第43回 「旅立ち」

週初(26日:月曜日)、早朝のドル円は先週末の円買いの流れを受け継ぐ形で、下値を試す展開となったが、104円65銭止まり。

日経平均もやや堅調地合いに転じつつある。

‘これだと、今週はもうドル円の下押しは難しいかもしれないな’

「山下、俺の114円台のショート50本、買い戻してくれ。
期末前の10円抜きは無理だったな。

今日で利益を確定しておくことにする」

「80(104円80銭)です」

「了解、これで今期の俺のポジションは一切なくなった。

明日からお前は出発前の束の間休暇に入る。
これが、お前がニューヨークへ行く前の最後の仕事だな。

そろそろ昼か。
山下、昼飯、外でどうだ?」
ニューヨークのトレジャラーの入れ替えについて、話しておく必要があった。

「はい、良いですね」

「とりあえず、最後の昼飯になる。
和食にしておくか」

「高級和食ですか?」

「調子づくな」
と笑って返しながら、パレスホテル内にある会席料理‘和田倉’に電話を入れた。
運良く、個室が空いていた。

 

銀行の建物から出ると、二人は同時に深呼吸をした。

日比谷通りを走る無数の車から吐き出される排気ガスは気にはなるが、ビル内の空気よりもマシな感じがする。

一週間後の山下は、日比谷通りではなくパーク・アベニューを行き交う車の排気ガス混じりの空気を吸うことになる。

だが、ニューヨークの空は東京の空より断然青いのが良い。
その空の青さを思い出すと、ふとあっちへ戻りたくなった。

‘仮にそうできれば、山下も要らぬ苦労をしなくても済むのに’

パレスホテルは徒歩で5分ほどのところにある。

「これで当分、こっちの和食にもありつけないってことですね」

「そうだな、でも、あっちでも和食は食えるさ」
などと言っているうちに、ホテルに着いた。

‘和田倉’は6階にある。
通された部屋からは和田倉壕と和田倉橋を臨むことができる。
話が湿っぽい内容なので、眺望に救われそうだ。

「何でも良いぞ。
向こうでも和食は何でも食べられるが、まあこっちの方が旨いし、安い。
ここは高いけどな」
笑って言う。

「それじゃ、ビールと春の会席で良いでしょうか」

「ああ、そうだな。
そうしよう」

食事はニューヨーク生活の話が弾むうちに進んだ。

 

会食も終わり、デザートとコーヒーが運ばれてきた頃合いを捉えて、
「ところで山下、俺も先週末に東城さんから聞かされたばかりだが、お前に話しておかなければならないことがある・・・」と切り出した。

少し言い淀んでいると、
「何か拙いことでも?」
不安そうに聞いてきた。

「まあな。
実は山際さんの体調が悪いそうだ。
つまり、お前はそう長くは、山際さんと一緒に仕事をできない。

彼の下であれば、お前が安心して働けると思ってこの人事を進めたが、少し不安だ。

スイスの横尾さんが後を引き継ぐらしい。
日和出身の嶺常務と清水支店長とが進めている人事だ。
間違いなく決まる」

「横尾さんって優秀だそうですが、少し癖のある人だとか・・・」

「このところ彼は為替業務に携わってないし、俺も一緒に仕事をしたことがない。
だから、正直なところ、分からない。

だが、お前までもがそんな話を知っているほどだから、一応用心した方がいい」

「そうですか。でも、僕なら大丈夫ですよ、こんな性格ですから。

それに毎日、了さん、いえ課長とも話ができますしね」
と笑ってみせた。

「そうだな。
でも何かあったら、一人で抱え込まずに必ず俺に言えよ」
と返して、束の間の宴を閉めた。

‘ここでネガティヴなことを言って、ニューヨークでの仕事や生活に希望を抱いている山下を気落ちさせては拙い’

ホテルを出たところで、
「おい、お濠沿いを歩くか。
今年は桜の開花も早い。
これで当分、お前も日本の桜の見納めだ」

「そうですね。
和田倉の会食の締めが桜、最高ですね」

‘少し元気が出てきた様だ’

 

火曜日(27日)に行われた、森友文書改竄に絡む佐川元国税庁長官の国会証人喚問は大方の予想どおり、何の言質も得られないまま終えた。

それをメディアはこぞって「より深まった、行政への不信」などと伝えるが、当然のことだ。

似非資料を基に1年以上も国会が無駄な時間と税金を費やした。

反省の欠片もない政治家と官僚とのやりとりが行われている日本の状況を尻目に、世界情勢は時々刻々と変化していく。

北朝鮮問題では、中朝首脳会談、南北朝鮮首脳会談、米朝首脳会談と、矢継ぎ早に状勢が変化し、日本は完全に「蚊帳の外」に置かれた。

そんな状況下で迎えた翌日の水曜日、「北朝鮮の金正恩政権が日朝会談の開催を模索」とのヘッドラインがニューヨーク時間に飛び出た。

北朝鮮状勢が深刻化する度にリスク回避のドル売り円買いを進めてきた市場は、逆の動きに転じ、107円を覗いたのである。

その日以降、海外がイースター休暇に入り、市場は徐々に模様眺めの展開に落ち着いて行った。

日朝首脳会談の報で作られた俄かドルロング(円ショート)も次第に整理され、週末は106円25~30銭の気配で市場は終えた。

 

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山下健太郎さま

ここまで俺をサポートしてくれてありがとう。

本当に助かったよ。

残念ながら、これからはお前と俺には物理的な時差が生じることになる。

つまり、公私に亘ってこれまでの様な付き合いができなくなるってことだ。

だが、俺達は時差のない空間で生きている、そして夜討ち朝駆けも得意な人種だ。

だから、何かあれば、俺に何時でもコンタクトしてこい。

これは俺の命令だ。

お前独りで悩むことはない。

俺はお前の悩み、苦しみをすべて受け止めてやる。

東城さんが俺にしてくれている様に!

仙崎 了

追:沖田にはミッドタウン・トンネンル*に入る前に、マンハッタンの摩天楼を見渡せる場所で車を停める様に伝えてある。

その場所で、お前はきっと‘やってやる’という強い意志を抱くことになる。
間違いない。

そして仕事が苦しくなったら、そこに戻り、摩天楼を見上げろ。
きっと、‘やってやる’という気持ちが甦って来る。

その場所はそんな場所だ。
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和田倉での食事の後、濠の桜を眺めながら「機内で読め」と山下に渡した手紙である。

 

土曜の晩、いつものとおり、ラフロイグのボトルとグラスを持って、PCの置いてあるデスクへと向かった。

国際金融新聞への来週のドル円相場予測を書く為である。

だが、キーボードを叩く気にもならない。
山下のこの先のことが気に懸っているのだ。

山下は今日、羽田10時40分発のJL6便でこれからの主戦場となるニューヨークへと向かった。

見送りには行かなかった。
彼が「来なくていい」と固持したからだ。

銀行を離れれば、俺を「了さん」と馴れ馴れしく呼ぶ。
俺自身も弟みたいに接してきた。

涙を見せてしまうのが人情だろう。
見送りに来た家族に、それを見られたくない。

‘格好をつける柄でもないくせに’

頭を振りながら、グラスを一気に空けた。
ラフロイグ独特の薬くさい香りが口の中に残る。
でも、それが徐々に脳を覚醒させる。

偶然か、BGMにはYOSHIKO KISHINO の ‘Manhattan Daylight’ が流れ出した。

‘あいつもそろそろ、彼の地のデイライトを浴びる時刻だな’

 

木村様

来週から新しい期に入りますが、また宜しくお願い致します。

これで再び、私もトレーディングすることができる様になります。

2月末で収益を固めたため、3月はほとんどポジションなしの状態でした。

実際にポジションを持たないと、相場を見る目が曇り勝ちになります。

きっと来週以降は、もう少し気の利いた予測ができるかと思います。

目先の焦点は誰が積極的に107円台のドルを買うかでしょうか。

今週、107円台を覗きましたが、ドルショートの巻き戻しの結果とも言えます。

来週もまだ、下値圏での揉み合い程度と踏んでいます。
(リスク・ウェイトはまだ、下方に掛けていますが)

ところで、今週の財政金融委員会において、森友問題の渦中で喘ぐ麻生財務相は「過去数十年の歴史を見ると、(日米の長期)金利差が3%ならドル高円安に振れる」などと言ったらしいですね。

もちろん、財務省の誰かが作成した委員会用の資料に基づいての発言でしょう。

現時点で10年債の利回り格差は約2.7%ですから、このまま米金利が上昇すれば、現状の円高にも歯止めがかかると言いたかったのでしょうが、前提は金利上昇に米経済と米株式市場が耐えられるかどうかです。

また米金利上昇の持続性にも限界があるでしょう。

確かに、短期的には米金利上昇はドル買いのインセンティヴになるのは事実ですが、金利平価説を考慮すれば、金利差拡大は先のドル安円高の示唆でもあります。

まあ、麻生さんにそんな話をしても理解されないでしょうが。
未曾有も読めなかった方ですからね。

 

来週の予測レンジ:104円50銭~108円

IBT国際金融市場本部外国為替課長 仙崎了

 

(つづく)

注:
*ミッドタウン・トンネル
JFK(ケネディー空港)はクイーンズ地区の最南端にある。

ミッドタウン・トンネルはクイーンズ地区とマンハッタン島の中心部をつなぐ重要な役割を果たしている。

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。