第19回 「一件落着」

週初の9日、日米が休日のなか、北朝鮮・朝鮮労働党創設記念日を翌日に控えていることもあって、どの通貨ペアも小動きに終始した。

ドル円も112円台で動意に欠ける展開だったが、どことなく上値に重たさが感じられる気配だ。

そんな日の早朝、コネティカット社のオーエンから浅沼に電話が入った。

「ドルを売りたいそうで、課長の意見を聞いてくれとのことです。
先週、損失の半分を取り戻したせいで、少し調子づいているのかも知れませんね。
どうしましょうか?」
浅沼が困った様に言う。

「多分、お前の言う通りだ。
相場は簡単だと思わせてしまうと、上司である彼自身がスペック(投機)にのめり込んでしまう可能性があるな。
そうなれば、また含み損を抱えかねない。
あまり俺もこの件だけに関わっているわけにもいかないし、
そろそろで決着を付けるか」

「申し訳ありません。
こっちの件で課長の足を引っ張ってしまって・・・」
やや俯き加減に浅沼が言う。

「いや、そんなことはどうでも良い。
とりあえず、彼に‘俺が何故、先週ドルロングのポジションをとらせたのか分かるか’と聞いてくれないか。
そして‘その答え次第で、ドルショートを取らせると言うのが俺の申し送りだ’と伝えてくれ」

「なるほど、‘コネティカット社東京の本来の為替エクスポージャー(晒されているリスク)が何なのかを考えてみろ’ってことですね。
了解です。
僕は課長の様に流暢に英語が喋れませんから、上手く言えるかどうか分かりませんが、やってみます」

「お前は将来また、海外に出たいんだろ?
英語でやりとりが出来なくてどうする。
大丈夫だ、頑張ってこい」
浅沼は20代の頃、トレイニーとしてロンドン支店で1年間勤めている。
この程度の英語なら喋れるはずだ。

自席に戻った浅沼が電話を掛けるのを見届けて、スクリーンに目を戻した。
ドル円は12円70(112円70銭)前後の小動きだが、どうやら13円に届く気配はない。

コーポレート・デスクの方から浅沼が英語で話しているのが聞こえた。
少したどたどしいが、正確に喋っている。
‘問題ないな’

 30分ほど経った頃、浅沼がオーエンの答えを持ってきた。

「‘彼等の実需のエクスポージャーがドルショートであり、ドルロングのポジションであれば、たとえhead wind(アゲインスト)になっても、それを本店向けの決済に当てられる’というのが彼の答えでした。
どうやら、ドルロングを彼に持たせた課長の真意を理解した様ですね」

「そうらしいな。
それを理解しているなら、ここは売らせても良いか。
但し、損失を全部回収したら、‘スペックにはもう手を出さないことが条件だ’と言ってくれ。
40本売って、60銭抜ければ、先週の利益と合わせて損失はほぼ回収できるな。
今70~72か。
よし、オーエンに電話して、俺が‘ドルの上値は重いと言ってる’と伝えてくれ」

「了解です」

数分後、ディーリング・ルームに浅沼の声が響いた。
「円(ドル円)、50本」
その右手人差し指は下*を向いている。
オーエンがドル50本売ってきたのだ。

それを見て、自分もドルを売ることにした。
自分で暗にドル売りを薦めた以上売らないわけにはいかない。
「山下、50本売ってくれ」

「71です」

「了解。ストップを45(113円45銭)で頼む。
利食いは入れなくて良い」

数分後、浅沼が‘オーエンが利食いのリーブ・オーダーを20(112円20銭)で20本、10(112円10銭)で30本、置いてきた’と伝えてきた。

その日の海外でドル円は111円99銭を付けた。
‘これでやっと、コネティカットの件も決着が付いたな’

 週後半のドルは112円半ばまで戻すのが精一杯となり、111円台は間違いない状況になっていた。

年初来安値の107円32銭を付けた後、ドルは112円台まで順調に上昇してきたが、その後は時間の割に伸びに欠ける展開が続いている。

上値遊びが長過ぎるのだ。
こうした状況は調整局面を迎えるか、一相場の終わりを示す兆候である。

そんなことを考えていた週末の夕方、山下が
「スポットが転換線を下回りだしてから一週間です。
どうやら、あのポジションが根っこになる可能性が高いですね。
僕も課長に乗っかって、同じ水準で20本ショートしてみました」

「それは良かった。
まだ利食ってないのか?」

「はい」

「じゃ、’Don’t count your chickens before they are hatched.’ ってところか」

「何ですか、それ」

「捕らぬタヌキの何とやらって感じかな。
ところで、今夜何処か行くか?」

「はい、少し寒くなってきたので、おでんで熱燗はどうでしょう?」

「それは良い。
浅沼も誘っておいてくれ。
ここのところ、あいつもコネティカットの件で疲れているはずだ」

 山下の選択した店は湯島にある‘こなから’だった。
金曜の夜の予約は難しいと言われる店だが、運良く空いていたという。
新丸ビル店などの支店もあるが、‘本店の味がどことなく良い’というのが彼の評価である。

「浅沼、ご苦労様。
これでオーエンも、晴れて本社の役員に成れるってことか」

「今回の件ではお世話になりました。
彼も相当に課長には感謝している様です。
お蔭様で、あそこの為替は全部うちにくれることになりました」

「そうか。
それは何よりだ。
サイドも分かる玉だからインターバンクにとっても楽なフローだな、山下」

「はい・・・。
何の話でしょうか?
ちょっとおでんの選択に気を取られ、聞き逃してしまいました。
すみません」

「本当に食い意地が張ってるな、お前ってヤツは。
また腹が少し出てきてないか」

それを聞いた浅沼が大きな声を上げて笑うと、客が一斉にこっちを振り向いた。

‘和やかな夜だ’

 楽しいひと時を過ごした後、タクシーを拾うと、‘銀座へ’と告げた。
目的はカウンター・バーの‘やま河’である。

「今夜はお一人?」

「ええ、今まで山下等と飲んでいたところです。
最後は一人で過ごしたくて、ここに来ました。
いつものヤツをお願いします。
それと、先日僕が持ってきたビージー・アデー(Beegie Adair)のCDを他のお客さんに迷惑にならない音量でかけてくれますか?」

「はい、了解」

ラフロイグ、チェイサー、ドライド・フィグ(干しイチジク)がカウンターに並ぶと、
Beegie Adairの女性らしいピアノの音色が丁度良い音量で流れ出した。
‘Love me tender’、’Smile’と続く。

近くの客が、
「良いメロディーだね。何ていうアルバム?」
とママに聞いている。

至福の時が流れ出した。

‘来週もまだ、ドルが下がりそうだな。
頑張るか’

 (つづく)


*手振りで売買を示す場合、yours(ここではドル売り)では人差し指を下に、mine(同ドル買い)では人差し指を上に向ける。
また、yoursでは手の平を相手(ここではインターバンク)に向けて倒し、mineでは自分の方に向けて引く様な仕草をすることもある。

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。