第36回 「対峙」

日曜(4日)の晩、岬に電話を入れた。

水曜日に予定されている財務省の勉強会では、彼女の夫である坂本と会うことになる。
単に講師を務めるつもりで出向くが、彼の方から何かを仕掛けてくる可能性がある。

そのとき、自分がどの様な行動に出て良いのか分からない。
岬とのことを巡って、勉強会後に対決する可能性もある。

そのことが切っ掛けで岬を傷つけてしまうことになるのかもしれない。
逆に逸早く彼女を夫から逃れさせてやれるのかもしれない。

だが、問題は岬が何を望んでいるのかだ。

その点を彼女に確認しておかなければならない。

 

「こんばんは。
そっちもこの冬は寒くて大変そうね?」

「ニューヨークほどではないけど、まあ寒いことは寒いな。
そっちこそ大変なんだろ?」

「そうね。
でも例年より多少雪が多いって程度かな。
大丈夫よ。

それより、確か今度の水曜日だったわよね。
例の講師の件」

「ああ、そのことで少し岬に確認をしておきたいんだ。
これまでの坂本さんの挑戦的な言動を考えると、当日何か俺に言ってくるはずだ。
勉強会中であれば質問で論破しようとするだろうし、その後であれば君との関係で絡んでくるかもしれない。

何としても俺を打ち負かすつもりで臨んでくると思う。

それはそれで受けて立つしかないが、心配なのはそこでのやりとりが一線を越えたときだ。

それが何かは分からないが、何が起きても岬は動じないか?」

「ええ、大丈夫よ。
了の気の済む様にして構わないわ」

「そうか、分かった。その話は止めにしよう。

ところで、昨年から受講すると言っていた金沢美術工芸大の聴講*へは行ってるのか?」

「ええ週に一度、松本美術館で講師の先生がいらっしゃるときに出席してるの。
作陶自体には興味はないけれど、陶磁器に関わる様々なことや歴史を学べて楽しいわ」

「それは良かった。
きっと、ハンサムな先生なんだろうな?」

「あら了、妬いているの?
先生は女性よ」
少し笑ながら言う。
急に岬が愛おしくなり、余計な一言を言いそうになったが頭を振って堪えた。

「妬いているわけじゃないけど、まあ、何となくな。
じゃ、切るぞ」
若干の照れもあって、そう言うしかなかった。

「おやすみなさい」
という岬の声を聞きながら電話を切った。

 

週初(5日)からドル円の上値が重たい。

日米株価の大幅値下げに反応しやすい展開となり、翌日には108円46銭まで下落した。

財務省の勉強会当日(7日)は、日本株が値を戻したこともあってドル円は109円台で比較的静かな展開となった。

場が荒れていないだけ、気が楽である。

勉強会の開始時間は3時だ。
40分ほどの余裕をみて、銀行を出た。

日比谷通りでタクシーを拾うと、
「財務省の正面玄関前へお願いします」と運転手に告げた。

夕方前ということもあり、10分もかからずに財務省の正面玄関前に着いた。

歩道と正面玄関を結ぶ通路の両サイドには衝立がある。
歩道と衝立が交差するところにセキュリティーの人間が二名立っている。

そのうちの一人に‘省内の勉強会の講師を務めるIBTの仙崎です’と告げると、アポ・シートをチェックし、‘どうぞ’と言う。
アポのない場合は南側の通用口に回されるが、今日はその必要はない。

正面玄関を通り抜けると中庭があり、その向こうの建物の二階に国際金融局がある。

正面玄関を抜けたところで、向こうの建物の入り口で吉住が手を振っているのが見えた。
車中から予め電話を入れてあったので、建物の入り口で待っていたのだろう。

「今日はお忙しいところありがとうございます。
また今回の講師役の依頼については何かとご無理を言って申し訳ありませんでした」

「なかなか殊勝なことを言うじゃないか」
笑いながら言う。
吉住は大学の同好会の後輩なので気を遣う必要はない。

「まぁ、一応役所内ですから」と言いながら、応接室に案内してくれた。
まだ時間があるのでここで待っててくれと言う。

数分後に外国為替市場課長の山上が現れた。
既に面識のある山下は気楽に市場の話をしてくる。
勉強会までの時間を過ごすことには気が紛れて良い。

その間に坂本が挨拶に来ると思ったが、姿を現さなかった。
勉強会の幹事役でもある彼が顔も出さないというのは不自然であり、失礼な話だ。

勉強会は南XX会議室で行われるという。
20名程度が楕円のテーブルに着くことができる会議室だが、通常は重要な委員会や会議に使われる部屋である。
単なる勉強会の部屋としては相応しくない。

3時近くになり、吉住が‘全員会議室に集まったので、そろそろお願いします’と迎えに来た。

会議室に近づくと、入口に170センチほどの男がこっちを向いて立っているのが目に入った。
少し険しい眼差しの神経質そうな男である。
坂本に違いない。

二人の距離が縮まったところで、男が挨拶した。
「坂本です。
いつぞやは電話で失礼しました。
本日はお忙しいところ、お越しいただきありがとうございます」

「仙崎です。
今日は講師役を賜わり光栄です」
光栄などとは微塵も思っていない。
ただ、迷惑なだけである。

「ことらへどうぞ」
という坂本の言葉に従って楕円テーブルの上座の方へと向かった。

 

幹事役の坂本が通り一遍の紹介を行い始めた。

こうした場合の紹介はスピーカーの経歴に加えて多少の色を添えるのが普通だが、彼の言葉に一切そうしたものが含まれていない。

‘民間銀行の一為替ディーラー如きに決して媚は売らない’という財務官僚の意地、あるいは自分の妻のかつての恋人への敵愾心の現れかもしれない。

紹介される最中、場を見渡すと、国際金融局長の竹中が楕円テーブルの右側に座っているのが目に入った。

楕円テーブルに座っている連中は竹中とほぼ同年齢の人間である。
つまり、他の局長、あるいは同等レベルの人間ということだ。

その連中を取り囲む様に、両サイドと後ろの壁を背にして中堅・若手官僚がノートを手にして立っている。

これは単なる勉強会ではない。
これだけの人数、メンバーがそれを物語っている。
南XX号室が今日の場所に選ばれた訳が分かった。

どちらにしても、話す内容は同じである。
気に止める必要はない。

坂本のどうでもいい紹介が終わると、右サイドの席から声がした。
竹中である。

「今日は、ここに出席している皆も知っている通り、世界でも有数の為替ディーラーであるIBTの仙崎了さんに御出で頂いた。

日頃、仙崎さんは外国為替市場を主戦場として活躍しているが、なかなかの学識者でもある。

つまり、知見に長けている人物ということだ。

皆もしっかりとお話しを拝聴する様に。

それでは仙崎さん、宜しくお願いします」

竹中の一言が終わると同時に部屋中に拍手が響き渡った。

突然の竹中の言葉に虚を突かれたかの様に坂本は唖然としている。

竹中の方に目をやると、礼を言う様に軽く会釈をした。

拍手が小さくなった頃合いを見計らって
「それでは、始めさせて頂きます」
と、淡々とした口調で話し始めた。

配布資料には『行動経済学と為替相場』というテーマと、幾つかの要点しか書かなかった。

聴き手を話に集中させるためのテクニックだ。
逆に言えば、話の内容と話術が問われることになる。

‘市場への参加者を、実需筋、投機筋、機関投資家に分類し、その上で短期・中期・長期に分けて其々の心理を分析する’というのが話の筋立てである。

この点を冒頭で触れ、淡々と話を進めた。

途中、分かり易い様にカーネマンの‘Thinking, Fast & Slow’の例を採り上げるなどしながら、徐々にリアルな為替市場に聴き手を引き込んでいった。

時折り‘なるほど’と言う様な聴き手の頷きが漏れてきた。
話が上手く進行している証拠である。

パワーポイントなどを使わなくても、話し方次第でスピーチに説得力を持たせることができるのだ。

コロンビア大MBA時代に心を打った講義にはそうしたものが多かった。

持ち時間の1時間半はあっと言う間に過ぎてしまった。
勉強会は2時間で、残りの30分は質問に当てられる予定である。

局長クラスや中堅クラスの数名から質問を受けたが、足下の米長期金利、内外の株式暴落、ドル円の先行きなどに関するものばかりで、有体に答えておいた。

概ね30分が経過したところで、坂本が質問を浴びせてきた。

「それでは、最後に私の方から一つだけ質問させてください。
先程、竹中局長から仙崎さんはなかなかの学識者という紹介がありました。

そこでお尋ねしますが、近年のアメリカ経済と金融政策について、経済学的見地から懸念されている点を教えて頂けませんか?」

「そうですね。

私が懸念している点は、低インフレと低失業率の併存への疑問、つまり、フィリップス曲線*への疑問でしょうか。

‘物価が突然上昇した場合、短期間で大幅な利上げが必要になる。
当然、それは経済・金融情勢にとって悪影響をもたらす’

これは 先日任期を終えたイエレンが昨年に再三言っていた言葉ですが、恐らく彼女は‘生産や実勢の雇用が完全雇用水準をオーバーシュートすることを懸念していたものと思われます。

もっとも、この点は線形経済学の観点からは上手く説明できないため、FED内での感触は良くない主張だったのかもしれません。

これ以上は時間を必要とする議論になるので、この辺で宜しいでしょうか?」

そこで再び一斉に拍手が起こった。

あまりの拍手の大きさに坂本も質問を続けられなくなくなった様である。

坂本は有体に「もう一度、仙崎さんに拍手を!」と言って、会を終えた。

 

会議室を出たところで、出席者のほとんどが仙崎に礼を言う様にして見送ってくれた。

吉住と山上がお茶でもと誘ってくれたが、まだ仕事があるのでと断り、その場を辞した。

階段で一階まで下り、中庭に出たところで後ろから呼び止められた。
坂本である。

「今日はありがとうございました。
なかなか面白かったですよ。
また機会があれば、宜しくお願いします。

ところで、先日田村さんから妙な写真が送られてきました。
あなたも結構なやり手ですね」
スマホに触ると、帝国ホテルでハグする男女二人の写真を見せて寄こした。

「この写真が私と何の関係が?」

「後ろ姿とは言え、この男性はあなたにしか見えませんが。
それに写真の女性はあの有名な阿久津志保ですよね。
これを妻が見たら、どう思うでしょうか?」

「いい加減にしませんか。
あなたの奥さんと私はかつての恋人同士という間柄だった。
だが、今はもう何の関係ない。
いつまでも下らない探偵ごっこをやってないで、早く彼女と別れてあげたらどうですか」

「仙崎さん、どうしてあなたが私と妻がそういう状態にあるということを知ってるんですか?
‘何も関係がない’と言ってるあなたが、離婚云々に触れている、不思議ですね」

「部下の連れ合いがあなたの奥さんとIBTの同期で親友だ。
その位のことは耳に入ってくる」

「なるほど、ああ言えば、こう言う。
流石に切り返しに慣れている一流ディーラーってわけか」

「坂本さん、本当は何を言いたい。
これは俺の想像に過ぎないが、あなたの奥さんはあなたを嫌っている。

でもあなたが奥さんを愛してるのなら、もう一度向き合ってみたらどうだ。
それでも奥さんがあなたの元に戻らないのなら、この先お互いに時間を浪費するだけだ。

日本で一番頭の良い大学とされている東大卒のあなたなら、そんな簡単な理屈が分からないハズはない」

「結構な理屈を言うじゃないか。
まぁ、これから先、何が起きるか楽しみにしておけばいい。

それから有名人の志保さん、本当に美人だな。
仙崎さん、あんたが羨ましいよ」

「坂本さん、これだけは言っておく。
写真はあなたの奥さんに見せない方が良い。

それと阿久津志保のことを、今後一切持ち出すな。
さもないと、あんたは霞が関に居られなくなる。
嘘じゃない」

「へぇー、お手並み拝見と行くか」
捨て台詞を残しながら、建物の中に消えて行った。

東大法学部卒、財務官僚、世間からは絵に描いた様な成功人生を送ってる様に見られているのだろうが、俺にはそうは見えない。

正面玄関を出たところで、改めて財務省の建物を振り返ったが何故かくすんで見えた。
ここが日本の財政政策と為替政策の要か・・・。

 

週後半になって再びドルの上値が重たくなり、ドル円は週末に直近最安値の108円28銭を抜き、108円丁度まで下落した。

 

土曜日の晩、国際金融新聞の木村宛てに来週のドル円相場予測を書いてメールした。

木村様

依然としてドルの下値を模索する展開を予測します。

焦点は、

1.下値圏では直近安値108.00円を抜くかどうか。

抜く様であれば、昨年最安値の107円32銭を試す可能性も。

2.上値圏では、109円75銭。

抜く様であれば、110円48銭を試す展開も。

予測レンジ:106円50銭~110円50銭。

 

特別なコメントはありません。

今週は少し疲れました。

埋め草は適当にお願いします。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

 

(つづく)

 


*金沢美術工芸大の聴講:本文で述べられている様な同大学の聴講制度は実在しない。

*フィリプス曲線:失業率が低いほど、インフレ率が高く、失業率が高いほど、インフレ率が低いという‘両者のトレードオフの関係’を示したグラフ。
現代版のフィリップス曲線では、Y軸にインフレ率、X軸に失業率をとる。

 

今回でシーズンⅡも終わり、次回からシーズンⅢに入ります。

‘米金利や内外株価に翻弄される為替市場、岬を悩ませ続ける坂本の存在、次々と仙崎に問題が降りかかる。

果たして仙崎は期末を上手く乗り切ることができるのだろうか’

読みどころ満載のシーズンⅢにご期待ください。

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。