第29回 「ホリデーシーズン」

予想されたことだが、欧米のホリデーシーズンを控えて、週初(18日)から市場は静かである。

そんな相場付きでも総合商社は、10本、20本と玉を打ってくる。

中でも五井商事のディーリング頻度は目を引く。

その五井商事の外国為替課長を務める武村は動きの鈍い相場でも着実に収益を上げる人物として知られるが、執拗なまでに売買の主体を銀行に聴きまわるため、市場ではあまり評判が良くない。

ただ、市場の主体の動向を掴むことはディーリングの「いろは」の「い」であり、それを自身にも部下にも言い聞かせて守っている。

その姿勢は多種多様な相場商品を取り扱う五井商事の伝統の中で培われたものだろうが、流石と言わざるを得ない。

冴えない相場が続くなか、10時過ぎにその武村から電話が入った。
顧客の担当は部下の浅沼が率いるコーポレート・デスクだが、彼が相場の話をするときは俺に直接電話を掛けてくる。

受話器を取るなり、
「仙崎さん、今のポジションは?」と聞いてきた。

「ジョビングはドル円もユーロドルも売ったり買ったりの繰り返しです。
少し抱え込んでいるのは14円前半のショートですが」
正直に答えた。

「そうですか、ショートにしている理由は何ですか?」

「理由ですか、特にないですね。
強いて挙げれば、あっち(米国)のイールドカーブのフラットニング化でしょうか。
逆イールドカーブまで考慮すれば、米株の暴落もあり得るわけですから。
今日明日、それが起きるとは思いませんが、そのことが軸足としてのドルロングを躊躇わせているのかもしれません」

「そうですか。
でも、仙崎さんのことだから、他にも何か理由があるんじゃないですか?」

「まあ無くはないですが、武村さんに話す様なものはありませんよ」
半ば本音である。

武村は‘ハハ’と少し笑った後、
「今週のドル円はどうですか?」と聞いてきた。

「買いだと思いますが、今日の東京ではもうこの上はないでしょうが」

「それじゃ、20本売ってください」

山下が‘70’とクオートする。

「70(112円70銭)です」

「done(ダン)」

「ありがとうございました」

「こっちこそ、どうも。
また教えて下さい」
謙虚だった。

その日のニューヨークで12円31まで下落した。

それ以降、ドル円は堅調となり、木曜に週高値となる13円63まで上昇したが、そこで止まった。

12日の高値13円75を試す様であれば、多少のドラマも生まれただろうが、欧米もロング・ウィークエンドを控えてやる気はない。

翌金曜日のニューヨークでは、ポジション調整で13円25まで下げた後、30前後で週を終えた。

 イブの土曜日、世間はクリスマスに湧くが、俺には関係ない。
日がな一日、気ままに過ごせば良いのだから、それはそれで楽しい気分にしてくれる。

BGMには耳に優しいナイロン弦のクラシックギターが奏でるジャズを選ぶ。
コーヒーはシティーローストのコスタリカが良い。
読み物は経済誌も良いが、きっとそれには直ぐに疲れるはずだから、アウトドア用品のカタログも用意しておこう。

そんな設えを昼過ぎから実行に移し、気分の良いときを過ごしていたが、日頃の疲れが出たせいか、ソファーの上で寝入ってしまった様だ。
目が覚めたといには部屋はもう暗かった。

テーブルの上のスマホに手を伸ばし、時刻を見ると、6時近くである。
独身の男、ましてや彼女のいない男にとっては、詫びしくもあり、人気が恋しい時間だ。

向かい側の棟に目をやると、多くの窓には明かりが灯り、イブを楽しんでいる家族の様子が窺える。
もうブラインドを下ろすしかなかった。

‘拙いな’
少し萎えた気持ちを振り払うかの様に頭を振ると、机の上に置いてあるラフロイグのボトルの栓を抜き、なみなみと琥珀色の液体をショットグラスに注ぎ、一気に飲み干した。
咽なかったのは気持ちがそれだけ強い潤いを求めていたからだ。

半ばアルコホリックになりかけているのかも知れないと思いつつ、二杯目をグラスに注ぎ、それを口に運びかけたとき、スマホが鳴った。

 「了、久しぶり、元気?」
ニューヨーク時代の恋人、阿久津志保からの電話だった。

彼女とはとあるパーティーで知り合ったことで付き合い出したが、本店への転勤が切っ掛けで別れた。
先の約束を持たない関係だったためか、彼女は今でも平気で電話をかけてくる。

邦銀のニューヨーク支店を辞めた後、ニューヨークのイーストリバー投資顧問のポートフォリオ・マネージャーとして活躍している。

最近では海外で活躍する日本人女性として名前が知られ、時折りこっちの経済誌や女性誌でも採り上げられているという。

「ああ、元気だけど。
今日みたいな日は、一人ものは少し気持ちが沈むかな。
今、どこからだ?」

「東京よ、母のところ。
了の社宅の近くね」
かつて芸妓だった彼女の母は四ツ谷で割烹料理屋を営んでいる。
民自党の元幹事長を務めた宮森の愛人だったそうだが、その手切れ金が今の割烹料理屋だったという。

「そうか、もうあっちは暇だろうからな。
たまの親孝行で帰って来たのか。
で、いつまでこっちにいるんだ?」

「来月の10日頃までかな。
ねぇ、了、これから出てこない?
だってさっき、気持ちが沈むって言ってたじゃない」
思い付きで動くのは彼女の特技だ。

確かにイブを男一人で過ごすより、女性と過ごした方が良いに決まってる。
それに志保は、すれ違う誰もが振り向くほど、飛び切りの美人だ。
だが、どことなく気が乗らない。
岬のことが頭にある。

「今日は止めとくよ、少し風邪気味なんだ。
来年早々でどうだ?」

「そ、残念ね。
誰か好きな女性(ひと)でも出来た?」
見透かした様に言う。

「そんな訳じゃないけど。
また電話くれないか?」

「分かったわ。
それじゃ、また電話する。
風邪治しといてね」
と元気に言って、電話を切った。

志保が元気な声を出すときは、何かで落ち込んでいることが多い。
悪いことをしたかなと思う。
そんな思いを振り切る様に、グラスに残ったラフロイグを喉の奥に流し込んだ。

木村様

来週のドル円相場予測。
レンジ:112円~114円20銭。

この時期、あまり語ることもないので、適当に作文をお願いします。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

(つづく)

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。