第9回 「再会」

先週末に山下に今週の相場はどうかと聞かれ、「どこかでドルの下を試すと思う」と答えたが、週初(7月31日)から下値を試す展開となった。
だが、なかなか節目の10円(110円)を攻めきれない。行内からも月末絡みのドル買いが結構入ってきた。恐らく他行も同じ状況なのだろう。さらに投機筋の客も値頃感やにわかショートの利食いでドルを結構買ってきた。
翌日の東京でも10円を割り込めなかった。結局この二日間、イメージの湧かないまま、ジョッビングに徹する格好となってしまった。山下は「今週3本(3000万)稼ぐ」と豪語していただけに真剣そのもので、カバー・ディールをこなしながらも収益をこつこつと上げている様子である。俺はもう引き上げても問題なさそうな雰囲気だ。

「山下、みんな、明日から頼むな」と言い残し、帰ろうとすると、
「課長、例の約束は守ってくださいよ。僕は昨日・今日と、真剣にボードと向き合って、何とか半分稼ぎましたからね」と脅迫めいて言う。
「凄いな。それじゃいつも真剣にやれば、毎月大台(1億)だな。俺の肩の荷も大分軽くなるってわけだ」と笑いながらやり返した。
「まあ、頑張りますから、兎も角約束は約束ですからね。お気を付けて」
「了解」と言い残してディーリング・ルームを後にした。

その日の晩、宅配の寿司を肴にビールを飲みながらスクリーンに向かったが、暫くドル円は10円前半で凍り付いたままだった。ビールを三缶空け、そろそろラフロイグに切り換えようと思ったとき、ドルが急に下落し始め、10円を割り込んだ。だが、突っ込んでのドル売りは出ないまま、直ぐに10円台に逆戻りしてしまった。この展開は動けばやられる相場付きだ。明日はフライ・フィッシングや旅行の準備もある。拙いポジションを抱えて悩みたくない。何もしない決意を固めた。ただ、山に向かう前に先週作った12円(112円丁度)のショート50本の処理だけはしておきたい。ニューヨークの沖田に電話を入れた。夜中の12時である。

「今晩は」
沖田の明るい声が聞こえてきた。
「調子良さそうだな」
「はい、ユーロがこのところ絶好調で、上手く行っています」
「そうかそれは良かった。ところで、ドル円はどうだ?」
「少しビッドですね。まだショートが残っている様で、11円辺りまでは戻すと思います。今15~17(110円15~17銭)です。何かやりますか?」
「50本、適当に買ってくれ」
「16で20本、18で30本、買いました」
「ありがとう。俺は明日から週末まで休むから、何かあったら山下をサポートしてやってくれ。今の買いは12円のショートの利食いだから、山下にそう処理する様に連絡しておいてくれ。それじゃ頼む」
「了解です。短い休暇を楽しんでください」
‘これで、休暇中にポジションのことを考えないで済む’

木曜日の早朝6時に社宅を出発した。車は昨日、四谷のトヨタレンタカーで借りておいたプラドである。飯田橋ICで首都高5号池袋線に入り、関越道、上信越道、そして長野道という経路を辿ることにした。朝食を済ませるために横川SAのタリーズに寄ったが、それ以外は休憩もとらずに松本ICまで一挙に走った。時刻は9時30分。松本ICを出て上高地方面に向かう。新島々を過ぎ、カーブの多い山道を30分ほど走ると、梓湖に出た。梓湖に造られた奈川渡ダムを渡り右に車を走らせれば上高地、渡らずに直進すれば野麦峠方面である。目的地の奈川は野麦峠方面にある。狭くうねる道に気を付けながら運転に集中した。30分足らずで、宿のペンション‘野麦倶楽部’に到着した。

8年ぶりだが、かつて通い詰めていただけにオーナーご夫婦は顔を覚えていてくれた。
「お久しぶりです。ようこそいらっしゃいました」と笑みを浮かべる。
「本当にご無沙汰しています」
確か二人とも70歳を超しているはずだが、元気そうだ。
「このところ天気が今一つで、今日も降ったり止んだりです。川の水量も多少増えているみたいで、仙崎さんの釣りには向かない状況かもしれませんね。でも、荷物を置いて、とりあえず奈川に行ってみますか?」
「はい、今車から荷物を降ろしますから、部屋に入れといてくれますか?」
「かしこまりました。イブニング(夕まづめ)までやるとすると、お帰りは7時過ぎですね」
「この天候なので、イブニングはあまり良くないと思います。もしかすると早く引き上げるかもしれません。それじゃ、行ってきます」

目的のフィールドまでは30分ほどかかるが、その前に蕎麦を食べておきたい。かつて行きつけた蕎麦屋は野麦峠の麓にあり、とうじ蕎麦で有名だ。二人前からの注文のため量は多いが、夜までの奮戦を考えて注文した。やはり多すぎた様だ。少し残した詫びを言って店を後にすると、店から5分程のところにある目的のフィールドに向かった。フィールドは奈川のほぼ最上流部に当る沢である。日中の日差しの強いときでも、この沢はなんとか釣りになるのが嬉しい。

現場に着くなり、車をデッドエンドのある脇道に突っ込んだ。素早くウェイダー*に着替え、タックル[ロッド(竿)やリール]をセットし終えると、直ぐに入渓した。真夏にもかかわらず、チェストハイのウェイダーとスパッツを通して冷たさを覚えるほど水温が低い。先行者が入っていれば、全く釣りにはならないが、入渓直後から25cm前後の岩魚が次々とフライに飛びついてきた。先行者がいない証拠である。久々の岩魚との触れ合いに嬉しくなり、ロッドを振り続けた。この沢には尺(30cm)を超える岩魚はいないが、それでも十分に楽しい。もう心は童心そのものだ。ところが、二時間ほど釣り上がった頃、急に空模様が怪しくなり、山特有の豪雨が稲光を伴って降り出した。山では熊にも気を付けなければならないが、雷はもっと恐い。沢を上がり側道に出ると、走る様にして車まで戻った。暫く車中で雨と雷が止むのを待っていたが、雨は延々と降り続き、時折稲光が暗い空を走り、雷鳴がそれに続く。これではイブニングもダメである。潔くペンションに戻ることにした。

ペンションに着くと、直ぐに風呂に入った。沢で冷えた体がほぐれていくのが分かる。風呂から上がりベッドで横になっていると、階下からカウベルの音が聞こえた。夕食の合図だ。
宿泊客は他に老夫婦と子連れの夫婦だけで、ダイニングは静かである。
食事も終えた頃、コーヒーを運んできた主人が
「釣りはどうでしたか?」と聞いてきた。
「最初の2時間は何とか楽しめましたけど、後は豪雨で釣りにならず、車中で寝てました」
「それは残念でしたね。今晩も豪雨らしいですよ」
「参りましたね。水嵩が増すでしょうから、明日も釣りにならないかもしれませんね。あのPC、インターネットは使えますか?」
ダイニングの隅に置いてあるPCを指して尋ねた。
「はい、大丈夫です。ログオンしてありますから、そのままどうぞ」
「それじゃ、お借りします」と言って、コーヒーカップを持ちながらPCに向かった。
カーソルをクリックすると、直ぐにトップ画面が現れた。
天気サイトで天気予報と雨雲の動きを見たが、どうやら明日も釣りになりそうにない。
「奥さん、氷と水を貰えますか。もう、部屋に戻ってスコッチでも飲んで寝ることにします」
「そうですか、それではゆっくりお休みください。朝まづめの釣りも無理そうですものね」
悪天候は彼女のせいではないのに、心底申し訳なさそうに言う。
「いや、自然には勝てませんよ」と誰への慰めともつかない言葉を残して、部屋に戻った。

持参したラフロイグをドライド・フィグ(干しイチジク)で楽しみながら、山下に電話を入れてみる。
「あっ、了さん。今ペンションからですね。フライの調子はどうですか?」
「最初は良かったけど、後は豪雨と雷でアウトだった。明日も最悪の天気らしい。それで明日、松本まで下りて岬に会おうと思う。何て話したら良いのか分からないけどな」
「そうですか。それは良かった。家内も喜ぶと思います。マーケットは明日の指標を控えて静かです。それでも着々と稼いでいますから安心してください。明日は動くのでしょうか?」
「おいおい、俺は今、山の中だぞ。それに市場も見ていない。ただ、今週は週初からドルの下を結構攻めてダメだったから、雇用統計の結果は兎も角、あまり下がらないと思う。ともかく、長いポジションでないなら、統計結果の如何に関わらず、あまり突っ込まない方が良いと思う。お前に勇気があるなら、タイトにストップを入れて、統計前に10円前後で買ってみるのも面白いかもな。またはショートカット一巡後に売るのも良いと思う。但し、ジョビングに限ってだが。来週はドルが戻しても、12円前半が一杯の様な気がする。流れはまだ下だと思う。それじゃ、奥さんに宜しく」
「分かりました。それじゃ、お休みなさい」

電話を切った後、ラフロイグを呷ると、岬にメールを入れた。
「今、奈川にいる。明日、会えるか?」
「はい、場所と時間は?」
直ぐに返信があった。
「君は今、お母さんが営んでいるクラフト店を手伝っているのか?」
「はい」
「そうか。3時頃、その近辺についたら電話を入れる。話は少しだけ山下から聞いているが、元気なのか?」
「何とか・・・。メールありがとう。何だか嬉しい様な悲しい様な気持ちで、涙が止まらないわ。もう何も書けない。明日、待っています。ごめんなさい」
「お休み。それじゃ明日」
メールのやり取りを終えると、岬の小さな肩が思い出され、懐かしさが止めどなく甦ってきた。

その晩、なかなか寝付かれないまま、ボトル半分を空けてしまった。

(つづく)


*ウェイダー:川の渡渉や湖の立ち込みで着用する防水性の胴長靴。胸まであるものをチャストハイ、胴までのもがウェストハイという。

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。