週初(5日)から週半ばまでドル円の下値を試す展開が続いたが、直近最安値の105円24銭(3月2日)を下回ることはなかった。
週後半の木曜日(8日)、米国の鉄鋼・アルミの関税措置問題では同盟国が除外される可能性が浮上する一方で、北朝鮮関連ではリスク回避の動きが弱まり、ドルに底堅さが生まれ出した。
ドルの上値は重いものの、積極的に売る気配も途絶え、朝からドル円は106円程度で模様眺めの展開が続いていた。
‘神経を尖らせる様な相場ではない’
こんな日は保存フォルダーを一挙に整理するのに適している。
20件ほどメールを読み終えたところで、
「課長、財務省の吉住さんからお電話です」の声。
「‘俺の専用電話へかけ直してくれ’と言ってくれ」
吉住は大学の同好会の後輩である。
遠慮は要らない。
「吉住です。
先日はありがとうございました」
勉強会で講師を務めたことへの礼である。
「どうした今日は?
市場は静かだが・・・」
「先輩、坂本が転勤になるそうです」
「ふーん、そうか」
しらばっくれた。
「何だか知っていた様な口ぶりですね?」
「いや、関心がないだけだ。
それで、何処へ?」
「札幌財務局だそうです。
しかも、‘主計課付き’。
つまり、決められた役職・業務がないということになります。
将来を嘱望されていると自負していた人だけに、内示が出た瞬間は大荒れだったそうです」
「主計系統なら将来の復帰もあるし、良いんじゃないのか」
「仙崎さん、それはもう、無理ですね。
銀行員も子会社・関連会社に出向した後、本店に戻るケースは少ないと聞いていますが、
それと一緒ですよ」
「そっか、まあ会う機会があったら、宜しく言っておいてくれ。
他に用事がなければ、切るぞ」
「ドルも一旦、105円台で下げ止まった様だし、特にお聞きすることもありません。
あと、局長が近いうちに一杯やりたいと言ってました」
「分かった。
連絡、ありがとな」
週末の金曜日(9日)、財務省内は蜂の巣をつついた様な騒ぎになった。
森友学園への国有地売却に携わった近畿財務局員の自殺、そして佐川国税庁長官の辞任とあれば、当然のことだ。
今夜10時半に米2月雇用統計の発表を控えていたが、気分が乗らない。
公文書の書き換えや忖度疑惑の真偽は分からないが、犠牲者まで出してしまったことに大きな憤りを感じる。
憤りは当然、安倍首相や麻生財務相に向くが、官僚組織のあり方にも向く。
官僚組織の中でもがき苦しんだであろう犠牲者と、9年前の自分が重なる。
当時俺を追い込んだ田村が今、自分の後ろでのうのうとテレビを見ながら‘こりゃ、麻生はもうだめだ’とか‘安倍も危ないな’とか、声高に騒いでいる。
昨年日本海上との揉め事が起きた際に彼を潰しておけば良かったのかもしれない。
こういうヤツを放って置くと、再び俺みたいな犠牲者が出る。
当時、自死という考えは微塵もなかったが、組織への不信を抱き、IBTを辞す直前までいった。
そして大事な岬をも失った。
強く握った彼女の手を離さなければ、坂本と結婚することもなかったろうに・・・。
東京の10時半、米雇用統計が発表された。
注目されたNFP(非農業部門雇用者数)は前月比31万人増と、事前予想の20万人増を大きく上回ったが、平均時給が伸び悩んだ。
発表前106円台で推移していたドル円は一時107円05銭まで跳ねたが、それを追いかけて買う気配はない。
顧客のディールも、すべてドル売りである。
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FEDは「物価の安定」と「雇用の最大化」というデュアルマンデートを担う。
雇用が安定的に拡大していても、賃金が伸び悩めば「物価の安定」が遠のく。
3月のFOMCでは利上げが実施されるだろうが、今年3回と見込まれている利上げ回数を増やすためには、賃金の上昇が裾野にまで広がることが前提となる。
イエレン前議長が‘緩やかな正常化’を主張してきたのはこの点が確認できなかったからだ。
だが、大幅な税制改革が法人の設備投資を煽り、そしてウォール街の狂気を過熱させてからでは、強烈な利上げが必要となる。
その場合、景気をクラッシュさせてしまう可能性がある。
‘正常化は進めるが、急がない’というイエレン流をパウエルが踏襲するのか、あるいは一歩タカ派的な政策に打って出るのか’
新生FED内部でコンセンサスを見る日は遠い。
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為替市場の現場は今日の統計結果をそこまで深読みして動いているわけではないが、日付が変わってもドルは伸び悩んだ。
インターバンクでは、山下の他に二人、コーポレートデスクでは浅沼の他に二人が残っている。
「もう今日はここまでだな。
酒でも飲みに行くか」
皆を誘う様に言う。
「はい」・「いいですね」と一斉に嬉しそうな声が上がった。
その日‘Keith’で思い思いに飲み食いしながら過ごした。
閉店時間は疾うに過ぎていたが、マスターは不快な顔を見せない。
それどころか、
「皆さん、明るくて良い人達ですね。
でも、決して大騒ぎはしない。
流石、仙崎さんの部下ってとこですか」
と笑みを浮かべながら言う。
「ありがとう。
ところで、先日話した山下の送別会の件、30名ほどだけどお願いします」
「淋しくなりますね」
「ええ、相棒というか、弟みたいなもんですからね。
僕は先に帰りますから、20~30分したら、皆を締め出してください。
本当に遅くまで済みませんでした」
クレディット・カードの伝票にサインし終えると、会話を楽しんでいる部下を横目に店を後にした。
社宅に着いたとき、時計は3時を回っていた。
‘東海岸は午後1時過ぎか。
志保に電話をするには丁度良い時間だな‘。
「俺だ。
この間はありがとう。
例の財務省の件は決着がついた。
折が合ったら、お父さんにも礼を言っておいてくれ」
「そう、それは良かったわね。
雑誌の方も問題なさそう。
当初のゲラは坂本とかいう人が大学の後輩である編集者に無理やり書かせたものらしいわ。
パパの秘書の話では‘インターナショナル・レディーズ’に相応しくない内容なので、編集長自身で大幅に修正したそうよ。
でも写真は使いたかったらしいけど。
別に品が悪い写真じゃないものね」
「えっ、それで?」
「大丈夫、ここで撮った写真を送り、それと差し替えてあるはずよ。
もう雑誌発売になってるはずだから、暇があったら見ておいて。
あっ、了、ごめん。
これから会議なの」
電話の後ろで 彼女を呼ぶ声が聞こえる。
土曜の晩、国際金融新聞の木村に電話を入れた。
森友の一件、メディアの反応を聞いておきたかった。
「仙崎さん、珍しいですね。
そちらから電話とは」
「ええ、財務省の件、どこまで行きますかね?」
「安倍一強政権を危惧する声が相当に強いので、‘麻生さん、安倍さんの順に叩く’。
そんな感じですかね。
うちも書きますよ。
相当に強く。
ところで、来週の相場はどうでしょう?」
「日経平均がどこまで下がるかじゃないでしょうか。
米朝首脳会談決定でリスクオンとか、ニューヨーク・ダウ続伸とか言ってますが、それとは無関係に日経平均は危ない様な気がします。
佐川辞任の件は海外であまり反応してませんが、こっちは深刻ですからね。
‘日経平均下落に連れてドル円も軟調’なんてヘッドラインが並ぶ様な気もしますが。
その場合は、トランプの保護貿易主義がことさらに取沙汰されて、円高の支援材料になるって感じでしょうか。
9日の日米電話会談では、トランプも対日赤字に言及しているそうですし。
予測レンジは103円20銭~108円と幅を持たせます。
また、面白い話、聞かせて下さい」
「こちらこそ。
来週も宜しくお願い致します」
木村と話終えた後も、大きな何かが起きる予感がしてならなかった。
頭を振りながら、テーブルの上のウィスキーボトルに手を伸ばした。
BGMにはDave Grusin のサントラ・アルバム ’The Fabulous Baker Boys’ を選んだ。
ミシェル・ファイファーとジェフ・ブリッジズが演じた大人の恋物語。
映像とトランペットの音色が絶妙に合う映画だ。
‘次、岬に会えるのはいつだろう’
(つづく)
この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。