月別アーカイブ: 2017年12月

第29回 「ホリデーシーズン」

予想されたことだが、欧米のホリデーシーズンを控えて、週初(18日)から市場は静かである。

そんな相場付きでも総合商社は、10本、20本と玉を打ってくる。

中でも五井商事のディーリング頻度は目を引く。

その五井商事の外国為替課長を務める武村は動きの鈍い相場でも着実に収益を上げる人物として知られるが、執拗なまでに売買の主体を銀行に聴きまわるため、市場ではあまり評判が良くない。

ただ、市場の主体の動向を掴むことはディーリングの「いろは」の「い」であり、それを自身にも部下にも言い聞かせて守っている。

その姿勢は多種多様な相場商品を取り扱う五井商事の伝統の中で培われたものだろうが、流石と言わざるを得ない。

冴えない相場が続くなか、10時過ぎにその武村から電話が入った。
顧客の担当は部下の浅沼が率いるコーポレート・デスクだが、彼が相場の話をするときは俺に直接電話を掛けてくる。

受話器を取るなり、
「仙崎さん、今のポジションは?」と聞いてきた。

「ジョビングはドル円もユーロドルも売ったり買ったりの繰り返しです。
少し抱え込んでいるのは14円前半のショートですが」
正直に答えた。

「そうですか、ショートにしている理由は何ですか?」

「理由ですか、特にないですね。
強いて挙げれば、あっち(米国)のイールドカーブのフラットニング化でしょうか。
逆イールドカーブまで考慮すれば、米株の暴落もあり得るわけですから。
今日明日、それが起きるとは思いませんが、そのことが軸足としてのドルロングを躊躇わせているのかもしれません」

「そうですか。
でも、仙崎さんのことだから、他にも何か理由があるんじゃないですか?」

「まあ無くはないですが、武村さんに話す様なものはありませんよ」
半ば本音である。

武村は‘ハハ’と少し笑った後、
「今週のドル円はどうですか?」と聞いてきた。

「買いだと思いますが、今日の東京ではもうこの上はないでしょうが」

「それじゃ、20本売ってください」

山下が‘70’とクオートする。

「70(112円70銭)です」

「done(ダン)」

「ありがとうございました」

「こっちこそ、どうも。
また教えて下さい」
謙虚だった。

その日のニューヨークで12円31まで下落した。

それ以降、ドル円は堅調となり、木曜に週高値となる13円63まで上昇したが、そこで止まった。

12日の高値13円75を試す様であれば、多少のドラマも生まれただろうが、欧米もロング・ウィークエンドを控えてやる気はない。

翌金曜日のニューヨークでは、ポジション調整で13円25まで下げた後、30前後で週を終えた。

 イブの土曜日、世間はクリスマスに湧くが、俺には関係ない。
日がな一日、気ままに過ごせば良いのだから、それはそれで楽しい気分にしてくれる。

BGMには耳に優しいナイロン弦のクラシックギターが奏でるジャズを選ぶ。
コーヒーはシティーローストのコスタリカが良い。
読み物は経済誌も良いが、きっとそれには直ぐに疲れるはずだから、アウトドア用品のカタログも用意しておこう。

そんな設えを昼過ぎから実行に移し、気分の良いときを過ごしていたが、日頃の疲れが出たせいか、ソファーの上で寝入ってしまった様だ。
目が覚めたといには部屋はもう暗かった。

テーブルの上のスマホに手を伸ばし、時刻を見ると、6時近くである。
独身の男、ましてや彼女のいない男にとっては、詫びしくもあり、人気が恋しい時間だ。

向かい側の棟に目をやると、多くの窓には明かりが灯り、イブを楽しんでいる家族の様子が窺える。
もうブラインドを下ろすしかなかった。

‘拙いな’
少し萎えた気持ちを振り払うかの様に頭を振ると、机の上に置いてあるラフロイグのボトルの栓を抜き、なみなみと琥珀色の液体をショットグラスに注ぎ、一気に飲み干した。
咽なかったのは気持ちがそれだけ強い潤いを求めていたからだ。

半ばアルコホリックになりかけているのかも知れないと思いつつ、二杯目をグラスに注ぎ、それを口に運びかけたとき、スマホが鳴った。

 「了、久しぶり、元気?」
ニューヨーク時代の恋人、阿久津志保からの電話だった。

彼女とはとあるパーティーで知り合ったことで付き合い出したが、本店への転勤が切っ掛けで別れた。
先の約束を持たない関係だったためか、彼女は今でも平気で電話をかけてくる。

邦銀のニューヨーク支店を辞めた後、ニューヨークのイーストリバー投資顧問のポートフォリオ・マネージャーとして活躍している。

最近では海外で活躍する日本人女性として名前が知られ、時折りこっちの経済誌や女性誌でも採り上げられているという。

「ああ、元気だけど。
今日みたいな日は、一人ものは少し気持ちが沈むかな。
今、どこからだ?」

「東京よ、母のところ。
了の社宅の近くね」
かつて芸妓だった彼女の母は四ツ谷で割烹料理屋を営んでいる。
民自党の元幹事長を務めた宮森の愛人だったそうだが、その手切れ金が今の割烹料理屋だったという。

「そうか、もうあっちは暇だろうからな。
たまの親孝行で帰って来たのか。
で、いつまでこっちにいるんだ?」

「来月の10日頃までかな。
ねぇ、了、これから出てこない?
だってさっき、気持ちが沈むって言ってたじゃない」
思い付きで動くのは彼女の特技だ。

確かにイブを男一人で過ごすより、女性と過ごした方が良いに決まってる。
それに志保は、すれ違う誰もが振り向くほど、飛び切りの美人だ。
だが、どことなく気が乗らない。
岬のことが頭にある。

「今日は止めとくよ、少し風邪気味なんだ。
来年早々でどうだ?」

「そ、残念ね。
誰か好きな女性(ひと)でも出来た?」
見透かした様に言う。

「そんな訳じゃないけど。
また電話くれないか?」

「分かったわ。
それじゃ、また電話する。
風邪治しといてね」
と元気に言って、電話を切った。

志保が元気な声を出すときは、何かで落ち込んでいることが多い。
悪いことをしたかなと思う。
そんな思いを振り切る様に、グラスに残ったラフロイグを喉の奥に流し込んだ。

木村様

来週のドル円相場予測。
レンジ:112円~114円20銭。

この時期、あまり語ることもないので、適当に作文をお願いします。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

(つづく)

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第28回 「不意打ちの電話」

 米11月雇用統計は良好だったことから、先週末のドル円は高値引けとなった。

週初(11日)のドル円はその地合いを受け継ぐ格好で堅調に推移したが、市場は114円台を試そうとはしない。

海外でも積極的なドル買いは手控えられている様だ。

週半ばにFOMCの政策決定を控えていると言っても、ドルの力不足は否めない。

現在のポジションは14円前半の50本(5000万ドル)のショート、12円前半の50本のロングである。
どうやらまだ、ショートを根っことして抱えておいた方が良さそうな気配だ。

火曜日の夜中、少しビッド気配となった頃合いを見て、ニューヨークの沖田に電話を入れた。

「今、大丈夫か?」

「はい、少し落ち着いたところですから、
問題ありません」

「そうか、円(ドル円)*はビッドの様だが、どんな感じだ?」

「はい、上は75(13円75銭)までですが、PPIが良かったので、明日のCPIにも期待が掛かっている様です。

特に大所が動いている感じではなく、買いはジョビングだと思いますが・・・」

「分かった。
50本、売ってくれるか?」

‘ここで売って、12円台前半のロングを手仕舞っておこう’

「アベレージ65(13円65銭)で売れました」

「じゃ、63で良い。
2銭は今夜のお前の飲み代だ」

「随分と大きな飲み代ですね。
部の全員を連れて行ってもたっぷりお釣りがきますね」

「そりゃそうだ」
二人の笑い声が共鳴した。

「ところで、ご家族は元気か?

はい、こっちで迎えるクリスマスも今年が最後ですから、家内も子供も随分と豪勢なオーナメントを飾りつけたりして楽しんでる様です」

「そうか、それは良かった。

まあ残りの数カ月、フロリダへ行くなり、バハマへ行くなり、楽しんでこい。

それじゃ、どうもありがとう」

これで、ポジションは14円台前半の50本のショートだけになった。
‘何とかこれが根っこのポジションとなってもう少し活躍してくれれば良いが’

 翌水曜日のニューヨークの午後、FOMCは追加利上げを決定した。

利上げは予想通りだったが、ドットチャート(FOMCメンバーの政策金利見通し)に変化が見られなかったことでドル買いの目は消えた。

FOMC後の記者会見ではイエレン議長が物価に対して弱気な発言を行った。

朝方に発表された11月のCPIが総合・コア共に予想を下回った結果となった後のこの発言、市場がドル売りに傾かないはずはない。

翌日の木曜以降はドルの下値を試す展開となり、週末のロンドンの朝方に週安値となる12円03を付けた。

そんな折、ジュニアの前島が
「課長、MOFの吉住さんから電話が入ってます」と叫んでいる。

「忙しいから、折り返すと言ってくれ」
暫くしてもまだ、前島が電話を切らないでいる。

「どうした?」

前島が受話器をクリック*をした後、
「少し待つと言っていますが、どうしましょう?」
と言いながら、困った様子を見せる。

「分かった、俺が出る」
と言って受話器を取った。

「申し訳ありません。
場が動いているときに」
吉住の詫びる声がした。

「場を見てるのなら、少しは気を利かせろ。
そんなに急を要する話なのか?」
吉住はMOFの人間だが、大学の同好会の後輩である。
遠慮なしに厳しく言った。

「はい、いえ、まぁ・・・。
例の講師役の件で、坂本から直ぐに取りついでくれと命令されたもので」

「どう言うことだ?」

「引き受けてくれた礼を言いたいとのことです。
それで本当に申し訳ないのですが、先輩から坂本に電話を入れてくれませんか?」

「馬鹿かお前は!
礼を言いたいのなら、彼が俺に電話をしてくるのが道理じゃないか。
そんなに理不尽なのか、霞が関ってところは?」

「いえ、彼は特別の存在なんです。
間違いなく局長に上がり、その先に事務次官のポストも見えてる人物なんです」

「それが俺とどう関係するんだ。
兎も角、話があるなら、‘そっちから掛けてこい’と言っておけ。
それと電話はディーリング用でない番号にな」
有無を言わせず、受話器を置いた。

‘世の中、ふざけたヤツがいるもんだ。
今の話を聞いただけでも、岬の夫婦生活がどんなものだったのかが窺い知れる’

 場は時計の針が6時を回る頃になって落ち着いてきた。
吉住の電話で気分がザラつき、もはや場に入る気持ちも失せている。

「山下、Kiethへ行くか?」

「はい、5分待って下さい。
ちょっと、事務処理を済ませますから」

「分かった」
と言いながら、窓際に向かって歩き出した。
眼下に目をやると、日比谷通りを南北に車のヘッドライトが行き交う。
いつもと変わらないはずの光景だが、師走のせいだろうか、車が多い様に感じられる。

そんな光景を見ながら数分が経った頃、
「課長、MOFの坂本さんからお電話です」
と山下の声が耳に入ってきた。

‘捉まってしまった様だな’
仕方なしにデスクに戻り、電話に出た。
「仙崎です。
いつも国際金融局にはお世話になっております」
社交辞令から切り出した。

「初めまして、財務省主計局の坂本です。
先刻は吉住の表現が拙かった様で、私の意が届かずに残念でした」
明らかにこっちから電話をしなかったことに対する不満がその声に滲む。

「残念とは?」

「いや深い意味はないのですが、普通はあれで電話が頂けるのかと・・・」

「はぁ、そうですか」
‘財務省が常に上に位置し、そして中でも自分が常に上にいる’そんな感じの話しぶりである。

「まぁそれはそれとして、この度は講師役をお引き受け下さり、ありがとうございました。

仙崎さんのことは為替の世界では有数の人材とお聞きしています。
国際金融局の連中も皆、あなたのファンです。

そんな仙崎さんのお話しを聞くのを楽しみにしていますよ」
そこまで話すと、急に声のトーンを落とし、

「そう言えば、家内もあなたの出演していたニューヨークのTV番組をしばしば見ていました。
IBT勤務時代に家内もあなたのファンだったのでしょうかね」
と尋ねる様に言う。

‘もうそれ以上の当りを付けているくせに、白々しいやつだ’

「もしそうであれば、光栄ですね」
こっちもしらばっくれて返した。

そんな時、
「課長、ロンドンからお電話です」
と、電話の相手にも聞こえる様に山下がわざと大声を張り上げた。

「お忙しそうですね。
お邪魔してしまった様だ。
それじゃ、勉強会は1月の中旬を予定しているので、宜しく頼みますよ」
と言って電話を切った。

「山下、フェイクコールありがとう。
待たせて悪かったな。
さ、行くか」

 ‘Kieth’は2件目に使う店だ。
7時過ぎでもそこそこ席が空いていて、いつものテーブル席を確保できた。

椅子に座ると、山下は「ビール、チーズの盛り合わせ、それからサンドイッチ」とマスターに注文を入れた。

それに「BGMは‘Coltrane’の‘Say it(over and over again)’の入ったアルバムをお願いします」と頼んでいる。

もうすっかり常連気取りだ。

「お前、いつからジャズを?」

「ニューヨークへ行く前に少しジャズの勉強でもと思って・・・。
柄にもなく、休みの日に近所のジャズ好きの店主が営むコーヒー店に出向いています」
頭を掻きながら、照れて言う。

「それは良い。
大分ニューヨークのジャズクラブも閉店に追い込まれてる様だけど、まだ良い店が残っている。
奥さんも連れて行ってあげるといい。

ところで、さっきは助かったよ。
彼が俺と岬のことをどこまで知っているのか知らないが、結構思わせぶりの口調だった。

恐らく岬は何かの拍子に俺のことを口走ってしまった様な気がする。
勉強会の前に彼女に再確認しておく必要がありそうだな」

「そうですか。
やっかいな話ですね」

「まあ、乗りかかった船だ。
売られた喧嘩だしな」

ビールとサンドイッチで腹が膨れた様子の山下が
「もう、クリスマスですね。
相場が動くのも年内は来週一杯でしょうか?」
と聞いてきた。

「あっちの税制改革も決定だろうし、それでどこまでドルが買われるかだな。
もっとも、欧米は実質的にクリスマス休暇に入るから、必ずポジション調整に出てくる。
シカゴの円売り越し高はまだ結構残っているから、手仕舞ってくる可能性もあるので注意しとくと良い。
俺は6日に付けた11円99が抜ければ、10円台もあると見てるけど。
まあ、仕事の話は止めにして飲もう」

’Joachim Kuhn’の‘Sometime Ago’が店内に切なく流れ出した。
泣かせるメロディーである。

(つづく)


*円:ディーラー間では、‘円’と言ったら‘ドル円’のことを指す。
もちろん、ドル円と言っても問題はない。

*クリック:電話相手にこっちの話を聞かれない様に、ミュートにすること。
但し、介入の際、MOFは銀行が電話をクリックすることを嫌う。

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第27回 「MOFからの確認」

先週末に米上院で税制改革法案が可決されたことを受けて、週明け(4日)のドル円は先週末より高値水準となる112円後半で寄り付いたが、その後は概ね同レベルで保ち合う展開となった。

朝方の売買が一巡した10時過ぎ、凝り固まった背中を伸ばすため、ディーリング・チェアを目一杯後ろに倒し、深く息を吸い込んだ。

そのままの状態で暫く目を瞑っていると,
「課長、MOF(財務省)から電話です」という山下の声がした。

MOFの誰からの電話か訝りながら、チェアを元の位置に戻して受話器を手にした。

「はい、仙崎ですが」

「竹中です」
国際金融局長である。

「あっ、局長、お久しぶりです。
お変わりございませんか?」
‘局長’と聞いて、山下が困惑の表情を浮かべている。
もう少し丁寧な応対をしておけば良かったと思っている様だ。
そんな部下を気遣って、右の親指を立てて見せた。

「ありがとう、元気だ。
君も元気そうで何よりだ。
あっちでの活躍はうちの連中からも聞いてるよ」

「昔、竹中さんに揉まれたお陰で少しは成長したのかも知れません」
まだジュニア・ディーラーだった頃、竹中は実務で陣頭指揮を執っていた。
厳しい一面を持つが、たまにプライベートでも労ってくれる人物である。

「ところで例の件だが、東城さんから君が承諾してくれたことを聞いたよ。
本当に良いのか?」
念を押すように言う。

「ええ、お引き受け致します。
竹中さんの依頼とあってはお断りできませんからね」
笑って返した。

「助かるよ。
省内には省内なりの事情があってな、申し訳ない」
銀行には銀行の、そして霞が関には霞が関の事情がある。
竹中の詫びの言葉にそんな裏事情が滲む。

「私の方は問題ありませんから、大丈夫ですよ。
日時など詳細が決まり次第、連絡をお待ちしています」

「ああ、近い中に吉住に連絡させる。
仕事の邪魔をしちゃ悪いから、もう切るよ。
それじゃ、宜しく頼む」

「はい、失礼します」
相手が電話を切るのを確認してから、受話器を置いた。

ドル円は夕方近くになり、13円台を覗き始めるが、積極的に買い上げる気配は感じられない。

海外でも一時13円09まで付けたが、週末に米雇用統計の発表を控えているだけにポジションを傾けたくないという市場心理が働いているのだ。

 5日(火曜日)もドル円は12円台半ばを中心としただらけた展開に終わった。

相場に変化が現れたのは6日のことである。

‘エルサレムをイスラエルの首都として認めるトランプの方針’が報じられると、日経平均が500円超も下落し、それに連れてドル円もオファーになった。
そして欧州市場が厚みをました4時過ぎ、ドル円は束の間12円を割り込んだ。

「課長、ここはどうしますか?」
山下が聞く。

「ポジション(ドルロング)の投げもあっての下落だ。
少しロンドンの様子を見よう。
今日は少し頑張るが、お前も付き合ってくれるか?」

「もちろんです」
11月に14円73を付けて以降、ドルのショート回転で儲けた山下の声は明るい。

それから数時間、二人はポジションをとる機会を待ったが、良い時間帯は訪れなかった。
ドル円は12円前半での小動きに止まり、ユーロドルの戻りも鈍い。
既に時計の針は午後9時を回ろうとしている。

「動かないな。
何かやって引き上げるとするか?」
山下にポジションを取る様に促した。

「そうですね。
ドル円は一旦、買いだと思いますが・・・?」

「11月の高値14円73からの落としが少し浅かった気がする。
まだドルが上に行きたがってるのかもな。

今日のロングの投げでイベント前(米雇用統計)のポジション調整もほぼ終わった様だし、
お前の言う様に買ってみるか。

50本頼む」

山下がキーボードを叩き出した。
ロンドンとのディールである。

「21(112円21銭)で40本、22で30本、ダンしました」
人気の途絶え始めたディーリング・ルームに山下の声が響き渡った。

「了解」

「僕はストップと利食いのオーダーを出しますが、了さんはどうします?」
こんなとき、山下は課長とは呼ばない。
もう一仕事を終えて、寛ぎのゾーンに入っているのだ。

「俺はまだ14円台のショートをキャリーしてるから、リーブは要らない。
この先の展開を見て処理は考えるよ。
お前のリーブは12円80の利食いと11円80の損切りか?」

「はい、そうですが。
どうして分かるんですか?」

「飯を食うのと同じで、お前はポジションの手仕舞いも早いからな」
先刻まで二・三人残っていた部屋にはもう誰もいない。
大声で笑いながら、山下をからかった。

山下も「利食ってなんぼですからね」と応戦するが、
直ぐに「僕も了さんみたいに、性根の座ったディールをしたいと思ってるんですが・・・」
と照れながら本音を漏らした。

そんな彼を労う様に
「腹が減ったな。
何処かで旨いものでも食って帰るか」
と誘う。

「そうこなくっちゃ。
今日は新丸ビルの‘こなから’にしますね」
勝手に行先まで決めてる。
‘この調子なら、ニューヨークでも無事に仕事を熟してくれるだろう’

 金曜日の11月米雇用統計は、概ね雇用が健全であることが確認される結果となった。
ドル円は週高値の13円58を付けた後、13円48銭で引けた。
市場は結果をある程度好感した格好である。

土曜日の午後10時、ウィスキーグラスに半分程ラフロイグを注ぎ、PCと向き合った。
国際金融新聞の木村に来週のドル円相場予測のメールを書くためである。

木村様

来週のドル円予測をお送りします。

多少ドルがビッドになると踏んでいますが、114円台では上値が重たいと考えています。

もっとも、市場が115円は鉄壁と思い込み始めている点には要注意かと。

こうした水準はあっさり抜けることが時折りあるからです。

とは言え、この局面で11月の高値14円73銭を抜けなければ、反落も大きそうで、積極的にドルを買う人間は少ないと考えています。

自分自身のポジションは14円台前半のショートと12円前半のロングですが、双方同金額で抱合せればスクエアです。

ただ、できれば14円台のショートがこの先も維持できればと考えています。

予測レンジ:110円85銭~114円40銭

行間の埋め草はいつも通り宜しくお願いします。

●ご参考まで
12月のFOMCでの利上げはほぼ確実ですが、ドットチャートでメンバーが中立金利(長期のFFレート水準)をどの様に置いてくるのかが気に懸ります。

今回の中立金利は2.75%のまま据え置かれると思いますが、将来の法人税減税の影響を考慮すれば、引上げられる可能性も多少あるかと。

もっとも、イールドカーブのフラットニングが進んでいるため、中立金利を引き上げることには矛盾があります。

市場が先々の景気を良好と読めば、長期金利が上昇し、その矛盾は解消されるのですが。

ちなみに、レパトリ減税については以下の様に考えています。

現時点で実施時期、「時限立法となるか恒久減税か」が不透明です。

通常、12月は日本在籍の現地法人等の本国への利益送金の円売りが出やすいとされ、ドル円ではドル高円安に振れる傾向があります。

しかしながら、レパトリ減税の実施時期や期間を見極めたいと考えている米企業の現法が、利益・配当の送金を先送りする可能性があります。

確かに米税制法案への見通しが明るくなったことで、軟調だったドル円相場が少しビッド気味ですが、この点では例年よりもドルの需給が緩いかもしれません。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了
 
 
この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第26回 「承諾」

 週初(28日)は、米10年債の利回り低下や北朝鮮絡みの報道でドル売りが加速し、ドル円は11円を割り込んで10円85まで下落した。

だが、このレベルでのドルは底堅い。

翌日(29日)も、「北朝鮮のミサイル発射準備」報道を背景に再び11円を割り込んだが、10円94で止まった。

どうも突っ込む感じがない。

山下をはじめ、他の連中もドル円をショートに構えているのが気になり、
「山下、お前を含めてショートは何本だ?」と聞いてみた。

「ざっと、80本でしょうか」
自分の分も含めて180本になる。

‘全員がショートに楽観的になっている。

北のミサイル発射準備にも反応が薄くなっていることを考えると、実射後のショートカットは予想外に大きいかもしれない’

「皆、聞いてくれ。
今持っているショートはここで手仕舞うか、50(11円50)では必ずストップを入れておいてくれ」
とインターバンク全員に命令した。

全員同時に「はい」と言いながら、EBS(電子ブルーキングシステム)のキーを叩き始めた。

「課長、もう下がりませんかね?」
山下が聞いてくる。

「まだ、相場感を変えた訳じゃないけど、今日の下押しで昨日の85(10円85)を下回っていないのが気になる。

念のため50本は利食うが、残り50本はコストが良いのでキープしておくことにする。

国際金融新聞に書いた通り、戻りは12円80までだと思う」

「そうですか。

僕は先週から売っては買いの繰り返しで上手く回転が効いています。

今ショート20本ですが、課長の指示通り、50ストップで様子を見たいのですが・・・」

「そこそこ儲けている様だから、まあ納得の行くまで頑張ってみる方が良い。

悪いが今、シンガポールで適当に50本買っておいてくれ。

少し席を外すから、後を頼む」
と言い残して、ディーリングに近い応接室に向かった。

早朝に国際金融の木村から‘場が落ち着いたら電話をくれ’とのメールがあった。
財務省絡みの件である。

 
 
 応接室に入るとスマホを取り出し、木村に電話を掛けた。

 「木村さん、早速お調べ頂きありがとうございます。
分かりましたか?」
挨拶もせずに尋ねた。

「東大法学部で予算策定研究会に所属していた43歳前後の人物は、確かに財務省にいますね。

二人です。

一人は理財局国債管理課の楢崎で44歳、もう一人は主計局特別税制課の坂本で43歳。

数多くの局長や数名の事務次官がその研究会から出ています。

財務官僚や企業のトップを目指す東大生に人気のある研究会みたいですね。

何か訳ありの様ですが、研究会の出身者は結束力が強いので、気を付けて下さい」

「気を付けます。

ありがとうございました」

「週末の予測のお礼ということで。
ところでドル円、週末までどんな感じですか?」

「北のミサイル発射については市場が慣れてきた感じがありますね。

この場合、織り込み済みという表現は当らないのでしょうが、多分実射でドル売りになっても、下値は限定的だと思います。

10円台での下押しは、目先は休みでしょうか。

ショートカバーが入ると、先週お送りした予測レンジの上限程度までの反発はあると思います」

「ということは、12円80ですね。

ウェブ刊と夕刊に書かせて頂いて良いですか」

「はい、お任せします。
それではまた」

 
 
 これで田村と岬の夫・坂本とが繋がった。

‘坂本が何を企んでいるのか分からないが、何かを仕掛けている。
ここは、受けて立つしかないな’

応接室を出ると、席には戻らず、そのまま東城の執務室に向かった。

ドアをノックしながら「仙崎ですが、今お時間宜しいでしょうか?」
と尋ねた。

「おう、入れ」
ドア越しにいつもの落ち着いた声が響く。

「失礼します」

「まあ、座れ」
と言いながら、ソファーを指差す。

「場はどうだ?」

「下は取り敢えず、これ以上難しそうです。
一旦、13円手前までプルバックするかもしれませんね」

「そうか。
ところで用件は?」

「財務省の講師役の件ですが、お引き受けします」

「ほう、良いのか?」
と東城が顔に驚きの表情を浮かべながら言う。

「はい、どうやら喧嘩を売られた様ですね。

ここは受けて立つしかありません」
きっぱり言い切った。

「その喧嘩、剣先(けんせん)を下げて戦えないのか?」

「そうですね。

出小手*を狙える程度の軟な相手なら良いのですが、多分それを見越して鋭い面を打って来る人物と判断します」

互いに高校時代まで剣道部に所属していたので、‘剣先を下げる’ことの意味を心得ている。

‘田村が最近、自分のことを詮索していること’や
‘その背景に岬の夫・坂本が存在していること’を打ち明けると、東城が納得した様に頷いた。

「分かった。

お前がそう言うなら、国際金融局長の竹中さんに連絡しておく。

しかし、岬君の夫の目的が良く分からんな」

「そうですね。

多少分かってはきたのですが、その辺りは酒の席での話でしょうか」

「夜の誘いか?」
笑いながら言う。

「はい、見抜かれましたか。
お電話、お待ちしてます」
と言い残してその場を辞した。

 
 

 その日のニューヨークで「北朝鮮の弾道ミサイル発射」の報が伝わると、ドル円は報道前の11円半ばから11円06まで下落したが、それ以上の売りは見られない。

その後、米上院予算委員会で税制改革法案可決のニュースを切っ掛けにドル円は12円台後半へと駆け上がった。

 
 
 金曜日(12月1日)の晩、山下を連れだって青山のジャズ・バー‘Kieth’へと出向いた。

店に着くなり、山下が勝手にビールとサンドイッチの注文を入れた。
まるで自分が古くからの馴染客の様に振る舞っているのが彼らしい。

「引っ越しの準備、少しは進んでるのか?」
グラスにビールを注いであげながら、来年3月にニューヨークへの転勤を控えた部下を気遣った。

「年が明けたら始めようと思っています。

この時期、もうあっちは寒いんでしょうか?」

「まだそうでもないが、年が明けると結構寒くなる。

呼吸器系に気を付けた方が良い。

空気が異常に冷たい時がある」

「ありがとうございます。

ところで、財務省の勉強会講師役、引き受けたそうですが・・・」

「ああ、どうにもこうにもあっちが引き下がらない。

岬の元の恋人が俺であることに確信を持ち、そして二人は既に関係していると敵は思っている。

だから、どこかで一戦を交えたいのだろう」

「難しい問題ですね。

いっそ、関係を持ってしまったらどうですか」
からかい半分に山下が言う。

その頭を小突きながら、
「馬鹿かお前は」と返した。

‘それもそうだな’

皮肉にもKieth がカバーした’Never Let me go’が流れる。
‘岬からの言葉なのかもしれない’

 
 
 土曜日の晩、国際金融新聞の木村へメールを入れた。

木村様

 先日はありがとうございました。

来週のドル円相場予測をお送りします。

週末は先週の予測レンジの上限(112円80)までドルが反発しましたが、ここからの伸び代は薄いと予測します。

来週は与件が多いので少し荒っぽい展開かと。

つまり、短期のポジション・メイクと投げが横行するといった感じでしょうか。

予測レンジ:110円50銭~113円90銭

まだベアなので、予測レンジは下に深く構えています。

埋め草はいつも通りお任せ致します。

IBT国際金融本部外国為替課長:仙崎了

(つづく)


*出小手:竹刀の剣先を下げると、相手が面を打ちやすくなる。
その誘いで相手が面を狙ってくる様であれば、小手を打つ。その動作を出小手と言う。

 
 
この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。