第二巻 第6回 「古傷」

週末の金曜日(28日)、日経平均株価は約27年ぶりの高値を付け、ドル円相場は昨年12月以来の高値水準となる113円71銭まで跳ねた。

貿易摩擦、ブレグジット、そして新興国問題など、何一つ眼前に横たわるリスクが払拭されていないにも関わらず、市場はリスクを選好し出している。

もっとも、上半期末を控えて、インターバンク・デスクは顧客のフローを捌くことに徹し、ドル高の流れを淡々と受け止めている様だ。

俺自身は大企業の為替関連の部長連中から、下半期に備えての相場予測の問い合わせに追われ、それなりに忙しい。

6月調査の日銀短観によれば、大手輸出企業の下半期の為替想定レートは107円26銭と、
足下のドル円相場と比べれば、かなりのドル安水準に設定されている。

正に嬉しい誤算だ。

そのせいか、彼らの口調はやけに明るい。

「うちは114円台で、下期のエクスポージャー(晒されている為替リスク)を半分ヘッジしておこうと考えてるけど、それで良いんでしょうね、仙崎さん?」

俺が‘そうだ’と言えば、気が済むのだろうか、そんな念の押し方をしてくる連中が多い。

ドル建て輸出の多い自動車メーカーなどは、1円の円高で100億円単位で円の手取り額が減り、逆に1円の円安では想定外の利益が生まれる。

昨年4月以降、115円以上のドル高水準を見ていないため、やはり114円台で売り逃したくない輸出企業が多い様だ。

そんな中、輸入企業は一連のドル高の流れに焦りがある様で、113円台でもドルを買ってくる。

 

土曜(29日)の晩、外に出るのも面倒で、夕飯は宅配ピザとハートランドで済ませた。

 

‘まだ9時か。

NHKのMLBサマリーまではまだ時間があるな。

来週のドル円相場予測を早く片付けておくか’

 

食器棚からラフロイグのボトルとグラスを取り出し、デスクへと向かった。

 

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木村様

 

この一週間を振り返ると、対円だけでなく、ユーロやスイス・フランに対しても、ドルが買われてますね。

市場がドル買いに安心感を持ち始めてる様ですから、もう少し買い気配が続くのかと思います。

もっとも、オシレーター系のチャートが示している様に、ドル買いに過熱感が強まってる感じがします。

伸び切る時期が近いのかと。

FOMCのドットチャートは20年にFRBの利上げが終わることを示唆しているのですが、メンバーはこの先、比較的早い時期に減税効果が薄れると感じてるのかも知れませんね。

彼らが一番読み切れないのは、貿易戦争が米経済にもたらすマグニチュードの大きさでしょうか。

IMFは7月の時点で、貿易戦争が最大規模となった場合、来年の世界のGDPは0.4%減と試算しています。

とすれば、それなりに米国自体も自らが振り下ろした剣の返り血を浴びることになるでしょうし、予想外に早く利上げ局面の終了があるかも知れません。

この点、木村さんの一筆を期待しています。

来週のドル円は節目の115円を目前にして、一つの山場を迎えそうですね。

前述したオシレーター系のチャート水準を見ると、ドル買いが先行した場合は、結構大きな反落があると見ています。

ただ新しい期でもあり、自身のポジションは少し様子を見てから取ろうと考えています。

 

来週の予測レンジ:111円75銭~114円75銭

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

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Outlook の送信をクリックすると、ベッドへと向かい、サイドテーブルにラフロイグをなみなみと注いだグラスを置いた。

何のアルバムが挿入されているのかも気にせず、無造作にBose の Wave Music Systemのリモコンをオンにした。

‘Come Rain Or Come Shine’が流れ出した。

ジムの弔いで聴いた ’Keith’ の ‘Still Live’ のDisc 2がSystem に入れっ放しになっていたのだ。

‘「降っても晴れても」か。

何があっても、やるべきことは、決まってるってことかな’

ベッドの上に寝転びながら、ジムのリベンジのことを考えていると、自分が罠に嵌められた過去の出来事が脳裏に甦ってきた。

 

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「おい仙崎、俺達は重要なミーティングがある。

あとは頼んだぞ」

田村が有無を言わせない口調で言った。

シニアの二人を連れて、デスクを離れるという。

 

‘それでも現場の責任者か。

まったくいい加減な課長だ’

 

「そうだ、思い出したけど、さっきワールド生命の斎藤さんがドル円100本(1億ドル)買うって言ってたぞ」

田村にしては珍しく、親切に情報を残していった。

「ありがとうございます。
心しておきます」

一応、礼を言った。

 

‘ワールドが買うとなると、最低でも300本、場合によっては500本か。

500本が一遍にバラまかれたら、確実に10銭は滑るな。

先に半分だけでもカバーを取っておくか’

 

ワールドが100本プライスを聞いてきたのは、丁度50本を買い終えた時だった。

ほぼ間髪を入れずに、
「80-82」をクオートした。

 

‘82でマイン(Mine:ドル買い)のハズである。

50本は、70で買っているから楽勝にカバーできるな’

 

その瞬間、コーポレート・デスクから
「ユアーズ(yours:ドル売り)」の声が聞こえた。

一瞬耳を疑った。

 

‘田村は確か、ワールドがドルを買うと言ってた。

なぜだ?’

 

束の間考えたことが、事態を余計に悪化させた。

気配は見る見るうちに、左(ドル安)に振れて行く。

‘兎も角、150本売り捌くしかなかった’

「皆、売ってくれ」
叫んだ。

「30-40」

「ダン」

「10-30」

「ダン」

カバーし終えた時には、損失は1億を超えていた。

田村はワールドの運用部長から事前にディールの中身を聞いていて、俺を嵌めたのだ。
二人が東大で同期だったことは後で知った。

他部署から国際金融本部外国為替課に異動を命ぜられ、あっと言う間に頭角を現した俺を田村やシニアの連中が嫉み、そして憎み出していたのだ。

 

‘部下をこんな形で甚振ってどうするんだ。

そこまで、俺が憎いのか?

もう、こんな組織で働いても仕方がないな’

 

その日以降、ひたすら顧客からのカバー・ディールに徹し、自分から積極的にポジションを取らなくなっていた。

そんな俺を見守り、救ってくれた人物がいた。

当時まだ、部長だった東城である。

コロンビア大学MBA留学という道を作ってくれたのも彼だった。

後に人伝に聞いた話では、東城はそのために、人事部長や一部の役員連中に幾度も頭を下げてくれたそうである。

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‘込み上げてきた怒りの気持ちが、当時の東城の心遣いを思うと薄れて行く’

 

感傷的になりかけた気持ちを振り払う様に、グラスに残っていた琥珀色の液体を飲み干した。

 

‘横尾だけでなく、田村も消えてもらうしかないな。

もう行内の醜い争いごとは終わりにしなければ’

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。