第二巻 第2回 「頭取の計らい」

週初27日から翌日までドル円は111円前半で淡々と流れた。

相場が動き出したのは水曜日(29日)のニューヨーク時間のことである。

ブレグジットの実質的な合意期限である10月が近づく中、英EU双方の見解が折り合わないことに市場は懸念を抱いていた。

そうした状況下、離脱交渉においてEU主席交渉官のバルニエが「特例的な提携関係を英国に提示する用意がある」と発言したのだ。

この発言で、ユーロやポンドが買われクロス円が上昇した結果、ドル円も111円83銭まで押し上げられた。

もっとも、翌日(30日)の東京では、次第にドルの頭が重くなり、週末に111円を完全に割り込んだ。

そんな折、国際金融新聞の木村から電話が入った。
「仙崎さんの今週の予測では、111円台後半でのドルの上値は重く、高値は精々112円前後まででしたが、正にその通りでした。
流石ですね」

確かに予測通りの展開だった。
俺も沖田も111円70銭前後で作ったドルショート100本をキープしたままで、今利益を生んでいる。

「ところで、木村さんの今日の用件は?」

「うちの社で、‘年末に向けての国際金融市場の予測’というテーマで株・債券・為替のトップアナリストやトップディーラーによるセミナーを開きたいのですが、仙崎さんに為替部門の講師をお願いできないかと思いまして」

「いや、上半期末の仕上げ時期なので、ちょっと無理ですね。
申し訳ありませんが、お断りします。
他の銀行に目立ちたがり屋が沢山いるので、そっちに当たってくれませんか?」

「でも、デスクが為替は仙崎さんと決めているので、是非ご検討下さい」
話をしているうちに、ドル円が急に下落し、110円69銭に触った。

「木村さん、ちょっと場が動いたので、また」
と言って、受話器を置いた。

「沖田、どう思う?」

「そうですね、このところ110円半ばは上りも下りも引っかかりますね。
一旦、閉じましょうか?」

「そうしよう。
半分、そっちで頼む」

「79(110円79銭)です」

「こっちは77だ。
お前の分は77を使え」

「ありがとうございます」

「もう今日は下がらないな。

ニューヨークはロング・ウィークエンドを控えて、場も静かだろう。

今晩、山下に電話してみるよ。

昨日、頭取とあいつが面談をしているはずなので、何か話を聞けるはずだ」

「よろしくお願いします」
真顔で言う。
沖田も山下のことを相当に気に掛けているのだ。

 

その日の午後11時、ニューヨークの午前10時、社宅に備え付けられた固定電話の短縮番号2を押した。

ニューヨーク支店の為替デスクへとつながる電話番号だ。

「IBT」
現地人の発音だ。
ジムの声に違いない。

「Hi. It’s me」

「アッ、Ryo サン。
オゲンキデスカ?」

「ああ、元気だ。
日本語、上手くなったな」

「ホントデスカ。
ジョウダンデモ ウレシイデス。
イマ、ヤマシタサンニカワリマス」
電話は山下にパスされた。

「課長、こんばんは」

「ああ、今大丈夫か?
問題なければ、会議室からでも電話をくれ。
人に聞かれると拙い」

数分すると、リターンコールが入った。

「頭取との話を聞かせてくれ」

「一応、ここまでの横尾さんの言動をすべて話ました。

実はことが私の妻にも及んでしまいまして、それも合わせて話しました」

「どう言うことだ?」

「課長もご存じの様に、こっちでは機会のあるごとに支店長宅で奥様会があるのをご存知ですよね」

「ああ、奥様連中が支店長婦人を持ち上げる会だな。

支店長婦人に取り入り、ダンナの出世に貢献しようってわけか。

清水さんは本店に戻れば、ナンバーツーも狙える立場だ。

そりゃ、奥様方も夫の出世を狙って一生懸命になるな」

「まあ、そんなところでしょうか。

その奥様会が私の妻と横尾夫人の歓迎会として今週の火曜日に開かれたんです。

その際、妻はまだ娘が乳児なので、一緒に連れて行ったのですが、それが横尾夫人の逆鱗に触れた様で・・・。

‘こういう場に出席するときは、子供はベビーシッターに預けるのが国際畑の夫を持つ妻としての心得じゃないの。非常識よ!’

と、横尾夫人が声を荒げて妻をなじったそうです。

そう言われればそうですが、酷過ぎますよね。

人前で面罵された妻はその場に居たたまれなくなり、気分が悪くなったことを理由にそそくさと帰宅したそうです」

「それは奥さんも辛かったな。
それで頭取は何て?」

「奥様会については、内外を問わず、全面的に中止する様、各支店長宛てに指示を出すそうです。

‘奥様会を通じての関係が良い意味で機能するときもあるが、夫の立場を自分の立場だと勘違いする婦人達も多く、時折り問題にもなっていると聞く。

今後、これを一切禁止にする’

というのが頭取のお言葉でした。

横尾さんのパワハラについては、清水支店長から厳重注意を与えるそうですが、頭取自身がパワハラ禁止とそれが確認された場合の具体的処分を明記し、全店に‘御触れ’を出すことになりました」

「それにしても、お前の奥さんにまでパワハラを仕掛けて来るとは、驚きだな。
確かに横尾は支店長に上手く取り入ってる様だし、恐らく支店長夫妻・横尾夫妻は会食などで既に交流がある。

つまり、嶺常務、清水支店長、田村部長、そして横尾、この連中は日和派ということを相当に意識していることは事実だ。

お前の奥さんの件が、横尾の指図によるものなら、厄介だな。

いずれにしても、頭取の計らいで取り敢えず、一安心ってことか。

だが、横尾って男がこのまま引き下がるとは思えない。
十分気を付けろよ」

「了解しました」

「明日から三連休だ。

奥さんの気晴らしに何処かへ連れて行ってあげると良い」

「はい、そうします。
お気遣いありがとうございます」

本来、横尾が付くはずもなかったニューヨーク・トレジャラーのポストだが、山際の病気の悪化で彼はそれを物にした。

そしてこの人事で、山下の銀行マン人生が捻じ曲げられ様としている。

 

‘あいつの身に何か起きなければいいが。

日和の元エース為替ディーラーである横尾のターゲットは俺のはずだ。

早く俺にかかって来い。

絶対に潰してやる’

 

山下との電話を終えると、冷蔵庫からハートランドのボトルを取り出し、栓を抜くと、そのまま口に運んだ。

ベッドのヘッドボードにピローを立て、そこに背中をもたれた。

BGMには Keith JarrettのピアノとCharlie Haden の ダブルバスのマッチングが素晴らしい『Last Dance』を流した。

Keith の 美しい旋律を Charlieのバスが静かにフォローする様に流れる。
心を静めるには最適なアルバムかもしれない。

ハートランド一本で普段は酔うわけもないが、この日は一本飲み干したところで、睡魔に襲われた。

気が付くと、日付も変わって1時過ぎになっていた。

 

少し体が休まると、ベッドから飛び跳ねる様にして、PCの置いてあるデスクへと向かった。

国際金融新聞の木村への来週のドル円相場予測を書くためである。

ラフロイグをショットグラスに並々注ぐと、PCにログインした。

 

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木村様

 

正直なところ、右左の与件が多すぎて、予測することが無意味にも思える今日この頃です。

ただ、貿易摩擦問題に決着を見るまでは、ドル安に振れやすいことは事実なので、どこかで根っこのドルショートを持てればと考えていますが、良い売り場を見つけられない状況です。

この秋の火種は欧州でしょうか。

ブレグジットの完全合意への疑問、イタリアの財政政策を巡る政権内の問題、シチリア島に勾留されている難民受け入れでイタリアとEUとの反りが合わないこと、そして10月に開始される拡大資産購入プログラム(APP)縮小とユーロ圏景気鈍化、などなど。

欧州ショックに注意しておきたいところです。

ドル円は基本的に前週と同じ予測。

つまり、110円半ば~111円半ばでの揉み合いを予測しますが、その後の相場はどちらか、抜けた方に付く、そんな展開でしょうか。

111円台後半は一旦こなれているので、タイミング次第で112円前後までは覚悟していますが、その辺りはもう一度だけ売ってみたいと考えています。

来週の予測レンジは109円50銭~112円15銭。

ちなみに、週末の米8月雇用統計ですが、世界の耳目がこの統計に集中している割には最近では相場の方向性を決めるほどの要因にはなっていない様ですね。
従って、あまり興味がありません。

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

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(つづく)

 

徐々に横尾が仙崎に牙を剥き始める。
何を仕掛けてくるのだろうか。

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。