第34回 「110円を割れたドル」

 ―――週初(22日)の東京は110円台後半で、比較的穏やかな相場付きだった。

まだドルは下がると思うが、売り時が分からない。

そんな思いで窓際に立ち、皇居の森を眺めていると、下期の出来事や業務のことが脳裏に浮かんできた―――

下期入りした10月以降、ディーリング以外の出来事に時間と労力を割かれたことで、思う様に収益を重ねることができなかった。

そんななかでも、11月初旬に作った114円台の50本(5000万ドル)のドルショートが根っこのポジションとなり、何とか収益を支えている。

毎日値洗いされているものの、ドル円の金利差*は僅かだから、現在の持ち値も大きな影響を受けてない。

本数は50本と金額は少ないが、下期の拠り処となってきたポジションである。

 プロップ・トレーダーとして収益を残すためには根っこのポジションは重要だ。

基調としてのトレンドを捉えるのは難しいが、方向を見定めてポジションを持つ必要がある。

時にポジション・メイキングの水準を間違えれば、ストップロスを入れ、そして再び根っこのポジションを作る。

根っこと決めたポジションを滅多に切ることはないが、潔さを欠くと後々のディールに響くことを常に頭に入れ、不屈の精神で次に望む。

こうしたプロップ・トレーダーとしての信念を持ち、俺はここまで生き延びてきた。

もっとも、インターバンク・ディーラー時代は根っこのポジションを持つことは難しかった。

インターバンク・ディーラーは常に顧客のカバーに追われているため、根っこのポジションを作るタイミングを見失うことが多いからだ。

時折りインターバンクのチーフディーラーである山下には「お前のディール・スパンは短いな」と言って冷やかすが、それは彼の力量や度量の問題ではない。

彼のディール・スパンが短いのはそうしたインターバンク・ディーラーとしての役割故である。

「お前の利食いは早いな」と俺に言われても、彼は‘利食い千人力ですから’などと言って受け流すが、自分の業務をわきまえている証拠だ。

もっとも、大銀行の外国為替課長である俺のプロップのポジションの取り方も難しい。

インターバンク全体のポジションを管理する立場では、自分本位のポジションばかりをとっていられないからだ。

かつて山下が、
「課長、朝のミーティングではドルは下だと言っていたのに、何故ロングしてるんですか?」
と尋ねてきたことがあった。

「お前等全員がドルを売ってるのに、俺も売ったらデスク全体が総ヤラレになるかもしれない。

俺だってショートにしたいとこだが、ここは仕方がない。

まぁ、立場上、当然のことをしているだけだけどな。

そしてこれは、俺がまだジュニアだった頃に東城さんもやっていたことだ」

次の担い手である山下を鼓舞するつもりでそう答えた。

 翌日(23日)もドル円の上値は重たそうだった。

「山下、昨日のニューヨークのドル円高値は18(111円18銭)だったな。
つまり、前日の高値22(111円22銭)を抜けなかったってことだから、そろそろ売っておく方が良いな」

「そうですね。
私もそう思います」

「昨日の安値が56(110円56銭)だから、そこを抜けたら売るか。
50givenなら間違いなくドルは下がる。
50givenで50本、丁度(110円)givenで50本、リーヴしてくれ」

「了解です。
僕も50givenで乗っかります」
勢いよく山下が言う。

その後二人はディーリングルームに残ることにしたものの、ドルは下げ渋った。

ドルが下がり出したのは東京の午後8時を回ってからのことである。

それを見届けた二人は、銀座の‘やま河’へと向かった。

‘やま河’は元外資系銀行の人事部長だった山河里美が営むカウンター・バーである。

 「課長、上手く行くと良いですね」

「ああ、大丈夫だ。
間違いなくドルは落ちる。

まあ、飲もう。
お前は相変わらず、グレンリヴェットか」

「課長は、ラフロイグですね」

店内には、耳障りにならない程度の音量でBill Evans のPeace Pieceが流れる。

テイスティンググラスを傾けながら山下が
「至福の時ですね」
と気どって言う。

「体形に似合わず、お前も随分と気の利いたことを言う様になったな。
もういっぱしのニューヨーカー気取りってとこか」

「‘体形に似合わず’ってのは余分じゃないですか。
これでも最近3キロも痩せたんですから」

ママの里美がこっちを見ながらカウンター越しに少し控えめな声で笑っている。
‘笑顔の美しい女性は良いものだ’

俺以外に客のいなかったとき、彼女の方から‘10歳年上の妻子持ちの彼氏がいる’と聞いたことがある。
‘世の中、上手く行かないものだ’

 翌日以降、ドル円相場は急落し、週末には108円28銭まで下落した。

米国のセーフガード発動、ムニューシン米財務長官のドル安容認発言、そして黒田総裁のややタカ派的発言がドル安の背中を押したのだ。

今週売った100本は、9円60銭と8円50銭で手仕舞った。
そしてまだ、114円台のショート50本は残っている。

 土曜日の晩、例によって国際金融新聞の木村に来週のドル円相場予測のメールを送った。

木村様

 今週のドル安、少し速過ぎる感があります。

ムニューシン財務長官の発言はいささか唐突ですね。
経常赤字国・対外債務国の米国財務長官としては軽々過ぎる発言かと。

いずれにしても米国が経常赤字を外国の資本流入で補填している国である以上、ドル安容認はありえない話なので、発言は真意ではないのでしょう。

黒田さんの発言は、正常化プロセスでFEDやECBに遅れをとっているためのその場凌ぎの発言としか受け取れません。

問題はムニューシン発言、あるいは米国要人が今後もドル安容認を繰り返してきたときでしょうか。

ドルに下降モメンタムがついているときだけに、その点には注意が必要です。

来週のドル円予測レンジ:107円~111円

追記:
オシレーター系のチャートを見ても少しオーバーソールドで、短期的にドルが戻す様な気がします。

ただ、ドルの下値が固まっていないのでこの先まだドルが落ちると見ています。
IMMの投機的円売りポジションの縮小が遅れているのも気に懸るところです。

今週は少しドル売りを手控えます・・・。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

(つづく)


*ドル円金利差:過去からドル円金利はドル金利>円金利である。
この状態ではドルの先物はディスカウントとなり、先物レートは金利差(直先スプレッド)分だけ低くなる。
つまり、ドルショートのコストはロールオーバー(先送り)すればするほど悪くなり、
逆にドルロングのコストは低くなる(良くなる)ことになる。