第二巻 第9回 「戦いを控えて」

週初(15日)、ドル円は112円20前後で寄り付いた後、上値の重たい展開が続いていた。

先週末(13日)にムニューシン米財務長官が日本に対して通貨安誘導を防ぐ「為替条項」の導入を求める意向を示した’ことが重しとなっているのだ。

沖田が、
「どうでしょうか?」と聞く。

「今週の肝は1円60(111円60銭)近辺だろうな。

あそこは年初来安値(104円64銭)からのサポートが走ってる他、一目の雲に近いから、一旦止まるはずだ。

そこまでの値幅を取りに行くのなら、今売っても良いけど・・・。

ムニューシン発言は見え見えの売り材料だから、あまり深追いはしない方が良いな。

どうせまた、良い売り場があるんだから。

とりあえず、50本だけ売ってみるか」

「17(112円17銭)です」

「サンキュー」

「私も20本だけ売ってみました」

「そっか、日銭も稼がないとな。

ところで、今晩テレビ番組の前、空いてるか?

ちょっと、話しておきたいことがある」

「はい、大丈夫です。

番組も今日は私とは無関係な特集が組まれてるそうで、局に行く必要もありません。

ですから、アルコールもOKです」
笑いながら言う。

 

午後に入ると、少しドルが売り気配になり、ロンドン市場が始まってからは111円台後半での展開となった。

「どうしますか?」
沖田が聞いてくる。

ショートキープか、利食うかと言う意味だ。

「10日足らずで3円近くも落ちてるし、短期のオシレーターもアラートが点滅し出した。

朝の打ち合わせ通り、深追いしない方が良いと思う。

とりあえずロンドンに連絡して、あっちの状況を聞いてくれるか?」

「はい」
と言うが早いか、キーボードを叩き出している。

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朝の動きは試し売りで、岸井さんは60(111円60銭)台からは大方が買い戻すと見ている様です
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沖田がキーボードを叩きながら、ロンドンの話を伝えて寄越した。

「そうだろうな。

とすると、一旦は撤退だな。

返す刀で、100本買ってくれ」

「了解。

・・・   ・・・   ・・・

69です。

岸井さんが、課長の買いは何だと聞いてますが・・・?」

「利食い半分、ロング半分と伝えてくれ。

ロングの利食いは今朝の寄り付き近辺の20(112円20銭)で頼む」

キーボードを叩き終えると、沖田が聞いてきた。

「ところで課長はこの先、どんな展開を考えてるんですか?」

「今日のニューヨークか明日の東京で、もう一回下を試すけど、今日の安値は抜けない。

そして週後半は112円台の後半かな。

そんな展開になれば、来週初に少しドルが買い気配になり、113円台前半があるかも。

仮にそこがあれば、売ってみたいけどな。

それはそうと、どうも上海(総合株式指数)が変だな。

恐らく中国の状況が伝わってる以上に悪いのかも。

欧州はイタリア財政問題とブレグジットで、ダックス(ドイツ株価指数)もダメ。

米株も先日の急落やサウジ絡みで目先は下落リスクの方が強い。

来年にかけて、10年に一回の国際金融危機でもなければ良いが。

いつの世も景気循環と金融政策は折り合いが悪く、間合いの悪い時に限って何かが起きるからな」

「そうですね。

それじゃ、そろそろ、出ますか」

「そうしよう」

 

まだ月曜ということもあって、青山のジャズクラブ・Keithは空いていた。

いつもの右奥のテーブル席に座りながら、

「マスター、ハートランド2本、それに適当なアテとサンドイッチをお願いします。

BGMは、Still Live のDISC1で」と、注文を入れた。

‘My Funny Valentine’が静かに流れ出す。

それと知らなければ、何の旋律か分からないほど、Keithがアレンジしている。

少し喉が潤ったところで、
「俺は横尾を外したいと考えてる」と切り出し、先週ニューヨークで山下に話したことを沖田にも伝えた。

「そうですか。

横尾さんと山際さんが交替してから、あっちの雰囲気は良くないですからね」

「嶺さんや清水支店長の肝入りで決まった人事である以上、多少のことじゃ、彼を動かすことは出来ない。

ここは、彼自身から身を引いてもらう必要がある」

「完膚なきまで叩くってことですね?」

「ああ、そうしたい。

その延長線上で、田村・嶺等を潰せれば最高だとも考えてる」

「えっ、了さん、まさか銀行を辞める覚悟じゃないですよね?」

「ははは・・・。

何であいつらのために、そこまで」
笑ってごまかすしかなかった。

「そりゃそうですよね。

僕に何かできることはありますか?」

「今のところはないが、そのうちきっとある。

その時は頼む。

ところで、テレビ番組の件、いつまでも悪いな」

アルコールはラフロイグに切り替えていた。

球体の氷が溶け出し、味と香りにラフロイグらしいインパクトが消えている。

マスターにストレートを頼むと、沖田もそれに従った。

「いえ、美人キャスターに会えるので、続けさせて下さい」
何だか、にやけた顔をしている。

「気を付けろよ」
とだけ言うと、何となしに二人はグラスを軽く合わせた。

 

ドル円は週後半に入るともう、111円台を売る人間はいなくなっていた。

ムニューシン米財務長官が「日本との通商協議で‘為替条項’を求める」と言った割には、
米財務省が17日に発表した「為替報告書」の内容が日本や円に対して厳しくなかったからだ。

必ずしもそうとは思えないが、相場はそう動いた。

木曜日(18日)のオセアニアで週高値とあんる112円74銭を付けた後、112円55銭近辺で週を越した。

 

土曜日(20日)の晩、神楽坂のイタリアン・レストランで夕飯を済ませた後、社宅に戻った。

 

‘そろそろ国際金融新聞の木村にメールを送っておくか’

 

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木村様

ブレグジット、伊財政問題、サウジアラビア問題が懸念される中、世界の主要な株式市場も少し調整色が強くなってきましたね。

来週のドル円は揉み合う展開かと思いますが、今のところ、先行きドル安という見方は変えていません。

113円台前半があれば、ドルを売ってみたいと思います。

 

市場は今回の米為替報告書を軽く扱った様ですが、原文では、日本に関して、

‘We(米国) will consider adding similar concepts(為替条項) to U.S. trade agreements, as appropriate.’

と明記しています。

また、為替操作国の認定では、その基準である「対米貿易黒字額」「対GDP比の経常黒字」「継続的為替介入」のうち、日本は‘継続的介入をしていない’という事実を以て免れていますが、対米貿易黒字と経常黒字では明らかに抵触しています。

従って、FFRの進捗状況が悪ければ、「超長期の金融緩和」≒「継続的円売り介入」という捻じ曲げた理屈を言い出しかねません。

つまり、日本が「為替操作国」になりかねないということです。

少し中長期的な話ですが、留意しておきたい点でしょうか。

 

来週の予測レンジは「110円50銭~113円50銭」です。

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

 

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送信し終えるのと同時に、スマホが鳴った。

志保からである。

開口一番、「アストロズ、残念ね」と言う。

「ああ、ワールド・シリーズまで行くと思ったけどな。

ところで、用件は?」

「用件がないと、電話もかけちゃいけないの?」

「そんなつもりで言った訳じゃないけど」

「そんなこと、分かってるわよ」

笑いながらそう言った後、

「ところで、了がこっちに来る件、マイクに話しておいたわ。

彼、すごく喜んでた」と続けた。

「おいおい、まだ行くと決めた訳じゃないからな。

それに志保と一緒に住むわけじゃないから、勝手に家やアパートを契約するなよ」

「どうかなー」
からかう様に含みを持たせて言う。

「勝手にしろ。もう切るぞ。

そっちはそろそろ寒くなるから、風邪引くなよ」

「えっ、最近やけに優しくない?
本当は、一緒に住みたいんじゃないの?」

「馬鹿、それじゃな」

 

‘既婚者用の社宅で過ごす週末は侘しい。

結婚・・・、そろそろかな。

ただ、「お前は気楽でいいな。ウィークデイは銀行でこき使われ、毎週末は家族ケア。結婚するとなると、それはそれで大変だぞ」などという同僚の話を聞くと、ついつい結婚が煩わしく思えてくる’

 

外を見たくなり、リビングのカーテンを開けると、向かいの棟の八割に灯りが点っている。

 

‘灯りはどの家庭も温かそうに映している様だけど、皆上手く行ってるのかな?

志保か・・・。

全てに楽観的で奔放なところがあるけれど、案外家庭向きかもしれない’

 

「分かってるじゃない、了も」

そんなことを言いながら、少し街路樹が色づき始めたグリニッジの街を、ソフトクリーム片手に呑気に歩く志保の姿が脳裏をかすめた。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。