月別アーカイブ: 2018年10月

第二巻 第10回 「横尾の出張」

ドル円は月曜(22日)の東京で112円89銭まで上昇したが、週末のニューヨークで111円38銭まで下落した。

米中貿易戦争、イタリア財政問題、そしてサウジアラビア問題が燻る中、金融市場全体がリスク回避的な行動に出ている。

軟調なNYダウ、不穏な動きの中国・上海株、それに日経平均が追随するとなれば、否が応でも市場の行動はリスクオンからリスクオフに変わる。

一時は忘れらさられていた‘リスク回避の円買い’という曖昧な言葉が、再びメディアで取り上げられ出した。

少しまともなメディアは、米株から米国債に資金が流れ、その結果米金利が下落し、週後半にドル円が下落したと表現する。

そんなメディアの理屈を抜きにしても、年初来高値となる114円55銭を打った後のドルが下を向きつつあることは事実だ。

IMM(シカゴの国際通貨市場)のノン・コマーシャルの円売りポジションは膨れ上がり、メンバーは2週連続でポジションをthrowing upしている。

ポジションはまだ10万枚近くあるため、throwing up が続きそうな気配だ。

 

土曜日(20日)の晩、社宅で宅配ピザをつまみにハートランドを飲んでいると、山下から電話が入った。

「今晩は。

ラフロイグの時間、お邪魔して済みません」

「いや、今は宅配ピザとビールだ。

侘しいな、土曜の晩飯がこれだからな。

ところで、何か急用か?」

「はい、横尾さんの件でちょと気懸りなことが」

「また問題か?」

「いえ、最近横尾さんのヨーロッパへの出張が多いのが気になって、連絡までと思い・・・」

「そう言えば、二日前にロンドンの岸井が不可思議なことを言ってたな。

シティー(ロンドンの金融街)で横尾を見かけたけど、支店には寄らなかったらしい。

ロンドン市場が終われば、あっちの客はニューヨーク支店にコンタクトしてくる。

とすれば、主要な客への表敬訪問でロンドンに行ったていうこともあるが、支店に立ち寄らないのは不自然な話だ。

何か寄りたくない事情でもあったのかな?」

「それは確かに妙ですね。

そのことと関係があるかどうか分かりませんが、昨日の午後にパークアベニュー銀行の知り合いから電話がかかってきて、わざわざ‘さっきの売りはスイスのルガノビエンヌ・ファンドだ’と伝えて来ました。

2円60(112円60銭)からズルッと落ちた直後なので、信憑性がある話だと思います。

でも、守秘義務があるのに、‘間髪を入れずに自行の客の取引を他行に教えてくる’これって可笑しいですよね?」

「そうだな・・・。

横尾はスイスのファンドや投資家に知り合いが多い。

それにスイスばかりでなく、フランクやロンドンにもいる。

とすれば、一連の出張は彼等に会い、企みディールのサポートを頼むことが目的だったのか。

パークのディーラーが守秘義務を破ってでもお前に客名を言ってきたのは、恐らく横尾がルガノに頼んでやらせたことかもな。

簡単に言えば、横尾が‘自分が頼めば、どこのファンドでも動かせる’、そんなことを暗にお前に伝えたかったんじゃないのか。

‘当然、お前がそのことを俺に伝える’ってことを見越してな。

要は俺への宣戦布告だ。

多分、来週辺りから何かを仕掛けてくる様な気がする。

俺だけでなく、もしかしたらお前にも仕掛けてくるかも知れない。

用心しとけよ」

「ちょっと面白そうで、武者震いがしますね」

「まぁ、侮らないほうがいい。

国際金融本部の日和出身者はどんな汚い手口でも使うからな。

ところで今日は、家族をどこに連れてってやるんだ?」

「ブロンクス・ズーにでも行って、それからマンハッタンの何処かでメシでもと考えてます」

「それは良い。

それじゃ、来週も宜しく頼む。

連絡、ありがとな」

「失礼します」

 

‘横尾も狂ってるな。

堂々とディールで稼げば良いのに’

 

山下との会話を終えると、デスクに向かった。

国際金融新聞の木村に来週のドル円相場予測を送るためである。

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木村様

 

ドルの上値が限定されてきましたね。

月初に114円55銭を付けた時は、‘115円は時間の問題’とかいう声もありましたが、今はそんな声は全く聞かれなくなりました。

今週も112円半ばでドルの上値が重たい様でしたら、下に滑ると考えています。

与件が多くて上手くまとめられませんが、簡単に要点を下記します。

サウジ問題や欧州問題は、引き続き市場の関心事とは思いますが、正直なところ、その与件に私は少し食傷気味です。

むしろ、気になるのは世界の株式市場でしょうか。

経済指標では、週末に発表される米国の10月雇用統計と9月貿易収支が重要ですが、市場の関心は雇用統計から貿易収支に移行しつつある様です。

全体の貿易赤字が拡大するかどうかも重要ですが、ドル円絡みでは対日赤字がどうなるかが気になるところです。

予測レンジは109円80銭~112円50銭です。

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

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Outlookの「送信」にカーソルを当てクリックし終えると、直ぐにTVのリモコンの入力ボタンを押し、NHK・BSを選択した。

MLBワールドシリーズ第3戦のサマリーを見るためである。

既にドジャーズが延長18回の死闘を3-2で制し、レッドソックスに勝ったことは知っていたが、シーズンも残すところ僅かとなった今、サマリーも見ておきたかった。

 

‘延長18回、7時間20分の試合、負けたレッドソックスの疲れは尋常じゃない。

それにレッドソックスは明日の先発登板を予定していたイバルディーをこの試合で使ってしまった。

明日もドジャーズが勝って、シリーズを2-2のタイに持ち込むに違いない’

 

そんなことを思いながら飲むラフロイグは美味かった。

 

だが、現実は甘くない。

翌日のラフロイグは薬品の臭いがする単なる琥珀色の液体へと変身していた。

 

Boston Red Sox 9-6 Los Angels Dodgers

レッドソックスがシリーズ3勝1敗とし、ワールドシリーズ・チャンピオンシップをグッと手繰り寄せた。

 

‘来週のディールは不調かもな’

 

鋭い目線を浮かべる横尾の顔が脳裏をかすめた。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第9回 「戦いを控えて」

週初(15日)、ドル円は112円20前後で寄り付いた後、上値の重たい展開が続いていた。

先週末(13日)にムニューシン米財務長官が日本に対して通貨安誘導を防ぐ「為替条項」の導入を求める意向を示した’ことが重しとなっているのだ。

沖田が、
「どうでしょうか?」と聞く。

「今週の肝は1円60(111円60銭)近辺だろうな。

あそこは年初来安値(104円64銭)からのサポートが走ってる他、一目の雲に近いから、一旦止まるはずだ。

そこまでの値幅を取りに行くのなら、今売っても良いけど・・・。

ムニューシン発言は見え見えの売り材料だから、あまり深追いはしない方が良いな。

どうせまた、良い売り場があるんだから。

とりあえず、50本だけ売ってみるか」

「17(112円17銭)です」

「サンキュー」

「私も20本だけ売ってみました」

「そっか、日銭も稼がないとな。

ところで、今晩テレビ番組の前、空いてるか?

ちょっと、話しておきたいことがある」

「はい、大丈夫です。

番組も今日は私とは無関係な特集が組まれてるそうで、局に行く必要もありません。

ですから、アルコールもOKです」
笑いながら言う。

 

午後に入ると、少しドルが売り気配になり、ロンドン市場が始まってからは111円台後半での展開となった。

「どうしますか?」
沖田が聞いてくる。

ショートキープか、利食うかと言う意味だ。

「10日足らずで3円近くも落ちてるし、短期のオシレーターもアラートが点滅し出した。

朝の打ち合わせ通り、深追いしない方が良いと思う。

とりあえずロンドンに連絡して、あっちの状況を聞いてくれるか?」

「はい」
と言うが早いか、キーボードを叩き出している。

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朝の動きは試し売りで、岸井さんは60(111円60銭)台からは大方が買い戻すと見ている様です
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沖田がキーボードを叩きながら、ロンドンの話を伝えて寄越した。

「そうだろうな。

とすると、一旦は撤退だな。

返す刀で、100本買ってくれ」

「了解。

・・・   ・・・   ・・・

69です。

岸井さんが、課長の買いは何だと聞いてますが・・・?」

「利食い半分、ロング半分と伝えてくれ。

ロングの利食いは今朝の寄り付き近辺の20(112円20銭)で頼む」

キーボードを叩き終えると、沖田が聞いてきた。

「ところで課長はこの先、どんな展開を考えてるんですか?」

「今日のニューヨークか明日の東京で、もう一回下を試すけど、今日の安値は抜けない。

そして週後半は112円台の後半かな。

そんな展開になれば、来週初に少しドルが買い気配になり、113円台前半があるかも。

仮にそこがあれば、売ってみたいけどな。

それはそうと、どうも上海(総合株式指数)が変だな。

恐らく中国の状況が伝わってる以上に悪いのかも。

欧州はイタリア財政問題とブレグジットで、ダックス(ドイツ株価指数)もダメ。

米株も先日の急落やサウジ絡みで目先は下落リスクの方が強い。

来年にかけて、10年に一回の国際金融危機でもなければ良いが。

いつの世も景気循環と金融政策は折り合いが悪く、間合いの悪い時に限って何かが起きるからな」

「そうですね。

それじゃ、そろそろ、出ますか」

「そうしよう」

 

まだ月曜ということもあって、青山のジャズクラブ・Keithは空いていた。

いつもの右奥のテーブル席に座りながら、

「マスター、ハートランド2本、それに適当なアテとサンドイッチをお願いします。

BGMは、Still Live のDISC1で」と、注文を入れた。

‘My Funny Valentine’が静かに流れ出す。

それと知らなければ、何の旋律か分からないほど、Keithがアレンジしている。

少し喉が潤ったところで、
「俺は横尾を外したいと考えてる」と切り出し、先週ニューヨークで山下に話したことを沖田にも伝えた。

「そうですか。

横尾さんと山際さんが交替してから、あっちの雰囲気は良くないですからね」

「嶺さんや清水支店長の肝入りで決まった人事である以上、多少のことじゃ、彼を動かすことは出来ない。

ここは、彼自身から身を引いてもらう必要がある」

「完膚なきまで叩くってことですね?」

「ああ、そうしたい。

その延長線上で、田村・嶺等を潰せれば最高だとも考えてる」

「えっ、了さん、まさか銀行を辞める覚悟じゃないですよね?」

「ははは・・・。

何であいつらのために、そこまで」
笑ってごまかすしかなかった。

「そりゃそうですよね。

僕に何かできることはありますか?」

「今のところはないが、そのうちきっとある。

その時は頼む。

ところで、テレビ番組の件、いつまでも悪いな」

アルコールはラフロイグに切り替えていた。

球体の氷が溶け出し、味と香りにラフロイグらしいインパクトが消えている。

マスターにストレートを頼むと、沖田もそれに従った。

「いえ、美人キャスターに会えるので、続けさせて下さい」
何だか、にやけた顔をしている。

「気を付けろよ」
とだけ言うと、何となしに二人はグラスを軽く合わせた。

 

ドル円は週後半に入るともう、111円台を売る人間はいなくなっていた。

ムニューシン米財務長官が「日本との通商協議で‘為替条項’を求める」と言った割には、
米財務省が17日に発表した「為替報告書」の内容が日本や円に対して厳しくなかったからだ。

必ずしもそうとは思えないが、相場はそう動いた。

木曜日(18日)のオセアニアで週高値とあんる112円74銭を付けた後、112円55銭近辺で週を越した。

 

土曜日(20日)の晩、神楽坂のイタリアン・レストランで夕飯を済ませた後、社宅に戻った。

 

‘そろそろ国際金融新聞の木村にメールを送っておくか’

 

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木村様

ブレグジット、伊財政問題、サウジアラビア問題が懸念される中、世界の主要な株式市場も少し調整色が強くなってきましたね。

来週のドル円は揉み合う展開かと思いますが、今のところ、先行きドル安という見方は変えていません。

113円台前半があれば、ドルを売ってみたいと思います。

 

市場は今回の米為替報告書を軽く扱った様ですが、原文では、日本に関して、

‘We(米国) will consider adding similar concepts(為替条項) to U.S. trade agreements, as appropriate.’

と明記しています。

また、為替操作国の認定では、その基準である「対米貿易黒字額」「対GDP比の経常黒字」「継続的為替介入」のうち、日本は‘継続的介入をしていない’という事実を以て免れていますが、対米貿易黒字と経常黒字では明らかに抵触しています。

従って、FFRの進捗状況が悪ければ、「超長期の金融緩和」≒「継続的円売り介入」という捻じ曲げた理屈を言い出しかねません。

つまり、日本が「為替操作国」になりかねないということです。

少し中長期的な話ですが、留意しておきたい点でしょうか。

 

来週の予測レンジは「110円50銭~113円50銭」です。

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

 

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送信し終えるのと同時に、スマホが鳴った。

志保からである。

開口一番、「アストロズ、残念ね」と言う。

「ああ、ワールド・シリーズまで行くと思ったけどな。

ところで、用件は?」

「用件がないと、電話もかけちゃいけないの?」

「そんなつもりで言った訳じゃないけど」

「そんなこと、分かってるわよ」

笑いながらそう言った後、

「ところで、了がこっちに来る件、マイクに話しておいたわ。

彼、すごく喜んでた」と続けた。

「おいおい、まだ行くと決めた訳じゃないからな。

それに志保と一緒に住むわけじゃないから、勝手に家やアパートを契約するなよ」

「どうかなー」
からかう様に含みを持たせて言う。

「勝手にしろ。もう切るぞ。

そっちはそろそろ寒くなるから、風邪引くなよ」

「えっ、最近やけに優しくない?
本当は、一緒に住みたいんじゃないの?」

「馬鹿、それじゃな」

 

‘既婚者用の社宅で過ごす週末は侘しい。

結婚・・・、そろそろかな。

ただ、「お前は気楽でいいな。ウィークデイは銀行でこき使われ、毎週末は家族ケア。結婚するとなると、それはそれで大変だぞ」などという同僚の話を聞くと、ついつい結婚が煩わしく思えてくる’

 

外を見たくなり、リビングのカーテンを開けると、向かいの棟の八割に灯りが点っている。

 

‘灯りはどの家庭も温かそうに映している様だけど、皆上手く行ってるのかな?

志保か・・・。

全てに楽観的で奔放なところがあるけれど、案外家庭向きかもしれない’

 

「分かってるじゃない、了も」

そんなことを言いながら、少し街路樹が色づき始めたグリニッジの街を、ソフトクリーム片手に呑気に歩く志保の姿が脳裏をかすめた。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第8回 「戦略会議」

日米共に休日となった週初の月曜日(8日)、為替市場は模様眺めの展開かと思われたが、ユーロ円の売りに連れてドル円が112円台後半へと下落した。

「先週までは‘115円突破か’などと騒いでいたくせに、今日はもうそんな声は全くありませんね」

休日の夕方にも関わらず、宿泊先のアストリア・ホテルのバーに出向いてくれた山下の開口一番の声だ。

「ロンドンと話してたのか?」

「はい、東京の客のオーダーも113円台前半まで降りてきたそうです。
やはり、114円台は重たいですね」

「そっか。
まだロングのシコリもある様だし、ドルは一段安だろうな・・・。

まあ、今日は相場の話は止めておこう。

食い物は、オードブルと少し腹に溜まるものをオーダーしてあるけど、アルコールは自分で選べ」

「了さんは何を飲んでるんですか?」

「マカランの18年だ」

「じゃ、同じもので行きます」
と言い終えると、バーテンダーに注文を入れた。

大分仕草や話ぶりが、手慣れてきた様だ。

「ところで人事の件だが、明後日(水曜日)の午後、レイノルズ・リサーチが推薦してきた五人と会う予定だ。

俺がその内の二人に絞るから、最終的にはお前がインタビューしてどちらかを選べ。

今回は横尾が口を挟めない様にしてあるから、お前が決めればいい。

これが五人のレジュメだ。

目を通しておいてくれ」

「了解しました。

でも、横尾さんも面白くないでしょうね。

自分が管轄する部門の人事にも関与できないんですから」

「それはそうだが、彼に任せれば、間違いなく自分に忠実な人間を採用する。

そうなれば、お前が仕事をやりづらくなるだけだ」

「そうですね。

ところで前回の出張で‘横尾さんを市場部門から叩き出す’って言ってましたけど、その件はどうします?」

「自分から他人の脚を引っ張るのは気が進まない性分だ。

だから、相手が先に動いてくれた方が俺はやりやすい。

実は、日和時代に為替部門で横尾と一緒に働いていた人物が名古屋支店にいる。

融資部次長で、田所さんという人だ。

先週本店に出張してきた際に、横尾の話を聞くことが出来た。

田所さんは横尾より年次は一つ下だが、本人曰く自分の方がディーリングでは上だったそうだ。

そんな彼を横尾は外しに掛かったという。

手口は彼のポジションとは逆サイドのポジションを数倍持ち、時には他行の知り合いにも上乗せを頼んでいたらしい。

多勢に無勢で勝てる訳はない。

幾度か文句を言ったそうだが、‘何の証拠があって、そんなことを言う? そんなことより、技量を上げろ’と切り返されたそうだ。

当時の二人の上司が田村で、横尾とは兄弟の様な付き合い方だったらしい。

その翌年、田所さんは福岡支店に異動になった。

要は、‘仕掛けられた’ってことだ」

「酷い連中ですね。

それで、了さんとしては、横尾さんが仕掛けてきたら、切り返すってことですか?」

「まあ、そんなところかな。

今の彼はかつてよりポジション・リミットが大きい。

それにスイス時代にあっちで何らかの人脈を作っているはずだから、かつてよりもパワーアップしている。

そのパワーを利用して、俺を潰しに来る日はそう遠くないはずだ。

一連の意趣返しもあるが、何よりも彼は俺の上に立ちたいと思っている。

当分、彼の動向をウオッチしておいてくれ」

二人はアストリアのバーを後にすると、ダウンタウンのジャズクラブへと向かった。

アメリカンリーグ・地区シリーズの第三戦、ヤンキースがレッドソックスに1-16で大敗したことを知ったのは、帰りのタクシーの中だった。

ポスト・シーズン16失点は、球団史上ワースト記録である。

‘明日の試合もだめかな’

 

翌朝(NY火曜日の朝)、マイクから電話があった。

チケットは入手できなかったという。

 

‘残念だが、ポスト・シーズンでのヤンキース・ボストン戦の大詰めだ。
無理もないな’

 

マイクからの電話の直後、志保からメールが届いた。

〈チケット、残念だったわね。

でも、私が行くから我慢して。

6時過ぎにホテルに行くわ〉

 

《部屋は40XXだ。

待ってる。

混雑時のグラセン(グランドセントラル駅)、気を付けてな》

 

〈了にしては、珍しく優しい言葉ね。

ありがと、気を付ける。OX〉

 

オフの日中、ブルックス・ブラザーズやポールスチュアートなどで買い物をしながら時間を潰し、志保を待った。

 

メールの通り6時過ぎに部屋に来た志保は、いきなり俺の胸に飛び込んできた。

人目があろうとなかろうと構わない、いつもの彼女の仕草である。

そのまま俺にしな垂れてくるかと思いきや、
今度は「了、ルームサービスをお願い。急いできたのでお腹空いちゃった」と言う。

 

‘呆れてモノも言えないな’

 

「何でも良いのか?」
少しふてくされ気味に言った。

そんなことも気にせず、
「ええ、スープとサンドイッチとか、それにスパークリング・ワインもお願い」と言いながら、バスルームへと消えて行った。

 

‘奔放だな。

そこが彼女らしいって言えばそうだが、とても嫁さん向きではないな’

 

その晩、抱き合った後、彼女にそれとなく言った。

「もしかしたら、こっちに来るかもしれない。

マイクに伝えておいてくれ」

「えっ、コネティカットで働くってこと?」

「ああ、但し、‘もしかしたら’ってことを付けくわておいてくれ。

50:50程度の感じかな」

「何か銀行であったの?」
怪訝そうな顔だ。

「これから、あるかも知れないってことだ。

もうこの件では、これ以上話すことはない」と言い放ち、テレビのリモコンのスイッチを入れた。

【4-3 loss to the Red Sox】

 

‘やはりな。

今年のヤンキースにはガッカリだ’

 

志保は‘残念ね’と言いながらも、何故か嬉しそうだ。

「ねぇ、グリニッジ近辺に二人が住むのに良い場所を探してみる」
などと言っている。

「おいおい、まだ決めたわけじゃないからな。

それに志保と一緒に住むなんて誰も言ってないだろ!?」

「了解、了解」などと言いつつ、既にスマホで住宅を探してる様子だ。

 

翌日、5人とのインタビューを熟し、二人を選んだ。

二人共、キャリアに問題はなく、30代前半の妻子持ちである。

後の選択は山下に任せてある。

‘彼がやりやすい人物を選択すれば良い’

 

ドル円相場は、週後半に入って111円83銭を付けた後、112円20近辺で週を終えた。

まだドルが一段安となりそうな気配だ。

 

土曜の夜11時過ぎに神楽坂の社宅に戻ると、やおらPCにログインした。

国際金融関連のヘッドラインを一覧すると、『ムニューシン米財務長官、日本に為替条項要求』の一行が目に飛び込んできた。

 

‘為替相場が日米通商協議での争点の一つなることは市場参加者の誰もが予想していたことだが、ドル円が崩れ始めている時だけに週明けから左に(ドル安に)触れる可能性がある。

市場が慌てれば、110円割れがあるかも知れないな。

15日に発表が予定されている米財務省の【為替報告書】で、日本が為替操作国として認定されるとは思わないが、記載される内容には要注意だな’

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第7回  「人選」

週初(10月1日)の朝方、相場は模様眺めの展開となった。

ドル円は113円台後半でやや強含みに推移しているが、積極的にドルを買う向きも少ない。

そんな状況を見て、東城の執務室に向かった。
市場が一段落したら、’時間を貰いたい’と早朝に伝えてある。

「仙崎です」

「入れ」
いつもの落ち着いた低い声がドア越しに聞こえてきた。

ドアを開け、指示されるままにソファーに座ると、
「あっちは落ち着いたのか?」という。
あっちとはニューヨーク支店のことである。

「はい、ジムの奥さんにはマイクのファンドで働いて貰う様、提案しています。

問題は空席となった人事です。

今は小野寺を長期で出張させてますが、FED(ニューヨーク連銀)の事後調対応などを考えると、やはり英語の問題を含めてジム程度の能力がある現地人を雇う必要があるかと思います。

ただ、横尾さんが人選した場合、その人間が必ずしも山下や他のスタッフ達と調和するとは限りません。

というよりも、横尾さんは‘自分に忠実と見られる’人間を雇うと思います。

本来であれば、横尾さんに人事を任せるのが筋かと思いますが、今回は私が人選出来る様にお取り計らい願えませんでしょうか?

「分かった。

人事については、何とかする。

ところで、下半期の収益についてだが、お前個人のバジェットが20億円は大き過ぎないか?」

「確かにそう思います。

ですが、海外店のトレジャラーやチーフ連中に厳しい収益を課した手前、示しがつかないかと・・・」

「まあ、お前に任せるが、無理はするなよ。

超低金利が続いてるお陰で、銀行の収益が悪化している。

その皺寄せがこっちに回ってきているだけだ。

だめで元々のバジェットと俺は考えてる」

「分かってますが、頑張れるだけ頑張ります」
きっぱりとした声で返した。

納得していない様子が東城の顔に滲む。

重たい空気が流れ出したのを振り払う様に

「最近、どこへも行ってませんね。

どこか旨いものでも食べに連れてって下さい」と明るい声で誘い掛けた。

「そうだな。

近いうちに寿司か河豚でも行くか」

「それは良いですね。

できれば、秋ですから河豚の方が」
東城の顔に笑みが戻った。

場が和んだのを見計らって、ソファーから立ち上がり、ドアへと向かった。

「あっちの人事、週の半ばまでには話を付けておく。

ヤンキースがワイルドカードを勝ち上がれば、あっちで地区シリーズのボストン戦にありつけるかもな」
背中で東城の声を聞いた。

「はい、チケット次第ですが」
後ろ手にThumb up をしながら言う。

 

‘見抜かれたか’

 

ドアを閉めると、深々と頭を下げた。

 

ドル円相場は週半ば(3日)に114円54銭、そして翌木曜日に114円55銭を付けたが、昨年11月の高値114円73銭を抜くことはできなかった。

そして週末の金曜日、米9月雇用統計のNFP(非農業部門雇用者数)が予測を下回ったことを受けてドル円は113円56銭まで沈んだ。

先週の土曜日に国際金融新聞の木村宛てに送った予測では「来週のドル円は一旦伸び切り、反落する可能性が高い」と書いたが、正にそんな相場展開となった。

 

ニューヨーク支店の人選は仙崎に一任された。

東城の要請に常務の嶺は強く反対したそうだが、ジムの死に横尾が関係している可能性を示唆すると仕方なく折れたという。

土曜の午後、明日からの出張に備えてのパッキングをしていると、国際金融新聞の木村から電話が入った。

「珍しですね。

木村さんから電話とは?」

 

「今、社で‘ドルの強さは本物か’というテーマで原稿を書いてるんですが、行き詰ってしまい、つい仙崎さんに電話してしまいました。

何か良いアイディアはありませんか?」

「埋め草でもいいですか?」

「ええ、仙崎さんのことだから、単なる埋め草ってこともないでしょうし。
是非、お聞かせ下さい」

「最近ではあまり、真剣に議論されてませんが、ドルの信認を深刻な問題と捉えています。

トランプ政権は経済成長と経常収支のインバランス(不均衡)是正の両取りを狙っています。

財政拡大で大幅経済成長を目論めば、経済成長が叶っても、そこには財政赤字拡大と輸入増が伴いますよね。

つまり、現状の財政拡大を続けて行けば、財政赤字の増加と経常赤字の拡大は避けられないってことでしょうか。

双子の赤字とGDP比の問題は早晩、ドルの信認問題につながるため、‘ドルの強さは本物か’という、木村さんが今お書きになっているテーマにマッチングしてるかと思います。

今は取り沙汰されていませんが、何かが切っ掛けとなって、大きくクローズアップされても不自然ではない問題と考えています。

ちなみに、来週の木曜(11日)にアメリカの9月財政収支の発表がありますが、この先注意深く見ておいた方が良いかも知れません」

「なるほど、何となく良い原稿が書けそうな気がしてきました。

ありがとうございます。

ついでに、来週のドル円はどんな感じでしょうか?」

 

‘抜け目がないな、この人も’

 

「多少ドルが上がっても、やはり上値は重いと考えてます。

そろそろ本格的な調整局面入りかと。

予測レンジは112円20銭~114円75銭にしておきます。

それじゃ、ちょっと忙しいので、この辺で失礼します」

「お忙しいところ、申し訳ありませんでした」

 

パッキングを終えると、ウィスキーグラスを片手に電話を入れた。

相手はマイクである。

頼み事を告げると、

‘Whaat!?  Are u serious?’

と怒ってる様な口ぶりで言う。

来週火曜日のヤンキース・レッドソックス戦のチケットを頼んだのだから無理もない。

そう言いながらも、

「泊まりはアストリアか?

もし取れたら、Shihoに届けさせる。

でも、あまり期待するなよ。

何せ、カードがカードだからな」

と続けた。

 

‘Friends are the most valuable assets.

I owe u one’

と、多少は感謝の気持ちを込めて言った。

‘Not one,
Right?’

‘Right.
I lost!

Thank u as always’

 

‘良いヤツだ。

チケットが取れなくても、きっと志保を立ち寄らせるに違いない’

 

ボストンで行われた地区シリーズ第一戦は、ヤンキースが失った。

第二戦はマー君が5回一失点と健闘し、ヤンキースが勝利をものにしたという。

羽田でそのことを知った俺は、

‘マイク、何とかチケットを手に入れてくれ’と祈らざるを得なかった。

♪♪・・・・・ニューヨーク、ニューヨーク・・・・・♪♪・・・・・

フランクシナトラの歌声が搭乗案内と重なった。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第6回 「古傷」

週末の金曜日(28日)、日経平均株価は約27年ぶりの高値を付け、ドル円相場は昨年12月以来の高値水準となる113円71銭まで跳ねた。

貿易摩擦、ブレグジット、そして新興国問題など、何一つ眼前に横たわるリスクが払拭されていないにも関わらず、市場はリスクを選好し出している。

もっとも、上半期末を控えて、インターバンク・デスクは顧客のフローを捌くことに徹し、ドル高の流れを淡々と受け止めている様だ。

俺自身は大企業の為替関連の部長連中から、下半期に備えての相場予測の問い合わせに追われ、それなりに忙しい。

6月調査の日銀短観によれば、大手輸出企業の下半期の為替想定レートは107円26銭と、
足下のドル円相場と比べれば、かなりのドル安水準に設定されている。

正に嬉しい誤算だ。

そのせいか、彼らの口調はやけに明るい。

「うちは114円台で、下期のエクスポージャー(晒されている為替リスク)を半分ヘッジしておこうと考えてるけど、それで良いんでしょうね、仙崎さん?」

俺が‘そうだ’と言えば、気が済むのだろうか、そんな念の押し方をしてくる連中が多い。

ドル建て輸出の多い自動車メーカーなどは、1円の円高で100億円単位で円の手取り額が減り、逆に1円の円安では想定外の利益が生まれる。

昨年4月以降、115円以上のドル高水準を見ていないため、やはり114円台で売り逃したくない輸出企業が多い様だ。

そんな中、輸入企業は一連のドル高の流れに焦りがある様で、113円台でもドルを買ってくる。

 

土曜(29日)の晩、外に出るのも面倒で、夕飯は宅配ピザとハートランドで済ませた。

 

‘まだ9時か。

NHKのMLBサマリーまではまだ時間があるな。

来週のドル円相場予測を早く片付けておくか’

 

食器棚からラフロイグのボトルとグラスを取り出し、デスクへと向かった。

 

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木村様

 

この一週間を振り返ると、対円だけでなく、ユーロやスイス・フランに対しても、ドルが買われてますね。

市場がドル買いに安心感を持ち始めてる様ですから、もう少し買い気配が続くのかと思います。

もっとも、オシレーター系のチャートが示している様に、ドル買いに過熱感が強まってる感じがします。

伸び切る時期が近いのかと。

FOMCのドットチャートは20年にFRBの利上げが終わることを示唆しているのですが、メンバーはこの先、比較的早い時期に減税効果が薄れると感じてるのかも知れませんね。

彼らが一番読み切れないのは、貿易戦争が米経済にもたらすマグニチュードの大きさでしょうか。

IMFは7月の時点で、貿易戦争が最大規模となった場合、来年の世界のGDPは0.4%減と試算しています。

とすれば、それなりに米国自体も自らが振り下ろした剣の返り血を浴びることになるでしょうし、予想外に早く利上げ局面の終了があるかも知れません。

この点、木村さんの一筆を期待しています。

来週のドル円は節目の115円を目前にして、一つの山場を迎えそうですね。

前述したオシレーター系のチャート水準を見ると、ドル買いが先行した場合は、結構大きな反落があると見ています。

ただ新しい期でもあり、自身のポジションは少し様子を見てから取ろうと考えています。

 

来週の予測レンジ:111円75銭~114円75銭

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

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Outlook の送信をクリックすると、ベッドへと向かい、サイドテーブルにラフロイグをなみなみと注いだグラスを置いた。

何のアルバムが挿入されているのかも気にせず、無造作にBose の Wave Music Systemのリモコンをオンにした。

‘Come Rain Or Come Shine’が流れ出した。

ジムの弔いで聴いた ’Keith’ の ‘Still Live’ のDisc 2がSystem に入れっ放しになっていたのだ。

‘「降っても晴れても」か。

何があっても、やるべきことは、決まってるってことかな’

ベッドの上に寝転びながら、ジムのリベンジのことを考えていると、自分が罠に嵌められた過去の出来事が脳裏に甦ってきた。

 

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「おい仙崎、俺達は重要なミーティングがある。

あとは頼んだぞ」

田村が有無を言わせない口調で言った。

シニアの二人を連れて、デスクを離れるという。

 

‘それでも現場の責任者か。

まったくいい加減な課長だ’

 

「そうだ、思い出したけど、さっきワールド生命の斎藤さんがドル円100本(1億ドル)買うって言ってたぞ」

田村にしては珍しく、親切に情報を残していった。

「ありがとうございます。
心しておきます」

一応、礼を言った。

 

‘ワールドが買うとなると、最低でも300本、場合によっては500本か。

500本が一遍にバラまかれたら、確実に10銭は滑るな。

先に半分だけでもカバーを取っておくか’

 

ワールドが100本プライスを聞いてきたのは、丁度50本を買い終えた時だった。

ほぼ間髪を入れずに、
「80-82」をクオートした。

 

‘82でマイン(Mine:ドル買い)のハズである。

50本は、70で買っているから楽勝にカバーできるな’

 

その瞬間、コーポレート・デスクから
「ユアーズ(yours:ドル売り)」の声が聞こえた。

一瞬耳を疑った。

 

‘田村は確か、ワールドがドルを買うと言ってた。

なぜだ?’

 

束の間考えたことが、事態を余計に悪化させた。

気配は見る見るうちに、左(ドル安)に振れて行く。

‘兎も角、150本売り捌くしかなかった’

「皆、売ってくれ」
叫んだ。

「30-40」

「ダン」

「10-30」

「ダン」

カバーし終えた時には、損失は1億を超えていた。

田村はワールドの運用部長から事前にディールの中身を聞いていて、俺を嵌めたのだ。
二人が東大で同期だったことは後で知った。

他部署から国際金融本部外国為替課に異動を命ぜられ、あっと言う間に頭角を現した俺を田村やシニアの連中が嫉み、そして憎み出していたのだ。

 

‘部下をこんな形で甚振ってどうするんだ。

そこまで、俺が憎いのか?

もう、こんな組織で働いても仕方がないな’

 

その日以降、ひたすら顧客からのカバー・ディールに徹し、自分から積極的にポジションを取らなくなっていた。

そんな俺を見守り、救ってくれた人物がいた。

当時まだ、部長だった東城である。

コロンビア大学MBA留学という道を作ってくれたのも彼だった。

後に人伝に聞いた話では、東城はそのために、人事部長や一部の役員連中に幾度も頭を下げてくれたそうである。

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‘込み上げてきた怒りの気持ちが、当時の東城の心遣いを思うと薄れて行く’

 

感傷的になりかけた気持ちを振り払う様に、グラスに残っていた琥珀色の液体を飲み干した。

 

‘横尾だけでなく、田村も消えてもらうしかないな。

もう行内の醜い争いごとは終わりにしなければ’

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。