の状態である。
前日のニューヨークで「ECBが金融政策の正常化を進める(ユーロ買い・ドル売り材料)」との観測が強まり、それが東京にも伝播したのだ。
早朝から顧客のフローも結構多い。
110円台前半で揉み合うなか、大手生保の一社が100本売ってきた。
「あっ!」
山下が声を上げる。
彼が滑ったときに挙げる声である。
彼のサポートに入った二人のジュニアも
同じ様な声を発した。
「何本滑った?」
少し大きめの声で聞いた。
「全部で70本です」
山下が返す。
「プライスは42(110円42銭)。
今、30given(30銭で売り)アラウンドか。
山下、ここは焦らなくていい、そのまま放っておけ!
ここからはもうドルは落ちない。直ぐにコストよりも上でカバーできる」
月曜・火曜と、110円台前半でドルを売って攻め切れなかった。
それに心理的節目の110円、そしてフィボナッチ水準*の110円15銭がドルのサポートとして効いている。
「了解です。
少し様子を見ます」
そう言われて、山下は少し落ち着きを取り戻した様である。
25がgivenしたところで、ドルを買う決意をした。
「山下はこっちで50本、
野口はシング(シンガポール)で50本、買ってくれ」
これで少しショートカットを誘える。
一旦、19(110円19銭)を付けたが、それから相場は反転し始めた。
ショートの踏み上げである。
昼には70(110円70銭)までドルが値を戻していた。
そんな状況を見て、
「山下、さっきのお前の70本、売り時だな。
もう、良い頃だ。
始末しておけ。
俺は東城さんに呼ばれてる。
部屋に行ってくるので、さっきの買い100本の利食いオーダーを入れておいてくれ。
80(110円80銭)で50本、25(111円25銭)で50本。
付かなければ、海外回しで良い。
今週はもう110円割れはないから、ストップは不要だ」
「了解です。
70本の滑り、お蔭様で助かりました。
ありがとうございます」
礼を言う声に張りが戻り、顔も嬉しそうである。
「仙崎です。
宜しいでしょうか?」
「おう、入れ」
相変わらずの渋い声が迎え入れた。
「失礼します」
「大分ドルが売られてる様だが?」
ソファーに座ると、普段通り相場の話で会話が始まった。
「そうですね。
でも、ここは一息入る水準かと・・・」
「この先は?」
「今週は戻して11円台前半でしょうか。
まだ下の決着は付いてない感じがします」
「そうか、分かった。
ところで、例の堂島の件、大阪支店長の徳田さんから‘当面は忘れくれて良い’と言ってきた」
「どういうことですか?」
少し怪訝そうに聞いた。
「詳しいことは言わなかったが、恐らくこのところのドル安で含み損が減ってきたことが背景にあるのは事実だ」
「そこで三山製作所の方が勝手なことを言ってきた、ということでしょうか?
でも、この時点で決着を付けておかないと、拙いのでは。
3末(3月期末)までに再びドル高に振れれば、また彼等は難癖をつけてくるはずです。
ここで一気に整理しておいた方が良くはないでしょうか?」
「俺もそう思う。
だが、ここは徳田さんの意向もある様な気がする。
堂島での揉め事が露見すると、徳田さんの汚点になる。
大阪支店長は常務の中でもほぼトップに並ぶ位置付だ。
次は本店の筆頭常務、場合によっては専務のイスもある。
だから、次の人事が決まるまでの向こう数カ月の間、波風を立てたくないのかもしれない。
つまり、ドル安円高の加速が、三山、堂島支店、そして徳田さんにとって都合が良いってことだ」
「この話、東城さんや私にとって当分の間の患い事となるだけで、何のメリットもなさそうですね」
「そうでもない。
仮に徳田さんが筆頭常務になれば、国際金融部門の風通しが良くなる可能性がある。
徳田さんは融資畑の人間だが、住井出身だ。
統合してから15年経った今でも、あの年代には住井出身と日和出身との間で派閥争いが残っている。
仮に徳田さんが筆頭常務として東京に戻れば、日和出身の嶺さんの上になることは間違いないからな」
派閥云々を嫌う東城だが、嶺常務の存在が煩わしいことは想像に難くない。
‘ここは東城の意を汲むしかなさそうだな’
「了解しました。
取り敢えず、相場の成り行きを見ましょう」
と言い残して、ドアに向かって歩き出した。
ドアを開けかけたところで、
「いつも済まんな」
と詫びの声がかかった。
振り向きざま、
右手の親指を立てて微笑みを返した。
翌日の木曜日、日経平均株価が91年以来の高値水準となる24000円台を付けたことを受けてドル円は111円48銭へと反発した。
しかしながら、ドル自体の地合いが回復したわけではない。
折から米国では政府機関閉鎖の可能性が示唆されていたこともあるが、ドルが軟調となってから日が浅い。
米10年債利回りが壁となっていた2.6%を超え、米株も堅調だが、ドルが本格的に反転するにはまだ早過ぎる。
それにテクニカル的にはフィボナッチ水準の111円55銭*の存在もある。
果たしてロンドン時間で、再びドルは110円台後半に下落した。
金曜日(19日)の午後になり、ドルが下に振れ出し、110円台前半を覗きかかったが110円49銭で止まった。
そんな折、財務省の吉住から勉強会の日取りが決まった旨、連絡が入った。
省内の都合で当初予定されていた1月下旬から延期され、2月7日に決定されたという。
その晩、久しぶりに山下を誘い、青山のジャズバー’Kieth‘に出向いた。
入口を入って右手の奥にあるテーブル席に座ると、山下が慣れた様子で適当にオーダーを入れた。
BGMのオーダーも忘れない。
最近はColtraneに凝っているらしい。
「マスター、BGMはColtraneの’Ballads’で」
「山下さん、仙崎さんに選曲が似て来ましたね。
もっとも、風貌は全然違いますが」
マスターがからかう様に言う。
「えっ、それって‘どっちがどっち’ってこと?」
「ご想像にお任せします」
とマスターが笑いながら言う。
そうかわされては、もう山下も返す言葉もなさそうである。
「お疲れ様でした」
と言って、ビールグラスを持ち上げた。
週末の土曜日の晩、例によって来週のドル円相場予測を国際金融新聞の木村にメールした。
―――
木村様
予測レンジ:109円50銭~112円
有体で済みませんが、一応ドルの下値テストを予測します。
埋め草は沢山あるので、木村さんにお任せします。
*12月の短観に記載されていた「2017年度の大企業想定レート110円18銭」を記事に挿入すると、読者受けするかもしれませんね。
今週の最安値が110円19銭でしたから。
その下に110円15銭(61.8%、107円32銭&114円73銭)もあるので、それも絡めるとより木村さんのとこらしい記事になるかもしれませんね。
精々他紙が触れても節目の110円程度でしょう。
それでは失礼します。
IBT国際金融本部外国為替課 仙崎了
―――
数分後に木村から礼のメールが届いた。
―――
仙崎様
いつもありがとうございます。
最近は相場が予測通りに展開していて絶好調ですね。
国際金融新聞 市場部編集委員 木村
続け様に、OUTLOOKに着信の音がした。
添付付きの志保からのメールである。
―――
了へ
この間はどうもありがとう。
レジュメ、添付しておきました。
宜しく。
ところでもう、私達やり直せないのかしら?
志保
―――
簡単なメールである。
だが、最後の一行は重い。
これについては、返事の書き様がなかった。
返信には
―――
志保へ
マイクのファンドへの転職は心配しなくて良い。
また連絡する。
了
―――
(つづく)
注
*110円15銭(61.8%戻し、昨年最安値107.32&昨年11月の高値114.73)
*111円55銭(38.2%戻し、113円75銭&直近安値110.19)
この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。