第53回 「ニューヨークへ」

先週末に発表された米5月雇用統計は市場の予測を上回る好結果となった。

これで次回FOMC(12~13日)での25BPの利上げはほぼ確実となったが、市場の焦点はFRBの正常化ペースが加速するかどうかにある。

つまり、声明文や理事会後のパウエル議長の記者会見が重要ということだ。

他方、先月末から月初にかけて開催されたG7財務大臣・中央銀行総裁会議で、米国の貿易規制に対抗したG6が激高したため、G7はG6+1の様相を呈し出した。

世間の耳目は米朝首脳会談に集まるが、国際金融市場にとってはFRBの正常化ペースと米国絡みの貿易摩擦こそが主要な与件である。

ドル円は、週初(4日、月曜日)からFRBが正常化を加速させるとの観測や米10年債利回りの上昇で堅調に推移したが、110円に近づくと押し戻されるといった展開に陥った。

そうした109円台後半を中心とした揉み合い相場に多少変化が生じたのは週半ばのことである。
NYダウの大幅上昇と米10年債利回りの上昇がドル買いを煽り、ドル円が完全に110円台に乗ったのだ。

そんななか、NYの山下から電話が入った。

「お寛ぎのところ、済みません。
でも、きっと今もモニターを見てらっしゃるんですよね?」
時計を見ると、丁度日付が変わろうとしていた。

「ああ、ラフロイグ入りのグラスを片手にな。
どうした?
ドルがビッド(買い気配)だって話か?」

「ええ、それもあるんですが、山際さんの件でお話しておきたいことが」

「そっか、それじゃまず、ドル円の気配を先に教えてくれ」

「ダウの大幅高がドル買いの主因ですが、買い筋はショートカットとイントラデイのロングかと。

高値は今の処、22です。

ただ、うちにも50(110円50銭)以上に生保と自動車の売りオーダーが300本近くあるので、10円前半が一杯かと思います」

「分かった。

この上のテクニカルポイントはどこだ?」

「27がフィボナッチです」

「どの値幅のだ?」

「13円75(113円75銭:昨年12月の高値)と4円64(104円64銭:年初来安値)ですが」

「61.8か・・・。

リーブを頼む。

20の売り50本、25の売り50本」

「了解です。

ところで山際さんの件ですが、清水支店長が相変わらず例のグレー債権の償却で、各部署にプレッシャーを掛けてる様です。

そこで、山際さんがポジションを取る様になったのですが、ロスばかりで・・・。

もう山際さんの体調や精神状態を考えると、ポジションを取れる様な状況じゃありません」

「それは妙だな。

先日の役員会議で、頭取の本部制遵守の意向が嶺常務経由で清水支店長のところに届いているはずだが。

‘21日の株主総会を控えて18日に国内外の主要拠点のトップが集まり、その際に頭取が彼らとも面接し、本部制の指揮系統に乱れはないかを再確認する’、それが頭取の考えだ。

だから、お前の言ってる通りだとすれば、日和同士の慣れ合いが続いてることになる」

「そうですね。

でも、山際さんは私に一切収益増の話をしてきませんが」

「それが山際さんという人物だ。

だから、俺はお前をそっちに送り出した。

だけど、彼が体調を崩したため、スイスの横尾さんと交替することになってしまった。
これは誤算だったけどな。

いずれにしても、嶺さんと清水さんの悪だくみの件は俺が預かる。

ところで、山際さんのロスはいくらになる?」

「ざっと、200万ドルです」

「そっちの損失としては大きいな。

この件も俺が預かる。

少し考えさせてくれ。

それじゃ、切るぞ」

翌日(7日、木曜日)、ディーリング・ルームに入るなり、デスクの部下全員に聞こえる様に「お早う」と声をかけた。

全員が「お早うございます」と言う。

ミーティングを終えると、東城の執務室に向かった。

ノックと同時に、
「仙崎ですが、宜しいでしょうか?」と声をかけた。

「おう、入れ」
といつもの落ち着いた声がドア越しに心地良く響く。

ドアを開けると、ソファーの方に手を向けながら
「まぁ、座れ」と言う。

言われるままにソファーに腰を下ろし、
「申し訳ありません。
電話でご都合もお伺いもせずに」
と詫びた。

「いや、そんなことはいい。
そんなときのお前の要件は、重要かつ緊急と決まってるからな」
渋い顔に笑みを浮かべながら言う。

「まぁ、そうですね」
笑って返すしかなかった。

「それで?」
重要書類を読んでいるところなのか、東城は執務机から離れないで聞いてくる。

「ニューヨークのグレー債権の処理については、本部長のお計らいで役員全員に頭取の示唆があったと了解しています。

ただ、現実にはそれが無視されてるやに聞いております」

昨晩の山下の話をありのままに伝えた。

「なるほどな。
十分にありえる話だ。

頭取には連絡しておく。
嶺さんと清水さんにも弱ったものだ。

だけど、お前の話はそれだけじゃないな?」

‘すべて見抜かれている’

「はい、話は二つあります。

一つ目は、山際さんを一刻も早く、こっちに戻すこと。
そして二つ目は、山際さんのロスを取り戻すことです」

「一つ目は、可能だ。

だが、二つ目は少し難しいな。
お前があっちにでもいれば別だが・・・」
もう俺の考えていることを見抜いてる様な口ぶりだ。

「はい、‘そのあっちにいれば’を考えています。
ご許可、頂けますでしょうか?」

「それで何時行く」

‘東城との話は早くて良い’

「来週中にでも」

「そうか、分かった。
しかし相変わらずだな、お前ってやつは」
二人同時に発した笑い声は異常に大きい。
笑い声は部屋の外のディーリング・ルームへと響き渡る。

部屋を辞するとき、
「気を付けてな」
という穏やかな声を背中で聞いた。

ドアを閉め終えると、あらためて深々と頭を下げた。

金曜日(8日)の海外でドル円は9円20(109円20銭)まで下落した。

海外時間の8日から開催されるG7サミット絡みの不透明感から逃避通貨の円が買われたとメディアは報じるが、そんなことは関係ない。

所詮はポジション調整に過ぎない。

110円台のショート100本は、9円55(109円55銭)と9円25で利益を確定した。

土曜日の晩、デスクに向かいPCにログインすると、outlookをクリックした。
国際金融新聞の木村に来週のドル円相場の予測を書くためである。

木村はG7サミットの取材でカナダのケベックにいるが、通常通りメールを入れてくれと言う。

時ならぬ暑さに見舞われ、喉が渇いて仕方がない。
ハートランドをボトルごと口に運びながら、キーボードを叩き出した。

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木村様

出張、ご苦労様です。

サミットでは貿易摩擦の具体的解決策が出るはずもなく、土産話は期待していません。

どうせ先週のG7財務大臣・中銀総裁会議と同じで、G6+1の様相でしょうね。

来週も今週と同様に109円台を中心とした揉み合いかと思いますが、依然としてバイアスはドルベアです。

ただ、幾つかイベントがあるので、週足は予想外に長い上髭・下髭を引くかもしれません。

予測レンジ:107円50銭~110円75銭

気を付けて、お帰りください。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

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(つづく)