第12回 「大企業とのトラブル」

週初の21日、東京でのドル円相場は9円(109円)前半で動意薄の展開となったが、海外では米韓同時軍事演習が一時ドル売り円買いを誘った。
だが、先週のドル安値8円61を抜くほどの勢いはなく64止まり、そして翌日(火曜日)の東京は109円前後で寄り付いた。

事件が起きたのはその日の朝方だった。
「えっ、冗談ですよね」とコーポレート・デスクの方から大声が聞こえた。
声の主はヘッドの浅沼だった。
ディーリング用の電話ボードに目をやると、日本海上保険(JMI)のネームだけが点灯していた。
電話ボードには主要な顧客が登録されていて、通話中のカウンター・パーティー(相手)の名が液晶パネルに点灯する仕組みになっている。
会話の内容は分からないが、何か揉めごとが起きたのは荒げた声の様子から推測できる。
浅沼は「すぐにかけ直します」と言い残し、一旦電話を切った。
自分では判断できなかったのだろう。
彼が走る様にしてこっちに向かってきた。
話は呆れ返るほどの内容で、
‘02(109円02銭)で50本ドルを売った取引をキャンセルしてくれ’という。
論外の申し入れである。
「‘一度ダンした取引のキャンセルには応じられない’とだけ答えておけ」と半ば命令口調で浅沼に言った。
先方にそのまま伝え終えた浅沼は再び戻ってくると、
「担当の梶田さんが上司に話してみるとのことです」と情けない声で言う。
「どうせ、あの園部が電話を掛けてくるな」と呟くと、彼も頷いた。

数分後に運用部長の園部が‘課長の仙崎を出せ’と名指しで電話をかけてきた。
‘予想した通りだ’

―――バブル期やそれ以前、大口顧客が証券会社に取引のキャンセルや理不尽な要求を平然と突き付けていたという。
その最たる例がJMIであり、そして当時運用部で株取引を担当していたのが園部だった。
JMIの株取引高は尋常でない金額と回数に上り、理不尽な要求を受け入れても証券会社は手数料で十分採算があったのだ。
園部はその当時の悪癖を今も引きずっている。
もしかしたら、前任者はそんな要求を受け入れていたのかもしれない―――

指名された電話に出ない訳にはいかない。
仕方なしに「仙崎です」と言って受話器を取ると、
「なぜ、キャンセルができない? こっちは買うつもりのところを間違って売ってしまっただけだ」と、挨拶もせずに園部が怒鳴ってきた。
「でしたら御社の間違いですから、反対取引をして頂いて新たなディールをすれば済みますが」と、当然の如く言葉を返した。
「馬鹿言うな。今のレートで反対取引をすれば、うちが損するじゃないか」
スクリーンのレートは25~27を指している。
「それは当行にとっても同じですよ。今うちが御社の申し出を受け入れたら、1250万円ほどの損失が出ます。今回、こちらが何かミスをしたのであれば兎も角、どう考えてもキャンセルは不自然ですよね」
「ほー、超一流ディーラーの君なら、そんな金額、直ぐにでも稼げるんじゃないの」
「そういう問題じゃありませんよ、園部部長。為替の世界はフェアがモットーです。キャンセルは無理ですね」
「おい、随分と偉そうな物言いをするな。IBTとは国際ファイナンスの部署とも巨額の取引があるのは知ってるよな。それにIBT証券ともな。そっちに影響が出ても良いのか?」
「今度は恫喝ですか。お好きな様にして下さい。ちなみに言っておきますが、この会話はすべて録音されてますから、ご承知おき下さい」
「貴様、この俺を脅すのか。若造めが」と捨て台詞を残して電話を切った。
その瞬間、ゴツっと音がした。
どうやら受話器をデスクに叩きつけた様だ。
隣で俺の話しを聞いていた山下が心配そうに、
「大丈夫ですかね。後で他部署からクレームが来る様な気がします」
「ああ、多分来るだろうな」と平然と笑って見せた。
‘少し、言い過ぎたかな’

翌日(水曜日)の5時近く、役員室の秘書から
「嶺常務がお部屋の方に来てくださいとのことです」と電話があった。
「了解しました。直ぐに行きますとお伝えください」と言い、常務室に向かった。
‘どうせ、JMIの件だ’
役員室に着くなり、直ぐに秘書の一人が「こちらにどうぞ」と部屋に案内してくれた。
さっき電話をくれた秘書だろう。
秘書が嶺の部屋のドアをノックしながら、「仙崎さんが来られました」と伝えると、
「どうぞ」の声が低く響く。
「お茶はいらない」と言って秘書を帰すと、いきなり嶺が質問を浴びせてきた。
「昨日君は日本マリンの運用部長とやりあったと聞くが、本当か?」
威圧感のある口調だ。
「やりあったかどうかは知りませんが、確かにうちのコーポレート・デスクに理不尽な依頼があり、それをお断りしたのは事実です。それが何か?」
「‘それが何か’だと、ふざけるな!‘JMIが国際フィナンス関連の取引を見合わせたい’と担当部長に申し入れてきたそうだ。それにIBT証券の証券担当常務にも同様の電話があったそうだ。この始末、どうするつもりだ?」
「それは弱りましたね。でも本件は当行に何の落ち度もなく、彼等の言い分が理不尽だっただけのことです。JMIがそれを理解しないとはとても信じられませんが」
「一体、お前は何を考えてるんだ。100億、否1000億単位のビジネスを失うことになるかも知れんのだぞ」
「常務はそういう理由で、うちが1000万を超える彼等の損失を飲めと言うことですか?」
「ああ、そうだ。今からでも、取引をキャンセルしろと言うことだ」
「お断りします。首を掛けてでも、無理なものは無理と言うしかありません」
「もう下がれ、後で泣きを見ても知らんからな」
「それでは、失礼します」
平然と言って、部屋を辞した。

デスクに戻り、
「流石の俺も‘腑抜けなうちの役員にも愛想が尽きた。悪いが今日はもう仕事をする気にもならない。帰るが、問題ないか?」と、少しため息交じりに山下に言った。
「はい、大丈夫ですが、余程の事があった様ですね」
「ああ、JMIもうちも、上の馬鹿どもは救いようがないな」
「今回は本部長ルートでも解決できそうにないですか」
コーポレート・デスクのヘッドの浅沼がこっちを見ながら、二人のやりとりを聞いている。
彼のせいでもないのに、相当気にしている様子だ。
「そうだな。今回はそういう問題ではない。為替ディーラーとしての俺の意地だ。山下、少し浅沼を気遣ってやってくれ。あいつには何の落ち度もない。理不尽なのはJMIだ」
念のため、東城には事のあらましを一昨日に伝えておいたが、
「気にするな。責任は俺がとる」と言っただけだった。
‘相変わらず、肝が据わっている人だ’

 

木曜日(24日)からワイオミング州のジャクソンホールで恒例の経済シンポジウムが始まった。
主要各国の中銀総裁や研究者が集まり、経済政策等を話し合う恒例行事だ。
ドラギECB総裁、イエレンFRB議長、そして日銀の黒田総裁も出席した。
彼等から何が発信されるか分からないだけに、為替市場も動きづらい展開となった。

週末の金曜日もシンポジウムから発せられる言葉を気にして、為替市場はキャッチ・ボール相場となった。しかしながら、特に為替に影響のある話は出なかった様だ。

FRBも、ECBも、新たな局面を迎えている。不用意な発言で敢えて市場に動揺を与えれば、金融政策の正常化がスムーズに行かなくなる。
特にドラギ総裁が今回のシンポジウムで慎重だったことは想像に難くない。6月27日のECB年次フォーラムで「政策手段のパラメーター調整(金融政策の正常化)で景気回復に対応できる」とした発言がユーロの急騰を招いたからだ。
そうした経緯もあり、市場はドラギ総裁からこのところのユーロ高について牽制発言が飛び出るかを懸念していた。
だが、それが出なかったことで週末のユーロドルは一挙に上昇した。

 

土曜日の午後、何処へも出かける気にもならず、社宅でゆっくり過ごすことにした。
もっとも仕事柄か性分か、自然と頭の中には相場のことが浮かんできてしまう。
ベッドに寝そべっていると、ユーロのことが気になり出した。
市場はユーロに強気の様だが、このまま続騰するほど甘くはない様な気もする。
ドラギは何も言わなかったが、この先他のユーロ圏要人からユーロ高牽制発言があるかもしれない。
‘ユーロ高が金融政策の正常化をオフセットし、ユーロ圏の国際競争力を低下させる。だとすれば、ユーロ高牽制発言が飛び出る可能性がある’。
ユーロドルが1.2を超えると相場が一旦伸び切るかもしれない。
この先もユーロ高となる可能性は高いが、一旦相場を冷やすとすれば、丁度良い頃である。
ドル円はまだ下を打った感じがない。
取り敢えずは10円台後半のショート50本はまだ手仕舞わずにキープしておくか。
来週も8円13を潰しに行かない様であれば、一旦買戻しても良い。
その後は10円95~11円05が一杯ってところかな。

暫く相場のことを考えていると、ふとコーヒーが飲みたくなった。
キッチンに置いてあるコーヒー専用のシェルフからコスタリカの入ったジャーを手に取り、15グラムをBonmacのミルで挽く。
丁寧にペーパーフィルターの継ぎ目を折り、ドリッパーのハリオV60にセットする。
沸騰したお湯をドリッピング・ケトルの‘タカヒロ雫’に移し、85度になるまで待つ。
いつもの手順である。

BGMは気分を爽快にするために Age Garciaのピアノ・アルバム‘Alabastro’を選んだ。
何処かに気分を浮遊させてくれるアルバムである。

10分後に、至福の時が約束されているのは間違いない。
少しささくれ立った心が次第に癒されていく。

(つづく)

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。