第32回 「志保の悩み」

 昨晩(6日の夜)遅く、志保から待ち合わせ場所と時間を知らせるメールが届いた。
場所は帝国ホテルのロビー、時間は6時である。

ホテルの車寄せにタクシーが着いたのは6時5分前だった。
彼女はこれまでに待ち合わせ時間に遅れたことがないから、間違いなくロビーで待っているはずだ。

メインエントランスを抜け、ロビーの左前方に目をやると、直ぐに志保の姿が目に飛び込んできた。

プロポーション抜群で30代半ばの美人が高級ホテルのロビーのピラーに背を持たれながらニューヨーカーを何気に読んでいる。

ジーンズにホワイトのシャツ、その上に質の良さそうなヘザーグレーのカーディガンを胸前で結ぶといったさり気ない出で立ちだが、それが妙に彼女を際立たせている。

一瞬、そんな風に思えた。

彼女も自分を見つけたらしく、ふたりの目があった。

彼女が小走りに近づいてくる。

ふたりの距離が1メートルほどに縮まったとき、彼女が「久しぶり、了」と言いながら胸に飛び込んできた。

彼女はハグのつもりだろうが、傍から見ればそうは見えない。

ふたりの頬が接した瞬間、
「おい、ここは日本だぞ、少しオーバーじゃないか」
と耳元に囁いた。

「良いのよ、了となら」
と平気で言う。

良く分からないままに、束の間抱きしめる格好となってしまった。

彼女の肩を軽く押し戻しながら、
「結構、元気そうだな。
でも、志保が元気そうな様子を敢えて見せるときは悩みを抱えているときが多い。
何か、問題か?」
と聞いてみた。

「ええ、まあ。
でも、取り敢えず、食事にしましょ。
地下の‘なだ万’に予約を入れておいたけど、和食で良かった?」

「問題ないけど」

「ね、二人で歩くとき離れて歩くの難しいの。
腕を組んでも良い?」

「まあ、俺は良いけど、志保は拙くないのか?
有名人らしいからな」
少し茶化してみた。

「‘外国で活躍する日本人女性’ってやつ。
ニューヨークで働いているだけで、別に活躍してるわけじゃないのにね」
と言いながら、既に右腕を俺の左腕に絡めている。

‘なだ万’での懐石料理も終わり、デザートが運ばれてきた頃、問わず語りに志保が悩みを打ち明けてきた。

「了と知り合う前、イーストリバーの妻子持ちの人と付き合っていたことは以前に話したわよね。

その彼が離婚するから、また付き合ってくれと言ってきたの。

もちろん、付き合ってもいないし、そのつもりもない」

「だったら、別に問題ないはずだが」
素っ気なく言う。

「それが、そうではないのよね。
昨年4月に彼がナンバー・ツーにプロモートされ、運用部門の全ての人事権を持つことになったの。

了が帰国してから数カ月経った頃、彼自身の運用のアシストをしてくれと頼まれ、仕方なしに引き受けることになった。

ベースは一挙に10万ドルアップしたし、来月貰う予定のインセンティヴ・ボーナスも相当な高額に上ったのは喜ばしいことだけど、毎日が大変」

「同じ個室で仕事をし、毎日の様に口説かれてるってわけか。
それで、どうしたいんだ?」

「給料は魅力的だけど、居心地が悪すぎる。
他に仕事を探すしかないと思ってる。
困ったわ」

「まだポートフォリオ・マネージャーの仕事を続けたいのか?」

「ええ、楽しいし、過去のトラックレコードも悪くないから。
多分、私に向いている仕事だと思ってる」

「それで、どこで仕事がしたい。
ニューヨーク、ロンドン、どこでも紹介できるけど」

「まだ暫くは、ニューヨークにいたい。
でも、人間として信頼している人の下で働きたい。

この世界、どこか腐ってる人が多すぎるわ」

「まあ、腐ってる人間はどの世界にもいる。
まだ、そっちの世界にだってまともな人間は少なからずいるよ。

ニューヨークじゃないけど、コネティカットに行く気はないか?
そう、志保も良く知ってるマイクのファンドだ」

「えっ、本当!
彼なら信頼できるし、一度オールドグリニッジにも住んでみたかったの。
お願い、頼んでみて」
真剣な口調だ。

どうやら元カレは毎日、彼女に陰湿に言い寄っていたのに違いない。
その彼から逃れられるという安堵の気持ちが働いたのか、嬉し涙らしいものが彼女の目に滲んでいる。

「あっちに戻ったらレジュメをメールしておいてくれ。
マイクには話しておく。

もう大丈夫だ。
安心しろ。

ただ、イーストリバーを辞めるのはボーナスを貰ってからにしておけよ」

「そうね、お金って大切だもんね」
笑って言う。
もうすっかり元気を取り戻した様だ。

 その夜、彼女を抱いた。
二人の関係は本店への転勤でなし崩し的状態になっていたが、きっぱりと別れたわけではない。
それだけに、会えばそうなるのは分かっていた。

 成人式の週初(8日)、東京市場がクローズのなか、相場は113円前半でもたついた。

その日の夜中、ニューヨークの沖田に電話をかけた。
「どうだ?」

「ドル円の上は重いですね。
何となく、落ちそうな気配がします。

ユーロドルはややオファー気味ですが、ポジション調整後は買いだと思います。

何かしますか?」

「そうだな、ドル円50本売ってくれ」

「04(113円04銭)です」

「了解。
それと10分後に、もう50本売っておいてくれ。
レベルは構わない。
円に関しては、その後のリーブは不要だ。

あとユーロドルを50本買いたいが、何処が良い?」

「60(1.1960)辺りでしょうか?」

「じゃ、60でリーブを頼む。
ストップは丁度(1.1900)givenで良い。

忙しいところ、どうもありがとう。
それじゃ」

「お疲れ様でした。
お休みなさい」
いつもの静かな沖田の声で会話は終わった。

翌日の朝、山下からニューヨークでの取引内容の報告を受けた。
追加のドル円の売り50本は13円07、ユーロドルの買い50本は1.1960でダンとなった。

「どの様に処理しておきますか?」
山下が聞く。

「3円04の50本の売りは先週の12円台の利食いに当てておいてくれ。

これで現在のポジションは、ドル円は14円台の売り50本、13円07の売り50本、ユーロドルは1.1960の買い50本。

それで良いか?」

「はい、間違いありません。
乗ってきましたね」

「まあな、ただお前以外はパットしないから、10~12(10月~12月)は全体で少し未達だ。

俺もプラスだが、大したことはない。
ここらで頑張らないと、3月末の数字が厳しくなる」

「そうですね。
ところで、大阪の件の真相はどうなんでしょうか?」

「明日には浅沼の調査が終わるから、明後日には真相が分かる。
どうせ俺が片づけることになるのだろうが・・・。

ともかくそれはそれで、稼げるときに稼いでおくしかないな」

会話を終えて、ふとスクリーンを見ると、みるみるとドル円が急落して行く。
午前中に50(12円50銭)がgivenした。

日銀の超長期国債買い入れオペが予想外の減額となったことで、テーパリングが進むとの思惑が市場に走ったためである。

そして翌日には、‘中国が米債投資を辞める’との報が流れ、ドル下落が続き、週末には110円91銭を付けて、週を終えた。
少しツキが回ってきた様である。

週末の土曜日の午前、ベッドに横たわりながら大阪の件を考えていた。
堂島支店・柿山の話、そして三山製作所の話、どちらも噛み合いそうで噛み合わない。

柿山は108円台の時点で、‘110円まで戻す可能性は極めて低いから、売った方が良い’と三山に強く勧めたという。

だが、話の半分が本当だったとしても、為替予約は顧客である三山の意思で行うものであり、銀行が強要できるものではない。

やはり、真相を暴くためには‘面倒でも自分で大阪に出向くしかないな’

その晩、国際金融新聞の木村宛てに来週のドル円相場予測を書いた。

木村様

やっと、予測してきた様に相場が動き出しました。

114円台のショートが根っことなり、活躍しています。
新たに113円台でショート、そして1.19台でユーロドルをロングしたので、ディールの方はまずまずです。

日銀の超長期債の買いオペの減額とテーパリングが結び付けられ、円が急騰しましたが、
確証はありません。

ドルが落ちたのは、今のところポジションの投げが主因と判断しています。

米法人税減税とFEDの正常化プロセス継続という好条件がありながらも、115円を試せなかったため、‘日銀のテーパリング話がドルロング(円ショート)の投げに繋がった’程度の話で捉えておいた方が無難かと。

もっとも、米国のNAFTA離脱話や中国の米国債購入の減額話の信憑性が高いのであれば、この先サイコロジカル水準の110円を試す展開があっても不自然ではありませんが・・・。

ユーロドルが1.21を抜いているので、これもドル円の押し下げ要因には違いありません。

こんなところで適当に行間を埋めておいて下さい。

予測レンジ:109円~112円75銭

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

(つづく)