第13回 「窮地」

―――先週、日本海上保険(JMI)が「含み損の出ている過去のディールをキャンセルしてくれ」という理不尽な依頼をしてきた。

それを断ると、JMIは他部署やIBT証券とのビジネスを見合わせると通達してきた。

大口顧客である以上、‘理不尽であっても受け入れるべきだ’という担当常務の嶺に対して‘理不尽な要求は受け入れられない’と命令を突っぱねた。―――

 そのことを多少気にしながら週初(28日)を迎えた。

ドル円は109円台前半での小動きが続く。
今月の上旬からドルの下値を試す展開が続いてきたが、市場はここまで8円台を攻めきれないでいる。

そんななか、山下と相場の話をしていると、部長の田村がデスクに寄ってきた。

「お早う。今日は静かだが、この先はどんな感じだ?」珍しくマーケットについて触れてきた。
もっとも、彼が朝から話かけてきたのは、市場の様子を聞くためではなく、先週の嶺常務との会話の内容を聞くのが目的だ。
日頃の彼の行状を見ていれば、見え見えの行動である。

それでも、一応相場の話で返した。
「そうですね、8円台は実需の買いもそこそこ出てくるし、ショートを振った連中も直ぐに買い戻してくるので、落ちづらいですね。でも、今週はどこかで一旦8円13銭(年初来安値)を試しに来る様な気がします。それでダメなら、ショート・カバーで111円前後まで戻すかもしれませんね」
先週末に立てた大まかな予測をそのまま言った。

「そうか、まあお前が言うんだから、そうかもな」と相槌を打つと、「ところで、先週の嶺さんとの話はどうだった?」と続けてきた。
‘やはりな’

ここからはスクリーンから目を離し、相手の顔を見ながら答えざるを得ない。椅子を回転させて立ちあがった。
身長165センチほどの田村は、178センチの俺を少し見上げざるを得ない。
下から見上げる銀縁眼鏡の奥のキツネ目が異様だ。

「その点はもう、常務からお聞きになっているんじゃないですか?」
田村がしばしば、金曜日に嶺と酒を飲みに行くのは聞いている。
その酒席でその話が出ないハズがない。

「まあ、多少はな。だけど、直属の上司として、お前の言い分も聞いておこうと思ってな。
いずれにしても近々、JMIの件については関係者でミーティングを持たざるを得ないな」
そう言い残すと、自席の方に戻って行った。

‘ミーティングの通達をしに来たのであれば、最初からそう言えばいい。時間の無駄だ’

 
 事件が起きたのは日も替わった火曜日のオセアニア時間だ。
北朝鮮が北海道を跨いで飛翔体を発射したという。
ディーリング・ルームに入ったのは6時45分頃だったが、ざわついた空気が流れている。

「一度8円33銭を付けた後、ドルが8円後半へと戻しました」
山下が言う。

「そうか、ということは33が付いたのは反射的な有事の(ドル売り)円買いか。とすれば、これを切っ掛けにもう一回、ドルを売ってくるな。どう思う?」

「はい、そう思います。問題は8円13ですかね」

「そうだな。ただ、今見ている感じだと、少し下は(ドル)ショートか。一旦、9円辺りまで戻りそうだな」
その後、8円後半で戻り売りと買戻しが交錯した。

 
 ディーリング・ルームの天井には大型テレビが2台吊り下げられ、自分のデスクの横にも中型テレビが一台置かれている。

すべての映像は北朝鮮のミサイル発射関連だ。
したり顔で自説を語る所謂評論家の映像、適切に対応している旨を語った安倍首相や小野寺防衛大臣の早朝の映像である。

事態に進展が見られないまま、ややビッド気配のままドル円は8円後半で推移した。
相場が動き出したのはロンドン市場に厚みが出始めた4時過ぎである。
市場に浸透した「地政学的リスク=円買い」を絵に描いた様に、欧州勢が円買い(ドル売り)に動いてきた。

ロンドン前に96(8円96銭)まで値を戻していたドルだが、70given*、60given、50given、と相場は一挙に左(ドル売り)に振れたが、27(8円27銭)で止まった。

その後ドルの買戻しが出始めると、売りも引いた様で、少しビッド気配だ。
時計を見ると、針は6時を回っている。

そのとき、
「仙崎君」と、田村の声がした。
後ろを振り向くと、部長席まで来いと手招きをしている。

「山下、見ての通りだ。ちょっと、あっちへ行ってくる。悪いけど、50本買っておいてくれるか。10円台のショートの利食いに当てておいてくれ」

「了解しました」

 
 「はい、何でしょうか?」

「例の件で、先方が来週初に会いたいと言ってきた」

「それで、金曜日に内部でミーティングを開くことにした。嶺常務、山岡国際フィアナンス部長、IBT証券の小山内証券担当常務が出席する。うちからは、東城さん、君、それに私ということで良いか?」

「良いも悪いも、決まったことでしょうから」

「ふぅむ。会議は午後3時過ぎに、役員フロアーの第1会議室で行う」

「了解しました」

‘どうでも良い会議だ’

 
 デスクに戻ると、山下が
「部長の話は例のJMIの件ですか?」と聞いてきた。

「ああ、そうだ。でも、お前は気にしなくて良い。ところで、幾らで出来た?」

「あっ、すいません。55でダンです」

「これでポジションはなくなったな。ところで、ロンドンは何て言ってる?」

「ユーロドルは1.20台で一旦売り、ドル円はショート・カバーを見込んで‘上’というのが大勢の見方らしいです」

ユーロ高牽制の真偽はともかく、取り敢えず1.20台は相場が伸び切るところだ。
「ユーロドルが売られるなら、ドル円は右(上)だな。
彼等の見方は多分当りだ。
ロンドンを呼んで、ドル円50本買ってくれ」

「59で30本、61で30本」

「あッ、お前も買ったのか。じゃ、お前の分は59で」

「ありがとうございます。リーブはどうします?」

「8円13 のストップだけ頼む。俺は帰るけど、お前もほどほどにな。それじゃ」

 それ以降、ドル円はショート・カバーを中心に買われ続け、木曜には10円67(110円67銭)を付けた。だが、それ以上の伸びはなかった。

‘チャートポイントの10円95は無理か?? だが、俺のロングのコストは8円半ばだ。もう少し我慢してみるか’

 
 米8月雇用統計の発表を控えた金曜日(9月1日)の東京は110円前後で寄り付いた後、110円前半での様子見となった。
‘統計が発表される夜の9時半まで相場は動かないな’

3時過ぎ、役員フロアーの第一会議室に向かった。
予定されたメンバー全員が集まったところで、田村の音頭取りで会議は始まった。

田村の簡単な経緯と現状説明が終わると、
「仙崎君、君の考えを述べたまえ」と言う。

「はい、事の経緯は部長からご説明のあった通りですが、私は判断を間違えたとは思っておりません。仮に一度そうしたことを受け入れれば、彼等はこの先も同じことを言ってくるに違いありません」

「だが、君。現に彼等はうちとのビジネスを見合わせると言ってるんだぞ」と、IBT証券の小山内常務が気色ばんだ。

「常務、失礼ですが、IBT証券では彼等との株取引でこんなことを飲んでいるわけではありませんよね?」

「無礼な、第一、今はそんな問題を話しているんじゃない」
‘少し声が淀んでいる。怪しい’
こういう時は切り込むチャンスだ。

「分かりました。ところで、仮に私が彼等の言い分を飲んだとしたら、他社への利益提供になりませんか? 当然、それはコンプライアンス上の問題行為であり、事後調で発覚すれば何らかの咎めを受けることになりますが・・・。IBTホールディングズとして、それでも宜しいのですか?」

「し、しかし、巨額の取引を失いかけているんだぞ」

「行政処分を受けても良いと言うことですね」

「おい、仙崎、言葉過ぎるぞ」
慌てて、常務の嶺が口を挟んできた。

「やはり、仙崎の言うことが正しいのではないでしょうか。
取り敢えずここは、正式な先方の申し出を聞いてみてはどうでしょう。
私も本件がJMIの総意だとは思いません」
東城の落ち着いた物言いには説得力があり、皆頷かざるを得なかった。
来週早々に先方に出向くことで会議はお開きである。

 「本部長、ありがとうございます」

ディーリング・ルームに戻りながら東城に礼を言うと、
「いや、あれで良い」と言葉が返ってきた。

「はい」

「しかし、お前の攻めるタイミングはディーリングそのものだな」
東城は笑いながら、茶化す様に部下を労った。

夜の9時半、米雇用統計が発表された。
事前予想より相当に悪い結果である。
市場は取り敢えずドルを売ったが、9円56止まりだ。
元々、年内の再利上げが見送られるとの見方もあったせいか、直ぐにドルは10円42まで値を戻した。

 
 
 統計後の相場が一段落した後、山下とコーポレート・ヘッドの浅沼を誘って、青山の’
Keith‘へと出向いた。

「二人ともご苦労さん。それじゃ、まずは乾杯だ」
それぞれのグラスにカールスバーグを注ぎあった。

例によって、山下の手がサンドイッチに伸びる。
続いて、浅沼の手も伸びた。

「浅沼、例の件は大丈夫だ。もう忘れろ。第一、俺達は何も間違ったことをしていないんだ。なっ、山下」

「はい、そうですね。まあ、飲みましょう。了さん、例のロングどうするつもりですか?」

「一応、先月16日の高値10円95を抜けない様なら、どこかで売るよ。
あそこが抜けないと、まだ8円台への反落もありそうだしな。
逆に抜ければ、テクニカルには11円50とか、12円20辺りまではあるかも知れない。
でも、依然としてドルの下値リスクを脅かす材料が多いし、週末に何があるかも分からない」

「じゃ、分からない相場に皆で乾杯しましょう」
浅沼が元気な声で言う。
‘元気が戻ってきた様で、良かった’

知らぬ間に、Bill Evans の ‘peace peace’ が聞こえてきた。
マスターの配慮である。
だが、中年男三人に聴かせるにはもったいないほど美しいメロディーだ。
ふと、‘岬のことが頭に浮かぶ’

 週末の日曜日の午後、北朝鮮が水爆実験を行ったとのニュースが報じられた。
‘やってられないな’

(つづく)


*given:あるレートで(ここでは)ドルが売りになること

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。