第8回 「休暇」

東京の週初(24日)、ドル円相場は11円(111円)前後で寄り付いた後、ドル売りが先行した。だが、ここは気をつけなければならない水準である。5月10日付けた14円38(114円38銭)からの下落局面で、ドルが下げ渋り、10円前半と12円前半でかなり揉み合ったからだ。経験則ではこうしたゾーンの中心レベルより下で突っ込んで売るとショートカットの憂き目に合うことが多い。先週末に国際金融新聞の木村に今週の予測を聞かれ、‘ドルは下向きだと思うが、一挙に10円は抜けないから、ここでのドル売りは慎重を期したい’と伝えたのはそんな含みがあってのことだ。先週末に7日RSIが30%を下回っているのもそれを示唆している。
場が活気を帯びてくると、‘目先でドルはそれ程落ちない’という想いは、一挙に確信に変わった。12円80で作っておいた50本のショートの利食いにも当てられるという気楽さもあり、とりあえず10円85で50本ドルを買った。
それから数十分経ったところで
「あっ!」と山下の声がした。
如何にもカバーし損なった声だ。
「どうした?」
「今の菱田の買い30本、カバー先のチェンジ*を食らい、滑っちゃいました」
「確かプライスは90(10円90銭)だったな。今は02~03(111円02~03銭)か。 ショートカバーが出ると、動きが早いな」
「はい」
「それじゃ、俺が朝に買った85(10円85銭)の買い50本を使え。20本余るが、それもお前にやるよ。後で、アカウント・コレクション(訂正)の手続きをしておいてくれ」
「助かります」
「下のスタバのトール・ラテで勘弁してやるよ。市場が落ち着いたら、お前が自分で買ってこい。少しは痩せるからな」
恐縮している山下を和ませる様に冗談交じりに笑いながら言葉を返した。
‘これで、俺のロングはなくなったか。どうせまた下がるから、そこで買うか’
午後にかけてドルは11円18まで戻したが、買いは続かかった。午後3時過ぎに欧州勢が市場に入ってくると、ドルの上値がジンワリと重たくなり、4時を過ぎた頃一挙にドルが下落し始めた。
朝の電話で4時過ぎに東城に部屋に呼ばれていた。
「山下、70で50本の買いを入れておいてくれ。東城さんのところに行ってくる」
「了解です」

「随分と飛ばしている様だが、いったいお前はいくら稼ぐつもりでいるんだ?」
東城の第一声だった。
「9月期では10本(億)のつもりでしたが、低調なマネーやコーポレートの状況、それにインターバンクのブレを考慮すると、15本程度でしょうか」
「ふーん。呆れたやつだな。まあ、あまり無理はするなよ。ここまで短期間で頑張ったんだ。少し休暇をとってお前の好きなフライフィッシングでも楽しんできたらどうだ。 今お前に倒れられたら困るのは俺だからな」
「ありがとうございます。山下とも調整しながら、考えてみます」
「ところで、明日は土曜の丑の日だ。昼に‘いづもや’に予約を入れておいた。久しぶりに老舗の鰻を食いにいくか。俺からのボーナスだ」
「それは、いいですね。だけど、これは昼の部のボーナスで、夜の部は‘下田’でお願いします」
嬉しそうな笑みを浮かべながら、ついでに言ってみた。そんな軽口も東城だから言える。
「こいつ、あまり調子に乗るなよ。まあ、‘下田’にはそのうちに連れて行く」
仕方のないヤツだと言わんばかりの口調で返してきたが、東城の顔も笑っている。
「楽しみにしています」
「それじゃ、明日。俺は11時に日銀の理事と会うことになっているから、現地12時半で良いか」
「はい、問題ありません。それでは失礼します」と言い残して、部屋を後にした。
‘いづもや’は昭和21年に日本橋本石町で創業した老舗だが、かば焼き、白焼き、ともにふわふわとした仕上げで、食感・味は絶品である。

東城との話はほとんど雑談で終始したが、結構時間が経っていた。日比谷通りに面した壁には主要都市の時計が掛けられている。その丁度真ん中にあるTOKYOの時計に目をやると針は6時半を指していた。だが山下をはじめ、まだ他の連中もほとんど残っていた。少し相場が動くと思っているのだろう。
「70の50本、出来ています。下は63(110円63銭)までです」
席に着くなり、山下が言う。
「この後、どう思う」
「そうですね。ロンドンも朝方売った連中は買い戻している様で、しっかりしたショートカバーが出ると思いますが」
「そうか、とりあえず、11円80と12円丁度で50本ずつ、リーブを入れておいてくれないか。キャンセルするまで回す様に頼む」
「了解です。そこにラテを置いときました。痩せるために、自分で買いに行ってきました。冷めてしまったと思いますが、どうぞ」
少し照れ笑いを浮かべながら言う。
「そうか、それじゃ、遠慮なく。ところで、ロンドンの前田はユーロのこと、何か言っていたか?」
「1711(1.1711)が抜けることを期待して、買うと言ってましたが」
1.1711とは2年前の高値のことである。
「まあ、そうだろうな。今、16ハーフ(1.1650)近辺で50本買えるかな。前田を呼んでくれるか」
もう山下はボードのキーを叩き終えている。
「はい・・・・・。48で出来るそうです。チェンジ49」
「ダン」
「前田によろしく言っておいてくれ。利食いは17ハーフ(1.1750)で頼む。これもキャンセルまでだ」
暫く経っても、皆頑張っている。
‘自由にさせておくか’
「山下、俺は先に帰る。皆もあまり遅くならない様にな」と言い残し、ディーリング・ルームを後にした。向かうのは青山のジャズ・バー’Keith’である。

その後、ドル円は水曜日に週高値となる12円21を付けたが、伸びに欠け、結局週末には10円台後半に下りてきた。ユーロドルは木曜日に1.1777まで上昇した後、1.16半ばまで反落したが、週末には1.17台へと上ってきた。

週末の金曜日、めずらしく山下の方から話があると誘ってきた。場所は銀行に近いパレスホテルの6階にあるバー・プリヴェにした。ニューヨーク在勤中に建て替えられたホテルはロケーションこそ昔と同じだが、まるで別のホテルに変貌を遂げていた。二人が案内された窓際の席からは、左手に日比谷通りと濠が見渡せる。ほぼ南北に走る日比谷通りには、無数の車のライトで変則的なドット線が描かれている。日比谷濠には、オフィス・ビルの灯りや街灯が歪みを作りながら帯状に浮かんでいる。そんな贅沢な夜景の見える席に男二人が座っている。傍から見れば、違和感のある光景に違いない。ドリンクをダイキリにし、食べ物は山下に任せた。
「来週は、どうでしょうか?」
いつもの山下の第一声だ。
「どこかでドルの下を試すと思う。皆、10円を割れる方向を考えているハズだから、あまり逆らえないな。割れるかどうかは分からないが、そろそろ揉み合いの日柄も終了する頃だ。気を付けた方が良い。割れれば、例の8円台(108円81銭、108円13銭)を目指すのかもな。軽く勝負をかけるのなら、週末の雇用統計(7月米雇用統計)前に大勢が作ったポジションの逆張りが良い。余程のことがない限り、イベントや重要指標の前にポジション調整が入る可能性が高い。後はFEDが少し物価動向に懐疑的だから、アメリのデフレーターには注意した方が良いかな」
「オバマケア廃案の否決、混迷を続けるトランプ政権人事、ロシアゲート疑惑、これらをどう相場と結びつけて行けば良いんでしょうか?」
「そんなことはエコノミストやアナリストの書いたものを読んでおけ。俺に聞いても有体のことしか言えない。当たり前だが、俺やお前だって普通の人達よりもそうしたことを深く考えている。でも余程の確信がない限り、政局や政権案件で事前にポジションは作らないだろ。重要なのは、その時々の需給と状況判断だ。ところで、話って何だ?」
「はい、また了さんに大きなお世話と言われそうですが、岬君、あッ済みません、岬さんの件です」
山下の奥さんと岬が同期のせいだったこともあり、君付けが癖になっているが、俺の昔の恋人とあって、慌てて言い直した。もっとも、一度付いた癖は直らない。どうせ暫くすると、岬君に戻るに決まっている。
「それで?」
「家内の話によれば、まだ了さんのことを忘れていない様です。と言うよりも、多分、了さんに頼りたいのだと思います。話だけでも聴いてあげたらどうでしょう?」
「そう簡単に言うなよ。別居しているとしても人妻は人妻だ」
「じゃ、僕が来週3本(3000万)稼いだら、会ってもらえますか?」
やけに自信ありそうに言う。
「何で、そこまでお前が彼女のことを気にするんだ?」
「家内が、岬君・・・、岬さんの精神状態を心配しているからです。銀行ではあれだけ仲の良かった二人ですから、家内も岬さんの心の痛みが良く分かるのだと思います」
「そうか、分かった。考えておくよ。そのかわり、3本、ちゃんと稼げよ。それと、奥さんに電話番号とメルアドを聞いておいてくれないか?」
「ありがとうございます」と言いながら、メモを渡して寄越した。
「なんだ、もう用意してたのか。ボード捌きと同様に、こういうことまでお前は速いのか。まあ、良い。ところで、東城さんからの勧めもあって、俺は来週の水曜から休暇をとるが、お前の都合は問題ないか?」
雇用統計が週末に発表されるが、その日の仕切りは山下に任せることにした。
「問題ありません。休暇はフライに出かけるんですか? とすると野麦方面ですね。帰りに松本に寄って貰えると了解して良いんでしょうか?」
「まあな」と答えながら、ダイキリのグラスを口に運んだ。
(つづく)


*チェンジ:クォートしている最中に相場が動くことがある。その場合、出し手がレートを変更することを言う。

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。