第22回 「迷路」

週初(10月30日)の早朝、東城から電話が入った。
相場の話を聞きたいので、場が落ち着いたら部屋に来てくれという。

朝方は仲値が輸入超ということもあって、寄り付き前からドル買いが優勢となり、10時前に13円83(113円83銭)を付けた。

だが、そこからはドルを追いかけて買う気配はない。
‘この分だと、東京は13円台後半で様子見だな’

そう決め込み、東城の執務室に向かった。
ドアをノックすると、
「おう、入れ」という落ち着いた声が聞こえる。

部屋に入ると、東城は執務机ではなく応接用のソファーに腰かけていた。
彼にしては珍しいことである。

「まあ、座れ」の言葉に従い、テーブルを挟んで反対側のソファーに腰を下ろした。

Wall Street Journal がテーブルに広げられている。
並外れた英文の読解力を持つ東城は、新聞だけでなく向こうの雑誌も愛読している。

「何か、面白い記事はありましたか?」

「特にないが、イエレンの次はどうやらパウエルで落ち着きそうだな。
とりあえずはFEDのスタンスに変更はないということか。
ところで、ドル円はどうだ?」

「今週は少し調整が入ると考えていますが、ドルの下値は堅そうですね。

米系ヘッジファンドのCEOを務める友人の話では、同業の多くが保有している日本株の為替ヘッジで円を売っている様です。

それに、本邦の輸入筋が比較的高い水準でドルを買っているのが足下の状況でしょうか。

元々、‘FEDの金融政策の正常化、米金利上昇、日米金利差の拡大’というドル買い円売りの市場のロジックがそうさせているのかも知れません。

とすれば、FF(フェドファンド)レートの中立金利(将来の終着水準)と10年米国債利回りのギャップが問題視され出した場合、ドル円は落ちると思うのですが・・・。

FOMCメンバーが想定しているFF誘導目標の中立金利が2.75%、10年債利回りの節目の2.4%ですから、誘導目標の上げ余地は知れています」

「つまり、超長期の趨勢としてFFレートが10年債利回りを超え続けることはない。

だから、延々とFFレートの誘導目標を引き上げ続けるのには無理があるってことか。

確か9月時点で来年のFFの見通しは2.125%だったな。
それが現実となれば、現状の10年債利回りに近づくことになるか・・・。

賃金が速いピッチで上昇しインフレ圧力が強まれば、中立金利も引き上げられ、
FFの引き上げ幅も広がるが、あまりそれは期待できそうにないな」

「そうですね。
問題は12月のFOMCでドットチャート(政策メンバーによる金利見通し)がどの様になるかでしょうか。

FEDが利上げを再開した15年12月のFFレートの中立金利は3.75%でしたが、それが徐々に切り下がり、直近では2.75%まで低下しています。

この12月のFOMCでさらに下がる様でしたら、市場のドル買いロジックが崩れるかもしれません」

「そうだな。

もっとも、問題は足下の相場でドル円が何処まで上がるかだ。
ロジックが崩れる前にレベルが切り上がる可能性も考えておく必要がある。

最近、お前はユーロドルのショートがメインらしいな」

「はい、今申し上げた様に、市場のドル買い円売りのロジックについて行けないこともあるのですが、14円台にテクニカルポイントが多いのと、実需のドル売りが旺盛な状況を見ていると、ドル買いに食指が出ないと言ったところでしょうか。

中旬に11円65までのディップがったのですが、その局面でドルを拾えなかったのが拙かったと反省しています。

収益面では、幸いにもユーロドルのショートの回転が良いので救われています。

ドル円は今週、調整で少し落ちるはずです。
そこは少し買いでしょうか?」

「そうだな。
収益は別として、ユーロドル・ショートが機能している間に、ドル円の感覚を取り戻した方が良いかもしれないな」

「そうですね。
少しディップを拾っておくことにします」

「時間を取らせて悪かったな。
実は今日の午後に経団連の上の人間と会う予定で、そこで為替の話をしなければならない。

それと山下と沖田の入れ替え人事の件、さっき人事部長から電話が入り、正式に許可が下りるそうだ」

「了解しました。
早速、彼らに伝えておきます。
それと本部長、来週の月曜日と火曜日、休暇を取らせて頂きます」

「岬君のところか?」
微笑みながら言う。

「ええ、まぁ。
でもどうして分かったのですか?」

「顔に書いてあったからな。
会ったら宜しく伝えておいてくれ。

でも人妻だから、何かと気を付けろよ。
何かあっても、この問題だけは俺にはどうしょうもしてあげられないからな。
まあそのうち、二人の話は酒の席で聞くよ」
声を出しながら笑うと、東城は皇居の森を臨む窓の方に歩き出していた。

「それでは失礼します」
と言い残して部屋を後にした。

「どうだ、相場は?」
デスクに戻るなり、山下に聞く。

「動きませんね。

でも、朝方の様子を見ると少し上にロングが残ってる感じがするので
雇用統計前に一旦ポジション調整が入ると思います。

どうします?」

「うーん、そうだな。
少しドル円を買ってみるか。

先週の安値は3円25(113円25銭)だったよな。
25で50本、’until further notice’でリーブを入れて置いてくれないか。

If doneで、4円30で利食いの売り30本、残り20本はそのままキープ。
コールレベル*は12円ハーフで頼む」

「了解です」

「それと、お前の転勤は正式に決まったそうだ。
ビザは沖田と入れ替わりだから間違いなく下りると思うが、その点は人事部から話を聞いておくと良い」

「ありがとうございます。
家内も喜びます」

「まあ、あっちの生活を存分に楽しんでこい。
但し、しっかり稼げよ。
それと、来週の月・火と休むが良いか?」

「問題ありません。
松本ですか?」

「お前も東城さんみたいだな。
想像に任せるよ」
からかわれているのが分かったが、悪い気分がしなかった。

ドル円はその日のニューヨークで13円02まで下落し、25で50本の買いオーダーが付いた。

翌日(火曜日)の東京でドルは反発し、13円後半を付けたが、依然として上値が重たい展開が続いた。

週半ばになると再び14円台を覗き出したが、高値は14円28止まりで、相変わらず5月以降の戻り高値近辺で押し戻されてしまう。

‘やはり、上は重たいのか・・・。
どうもドル円のロングの居心地が悪いな‘

週末の金曜日、米10月雇用統計が発表された。
NFPや平均時給が市場の予想を下回ったため、発表直前の14円台から13円65まで振り落とされた。

だが、直ぐに14円43まで反発した。
10月のISM非製造業景況指数や9月の製造業受注指数が予想を上回る結果となったからだ。

でも、この二つは大して重要な指標じゃない。
ドルが反発した本当の背景は買い遅れ組が上値を追いかけ出していることにある。

いずれにしても、14円30に置いたロング30本の利食いはダンとなった。
残りは20本のロングだ。
‘14円台で利食うこともできるが、来週まで持っていることにしよう’

ドル円は週末のポジション調整で14円割れ寸前まで落ちたが、とりあえず14円台で週末を迎えた。

週末を14円台で迎えるのは3月以来のことである。
‘ドル一段高のサインなのだろうか’

確かに14円台~15円台に複数のテクニカルポイントが存在し、ドルの上値は重たい。
だが、何か起きる様な気もする。
来週はドル上昇の正念場になるかもしれないな。

’上が抜けなければ、大きな反落もありと心得ておけばいい’

祝日の金曜日の夜、岬に電話を入れた。
「来週の月曜日にそっちへ行くけど、何処か行きたいところは?

「秋の碌山美術館に行きたい。
昔、二人で行ったときは夏だったわ。
今はきっと、趣が違って素敵だと思う」

荻原碌山は穂高村が生んだ東洋のロダンとして知られる明治時代の彫刻家であり、美術館には彼の作品が多く展示されている。
建物は安曇野にあり、キリスト教の教会を思わせる素敵な建造物である。

「そうか。

それじゃ、いつものパルコ前のパーキングに着いたら、電話を入れる。
昼前にはそっちに着く様にするよ。

それと夜、‘縣(あがた)倶楽部’で旨い酒を飲みたいけど、月曜はやってるかな?」

縣倶楽部は名前こそ欧風だが、純粋な小料理屋で岬の伯父が営む。
店主の伯父は油絵を描き、店内のBGMにジャズを流している様な人物で、語り口調に好感の持てる人柄である。

「ええ、水曜が定休だから大丈夫。

伯父は了に一度しか会ったことがないのに、いまだにあの好青年はどうしてるって聞くの。

余程、了のことが気に入ったのね。

行ったら、きっと喜ぶわ」

「あの好青年は、もう中年だけどな」
互いの笑い声を聞きながら、二人は電話を切った。

電話を切った後も、岬の笑い声が脳裏に残り続けた。
‘久しぶりに聞く明るい笑い声だったが、無理に抱えている悩みを振り払っていたのかもしれない’

何となくセンチメンタルな気持ちが心に広がった。
そんな気持ちに耐えられず、ラフロイグをショットグラス注ぐと一気に飲み干した。

二杯目を注ぎ終えると、Kieth JarrettのJasmineをBoseの Wave Music Systemに差し込んだ。

‘この先、二人はどうなるのだろう’
そんな気持ちを無視するかの様に、‘’Where can I go without you’が聞こえてきた。

(つづく)


*コール・レベル:電話を必要とする水準。
何かディールをしたいと考えている水準だが、場の状況をとりあえず聞きたい場合に、電話依頼をすることがある。

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。