シーズンⅡ「危うい下期の収益達成」」カテゴリーアーカイブ

第36回 「対峙」

日曜(4日)の晩、岬に電話を入れた。

水曜日に予定されている財務省の勉強会では、彼女の夫である坂本と会うことになる。
単に講師を務めるつもりで出向くが、彼の方から何かを仕掛けてくる可能性がある。

そのとき、自分がどの様な行動に出て良いのか分からない。
岬とのことを巡って、勉強会後に対決する可能性もある。

そのことが切っ掛けで岬を傷つけてしまうことになるのかもしれない。
逆に逸早く彼女を夫から逃れさせてやれるのかもしれない。

だが、問題は岬が何を望んでいるのかだ。

その点を彼女に確認しておかなければならない。

 

「こんばんは。
そっちもこの冬は寒くて大変そうね?」

「ニューヨークほどではないけど、まあ寒いことは寒いな。
そっちこそ大変なんだろ?」

「そうね。
でも例年より多少雪が多いって程度かな。
大丈夫よ。

それより、確か今度の水曜日だったわよね。
例の講師の件」

「ああ、そのことで少し岬に確認をしておきたいんだ。
これまでの坂本さんの挑戦的な言動を考えると、当日何か俺に言ってくるはずだ。
勉強会中であれば質問で論破しようとするだろうし、その後であれば君との関係で絡んでくるかもしれない。

何としても俺を打ち負かすつもりで臨んでくると思う。

それはそれで受けて立つしかないが、心配なのはそこでのやりとりが一線を越えたときだ。

それが何かは分からないが、何が起きても岬は動じないか?」

「ええ、大丈夫よ。
了の気の済む様にして構わないわ」

「そうか、分かった。その話は止めにしよう。

ところで、昨年から受講すると言っていた金沢美術工芸大の聴講*へは行ってるのか?」

「ええ週に一度、松本美術館で講師の先生がいらっしゃるときに出席してるの。
作陶自体には興味はないけれど、陶磁器に関わる様々なことや歴史を学べて楽しいわ」

「それは良かった。
きっと、ハンサムな先生なんだろうな?」

「あら了、妬いているの?
先生は女性よ」
少し笑ながら言う。
急に岬が愛おしくなり、余計な一言を言いそうになったが頭を振って堪えた。

「妬いているわけじゃないけど、まあ、何となくな。
じゃ、切るぞ」
若干の照れもあって、そう言うしかなかった。

「おやすみなさい」
という岬の声を聞きながら電話を切った。

 

週初(5日)からドル円の上値が重たい。

日米株価の大幅値下げに反応しやすい展開となり、翌日には108円46銭まで下落した。

財務省の勉強会当日(7日)は、日本株が値を戻したこともあってドル円は109円台で比較的静かな展開となった。

場が荒れていないだけ、気が楽である。

勉強会の開始時間は3時だ。
40分ほどの余裕をみて、銀行を出た。

日比谷通りでタクシーを拾うと、
「財務省の正面玄関前へお願いします」と運転手に告げた。

夕方前ということもあり、10分もかからずに財務省の正面玄関前に着いた。

歩道と正面玄関を結ぶ通路の両サイドには衝立がある。
歩道と衝立が交差するところにセキュリティーの人間が二名立っている。

そのうちの一人に‘省内の勉強会の講師を務めるIBTの仙崎です’と告げると、アポ・シートをチェックし、‘どうぞ’と言う。
アポのない場合は南側の通用口に回されるが、今日はその必要はない。

正面玄関を通り抜けると中庭があり、その向こうの建物の二階に国際金融局がある。

正面玄関を抜けたところで、向こうの建物の入り口で吉住が手を振っているのが見えた。
車中から予め電話を入れてあったので、建物の入り口で待っていたのだろう。

「今日はお忙しいところありがとうございます。
また今回の講師役の依頼については何かとご無理を言って申し訳ありませんでした」

「なかなか殊勝なことを言うじゃないか」
笑いながら言う。
吉住は大学の同好会の後輩なので気を遣う必要はない。

「まぁ、一応役所内ですから」と言いながら、応接室に案内してくれた。
まだ時間があるのでここで待っててくれと言う。

数分後に外国為替市場課長の山上が現れた。
既に面識のある山下は気楽に市場の話をしてくる。
勉強会までの時間を過ごすことには気が紛れて良い。

その間に坂本が挨拶に来ると思ったが、姿を現さなかった。
勉強会の幹事役でもある彼が顔も出さないというのは不自然であり、失礼な話だ。

勉強会は南XX会議室で行われるという。
20名程度が楕円のテーブルに着くことができる会議室だが、通常は重要な委員会や会議に使われる部屋である。
単なる勉強会の部屋としては相応しくない。

3時近くになり、吉住が‘全員会議室に集まったので、そろそろお願いします’と迎えに来た。

会議室に近づくと、入口に170センチほどの男がこっちを向いて立っているのが目に入った。
少し険しい眼差しの神経質そうな男である。
坂本に違いない。

二人の距離が縮まったところで、男が挨拶した。
「坂本です。
いつぞやは電話で失礼しました。
本日はお忙しいところ、お越しいただきありがとうございます」

「仙崎です。
今日は講師役を賜わり光栄です」
光栄などとは微塵も思っていない。
ただ、迷惑なだけである。

「ことらへどうぞ」
という坂本の言葉に従って楕円テーブルの上座の方へと向かった。

 

幹事役の坂本が通り一遍の紹介を行い始めた。

こうした場合の紹介はスピーカーの経歴に加えて多少の色を添えるのが普通だが、彼の言葉に一切そうしたものが含まれていない。

‘民間銀行の一為替ディーラー如きに決して媚は売らない’という財務官僚の意地、あるいは自分の妻のかつての恋人への敵愾心の現れかもしれない。

紹介される最中、場を見渡すと、国際金融局長の竹中が楕円テーブルの右側に座っているのが目に入った。

楕円テーブルに座っている連中は竹中とほぼ同年齢の人間である。
つまり、他の局長、あるいは同等レベルの人間ということだ。

その連中を取り囲む様に、両サイドと後ろの壁を背にして中堅・若手官僚がノートを手にして立っている。

これは単なる勉強会ではない。
これだけの人数、メンバーがそれを物語っている。
南XX号室が今日の場所に選ばれた訳が分かった。

どちらにしても、話す内容は同じである。
気に止める必要はない。

坂本のどうでもいい紹介が終わると、右サイドの席から声がした。
竹中である。

「今日は、ここに出席している皆も知っている通り、世界でも有数の為替ディーラーであるIBTの仙崎了さんに御出で頂いた。

日頃、仙崎さんは外国為替市場を主戦場として活躍しているが、なかなかの学識者でもある。

つまり、知見に長けている人物ということだ。

皆もしっかりとお話しを拝聴する様に。

それでは仙崎さん、宜しくお願いします」

竹中の一言が終わると同時に部屋中に拍手が響き渡った。

突然の竹中の言葉に虚を突かれたかの様に坂本は唖然としている。

竹中の方に目をやると、礼を言う様に軽く会釈をした。

拍手が小さくなった頃合いを見計らって
「それでは、始めさせて頂きます」
と、淡々とした口調で話し始めた。

配布資料には『行動経済学と為替相場』というテーマと、幾つかの要点しか書かなかった。

聴き手を話に集中させるためのテクニックだ。
逆に言えば、話の内容と話術が問われることになる。

‘市場への参加者を、実需筋、投機筋、機関投資家に分類し、その上で短期・中期・長期に分けて其々の心理を分析する’というのが話の筋立てである。

この点を冒頭で触れ、淡々と話を進めた。

途中、分かり易い様にカーネマンの‘Thinking, Fast & Slow’の例を採り上げるなどしながら、徐々にリアルな為替市場に聴き手を引き込んでいった。

時折り‘なるほど’と言う様な聴き手の頷きが漏れてきた。
話が上手く進行している証拠である。

パワーポイントなどを使わなくても、話し方次第でスピーチに説得力を持たせることができるのだ。

コロンビア大MBA時代に心を打った講義にはそうしたものが多かった。

持ち時間の1時間半はあっと言う間に過ぎてしまった。
勉強会は2時間で、残りの30分は質問に当てられる予定である。

局長クラスや中堅クラスの数名から質問を受けたが、足下の米長期金利、内外の株式暴落、ドル円の先行きなどに関するものばかりで、有体に答えておいた。

概ね30分が経過したところで、坂本が質問を浴びせてきた。

「それでは、最後に私の方から一つだけ質問させてください。
先程、竹中局長から仙崎さんはなかなかの学識者という紹介がありました。

そこでお尋ねしますが、近年のアメリカ経済と金融政策について、経済学的見地から懸念されている点を教えて頂けませんか?」

「そうですね。

私が懸念している点は、低インフレと低失業率の併存への疑問、つまり、フィリップス曲線*への疑問でしょうか。

‘物価が突然上昇した場合、短期間で大幅な利上げが必要になる。
当然、それは経済・金融情勢にとって悪影響をもたらす’

これは 先日任期を終えたイエレンが昨年に再三言っていた言葉ですが、恐らく彼女は‘生産や実勢の雇用が完全雇用水準をオーバーシュートすることを懸念していたものと思われます。

もっとも、この点は線形経済学の観点からは上手く説明できないため、FED内での感触は良くない主張だったのかもしれません。

これ以上は時間を必要とする議論になるので、この辺で宜しいでしょうか?」

そこで再び一斉に拍手が起こった。

あまりの拍手の大きさに坂本も質問を続けられなくなくなった様である。

坂本は有体に「もう一度、仙崎さんに拍手を!」と言って、会を終えた。

 

会議室を出たところで、出席者のほとんどが仙崎に礼を言う様にして見送ってくれた。

吉住と山上がお茶でもと誘ってくれたが、まだ仕事があるのでと断り、その場を辞した。

階段で一階まで下り、中庭に出たところで後ろから呼び止められた。
坂本である。

「今日はありがとうございました。
なかなか面白かったですよ。
また機会があれば、宜しくお願いします。

ところで、先日田村さんから妙な写真が送られてきました。
あなたも結構なやり手ですね」
スマホに触ると、帝国ホテルでハグする男女二人の写真を見せて寄こした。

「この写真が私と何の関係が?」

「後ろ姿とは言え、この男性はあなたにしか見えませんが。
それに写真の女性はあの有名な阿久津志保ですよね。
これを妻が見たら、どう思うでしょうか?」

「いい加減にしませんか。
あなたの奥さんと私はかつての恋人同士という間柄だった。
だが、今はもう何の関係ない。
いつまでも下らない探偵ごっこをやってないで、早く彼女と別れてあげたらどうですか」

「仙崎さん、どうしてあなたが私と妻がそういう状態にあるということを知ってるんですか?
‘何も関係がない’と言ってるあなたが、離婚云々に触れている、不思議ですね」

「部下の連れ合いがあなたの奥さんとIBTの同期で親友だ。
その位のことは耳に入ってくる」

「なるほど、ああ言えば、こう言う。
流石に切り返しに慣れている一流ディーラーってわけか」

「坂本さん、本当は何を言いたい。
これは俺の想像に過ぎないが、あなたの奥さんはあなたを嫌っている。

でもあなたが奥さんを愛してるのなら、もう一度向き合ってみたらどうだ。
それでも奥さんがあなたの元に戻らないのなら、この先お互いに時間を浪費するだけだ。

日本で一番頭の良い大学とされている東大卒のあなたなら、そんな簡単な理屈が分からないハズはない」

「結構な理屈を言うじゃないか。
まぁ、これから先、何が起きるか楽しみにしておけばいい。

それから有名人の志保さん、本当に美人だな。
仙崎さん、あんたが羨ましいよ」

「坂本さん、これだけは言っておく。
写真はあなたの奥さんに見せない方が良い。

それと阿久津志保のことを、今後一切持ち出すな。
さもないと、あんたは霞が関に居られなくなる。
嘘じゃない」

「へぇー、お手並み拝見と行くか」
捨て台詞を残しながら、建物の中に消えて行った。

東大法学部卒、財務官僚、世間からは絵に描いた様な成功人生を送ってる様に見られているのだろうが、俺にはそうは見えない。

正面玄関を出たところで、改めて財務省の建物を振り返ったが何故かくすんで見えた。
ここが日本の財政政策と為替政策の要か・・・。

 

週後半になって再びドルの上値が重たくなり、ドル円は週末に直近最安値の108円28銭を抜き、108円丁度まで下落した。

 

土曜日の晩、国際金融新聞の木村宛てに来週のドル円相場予測を書いてメールした。

木村様

依然としてドルの下値を模索する展開を予測します。

焦点は、

1.下値圏では直近安値108.00円を抜くかどうか。

抜く様であれば、昨年最安値の107円32銭を試す可能性も。

2.上値圏では、109円75銭。

抜く様であれば、110円48銭を試す展開も。

予測レンジ:106円50銭~110円50銭。

 

特別なコメントはありません。

今週は少し疲れました。

埋め草は適当にお願いします。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

 

(つづく)

 


*金沢美術工芸大の聴講:本文で述べられている様な同大学の聴講制度は実在しない。

*フィリプス曲線:失業率が低いほど、インフレ率が高く、失業率が高いほど、インフレ率が低いという‘両者のトレードオフの関係’を示したグラフ。
現代版のフィリップス曲線では、Y軸にインフレ率、X軸に失業率をとる。

 

今回でシーズンⅡも終わり、次回からシーズンⅢに入ります。

‘米金利や内外株価に翻弄される為替市場、岬を悩ませ続ける坂本の存在、次々と仙崎に問題が降りかかる。

果たして仙崎は期末を上手く乗り切ることができるのだろうか’

読みどころ満載のシーズンⅢにご期待ください。

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第35回 「噂」

大きな節目を割り込むと、有象無象の売りが出る。

節目の110円を割り込んだ先週のドル円相場、ドルロングの投げ、輸出筋のドル売り、そしてこれらの動きに乗じた投機筋のドル売りなどが堰を切った様に流れ出た。

だが、こうした相場は必ずオーバーシュートする。

巡航速度で下落している相場はごく短期間の調整を経てから再び安値を更新するが、今週はその流れが一旦途絶えるに違いない。

そんな考えから、国際金融新聞の木村に送った先週末のメールでは「今週はドル売りを手控える」と伝えた。

週前半(5日~6日)、市場は先週の流れを受け継ぐ格好でドルの下値を試したが、直近最安値の108円28銭を抜くことは出来なかった。

週半ばになってもドルの戻りは悪かったが、下げ渋った。
その日の東京の夕方に108円60銭を付けたものの、ドルは底堅さを増すばかりである。

‘一旦ガス抜きをしないと落ちない’
スクリーンのプライス・アクションがそう囁いている。

「少しビッドアップしてきた様だ。
買ってみるか」
と呟く。

山下にその声が届かなかった様で、
「課長、何か言いましたか?」
と尋ねてきた。

「ああ、‘買ってみようか’と言ったけど。
声が小さくて悪かった」

先刻から部長席で資金課長の大河内と田村が楽しそうに話しているのに気を取られていたせいで、
山下への言葉が知らぬ間に小さくなっていた様である。

部長席は俺の座席から後方6・7メートルのところにあり、ほとんど会話の内容は分からないが、その中に‘阿久津志保や女性誌の名前’が途切れ途切れに聞こえたのが気になっていた。

気の良い山下はそんな事情も知らずに、
「いいえ、自分の集中力が足りないせいです。
50本の買いで良いですか?」
と、恐縮しながら言う。

「ああ」

「67で20本、68で30本」

「了解」

ディールの処理を終えた山下が
「課長、何か気になることでも?」
と心配そうに聞いてきた。

「ああ、後ろの会話が少し」
自分の胸の前で右手の親指を部長席の方に向けて見せる。

「どうせいつものご注進話でしょうが、あいつら本当に呑気なもんですね。
こっちがいつも収益に追われて奮闘してるのに」

「まあ、そうぼやくな。
お前だって奮闘するのが好きでこっちの世界にいるんだ」

「それもそうですね」
と言いながら、スクリーンに目をやりながらEBS(電子ブローキング・システム)のキーを叩き出した。

何かジョビングの手掛かりを得たらしい。

暫くすると、ディーリング用ではない方の電話が鳴った。
バックオフィスを仕切る山根からである。

「仙崎君、今市場は大丈夫?」

「ええ、静かですが。
何でしょうか?」

「電話では少し話しづらいので、
上で良い?」
上とは社食のことである。

「はい、それじゃ今行きます」
と言って電話を切った。

「山下悪いが、少し山根さんが事務処理の件で話があるそうだ。
上にいってくる」

「了解です」

社食に着くと、直ぐに山根の姿が目に入った。
窓際に立ち、眼下の日比谷通りを眺めている。

「山根さん、ヘッドライトの流れでも見てるんですか?」

「あっ、仙崎君。

ええ、昼間は皇居の森が綺麗で、夜は日比谷通りが綺麗。
これだけでも、IBTに勤めてる価値ありってとこかしら」

「そうですね・・・。
ところで、電話で話づらいことって何です?
結婚でも決まったんですか?」
半ば茶化して聞いてみた。

「馬鹿ね。
もうこの歳になって、それはないわよ」

「へぇー、そうなんですか。
まだイケルと思いますが」

「おばちゃんをからかわないでよ」
と言いつつも、少し嬉しそうな顔を見せる。

眼鏡を外せば、なかなかの美人だと思うが、
今までそれに触れたことはない。

「それで、話って?」

「‘大河内が仙崎君のことで変な噂を流してる’そうよ。

‘最近、女性誌や経済誌を賑わしてる’阿久津志保と君が帝国ホテルで会ってたのを彼が目撃したというのがその噂。

どうなの?」

「それは本当のことですが、他には?」

‘嘘を言っても仕方がない’

「うちの若い子がスマホの写真を見せられたらしい。

二人のハグの瞬間で彼女の顔は確認できるけど、君らしい人物は後ろ姿ではっきりしない
みたいね。

そっか、会ったのは事実か。

それが事実だとしたら、行内に悲しい思いをする女の子達がいるわね」

「ちょっと待って下さいよ。

僕が彼女と帝国ホテルで会っていたのは事実だけど、付き合ってるなんて言ってませんからね」

それ以外のことは言う必要もないし、伏せておいた。

「そっか。

でもどうせ田村の手下みたいな男だから、話に尾鰭が付いてると思う。

まぁ、二人がどういう関係かは知らないけど、気を付けてよ。

うちのホープがスキャンダルで潰れるなんてゴメンだからね」

「大丈夫ですよ。

それに彼女はもう、表舞台に立つことは当分の間ありませんから」と言い切った。

言う必要のないことだが、志保がコネティカットのファンドに移籍し地味な仕事に就くということも明かした。

マイクには当分、志保をバックオフィスの仕事に就かせる様に言ってある。

納得した山根は、
「そっか、‘人の噂も何とやら’。
頑張ってよ」
と激励の言葉を残してオフィスに戻って行った。

‘これで、先刻の部長席の会話の中身が解けたってことか。
どうせこの話は既に田村から坂本に伝わってる’

デスクに戻ると山下がまだ頑張っていた。

「どうだ?」

「やはりビッドですね。
先程の買いの処理はどうしますか?」

「週内には10円を抜けると思うが、長続きはしないはずだ。
お前なら何処で利食う?」

「10円25(110円25銭)辺りでしょうか」

「それじゃそこで売り50本、週末まで回しておいてくれ」

「まだやるのか?」

「はい、もう少しだけ」

「悪いけど、俺は先に帰るぞ。
もう3末(3月末)の見通しも立ったことだし、お前も早く帰れよ」

日比谷通りでタクシーを拾うと、青山の’Kieth’に向かった。

まだ時間の早いせいか、店内には自分以外に客はいなかった。

「マスター、いつもの酒と何か食事を頼む。
少し腹が減った」

「パスタだったら、直ぐにペペロンチーノが出来ますが?」

「ああ、それで良い。
それにサラダも適当に。

あとBGMはKiethの‘Staircase’を」

目を閉じながら財務省の勉強会のことを考えていた。
テーマは何でも良いと言うが、週末に纏めておく必要がある。

為替相場の見通しはそこらに幾らでも転がってる。
『行動経済学と為替相場』で行くか・・・。

暫くして目を開けると、ラフロイグのボトルが置かれていた。

マスターの方に目をやると、
「今日は相当に飲みそうなので、ボトルごと置いておきます」
とでも言いたそうな笑みを浮かべている。

こっちも笑って返すしかなかった。

ドル円相場は週末に110円47銭を付けたが、それ以上は伸び切れなかった。

週末の土曜日、国際金融新聞の木村宛てに来週のドル円相場の予測をメールした。

木村様

少しドルが買われても伸び切れないと思います。

とすれば、後に反落でしょうか。

予測レンジ:107円50銭~111円50銭

与件は沢山あるので、行間の埋め草は適当にどうぞ。

P.S. 米10年債の利回りが前回FOMCの中立金利(FEDの利上げの落としどころ:2.75%)まで到達しています。

FEDが正常化路線を急ぐのかどうかが注目されます。

仮にややハト派的なカシュカリ(ミネアポリス連銀総裁、来週に講演予定)がFFレートの経路の変更を示唆する様な発言をすれば、ドルショートが踏まれる可能性もありでしょうか。

ただ、米株が大きな調整を迎えそうな局面では、前向きなドル買いが出るとも思えません。

また2月中旬の米国債償還と利払いに合わせて、本邦機関投資家のレパトリも考慮しておきたいところです。

3月末を控えての実需のドル売りも恒例行事です。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

(つづく)

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第34回 「110円を割れたドル」

 ―――週初(22日)の東京は110円台後半で、比較的穏やかな相場付きだった。

まだドルは下がると思うが、売り時が分からない。

そんな思いで窓際に立ち、皇居の森を眺めていると、下期の出来事や業務のことが脳裏に浮かんできた―――

下期入りした10月以降、ディーリング以外の出来事に時間と労力を割かれたことで、思う様に収益を重ねることができなかった。

そんななかでも、11月初旬に作った114円台の50本(5000万ドル)のドルショートが根っこのポジションとなり、何とか収益を支えている。

毎日値洗いされているものの、ドル円の金利差*は僅かだから、現在の持ち値も大きな影響を受けてない。

本数は50本と金額は少ないが、下期の拠り処となってきたポジションである。

 プロップ・トレーダーとして収益を残すためには根っこのポジションは重要だ。

基調としてのトレンドを捉えるのは難しいが、方向を見定めてポジションを持つ必要がある。

時にポジション・メイキングの水準を間違えれば、ストップロスを入れ、そして再び根っこのポジションを作る。

根っこと決めたポジションを滅多に切ることはないが、潔さを欠くと後々のディールに響くことを常に頭に入れ、不屈の精神で次に望む。

こうしたプロップ・トレーダーとしての信念を持ち、俺はここまで生き延びてきた。

もっとも、インターバンク・ディーラー時代は根っこのポジションを持つことは難しかった。

インターバンク・ディーラーは常に顧客のカバーに追われているため、根っこのポジションを作るタイミングを見失うことが多いからだ。

時折りインターバンクのチーフディーラーである山下には「お前のディール・スパンは短いな」と言って冷やかすが、それは彼の力量や度量の問題ではない。

彼のディール・スパンが短いのはそうしたインターバンク・ディーラーとしての役割故である。

「お前の利食いは早いな」と俺に言われても、彼は‘利食い千人力ですから’などと言って受け流すが、自分の業務をわきまえている証拠だ。

もっとも、大銀行の外国為替課長である俺のプロップのポジションの取り方も難しい。

インターバンク全体のポジションを管理する立場では、自分本位のポジションばかりをとっていられないからだ。

かつて山下が、
「課長、朝のミーティングではドルは下だと言っていたのに、何故ロングしてるんですか?」
と尋ねてきたことがあった。

「お前等全員がドルを売ってるのに、俺も売ったらデスク全体が総ヤラレになるかもしれない。

俺だってショートにしたいとこだが、ここは仕方がない。

まぁ、立場上、当然のことをしているだけだけどな。

そしてこれは、俺がまだジュニアだった頃に東城さんもやっていたことだ」

次の担い手である山下を鼓舞するつもりでそう答えた。

 翌日(23日)もドル円の上値は重たそうだった。

「山下、昨日のニューヨークのドル円高値は18(111円18銭)だったな。
つまり、前日の高値22(111円22銭)を抜けなかったってことだから、そろそろ売っておく方が良いな」

「そうですね。
私もそう思います」

「昨日の安値が56(110円56銭)だから、そこを抜けたら売るか。
50givenなら間違いなくドルは下がる。
50givenで50本、丁度(110円)givenで50本、リーヴしてくれ」

「了解です。
僕も50givenで乗っかります」
勢いよく山下が言う。

その後二人はディーリングルームに残ることにしたものの、ドルは下げ渋った。

ドルが下がり出したのは東京の午後8時を回ってからのことである。

それを見届けた二人は、銀座の‘やま河’へと向かった。

‘やま河’は元外資系銀行の人事部長だった山河里美が営むカウンター・バーである。

 「課長、上手く行くと良いですね」

「ああ、大丈夫だ。
間違いなくドルは落ちる。

まあ、飲もう。
お前は相変わらず、グレンリヴェットか」

「課長は、ラフロイグですね」

店内には、耳障りにならない程度の音量でBill Evans のPeace Pieceが流れる。

テイスティンググラスを傾けながら山下が
「至福の時ですね」
と気どって言う。

「体形に似合わず、お前も随分と気の利いたことを言う様になったな。
もういっぱしのニューヨーカー気取りってとこか」

「‘体形に似合わず’ってのは余分じゃないですか。
これでも最近3キロも痩せたんですから」

ママの里美がこっちを見ながらカウンター越しに少し控えめな声で笑っている。
‘笑顔の美しい女性は良いものだ’

俺以外に客のいなかったとき、彼女の方から‘10歳年上の妻子持ちの彼氏がいる’と聞いたことがある。
‘世の中、上手く行かないものだ’

 翌日以降、ドル円相場は急落し、週末には108円28銭まで下落した。

米国のセーフガード発動、ムニューシン米財務長官のドル安容認発言、そして黒田総裁のややタカ派的発言がドル安の背中を押したのだ。

今週売った100本は、9円60銭と8円50銭で手仕舞った。
そしてまだ、114円台のショート50本は残っている。

 土曜日の晩、例によって国際金融新聞の木村に来週のドル円相場予測のメールを送った。

木村様

 今週のドル安、少し速過ぎる感があります。

ムニューシン財務長官の発言はいささか唐突ですね。
経常赤字国・対外債務国の米国財務長官としては軽々過ぎる発言かと。

いずれにしても米国が経常赤字を外国の資本流入で補填している国である以上、ドル安容認はありえない話なので、発言は真意ではないのでしょう。

黒田さんの発言は、正常化プロセスでFEDやECBに遅れをとっているためのその場凌ぎの発言としか受け取れません。

問題はムニューシン発言、あるいは米国要人が今後もドル安容認を繰り返してきたときでしょうか。

ドルに下降モメンタムがついているときだけに、その点には注意が必要です。

来週のドル円予測レンジ:107円~111円

追記:
オシレーター系のチャートを見ても少しオーバーソールドで、短期的にドルが戻す様な気がします。

ただ、ドルの下値が固まっていないのでこの先まだドルが落ちると見ています。
IMMの投機的円売りポジションの縮小が遅れているのも気に懸るところです。

今週は少しドル売りを手控えます・・・。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

(つづく)


*ドル円金利差:過去からドル円金利はドル金利>円金利である。
この状態ではドルの先物はディスカウントとなり、先物レートは金利差(直先スプレッド)分だけ低くなる。
つまり、ドルショートのコストはロールオーバー(先送り)すればするほど悪くなり、
逆にドルロングのコストは低くなる(良くなる)ことになる。

第33回 「崩れたドル」

前の週から急速に悪化したドルの地合いは今週になっても回復しなかった。

週初(15日)に日銀が公表した‘さくらレポート(地域経済報告)’で三地域が景気判断を引き上げたことで、「日銀が2018年の経済見通しで強気を報告をする」との観測が円高の背中を押した。

テーパリングではFEDに周回遅れとなっている黒田日銀には焦りがある。
それだけに、市場は日銀サイドからの正常化プロセスに向けての示唆を気にしているのだ。

そんな中、市場がややドル円売りに前掛かりなのが気にかかる。

水曜日(17日)の東京は、早朝からドル売り一色の状態である。
前日のニューヨークで「ECBが金融政策の正常化を進める(ユーロ買い・ドル売り材料)」との観測が強まり、それが東京にも伝播したのだ。

早朝から顧客のフローも結構多い。

110円台前半で揉み合うなか、大手生保の一社が100本売ってきた。

「あっ!」
山下が声を上げる。
彼が滑ったときに挙げる声である。

彼のサポートに入った二人のジュニアも
同じ様な声を発した。

「何本滑った?」
少し大きめの声で聞いた。

「全部で70本です」
山下が返す。

「プライスは42(110円42銭)。
今、30given(30銭で売り)アラウンドか。
山下、ここは焦らなくていい、そのまま放っておけ!
ここからはもうドルは落ちない。直ぐにコストよりも上でカバーできる」

月曜・火曜と、110円台前半でドルを売って攻め切れなかった。
それに心理的節目の110円、そしてフィボナッチ水準*の110円15銭がドルのサポートとして効いている。

「了解です。
少し様子を見ます」
そう言われて、山下は少し落ち着きを取り戻した様である。

25がgivenしたところで、ドルを買う決意をした。
「山下はこっちで50本、
野口はシング(シンガポール)で50本、買ってくれ」
これで少しショートカットを誘える。

一旦、19(110円19銭)を付けたが、それから相場は反転し始めた。
ショートの踏み上げである。
昼には70(110円70銭)までドルが値を戻していた。

そんな状況を見て、
「山下、さっきのお前の70本、売り時だな。
もう、良い頃だ。
始末しておけ。

俺は東城さんに呼ばれてる。

部屋に行ってくるので、さっきの買い100本の利食いオーダーを入れておいてくれ。
80(110円80銭)で50本、25(111円25銭)で50本。
付かなければ、海外回しで良い。

今週はもう110円割れはないから、ストップは不要だ」

「了解です。
70本の滑り、お蔭様で助かりました。
ありがとうございます」
礼を言う声に張りが戻り、顔も嬉しそうである。

 「仙崎です。
宜しいでしょうか?」

「おう、入れ」
相変わらずの渋い声が迎え入れた。

「失礼します」

「大分ドルが売られてる様だが?」
ソファーに座ると、普段通り相場の話で会話が始まった。

「そうですね。
でも、ここは一息入る水準かと・・・」

「この先は?」

「今週は戻して11円台前半でしょうか。
まだ下の決着は付いてない感じがします」

「そうか、分かった。
ところで、例の堂島の件、大阪支店長の徳田さんから‘当面は忘れくれて良い’と言ってきた」

「どういうことですか?」
少し怪訝そうに聞いた。

「詳しいことは言わなかったが、恐らくこのところのドル安で含み損が減ってきたことが背景にあるのは事実だ」

「そこで三山製作所の方が勝手なことを言ってきた、ということでしょうか?
でも、この時点で決着を付けておかないと、拙いのでは。

3末(3月期末)までに再びドル高に振れれば、また彼等は難癖をつけてくるはずです。
ここで一気に整理しておいた方が良くはないでしょうか?」

「俺もそう思う。

だが、ここは徳田さんの意向もある様な気がする。
堂島での揉め事が露見すると、徳田さんの汚点になる。

大阪支店長は常務の中でもほぼトップに並ぶ位置付だ。
次は本店の筆頭常務、場合によっては専務のイスもある。

だから、次の人事が決まるまでの向こう数カ月の間、波風を立てたくないのかもしれない。

つまり、ドル安円高の加速が、三山、堂島支店、そして徳田さんにとって都合が良いってことだ」

「この話、東城さんや私にとって当分の間の患い事となるだけで、何のメリットもなさそうですね」

「そうでもない。
仮に徳田さんが筆頭常務になれば、国際金融部門の風通しが良くなる可能性がある。

徳田さんは融資畑の人間だが、住井出身だ。

統合してから15年経った今でも、あの年代には住井出身と日和出身との間で派閥争いが残っている。

仮に徳田さんが筆頭常務として東京に戻れば、日和出身の嶺さんの上になることは間違いないからな」
派閥云々を嫌う東城だが、嶺常務の存在が煩わしいことは想像に難くない。

‘ここは東城の意を汲むしかなさそうだな’

「了解しました。
取り敢えず、相場の成り行きを見ましょう」
と言い残して、ドアに向かって歩き出した。

ドアを開けかけたところで、
「いつも済まんな」
と詫びの声がかかった。

振り向きざま、
右手の親指を立てて微笑みを返した。

 翌日の木曜日、日経平均株価が91年以来の高値水準となる24000円台を付けたことを受けてドル円は111円48銭へと反発した。

しかしながら、ドル自体の地合いが回復したわけではない。
折から米国では政府機関閉鎖の可能性が示唆されていたこともあるが、ドルが軟調となってから日が浅い。

米10年債利回りが壁となっていた2.6%を超え、米株も堅調だが、ドルが本格的に反転するにはまだ早過ぎる。

それにテクニカル的にはフィボナッチ水準の111円55銭*の存在もある。

果たしてロンドン時間で、再びドルは110円台後半に下落した。

金曜日(19日)の午後になり、ドルが下に振れ出し、110円台前半を覗きかかったが110円49銭で止まった。

そんな折、財務省の吉住から勉強会の日取りが決まった旨、連絡が入った。
省内の都合で当初予定されていた1月下旬から延期され、2月7日に決定されたという。

 その晩、久しぶりに山下を誘い、青山のジャズバー’Kieth‘に出向いた。

入口を入って右手の奥にあるテーブル席に座ると、山下が慣れた様子で適当にオーダーを入れた。
BGMのオーダーも忘れない。
最近はColtraneに凝っているらしい。
「マスター、BGMはColtraneの’Ballads’で」

「山下さん、仙崎さんに選曲が似て来ましたね。
もっとも、風貌は全然違いますが」
マスターがからかう様に言う。

「えっ、それって‘どっちがどっち’ってこと?」

「ご想像にお任せします」
とマスターが笑いながら言う。

そうかわされては、もう山下も返す言葉もなさそうである。
「お疲れ様でした」
と言って、ビールグラスを持ち上げた。

週末の土曜日の晩、例によって来週のドル円相場予測を国際金融新聞の木村にメールした。

―――
木村様

予測レンジ:109円50銭~112円

有体で済みませんが、一応ドルの下値テストを予測します。

埋め草は沢山あるので、木村さんにお任せします。

*12月の短観に記載されていた「2017年度の大企業想定レート110円18銭」を記事に挿入すると、読者受けするかもしれませんね。
今週の最安値が110円19銭でしたから。

その下に110円15銭(61.8%、107円32銭&114円73銭)もあるので、それも絡めるとより木村さんのとこらしい記事になるかもしれませんね。

精々他紙が触れても節目の110円程度でしょう。

それでは失礼します。

IBT国際金融本部外国為替課 仙崎了
―――

数分後に木村から礼のメールが届いた。

―――
仙崎様

いつもありがとうございます。

最近は相場が予測通りに展開していて絶好調ですね。

国際金融新聞 市場部編集委員 木村

続け様に、OUTLOOKに着信の音がした。

添付付きの志保からのメールである。

―――
了へ

この間はどうもありがとう。

レジュメ、添付しておきました。
宜しく。

ところでもう、私達やり直せないのかしら?

志保
―――

簡単なメールである。

だが、最後の一行は重い。

これについては、返事の書き様がなかった。

返信には

―――
志保へ

マイクのファンドへの転職は心配しなくて良い。

また連絡する。


―――

(つづく)


*110円15銭(61.8%戻し、昨年最安値107.32&昨年11月の高値114.73)
*111円55銭(38.2%戻し、113円75銭&直近安値110.19)

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第32回 「志保の悩み」

 昨晩(6日の夜)遅く、志保から待ち合わせ場所と時間を知らせるメールが届いた。
場所は帝国ホテルのロビー、時間は6時である。

ホテルの車寄せにタクシーが着いたのは6時5分前だった。
彼女はこれまでに待ち合わせ時間に遅れたことがないから、間違いなくロビーで待っているはずだ。

メインエントランスを抜け、ロビーの左前方に目をやると、直ぐに志保の姿が目に飛び込んできた。

プロポーション抜群で30代半ばの美人が高級ホテルのロビーのピラーに背を持たれながらニューヨーカーを何気に読んでいる。

ジーンズにホワイトのシャツ、その上に質の良さそうなヘザーグレーのカーディガンを胸前で結ぶといったさり気ない出で立ちだが、それが妙に彼女を際立たせている。

一瞬、そんな風に思えた。

彼女も自分を見つけたらしく、ふたりの目があった。

彼女が小走りに近づいてくる。

ふたりの距離が1メートルほどに縮まったとき、彼女が「久しぶり、了」と言いながら胸に飛び込んできた。

彼女はハグのつもりだろうが、傍から見ればそうは見えない。

ふたりの頬が接した瞬間、
「おい、ここは日本だぞ、少しオーバーじゃないか」
と耳元に囁いた。

「良いのよ、了となら」
と平気で言う。

良く分からないままに、束の間抱きしめる格好となってしまった。

彼女の肩を軽く押し戻しながら、
「結構、元気そうだな。
でも、志保が元気そうな様子を敢えて見せるときは悩みを抱えているときが多い。
何か、問題か?」
と聞いてみた。

「ええ、まあ。
でも、取り敢えず、食事にしましょ。
地下の‘なだ万’に予約を入れておいたけど、和食で良かった?」

「問題ないけど」

「ね、二人で歩くとき離れて歩くの難しいの。
腕を組んでも良い?」

「まあ、俺は良いけど、志保は拙くないのか?
有名人らしいからな」
少し茶化してみた。

「‘外国で活躍する日本人女性’ってやつ。
ニューヨークで働いているだけで、別に活躍してるわけじゃないのにね」
と言いながら、既に右腕を俺の左腕に絡めている。

‘なだ万’での懐石料理も終わり、デザートが運ばれてきた頃、問わず語りに志保が悩みを打ち明けてきた。

「了と知り合う前、イーストリバーの妻子持ちの人と付き合っていたことは以前に話したわよね。

その彼が離婚するから、また付き合ってくれと言ってきたの。

もちろん、付き合ってもいないし、そのつもりもない」

「だったら、別に問題ないはずだが」
素っ気なく言う。

「それが、そうではないのよね。
昨年4月に彼がナンバー・ツーにプロモートされ、運用部門の全ての人事権を持つことになったの。

了が帰国してから数カ月経った頃、彼自身の運用のアシストをしてくれと頼まれ、仕方なしに引き受けることになった。

ベースは一挙に10万ドルアップしたし、来月貰う予定のインセンティヴ・ボーナスも相当な高額に上ったのは喜ばしいことだけど、毎日が大変」

「同じ個室で仕事をし、毎日の様に口説かれてるってわけか。
それで、どうしたいんだ?」

「給料は魅力的だけど、居心地が悪すぎる。
他に仕事を探すしかないと思ってる。
困ったわ」

「まだポートフォリオ・マネージャーの仕事を続けたいのか?」

「ええ、楽しいし、過去のトラックレコードも悪くないから。
多分、私に向いている仕事だと思ってる」

「それで、どこで仕事がしたい。
ニューヨーク、ロンドン、どこでも紹介できるけど」

「まだ暫くは、ニューヨークにいたい。
でも、人間として信頼している人の下で働きたい。

この世界、どこか腐ってる人が多すぎるわ」

「まあ、腐ってる人間はどの世界にもいる。
まだ、そっちの世界にだってまともな人間は少なからずいるよ。

ニューヨークじゃないけど、コネティカットに行く気はないか?
そう、志保も良く知ってるマイクのファンドだ」

「えっ、本当!
彼なら信頼できるし、一度オールドグリニッジにも住んでみたかったの。
お願い、頼んでみて」
真剣な口調だ。

どうやら元カレは毎日、彼女に陰湿に言い寄っていたのに違いない。
その彼から逃れられるという安堵の気持ちが働いたのか、嬉し涙らしいものが彼女の目に滲んでいる。

「あっちに戻ったらレジュメをメールしておいてくれ。
マイクには話しておく。

もう大丈夫だ。
安心しろ。

ただ、イーストリバーを辞めるのはボーナスを貰ってからにしておけよ」

「そうね、お金って大切だもんね」
笑って言う。
もうすっかり元気を取り戻した様だ。

 その夜、彼女を抱いた。
二人の関係は本店への転勤でなし崩し的状態になっていたが、きっぱりと別れたわけではない。
それだけに、会えばそうなるのは分かっていた。

 成人式の週初(8日)、東京市場がクローズのなか、相場は113円前半でもたついた。

その日の夜中、ニューヨークの沖田に電話をかけた。
「どうだ?」

「ドル円の上は重いですね。
何となく、落ちそうな気配がします。

ユーロドルはややオファー気味ですが、ポジション調整後は買いだと思います。

何かしますか?」

「そうだな、ドル円50本売ってくれ」

「04(113円04銭)です」

「了解。
それと10分後に、もう50本売っておいてくれ。
レベルは構わない。
円に関しては、その後のリーブは不要だ。

あとユーロドルを50本買いたいが、何処が良い?」

「60(1.1960)辺りでしょうか?」

「じゃ、60でリーブを頼む。
ストップは丁度(1.1900)givenで良い。

忙しいところ、どうもありがとう。
それじゃ」

「お疲れ様でした。
お休みなさい」
いつもの静かな沖田の声で会話は終わった。

翌日の朝、山下からニューヨークでの取引内容の報告を受けた。
追加のドル円の売り50本は13円07、ユーロドルの買い50本は1.1960でダンとなった。

「どの様に処理しておきますか?」
山下が聞く。

「3円04の50本の売りは先週の12円台の利食いに当てておいてくれ。

これで現在のポジションは、ドル円は14円台の売り50本、13円07の売り50本、ユーロドルは1.1960の買い50本。

それで良いか?」

「はい、間違いありません。
乗ってきましたね」

「まあな、ただお前以外はパットしないから、10~12(10月~12月)は全体で少し未達だ。

俺もプラスだが、大したことはない。
ここらで頑張らないと、3月末の数字が厳しくなる」

「そうですね。
ところで、大阪の件の真相はどうなんでしょうか?」

「明日には浅沼の調査が終わるから、明後日には真相が分かる。
どうせ俺が片づけることになるのだろうが・・・。

ともかくそれはそれで、稼げるときに稼いでおくしかないな」

会話を終えて、ふとスクリーンを見ると、みるみるとドル円が急落して行く。
午前中に50(12円50銭)がgivenした。

日銀の超長期国債買い入れオペが予想外の減額となったことで、テーパリングが進むとの思惑が市場に走ったためである。

そして翌日には、‘中国が米債投資を辞める’との報が流れ、ドル下落が続き、週末には110円91銭を付けて、週を終えた。
少しツキが回ってきた様である。

週末の土曜日の午前、ベッドに横たわりながら大阪の件を考えていた。
堂島支店・柿山の話、そして三山製作所の話、どちらも噛み合いそうで噛み合わない。

柿山は108円台の時点で、‘110円まで戻す可能性は極めて低いから、売った方が良い’と三山に強く勧めたという。

だが、話の半分が本当だったとしても、為替予約は顧客である三山の意思で行うものであり、銀行が強要できるものではない。

やはり、真相を暴くためには‘面倒でも自分で大阪に出向くしかないな’

その晩、国際金融新聞の木村宛てに来週のドル円相場予測を書いた。

木村様

やっと、予測してきた様に相場が動き出しました。

114円台のショートが根っことなり、活躍しています。
新たに113円台でショート、そして1.19台でユーロドルをロングしたので、ディールの方はまずまずです。

日銀の超長期債の買いオペの減額とテーパリングが結び付けられ、円が急騰しましたが、
確証はありません。

ドルが落ちたのは、今のところポジションの投げが主因と判断しています。

米法人税減税とFEDの正常化プロセス継続という好条件がありながらも、115円を試せなかったため、‘日銀のテーパリング話がドルロング(円ショート)の投げに繋がった’程度の話で捉えておいた方が無難かと。

もっとも、米国のNAFTA離脱話や中国の米国債購入の減額話の信憑性が高いのであれば、この先サイコロジカル水準の110円を試す展開があっても不自然ではありませんが・・・。

ユーロドルが1.21を抜いているので、これもドル円の押し下げ要因には違いありません。

こんなところで適当に行間を埋めておいて下さい。

予測レンジ:109円~112円75銭

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

(つづく)

第31回 「新たな問題」

 2日の昼過ぎまで横浜・永田町の実家で過ごした。

帰りがけに玄関で靴を履きながら、
「いつも遠いのに、社宅の掃除に来てくれてありがとう。
それに料理も助かるよ」
と母に礼を言うと、その目が潤み出している。

単なる別れの涙もあるのだろうが、いつまでも結婚もしない息子に対する複雑な思いが涙に籠ってる感じがした。

「随分とお前も大変なんだろ。
母さんはお前の仕事のこと、何も分からないけどあまり無理しないで」
と言う。
母親が息子との別れ際にかける有体な言葉だが、それが自分の母親のものであれば特別である。
自然と心に疼きを覚えた。

呼んでおいたタクシーが既に門の前で待っている。
それを口実にドアを押し開き表に出ると、後を追う様に出てきた母に封筒を手渡した。
50万円入っている。

「お前、こんなに・・・」と戸惑う様な母の声を背中に聞きながら、タクシーに飛び乗った。
車窓越しに少し左手を挙げて母を見やると、手を振りながら何か言ってる。
‘ありがとう、元気で’と読めた。

 その日ドル円は、北朝鮮・金正恩による米国への威嚇発言でリスクオフの雰囲気が拡がり、112円06銭まで下落した。

だが、複数のテクニカル・ポイントが112円近辺に絡んでいるため、ドルに下げ渋り感がある。

その日以降、日米株価の上昇やISM製造業景気指数など良好な米経済統計がドルの背中を押し、ドル円は米12月雇用統計が発表される週末前に113円方向へと動いて行った。

 夜に米雇用統計の発表を控えた金曜日の10時過ぎ、東城から呼び出しがあった。
大阪管轄の客との揉め事で話があるという。

執務室に入ると、晴れ渡った空の下にくっきりと浮かぶ皇居の森を眺める東城の背中が目に入った。
相変わらず、背筋が伸び、凛とした後ろ姿である。

だが、その後ろ姿とは反対に、振り向いた顔には若干屈託の色が滲んでいた。

「まあ、座れ」の言葉を待って、ソファーに腰かけると、
東城も向かい側に腰を下ろした。

「市場はどうだ?」
開口一番の言葉はいつも通りである。

「複数のチャートポイントが絡む12円近辺ではドルが底堅い様です。
あそこが抜けると、面白かったのですが、残念ながら13円方向に戻ってきてしまいました。

ユーロドルは1.20台に乗ってから上値に重たさが感じられますが、9月の高値(1.2092)近辺ですから無理もないことかと。

もっとも、根本的にユーロを見直す時期が近づいているのかも知れません。
世界の外準(外貨準備)に占める通貨別シェアは、このところドル建てが減少し、僅かながらユーロ建てが伸びています。

昨年6月にドラギが「デフレ圧力はリフレ圧力に置き換わった」と発言していますが、あの辺りからユーロ相場に潮目の変化が見られます。

早晩、ユーロドルのレンジの下値が1.20に変わる可能性があるのかと・・・」

「そうか、分かった。

ところで、ちょっと大阪で問題が起きてる。
あっちで上手く片付けば良いが、どうも大阪支店長の話だと拗れそうだ。

堂島支店の企業担当が工作機械メーカーの三山製作所に3年先までの輸出(ドル売り円買い)予約を強いたらしい。

‘らしい’というのは、堂島支店の担当が客も納得した上でのことだと言い張ってるからだ。

とは言っても、責任転嫁をしている時間はない。
3月末が迫っているため、このままドル高が進行すれば、三山の決算期における為替評価損が膨らむことになる。

コストは108円台、予約残は60本だから、現状のレートで換算すると含み損は約2億数千万円だ。

それと、三山の輸出先である米国企業からの受注が激減しているという話もある。
仮にその状態が続けば、未使用のショートポジションが発生するから、事は結構深刻だ」

「でも何故、うちの堂島支店の担当が、そこまで長期のフォワードを予約させたのでしょうか?」

「以前にシンガポール支店のトレジャリー部門にいた柿山が担当だ。
彼は市場部門から外されたことを今でも根に持ってるそうだ。
その辺りに原因がありそうだが、もう少し事情を調べてみてくれ」

「了解しました。
至急、コーポレート・デスクの浅沼を大阪に行かせます」

「そうか、分かった。
でも、最終的にはお前が決着を付けるマターだ。
出来る男には、次から次へと難題が降りかかるな」
笑いながら言う。

「本部長、ここは笑うところじゃないでしょう」
半ばむっとした表情を浮かべながら言う。
無論、東城だから許される口のきき方である。

「悪い、悪い」と言いながら、東城はデスクに向かって歩き出していた。

もう話は終わりだということである。

ドアを開けようとしたところで、
「新年会は近い中に‘下田’で良いか?」
と、後ろから声がかかった。
労いを入れるところが東城らしい。

「はい、ありがとうございます」
向き直って、軽く会釈をしながら答えた。
わざとらしく少し笑みを添えるのも忘れなかった。

自席に戻るなり、
「浅沼、ちょっとこっちに来てくれ」
と声を掛けた。

今しがた東城から聞かされた話をそのまま彼に伝え、
来週早々に大阪出張を命じた。

その日の晩、米12月雇用統計の発表があったが、銀行には残らず、社宅でラフロイグのグラスを傾けながら統計結果を待った。

統計結果は思わしくなかった。
NFP(非農業部門雇用者数)が市場の予測を下回り、ドル円は13円前半で伸び悩んだ。

ニューヨークの沖田に電話を入れたが、‘もうこっちの連中はやる気はなさそうです’と言う。

それを聞いて、モニターから逃れることにした。

ベッド脇のテーブルにグラスとボトルを運び、そしてBGMにAnn Burtonの気怠いボーカルを選んだ。

ベッドに寝転ぶと、少し酔いの回った頭の中で予測が空回りした。
それでも何とか当りを付けた。

来週は短期の保ち合いを放れる。
先週後半の値動きから上に放れそうだが、そろそろ需給が緩みそうな(実需のドル売りがでそうな)気配もあり、基調としてのドル買いにはならないはずだ。

現在のポジションは14円前半のショート50本、12円30のロング50本のみである。

できれば50本ロングを適当に利食い、そしてショートはそのまま残しておきたい。
そんな展開になれば良いが・・・。

 土曜日の晩、国際金融新聞の木村に来週のドル円予測を送った。

木村様

明けまして、おめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。

13円台は値頃感、相場勘、そしてチャートポイントが絡み合い、揉み合いかと思います。

依然として基本的には、ドルの上値は重たく、ベアリッシュ・バイアスです。

予測レンジ:111円~114円10銭
キー水準:上は113円75銭、下は112円前後

いつも通り、行間の埋め草は適当に頼みます。

以下、ご参考まで

米税制改革法案の実現やFEDの正常化プロセス(利上げ)という与件がありながら、ドルに力強さが感じられない。

昨年を振り返れば、米利上げがドルを押し上げた経緯はない。
昨年12月のFOMCでは今年2~3回の利上げを行うというのが内部のコンセンサスの様だが、それがドル高を牽引するとは思われない。

以前にお話した米イールドカーブの「フラットニング→逆イールドカーブ」が徐々に顕在化しつつあり、「株のクラッシュ→ドル急落」には警戒を要する。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

 メールを出し終わった直後、スマホが鳴動した。
阿久津志保からの電話である。
「了、明日会える?」

昨年からの約束である。
断る訳にはいかなかった。
「ああ、良いけど」

「何だか、疲れてるみたい。
それじゃ、後で時間と場所をメールしておくから、明日必ず来てね」

「分かった」
二人同時にスマホを切った。

会えば抱くことになるのが分かっている。
それが今は億劫でもあり、憂鬱でもある。

(つづく)

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第30回 「語られた真実」

ホリデーシーズンの真っただ中、市場は週初(25日)から週半ばまで動意なく過ぎた。
ドル円相場は113円前半での保ち合いに終始し、市場からすべての参加者が消えてしまったかの様だ。

この時期、毎年同じ状況が繰り返されるため、いっそのことクリスマス前後の数日間、市場がクローズしてしまえば良いのかもしれない。

だが、市場には市場の機微があり、そんな相場付きでも微妙に何かが動いているはずだ。
そんな微妙な動きを読めるときもあるから、動意ない相場も無視できない。

米大リーグ(MLB)では、今年から監督による申告敬遠が採用された。
監督がアンパイアに敬遠のフォアボールを申告すれば、投手は4回の投球を行う必要がなくなったのだ。
4回分の投球時間がセーブされ、試合時間の短縮に貢献するという。

そんな新ルールを、「4球の間の空気感があるでしょ、面白くないですよね」と切り捨てた大リーガーがいる。
日本が生んだ稀代の大リーガー‘イチロー’である。

4球の間の空気感、どこか動かない為替市場にも似ている。

足下のドルは一カ月間も買い進まれた局面で、上にも下にも行けない状態だ。
だとすれば、ポジション調整で少しドルが落ちるのかもしれない。
そんな空気感が動きの失われた113円台前半に漂う。

果たしてドルは木曜日からジンワリと落ちだし、今年最後の市場で112円47銭へと下落した。

年末に短期のドル調達コスト(金利)が上昇したのは例年通りだが、今年の急騰は酷過ぎる。
FED(米連銀)が正常化(利上げ)路線を進めるなかでのこの状況、それでもドル買いが進まない。

不自然さがそこにある。

高すぎる調達コストに辟易とした向きが、ドル資金を敬遠すれば、調達コストが低下するはずだ。
新年早々、それが切っ掛けでドルが落ちるかもしれない。

依然として114円台前半の50本ショートを持ち続けたままだ。
盤石の根っこのポジションとは言えないが、これを軸に数回転の売買ができ、それなりの利益を生んでいる。
今の処、このショートが虎の子のポジションである。
もう少しこのショートをキープしておくしかない。

複数のテクニカル・ポイントが集中する112円前後、ここが抜ければ、1月に110円台もあり得る。
そんな展開を期待したい。

 年末年始を家族向けの社宅で過ごすのは侘しい。
年末の土曜日(30日)、横浜市の永田町にある実家に戻ることにした。
年が明けて1日には姉夫婦と姪・甥も来るという。

皆が集まると、必ず俺の結婚話になるので鬱陶しいが、久々に家族らしい雰囲気で迎える正月は良いものだ。

実家には自分の部屋が大学時代のまま残っている。
母親の手が入っているせいか、清潔感が漂っている。

自室のベッドで暫く横になった後、夕飯目的で母を中華街に誘ったが、自分が作ると言い張った。

‘この歳になっても我が子は我が子である。
手料理を食べさせたい気持ちが働くのだろう。

勝手な理屈だが、独身であり続けることは一種の親孝行なのかも知れない’

結局その日は、母親の料理で夕飯を済ませることにした。
サバの味噌煮、カキフライなど、自分の好物がテーブルに並ぶ。
それらをつまみに母と息子は、ビールを飲みながら世間話で時を埋める努力をしたが、会話はそう長くは続かなかった。

間を繕う様に
「岬さん、今頃どうしてるのかしらね?」
と聞いてきた。

母は岬を気に入っていた。
心の中では今も、‘岬が俺の嫁さんであったら良かったのに’と思っているのに違いない。

「人伝だけど、元気にしてるらしい」
それ以外答えようがなかった。

会話が途切れ途切れになったのを頃合いに、
「少し疲れた」と言って、自室に引き上げた。

 自室のベッドに横たわると、岬のことが脳裏に浮かんできた。
彼女には財務省の勉強会の前に聞いておかなければならないことがある。

勉強会では岬の夫が何等かの言いがかりをつけてくるに違いない。
それに備えて置く必要がある。

枕の横に置いてあるスマホを手にした。

「こんばんわ、寒いわね」
少し声が明るい。

「元気か?」

「ええ、このところ松本も寒波で大分冷え込んだけど、大丈夫。
了は?」

「ああ、今、実家でのんびりしてるよ。

いつもながら、お袋が岬のことに触れてくるけど。
それが結構、辛い。

岬のことを気に入ってたから仕方ないけど」
そう言ってから、‘拙い’と思った。

かつてだったら岬にとって嬉しい話に違いないが、今となっては後悔を深めてしまう言葉に過ぎない。

少し会話が途絶えたが、
「機会があったら、またお母様にお会いしたいわ」
と落ち着いた声が返ってきた。

「そうだな、そんな日が来ると良い。
ところで、例の財務省の勉強会が1月の中下旬に行われることになった。
そこで、岬に聞いておきたいことがある。
坂本さんとの間に‘本当は何があったのか’を教えてくれないか?」

躊躇いもあるのだろうか、少し間が空いたが、
凛とした声が返ってきた。

「了も薄々は感じてるでしょうけど、夫と貴方とは真逆の性格とでも言えば良いのかしら、あるいは陰と陽かも。

了がニューヨークのテレビ番組に出演していたときの事は、以前に話したわよね。
あの時、夫は了が私の元の恋人だったことに気付いたと思う。

その後、夫との諍いごとがあったときのこと、‘彼だったら、そんな言い方をしないわ’って言ってしまったの。

軽率だった。

‘彼って、あいつのことか?’って聞いてきた。
私は否定も肯定もしなかったの。

もう夫婦関係に疲れてたから、あの時はどうでも良かった。

それが今の了に結びつくなんて、考えてもみなかったわ。
ごめんなさい、本当に・・・」

そこまで話すのがやっとの様子である。

「もう、それ以上は話さなくて良い。辛かったな。
俺の方は大丈夫だ。

多分勉強会の当日、何かを仕掛けてくるだろうが、心配いらない。
だからもう泣くな。

今日は伯父さんの処へでも行って、旨い酒でも飲んでこい」

岬の伯父は松本で‘縣倶楽部’という割烹を営む。

まだ嗚咽している様だが、
「分かったわ、行ってくる。
お店、年内は今日が最後らしいから、残りものの整理に丁度良いわね」
少し元気を取り戻した様だ。

「そうだ、それが良い。
それじゃ、伯父さんに‘良いお年を’と伝えておいてくれ。
おやすみ」

「おやすみなさい、風邪、引かない様にね」

 電話を切ると、自室の窓を全開した。
12月末の外気は冷たいが、気持ちが良い。

これで岬の夫と戦う準備ができた。

部屋の隅にパタゴニアのキャリーバッグが置いてある。
衣類、PC、ラフロイグのボトル、ショットグラス、BOSEのSound Link MINIなど、数日間の滞在に必要なすべてが入っている。

ラフロイグをグラスになみなみと注ぐと、ipodとSound Link MINIをBluetooth接続した。

BGMにはPat Methenyの’One Quiet Night‘を選んだ。

男っぽいギターの音色がラフロイグに妙に合う。

(つづく)

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第29回 「ホリデーシーズン」

予想されたことだが、欧米のホリデーシーズンを控えて、週初(18日)から市場は静かである。

そんな相場付きでも総合商社は、10本、20本と玉を打ってくる。

中でも五井商事のディーリング頻度は目を引く。

その五井商事の外国為替課長を務める武村は動きの鈍い相場でも着実に収益を上げる人物として知られるが、執拗なまでに売買の主体を銀行に聴きまわるため、市場ではあまり評判が良くない。

ただ、市場の主体の動向を掴むことはディーリングの「いろは」の「い」であり、それを自身にも部下にも言い聞かせて守っている。

その姿勢は多種多様な相場商品を取り扱う五井商事の伝統の中で培われたものだろうが、流石と言わざるを得ない。

冴えない相場が続くなか、10時過ぎにその武村から電話が入った。
顧客の担当は部下の浅沼が率いるコーポレート・デスクだが、彼が相場の話をするときは俺に直接電話を掛けてくる。

受話器を取るなり、
「仙崎さん、今のポジションは?」と聞いてきた。

「ジョビングはドル円もユーロドルも売ったり買ったりの繰り返しです。
少し抱え込んでいるのは14円前半のショートですが」
正直に答えた。

「そうですか、ショートにしている理由は何ですか?」

「理由ですか、特にないですね。
強いて挙げれば、あっち(米国)のイールドカーブのフラットニング化でしょうか。
逆イールドカーブまで考慮すれば、米株の暴落もあり得るわけですから。
今日明日、それが起きるとは思いませんが、そのことが軸足としてのドルロングを躊躇わせているのかもしれません」

「そうですか。
でも、仙崎さんのことだから、他にも何か理由があるんじゃないですか?」

「まあ無くはないですが、武村さんに話す様なものはありませんよ」
半ば本音である。

武村は‘ハハ’と少し笑った後、
「今週のドル円はどうですか?」と聞いてきた。

「買いだと思いますが、今日の東京ではもうこの上はないでしょうが」

「それじゃ、20本売ってください」

山下が‘70’とクオートする。

「70(112円70銭)です」

「done(ダン)」

「ありがとうございました」

「こっちこそ、どうも。
また教えて下さい」
謙虚だった。

その日のニューヨークで12円31まで下落した。

それ以降、ドル円は堅調となり、木曜に週高値となる13円63まで上昇したが、そこで止まった。

12日の高値13円75を試す様であれば、多少のドラマも生まれただろうが、欧米もロング・ウィークエンドを控えてやる気はない。

翌金曜日のニューヨークでは、ポジション調整で13円25まで下げた後、30前後で週を終えた。

 イブの土曜日、世間はクリスマスに湧くが、俺には関係ない。
日がな一日、気ままに過ごせば良いのだから、それはそれで楽しい気分にしてくれる。

BGMには耳に優しいナイロン弦のクラシックギターが奏でるジャズを選ぶ。
コーヒーはシティーローストのコスタリカが良い。
読み物は経済誌も良いが、きっとそれには直ぐに疲れるはずだから、アウトドア用品のカタログも用意しておこう。

そんな設えを昼過ぎから実行に移し、気分の良いときを過ごしていたが、日頃の疲れが出たせいか、ソファーの上で寝入ってしまった様だ。
目が覚めたといには部屋はもう暗かった。

テーブルの上のスマホに手を伸ばし、時刻を見ると、6時近くである。
独身の男、ましてや彼女のいない男にとっては、詫びしくもあり、人気が恋しい時間だ。

向かい側の棟に目をやると、多くの窓には明かりが灯り、イブを楽しんでいる家族の様子が窺える。
もうブラインドを下ろすしかなかった。

‘拙いな’
少し萎えた気持ちを振り払うかの様に頭を振ると、机の上に置いてあるラフロイグのボトルの栓を抜き、なみなみと琥珀色の液体をショットグラスに注ぎ、一気に飲み干した。
咽なかったのは気持ちがそれだけ強い潤いを求めていたからだ。

半ばアルコホリックになりかけているのかも知れないと思いつつ、二杯目をグラスに注ぎ、それを口に運びかけたとき、スマホが鳴った。

 「了、久しぶり、元気?」
ニューヨーク時代の恋人、阿久津志保からの電話だった。

彼女とはとあるパーティーで知り合ったことで付き合い出したが、本店への転勤が切っ掛けで別れた。
先の約束を持たない関係だったためか、彼女は今でも平気で電話をかけてくる。

邦銀のニューヨーク支店を辞めた後、ニューヨークのイーストリバー投資顧問のポートフォリオ・マネージャーとして活躍している。

最近では海外で活躍する日本人女性として名前が知られ、時折りこっちの経済誌や女性誌でも採り上げられているという。

「ああ、元気だけど。
今日みたいな日は、一人ものは少し気持ちが沈むかな。
今、どこからだ?」

「東京よ、母のところ。
了の社宅の近くね」
かつて芸妓だった彼女の母は四ツ谷で割烹料理屋を営んでいる。
民自党の元幹事長を務めた宮森の愛人だったそうだが、その手切れ金が今の割烹料理屋だったという。

「そうか、もうあっちは暇だろうからな。
たまの親孝行で帰って来たのか。
で、いつまでこっちにいるんだ?」

「来月の10日頃までかな。
ねぇ、了、これから出てこない?
だってさっき、気持ちが沈むって言ってたじゃない」
思い付きで動くのは彼女の特技だ。

確かにイブを男一人で過ごすより、女性と過ごした方が良いに決まってる。
それに志保は、すれ違う誰もが振り向くほど、飛び切りの美人だ。
だが、どことなく気が乗らない。
岬のことが頭にある。

「今日は止めとくよ、少し風邪気味なんだ。
来年早々でどうだ?」

「そ、残念ね。
誰か好きな女性(ひと)でも出来た?」
見透かした様に言う。

「そんな訳じゃないけど。
また電話くれないか?」

「分かったわ。
それじゃ、また電話する。
風邪治しといてね」
と元気に言って、電話を切った。

志保が元気な声を出すときは、何かで落ち込んでいることが多い。
悪いことをしたかなと思う。
そんな思いを振り切る様に、グラスに残ったラフロイグを喉の奥に流し込んだ。

木村様

来週のドル円相場予測。
レンジ:112円~114円20銭。

この時期、あまり語ることもないので、適当に作文をお願いします。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

(つづく)

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第28回 「不意打ちの電話」

 米11月雇用統計は良好だったことから、先週末のドル円は高値引けとなった。

週初(11日)のドル円はその地合いを受け継ぐ格好で堅調に推移したが、市場は114円台を試そうとはしない。

海外でも積極的なドル買いは手控えられている様だ。

週半ばにFOMCの政策決定を控えていると言っても、ドルの力不足は否めない。

現在のポジションは14円前半の50本(5000万ドル)のショート、12円前半の50本のロングである。
どうやらまだ、ショートを根っことして抱えておいた方が良さそうな気配だ。

火曜日の夜中、少しビッド気配となった頃合いを見て、ニューヨークの沖田に電話を入れた。

「今、大丈夫か?」

「はい、少し落ち着いたところですから、
問題ありません」

「そうか、円(ドル円)*はビッドの様だが、どんな感じだ?」

「はい、上は75(13円75銭)までですが、PPIが良かったので、明日のCPIにも期待が掛かっている様です。

特に大所が動いている感じではなく、買いはジョビングだと思いますが・・・」

「分かった。
50本、売ってくれるか?」

‘ここで売って、12円台前半のロングを手仕舞っておこう’

「アベレージ65(13円65銭)で売れました」

「じゃ、63で良い。
2銭は今夜のお前の飲み代だ」

「随分と大きな飲み代ですね。
部の全員を連れて行ってもたっぷりお釣りがきますね」

「そりゃそうだ」
二人の笑い声が共鳴した。

「ところで、ご家族は元気か?

はい、こっちで迎えるクリスマスも今年が最後ですから、家内も子供も随分と豪勢なオーナメントを飾りつけたりして楽しんでる様です」

「そうか、それは良かった。

まあ残りの数カ月、フロリダへ行くなり、バハマへ行くなり、楽しんでこい。

それじゃ、どうもありがとう」

これで、ポジションは14円台前半の50本のショートだけになった。
‘何とかこれが根っこのポジションとなってもう少し活躍してくれれば良いが’

 翌水曜日のニューヨークの午後、FOMCは追加利上げを決定した。

利上げは予想通りだったが、ドットチャート(FOMCメンバーの政策金利見通し)に変化が見られなかったことでドル買いの目は消えた。

FOMC後の記者会見ではイエレン議長が物価に対して弱気な発言を行った。

朝方に発表された11月のCPIが総合・コア共に予想を下回った結果となった後のこの発言、市場がドル売りに傾かないはずはない。

翌日の木曜以降はドルの下値を試す展開となり、週末のロンドンの朝方に週安値となる12円03を付けた。

そんな折、ジュニアの前島が
「課長、MOFの吉住さんから電話が入ってます」と叫んでいる。

「忙しいから、折り返すと言ってくれ」
暫くしてもまだ、前島が電話を切らないでいる。

「どうした?」

前島が受話器をクリック*をした後、
「少し待つと言っていますが、どうしましょう?」
と言いながら、困った様子を見せる。

「分かった、俺が出る」
と言って受話器を取った。

「申し訳ありません。
場が動いているときに」
吉住の詫びる声がした。

「場を見てるのなら、少しは気を利かせろ。
そんなに急を要する話なのか?」
吉住はMOFの人間だが、大学の同好会の後輩である。
遠慮なしに厳しく言った。

「はい、いえ、まぁ・・・。
例の講師役の件で、坂本から直ぐに取りついでくれと命令されたもので」

「どう言うことだ?」

「引き受けてくれた礼を言いたいとのことです。
それで本当に申し訳ないのですが、先輩から坂本に電話を入れてくれませんか?」

「馬鹿かお前は!
礼を言いたいのなら、彼が俺に電話をしてくるのが道理じゃないか。
そんなに理不尽なのか、霞が関ってところは?」

「いえ、彼は特別の存在なんです。
間違いなく局長に上がり、その先に事務次官のポストも見えてる人物なんです」

「それが俺とどう関係するんだ。
兎も角、話があるなら、‘そっちから掛けてこい’と言っておけ。
それと電話はディーリング用でない番号にな」
有無を言わせず、受話器を置いた。

‘世の中、ふざけたヤツがいるもんだ。
今の話を聞いただけでも、岬の夫婦生活がどんなものだったのかが窺い知れる’

 場は時計の針が6時を回る頃になって落ち着いてきた。
吉住の電話で気分がザラつき、もはや場に入る気持ちも失せている。

「山下、Kiethへ行くか?」

「はい、5分待って下さい。
ちょっと、事務処理を済ませますから」

「分かった」
と言いながら、窓際に向かって歩き出した。
眼下に目をやると、日比谷通りを南北に車のヘッドライトが行き交う。
いつもと変わらないはずの光景だが、師走のせいだろうか、車が多い様に感じられる。

そんな光景を見ながら数分が経った頃、
「課長、MOFの坂本さんからお電話です」
と山下の声が耳に入ってきた。

‘捉まってしまった様だな’
仕方なしにデスクに戻り、電話に出た。
「仙崎です。
いつも国際金融局にはお世話になっております」
社交辞令から切り出した。

「初めまして、財務省主計局の坂本です。
先刻は吉住の表現が拙かった様で、私の意が届かずに残念でした」
明らかにこっちから電話をしなかったことに対する不満がその声に滲む。

「残念とは?」

「いや深い意味はないのですが、普通はあれで電話が頂けるのかと・・・」

「はぁ、そうですか」
‘財務省が常に上に位置し、そして中でも自分が常に上にいる’そんな感じの話しぶりである。

「まぁそれはそれとして、この度は講師役をお引き受け下さり、ありがとうございました。

仙崎さんのことは為替の世界では有数の人材とお聞きしています。
国際金融局の連中も皆、あなたのファンです。

そんな仙崎さんのお話しを聞くのを楽しみにしていますよ」
そこまで話すと、急に声のトーンを落とし、

「そう言えば、家内もあなたの出演していたニューヨークのTV番組をしばしば見ていました。
IBT勤務時代に家内もあなたのファンだったのでしょうかね」
と尋ねる様に言う。

‘もうそれ以上の当りを付けているくせに、白々しいやつだ’

「もしそうであれば、光栄ですね」
こっちもしらばっくれて返した。

そんな時、
「課長、ロンドンからお電話です」
と、電話の相手にも聞こえる様に山下がわざと大声を張り上げた。

「お忙しそうですね。
お邪魔してしまった様だ。
それじゃ、勉強会は1月の中旬を予定しているので、宜しく頼みますよ」
と言って電話を切った。

「山下、フェイクコールありがとう。
待たせて悪かったな。
さ、行くか」

 ‘Kieth’は2件目に使う店だ。
7時過ぎでもそこそこ席が空いていて、いつものテーブル席を確保できた。

椅子に座ると、山下は「ビール、チーズの盛り合わせ、それからサンドイッチ」とマスターに注文を入れた。

それに「BGMは‘Coltrane’の‘Say it(over and over again)’の入ったアルバムをお願いします」と頼んでいる。

もうすっかり常連気取りだ。

「お前、いつからジャズを?」

「ニューヨークへ行く前に少しジャズの勉強でもと思って・・・。
柄にもなく、休みの日に近所のジャズ好きの店主が営むコーヒー店に出向いています」
頭を掻きながら、照れて言う。

「それは良い。
大分ニューヨークのジャズクラブも閉店に追い込まれてる様だけど、まだ良い店が残っている。
奥さんも連れて行ってあげるといい。

ところで、さっきは助かったよ。
彼が俺と岬のことをどこまで知っているのか知らないが、結構思わせぶりの口調だった。

恐らく岬は何かの拍子に俺のことを口走ってしまった様な気がする。
勉強会の前に彼女に再確認しておく必要がありそうだな」

「そうですか。
やっかいな話ですね」

「まあ、乗りかかった船だ。
売られた喧嘩だしな」

ビールとサンドイッチで腹が膨れた様子の山下が
「もう、クリスマスですね。
相場が動くのも年内は来週一杯でしょうか?」
と聞いてきた。

「あっちの税制改革も決定だろうし、それでどこまでドルが買われるかだな。
もっとも、欧米は実質的にクリスマス休暇に入るから、必ずポジション調整に出てくる。
シカゴの円売り越し高はまだ結構残っているから、手仕舞ってくる可能性もあるので注意しとくと良い。
俺は6日に付けた11円99が抜ければ、10円台もあると見てるけど。
まあ、仕事の話は止めにして飲もう」

’Joachim Kuhn’の‘Sometime Ago’が店内に切なく流れ出した。
泣かせるメロディーである。

(つづく)


*円:ディーラー間では、‘円’と言ったら‘ドル円’のことを指す。
もちろん、ドル円と言っても問題はない。

*クリック:電話相手にこっちの話を聞かれない様に、ミュートにすること。
但し、介入の際、MOFは銀行が電話をクリックすることを嫌う。

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第27回 「MOFからの確認」

先週末に米上院で税制改革法案が可決されたことを受けて、週明け(4日)のドル円は先週末より高値水準となる112円後半で寄り付いたが、その後は概ね同レベルで保ち合う展開となった。

朝方の売買が一巡した10時過ぎ、凝り固まった背中を伸ばすため、ディーリング・チェアを目一杯後ろに倒し、深く息を吸い込んだ。

そのままの状態で暫く目を瞑っていると,
「課長、MOF(財務省)から電話です」という山下の声がした。

MOFの誰からの電話か訝りながら、チェアを元の位置に戻して受話器を手にした。

「はい、仙崎ですが」

「竹中です」
国際金融局長である。

「あっ、局長、お久しぶりです。
お変わりございませんか?」
‘局長’と聞いて、山下が困惑の表情を浮かべている。
もう少し丁寧な応対をしておけば良かったと思っている様だ。
そんな部下を気遣って、右の親指を立てて見せた。

「ありがとう、元気だ。
君も元気そうで何よりだ。
あっちでの活躍はうちの連中からも聞いてるよ」

「昔、竹中さんに揉まれたお陰で少しは成長したのかも知れません」
まだジュニア・ディーラーだった頃、竹中は実務で陣頭指揮を執っていた。
厳しい一面を持つが、たまにプライベートでも労ってくれる人物である。

「ところで例の件だが、東城さんから君が承諾してくれたことを聞いたよ。
本当に良いのか?」
念を押すように言う。

「ええ、お引き受け致します。
竹中さんの依頼とあってはお断りできませんからね」
笑って返した。

「助かるよ。
省内には省内なりの事情があってな、申し訳ない」
銀行には銀行の、そして霞が関には霞が関の事情がある。
竹中の詫びの言葉にそんな裏事情が滲む。

「私の方は問題ありませんから、大丈夫ですよ。
日時など詳細が決まり次第、連絡をお待ちしています」

「ああ、近い中に吉住に連絡させる。
仕事の邪魔をしちゃ悪いから、もう切るよ。
それじゃ、宜しく頼む」

「はい、失礼します」
相手が電話を切るのを確認してから、受話器を置いた。

ドル円は夕方近くになり、13円台を覗き始めるが、積極的に買い上げる気配は感じられない。

海外でも一時13円09まで付けたが、週末に米雇用統計の発表を控えているだけにポジションを傾けたくないという市場心理が働いているのだ。

 5日(火曜日)もドル円は12円台半ばを中心としただらけた展開に終わった。

相場に変化が現れたのは6日のことである。

‘エルサレムをイスラエルの首都として認めるトランプの方針’が報じられると、日経平均が500円超も下落し、それに連れてドル円もオファーになった。
そして欧州市場が厚みをました4時過ぎ、ドル円は束の間12円を割り込んだ。

「課長、ここはどうしますか?」
山下が聞く。

「ポジション(ドルロング)の投げもあっての下落だ。
少しロンドンの様子を見よう。
今日は少し頑張るが、お前も付き合ってくれるか?」

「もちろんです」
11月に14円73を付けて以降、ドルのショート回転で儲けた山下の声は明るい。

それから数時間、二人はポジションをとる機会を待ったが、良い時間帯は訪れなかった。
ドル円は12円前半での小動きに止まり、ユーロドルの戻りも鈍い。
既に時計の針は午後9時を回ろうとしている。

「動かないな。
何かやって引き上げるとするか?」
山下にポジションを取る様に促した。

「そうですね。
ドル円は一旦、買いだと思いますが・・・?」

「11月の高値14円73からの落としが少し浅かった気がする。
まだドルが上に行きたがってるのかもな。

今日のロングの投げでイベント前(米雇用統計)のポジション調整もほぼ終わった様だし、
お前の言う様に買ってみるか。

50本頼む」

山下がキーボードを叩き出した。
ロンドンとのディールである。

「21(112円21銭)で40本、22で30本、ダンしました」
人気の途絶え始めたディーリング・ルームに山下の声が響き渡った。

「了解」

「僕はストップと利食いのオーダーを出しますが、了さんはどうします?」
こんなとき、山下は課長とは呼ばない。
もう一仕事を終えて、寛ぎのゾーンに入っているのだ。

「俺はまだ14円台のショートをキャリーしてるから、リーブは要らない。
この先の展開を見て処理は考えるよ。
お前のリーブは12円80の利食いと11円80の損切りか?」

「はい、そうですが。
どうして分かるんですか?」

「飯を食うのと同じで、お前はポジションの手仕舞いも早いからな」
先刻まで二・三人残っていた部屋にはもう誰もいない。
大声で笑いながら、山下をからかった。

山下も「利食ってなんぼですからね」と応戦するが、
直ぐに「僕も了さんみたいに、性根の座ったディールをしたいと思ってるんですが・・・」
と照れながら本音を漏らした。

そんな彼を労う様に
「腹が減ったな。
何処かで旨いものでも食って帰るか」
と誘う。

「そうこなくっちゃ。
今日は新丸ビルの‘こなから’にしますね」
勝手に行先まで決めてる。
‘この調子なら、ニューヨークでも無事に仕事を熟してくれるだろう’

 金曜日の11月米雇用統計は、概ね雇用が健全であることが確認される結果となった。
ドル円は週高値の13円58を付けた後、13円48銭で引けた。
市場は結果をある程度好感した格好である。

土曜日の午後10時、ウィスキーグラスに半分程ラフロイグを注ぎ、PCと向き合った。
国際金融新聞の木村に来週のドル円相場予測のメールを書くためである。

木村様

来週のドル円予測をお送りします。

多少ドルがビッドになると踏んでいますが、114円台では上値が重たいと考えています。

もっとも、市場が115円は鉄壁と思い込み始めている点には要注意かと。

こうした水準はあっさり抜けることが時折りあるからです。

とは言え、この局面で11月の高値14円73銭を抜けなければ、反落も大きそうで、積極的にドルを買う人間は少ないと考えています。

自分自身のポジションは14円台前半のショートと12円前半のロングですが、双方同金額で抱合せればスクエアです。

ただ、できれば14円台のショートがこの先も維持できればと考えています。

予測レンジ:110円85銭~114円40銭

行間の埋め草はいつも通り宜しくお願いします。

●ご参考まで
12月のFOMCでの利上げはほぼ確実ですが、ドットチャートでメンバーが中立金利(長期のFFレート水準)をどの様に置いてくるのかが気に懸ります。

今回の中立金利は2.75%のまま据え置かれると思いますが、将来の法人税減税の影響を考慮すれば、引上げられる可能性も多少あるかと。

もっとも、イールドカーブのフラットニングが進んでいるため、中立金利を引き上げることには矛盾があります。

市場が先々の景気を良好と読めば、長期金利が上昇し、その矛盾は解消されるのですが。

ちなみに、レパトリ減税については以下の様に考えています。

現時点で実施時期、「時限立法となるか恒久減税か」が不透明です。

通常、12月は日本在籍の現地法人等の本国への利益送金の円売りが出やすいとされ、ドル円ではドル高円安に振れる傾向があります。

しかしながら、レパトリ減税の実施時期や期間を見極めたいと考えている米企業の現法が、利益・配当の送金を先送りする可能性があります。

確かに米税制法案への見通しが明るくなったことで、軟調だったドル円相場が少しビッド気味ですが、この点では例年よりもドルの需給が緩いかもしれません。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了
 
 
この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。