第26回 「承諾」

 週初(28日)は、米10年債の利回り低下や北朝鮮絡みの報道でドル売りが加速し、ドル円は11円を割り込んで10円85まで下落した。

だが、このレベルでのドルは底堅い。

翌日(29日)も、「北朝鮮のミサイル発射準備」報道を背景に再び11円を割り込んだが、10円94で止まった。

どうも突っ込む感じがない。

山下をはじめ、他の連中もドル円をショートに構えているのが気になり、
「山下、お前を含めてショートは何本だ?」と聞いてみた。

「ざっと、80本でしょうか」
自分の分も含めて180本になる。

‘全員がショートに楽観的になっている。

北のミサイル発射準備にも反応が薄くなっていることを考えると、実射後のショートカットは予想外に大きいかもしれない’

「皆、聞いてくれ。
今持っているショートはここで手仕舞うか、50(11円50)では必ずストップを入れておいてくれ」
とインターバンク全員に命令した。

全員同時に「はい」と言いながら、EBS(電子ブルーキングシステム)のキーを叩き始めた。

「課長、もう下がりませんかね?」
山下が聞いてくる。

「まだ、相場感を変えた訳じゃないけど、今日の下押しで昨日の85(10円85)を下回っていないのが気になる。

念のため50本は利食うが、残り50本はコストが良いのでキープしておくことにする。

国際金融新聞に書いた通り、戻りは12円80までだと思う」

「そうですか。

僕は先週から売っては買いの繰り返しで上手く回転が効いています。

今ショート20本ですが、課長の指示通り、50ストップで様子を見たいのですが・・・」

「そこそこ儲けている様だから、まあ納得の行くまで頑張ってみる方が良い。

悪いが今、シンガポールで適当に50本買っておいてくれ。

少し席を外すから、後を頼む」
と言い残して、ディーリングに近い応接室に向かった。

早朝に国際金融の木村から‘場が落ち着いたら電話をくれ’とのメールがあった。
財務省絡みの件である。

 
 
 応接室に入るとスマホを取り出し、木村に電話を掛けた。

 「木村さん、早速お調べ頂きありがとうございます。
分かりましたか?」
挨拶もせずに尋ねた。

「東大法学部で予算策定研究会に所属していた43歳前後の人物は、確かに財務省にいますね。

二人です。

一人は理財局国債管理課の楢崎で44歳、もう一人は主計局特別税制課の坂本で43歳。

数多くの局長や数名の事務次官がその研究会から出ています。

財務官僚や企業のトップを目指す東大生に人気のある研究会みたいですね。

何か訳ありの様ですが、研究会の出身者は結束力が強いので、気を付けて下さい」

「気を付けます。

ありがとうございました」

「週末の予測のお礼ということで。
ところでドル円、週末までどんな感じですか?」

「北のミサイル発射については市場が慣れてきた感じがありますね。

この場合、織り込み済みという表現は当らないのでしょうが、多分実射でドル売りになっても、下値は限定的だと思います。

10円台での下押しは、目先は休みでしょうか。

ショートカバーが入ると、先週お送りした予測レンジの上限程度までの反発はあると思います」

「ということは、12円80ですね。

ウェブ刊と夕刊に書かせて頂いて良いですか」

「はい、お任せします。
それではまた」

 
 
 これで田村と岬の夫・坂本とが繋がった。

‘坂本が何を企んでいるのか分からないが、何かを仕掛けている。
ここは、受けて立つしかないな’

応接室を出ると、席には戻らず、そのまま東城の執務室に向かった。

ドアをノックしながら「仙崎ですが、今お時間宜しいでしょうか?」
と尋ねた。

「おう、入れ」
ドア越しにいつもの落ち着いた声が響く。

「失礼します」

「まあ、座れ」
と言いながら、ソファーを指差す。

「場はどうだ?」

「下は取り敢えず、これ以上難しそうです。
一旦、13円手前までプルバックするかもしれませんね」

「そうか。
ところで用件は?」

「財務省の講師役の件ですが、お引き受けします」

「ほう、良いのか?」
と東城が顔に驚きの表情を浮かべながら言う。

「はい、どうやら喧嘩を売られた様ですね。

ここは受けて立つしかありません」
きっぱり言い切った。

「その喧嘩、剣先(けんせん)を下げて戦えないのか?」

「そうですね。

出小手*を狙える程度の軟な相手なら良いのですが、多分それを見越して鋭い面を打って来る人物と判断します」

互いに高校時代まで剣道部に所属していたので、‘剣先を下げる’ことの意味を心得ている。

‘田村が最近、自分のことを詮索していること’や
‘その背景に岬の夫・坂本が存在していること’を打ち明けると、東城が納得した様に頷いた。

「分かった。

お前がそう言うなら、国際金融局長の竹中さんに連絡しておく。

しかし、岬君の夫の目的が良く分からんな」

「そうですね。

多少分かってはきたのですが、その辺りは酒の席での話でしょうか」

「夜の誘いか?」
笑いながら言う。

「はい、見抜かれましたか。
お電話、お待ちしてます」
と言い残してその場を辞した。

 
 

 その日のニューヨークで「北朝鮮の弾道ミサイル発射」の報が伝わると、ドル円は報道前の11円半ばから11円06まで下落したが、それ以上の売りは見られない。

その後、米上院予算委員会で税制改革法案可決のニュースを切っ掛けにドル円は12円台後半へと駆け上がった。

 
 
 金曜日(12月1日)の晩、山下を連れだって青山のジャズ・バー‘Kieth’へと出向いた。

店に着くなり、山下が勝手にビールとサンドイッチの注文を入れた。
まるで自分が古くからの馴染客の様に振る舞っているのが彼らしい。

「引っ越しの準備、少しは進んでるのか?」
グラスにビールを注いであげながら、来年3月にニューヨークへの転勤を控えた部下を気遣った。

「年が明けたら始めようと思っています。

この時期、もうあっちは寒いんでしょうか?」

「まだそうでもないが、年が明けると結構寒くなる。

呼吸器系に気を付けた方が良い。

空気が異常に冷たい時がある」

「ありがとうございます。

ところで、財務省の勉強会講師役、引き受けたそうですが・・・」

「ああ、どうにもこうにもあっちが引き下がらない。

岬の元の恋人が俺であることに確信を持ち、そして二人は既に関係していると敵は思っている。

だから、どこかで一戦を交えたいのだろう」

「難しい問題ですね。

いっそ、関係を持ってしまったらどうですか」
からかい半分に山下が言う。

その頭を小突きながら、
「馬鹿かお前は」と返した。

‘それもそうだな’

皮肉にもKieth がカバーした’Never Let me go’が流れる。
‘岬からの言葉なのかもしれない’

 
 
 土曜日の晩、国際金融新聞の木村へメールを入れた。

木村様

 先日はありがとうございました。

来週のドル円相場予測をお送りします。

週末は先週の予測レンジの上限(112円80)までドルが反発しましたが、ここからの伸び代は薄いと予測します。

来週は与件が多いので少し荒っぽい展開かと。

つまり、短期のポジション・メイクと投げが横行するといった感じでしょうか。

予測レンジ:110円50銭~113円90銭

まだベアなので、予測レンジは下に深く構えています。

埋め草はいつも通りお任せ致します。

IBT国際金融本部外国為替課長:仙崎了

(つづく)


*出小手:竹刀の剣先を下げると、相手が面を打ちやすくなる。
その誘いで相手が面を狙ってくる様であれば、小手を打つ。その動作を出小手と言う。

 
 
この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。