第二巻 第4回 「ヘンリー・ハドソンの悲劇」

ブレグジットを巡って「英国とEUとが現実的な合意に至る」との見方が強まる中、ポンドとユーロが対円で買われ、その結果ドル円が強含み出したのである。

どことなく新興国に対する懸念も薄らぎ、前週までのリスク回避の円買いムードは市場から消えたかの様である。

ニューヨーク支店が客のオーダー処理をミスしたことで、期せずして取ったドルショートも
全て手仕舞った。

110円割れの可能性もあった先週時点から場の雰囲気が一変しているのだ。
そんな市場の機微が感じ取れる。

‘これでもう、下期に入るまでポジションを取るのは止めておくか。

上手く相場に乗っている時は徹底的にポジションを取るべきだが、今はただ、余裕のある時に過ぎない。

こんな時は、得てしてポジション管理が甘くなる。

だから、場に入らない方が良い‘

「もうインターバンクもコーポレートも、バジェット(収益目標)は完全にクリアしている。

そろそろ上期の収益を固めることにする。

これからは当分、客のカバーに徹するから、そのつもりでいてくれ」

ドル円が111円台後半を覗きだした火曜日(11日)の午後、沖田に告げた。

「了解しました」

「お互い、少しのんびりしよう。

でも、お前のことだ。
多少でもポジションを持っていたいだろうから、それはお前に任せる。

但し、収益が増える分には問題ないが、マイナスは片手(5000万)までにしておいてくれ。

それと、例のテレビ番組の方もお前に任せっぱなしだが、大丈夫か?」

沖田が右手の親指を立てて、ニコリと笑う。
ディーリング・ルームでは見たことのない笑みを浮かべた。

’仕事もでき、真面目だが、そっちに関しては普通の男だな’

「美人の中尾さんに会えるのが楽しみですし・・・」

「おいおい、気を付けろよ。

俺と違って、お前は妻子持ちだぞ。

‘投資の最終判断は自己責任で’だけどな」
二人の笑いがデスク中に広がった。
笑いの意味も知らない他の部下達が、怪訝そうにこっちを見た。

その日の晩、ラフロイグを飲みながら寛いでいるところに、固定電話が鳴った。
11時直前、もう直ぐNHKのMLBサマリーが始まる時間だ。
画面だけは追いたくて、テレビの音をミュートし、固定電話の子機を手にした。

電話の向こうは山下だった。

「課長、ジムに拙いことが・・・」
言葉を続けられないほど慌てている。

「落ち着け!
ジムがどうした?」
山下の息を吸い込む様子が伝わってくる。

「はい。

ジムが今朝、元気そうな顔でオフィスに現れ、いつも通り業務に就きました。

ところが、暫くすると様子が変だったので、隣を見ると一件のメールを食い入る様に読んでいました。

読んでいる間中、‘fuck’とか‘shit’とか、ダーティーワードの連発です。

その後、メールを何処かに転送し終えると、急に椅子から立ち上がり、横尾さんのデスクの前に行き、一言二言発した後、横尾さんの左顔面に右ストレートを一発。

ざっと、そんなところです」

「それで?」

「ジムはデスクに戻ると、PCをオフにし、真っ赤な顔をして何処かに消えてしまいました。

横尾さんは今、応接室で横になっているところですが、恐らく今日はデスクに戻ることはないと思います」

「それで、ジムはお前に何も言わなかったのか?」

「‘もう、戻れない。
いままでありがとう‘とだけ」

「結構拙い話だな。

横尾からのメールを読んで、そんな行動に出たことは間違いないが、一体何が書かれていたんだ?

彼は冷静で、滅多なことで人を殴る様な男じゃない。
余程のことがメールに書かれていたに違いないな」

それで、携帯に電話は入れてみたのか?」

「はい、もう5回も入れたのですが、電源オフの様です」

「自宅へは?
奥さんが電話に出たのですが、戻っていないとのことでした」

「そうか・・・。
いずれにしても、コンタクトできるまで動きが取れないな。
彼と連絡が取れたら、必ず俺に電話を入れる様に伝えてくれ」

「了解しました」
どちらからともなく、電話を切った。

後味の悪い電話だった。

グラスに半分ほど残っていたラフロイグを一気に喉に流し込んだ。
喉が受け入れず、咽返った。

山下からジムの訃報が届いたのはそれから6時間後(12日早朝)のことだった。

朝のコーヒーを飲み終え、社宅を出ようとした矢先のことである。

「課長、ジムが亡くなったそうです。
少し前、彼の奥さんから電話があり、ヘンリー・ハドソン・パークウェイ*のガードレールに激突・・・。

ブレーキ痕もなく、大量のアルコールが検出された・・・。
つまり、自殺ということです。

課長、もうこれ以上の話は・・・」
山下の声が途絶えた。
涙で話が出来なくなった様だ。

ディーリング・ルームのデスクに着くなり、
「沖田、ジムが交通事故で亡くなった」
と言葉を発した。

「えっ、ジムってニューヨークのジムですか?」

「ああ、山下の話では、どうやら自殺らしい。
自殺だとすれば、原因は先週の曙生命のオーダー処理に関係している」

「でも、横尾さんの‘クビ’発言は物の弾みで出ただけですよね?」

「そうだ、周囲の皆もそう受け止めた。
そして本人もそう受け止めた。
その証拠に昨日、ジムは元気に支店に出勤してきたそうだ。

ところが、あるメールを見た途端、彼の態度が急変したらしい」
昨晩の山下の話を沖田に聞かせた。

沖田と話をしながら、オーバーナイトで送られたきたメールを一覧した。
海外から毎日30~40件のメールが送られてくる。

メールの取捨選択をしいていると、ニューヨーク支店からのメールの中に見慣れない@マーク前のアドレスを見つけた。
件名は「I.O.U.*」、そしてadobeが添付されている。

間違いなくジムからのメールだ。
あいつが支店のPCから最後に送ったメールに違いない。

メールの本文は簡単な内容だが、彼の俺への気持ちが込められていた。

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Ryo

いつもボスには借金ばかりしていたな。
プライベートでも、そしてディーリングでも。

曙の件でも、助けてくれたらしいね。
山下さんから聞いたよ。
ありがとう。

Ryoは最高のボスで友人だった。
貴方と巡り合えて良かった。
そして貴方とまた、仕事がしたかった。

Good Luck!
Thanks again

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沖田が俺を見ていたが、流れる涙を堪えようとはしなかった。

少し気持ちが落ち着いてきたところで、添付ファイルを開くと、そこには愕然とする内容が書かれていた。

横尾と清水の連名で書かれたジムへの解雇通知である。

読み進むうちに、握りしめる拳が震え出すのが自分でも分かった。

‘これが部下を持つ立場にある人物、そして組織の頂点に立つ人物が書くべき言葉なのだろうか’

メールに一言だけ添えて、東城に転送した。

数分後に「お前がそう思うのなら、それで良い。俺が責任を持つ」とのメールが返ってきた。

‘あの人らしいな’

週末(14日)、ドル円はクロス円の買いに背中を押されながら、112円17銭へと跳ねた。

ブレグジットや新興国に対する懸念が薄らぐ中、「リスク回避的な円買いの巻き戻しで円売りが加速している」とメディアも煽っている。

だが、もう相場のことはどうでも良くなっていた。

いつも土曜の晩に送っている国際金融新聞の木村への来週の予測も簡単に済ませた。

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木村様

友人が急逝しました。

心中、穏やかならぬものがあり、簡単な予測とさせてください。

ドル円は少しビッド気配ですが、112円台ではドルの上値が徐々に重くなるかと思います。

予測レンジ:110円50銭~113円。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

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送信し終えると、ソファーテーブルに置いてあるラフロイグのボトルを手に取り、琥珀色の液体をショットグラスに注いだ。

こんな日のBGMは’Late Lament’ 以外にない。
それも、この作品を生み出したPaul Desmond のサックス演奏ではなく、Keith のピアノ演奏に限る。

’Late Lament’が組み込まれたアルバム「枯葉」のDISC2をBOSEのWave Music Systemに押し込み、トラックを一つ送った。

‘ジム、何もしてあげられなくて悪かったな。

墓参りは遅くなる。

今はこの曲で許してくれ’

Lament、どの国の言葉にも負けないほど、今の心境に合う響きだ。
そしてこのメロディーも。

目を瞑ると、アイツが‘Two thumbs ’を青空にupした姿が浮かんできた。

支店のソフトボール大会で、彼が逆転ホームランで勝利を決め、ホームに戻ってくる時の姿だ。

‘お前の好きなヤンキースの今年の地区優勝はもうだめだけど、もしかしたらワイルドカードを勝ち上がり、リーグ優勝、そしてワールドチャンピオンもあるかもな’

涙が頬を止めどなく伝い落ちた。

(つづく)

*ヘンリー・ハドソン・パークウェイ
ハドソン川沿いを南北に走るパークウェイ(乗用車専用道路)

*I.O.U.
I owe you

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。