第二巻 第16回 「崩れた証拠隠滅」

月曜(3日)の8時半に、支店を訪れた。

顔馴染みの受付嬢に通り一遍の挨拶をすると、まっしぐらにディーリング・ルームへと向かった。

部屋に入ると、目敏く俺を見つけた横尾が歩み寄り、前に立ちはだかった。
これ以上一歩も前に進ませまいとする気持ちが伝わてくる。

そんな横尾の顔を平然と見つめ、
「お早うございます。その節は、楽しませて頂きありがとうございました」と淡々と言った。

俺を潰そうと思って仕掛けたつもりのディールが上手く行かず、返り討ちにあったのだから、気分の良いはずがない。

苦虫を噛みつぶした様な顔で、「今日は一体、何の用だ?」と憮然と聞いてきた。

「それを今更、横尾さんが私に尋ねるんですか?
私の懲罰会議で身の潔白を晴らすための証拠収集に決まってるじゃないですか」

「なんでそんなモノがこっちにあるんだ?」

「あるかどうかは、これから調べなければ分かりません。
一応、これがありますので、ご確認下さい」
東城からの調査許可書である。

本部長の署名入りの調査許可書を見せられては、横尾もぐうの音もでない。
「勝手にしろ」と言い残すと、自席へと踵を返していった。

 

鍔迫り合いが終わった頃合いを見て、山下が傍に寄ってきた。
「お疲れ様です。これ、準備しておきました」と言う。

11月中のディーリング・レコード(一覧表)である。

レコードには横尾と戦った際のディールにマーカーで線が引かれ、その時の日時が一目で分かる様になっていた。
山下の気配りである。
今回の調査ではその日時、それも分単位の時刻が重要なのだ。

顧客とのディーリングは電話で行うことが多い。
ディーリングには言い間違い、聞き間違いが付き物だ。
事後チェックのため、銀行はすべてのディールを録音している。
当然、ディール以外の会話も録音される。

そこに出張の狙い目があった。
山下から受け取ったレコードを持って、バック・オフィスへと向かった。

 

バックオフィスのヘッドを務めるルイスに録音調査の申し入れをすると、快く受け入れてくれた。

本部長のサインを付した許可書が物を言った様だ。

昔から彼と仲が良かったことも幸いした。

 

ただ、その前にトレジャラーである横尾に承諾のサインを取り付けてくれと言う。

「分かった。
ところでルイス、このチェックには相当時間がかかるが、誰がケアしてくれるんだ?」

「Won’t you let me help with that?

了、君はこっちにいるとき、僕や部下によくしてくれた。
是非、君の役に立ちたいんだ。

 

‘何かを感じ取っているのかも知れないな’

 

「ありがとう。助かるよ。

それじゃ、昼過ぎから始めるけど、頼むよ」

「OK、了。
とりあえず、1時にナンバー3のミーティング・ルームに来てくれ」

「See you then」

 

ルイスから渡された承諾書を持って、横尾のデスクに向かった。

横尾のデスクにそれを置き、サインを求めると、何食わぬ顔で応じた。
そればかりか、不敵な笑みを浮かべている。

 

‘あの平然とした態度は何なんだ。
俺がアイツのことを調べに来たことは分かっているのに’

 

不可解に思いながらも、山下を誘い、空いているミーティング・ルームへと向かった。

「山下、何かとご苦労だったな。
あいつに文句を言わせない様に、お前には通常業務が終わった後、手伝って貰う」

「了解です。それより、課長の調べたいこととは何なんですか?」

「横尾の内規違反、つまり、コンプライアンス違反だ。

彼が俺のポジションを潰しにかかったことは、ディーリング・レコードで明白だが、彼のことだ、通常業務だと白を切るに決まっている。

俺の知りたいのは、外部との会話の内容だ。
そこに内部情報の漏洩に関することがあれば、貴重な証拠になる。

さっき横尾のデスクを見たが、電話はディーリング・ボードに直結したものだけだった。

彼がスイス系ファンドや外部とのコンタクトで、スマホだけを利用していれば別だが、数件に一回位はディーリング用の電話を使っていると俺は読んだ」

「なるほど、分かりました
私は5時を過ぎたら、お手伝いに向かいます」

 

昼過ぎに指定されたミーティング・ルームに向かった。

既にルイスが部屋に来ていた。

「了、君に話しておかなければならないことがある。
もう、今日の調査はしなくていいんだ」
と言いながら、数枚のDISCを渡して寄越した。

「どういうことだ?
何でも言ってくれ、遠慮せずに。
ここには君と俺しかいない」
差し出されたDISCも気になったが、まずは話を聞くことにした。

「あまり大っぴらにできないことだったので、さっきまで悩んでいたんだ。

実は先週、Yokoo-sanが僕のところに来て、これから了が行おうとしていることをやった。

それ自体は問題なかったが、その後にとんでもない依頼をしてきた。

‘録音の一部を削除しろ’という話だ。

コンプライアンス上、それは絶対できないと断ったが、支店長の許可も得ているから、絶対命令だと・・・」
少し思い詰めて話したせいか、話が途切れた。

暫く間を置いて、
「それで?」と尋ねた。

「一晩考えさせてくれと言い。
そして翌日、彼の話を受け入れた。
Shimizu-sanからも電話があったので、仕方なかったんだ。

ただ、事後調査で録音の一部が欠落していたことが発覚すると、僕自身が処罰の対象になる。
だから、自分なりに策を練った。

了がビッグディール(大きな金額のディール)を行い出した日からの録音を事前にコピーしておいた上で、Yokoo-sanが指摘する箇所を彼の目の前で削除した。

ざっと、こんな話だ。

了が調べれば、録音が欠落していることが直ぐ分かるから、その前に話した」

「そうか、よく話してくれたな。
このDISCが削除した箇所のコピーか?」

「ああ、全部じゃないが、その数枚を聞けば、彼のコンプライアンス違反が証明できる。

もし、全部をコピーしたければ、録音室で出来るけど、どうする?」

「ルイス、君の話を聞けば、余分な仕事をする必要はなさそうだな」
笑って応えながら、握手を交わした。

「あっ、それと言い忘れたことがある。
僕は日本語が分からないけど、Tamuraって人とも随分話している様だった」

「ああ、それも知りたかったことだ。
助かったよ。
本件、君は何も心配することはない。

ありがとう、よく話してくれたな。

I wish you a happy holiday!」

 

ルイスと別れると、山下のデスクに向かった。

「すべて終了した」

「えっ、随分と早く済みましたね?」

「ああ、誰かが墓穴を掘ってくれたお陰で、ことが早く済んだ。
これで懲罰会議に臨む準備は整った。

会議は水曜日の午後だから、明日の便で東京に戻る」

「えーっと、その件ですが、本部長からのメールで会議は来週に延期になったそうです」

「ヘぇー、そっか。
それじゃ、東城さんにメールで伝えておいてくれ。

‘首尾上々。
従って、少し休暇を頂きます’と」

「了解。

それじゃ、今晩は、何処かに繰り出しますか?」

「ああ、それは良いな。
俺はこれからサックス5thアヴェニューにでも寄って、お袋の土産を買うことにする。
仕事が片付いたら電話をくれ」

帰りがけに横尾に声を掛けた。
「横尾さん、調べが終わったので、これで帰らせて頂きます」

「えっ、もう終わったのか・・・?」
怪訝そうに言う。

「ええ、お陰様で」

「気を付けてな」と精気のない声が返ってきた。
先刻見せた不敵な顔は不安に怯える顔に変わっていた。

 

支店のビルを出ると、外は薄暮だった。
まだ4時を少し過ぎたばかりだ。
改めてニューヨークの冬の夕暮れは早いと思った。

サックス5thアヴェニューは、支店からパークとマディソンの二つのアヴェニューを跨いでツーブロック先にある。

パークアヴェニューで信号待ちをしていると、反対側の歩道を歩く日本人女性を目が捉えた。

 

‘ボブの髪型、凛とした歩き方、間違いなく岬だ’

 

声をかけようとしたが、長い幅員や南北を行き交う車の騒音を考えると、とても声が届くとは思えなかった。

そんな戸惑いを覚えていると、岬が誰かに向けて手を振っているのが目に入った。
岬から10メートルほど先に、中年の白人男性が手を振り返している。

 

‘30代半ばの小柄な可愛い日本人女性、欧米人が如何にも好みそうなタイプだ。
松本にある母親の店はどうするんだろう?

もう俺が心配することでもないか’

 

ほろ苦さを覚えながら、パークアヴェニューを西へと渡った。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

‘You Don’t Know What Love Is’がサックスの音色に乗って流れてきた。

路上で黒人男性がサックスを奏でている。

Coltrane には遠く及ばないが、薄暮のマンハッタンには良く似合う音色だ。

そして今の俺の心にも・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

‘今夜は山下とゆっくり、スコッチでも飲みかわすか’

 

ドル円相場は週初に113円87銭を付けた後、週後半に112円23銭へと沈んだ。

金曜日の晩、社宅の固定電話が鳴った。
沖田からである。

「出張の成果、山下から聞きました。
良かったですね」

「ありがとう。
休んで悪かったな。
それで、用件は?」

「国際金融の木村さんには、来週の相場予測メールしておきました。

基本、ドル一段安。
戻っても113円台半ば程度。
予測レンジ:111円50銭~113円65銭。

ほぼそんな内容ですが、宜しかったでしょうか?」

「申し分ない。
ありがとう」

「課長、辞めないでくださいね」
切りかけた電話で声を聞いた。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第15回 「査問会議」

週初(26日)から、ドルが底堅い展開となった。

サンクスギヴィング・デー(11月第4木曜日)の翌日に当たるブラックフライデー(大規模安売り)の売り上げが極めて好調だったことが引き鉄である。

年末商戦の初日イベントが好調であれば、米株式市場に大きな期待が湧かないはずはない。
リスクオンの動きで米株が上昇し、米長期金利が上昇した。

為替市場の参加者がドルを買わざるを得なくなったのは言うまでもない。

ショートカットを巻き込みながら、ドルが上昇し続け、週半ば(28日)のニューヨークでドル円は114円03銭まで上昇した。

だが、その直後のパウエルFRB議長による「政策に既定路線はなく、金利は中立金利をやや下回る」との発言でムードが一変した。

FRBが「世界経済の鈍化が米景気に影響を与える」可能性を直視し出した証である。

ドル円はパウエル発言直後から、一挙に113円台前半へと沈んだ。

翌日(29日)、東京では市場が戸惑いを見せていた。

東城から呼び出しが掛かったのは、その日の午後のことだった。

 

「お前のディール絡みでMOFからの呼び出しを受けた件だが、嶺さんが査問会議を開きたいと言って来た」
執務室のソファーに座るなり、東城が言う。

「予想通りですね。

それで、他の出席者はどなたでしょうか?」

「田村、嶺、それにコンプラと人事から誰かといったところかな」

「ニューヨークからは?」

「とりあえずは誰も来ない。
ただ、いずれかの時点で清水支店長と横尾は呼ばざるを得ないだろうな」

「田村さんや嶺さんは、私と東城さんの話を聞いた上で、彼等と打ち合わせをしたいってことでしょうか?」

「まあ、そんなところだろう。
で、お前は、どこまでやるつもりだ?」

「はい、本部内の風通しを良くするためには、すべてです。

つまり、横尾、田村、清水、嶺の一掃です。

横尾さんについては、ディールに関連して不審な行為が見られること、それにジムを自殺に追い込んだ可能性があること。

清水さんについては、他本部の損失をうちの本部に押し付けた結果、山際さんの病を悪化させ、さらには横尾さんと共にジムを自殺に追い込んだ可能性があること。

田村さんについては、多々ありますが、9年前に私に罠を仕掛けたこと。

本部の最高責任者である嶺さんについては、田村さんや横尾さんの行動を看過し、保身に励んだこと。

私はズーッと、これらの件を公の場で暴き、正式に処分する機会を待っていました。
今回の査問会議はその絶好の機会です。

彼等はこの査問会議で私と本部長を追い落としたいと考えているのでしょうが、私は逆に、その場で過去の彼等の行為を責めるつもりでいます。

私は住井派でもなく、日和派でもなく、両者の統合銀行であるIBTに入行しました。

ただ、入行して以降、できるだけ公平な目で見る様にして来ましたが、日和派のやり方はあまりにも歪んでいます。

住井銀行出身の副頭取や本部の担当常務が去った後、嶺さんがうちを恣意的に仕切っているのは歴然としています。

実力では本部長に敵わず、やがては追い抜かれると恐れているため、嶺さんは本部長や私に不条理なことを押し付けてきました。

本部長は以前、私に‘お前なら、行内の軋轢を払拭できる’と仰いましたが、正々堂々とそうできる日は遠い先のことかと思います。

そこまでは待てません。

ですから、やや強引ですが、この機会を捉えて彼等を駆逐したい・・・」
そこまで話すのが精一杯だった。

「分かった。
お前がそう言うくらいだ。
どうせ辞めることを考えてるんだろう。
だったら、お前の好きな様にやれ。

こうなるんだったら、お前をニューヨークから呼び戻さなければ良かったのかも知れないな」
怪訝なのか、少し屈託のある重い声を残すと、窓際へと歩いて行った。

いつもなら遠くの皇居の森に目をやるはずの東城が、眼下の日比谷通りを見下ろしていた。
何か考えているのが窺える。

「会議は来週水曜日の午後3時からだ」
暫くして声を発した。

「了解しました。
ご迷惑をお掛けします」
と言い残し、ソファーから立ち上がり、ドアへと向かった。

すると、
「了、ニューヨーク出張を命ずる。明日の便で立て。
こうなったら、彼等に有無を言わせないほどの証拠を持って帰れ」という声が背後で響いた。

「はい、本部長」
振り返り、東城の目を真っ直ぐに見据えて応えた。

東城はレポート用紙に一筆添え、「何かのときにはこれを使え」と言いながら、手渡して寄越した。

ボトムに「International Finance Headquarters」と印刷された用紙には、東城のサインだけが記されていた。

用紙に調査項目を記載し、関連部署のスーパバイザーに見せれば、本部関連のことはすべて調べることができる。

 

‘このひと(男)は俺が山下に頼もうと思ったことを、自分でやってこいと言ってるのだ’

 

礼を言い終えると、再びドアへと向かった。

「年末までには一杯やろうな」
背中で聞いた東城の声からは、数分前までの厳しさが消えていた。

右手を後ろ手に挙げ、親指を立てた。

 

‘やることは一つだ。
横尾が田村やスイス系ファンドと電話で話した内容を調査するだけである’

横尾のレポーティングラインは俺だが、行内の階級は同じだ。
だから、俺の調査を横尾が阻止する可能性がある。

だが、本部長東城のお墨付きがあれば、彼も阻止はできない’

 

自席に戻ると、「悪いが、明日ニューヨークに行くことになった」と沖田に告げた。

「例の件ですか?」

「ああ、俺の査問会議が来週の水曜日にある。
そのためには、敵を封じ込めるためのエヴィデンス必要だ。

悪いが、土曜日に国際金融新聞の木村に来週の予測を送っておいてくれ。

時間がなければ、114円台があれば売りだとだけ伝えれば良い。
予想レンジは112円30銭~114円50銭だ。

もっとも、お前に頼んだんだ。
お前の書きたい様に書いて構わない」

「いえ、私もそんなところです。
いずれにしてもお気をつけて!」

 

翌日(30日)、羽田10:20発NH110でJFKに向かった。

CAを呼び、次の食事はスキップする旨を伝え、マカラン12年を頼んだ。

持参したBose のQuiet Comfortをウオークマンに繋ぐと、Y. Kishino のアルバム Rendez-Vousを選択した。

最初のトラックが ’Manhattan Daylight’だ。

心がニューヨークへと飛ばないはずがない。

 

‘週末は久々にマンハッタンでクリスマス気分かな。

できれば、マイクが20日頃に送ってくるというクリスマス・プレゼント、前倒しでアストリア・
ホテルまで送ってほしいものだが’

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第14回 「財務省からの呼び出し」

週初(19日)から、ドル円は前週末のクラリダFRB副議長のハト派的な発言の影響を受けた。

「米経済の先行きが懸念される中、金融当局は利上げに配慮が必要」とする趣旨の発言でドルが売られ、20日には112円30銭まで下落した。

だが、そこからは積極的なドル売りは見られず、徐々にドルが買い戻されていった。

22日が米国のサンクスギヴィング・デイに当たり、そして23日が日本の勤労感謝の日となるため、市場に積極性が見られないのだ。

21日の午後も活性のない市場となり、所在無いまま、溜まった未読メールを読み続けていた。

東城から電話がかかってきたのは、そんな時である。

「ちょっと部屋に来れるか?」

「はい、市場が至って暇なので、直ぐにお伺いします」

 

「失礼します」と言いながら、執務室のドアを押し開くと、背筋の通った東城の後ろ姿を窓の正面に捉えた。

皇居の森を眺めているのだ。

「今日は晴れて、森が良く見えますね」

「そうだな。
うちのビルは本当に良いロケーションにある」
そう言いながら、ソファーに座る様、促した。

「お話というのは?」

「実はまたMOF(財務省)から電話があったんだ。

今度は山上さん(外国為替市場課長)からで、省に来てくれと言って来た」
少し顔を曇らせながら言う。

「先週の私の動きが拙かったってことですね」

「まあ、そうだろうな。
お前から直接話を聞きたいと言って来たんで、手数だが行ってくれるか。

それとちょっと気懸りなことがある。
田村君から電話が転送されてきたことだ。

山上さんが下の番号を間違えたんだろう」

「それはちょっと、拙いですね。

こういうことだけは勘の鋭い田村さんですから、既にもう、市場課に探りを入れてる可能性があるってことですか・・・。

でも、そんなことを気にしてても仕方ありませんから、とりあえず山上さんに会って来ます」

「悪いが、そうしてくれるか」

 

山上とは木曜(22日)の午後3時に会うことにした。

 

「お久しぶりです。

2月のセミナー以来でしょうか?」

「そうでしたね。

あのセミナーは、実に良かった。

また来年も講師をお願いしますよ」

「都合が合えば、お引き受け致します。

ところで、ご用件は私のディールの件でしょうか?」

「まあ、そうです。

最近、仙崎さんは日米で大きな玉を動かしてるらしいですね。

時期が時期だけに、立場上、仕方なしにお呼び立てしました。

申し訳ありません」

来年から本格的に日米通商協議が始まる。
それ以前は円相場を安定させておきたいというのが話の趣旨だった。

「いえ、山上さんのお立場は良く理解しています。

当分は大きなディールを控えます」

「当分はというのは、当面の目的を果たしたってことですか?」
笑いながら言う。

「まあ、そんなところです」
こっちも笑って応えるしかなかった。

 

‘俺との争いでニューヨークの横尾は相当に痛手を被っている。
もう、余計なことはしないはずだ’

 

「そうですか、何かと大変そうですね、大手銀行の為替課長の仕事も。

それはそうと、東城さんにお電話した際、間違えて田村さんのところに掛けてしまいました。

今日は’何の用件だ?’と、執拗に聞いてきましたが、無視しておきました。

大学の先輩風を吹かす彼の癖、相変わらずですね。

彼のことだから、今日のヒアリングの件、省内の大学の後輩を捕まえて聞き出すかもしれません。

私の電話の掛け間違いで、仙崎さんや東城さんに迷惑が掛からなければいいのですが・・・。

一応、念のためお伝えしておきます。

それじゃ、お互い忙しい身なので、この辺にしておきましょう。

東城さんにも宜しくお伝えください」

「ご心配をお掛けしました。
それでは、失礼致します」

 

‘ここの人間にしては、珍しく腰の低い好人物だな’

 

銀行に戻ると、その足で東城の執務室へと向かった。

「おう、ご苦労だったな。
やはり、お前のディールの件だったか?」
部屋に入るなり、東城が言う。

「はいそうですが、ディールについてのお叱りは何もありませんでした。

’日米協議前に場を荒らしたくない’

そのことを分かってもらいたいというのが話の趣旨でした」

「そんなところだろうな。
彼の省内の立場を考えれば、見せかけのヒアリングも重要だからな」

「ところで、例の電話番号違いの件、申し訳ないと言ってました。

それと、田村さんが省内の誰かから今日のヒアリングの件を聞きつけるかもしれないので、注意する様にとのことでした」

「そっか、あり得ることだがどうしょうもない。

何か起きたら、その時に考えれば良いことだ。

ご苦労だったな」

「それでは、失礼します」
頭を軽く下げ、執務室を辞した。

 

執務室から自席に戻る途中で、田村に呼び止められた。

「仙崎、ちょっと話がある」と言いながら、さっさと窓際のテーブル席の方へと歩き出していた。
あっちで話そうという意味だ。

面倒だが、従うしかなかった。

「話とは何でしょうか?」

「お前、MOFのヒアリングを食らったんだって?」

「えっ、何でそれを?」

「お前、俺を見くびるなよ。

お前のこのところの行動、まぁディールだけど、市場じゃちょっと目を引いたらしいじゃないか?

それが連中(MOF)の耳に入らないとでも思ってたら、お前も相当に甘ちゃんだな。

先週随分と、外国為替市場課内でお前のディールが話題になったそうだ。

その直後の今週、山上からの呼び出しだ。

彼の目的が、その件でのヒアリングって読むのは当たり前だろう。

どうだ、図星だろ?」
まるで勝ち誇った様に田村が言う。

「それが事実だったとして、どうだと?」

「お前も食えないヤツだな。

MOFのヒアリングだぞ。

ひょとしたら行政処分ってこともあるかもな。

そうなりゃ、お前も東城さんも懲罰もんだ」
笑いながら言う。

「あんたは何処まで馬鹿なんだ」

「俺はお前の上司だぞ。

馬鹿呼ばわりはないだろ、えっ?」
田村の甲高い声が周辺に広がり、驚いた連中の目線が窓際のテーブル席に集中した。

「部下が上司を逆パワハラしたってことで、コンプラにでも駆け込んだらどうですか?

それ以外に用件がなかれば、私はこれで失礼します」
冷静に応えて、自席へと戻った。

 

席に着くなり、「田村さん、MOFの件ですか?」と沖田が心配そうに聞いてきた。

「そうだ。

MOFとの関係は問題ないが、来週には嶺(常務)さんから何か話があるだろう」

その晩、沖田を連れて青山の’Keith’に出向いた。

 

いつものテーブル席が埋まっていたので、仕方なしにカウンター席に腰を下ろした。

「まずはハートランドとサンドイッチでよろしいですか?」
笑みを浮かべながら、マスターが聞いてきた。

「ああ、それでお願いします。
BGMはKeithとCharlie Hadenの‘Last Dance’で」

Keithの心地いいピアノをCharlieのバスが優しく支えたアルバムだ。
静かに語らうには持って来いのBGMになる。

「なあ、沖田。

お前、俺の代わりを務める自信があるか?」
少しアルコールが回ったところで聞いてみた。

「えっ、急にどうされたんですか?」
沖田が声を張り上げた。

「万が一ってことさ。

派閥間の軋轢、それに馬鹿な上司や同僚との関係、そんな腹の足にもならない本部内にある柵・・・。

そろそろ外しておかないと、流れるものも流れなくなる。

さっき言った様に、近々、田村・嶺が動いて来ると思う。

その時がチャンスだ」

「えっ、あんな馬鹿部長と刺し違えるつもりですか?」

「俺は間違ったことは一つもしていない。

だから刺し違えるつもりは毛頭ない。

だが、揉め事を嫌うのが組織の上だ。

だから、彼らは揉め事を作った人間を消しにかかるに違いない。

間尺に合わないが、喧嘩両成敗って便利な言葉がある。

日和の連中もそうだろうが、俺と東城さんも何らかの咎めを負うことになるだろう。

だが、東城さんは将来のうちに欠かせない人物だ。

どうあっても彼だけは守りたい。

そのために、俺は最後まで戦うつもりだ」

その言葉を受け入れたのか、その後、沖田は一言も喋らずに淡々とウィスキーグラスを煽り続けていた。

ただ別れ際、
「絶対に辞めないでください。
僕にはまだ課長の、仙崎了の代わりは務まりませんから」と声を振り絞って言った。

店から出ると、ドアの上に掛けられたランプシェードに滲む乳白色の灯りが、沖田の顔を捉えた。
その顔に涙が伝い落ちていた。

’俺がいなくなっても頑張れよ’

 

沖田と別れた後、青山通りでタクシーを拾い、「神楽坂へ」と伝えた。

スマホをブリーフケースから取り出すと、国際金融新聞の木村へのドル円相場予測を書き出した。

 

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木村様

 

日米に休日があったせいか、今週はあまり変化がなかったですね。

でも、依然としてドルの上値が重たい展開が続くと考えています。

テクニカルポイントの多い112円台前半が抜ければ、111円台半ばもあるかと。

逆に抜けない場合は、ドルの反発もあるでしょうが、113円台後半までと予測します。

来週の予測レンジ:111円50銭~113円75銭

筋書きはお任せします。

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

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メールを送り終え、窓外に目をやると、街路樹がクリスマス・ライトで覆われ出している。

ふと、このシーズンのパークアベニューの光景が脳裏に浮かんだ。

 

‘来月の20日頃にはマイクがクリスマス・プレゼントを送ってくれるという。

間違いなく送られてくるであろうプレゼントの温もりが、今はとても愛おしく感じられる’

ルームミラーにやついた顔が映ったのか、
「お客さん、今日は何か良い事でもあったんですか?」
と聞いてきた。

 

‘まあね’と躱した。

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

 

(つづく)

第二巻 第13回 「内通者」

ニューヨーク市場が休場となった週初(12日)の午前中、ドル円は114円を挟んで方向感のない展開を続けていた。

だが午後になると、日経平均株価が前日比プラスとなり、これに連れてドル円は114円21銭まで上昇した。

「沖田、10(114円10銭)以上で売れるだけ売ってくれ」

「了解です」

沖田が15分後、「今のところ、アベレージ15(114円15銭)で200本売れてますが、続けますか?」と聞いてきた。

「俺も16で100本売ったから、とりあえず止めてくれ。
それにしても、なかなか落ちないな」

「そうですね、先週の高値(114円9銭)を抜いたので、55(114円55銭)を試すと思ってる連中が多いのかもしれません」

暫くそんな話をしていると、やっと114円が売りになった。

欧州株が大幅に下落したことでリスクオフ・ムードが一挙に高まり、円が買われ出したのだ。

「どうします?」と沖田が聞いてくる。
利食いの買い戻しを入れるかという意味だ。

「100本の買いを75(113円75銭)でリーブしておいてくれないか。
どうせまた、114円台に戻すだろうから、その時に売り余力が必要だ。

ちょっと、東城さんに呼ばれてるので、執務室に行ってくる。
俺が戻るのを待たないで、適当なところで帰って良いぞ」

「了解です」

 

「先週の大阪出張、ご苦労だった。
好評だったそうじゃないか」
執務室のソファに腰を下ろすなり、東城が労いの言葉をかけてくれた。

「はい、お陰様で」

「ところで今朝、MOF(財務省)の吉村さんから電話があった。

‘最近、うちのフローが頻繁に飛び交ってるが、特に理由があるのか’と聞いてきた。

来年からアメリカとの物品貿易協定(TAG)の交渉が始まるので、上層部は円相場が荒れるのを嫌ってるらしい」

「それで、本部長は何とお答えになったんですか?」

「海外のファンドや日本の機関投資家を客に持ってるが、最近彼らのフローはうちに流れて来ない。

だが、うちもディーリングで稼ぐ必要があるので、積極的にディールもやってる。

必要があれば、その点はお前に直接聞く様にと言っておいた。

うちに好意的な吉村さんのことだ。

お前のディールがMOFに漏れてることを暗に知らせてくれたんだろう。

情報源は内部の人間かもな」

「そうですか。

たとえ吉村さんからでも、MOFのヒアリングには違いありません。

頻繁に動かない方が良いでしょうか?」

「まあそうだろうが、あまり気にせずに動きたいときに動け。

通常のディールに法的規制はないからな」
笑みを浮かべて言う。

その笑みは‘最後は俺に任せておけ’と言ってる様だった。

「了解しました」
と言って、その場を辞した。

 

翌日(火曜日)の朝方、ドル円は113円58銭を付けたものの、午後に入ると急騰し出した。

200本のドルショートは残したままだ。

 

‘でも、ここは手仕舞わずにじっと耐えるしかない。
自分でも少し掌に汗をかいているのが分かる’

 

そんな折、ロンドンの岸井から電話が入った。
「仙崎さん、パーマー銀行とシッスルズ銀行がそれぞれ300本ずつ買ったそうです。

裏はスイス系と英系のファンドというのがこっちの情報です。

上は14(114円14銭)までですが、少し下がると買いが湧いて来る感じですね。

もしかしたら、横尾さんの差し金でしょうか・・・?」

「彼がファンドに働きかけたとすれば、俺のショートを潰しにかかってるってことだ。

いずれにしても、情報ありがとう。
また何かあったら教えてくれ」

「承知しました」

 

翌日(水曜日)になっても、ドル円が落ちない。

113円70~80銭で執拗に買って来るヤツがいる。

上値も重いが下値も堅いといった展開が続く。

ここを潰さないと、上に持って行かれかねない状況だ。

その日の晩、社宅から山下に電話を入れた。

「どうだ?」

「欧州通貨は不安定過ぎて、あまり手を出す人間はいない様です。

ドル円は買いも出てきますが、少し上値が重たい感じでしょうか・・・」

「分かった。

ドル買いが出たら、その買いを叩く様に売ってくれ。

そして114円が付く様なら、そこで売れるだけ売ってくれないか。

電話を待ってる。

頼んだぞ」

電話を切ると、マイクに電話を入れた。

 

「Hi Mike, it’s me」

「Hi Ryo, how can I help u today?」

「昨日からスイス系のファンドがドル円を買ってるらしいけど、お前の客じゃないか知りたいんだ。

俺はこれからドル円を落とすつもりだから、念のために確認してくれないか?

お前の客だったら、悪いからな。

もしそうでないなら、80(113円80銭)が売りになったら、客に売る様に勧めてくれないか。
必ずドルは落ちるから」

「Wait a second」と言うと、少し間が空いた。

「ああ、俺の客じゃないみたいだ。
80givenで売る様に頼んでおいたよ。

ところで、いつこっちに来てくれるんだ?」

「今その準備中だ。

この電話もその一環だから、もう少し待ってろ。
約束はできないけどな」

「そうか、期待してるぞ。

それとクリスマス・プレゼント、来月の20日頃に届けるよ。

今のお前が一番欲しいものをな。

それじゃ、Good luck!」

 

ドルが落ち出したのは0時を過ぎてからだった。

80がgivenし出した(売りになり出した)頃、固定電話が鳴った。
山下からだ。

「課長、114円以上では30本しか売れませんでした。

それと小刻みに売った合計は120本です」

「そっか、今幾らだ?」

「一度80がgivenした後の80-82です」

「良く聞け。

ここからマイクの客も売る、俺も売る。

70以上で売れるだけ売ってくれ」
止めを刺しておきたかった。

 

‘必ずドルは落ちる’

 

ラフロイグをなみなみと注いだグラスを片手に、ソファーに座り込んだ。

BGMには明るい曲が良い。
Michael Franks の CD‘The Music In My Mind’をBose のミュージック・システムに挿入した。

ジャズ・フュージョン・ボッサを融合した都会的メロディーにヴォイスが上手く乗っている。

4杯目のグラスを空けたところで、山下から電話が入った。

「今、50がgivenしたところです。

こっちで売れたのは都合250本です。

どう処理しますか?」

「放っておけ。

もう直ぐ彼等が全部投げる(買ったドルを損切る)。

それで決着はつく。

横尾の様子はどうだ?」

「さっきから、誰かにあやまり続けている様子です。

横尾さん自身もロング(ドルの買い持ち)なので、相当に焦っている感じでしょうか」

「分かった。

ところで、誰かが俺のディールをMOFに漏らしてるらしいんだ。

横尾か田村だとは思うが、お前はどう思う?」

「レポーティング・ライン(業務報告ライン)を考えると、横尾さんは課長のディールを見ることができません・・・。

とすると、田村さんということになるんでしょうか?」

「そっか、本部の序列では、俺のポジションを見ることができるのは田村と東城さん。

管理やコンプライアンスの観点からは、バックオフィスの連中かコンプライアンス・オフィサーってことか。

消去法でいけば、田村だ。
横尾が俺のポジションを直ぐに把握していたのも、田村が流していたのか。

まぁ、そんなとこかな。

今日のお前は冴えてるな」

「冴えてるのはいつもでしょ」
笑って言う。

「そうだな、いつもだな。
それじゃ、今日はありがとう」

「お疲れ様でした」

 

ドル円は週末の金曜日に112円65銭まで下落し、112円80銭前後で週を跨いだ。

 

週末の土曜日、天気は完璧な秋晴れだった。
たまには横浜の実家へ帰ろうかとも思ったが、一昨日に夜通しのディールを行ったせいか、ベッドから起き上がることもできない。

二度寝を決め込んだ。

目が覚めたとき、外は既に暗かった。

 

‘長時間眠れるのはまだ若いってことか、本当に疲れ切っていたのか。
「秋の日は釣瓶落とし」って便利な言葉もあるか’

 

やっとの思いでベッドから出ると、冷蔵庫からハートランドを取り出し、喉を潤すと今度はソファーにどかっと座り込んだ。

テーブルの上のスマホを手にし、国際金融新聞の木村宛てに来週の予測を書いた。

 

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木村様

112円台前半が抜ければ、111円台前半もあるかと。

ドルの反発があったとしても、113円台後半までと予測します。

予測レンジ:111円50銭~113円75銭

筋書きはお任せします。

 

IBT 仙崎 了

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10分もすると、木村からの返信が届いた。

 

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仙崎様

いつもありがとうございます。

先週の予測‘114円台は上髭’は流石でしたね。

大分お疲れの様なので、神楽坂にある行きつけの寿司屋に特上寿司を届ける様に頼んでおきました。

‘旨いですよ’

 

国際金融新聞 木村

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‘泣かせてくれるな’

夕飯の心配をしなくて済む安堵感から、ソファーに寝そべった。

再び覚えたまどろみの中で、ミッドタウンを歩く岬の姿を見た。
だが、直ぐにその姿は消え、脳裏には明るく手を振る志保の姿が浮かんできた。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第12回 「証言を求めて」

米中間選挙の結果が固まった後の金曜日(9日)、大阪支店へと向かった。
支店が開催する顧客向けのシンポジウムで、「来年の世界経済と為替動向」について講演するのが目的である。

世界でも有数の為替ディーラーという枕詞が俺に付けられてしまったせいで、支店からの講演依頼が多い。
昨年同様に今年も政令都市の支店すべてから依頼を受けていたが、とても全部は無理だ。
大阪・仙台・横浜に絞らせてもらった。

IBT大阪支店は中之島にある日銀大阪支店にほど近い。
シンポジウムは支店から徒歩で数分のところにある堂島川沿いのAホテルで行われる。
シンポジウム後に行われる懇親会パーティーを考慮してのことだ。

午後3時過ぎにAホテルに着いたが、ロビーでの幹事役との打ち合わせの4時までには少し間がある。

新幹線で資料の下読みは済んでいるので、それまで特にやることはない。
ベッドサイドのテーブルに備え付けられた時計のアラームを3時45分に合わせると仮眠をとった。

 

5時からのシンポジウムは簡単な支店長の挨拶で始まり、自分の講演、国内経済担当の講演、そしてパネル・ディスカッションという手順で無事終了した。

もっとも、顧客には直接俺と話すことを目的としている役員や部長クラスが多いため、その相手も結構疲れる。

パーティー終了時間の9時半を過ぎても、質問者が絶えなかった。
来年の円相場や、米捻じれ議会の下で苦しい内外政策を強いられるトランプ政権の行方などの質問ばかりで、少し辟易とした。

すべて講演やディスカッションで話したことばかりだが、直接俺から話を聞きたいらしい。

幹事役が‘それではお時間が参りましたので、そろそろお開くに・・・’という挨拶にも関わらず、俺の周辺に人が群がっている。

そんな状況を見かねて、幹事役が客に‘ホテル側の都合もありますので、申し訳ございませんが’と救いの手を差し伸べてきた。

その寸隙をぬって、会場から出るとエレベーターで24階のラウンジバーへと急いだ。

 

「仙崎君、講演やシンポジウム、良かったよ。
俺にはとてもあんな話はできないな。

やはり君は我が行のエースであり、広告塔だ」

「いや、先輩にそう言われるとお恥ずかしい限りです。
ところで今日は、お時間を頂きありがとうございます」

待ち合わせた相手は9年前に俺に罠を仕掛けた一人である木戸で、今は大阪支店の融資第一部の次長を務める。
当時まだ、田村が国際金融本部の外国為替課長だった頃、一番の部下だった。

「それはいいが、今日は俺に何の用だ?」

「木戸さんもご存じの様に、統合から15年経った今もIBTには住井銀行出身者と日和銀行出身者との間に軋轢が残っています。

特に国際業務関連の部門では。

うち(国際金融本部)でも同じです。

 

「それで、お前は二行の軋轢をどうしたいんだ?」

「取り除きたいと考えています。

と言っても、うちの本部内にある軋轢ですが。

そのためには、何かと本部に介入してくるニューヨークの清水支店長や横尾さんとの間も整理したいと・・・。

そこで、木戸さんのお力をお借りできないでしょうか?」

「俺の力ってどういうことだ?」

「はい、木戸さんは当時、田村さんや大竹さんと一緒になって私に罠を仕掛けましたよね。

あれは田村さんが木戸さんや大竹さんに無理強いしたものと考えていますが、その点、如何でしょうか?」

「ああ、確かにそうだ。

田村さんは常々、‘外国為替課を一つにまとめたい。そのためには、ああいう出来すぎたヤツは不要だ’と言っていた。

ヤツとはお前のことだ。

あの日の前日、‘手を貸せ’と言って、俺と大竹に罠の話を持ち掛けてきた。

手を貸さないのなら、‘お前等は国際畑に居られなくなる’とも脅かされたよ。

嶺さんはもう直ぐ、常務に昇格し、田村が部長・本部長へと昇ることも仄めかしてな。

国際分野で働くことが学生時代からの俺の夢だったし、国際金融本部に残りたかったから、軽い気持ちで引き受けてしまった。

ただ、あの罠があれほどお前を痛めつけてしまうとは思わなかった。

今更だが、悪かった。

本当に悪かった」

「そのことはもういいんです。

その代わりと言っては何ですが、この先もしかしたら、木戸さんに当時のことを話して貰うことになるかもしれません。

お願いできませんでしょうか?」

「おいおい、それは結構難しい相談だぞ」

「分かっています。

下手をすれば、嶺・清水の力で左遷されかねないってことですよね。

でも、上手く行けば、彼等を今の立場から外すことも可能です。

そして木戸さんが田村さんの席につけばいい。
きっと東城さんが手を貸してくれますよ。

私は住井派でも、日和派でもない。

ただ、国際金融本部を風通しの良い部署とし、やがてそんな雰囲気がIBT全体に広がって行けばと考えているだけです」

「お前、本気か?
まさか、うちを辞めるつもりじゃないだろうな?

さっきも言ったけど、お前はうちのエースだぞ。
お世辞で言ってるんじゃない。
お前の講演やディベートを聞いていて、本当にそう思ったんだ」

「お言葉、ありがとうございます。

ただ、仮に私がいなくなったとしても、木戸さんもいるし、沖田や山下も育っています。
それに何と言っても、軸となる東城さんがいるじゃないですか。
来年にも彼は常務になり、将来はさらに上に行くと信じています」

’木戸が為替ディーラーとして一流の腕を持っている。
田村の妙な小細工がなければ、今頃は部長席で東城の片腕として力を発揮していたのは間違いない。

俺がいなくても、この本部は大丈夫だ’

 

「まぁ、その件、考えておくけど、俺もサラリーマンだ。
左遷だけは勘弁願いたいがな」

「その節は宜しくお願いします」
頭を深々と下げながら、頼んだ。

請求書を手にしてその場を去ろうとすると、木戸がその手を掴んだ。

「ここはいい。
俺に払わせてくれ。
せめてもの当時の詫びだ。
詫びにしてはちょっと安すぎるけどな」
苦笑いを浮かべて言う。

遠慮せずに礼を言い、出口へと向かった。

 

「おい、辞めるなよ!」という声を背中で受け止めた。

 

‘助けてくれればいいが。

田村を落とすためには彼の証言がほしい’

 

ドル円相場は昨日(木曜日)のニューヨーク市場で114円9銭まで上昇し、113円80銭前後で週を越した。

 

米中間選挙では大方の予測通り、下院では民主党が過半数を超え、上院では共和党が過半数を超え、捻じれて終えた。

週末の各テレビ局の報道番組は、‘米政権の今後を占う’的なもので占められていた。
したり顔の評論家連中のコメントはもっともらしいが、どれも核心をついていない。

 

‘どうでもいい話ばかりだ。

そろそろ、国際金融新聞の木村に「来週のドル円相場予測」を送っておくとするか’

 

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木村様

 

ドルは堅調に見えますが、そろそろ調整が入る頃かと考えています。

目先でドルが買われても、114円以上は上髭と踏んでいます。

 

予測レンジ:112円~114円73銭。

 

今日の午後、大阪から帰ってきたばかりで少し疲れているため、短文にて失礼致します。

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

 

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メールを出し終えると、ソファーに横たわった。

BGMに流しておいたMelody Garnet の アルバムが丁度‘The Rain’に差し掛かったところだ。

Rain came down in the sheets that night and you and I stared out to the left to the right・・・・・・

甘く悩ましい、そして少し枯れた声が静かに流れ、まどろみを誘った。

「了、強く抱きしめて」
確かに夢の中で志保の声を聞いた。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第11回 「情報操作」

MLBワールドシリーズは最長7試合で先に4勝したチームがチャンピオンの名を手にする。

週初の月曜日(10月29日)、ボストン・レッドソックスが第5戦目でLAドジャーズを退け、対戦成績4-1でチャンピオンシップをものにした。

これで今年のMLBも完全に終了である。

MLBが終わるこの時期、毎年喪失感が心の中に湧くが、それはニューヨーク時代から変わらない。

そんな心模様の中、為替市場は静かな展開が続き、ドル円相場も112円の手前での小動きが続く。

ただ、どことなくドルに底堅さが感じられる。

 

 

ドル円が跳ねたのはその日のニューヨーク時間のことだった。

米国債10年債利回りが3.1%台を回復したことが要因だが、値動きを見ると誰かの大きなドル買いが入った様にも見える。

ラフロイグを注いだグラスを片手にモニターを追っていると、山下から電話が入った。

「遅くにすみません。今よろしいでしょうか?」

「よろしくなくても、話があるんだろ?」

「はい。

実は今朝、横尾さんが私のデスクまで来て、‘お前の読みはどうなんだ?’と聞いてきました。

先週は112円台後半でドルの上値が重たかったので、ここは(112円半ばでは)一旦売っても良いと考えてますと答えたんですが、

‘仙崎に仕込まれたお前の相場観もその程度か。
俺は、今日からドルは売らない方が良いと思う。
聞く耳を持つか持たないかはお前次第だがな。
ただ、忠告したことだけは忘れるなよ’

と言い残して、自席へと戻って行きました」

「なるほど、ちょっとした脅しだな。
もっとも、そこまで言うからには余程の自信があるんだろう。

さっきから値動きを見ていたが、彼の頼みでサポーターのファンドがドルを買ったんじゃないのか?

お前のポジションは、今ショート(ドルの売り持ち)か?」

「はい、30本だけですが・・・。
さっき客が45(112円45銭)で50本買ったうちの30本がアンカバー(ドルショート)になっています」

「そっか。今、ショートを持っていて居心地が良いか?」

「いえ、上値は重たい感じですが、かと言ってそんなに下もない様に思います。
こっちの長期金利も上がってきたので・・・」

「それじゃ、ショートは何処かで閉じておいた方が良いな。
今、昼前か・・・。

午後に入ったら、横尾がドル買いを頼んだサポーターのファンドがロングを落としてくる(ドルを売ってくる)と思う。

聞くところでは、彼の知り合いのファンドは皆、つるんで短期の利鞘稼ぎで立ち回ってるらしいから、ロングを落としてくるハズだ。

その時に、買戻しておくといい。

お前の処理が終わったら、横尾に伝えておいてくれ。
俺が明日(火曜日)の東京で200本買い、3円台(113円台)に乗ってから徐々に利食うと」

 

‘俺のロングを利食わせたくないとすれば、必ず何処かでドルを売ってくる’

 

「了解しました。

それでは失礼します。

おやすみなさい」

 

翌日(火曜日)の東京市場が開けると、直ぐに山下から電話があった。

「昨晩の打ち合わせ通り、課長の伝言を伝えておきました」

「そっか、今38(112円38銭)で100本買った、残りの100本も今買う。

横尾や彼のサポーターはきっと、3円に乗せる前に大きな売りを入れてくるはずだ。

そこでドルが下がったら、俺は追加でドルを買う。

横尾等のショートを切らすまでな。

どうせ肝っ玉の小さい連中だ。

3円台に乗ったら慌てて切るさ」

「いよいよ面白くなってきましたね。

課長のお役に立てる時間帯がニューヨーク市場だと良いんですが」

「多分、今日のニューヨークでそうなる。

その時はしっかり頼むぞ」

「了解です」

山下との会話を終えた後、トランプ大統領の「対中貿易で素晴らしい取引を見込む」との発言で株式市場がリスクオンの姿勢となった。

日経平均株価の大幅上昇に連れて、ドル円は112円74銭まで上昇した。

ここからが肝の水準である。
前の週にドル円は113円台に乗っていないため、有象無象の売りが出やすいからだ。

 

案の定、市場の中心がロンドンからニューヨークに移り出すと、ドル円の売りが出始めた。

90(112円90銭)に届くと弛みなく売りが出る。

社宅のデスクのPCを見つめながら、ドルが下がるのを待った。

山下の情報では、横尾達は55~60(112円55~60銭)程度での買い戻しを狙ってる様だ。

 

‘そろそろ、山下に電話を入れるとするか’

 

「あっ、課長。いよいよ動き出しますか?」

「今、いくらだ?」

「80-82です」

「そっか、80がgivenしたら(ドルが80で売りになったら)50本ずつ買い続け、75がgivenしたらそこで買うのを止めてくれ。

これからロンドンの岸井に、75givenでの買いを頼むつもりだ。

了さん、いえ課長は彼らにショートを切らせることで3円台(113円台)を狙ってるんですね。

そこで跳ねたところで売る」

「まぁ、そんなところだ。
後で何本買えたか、メールを入れてくれ」

「了解です」

山下との電話を終えると直ぐにロンドンの岸井に電話を入れ、75givenで50本ずつ買う様に頼んだ。

 

結局ポジションは、昨日買った200本と合わせて都合600本のドルロング(ドル買い持ち)となった。

完全に限度オーバーだ。

しくじれば重い懲罰が下り、儲けても何らかの罰が下される。
今回は収益目標ではないだけにより罰は重い

東城には本件の話をしていない。

言えば、東城は‘お前の好きな様にやれ’と言うに違いないが、今回はそれを躊躇った。

 

‘自分だけで責任を取るつもりだ’

 

翌日の東京(水曜日)でドルは113円34銭まで跳ね上がった。

山下の話では、横尾達のドルショートは113円に乗せたところで買い戻しに転じたという。
NYダウの反発がアジア株全体を押し上げ、ドル円がそれに連れたことも幸いした。

俺の600本のドルロングは、東京で113円20、ニューヨークで113円30で売り捌いた。
収益は3億を優に超えたが、あまり後味の良い儲けではない。

 

翌日の朝、すべてを報告すべく東城の執務室を訪れた。

早朝にメールで一連の顛末を報告してあったので、東城の結論は早かった。

「俺のオバーナイトの限度は300本ある。

俺が自分自身のディールをお前に一任しておいたことにすればいい。

つまりお前の限度300本と合わせて600本だ。
お前の限度オーバーにはならないな。

それで何か問題があるか?

さっき、バックオフィスの山根君にもアカウントコレクション(口座訂正)の依頼もしてある。

もう一蓮托生だな」
と笑いながら言う。

頭を深く下げながら、
「ありがとうございます」とのみ言った。

と言うよりも、あまりの心の広さに触れ、それ以上の言葉が出なかったのだ。

熱くなる目頭を東城に見せるのを避ける様に、短く「失礼します」と言って、ドアに向かった。

「無理するなよ」
という言葉を背中で聞いた様な気がする。

部屋を出ると、ドア越しに深々と頭を下げた。
再び目頭が熱くなるのを覚えた。

 

‘この件は早晩、田村や嶺に伝わることになる。
そうなれば、俺だけでなく、東城も責めを負う。
それにも関わらず、あの人は・・・’

 

その日以降もドル円は112円半ばを割り込むこともなく、113円20銭近辺で週を跨いだ。

米10月の雇用統計で、NFP(非農業部門雇用者数)増が予想を上回ったことや、前年同月比の平均賃金の伸び率が高かったことがドルの背中を押した。

山下の話では、ショートを踏まれた後の横尾は心なしか意気消沈している様子だという。

 

‘だが、あの程度のダメージで手を引くような横尾じゃないはずだ’

 

土曜日の晩、定例となった国際金融新聞の木村へのドル円相場予測を書くため、ラフロイグのボトルとグラスを持ってデスクへと向かった。

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木村様

米中間選挙では民主党が議席数を増やし、捻じれを懸念する声が多い様ですね。

もっともトランプ弾劾については、上院改選議席数をすべて民主党が獲得しても、採決に必要な上院議席数三分の二までは至らない。

とすれば、イベント一過で、市場の反応は薄いかと見ています。

FOMCは12月利上げの地ならし程度の解釈といった感じでしょうか。

経験則から、米雇用統計が良好だった翌週はあまりドルが上がらない様な気がします。

ただ相場の焦点が少しぼやけてきたので、実践では柔軟性を持って対応したいと考えています。

来週のドル円予測レンジ:111円50銭~114円10銭

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

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(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第10回 「横尾の出張」

ドル円は月曜(22日)の東京で112円89銭まで上昇したが、週末のニューヨークで111円38銭まで下落した。

米中貿易戦争、イタリア財政問題、そしてサウジアラビア問題が燻る中、金融市場全体がリスク回避的な行動に出ている。

軟調なNYダウ、不穏な動きの中国・上海株、それに日経平均が追随するとなれば、否が応でも市場の行動はリスクオンからリスクオフに変わる。

一時は忘れらさられていた‘リスク回避の円買い’という曖昧な言葉が、再びメディアで取り上げられ出した。

少しまともなメディアは、米株から米国債に資金が流れ、その結果米金利が下落し、週後半にドル円が下落したと表現する。

そんなメディアの理屈を抜きにしても、年初来高値となる114円55銭を打った後のドルが下を向きつつあることは事実だ。

IMM(シカゴの国際通貨市場)のノン・コマーシャルの円売りポジションは膨れ上がり、メンバーは2週連続でポジションをthrowing upしている。

ポジションはまだ10万枚近くあるため、throwing up が続きそうな気配だ。

 

土曜日(20日)の晩、社宅で宅配ピザをつまみにハートランドを飲んでいると、山下から電話が入った。

「今晩は。

ラフロイグの時間、お邪魔して済みません」

「いや、今は宅配ピザとビールだ。

侘しいな、土曜の晩飯がこれだからな。

ところで、何か急用か?」

「はい、横尾さんの件でちょと気懸りなことが」

「また問題か?」

「いえ、最近横尾さんのヨーロッパへの出張が多いのが気になって、連絡までと思い・・・」

「そう言えば、二日前にロンドンの岸井が不可思議なことを言ってたな。

シティー(ロンドンの金融街)で横尾を見かけたけど、支店には寄らなかったらしい。

ロンドン市場が終われば、あっちの客はニューヨーク支店にコンタクトしてくる。

とすれば、主要な客への表敬訪問でロンドンに行ったていうこともあるが、支店に立ち寄らないのは不自然な話だ。

何か寄りたくない事情でもあったのかな?」

「それは確かに妙ですね。

そのことと関係があるかどうか分かりませんが、昨日の午後にパークアベニュー銀行の知り合いから電話がかかってきて、わざわざ‘さっきの売りはスイスのルガノビエンヌ・ファンドだ’と伝えて来ました。

2円60(112円60銭)からズルッと落ちた直後なので、信憑性がある話だと思います。

でも、守秘義務があるのに、‘間髪を入れずに自行の客の取引を他行に教えてくる’これって可笑しいですよね?」

「そうだな・・・。

横尾はスイスのファンドや投資家に知り合いが多い。

それにスイスばかりでなく、フランクやロンドンにもいる。

とすれば、一連の出張は彼等に会い、企みディールのサポートを頼むことが目的だったのか。

パークのディーラーが守秘義務を破ってでもお前に客名を言ってきたのは、恐らく横尾がルガノに頼んでやらせたことかもな。

簡単に言えば、横尾が‘自分が頼めば、どこのファンドでも動かせる’、そんなことを暗にお前に伝えたかったんじゃないのか。

‘当然、お前がそのことを俺に伝える’ってことを見越してな。

要は俺への宣戦布告だ。

多分、来週辺りから何かを仕掛けてくる様な気がする。

俺だけでなく、もしかしたらお前にも仕掛けてくるかも知れない。

用心しとけよ」

「ちょっと面白そうで、武者震いがしますね」

「まぁ、侮らないほうがいい。

国際金融本部の日和出身者はどんな汚い手口でも使うからな。

ところで今日は、家族をどこに連れてってやるんだ?」

「ブロンクス・ズーにでも行って、それからマンハッタンの何処かでメシでもと考えてます」

「それは良い。

それじゃ、来週も宜しく頼む。

連絡、ありがとな」

「失礼します」

 

‘横尾も狂ってるな。

堂々とディールで稼げば良いのに’

 

山下との会話を終えると、デスクに向かった。

国際金融新聞の木村に来週のドル円相場予測を送るためである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

木村様

 

ドルの上値が限定されてきましたね。

月初に114円55銭を付けた時は、‘115円は時間の問題’とかいう声もありましたが、今はそんな声は全く聞かれなくなりました。

今週も112円半ばでドルの上値が重たい様でしたら、下に滑ると考えています。

与件が多くて上手くまとめられませんが、簡単に要点を下記します。

サウジ問題や欧州問題は、引き続き市場の関心事とは思いますが、正直なところ、その与件に私は少し食傷気味です。

むしろ、気になるのは世界の株式市場でしょうか。

経済指標では、週末に発表される米国の10月雇用統計と9月貿易収支が重要ですが、市場の関心は雇用統計から貿易収支に移行しつつある様です。

全体の貿易赤字が拡大するかどうかも重要ですが、ドル円絡みでは対日赤字がどうなるかが気になるところです。

予測レンジは109円80銭~112円50銭です。

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

Outlookの「送信」にカーソルを当てクリックし終えると、直ぐにTVのリモコンの入力ボタンを押し、NHK・BSを選択した。

MLBワールドシリーズ第3戦のサマリーを見るためである。

既にドジャーズが延長18回の死闘を3-2で制し、レッドソックスに勝ったことは知っていたが、シーズンも残すところ僅かとなった今、サマリーも見ておきたかった。

 

‘延長18回、7時間20分の試合、負けたレッドソックスの疲れは尋常じゃない。

それにレッドソックスは明日の先発登板を予定していたイバルディーをこの試合で使ってしまった。

明日もドジャーズが勝って、シリーズを2-2のタイに持ち込むに違いない’

 

そんなことを思いながら飲むラフロイグは美味かった。

 

だが、現実は甘くない。

翌日のラフロイグは薬品の臭いがする単なる琥珀色の液体へと変身していた。

 

Boston Red Sox 9-6 Los Angels Dodgers

レッドソックスがシリーズ3勝1敗とし、ワールドシリーズ・チャンピオンシップをグッと手繰り寄せた。

 

‘来週のディールは不調かもな’

 

鋭い目線を浮かべる横尾の顔が脳裏をかすめた。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第9回 「戦いを控えて」

週初(15日)、ドル円は112円20前後で寄り付いた後、上値の重たい展開が続いていた。

先週末(13日)にムニューシン米財務長官が日本に対して通貨安誘導を防ぐ「為替条項」の導入を求める意向を示した’ことが重しとなっているのだ。

沖田が、
「どうでしょうか?」と聞く。

「今週の肝は1円60(111円60銭)近辺だろうな。

あそこは年初来安値(104円64銭)からのサポートが走ってる他、一目の雲に近いから、一旦止まるはずだ。

そこまでの値幅を取りに行くのなら、今売っても良いけど・・・。

ムニューシン発言は見え見えの売り材料だから、あまり深追いはしない方が良いな。

どうせまた、良い売り場があるんだから。

とりあえず、50本だけ売ってみるか」

「17(112円17銭)です」

「サンキュー」

「私も20本だけ売ってみました」

「そっか、日銭も稼がないとな。

ところで、今晩テレビ番組の前、空いてるか?

ちょっと、話しておきたいことがある」

「はい、大丈夫です。

番組も今日は私とは無関係な特集が組まれてるそうで、局に行く必要もありません。

ですから、アルコールもOKです」
笑いながら言う。

 

午後に入ると、少しドルが売り気配になり、ロンドン市場が始まってからは111円台後半での展開となった。

「どうしますか?」
沖田が聞いてくる。

ショートキープか、利食うかと言う意味だ。

「10日足らずで3円近くも落ちてるし、短期のオシレーターもアラートが点滅し出した。

朝の打ち合わせ通り、深追いしない方が良いと思う。

とりあえずロンドンに連絡して、あっちの状況を聞いてくれるか?」

「はい」
と言うが早いか、キーボードを叩き出している。

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朝の動きは試し売りで、岸井さんは60(111円60銭)台からは大方が買い戻すと見ている様です
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沖田がキーボードを叩きながら、ロンドンの話を伝えて寄越した。

「そうだろうな。

とすると、一旦は撤退だな。

返す刀で、100本買ってくれ」

「了解。

・・・   ・・・   ・・・

69です。

岸井さんが、課長の買いは何だと聞いてますが・・・?」

「利食い半分、ロング半分と伝えてくれ。

ロングの利食いは今朝の寄り付き近辺の20(112円20銭)で頼む」

キーボードを叩き終えると、沖田が聞いてきた。

「ところで課長はこの先、どんな展開を考えてるんですか?」

「今日のニューヨークか明日の東京で、もう一回下を試すけど、今日の安値は抜けない。

そして週後半は112円台の後半かな。

そんな展開になれば、来週初に少しドルが買い気配になり、113円台前半があるかも。

仮にそこがあれば、売ってみたいけどな。

それはそうと、どうも上海(総合株式指数)が変だな。

恐らく中国の状況が伝わってる以上に悪いのかも。

欧州はイタリア財政問題とブレグジットで、ダックス(ドイツ株価指数)もダメ。

米株も先日の急落やサウジ絡みで目先は下落リスクの方が強い。

来年にかけて、10年に一回の国際金融危機でもなければ良いが。

いつの世も景気循環と金融政策は折り合いが悪く、間合いの悪い時に限って何かが起きるからな」

「そうですね。

それじゃ、そろそろ、出ますか」

「そうしよう」

 

まだ月曜ということもあって、青山のジャズクラブ・Keithは空いていた。

いつもの右奥のテーブル席に座りながら、

「マスター、ハートランド2本、それに適当なアテとサンドイッチをお願いします。

BGMは、Still Live のDISC1で」と、注文を入れた。

‘My Funny Valentine’が静かに流れ出す。

それと知らなければ、何の旋律か分からないほど、Keithがアレンジしている。

少し喉が潤ったところで、
「俺は横尾を外したいと考えてる」と切り出し、先週ニューヨークで山下に話したことを沖田にも伝えた。

「そうですか。

横尾さんと山際さんが交替してから、あっちの雰囲気は良くないですからね」

「嶺さんや清水支店長の肝入りで決まった人事である以上、多少のことじゃ、彼を動かすことは出来ない。

ここは、彼自身から身を引いてもらう必要がある」

「完膚なきまで叩くってことですね?」

「ああ、そうしたい。

その延長線上で、田村・嶺等を潰せれば最高だとも考えてる」

「えっ、了さん、まさか銀行を辞める覚悟じゃないですよね?」

「ははは・・・。

何であいつらのために、そこまで」
笑ってごまかすしかなかった。

「そりゃそうですよね。

僕に何かできることはありますか?」

「今のところはないが、そのうちきっとある。

その時は頼む。

ところで、テレビ番組の件、いつまでも悪いな」

アルコールはラフロイグに切り替えていた。

球体の氷が溶け出し、味と香りにラフロイグらしいインパクトが消えている。

マスターにストレートを頼むと、沖田もそれに従った。

「いえ、美人キャスターに会えるので、続けさせて下さい」
何だか、にやけた顔をしている。

「気を付けろよ」
とだけ言うと、何となしに二人はグラスを軽く合わせた。

 

ドル円は週後半に入るともう、111円台を売る人間はいなくなっていた。

ムニューシン米財務長官が「日本との通商協議で‘為替条項’を求める」と言った割には、
米財務省が17日に発表した「為替報告書」の内容が日本や円に対して厳しくなかったからだ。

必ずしもそうとは思えないが、相場はそう動いた。

木曜日(18日)のオセアニアで週高値とあんる112円74銭を付けた後、112円55銭近辺で週を越した。

 

土曜日(20日)の晩、神楽坂のイタリアン・レストランで夕飯を済ませた後、社宅に戻った。

 

‘そろそろ国際金融新聞の木村にメールを送っておくか’

 

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木村様

ブレグジット、伊財政問題、サウジアラビア問題が懸念される中、世界の主要な株式市場も少し調整色が強くなってきましたね。

来週のドル円は揉み合う展開かと思いますが、今のところ、先行きドル安という見方は変えていません。

113円台前半があれば、ドルを売ってみたいと思います。

 

市場は今回の米為替報告書を軽く扱った様ですが、原文では、日本に関して、

‘We(米国) will consider adding similar concepts(為替条項) to U.S. trade agreements, as appropriate.’

と明記しています。

また、為替操作国の認定では、その基準である「対米貿易黒字額」「対GDP比の経常黒字」「継続的為替介入」のうち、日本は‘継続的介入をしていない’という事実を以て免れていますが、対米貿易黒字と経常黒字では明らかに抵触しています。

従って、FFRの進捗状況が悪ければ、「超長期の金融緩和」≒「継続的円売り介入」という捻じ曲げた理屈を言い出しかねません。

つまり、日本が「為替操作国」になりかねないということです。

少し中長期的な話ですが、留意しておきたい点でしょうか。

 

来週の予測レンジは「110円50銭~113円50銭」です。

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

 

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送信し終えるのと同時に、スマホが鳴った。

志保からである。

開口一番、「アストロズ、残念ね」と言う。

「ああ、ワールド・シリーズまで行くと思ったけどな。

ところで、用件は?」

「用件がないと、電話もかけちゃいけないの?」

「そんなつもりで言った訳じゃないけど」

「そんなこと、分かってるわよ」

笑いながらそう言った後、

「ところで、了がこっちに来る件、マイクに話しておいたわ。

彼、すごく喜んでた」と続けた。

「おいおい、まだ行くと決めた訳じゃないからな。

それに志保と一緒に住むわけじゃないから、勝手に家やアパートを契約するなよ」

「どうかなー」
からかう様に含みを持たせて言う。

「勝手にしろ。もう切るぞ。

そっちはそろそろ寒くなるから、風邪引くなよ」

「えっ、最近やけに優しくない?
本当は、一緒に住みたいんじゃないの?」

「馬鹿、それじゃな」

 

‘既婚者用の社宅で過ごす週末は侘しい。

結婚・・・、そろそろかな。

ただ、「お前は気楽でいいな。ウィークデイは銀行でこき使われ、毎週末は家族ケア。結婚するとなると、それはそれで大変だぞ」などという同僚の話を聞くと、ついつい結婚が煩わしく思えてくる’

 

外を見たくなり、リビングのカーテンを開けると、向かいの棟の八割に灯りが点っている。

 

‘灯りはどの家庭も温かそうに映している様だけど、皆上手く行ってるのかな?

志保か・・・。

全てに楽観的で奔放なところがあるけれど、案外家庭向きかもしれない’

 

「分かってるじゃない、了も」

そんなことを言いながら、少し街路樹が色づき始めたグリニッジの街を、ソフトクリーム片手に呑気に歩く志保の姿が脳裏をかすめた。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第8回 「戦略会議」

日米共に休日となった週初の月曜日(8日)、為替市場は模様眺めの展開かと思われたが、ユーロ円の売りに連れてドル円が112円台後半へと下落した。

「先週までは‘115円突破か’などと騒いでいたくせに、今日はもうそんな声は全くありませんね」

休日の夕方にも関わらず、宿泊先のアストリア・ホテルのバーに出向いてくれた山下の開口一番の声だ。

「ロンドンと話してたのか?」

「はい、東京の客のオーダーも113円台前半まで降りてきたそうです。
やはり、114円台は重たいですね」

「そっか。
まだロングのシコリもある様だし、ドルは一段安だろうな・・・。

まあ、今日は相場の話は止めておこう。

食い物は、オードブルと少し腹に溜まるものをオーダーしてあるけど、アルコールは自分で選べ」

「了さんは何を飲んでるんですか?」

「マカランの18年だ」

「じゃ、同じもので行きます」
と言い終えると、バーテンダーに注文を入れた。

大分仕草や話ぶりが、手慣れてきた様だ。

「ところで人事の件だが、明後日(水曜日)の午後、レイノルズ・リサーチが推薦してきた五人と会う予定だ。

俺がその内の二人に絞るから、最終的にはお前がインタビューしてどちらかを選べ。

今回は横尾が口を挟めない様にしてあるから、お前が決めればいい。

これが五人のレジュメだ。

目を通しておいてくれ」

「了解しました。

でも、横尾さんも面白くないでしょうね。

自分が管轄する部門の人事にも関与できないんですから」

「それはそうだが、彼に任せれば、間違いなく自分に忠実な人間を採用する。

そうなれば、お前が仕事をやりづらくなるだけだ」

「そうですね。

ところで前回の出張で‘横尾さんを市場部門から叩き出す’って言ってましたけど、その件はどうします?」

「自分から他人の脚を引っ張るのは気が進まない性分だ。

だから、相手が先に動いてくれた方が俺はやりやすい。

実は、日和時代に為替部門で横尾と一緒に働いていた人物が名古屋支店にいる。

融資部次長で、田所さんという人だ。

先週本店に出張してきた際に、横尾の話を聞くことが出来た。

田所さんは横尾より年次は一つ下だが、本人曰く自分の方がディーリングでは上だったそうだ。

そんな彼を横尾は外しに掛かったという。

手口は彼のポジションとは逆サイドのポジションを数倍持ち、時には他行の知り合いにも上乗せを頼んでいたらしい。

多勢に無勢で勝てる訳はない。

幾度か文句を言ったそうだが、‘何の証拠があって、そんなことを言う? そんなことより、技量を上げろ’と切り返されたそうだ。

当時の二人の上司が田村で、横尾とは兄弟の様な付き合い方だったらしい。

その翌年、田所さんは福岡支店に異動になった。

要は、‘仕掛けられた’ってことだ」

「酷い連中ですね。

それで、了さんとしては、横尾さんが仕掛けてきたら、切り返すってことですか?」

「まあ、そんなところかな。

今の彼はかつてよりポジション・リミットが大きい。

それにスイス時代にあっちで何らかの人脈を作っているはずだから、かつてよりもパワーアップしている。

そのパワーを利用して、俺を潰しに来る日はそう遠くないはずだ。

一連の意趣返しもあるが、何よりも彼は俺の上に立ちたいと思っている。

当分、彼の動向をウオッチしておいてくれ」

二人はアストリアのバーを後にすると、ダウンタウンのジャズクラブへと向かった。

アメリカンリーグ・地区シリーズの第三戦、ヤンキースがレッドソックスに1-16で大敗したことを知ったのは、帰りのタクシーの中だった。

ポスト・シーズン16失点は、球団史上ワースト記録である。

‘明日の試合もだめかな’

 

翌朝(NY火曜日の朝)、マイクから電話があった。

チケットは入手できなかったという。

 

‘残念だが、ポスト・シーズンでのヤンキース・ボストン戦の大詰めだ。
無理もないな’

 

マイクからの電話の直後、志保からメールが届いた。

〈チケット、残念だったわね。

でも、私が行くから我慢して。

6時過ぎにホテルに行くわ〉

 

《部屋は40XXだ。

待ってる。

混雑時のグラセン(グランドセントラル駅)、気を付けてな》

 

〈了にしては、珍しく優しい言葉ね。

ありがと、気を付ける。OX〉

 

オフの日中、ブルックス・ブラザーズやポールスチュアートなどで買い物をしながら時間を潰し、志保を待った。

 

メールの通り6時過ぎに部屋に来た志保は、いきなり俺の胸に飛び込んできた。

人目があろうとなかろうと構わない、いつもの彼女の仕草である。

そのまま俺にしな垂れてくるかと思いきや、
今度は「了、ルームサービスをお願い。急いできたのでお腹空いちゃった」と言う。

 

‘呆れてモノも言えないな’

 

「何でも良いのか?」
少しふてくされ気味に言った。

そんなことも気にせず、
「ええ、スープとサンドイッチとか、それにスパークリング・ワインもお願い」と言いながら、バスルームへと消えて行った。

 

‘奔放だな。

そこが彼女らしいって言えばそうだが、とても嫁さん向きではないな’

 

その晩、抱き合った後、彼女にそれとなく言った。

「もしかしたら、こっちに来るかもしれない。

マイクに伝えておいてくれ」

「えっ、コネティカットで働くってこと?」

「ああ、但し、‘もしかしたら’ってことを付けくわておいてくれ。

50:50程度の感じかな」

「何か銀行であったの?」
怪訝そうな顔だ。

「これから、あるかも知れないってことだ。

もうこの件では、これ以上話すことはない」と言い放ち、テレビのリモコンのスイッチを入れた。

【4-3 loss to the Red Sox】

 

‘やはりな。

今年のヤンキースにはガッカリだ’

 

志保は‘残念ね’と言いながらも、何故か嬉しそうだ。

「ねぇ、グリニッジ近辺に二人が住むのに良い場所を探してみる」
などと言っている。

「おいおい、まだ決めたわけじゃないからな。

それに志保と一緒に住むなんて誰も言ってないだろ!?」

「了解、了解」などと言いつつ、既にスマホで住宅を探してる様子だ。

 

翌日、5人とのインタビューを熟し、二人を選んだ。

二人共、キャリアに問題はなく、30代前半の妻子持ちである。

後の選択は山下に任せてある。

‘彼がやりやすい人物を選択すれば良い’

 

ドル円相場は、週後半に入って111円83銭を付けた後、112円20近辺で週を終えた。

まだドルが一段安となりそうな気配だ。

 

土曜の夜11時過ぎに神楽坂の社宅に戻ると、やおらPCにログインした。

国際金融関連のヘッドラインを一覧すると、『ムニューシン米財務長官、日本に為替条項要求』の一行が目に飛び込んできた。

 

‘為替相場が日米通商協議での争点の一つなることは市場参加者の誰もが予想していたことだが、ドル円が崩れ始めている時だけに週明けから左に(ドル安に)触れる可能性がある。

市場が慌てれば、110円割れがあるかも知れないな。

15日に発表が予定されている米財務省の【為替報告書】で、日本が為替操作国として認定されるとは思わないが、記載される内容には要注意だな’

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第7回  「人選」

週初(10月1日)の朝方、相場は模様眺めの展開となった。

ドル円は113円台後半でやや強含みに推移しているが、積極的にドルを買う向きも少ない。

そんな状況を見て、東城の執務室に向かった。
市場が一段落したら、’時間を貰いたい’と早朝に伝えてある。

「仙崎です」

「入れ」
いつもの落ち着いた低い声がドア越しに聞こえてきた。

ドアを開け、指示されるままにソファーに座ると、
「あっちは落ち着いたのか?」という。
あっちとはニューヨーク支店のことである。

「はい、ジムの奥さんにはマイクのファンドで働いて貰う様、提案しています。

問題は空席となった人事です。

今は小野寺を長期で出張させてますが、FED(ニューヨーク連銀)の事後調対応などを考えると、やはり英語の問題を含めてジム程度の能力がある現地人を雇う必要があるかと思います。

ただ、横尾さんが人選した場合、その人間が必ずしも山下や他のスタッフ達と調和するとは限りません。

というよりも、横尾さんは‘自分に忠実と見られる’人間を雇うと思います。

本来であれば、横尾さんに人事を任せるのが筋かと思いますが、今回は私が人選出来る様にお取り計らい願えませんでしょうか?

「分かった。

人事については、何とかする。

ところで、下半期の収益についてだが、お前個人のバジェットが20億円は大き過ぎないか?」

「確かにそう思います。

ですが、海外店のトレジャラーやチーフ連中に厳しい収益を課した手前、示しがつかないかと・・・」

「まあ、お前に任せるが、無理はするなよ。

超低金利が続いてるお陰で、銀行の収益が悪化している。

その皺寄せがこっちに回ってきているだけだ。

だめで元々のバジェットと俺は考えてる」

「分かってますが、頑張れるだけ頑張ります」
きっぱりとした声で返した。

納得していない様子が東城の顔に滲む。

重たい空気が流れ出したのを振り払う様に

「最近、どこへも行ってませんね。

どこか旨いものでも食べに連れてって下さい」と明るい声で誘い掛けた。

「そうだな。

近いうちに寿司か河豚でも行くか」

「それは良いですね。

できれば、秋ですから河豚の方が」
東城の顔に笑みが戻った。

場が和んだのを見計らって、ソファーから立ち上がり、ドアへと向かった。

「あっちの人事、週の半ばまでには話を付けておく。

ヤンキースがワイルドカードを勝ち上がれば、あっちで地区シリーズのボストン戦にありつけるかもな」
背中で東城の声を聞いた。

「はい、チケット次第ですが」
後ろ手にThumb up をしながら言う。

 

‘見抜かれたか’

 

ドアを閉めると、深々と頭を下げた。

 

ドル円相場は週半ば(3日)に114円54銭、そして翌木曜日に114円55銭を付けたが、昨年11月の高値114円73銭を抜くことはできなかった。

そして週末の金曜日、米9月雇用統計のNFP(非農業部門雇用者数)が予測を下回ったことを受けてドル円は113円56銭まで沈んだ。

先週の土曜日に国際金融新聞の木村宛てに送った予測では「来週のドル円は一旦伸び切り、反落する可能性が高い」と書いたが、正にそんな相場展開となった。

 

ニューヨーク支店の人選は仙崎に一任された。

東城の要請に常務の嶺は強く反対したそうだが、ジムの死に横尾が関係している可能性を示唆すると仕方なく折れたという。

土曜の午後、明日からの出張に備えてのパッキングをしていると、国際金融新聞の木村から電話が入った。

「珍しですね。

木村さんから電話とは?」

 

「今、社で‘ドルの強さは本物か’というテーマで原稿を書いてるんですが、行き詰ってしまい、つい仙崎さんに電話してしまいました。

何か良いアイディアはありませんか?」

「埋め草でもいいですか?」

「ええ、仙崎さんのことだから、単なる埋め草ってこともないでしょうし。
是非、お聞かせ下さい」

「最近ではあまり、真剣に議論されてませんが、ドルの信認を深刻な問題と捉えています。

トランプ政権は経済成長と経常収支のインバランス(不均衡)是正の両取りを狙っています。

財政拡大で大幅経済成長を目論めば、経済成長が叶っても、そこには財政赤字拡大と輸入増が伴いますよね。

つまり、現状の財政拡大を続けて行けば、財政赤字の増加と経常赤字の拡大は避けられないってことでしょうか。

双子の赤字とGDP比の問題は早晩、ドルの信認問題につながるため、‘ドルの強さは本物か’という、木村さんが今お書きになっているテーマにマッチングしてるかと思います。

今は取り沙汰されていませんが、何かが切っ掛けとなって、大きくクローズアップされても不自然ではない問題と考えています。

ちなみに、来週の木曜(11日)にアメリカの9月財政収支の発表がありますが、この先注意深く見ておいた方が良いかも知れません」

「なるほど、何となく良い原稿が書けそうな気がしてきました。

ありがとうございます。

ついでに、来週のドル円はどんな感じでしょうか?」

 

‘抜け目がないな、この人も’

 

「多少ドルが上がっても、やはり上値は重いと考えてます。

そろそろ本格的な調整局面入りかと。

予測レンジは112円20銭~114円75銭にしておきます。

それじゃ、ちょっと忙しいので、この辺で失礼します」

「お忙しいところ、申し訳ありませんでした」

 

パッキングを終えると、ウィスキーグラスを片手に電話を入れた。

相手はマイクである。

頼み事を告げると、

‘Whaat!?  Are u serious?’

と怒ってる様な口ぶりで言う。

来週火曜日のヤンキース・レッドソックス戦のチケットを頼んだのだから無理もない。

そう言いながらも、

「泊まりはアストリアか?

もし取れたら、Shihoに届けさせる。

でも、あまり期待するなよ。

何せ、カードがカードだからな」

と続けた。

 

‘Friends are the most valuable assets.

I owe u one’

と、多少は感謝の気持ちを込めて言った。

‘Not one,
Right?’

‘Right.
I lost!

Thank u as always’

 

‘良いヤツだ。

チケットが取れなくても、きっと志保を立ち寄らせるに違いない’

 

ボストンで行われた地区シリーズ第一戦は、ヤンキースが失った。

第二戦はマー君が5回一失点と健闘し、ヤンキースが勝利をものにしたという。

羽田でそのことを知った俺は、

‘マイク、何とかチケットを手に入れてくれ’と祈らざるを得なかった。

♪♪・・・・・ニューヨーク、ニューヨーク・・・・・♪♪・・・・・

フランクシナトラの歌声が搭乗案内と重なった。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。