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第60回 「台風の後」

既にドル円は110円75銭まで下落している。
悩み処に差し掛かった。

110円75銭は年初来安値の104円64銭からの支持線水準でもある。
この水準を完全に下回らない限りは、一連のドル高トレンドが終わったとは言えない。

既にトランプ発言は、ムニューシン財務長官により否定されてもいる。
来週から長期の休暇に入ることを考えると、ポジションを整理しておかなければならない。

‘ここは、利食いかもしれないな’

「沖田、先週のショート300本、これから全部買い戻す。
シンガポールにも頼んで、少しずつ買ってくれ」
一挙に買い戻すと、自分でドルを押し上げてしまい、コストが悪くなる。

一時間後、
「全部、買い戻しました。
アベレージ、90(110円90銭)です」と沖田が言う。

「了解。
流石に良い捌きだな」

「課長にそう言われると、照れますね」
嬉しそうに言う。

その後、相場は111円台へと振れた。

‘これで当分、ポジションを取らなくて済む’

ディーリング・チェアから立ち上がり、窓際に向かった。
皇居の森がいつもと違う美しさを見せている。
仕事が一段落した後の心のゆとりのせいだろうか。

次の日、東城と銀座の寿司処‘下田’で酒を酌み交わした。

「お前とこうして飲むのも久しぶりだな」
実感の籠った声である。

‘つくづく、そう思う’

「本当にそうですね。
東城さんも株主総会とかでお忙しかったし、僕もニューヨーク出張がありましたから」

「そうだったな。

ところで、先週のドルショート、上手く行った様だな。
これでもう、上期のバジェットを50%オーバーか、確かにお前は凄い。

だけど、どうしてそんなに急ぐんだ?」

「はぁ、少し夏休みを頂きたくて」

「なるほど。
で、海外へでも行くのか?」

「ドジャーズ・マリナーズ・レッドソックス・ヤンキースの試合観戦です。
それにスケジュールが合えばですが、エンジェルスの試合も」

「へー、お前らしいと言えばお前らしいな。
西海岸と東海岸制覇か。

分かった。
まあ、ゆっくりしてこい」

「ありがとうございます。

それに山下のことが気懸りなので、彼にも会い、支店の状況を聞いて来ようかと思ってます。

横尾さんが敢えて僕に喧嘩を売ってきたことを考えると、山下が犠牲になる可能性もあるので・・・」

「そうだな。

俺に挨拶に来たときも、妙に挑戦的な感じを受けたが、清水、嶺、横尾、皆あっち(日和銀行)の人間だから、当然って言えば当然ってことか。

統合から15年近く経つというのに、まだ両行に軋轢が残っているのは事実だ。
頭取もそのことを気に病んでる様だが、なかなか解決できない。

お前は統合後の人間だが、連中は住井出身の俺のラインに組み込まれていると思ってる。

そして山下がお前を慕っているため、彼にも住井派というレッテルが張られてしまった。

馬鹿な話だが、それが現実だ。

そんな馬鹿話に決着をつけられるのは、統合後の入行者だけかもしれないな。
そしてその人物は際立った実績を残し、誰からも人望がなければならない。

そんな人物になれるのはお前ぐらいかもしれないな。
頼んだぞ」
東城は、ときおり冷酒の注がれたグラスに口をつけながら、とつとつと語った。

「確かに僕の同期やその下の連中にはそうした軋轢はないかもしれません。

ただ、出自やら出身校をひけらかす人間は残り続けるのでしょうね・・・」
将来を託されたことには触れずに、感想を言った。

「まあ、そうだろうな。

ところで、岬君とはもう本当にだめなのか?」

「そっちへ話が飛びますか。

もうだめですね」
彼女の家の事情なども説明し、無理だと言い切った。

「そうか、残念だが仕方ないな。
まぁ、お前はモテるから、まだまだ縁はある。

もっとも、お前に結婚する意思がなければ無理だが」
笑いながら言う。

「ここは笑うところじゃないでしょ。
罪滅ぼしに二軒目はこの辺りのクラブへでも連れてって下さい」

「銀座のクラブか、自腹では無理だな。
六本木で良ければ、連れて行くが」

「はい、そこで全然問題ありません」
二人の笑いが店内に響き渡った。

他にも客がいたが、店主は何も言わずに微笑ましく語らう二人を温かい眼差しで見つめていた。

ドル円相場はその日以降も軟調地合いが続き、木曜日(26日)には110円58銭まで下落したが、節目の110円割れは逃れた。

週末の金曜日は概ね111円を挟んでの模様眺めに終始し、世界の市場はやる気を無くしたかの様だった。

来週には日銀の金融政策決定会合や7月米雇用統計など多くの重要指標もあるため、相場が動く可能性がある。

そろそろ欧米では、市場参加参加者が長期休暇に入る頃だ。

市場が薄くなる分だけ相場が動きやすくなり、夏相場は大きく動く時がある。

だが、来週から休暇を控えているため、相場のことは忘れることにした。

相場が動けば、休暇明けに考えれば良いのだ。

既にマイクにもMLBのチケットの手配とホテルの予約を頼んである。

日曜の晩、横浜ロイヤルパークホテルに宿泊した。

月曜の羽田発午後の便でLAに向かう。
ここから羽田までのアクセスはそう悪くない。

敢えてロイヤルパークに泊まる必要はなかったが、60階以上の部屋でラフロイグを飲みながらベイエリアを眺めたかったのだ。

岬との思い出の場所でもある。
セピア色の景色に戻りたくもあった。

台風一過で淀んだ空気が流されたせいか、ベイエリアの光景が美しい。
日はまだ明るいが、ラフロイグのボトルとグラスを窓際のテーブルに運んだ。

BGMに、Y.KishinoのManhattan Daylight 以外の選択肢はない。
2週間後には、ボストンでレッドソックス戦を観戦した後、ニューヨークへと飛ぶ。
ヤンキースとメッツのサブウェイシリーズ*を見るためだ。

重たいのを覚悟でBose の Soundmini Linkも持参している。
ウオークマンをブルートゥース接続すると、Kishino の Portrait を選択した。
Manhattan Daylightはアルバムの6番目にある。

これで準備万端だ。

琥珀色の液体とベイエリアの景色に心が満たされていく。

‘このままずーっと時が流れてくれればいいのに・・・。

無理だな’

窓外の観覧車がゆっくりと回り続けている。
喜び・悲しみ・苦しみは順番に訪れるものだ。
それが人生なのだと教える様に。

夫との不仲に苦しみ抜いた岬は将来を見据えて、凛とした気持ちでニューヨークに向かう。
山下は希望していたニューヨーク勤務を実現し、高みを目指すための一歩を踏み出した。
俺自身は市場と闘いながらも、行内外の問題を解決し、そして収益を改善した。

‘人生は何とか回転するもんだな。

でも、俺のこの先には闘いに次ぐ闘いが待っている。

この休暇が終われば、横尾との一戦が待っている。
行内の派閥問題もある。

そして市場と向き合い、再び稼がなければならない’

帰国後の出来事やこの先のことに思いを巡らせていると、スマホが鳴った。

志保である。

「元気?
またこっちに来るの?」
明るい口調で立て続けに聞いてくる。

「えっ!
どうしてそんなこと知ってるんだ?」

「マイクがMLBのチケットの手配を頼んできたの。
普通なら直属の秘書に頼むのに。

これって、了がこっちに来るってこと、教えてる様なものよね」

「あいつもお節介だな」
苦笑いが零れる。

「ヤンキース戦は二枚ゲットしたわ。

二人でサブウェイシリーズの観戦なんて、昔に戻ったみたな気分で嬉しいわ。

その日のホテルはヘルムズレーで良い?」
本当に嬉しそうだ。

‘勝手にしろ’

「それは良いけど、じっくり野球観戦だけはさせてくれよ。

いずれにしても、チケットの手配、感謝するよ。

それじゃ、切るぞ。

おっと、言い忘れたことがある。

会えるのを楽しみにしてるよ」
素直に言った。

「えっ、今何て言ったの?」

「二度は言わない」

「初めてね、了がそんなこと言うの。
気まぐれでも嬉しいわ」
ちゃんと聞こえている。

‘余計なことを言ったかな’

電話の向こうでフランク・シナトラの「ニューヨーク・ニューヨーク*」が聞こえた様な気がした。

(第一巻、了)

 


*サブウェイシリーズ:ヤンキース(ヤンキー・スタジアム)とメッツ(シティ・フィールド)とのインターリーグ(ア・リーグ、ナ・リーグ)戦はホームであろうと、アウェイであろうと、「地下鉄」で球場に行くことができる。サブウェイシリーズはこのことに由来している。但し、これは現代版の由来であって、歴史を辿ると深い謂われがある。

*ニューヨーク・ニューヨーク:ヤンキー・スタジアムで行われるヤンキース戦の試合終了時に、フランク・シナトラがカバーしたニューヨーク・ニューヨークが流れる。

 

読書の方々へ

『ディーラーは死なず』も今回で60回目を迎えました。

主人公の仙崎了は行内外において、一年以上も獅子奮迅の戦いを演じたため、疲れたことと思います。

そこで少し休暇を取らせてあげることにしました。

その間、作者の仙崎了も、休暇を取らせて頂きます。

休暇中に新たな構想を練りながら、第二巻に備えたいと考えています。

これからも主人公の活躍にご期待ください。

読者の方々には。ここまでお読み頂きましたこと、厚く御礼申し上げます。

仙崎 了(2018年7月29日)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第59回   「岬の旅立ち」

土曜(14日)の晩、国際金融新聞の木村宛てにメールを送った直後にスマホが鳴った。

岬からである。

「了、やっとVISAが下りたの。
それで連絡をと思って」

「そっか、いよいよか。
淋しくなるな。
でも、岬の望んでいることが少しずつ叶って行くのだから仕方ないってことか。

それでいつ頃行くんだ?」

「夏は日本人観光客が多いので、MOMAの方では早めに来てもらいたって。
一応、来月上旬には行こうと思ってる。

既に当座の住まいも用意してくれてるらしいし・・・」

「結婚できないのは分かってるつもりだけど、これで決定的だな」

「そうかもしれないけど、もしかしたらってことも。
人生なんて分からないものよ」
長い間離婚がまとまらずに沈み込んでいたが、今は何の屈託もない様だ。

「ヘー、岬も随分と成長したと言うか、強くなったって感じだな。
いずれにしても、元気でな。

岬がそっちに行くのは山下に伝えてある。
何かあれば、必ず彼に相談しろよ」

「ええ、分かってる。
了も元気で。

そして出張であっちに来るときは連絡してね。
それじゃ、切るけどいい?」

「・・・ああ、それじゃ」
同時にスマホが切れた。

人生とは皮肉なものである。

俺がニューヨーク勤務を終え、岬がニューヨークで働く。
‘岬の離婚は俺との結婚’と考えていたら、それが永遠の別離となった。

‘9年前のあの時、しっかりと掴んだはずの手を何故離してしまったのか’
悔やんでも悔やみ切れない思いが切なく胸に残り続けた。

途中でpauseにしておいたthe Fabulous Baker Boys のサントラを再びplay モードに戻した。

いつもならドライブと仕事を快適にしてくれるメロディーだが、今は映画のテーマ通りの大人の失恋を描いた切ない旋律でしかない。

ベッドのサイドテーブルに置いてあるラグロイグのボトルを手に取ると、液体をグラスに注ぎ、ゆっくりと喉に流し込んだ。

‘来週は久々に思いっきりポジションを取るか’

 

日本が休日となった週初の16日、ドル円は海外を通じて112円台前半での模様眺めの展開となった。

そんな相場展開にも、翌日(17日)の海外時間に変化が現れ、ドルが買い気配になった。

この日、パウエルFRB議長の議会証言がある。
彼から新味のある言葉飛び出てくるとは思わないが、今の市場はドル買いに前掛かりだ。

‘米景気に楽観的である’や‘漸進的利上げを続ける’と言った従来と同じ証言でも、市場はドル買いの理由にするはずだ。

果たして、議会証言は正にそんなものだった。

銀行を出る前、山下にメールを入れておいた。
・・・・・90(112円90銭)以上で、100本売ってくれ・・・・・

午前2時過ぎ(東京の18日)、スマホにメールが届いた。

・・・・・昨日のうちに90で50本、数分前に92で50本、ダンです。
おやすみなさい・・・・・

・・・・・了解。
悪いけど、マイクにこのことを連絡しておいてくれるか。
そして東京でも、あと100本売るつもりだということも・・・・・

 

翌日(18日)の東京の朝方も、ドル円は買い優勢の展開になった。

「さっきから客は結構売ってくるけど、あまり落ちないな?」
誰に言うともなく、言葉が出た。

「はい、買いが引きませんね。丁度(113円丁度)を割ると、買いが出てきます」
沖田が返事をする。

「そんな感じだな。
もう少し待つか」
今日、さらに100本売るつもりだ。

午後に入ってもドルの買い気配は変わらなかった。
3時過ぎ、急に動きが早くなり、朝方売れなかった水準の113円08銭を抜き、113円14銭まで上昇した。

‘ここで売るしかないか’

「沖田、100本売る。
そっちで50頼む」

「10(113円10銭)で50」

「了解、俺は09(113円09銭)で50」

「ニューヨークで100本、こっちで100本、トータル200本ですか。
課長が勝負するときは、根拠以前に何か感じるんですか?」

「はっきりした根拠があるときもあるが、今日のはちょっと違うかな。
敢えて言えば、なぜ皆がこんな高値でドルを買っているのか良く分からない、というのが根拠って言えば根拠かも。

米中貿易摩擦の解釈は人それぞれだと思う。
ただ、俺はそれがドル買いに結びつくという理屈が釈然としないんだ。
112円前後までの買いは大方ショートカットだろうが、今買っている連中は俄かロングだ。

市場の大勢がセンチメントに負けることがある。
それが今のドル買いの様な気がする。

そんなときは、誰かのちょっとした発言や出来事で、急落することが多い。

俺に運があれば、誰かが何かを言ってくれるかもな。

まぁ、そんあところか。

それはそれとして、山下にGTC(good till cancel)で3円15(113円15銭)でもう100本の売りオーダーを出しておいてくれ。

あと、3円40は年初来高値だから、一応call levelということで頼む」
年初来高値を抜けると、必ずメディアが騒ぎ立てる。
それが市場心理を煽ることがある。

「了解です」

沖田にリーブオーダーを頼むと、東城に電話を入れた。

 

「仙崎です。

今、宜しいでしょうか?」

「おう、大丈夫だ。
どうした?」

「私のオーバーナイトのポジション・リミットの件ですが、もう100本頂けますでしょうか?

今、日中は無制限ですが、オーバーナイトは200本なので、300本にして頂きたいと」

「分かった。
勝負にでるのか?」

「はい。
既にショート200本振ってますが、もう100本追加するつもりです」

「そうか、お前のことだ、何か感じるものがあるんだろう。
さして根拠もないのにな」
笑いながら言う。

「本部長、幾ら何でもそれは言い過ぎじゃないでしょうか?」

「悪い悪い。

ところで、来週の火曜日、‘下田’でどうだ?
先日のニューヨーク出張の労いだ」

「もちろん、喜んでお引き受けします。
それでは、リミットの件、宜しくお願い致します」

 

それ以降、ドル円は19日に113円18銭まで上昇したが、その日のうちに相場付きが一変した。

トランプがFRBの利上げ姿勢に不満を示す一方で、「強いドルは米国にとって不利」と発言したのだ。

週末の金曜日にも、同じ内容がツイッターに書き込まれたことで、ドル円は111円38銭まで沈んだ。

別にラッキーとも思わなかった。
頭に浮かんだのは、‘これで夏休みが取れる’、それだけである。

 

土曜日の晩、ラフロイグのボトルとグラスを手にしながら、デスクへと向かった。

国際金融新聞の木村に来週のドル円相場予測を書くためである。

G20中銀総裁・財務相会合でブエノスアイレスに出張するが、メールを送ってくれと言う。

BGMにはソールシンガーJohn Legend の ‘Get lifted’をチョイスした。

インストルメント・アルバムではないが、文字通り気分を持ち上げてくれるのが良い。

 

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木村様

 

遠隔地への出張、ご苦労様です。

先週のメールで、‘最近相場が見えていない’と書きましたが、今週ドルを売ってみました。

112円以上のドル高はマーケットに従った単なる俄かロングによって作られた相場であり、さもない切っ掛けで簡単に崩れると考えてのことです。

今月下旬に日米新貿易協議を控えていることを考えれば、トランプの「ドル高に否定的な発言」は正にグッドタイミングでした。

他方、米国のイールドカーブのフラットニングが気になるところですが、米株が足踏みした出したこともあり、この辺りがもう少しクローズアップされてくると、ドル一段安もありというところでしょか。

来週のドル円相場は、ドルが急落した後だけに若干の反発があるかもしれませんが、110円割れもありと見ています。

予測レンジ:109円20銭~112円80銭。

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

p.s. 暫く夏休みを取ります。
メールは部下の沖田に頼んでおきますので、宜しくお願い致します。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第58回 「挑戦」

月曜日(9日)の午前中、ドル円に下がる気配は見られなかった。

「沖田、もう下は無理そうだな」

「そうですね。
客も輸入(ドル買い)が多いですし、微妙に上に行きたがってる感じもありますね」

「そっか、50本買ってくれるか?」

「45(110円45銭)です」

「ありがとう、先週のショート(111円01銭の売り)の利食いで処理を頼む」

「了解です」

「野口、ユーロドル、50本売ってくれるか?」

「65(1.1765)です」

「サンキュー、下のロング(1.1605の買い)の利食いに充ててくれ」

「了解」

「二人共、どう思う?」

「ドラギ(ECB総裁)が利上げに慎重な姿勢を維持していることを考えると、ユーロ圏全体の景況感が今一つなんだと思います。

主軸国ドイツのIFO景況感指数が低下しているので、ユーロを追いかけて買うのはリスクが高過ぎるかと。

ここからのユーロドルはショートで臨もうと考えています」
ユーロについて野口が言う。

それに沖田が続く。
「CPIの水準は2%に達してますし、この先のフェド(FRB)の仕上げは正常化ではなく、引き締め的なものと考えて良いかと思います。

言い換えれば、最近課長が言ってる様に、‘フェドがこのまま利上げを急げば、先々景気をオーバーキルする可能性が高い’ということです。

ただ、現時点で市場はそこまで考えて動いていないのも事実です。
まぁ、9月のFOMCが近づくに連れて、年内の利上げ回数とか、利上げ幅とかの話が、また市場の材料になるのかと。

中期的な話ば別として、今週辺りは、ここから少し買って、過熱感が出たとろこで売るという戦略で良いのかと考えています。

値動きも上ですしね。

第一ターゲットは1円39(111円39銭)、第二ターゲットは13円40(113円40銭)ですが、その水準の手前で止まる様でしたら、利食いの売りか、ショートを振る。

逆に抜ける様でしたら、伸びたところで売る、そんな感じでしょうか」
沖田が冷静にまとめた。

「そうだな。
二人共、正しいと思う。

米中のやりとりに惑わされ、リスクオンになったり、リスクオフになったりするが、少しドルの上、ユーロの下を見ておくか。

それじゃ、今週も頑張ろう」
そう言い、意見の摺り合わせを終えた。

午後に入ってもドル円は110円50銭を中心とした模様眺めの展開が続いた。

ディーリングをするには最悪の日だが、事務処理や未読メールを整理するには最適な日である。

Outlook を クリックすると、50以上の新規メールが入っている。
件名を一覧して、不必要なと思われるものを削除すると、二件しか残らなかった。
一件は重要会議の日時の連絡であり、別の一件は東城からのものだった。

東城からのメールはニューヨーク支店長清水から東城宛て送られてきたものの、転送である。

 

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清水さんからのメールを転送する。

横尾君がNYへの転勤に際して挨拶に来るそうだが、現場間の打ち合わせもあるだろうから、適宜取り回しておいてくれ。

 

東城

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東城本部長

 

仙崎を支店に出張させてくれた件、改めて感謝する。

ただ、彼が極めて優秀なことは認めるが、もう少し上の者に敬意を払う様、教育しておいてくれ。

ところで、スイスの横尾がNYに転勤する際、君のところに挨拶で寄りたいと言っている。

彼もNYのトレジャラーだ。

「縦割りの本部制」だから、彼が本部長である君のところに転勤の挨拶に行くのは当然だ。

宜しく頼む。

 

NY支店 清水

p.s.横尾の出張日時は7月12日(金曜日)

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東城には‘了解しました’とだけ書いて返信した。

清水は東城が俺にメールを転送するのを承知の上で、嫌みを書いてきたのだ。

敢えて「縦割り本部制」を挿入してきたのは、頭取から本部制ルールを破ったことを叱責されたことを根に持っていることの証である。

‘呆れてものも言えないな’

 

金曜日の午後、人事部の女性に付き添われた見慣れない男がディーリング・ルームに入ってきた。

横尾である。
身長は175センチ前後、がっちりした体躯の持ち主は目が鋭い。

女性は横尾を東城の部屋に案内すると、その場を後にした。

それから小一時間ほどすると横尾が部屋から出てきた。
二人の会話が終わった様である。

すると部長の田村が
「よく来たな、横尾」
と言って、自ら東城の部屋の前まで歩み寄って行った。

二人は日和の上司と部下の関係だ。
田村の話では、横尾は自分が手塩にかけて育てた優秀な為替ディーラーだそうである。

数日前、田村が「横尾があっちのトレジャラーになれば、うちの本部も相当に強固になるのは間違いない」などと言っていたが、それはそれで良いことだ。

ただ、横尾の人間性が気に懸かる。

二人は部長席で談笑しているが、田村はいつになく楽しそうだ。

暫くすると、田村の「オーイ、仙崎君」という声を背中で聞いた。
ディーリング・チェアを回転させると、田村が手招きしている。

‘自分で横尾をこっちに連れてくれば済むものを、自身の行内における立場を見せつけたいのだろう’

「仙崎君、彼が横尾君だ。
まあ、宜しく頼むよ」
田村が機嫌良さそうに言う。

「初めまして、宜しくお願いします」
と素直に挨拶した。

「こちらこそ、宜しく。
優秀な仙崎君と一緒に仕事ができて嬉しいよ」
親しみの籠った挨拶が返ってきた。

‘挨拶からは何の違和感も感じられない。
噂とは違い、本当は好人物なのか’

横尾を部内の人間に紹介し終えたところで、彼が‘少し話がある’と切り出してきた。

「場所を移動した方が良いでしょうか?」

「そうだな。
できれば」と横尾が言う。

「応接室にいる。
何かあったら、呼んでくれ」と沖田に言い残し、ディーリング・ルームの隣にある応接室へと向かった。

 

「お話とは?」

「言っておくが、俺は稼げる男だ。
ただ、部下に足を引っ張られるのは困る。

山下は君を尊敬し、そしてディーリングもそこそこと聞いているが、バジェット(予算)クリア程度の実力じゃ物足りない。

そう、彼にはもう少しグリーディーになって(欲を出して)貰いたいんだ。

それにローカルスタッフも、それ程優秀なヤツはいないらしいな。
それも困る。

つまり、状況次第で人事に手を加えるつもりってことだ」
ディーリング・ルームでは紳士然としていた横尾が突然、牙を剥いてきた。

‘どうやら、噂通りの男の様だな。
それにしても、やけにニューヨーク支店の内部事情に詳しいのが気に懸かる。

清水支店長はローカルスタッフのことまでは知らないはずだから、トレジャリー部門に内通者がいるってことか’

「横尾さん、私に何が言いたいんですか?」

「端的に言えば、君に勝ちたいだけだ。
世界でも有数の為替ディーラーと言われている仙崎了という男にな」

「であれば、ご自身のトラックレコードで示すだけで良いじゃないですか。
何も山下や他のスタッフを巻き添えにする必要はないでしょう」

「だめだ。
自身の実績もさることながら、部門のヘッドとしては全体の収益も重要だからな。
適宜、人の入れ替えは行っていく」

「横尾さん、あなたの考えは間違ってる。

部門のヘッドは自身の実績を上げながら、部下一人一人のポジション管理もしなければならない。

部下のポジションが偏り過ぎていれば、あなた自身のポジションで調整しなければならないんだ。

たとえそのポジションが自身の相場観とは違っていても。

そしてあなたは自分の行動で部下を引っ張って行くべきなんだ。

むやみに人を入れ替えるのは止めた方が良い」

 

「言ってくれるじゃないか。
だがな、そうやって部下を庇ってしまえば、部下は成長しない。

まぁ、いい。
俺は俺のやり方でやるよ」
その顔にはさっきまで見せていた穏やかな目つきはもう微塵もなかった。

‘もはや会話を続け様がない’

彼に先んじてソファーから立ち上がった。

 

ドル円相場は、日々続伸し、金曜日には112円80銭を付けた後、112円35~40銭の気配で週を終えた。

 

横尾という人物に会い、暗澹たる気持ちで迎えた週末の土曜日、体が気怠く夕方までベッドに体を横たえていた。

志保と贅沢な時間を過ごしていた一週間前の気分とは雲泥の差である。

このままだと山下が苦境に立たされるのは目に見えているが、今彼に言えること、やってあげられることは何もない。

‘まぁ、何かが起きたら、その時に動くしかない’

一気にベッドから抜け出ると、シャワーを浴びた。

少しずつ生気が甦ってくる。

ザっと髪の毛を乾かし、冷蔵庫からハートランドのグリーンボトルを取り出すと、一気に半分ほど飲み干した。

‘早いとこ、一仕事済ませてしまうか’

Dave Grusin の ‘Fabulous Baker Boys’のサントラをBose のミュージック・システムに差し込んだ。

映画の内容を知っていると切なくも聞こえるメロディーだが、不思議と仕事のノリが良くなる。

PCに向かうと、outolookをクリックした。
国際金融新聞の木村に来週のドル円相場予測を書くためである。

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木村様

トランプは貿易収支の赤字を企業収益の赤字と勘違いしている節がありますね。

「赤字=マイナス=悪」というイメージしか彼の頭にはないんでしょうか。

国際収支表の見方・読み方を今更彼に教えても仕方のないところですが、ムニューシン(財務長官)あたりがその辺を教える必要があるのかとも。

もっとも、‘トランプの頭ではそれを理解しえないから、教えない’というのが事実でしょうか。

話はドル円相場に変わりますが、正直言って最近相場が見えていません。

感覚的にはドルに底堅さを感じていますが、ここまで買われたのは節目節目でショートが出来たからだと思っています。

そんな程度ですから、予測レンジだけをお伝えしておきます。

来週の予測レンジ:111円~113円75銭

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

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メールを送り終えた途端、スマホが鳴った。

岬からである。

 

(つづき)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第57回 「リクルーティング」

月曜の朝(2日)、課のミーティングを終えると、東城の執務室へと向かった。
出張報告のためである。

部屋に入ると、皇居の森を眺める東城の姿が目に入った。
相変わらず背筋が伸び凛とした後ろ姿だ。

「まぁ、座れ」と言いながら、自身も窓に背を向けた。

「何とか、任務を終了致しました」

「そうか、ご苦労だった。
短期決戦ということもあって、何かと大変だったろう。
そのうち、労うよ」

「ありがとうございます。

山際さんのロスは全部取り戻しましたので、その件で山下が清水さんからプレッシャーを受けることはないかと思います。

しかしながら、清水さんはまだ、焦げ付いたローン債権の償却分を多少でも他部門の収益で補いたいと考えている様です」

「あっちでお前が清水さんとやりあったこと、嶺さんから聞いている。

清水さんは頭取に相当厳しく言われたらしい。
そのことを根に持ってる様だから、また難題を押し付けてくるかもな。

こっちに戻れば、ナンーバーツーの目もあるだけに、彼も躍起だ。
この先何もなければいいが。
特に山下が心配だな」

「そうですね。
ケアしておきます」

「頼んだぞ。
それじゃ、近いうちに一席設けるよ」

「期待しています。
やはり寿司が良いですね。
海外出張で和食に飢えてますから」

「’Chisa’で毎晩和食にありついてたくせにか」と冷やかしてくる。

照れ笑いで返すしかなかった。

「それじゃ、‘本格的’な和食でもアレンジするか」と言いながら、
東城は執務机に向かって歩き出していた。

‘相変わらず温かいな、この人は’

 

デスクに戻り、あらためて沖田に留守の間の礼を言った。

「山際さんの具合はやはり良くないみたいだ。
いずれにしても、もう直ぐ帰国する。

相場どうだ?」

「ドルがビッド気味ですが、上値を追いかけて買う向きは少ない様です。
市場が米中貿易戦争の動向を気にしているのは明らかですね。

それにアメリカの独立記念日を控えてますし、ドル円は110円台を中心とした保ち合いでしょうか」

「多少ドルロング気味か・・・。

アメリカの雇用統計発表(6日)前にポジション調整があるはずだから、一旦売りがワークしそうだな。

貿易摩擦は米中や米欧だけの問題じゃない。
日米通商交渉を控えていることを考えれば、対円ではドルショートが根っこのポジションになるかも知れないな。

いずれにしてもドルを売るか。

50本売ってくれ」

「02(111円02銭)です」

「了解。
利食いもストップも不要だ。

野口、ユーロドルはどんな感じだ?」

「はい、もう少し下がるかも知れませんが、移民問題を巡るドイツ政権内での対立が収まれば、上かと思います」

「目先で1.15台で止まれば、チャートはトリプルボトムっぽいな。
どこまで下がると思う」

「16(1.1600)割れぐらいでしょうか」

それじゃ、1.1605で50本の買いを入れておいてくれ」

「了解です」

‘市場がダレる8月に長い休暇を取りたい。
行先はヨーロッパでもアメリカでも良いから旅に出たい。

そのためには少し稼いでお必要がある’

 

ドル円は週半ばに110円27銭まで落ち、110円前半で週を終えた。

米6月雇用統計は、NFP(非農業部門雇用者数)が市場予測を上回って増加したものの、失業率が上昇し、平均時給が悪化した。

雇用市場に何らかのスラック(たるみ)がある証拠だ。

‘米中貿易戦争は必ず米経済に何らかの悪影響をもたらす。

この先の景気指標が悪化すれば、年内2回の米利上げ見通しが1回になる可能性もある。
市場にそうしたコンセンサスが生まれれば、予想外にドルの下値は脆いかもしれない’

週初に作ったドル円のショート、ユーロドルのロングはそのまま持ちキャリーしている。

 

土曜日の晩、志保と会う約束がある。

普段より早めに国際金融新聞の木村にドル円相場予測のメールを書き出した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

木村様

 

巨額な米貿易赤字は対米黒字国の対米証券投資でファイナンスされているのは言うまでもありません。

急激なドル安が訪れると、海外投資家の資本流出が強まり、一段とドル安が加速することになります。

トランプが仕掛けた対中貿易戦争への対抗措置として、中国が保有する米国債を売るという戦略を取った場合、世界経済が金融ショックと財(モノ)ショックのダブルパンチを食らいかねません。

11月の中間選挙までの時間を考慮すれば、トランプは落としどころを考えているのでしょうが、そ以前に金融市場の懸念が昂じると拙いですね。

木村さんの筆に期待しています。

予測レンジ:108円~111円50銭

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

志保とは帝国ホテルのロビーで6時に待ち合わせていた。
自腹ではないが、彼女は帝国ホテルを東京での定宿にしている。

エントランスに入ると、左手前方のピラーに背をもたれる様に雑誌を読む彼女が目に入った。
ジーンズに白いブロードのシャツというシンプルな出で立ちが、背の高い美貌の持ち主を一層引き立てている。

‘美人だ’

俺に気がついた彼女が小走りにこっちに寄って来る。
二人の距離が縮まっても、この日の彼女はハグをしようとしなかった。
例の件があったので、厳しく言ってある。

「相変わらず綺麗だな」

「ヘぇー、了もお世辞を言うのね。
綺麗だなんて言ってくれたの初めてよ」

「そうだっけ?
でも、綺麗だから綺麗と言ったまでだ。

ところで、何を奢ってくれるの?」

「マイクは何でも美味しいものを食べて来いって言ってくれたから、高級店のお寿司かな。
和食に飢えてるので」

‘つい最近、俺が言った台詞だ’

「分かった」

寿司処‘下田’へは別館に通じる裏口から出た方が近道だ。
志保は歩き出した俺の左側に回り、手をつないできた。

銀座の土曜の午後6時過ぎ、知り合いに見られても不思議でない場所と時間である。
だが、なぜか人の目も気にならなかった。

‘下田’には10分とかからないで着いた。

引き戸を開けて、顔を覗かせると、
「おっ、了さん。珍しいね、土曜日に来るとは」。
いつもながらの店主の威勢のいい声が飛んできた。

「ええ、ちょっとヤボ用で。
二人大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫だよ」

その言葉が聞こえたのか、志保も店内に入ってきた。

それと同時に、
「おい、了さん、凄い別嬪さんを連れてきたね」
と店主が驚きの声を上げた。

「だから、そのうち飛び切りの美人を連れて来るって言ったろ」

「そうだったな。
一体どこで?」
とか、少ししつこい位に聞いてきたので、適当に話を遮った。

「大将、お任せで頼むよ」

「はいよ」と言うと、店主は本来の仕事に励みだした。

数貫の寿司をつまんだところで、
「本当に美味しい、やはり日本のお寿司は凄いわ」と感激の声を志保が上げた。

「それは良かった。
ところで、何か話があるんじゃないの?

いくらマイクが俺の親友だからって、ヤンキース・レッドソックス戦のチケット代わりに’志保’ってのも不自然だしな」

「その話は事実よ。
チケットのことを本当に申し訳ながってたから。

でも、マイクに‘コネチカットに来る気はないか聞いてきてくれ’って頼まれたのも事実」

「そうか。
それじゃ、一応答えを持って帰らないと拙いな。

‘今は無理だけど、いつかそんな日が来るかも知れない’って言うのが答えだ」

「ふーん、そうなんだ。
残念ね。

そうなれば、あっちで一緒に暮らせるかも知れないのに・・・」

「おいおい、話が飛躍し過ぎだぞ。
万が一俺があっちに行っても、志保と一緒に暮らすことにはならないだろ」

「それはそうね」
少し悲しそうな声を出して言う。

その後、他愛のない会話が2時間ほど続いた。

少し客が増え始めたのを潮時に店を出た。

 

ホテルへの道すがら、
「今晩はずーっと一緒にいてくれるんでしょ?」
と俺の顔を覗き込む様に聞いてくる。

「ああ、そのつもりだけど」

「えっ、そうだったの。
ふーん」

‘何だか嬉しそうである’

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第56回 「ミッドタウン・トンネル」

月曜日(25日)、‘トランプ大統領が中国資本による米ハイテク企業への投資を制限する’との報を受けてドル円は109円37銭まで下落したが、その直後にそれを否定する政府高官の発言があり、110円台へと急反発した。

先週末に作ったショートのコスト(110円65銭)が良過ぎたため、109円前半で利食いそびれた格好である。

このディールで山際が出した損失200万ドルを完全に取り戻すことが出来たのに、明らかなミスだ。

だが、運の良いことに、翌日(26日)のオセアニア市場で再びドルが下がり出した。

6時(NY午後6時)過ぎ、東京に電話を入れた。
電話に出たのは小野寺である。

「この売りは何だ?」

「昨日報道された米国の中国資本に対する規制話がぶり返した様です。
コストの悪い俄かロングの落としの様ですが・・・」

「そうか、これから俺の言うことをよく聞け。
その結果次第で、俺が今週中にもこっちを引き払えるかどうかが決まる」

「はい」
緊張しているのが伝わってくる。

「必ずこの局面で、昨日の安値(109円37銭)を試しに行くはずだ。

だが、37を抜けない場合は、この流れは一旦止まる。

つまり、お前が37を抜けないと思ったら、適当に50本買え。

抜けた場合は、自分で50本の買い場を見つけろ。

分かったか?」

「はい、了解しました」

「結果は電話をくれ。
そっちの午前中には決着がつくはずだ。
それじゃ、頼んだぞ」

「頑張ります」

 

午後11時を回りかけた頃、小野寺から電話が入った。

「課長、今のところ下は37(109円37銭)までです。
自分の判断で43で買いました。

月曜からの下値テストはこれで3回目なので、この局面での下値更新は難しいと判断しました。

それで宜しかったでしょうか?」

「ああ、上出来だ。
お前がそう思い、そう感じたのなら、それで良い。
よくやってくれた。
ありがとう。

これで、来週からはそっちで働けそうだな。
そう沖田にも伝えておいてくれ。
それじゃ、来週会おう」

「失礼します」

‘一戦終了だな’

 

翌朝(27日NY)、8時に支店に向かった。
少し遅めの出勤である。

支店のあるビルのセキュリティーを抜け、エレベーターで21階へと昇る。
ディーリング・ルームに入ると、もう空気が動いているのが感じられた。
ディーラーの朝は早い。

「Good Morning!  お早う!」と皆に声をかけながらデスクへと向かう。

ディーリング・チェアに座りながら、山下に朝の気配を聞いた。

「トランプの中国投資制限の件、当初伝わったよりも緩くなるという話で、少しドルがビッド気味です。

彼の右左の発言で振り回されて、ウンザリですね」

「まったくだな。
それでも、彼の言動で実際に相場が動く。
仕方ないな。

ところで、昨日までで230万ドル程稼いだから、例の件は決着が付いた。
週末には東京に帰る。
ここに来るのは今日が最後だ」

「そうですか、また淋しくなりますね」

「そうだな。
また定例の出張もあるし、数か月後には会えるさ。

山際さんの件だが、お前が責任を持って帰りの飛行機に乗せてくれ。
頼んだぞ」

「はい、間違いなく。

ところで、来週スイスの横尾さんがこっちに出張してくるそうです。
正式の異動日は16日ですが、山際さんの帰国が来週なので、引き継ぎを済ませておくとのことです」

「そっか、お前は手探りで横尾さんとの関係を構築していくしかないな。
無茶するなよ。

俺はこれから清水支店長のところに報告に行ってくる。
それじゃ夜、‘Chisa’で会おう」

 

支店長の清水には、9時に挨拶に行くと予め伝えてある。
約束の9時に支店長室に行くと、直ぐに部屋に通された。

「一応、山際さんの損失は取り戻しましたので、これで帰らせて頂きます」

「そうか、ご苦労だった。
しかし、本当に君は凄いやつだな。
僅かの間に230万ドルを稼ぎ出すとは。

もう少しこっちで稼いでってくれないか?」

‘半ば本気で言っている。
調子の良いやつだ。
付き合ってられないな’

「もう直ぐ、スイスから横尾さんが来るらしいじゃないですか。
相当に優秀な方だとお聞きしてますから、それで十分じゃないですか」

「まぁ、それもそうだ。
ところで今回の出張で、頭取から本部制の内規を遵守する様に厳しく言われたが、あれは誰の仕業だ?

東城か、それとも他の住井出身者か?」

’自分の咎を顧みもせず、よくもそんなことを聞けたものだ’

「私と思って頂いて結構です」
半ば憤りを込めて答えた。

「ほう、随分と潔良いな」

「私は部下を守る立場にあります」

「部下とは山下のことか?」

「部下であれば、誰でも同じです。

今回の問題はそもそも支店のローン債権のコゲツキが事の発端であって、ファイナンス本部の問題です。

それを無関係の部に皺寄せするのは理に適いません。

ましてや今回、目の前に転勤を控えた山際さんや赴任して間もない山下に無理を押し付けた。

あなたは、北米・中南米の頂点に立つ身であり、たかだか3000万ドル程度のコゲツキでその地位が揺らぐとも思えません。

帰国すれば筆頭常務、否、副頭取の地位も約束されている。
だが、あなたは自身のキャリアに少しでも傷がつくのを恐れた。

私は人生は為替相場みたいなものだと思っています。
ディーリングは上手く行くこともあれば、行かないことも度々ある。
我々為替ディーラーは、それぞれの意思で一切相場を動かせないからです。

つまり、支店長のご自身の人生も思いのままにならないってことじゃないでしょうか?

あなたの部下は組織やそのルールに縛られながら、一生懸命働いている。
そうまでして銀行に尽くしている彼らに、内規を歪めてまで余計な負荷をかけるのは如何なものかと・・・」

「仙崎、今この俺に何を言ったか、分かってるのか?
お前がさっき言った様に俺はまだ上に昇る。
そのことを承知の上での言葉だな。

もう日本に帰れ、この馬鹿者が」
憤りで声が震えている。

‘勝手にほざけ’

 

その晩、山下と’Chisa’で夜更けまで飲み続けた。
支店長室での出来事は一切口にしなかったが、早晩彼も知ることになる。

山下との別れ際、「何かあったら、必ず俺に相談しろよ」とだけ言葉を残した。

「はい、もちろんです」
元気の良いリターンだ。

‘頑張れよ’

 

木曜(28日)はコロンビア大MBA時代の友人が勤務するニューヨーク連銀を午後に訪ね、その後早々とホテルの部屋に戻り、ベッドに身を投げ出した。

疲れ切っていたせいか、かなりの時間寝てしまった様だ。
腕時計に目をやると、時刻は7時半を回っている。
もっとも、この時刻のニューヨークはまだ明るく、真昼間の様である。

外が明るいので何となくアルコールを入れるのも気が引ける。
だが、自然とミニバーからマカラン18年のミニボトルを取り出し、グラスに注いでいる自分がいる。
誰が最初に発した言葉か知らないが、‘滑らかな舌触りと芳醇な香り’とは上手い表現だ。

少し酔いが回った頃、明日、ヤンキース対レッドソックス戦があることを思い出した。

今シーズン、3勝3敗で迎えた第7戦が、ヤンキー・スタジアムで開催される。
このところ、ほぼゲーム差なしで首位争いを続けている人気チーム同士の一戦だ。

’行かない手はない’

だが、今更チケットが手に入るはずはない。
Sold outを承知の上で、ホテルのコンシェルジュに聞いて見たが、答えを待つまでもなかった。

‘でも、行きたい’

困ったときのMike頼みだ。
まさかを祈って電話をしてみた。

‘No kidding!’
と一蹴された。

‘それはそうだな’

 

ドル円相場は金曜(29日)のニューヨークで5月22日以来の高値水準となる110円94銭まで上昇した。

山下の話では、NYダウが堅調さを取り戻したことで、このところのショートが切らされたという。

だが、この二日間、自身で相場を見ていない。

‘感覚的には少しドルがビッドだが、依然として上値は重たい。
そんなイメージしか湧かない‘

国際金融新聞の木村へは正直にそのことを伝え、来週の予測レンジ:109円50銭~111円50銭とだけ書いてメールした。

 

ヤンキース対レッドソックス戦はテレビでしか見ることができなかったが、ヤンキースが8-1で大勝した。
これでヤンキースがゲーム差なしの首位に返り咲いたが、当分この2チームの首位争いは続きそうだ。

 

土曜の午前10時過ぎ、チェックアウトを済ませると、タクシーでJFKへと向かった。
フライトは13時10 分発のJL005だ。

車はミッドタウン・トンネルを抜け、トールゲート(料金所)に差し掛かった。

ここの通過には時間がかかるため、運転手は必ずゲート横の’Stay alive’のプレートを見ざるを得ない。
安全運転を促す上手い仕組みである。

‘大きなお世話だ。
ディーラーは死なない’

ゲートを通過し、クイーンズに入った。
束の間のニューヨーク生活もこれで終わりである。

空港に着いた後、搭乗までには相当の間があった。
ビジネス・クラス以上が使えるラウンジで、スコッチを飲みながら時間を潰すしかない。

ラウンジの奥のテーブルでニューヨーク・タイムズを広げ、スコッチを飲みながら寛いでいると、「Ryo」と呼ぶ声が聞こえた。

聞き覚えのある声だ。

‘でも、まさかここにいるハズがない’

でもそのまさかだった。
志保である。

「どうして、ここに?」

「マイクよ。
今日、了がこのフライトで東京に帰るから、一緒に行って来いって」

「そいう言えばアイツ、一昨日の電話で‘何日の何時のフライトだ?’って聞いてたな」

「野球のチケット、ダメだったんですってね。
私はその代わりらしいわ」
胸の前で両掌を下に広げながら言う。

その仕草で、ふと彼女が愛おしくなり、優しく微笑んだ。

‘余計なことをして、でもアイツらしいな’

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第55回 「焦り」

ニューヨークも朝からそんな展開が続いていたが、午後になると、少しずつドルがビッドになり出した。

「どう思う?」
山下に感触を聞いて見る。

「多少ビッド気配ですが、これ以上買う気はなさそうですね」

「90(110円90銭)がポイントだが、確か11月の高値からの抵抗線もその辺に降りてきてるはずだが?」

「はい、85近辺でしょうか」

「動きのない相場だが、可能性のあることはすべてやるしかないな。

50本、売ってくれるか」

‘少し自分で焦っているのが分かる’

「55です」

「了解。
下がるとすれば、何処までかな?」

「基準線が9円75、雲が8円80。
それに3月からの支持線が9円10から週末に45近辺に上がってきますが」

「なるほどね。
それじゃ、さっきのショートの利食いとニューポジ(新規のポジション)、合わせて100本の買いオーダーを9円75でuntil further noticeで回しておいてくれ」

「了解です」

「ユーロドルは、ここで(1.16前後)の売買は手控えておいた方が良さそうだな。
今日はもう止めにしよう。
果報は寝て待てだ」

「そうですね。
それじゃ、‘Chisa’にでも行きますか?」
山下のこういう時の乗りは良い。

「そうだな。
俺も久しぶりだ。
行ってみるか」

‘Chisa’はニューヨーク支店御用達みたいなカウンター・バーである。
店名はママの名前‘千沙’からとったとのことだ。
千沙は美人ではないが、可愛らしくて話上手なので人気がある。

7月に家族がこっちに来る予定の山下は、ほとんど毎日、夕飯をここで食べてるらしい。

店は45ストリートを東に向かって2nd アベニューと3rdアベニューの間にあり、支店から歩いて10分ほどのところにある。

店には6時過ぎに着いたが、まだ客の姿はなかった。

「あら了ちゃん、久しぶり。
今日はご出張?」

「ええ。
お元気そうですね」

「ええ、それだけが取り柄だから」と言いながら、
カウンター越しにオシボリを渡して寄越す。

「俺はビールにする。
食い物はお前に任せる」
カウンター・バーだが、日本人客の多いこの店では、ほとんどの定番和食を作ってくれる。

「それじゃ、僕はビールとかつ丼。
あっ、かつ丼は大盛でお願いします。
後はお任せで」

「相変わらずだな、お前は」
と山下をからかう。

山下のこっちでの生活ぶりなどで話が盛り上がった頃、
「東京時代が懐かしいですね」とポツリと言う。

「おい、もう里心がついのか?
まだ先は長いぞ」

「そうですね。
それは分かってるんですが・・・。

山際さんがいなくなり、そして評判の悪い横尾さんが来る。
何となく、心細さを感じています」

「何かあれば、今回みたいに直ぐに俺が来る。
心配せずに頑張れ。
もう直ぐ、家族も来ることだしな」

「はい、頑張ります。
ところで、岬さんとはどうなりました?」
突如、思い出した様に聞いてきた。

岬がMOMAに来ることはまだ彼に伝えていなかった。

「ああ、実は彼女、当分こっちで働きたいと言い出した」
一連の話を聞かせた。

「えっ、そうなんですか!
それじゃ、当分結婚は無理ですね」

「当分というより、ほぼ絶望的だろうな。
いずれにしても、岬がこっちに来たら、何かと面倒を見てやってくれ」

「分かりました。
家内の親友ですし、その辺は任せておいて下さい」

「そっか。
頼んだぞ」

8時頃になると、支店の連中が少しずつ増えだした。
それをきっかけに店を出た。

「次は何処に行きましょうか?」
いつもの山下の常套句である。

「いや、少し疲れたので、ホテルに戻る。
お前は何処かへ寄って行くと良い」

‘200万ドルの決着を付けなければ、東京に戻れない’

山下にはそんな気持ちを明かさず、
「それじゃ」
と言って、ウォルドルフへと急いだ。

ホテルの部屋に戻り、PCにログインすると市場動向に目を通した。
ドル円は110円近辺まで落ちている。

‘何かあった’

市場関連のニュースのヘッドラインを一覧し始めると、
‘米中貿易摩擦、悪化’という文字に当たった。

‘トランプ、2000億ドル相当の中国製品に10%の追加関税、検討’との報道である。

それから数時間後の午前2時過ぎ(東京の午後3時過ぎ)、ドル円は109円55銭まで沈んだ。

ベッドサイドの電話を手にすると、本店のディーリング・ルームの番号を押した。
若手の声である。

「あっ、課長、お待ちください」と言って、沖田に代わった。

「沖田、ドル円、今幾らだ?」

「60aroundですが」

「50本買ってくれ」

「62(109円62銭)です」

「ありがとう。
これで100本ロングだ。

45(110円45銭)で100本、利食いの売りを入れておいてくれ」

「了解です。

ところで、例の件の進捗状況はどうですか?」

「今の利食いが上手く行けば、7割ほど決着がつくが、
来週までは掛かるかもな。

そっちは大丈夫か?」

「はい、問題ありません」

「そっか、手薄のときにテレビの件も頼んで悪かったな」

「いえ、美人キャスターの真横に座れてますから。
中尾さんはテレビで見るより実物の方が綺麗ですね」

「おい、おい。
大丈夫か?」

「問題ありません。
それに中尾さんは課長が好みみたいですから。

前回の打ち合わせのとき、何かと課長のことを聞かれました。
‘彼女がいるのか’とか」
笑って言う。

「馬鹿言え。
もう用件は済んだから、切るぞ」
と言って、受話器を置いた。

‘これで一息つけるな’

その後、ドル円は週半ばを過ぎると、110円台後半へと上昇した。

ドルロング100本は全て利食えた。

‘そろそろ仕上げ時かな’

21日(木曜)、東京の午後、沖田に電話を入れた。

「強いな。
パウエル発言か」

「はい、そうです」

昨日(20日)、パウエルFRB議長が‘利上げ継続には強い論拠がある’と発言した。
それがドル買いを誘発したのだ。

ポルトガル・シントラで行われたECB主催のフォーラムでの発言だった。

‘だが、パウエルは賃金の伸びが低い点も付け加えている。
株式市場も、断続的に利食い始めているのも気懸りだ。
戻りは売りかな’

「50本、売ってくれ」

「65(110円65銭)です」

「了解。
もし90(110円90銭)がtakenする様であれば、電話をくれ。
利食いもストップも不要だ」

「分かりました。

しかし、連日連夜で、体の方は大丈夫ですか?」

「正直言って、疲れてるよ。
ただ、もうひと踏ん張りだ。

心配してくれて、ありがとう。
それじゃな」

週末、ドル円は109円81銭を付けた後、109円95~00で引けた。

土曜日の夜、ふとパークアベニューを眺めたくなり、窓際へと向かった。
南北を行き交う車のヘッドライトが幾重にも重なり合い、不思議な幾何学的模様をアベニュー上に織りなしている。

‘チャート上に描かれた相場の裏にもこんな模様が描かれているのかも知れない。
否、もっと複雑なはずだ。
相場に携わる人々の恐怖と欲、それらの中には阿鼻叫喚と怨嗟が入り混じっているのだから’

頭を振り、その場を離れると、ソファーテーブルに置かれたウィスキーグラスを口に運んだ。
琥珀色の液体はマカラン18年である。
シェリー樽特有の甘い香りと滑らかな舌触りを楽しんだ後、液体を喉に流し込んだ。
市場に疲れた心が癒されていく。

やっと国際金融新聞の木村宛てにメールを書く気になった。
PCにログインし、outlookをクリックすると、無造作にキーボードを叩き出した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

木村様

時間軸や保ち合いの形状を見ると、そろそろ放れそうですね。

米利上げ話もドルの下支えにはなる様ですが、押上げ材料としては弱い気がします。

6.12関連も少し手垢がついた感じなので、貿易摩擦問題が急に顕在化するかもしれません。

来週の予測レンジ:107円50銭~110円90銭

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

追伸:来週、帰国予定です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(つづく)

 

 この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第54回 「山下との再会」

火曜(12日)、10時40分羽田発JL006便でニューヨークへと向かった。
便はJFK(ケネディー空港)に10時35分に到着した。
ほぼ予定通りの到着である。

空港建物から外に出ると、タクシーを拾い、運転手に「Waldorf」と告げた。

JFKのあるクイーンズ地区とマンハッタン地区(島)とを繋ぐミッドタウン・トンネルで渋滞に巻き込まれ、ホテルまでは1時間半近くもかかってしまった。

’ウォルドルフ=アストリア´は内部のしつらえが金持ちが好みそうなアールデコ調で好きではない。
だが、支店がホテルから2ブロックのところにあり、利便性を優先した。

チェックインを済ませ、部屋に入ると人心地がついた。
そんなときにミニバーに向かうのは長年の習性である。

ミニバーからマカラン18年のミニボトルを取り出すと、琥珀色の液体をグラスに注ぎ終えた。
その液体をゆっくりと舌で転がしながら喉へと送り込む。
マカラン18年特有の滑らかな舌触りと喉越しが良い。
勝手にミニバー付きの部屋を選択したが、今回の出張は支店勘定だ。

2本目のボトルをミニバーから取り出すと、ソファーに座り、山下に電話を入れた。
「さっきホテルに着いた」

「お疲れ様です。
今晩はどうします?」

「おい、いきなり今晩の話か。
いや、何も構わなくていい。
勝手知ったる場所だから、適当にやるよ。

明朝、会おう」

「そうですか。

米朝会談で相場も大きく動きませんでしたが、こっちの連中は総じて‘やっぱりな’という印象を持った様です」

「俺も機内のテレビで大体の様子を見ていたが、‘トランプの、トランプによる、トランプのための政治ショー’って感じだったな。

まぁ、米朝騒動はどうでも良い。
それよりも、貿易摩擦と日米欧の金融政策の跛行性が当面の問題だろう。

いずれにしても、仕事は明日から始める。
宜しく頼んだぞ」

「了解です」

その晩は外出もせず、夕食もラウンジバーの軽食で済ませた。
ラウンジ・ピアニストが奏でるジャズ風にアレンジしたバラードが心地いい。

 

 

翌日、7時にホテルを出た。

アストリア・ホテルの番地は奇数番号の301 Park Avenue、支店も奇数番号の5XX Park Avenueである。

南北に走るAvenueでは、通りの東側の番地は奇数であり、ワンブロック北に上がるごとに100番ずつ増える。

支店はホテルと同じサイドにあり、歩いて数分のことろだ。

ホテルから支店までの間に幾つかのベンダーが並んでいる。
一つのベンダーでコーヒー、それにクリームチーズとブルーベリー・ジャムを挟んだベーグルを調達した。

支店のあるビルに着くと、セキュリティー・チェックで山下が待っているのが目に入った。

見慣れた笑顔を浮かべながら、
「お早うございます」と言う。

「暫くぶりだな。

また少し太ったか」
とからかった。

「まぁ、食いものが食いものですし」
体重増を隠そうともしない。

支店は20階と21階を使用し、ディーリング・ルームは21階にある。
リテール(窓口業務)は行っていないので、路面店舗はない。

21階に着き、エントランス・エリアに入ると、受付に2名のセクレタリーがいる。
20歳代半ばのジェシーと50歳前後のナンシーである。

二人とも相変わらず元気そうで、ハグで迎えてくれた。

受付の先を右に曲がり、通路を20メートルほど進むと左手にディーリング・ルームが広がる。
手前に為替部門、そしてその奥にマネー部門がある。

まだニューヨークを離れて1年程しか経っていないせいか、ローカル・スタッフ達は気軽に声を掛けてくる。

転勤族の若手は皆、近づいてきて挨拶をする。

時間が早いせいか、まだ年長の転勤族の姿はない。
‘彼らへの煩わしい挨拶をしなくて済む’

早速、山下のデスクの横に座った。
山際のデスクである。

さっき買ってきたベーグルを食べながら、山下に状況を聞くことにした。

 

 

「ところで、山際さんの体調はどうなんだ?」

「精神的にも大分参っている様で、ディーリングどころではないですね。
昨日から有給休暇をとっています。

東城さんからの命令の様です」

山際の体調のこともあるが、彼が支店で勤務していると俺がディーリングをできないのだ。
本店の人間が稼いだ収益を支店の収益とした場合、それは本店からの利益供与に当たり、税金の問題が生じる。

山際が病気療養で休暇をとり、そのカバーで俺が出張し、その間に稼いだ分であれば、支店の収益としても問題はない。

そのため、東城に山際を休ませる様に頼んだのだ。

「それで、幾ら稼げばいいんだ?」

「例の清水支店長からの話がなければ、このところの山際さんのヤラレだけです。
つまり、200万ドルほどでしょうか・・・」

「そっか、その程度なら、そんなに時間はかからないな。
ところで、デスク本来の収益は順調なのか?」

「はい、ほぼバジェット通りです」

「分かった。
清水さんは今、本店の会議で出張中だ。
そこで頭取が清水さんに今回の話をする予定だから、例の件は心配いらない。

とりあえず、200万ドルを稼ぐことにする」

「了解しました。

課長がいると、何でもできそうですね」

「甘えるな!
そんなことじゃ、この先持たないぞ。

7月に入れば、スイスの横尾さんが来る。
彼は仕事はできるが、人間性に問題があると聞く。

気を引き締めておいた方が良い」
山下のために、少し厳しい口調で言った。

彼は素直にそれを受け入れた様だ。

「さて、仕事に取り掛かるとするか」

「はい」

 

 

13日(水曜日)のニューヨークの午後、FOMCでFFレートの目標値が0.25bp引き上げられた。

利上げは大方の予想通りだったが、政策金利見通し(ドットチャート)で年内の利上げ回数が4回に上方修正されたことでドルが買われた。

ドル円は直前の10円台半ばから急騰している。

「山下、売れるだけ売ってくれ!」
一瞬の急騰・急落では、かなり特別な与件でない限り、相場の動きと逆のポジションを取る方が有効だ。

「75で20本、81で10本、あっ、急落しました」

「もう追うな。
おれも76で10本しか売れなかったが、もういい」

’合わせて、50本だけだが、一瞬の変化での深追いは禁物だ’

「上は85(110円85銭)までです」

「今いくらだ?」

「35around(110円35銭程度)です」

「全部買い戻してくれ」
‘肌感覚で下がらない感じがする’

「アベレージ、42です」

「了解。
ドル円は動きづらいな」

「そうですね」

「ところで、顧客のリーブ・オーダーは大丈夫か?」

「EBSとブローカーに置いておきましたから、問題ありません」

「そっか、それは良かった。
今日はもう止めておこう」

‘利上げ回数の上方修正はそれほど大騒ぎすることではないが、FEDがいよいよ引き締めモードに入った様だ’

その後のドル円は109円92銭まで下落したが、どことなくドルに底堅さが感じられる。

14日(木曜日)、ECBの理事会で「年末で資産の新規購入を停止する」と発表され、ユーロドルが1.17台から1.18半ばまで上昇した。

だが、その直後に「マイナス金利は少なくても来年夏まで維持」との報道が流れ、一挙に1.15半ばへと反落した。

ドル円もこれに連れて上昇モードに転じ、週末には110円90銭まで反発した。

ユーロドルのディールは全く乗り切れず仕舞いだったが、ドル円は揉み合いの中でそこそこの収益を上げた。

‘目標の200万ドルには遠いいが、来週から頑張るか’

 

 

週末の晩、グランドセントラル駅地下にあるオイスター・バーで山下と夕飯を共にした。
週末ということもあってか、結構混んでいる。

注文は山下に任せた。
オフィスにいるときよりも、レストランでの英語の方が上手く聞こえる。
’食い意地の張った山下らしい’

白ワインで数種類のオイスターを味わった後、支店の話に戻った。

「山下、どことなく店の雰囲気が暗いが、何かあったのか?」

「コーポレート・ファイナンス部門が別のコゲツキを出したらしいんです。
それで支店長が他部門にプレッシャーを掛けている様です。
それが原因かと」

「今度のは大きいのか?」

「1000万ドル程度とか」

「前の2000万ドルと合わせて、3000万ドルか・・・。
他で大き収益が出てないとすると、結構厳しい金額だな」

「そうですね。
山際さんへのプレッシャーの掛け方も異常でした。

誰の目から見ても完全にパワハラそのもので、
部屋に呼んで言うのならともかく、ディーリング・ルーム全体に聞こえる様な調子でしたから」

「そうか。
それじゃ、山際さんも辛かったはずだ。

話が暗くなったな。
今日は飲むか!」

「そうしましょう!」

 

 

昨晩飲み過ぎたせいか、ジェットラグの影響が出たせいか、翌日(土曜)の昼過ぎになっても頭が重い。

やっとの思いでベッドから出ると、国際金融新聞の木村へ来週のドル円相場予測を送るために、PCをWifiに接続した。

 

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木村様

今、ニューヨークに出張中ですので、簡単に済ませます。

市場が米欧の金融政策の逆行性を材料視しているので、まだユーロドルが下がりそうですね。

日米の金融政策も同様のことが言えますが、本邦の輸出や一部機関投資家がドル売り意欲を示しているので、ドル円の伸び代はそれ程大きくない気がします。

来週の予測レンジ:108円80銭~111円80銭

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

追伸
テレビ国際の出演は当分、部下の沖田に任せることにしました。

 

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第53回 「ニューヨークへ」

先週末に発表された米5月雇用統計は市場の予測を上回る好結果となった。

これで次回FOMC(12~13日)での25BPの利上げはほぼ確実となったが、市場の焦点はFRBの正常化ペースが加速するかどうかにある。

つまり、声明文や理事会後のパウエル議長の記者会見が重要ということだ。

他方、先月末から月初にかけて開催されたG7財務大臣・中央銀行総裁会議で、米国の貿易規制に対抗したG6が激高したため、G7はG6+1の様相を呈し出した。

世間の耳目は米朝首脳会談に集まるが、国際金融市場にとってはFRBの正常化ペースと米国絡みの貿易摩擦こそが主要な与件である。

ドル円は、週初(4日、月曜日)からFRBが正常化を加速させるとの観測や米10年債利回りの上昇で堅調に推移したが、110円に近づくと押し戻されるといった展開に陥った。

そうした109円台後半を中心とした揉み合い相場に多少変化が生じたのは週半ばのことである。
NYダウの大幅上昇と米10年債利回りの上昇がドル買いを煽り、ドル円が完全に110円台に乗ったのだ。

そんななか、NYの山下から電話が入った。

「お寛ぎのところ、済みません。
でも、きっと今もモニターを見てらっしゃるんですよね?」
時計を見ると、丁度日付が変わろうとしていた。

「ああ、ラフロイグ入りのグラスを片手にな。
どうした?
ドルがビッド(買い気配)だって話か?」

「ええ、それもあるんですが、山際さんの件でお話しておきたいことが」

「そっか、それじゃまず、ドル円の気配を先に教えてくれ」

「ダウの大幅高がドル買いの主因ですが、買い筋はショートカットとイントラデイのロングかと。

高値は今の処、22です。

ただ、うちにも50(110円50銭)以上に生保と自動車の売りオーダーが300本近くあるので、10円前半が一杯かと思います」

「分かった。

この上のテクニカルポイントはどこだ?」

「27がフィボナッチです」

「どの値幅のだ?」

「13円75(113円75銭:昨年12月の高値)と4円64(104円64銭:年初来安値)ですが」

「61.8か・・・。

リーブを頼む。

20の売り50本、25の売り50本」

「了解です。

ところで山際さんの件ですが、清水支店長が相変わらず例のグレー債権の償却で、各部署にプレッシャーを掛けてる様です。

そこで、山際さんがポジションを取る様になったのですが、ロスばかりで・・・。

もう山際さんの体調や精神状態を考えると、ポジションを取れる様な状況じゃありません」

「それは妙だな。

先日の役員会議で、頭取の本部制遵守の意向が嶺常務経由で清水支店長のところに届いているはずだが。

‘21日の株主総会を控えて18日に国内外の主要拠点のトップが集まり、その際に頭取が彼らとも面接し、本部制の指揮系統に乱れはないかを再確認する’、それが頭取の考えだ。

だから、お前の言ってる通りだとすれば、日和同士の慣れ合いが続いてることになる」

「そうですね。

でも、山際さんは私に一切収益増の話をしてきませんが」

「それが山際さんという人物だ。

だから、俺はお前をそっちに送り出した。

だけど、彼が体調を崩したため、スイスの横尾さんと交替することになってしまった。
これは誤算だったけどな。

いずれにしても、嶺さんと清水さんの悪だくみの件は俺が預かる。

ところで、山際さんのロスはいくらになる?」

「ざっと、200万ドルです」

「そっちの損失としては大きいな。

この件も俺が預かる。

少し考えさせてくれ。

それじゃ、切るぞ」

翌日(7日、木曜日)、ディーリング・ルームに入るなり、デスクの部下全員に聞こえる様に「お早う」と声をかけた。

全員が「お早うございます」と言う。

ミーティングを終えると、東城の執務室に向かった。

ノックと同時に、
「仙崎ですが、宜しいでしょうか?」と声をかけた。

「おう、入れ」
といつもの落ち着いた声がドア越しに心地良く響く。

ドアを開けると、ソファーの方に手を向けながら
「まぁ、座れ」と言う。

言われるままにソファーに腰を下ろし、
「申し訳ありません。
電話でご都合もお伺いもせずに」
と詫びた。

「いや、そんなことはいい。
そんなときのお前の要件は、重要かつ緊急と決まってるからな」
渋い顔に笑みを浮かべながら言う。

「まぁ、そうですね」
笑って返すしかなかった。

「それで?」
重要書類を読んでいるところなのか、東城は執務机から離れないで聞いてくる。

「ニューヨークのグレー債権の処理については、本部長のお計らいで役員全員に頭取の示唆があったと了解しています。

ただ、現実にはそれが無視されてるやに聞いております」

昨晩の山下の話をありのままに伝えた。

「なるほどな。
十分にありえる話だ。

頭取には連絡しておく。
嶺さんと清水さんにも弱ったものだ。

だけど、お前の話はそれだけじゃないな?」

‘すべて見抜かれている’

「はい、話は二つあります。

一つ目は、山際さんを一刻も早く、こっちに戻すこと。
そして二つ目は、山際さんのロスを取り戻すことです」

「一つ目は、可能だ。

だが、二つ目は少し難しいな。
お前があっちにでもいれば別だが・・・」
もう俺の考えていることを見抜いてる様な口ぶりだ。

「はい、‘そのあっちにいれば’を考えています。
ご許可、頂けますでしょうか?」

「それで何時行く」

‘東城との話は早くて良い’

「来週中にでも」

「そうか、分かった。
しかし相変わらずだな、お前ってやつは」
二人同時に発した笑い声は異常に大きい。
笑い声は部屋の外のディーリング・ルームへと響き渡る。

部屋を辞するとき、
「気を付けてな」
という穏やかな声を背中で聞いた。

ドアを閉め終えると、あらためて深々と頭を下げた。

金曜日(8日)の海外でドル円は9円20(109円20銭)まで下落した。

海外時間の8日から開催されるG7サミット絡みの不透明感から逃避通貨の円が買われたとメディアは報じるが、そんなことは関係ない。

所詮はポジション調整に過ぎない。

110円台のショート100本は、9円55(109円55銭)と9円25で利益を確定した。

土曜日の晩、デスクに向かいPCにログインすると、outlookをクリックした。
国際金融新聞の木村に来週のドル円相場の予測を書くためである。

木村はG7サミットの取材でカナダのケベックにいるが、通常通りメールを入れてくれと言う。

時ならぬ暑さに見舞われ、喉が渇いて仕方がない。
ハートランドをボトルごと口に運びながら、キーボードを叩き出した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

木村様

出張、ご苦労様です。

サミットでは貿易摩擦の具体的解決策が出るはずもなく、土産話は期待していません。

どうせ先週のG7財務大臣・中銀総裁会議と同じで、G6+1の様相でしょうね。

来週も今週と同様に109円台を中心とした揉み合いかと思いますが、依然としてバイアスはドルベアです。

ただ、幾つかイベントがあるので、週足は予想外に長い上髭・下髭を引くかもしれません。

予測レンジ:107円50銭~110円75銭

気を付けて、お帰りください。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(つづく)

第52回 「それぞれの道」

「了、私、MoMAに行くことに決めた。

恐らくは私が継ぐことになる母の店、このままではダメになると思う」

そう切り出すと、岬は自分の思いをしっかりとした口調で語り始めた。

「店のロケーションやクラフトの品揃えなど、色々と問題を抱えている。
だから、母がまだ働けるうちに、将来の店の構想を考えておきたいの」

そのために、‘MoMA*で働きながら勉強したい’と言う。

岬はかつてニューヨークの大学に留学していたが、その頃ボランティアで、MoMAの案内係をしていたと言っていたのが思い出される。

その時の担当上司にMoMAで働きたい意思を書いてメールしたところ、丁度この夏に一人空きができるから、受け入れても良いということになったらしい。

‘こういう時の彼女はもう後に引かない。
ここは潔く送り出すしかないな’

「そうだな。

ここ数カ月、岬は大学の聴講生として工芸を学び、一生懸命に勉強してきた。

折角の良いチャンスだから、あっちで頑張ってこい。

きっと、岬と店の将来に役立つと思う」

「ありがとう。

だけど、了とは結婚はできなくなる。

それでも、良いの?」

「良い訳はないけど、‘行くな’と言ったって行くんだろう?」

「そうね。

了なら、幾らでも相応しい女性が見つかるから、もしそうなったら小母さんのためにも早くそうしてあげて」

少し気乗りしない感じで言う。

「まあ、そういうことがあるかも知れないけど、今はそんなことはどうでも良い」

それから暫く、二人は昨年来の出来事や付き合っていたときの思い出など、とりとめもない話しをし続けた。

ソファーの左側で少し俺に体を預けながら話をしていた岬だが、いつの間にか話が途絶えた。

ふと見ると、小さな寝息を立てている。

クラフト・フェアの運営で疲れたところに、炭酸水で割ったグレンリベットの酔いが回ったのかもしれない。

そっと彼女をソファーに横たえると、洋服ダンスの上の棚に置いてある予備の毛布を取り出し、掛けてあげた。

 

まだソファーで寝入っている岬を後にして、早めに東京に戻ることにした。

フロントで精算を済ませる際、係が‘こちらをお預かりしています’と言い、封筒を渡して寄越した。

岬からのものである。

‘俺が寝ている間に、自分が先にホテルを出ようと思い、予めフロントに預けておいたのだろう’

そんな彼女がとても愛おしく思え、部屋に戻りたくなったが、辛うじて気持ちを抑えた。

開けると数枚の便箋が入っている。

‘長文だな。

岐路の途中、何処かのサービスエリアで読むことにするか’

 

松本インターから長野自動車道に入り込んだ。

時間が早いせいか、それほど車は多くない。
まだ銀嶺の北アルプスを眺めながら、走行車線をゆっくり走る。

フライフィッシングでは訪れることがあっても、恐らくはもう岬に会う目的では来ない場所だ。
感傷的になる気持ちを抑え込むように、アクセルを力任せに踏み込んだ。
スピードメーターが130キロまで上がったところで、ペダルを少し緩めた。

手紙を読もうと立ち寄った横川インターに着いたとき、時刻は8時を回ったところだった。

丁度スタバが開いたところである。
トールラテとサンドウィッチを手にして、まだ誰もいないテラスに腰を下ろした。

ジャケットの内ポケットから手紙を出すと、一気に読み通した。

詫びの言葉とこの1年間の礼が書かれている。

その中の一文が、再び心を複雑にした。

・・・・・もしも、もしもね、将来、了と一緒になることができたら、クラフトの店にカフェを併設したい。

そのとき、カフェのマスターが了だったらと思ってる。

笑わないでね・・・・・

‘笑わないでねか。

50歳も過ぎれば、そんな光景に心地よさを感じるのかもしれないけど、当分ありえない話だな’

苦笑いがこぼれた。

この時間の軽井沢近辺はまだ寒い。

少し冷めかけたラテを喉に流し込んだ。

テラスのイスから立ち上がり、深呼吸をすると冷たい空気が肺に沁み込む様である。

‘さて、東京まで一気に飛ばすか’

社宅に帰ったら、何かとすることもある。
そして夜にはテレビ国際に出向かなければならない。

 

週初(28日、月曜日)は、ロンドン・ニューヨークは休場だが、イタリアやスペインの政局が混迷するなか、市場にはどことなくリスク・オフのムードが漂っている。

沖田によれば、’リスク回避で円が買われている’と言う。

‘リスク回避の円買いか。

リスク満載の国の通貨円が有事に買われるか、笑えるな’

翌日(29日、火曜日)、ドル円は一挙に108円12銭まで下落した。

ポピュリズムが席巻するイタリアやスペインでの政治不安が、ユーロ圏の遠心力を強めている様だ。

ユーロ売り円買いにドル円も連れている。

だが、週末には米5月雇用統計がある。

イベントを控えて、週半ばからポジション調整が入る可能性が高い。

翌日(30日、水曜日)の早朝、どことなくドルにビッド気配が漂う。

「沖田、少しビッドだな?」

「はい、少し戻すかもしれませんね。

例のポジション締めますか?」

111円台前半でのドルショートのことを聞いている。

「そうだな。

できれば、7円前半(107円台前半)とも思ったが、週末までの時間を考えると、ここで利食っておくべきかな。

50本買ってくれ」

「45(108円45銭)です」

「了解、後の処理は頼む。

野口、ユーロドルの感じは?」

「昨日のニューヨークで自分も売ってみたのですが、どうも押し戻される感じを受けます。

朝のミーティングでお話した様に、買い手はスイスやロンドンのファンドみたいですが、恐らくは利食いだと思います。

ここ(1.1500)は一応節目なので、一旦戻ると考えています」

「分かった、シング(シンガポール)で50本買ってくれ」

「38です」

「OK、それは1.1975の利食いで処理しておいてくれ。

それにしても、やけに素早くプライスが出てきたのが、気に入らないな。

野口、ここはショートカットを狙って、買っておくか。

100本買ってくれ。

小野寺、野口を手伝え」

「はい」
と小野寺が元気良く答える。

少し間をおいて、

「全部で130本買いました。
32で50本、35で50本、36で30本です」

「そっか、それじゃ、お前の分は32でいいぞ」

「ありがとうございます」

「あまり、長く持ちたくないポジションだが、一カ月半のトレンド線が抜ければ、少しは儲かりそうだな」

「どの辺でしょうか?」

「100も抜ければ、御の字かな。

あまり、グリーディーにならない方が良いと思う。

16ハーフ(1.1650)で利食い、15丁度(1.1500)givenでストップを入れておいてくれ」

「了解です」

 

週末(6月1日)、米5月雇用統計が発表された。

NFP、失業率共に、事前予測よりも良い結果となったことを受けて、ドル円は109円73銭まで買われたが、ドル買いは続かなかず、109円半ばで週を越えることとなった。

イタリアでは連立政権が樹立される見通しとなり、ユーロの下落は一服した様だが、ユーロ圏にポピュリズムの輪が広がる気配が残る。
まだまだ予断を許さない状況が続きそうだ。

11月に米中間選挙を控えてトランプ政権の無手勝流の通商戦略が続く。

‘非核化先行、見返りは後’というリビア方式を迫る米国、段階的な非核化という甘い期待を抱く北朝鮮、米朝首脳会談の行方も不透明だ。

当分は混沌の中で市場は揺れる。

‘このところ、課も自分も収益は順調だ。

こういうときに、筋読みをしてポジションを持つ必要はない。

市場の動きに任せてポジションの偏りを待つに限る’

 

土曜日の晩、岬からメールが届いた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この間は松本に来てくれて本当にありがとう。

前向きに生きてみる。

そして、もしかして、遠い将来、あんな夢が叶うと良いとも思う。

だから、了がクラフト・フェアに出向いてくれたこと、本当に嬉しかった。

ビザが下り、出発の日が決まったら、また連絡する。

了のことを本当に好きな「みさき」より

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

簡単に返すしかなかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

頑張れよ。

俺が50歳を過ぎてもまだ独身だったら、岬の描いている遠い夢が叶うかもな(笑)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

もう梅雨に入る。

心もそんな感じだ。

こんな季節に似合う Kiev Acoustic Trio の ‘Moment’を Bose のMusic System に押し込むと、ラフロイグをショット・グラスに注いだ。

そのグラスをデスクに運ぶと、PCにログインし、Outlook のアイコンをクリックした。

国際金融新聞の木村に来週のドル円相場予測を送るためである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

木村様

結構重大な与件が飛び交い出しましたね。

そちらは書くことに困らなくて良い、そんな状況でしょうか。

ドル円相場ですが、依然としてドルの上値は重たいと感じています。

与件は沢山あるから適当に拾ってください。

ところで、ユーロ圏絡みの与件は少し、否結構大きな問題に発展するかもしれませんね。

やはり、OCA(最適通貨圏)*の理論に依拠したユーロ圏の将来は、つまりユーロの将来は明るくないのかもしれません。

来週の予測レンジ:107円20銭~110円70銭

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

(つづく)

 


*MoMA(The Museum of Modern Art)についての記述は架空のことであり、事実ではない。仮にそうした事実があったとしたら、それは単なる偶然に過ぎない。

*OCA(optimum currency area)の理論は、複数の国が共通通貨を利用する場合、どの様な条件が整えば最適な経済域が成立するのかを追求している。

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第51回 「岬の決意」

「俄かロングがこの先も踏み止まれるかどうかに疑問があります。

10円台(110円台)の売りを飲み込みながら買っているので、彼らも苦しいはずです。
12円を見る前に一旦落ちても不思議ではないですね。

予想レンジは108円65銭~111円90銭です」

と今週の相場予測を伝えた。

今週の相場は正にそんな展開となった。

週初(21日、月曜)こそ、ドル円は111円39銭を付けたものの、翌日(火曜)から上値が切り下がり出したのだ。

トランプ米大統領による米朝首脳会談の延期示唆や‘輸入車に25%の関税を賦課する’という示唆がドル売り円買いを誘発し、俄かロングの落としを誘ったのだ。

水曜に心理的節目の110円を割り込むと、木曜には一挙に108円96銭まで下落した。

そんなドル円相場も、週末(金曜)のトランプ米大統領による「今後の(米朝)首脳会談は6月12日に開催される可能性すらある」という発言で、地政学的リスクが後退し、下げ止まった。

だが、米10年債イールドは3%を割り込んだままで、軟調なドルの地合いは変わらず、結局109円40銭前後で週を跨いだ。

111円20銭と30銭で振った都合100本のドルショートは上手く機能した。

109円台前半で50本は利食ったが、残り50本はキープしたままである。

ユーロドルは1.16台へと沈み、先週からキープしている1.1975のユーロドル50本のショートも相当に利が乗っている。

金曜のニューヨーク市場を見届けた後、月曜は休むことを決めた。

土曜日の午前中、国際金融新聞の木村にメールを送った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
木村様

来週は揉み合う展開と見ますが、バイアスはドルの下方リスク。

再び110円台に乗る様であれば、111円を覗く可能性もありますが、そこからは上値は重たいと予測します。

下値圏では108円65銭が肝で、ここが抜ければ、107円台前半も。

予想レンジ:107円25銭~110円80銭

簡単で申し訳ありません。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

木村にメールを送った後、沖田に電話を入れた。

「来週の月曜、休むが、いいか?」

「はい、問題ありません。
今週はたっぷり稼いだ様ですから、存分にロッド(竿)を振ってきてください」

‘俺がフライフィッシングに出かけると思ってるらしいが、今回は無理だろうな’

「ありがとう。
それじゃ、休むことにする。
時折、電波が届かない処にいるかもしれないから、その時はお前に一任だ」

「ええ、今週の課長の稼ぎ、全部飛ばすかも知れませんけど」

「お前なら、そんなことはないと信じてるよ。

一応、ドル円50本の利食いは、10円10銭(110円10銭)takenで入れておいてくるれか。
Minimum profit だが、無いよりましだ。

そこが抜けなければ、放っておいてくれ。

ユーロドルもそのままでいい」

神楽坂の社宅を出たときには、既に11時を回っていた。

車は早朝に四ツ谷のトヨタレンタカーで調達してきたプラドである。
関越道・長野道を一気にプラドを駈り、更埴ジャンクションで松本方面へと向かった。

快晴の下、高速をひた走るのは気持ちが良い。
途中、横川SAのタリーズでコーヒーを飲みながら休憩しただけだが、全く眠くならない。

‘最高のドライブ日和だ’

安曇野インターに差し掛かると右手の遠方にまだ雪を残す北アルプスの連山が眩しい。

ふと、Yoshiko Kishino の アルバム 「face」が聴きたくなった。
トラックに‘凛嶺(rinrei)’が入っているからだ。

木住野はこの楽曲を‘雄大で凛とした立山連峰をイメージして作った’という。

かつて岬と付き合っていた頃、‘松本市街から北アルプスを見ると、勇気が湧いていくるの’と彼女が語ったことがあった。

‘凛嶺’のメロディーが岬の言葉と重なって流れる。

‘無性に当時が懐かしい。
もう時間は取り戻せないのか。

9年前に、田村の罠に嵌まり、ディールで1億円のロスを出した。
そのことがきっかけとなって、‘強く握っていた’はずの岬の手を放してしまったことが悔やまれる’

そんな後悔の念が脳裏を強く叩き出したところで、プラドは松本インターに着いた。

インターから20分程のところに宿泊予定のホテル・ブエナビスタがある。
岬と初めて結ばれたホテルだ。

チェックインを済ますと、客室係が12階にあるエグゼプティヴ・ゲストルームへと案内してくれた。

係が部屋を出ていくと、ツインベッドの一つに体を投げ出した。

‘もう何を言われようと、岬の好きにさせておくしかないな。

坂本と結婚した後、岬は長い間苦しみ続けたきた。
そんな今の彼女にとって、俺と結婚することだけが幸せではない’

そんなことを考えているうちに、寝入ってしまった様である。

大分寝た様な感覚で目覚めたが、この時期の日は長い。
時計に目をやると、6時半である。

一人で所在がなくなり、‘縣倶楽部’へと出向くことにした。
‘縣倶楽部’は岬の伯父が営む小料理屋である。

松本では毎年5月の最終土日にクラフトフェアが‘あがたの森公園’で開催される。

初日のこの日、フェアを目当てに県内外からの観光客やクラフトマニアで街は結構な賑わいだ。

岬が以前、‘松本クラフト・フェアは規模・レベル共に日本一よ’と自慢げに言っていたが、
街の賑わいでそのことが良く分かる。

ホテルを出て20分ほどで‘縣倶楽部’に着いた。

季節の良いこの時期、店の一間引き戸の片側が開いている。
暖簾をくぐる様にして入ると、岬の伯父がカウンターの向こうで忙しそうに動いているのが見えた。

「今晩は」と声を掛ける。

「おっ、了さん、やっと来たか」と岬の伯父が応えてくれた。
待ちわびていてくれた様子が声の調子で分かる。

「空いてますか?」

「岬から了さんが来るかも知れないって聞いていたので大丈夫ですよ」

「久しぶりですね。
今日はフェアの初日で店が混雑していて話相手になれないけど、
旨いものを出すからゆっくりしてってください」

「それじゃ、料理はお任せで、アルコールはビールの後に辛口の冷酒にします」

二杯目の冷酒飲み終えたところで酔いが回った。
話し相手のいない、外での一人酒は酔いが回るのが早い。

早々に店を後にして、ぶらぶらと歩きながらホテルへと戻った。

ホテルの部屋に着いたところで、岬に電話を入れた。

「今、伯父さんの店で飲んできたところだ。

ホテルはブエナビスタにした。
部屋番号は12XXだ。

明日、来られそうか?」

「ええ、フェアの打ち上げの途中で抜けるわ。

多分、8時頃になると思う」

「分かった」

「了は明日の日中、どうするの?」

「気が向いたら、奈川。

そうでなかったら、‘あがたの森’にでも行ってみるよ」

「本当に!

了がクラフトに興味を持ってくれるととっても嬉しいわ」
何故だか本当に嬉しそうな声を返してきた。

「へぇー、そうなのか。

意味が良く分からないけど。

それじゃ、明日の晩、待ってるよ」

「おやすみなさい」

‘俺がクラフトに興味か・・・’

結局、翌日の日曜日は奈川に行かなかった。
プラドを飛ばせば、1時間半ほどで行ける場所だが、体が動かなかった。

昼頃、クラフト・フェア会場の‘あがたの森’へと足を向けた。

確かに人気のフェアの様だ。
誰もいなければ、広々とした公園だろうに、人で埋め尽くされている。

人混みを縫う様に園内をザーッと一回りすると、どっと疲れた。
クラフトを見るどころではない。

やっとの思いで公園の外に出ると、旨いコーヒーを飲みたくなり、気に入っている‘まるも’へと足を向けた。

ここも凄い混みようで、店の外に待ち客が並ぶ。

‘こんな日もあるか’と思いつつ、コーヒーも飲まずにホテルへと戻った。

岬が部屋にやってきたのは8時過ぎだった。

「打ち上げ会、上手く抜けられた様だな」

「ええ、結構な人数に上るので一人ぐらい抜けても分からないの」

「そっか、それは良かった」と言うと、いきなり岬が胸に飛び込んできた。
愛おしさに力を込めて抱きしめた。

息苦しくなったのか、少し俺を後ろへ押しながら「シャワーを浴びてくるね」と言って、バス・ルームへと消えて行った。

30分後、バスローブ姿の岬がベッドで寝転ぶ自分の方に近づいてきた。
少し痩せて見えた。

それを確認する様に抱き寄せると、やはり少し痩せた感触が伝わってくる。

’フェアの準備で忙しかったのだろうか’

二人が結ばれたのは、岬が失踪した冬の奈川以来のことである。

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薄明りの下、
「了、話があるの」と恐々と岬が声を出す。

「この間言ってた、真剣に考えてっるて話のことか?」

「ええ、真剣なの」
少し泣き声である。

‘Head wind(向かい風)のポジションか・・・。
市場の向かい風には慣れているが、この向かい風は手強いな’

(つづく)

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。