第16回 「会えなくなった二人」

―――9月末決算のバジェットに大方の目途が付いた先週、東城から休暇を取る様に命令された。

それに従って休暇を取り、松本の奈川に出かけることにした。

禁漁前のフライフィッシングが目的だが、松本に暮す岬の近況もこの目で確認しておきたいという思いもある。

三連休(16日~18日)でフィールドを訪れるフライマンが多いため、19日(火曜日)の午後に出発することにした。

そんな折、山下からジュニア・ディーラーの前島の様子が変だという連絡が入った。

そして岬からも奇妙な電話が入る―――

 日本が祝日の週初(18日)、アジア時間の相場は模様眺めの展開となり、ドル円も11円台前半(111円台前半)で終始した。

ところが、海外で重要水準の11円65*を抜き、66を付けた。

完全に抜けた訳ではないが、一度抜けたレベルを再度試しに行くのが相場の習性である。

果たして翌日の東京でそこを抜きにかかった。

そんななか、山下から携帯に電話が入った。

奈川に向かう直前の午後2時過ぎのことである。

「ジュニアの前島が突如消えてしまいました」

「どういうことだ?」

山下は

‘クルーシャル(重要な)・レベルの65(11円65)が完全に抜けたので前島がドルを10本、75で買った。

その直後に彼がディーリング・ルームを飛び出して行った‘と訳の分からない説明をした後、

「何かにショックを受けたというのが周囲の話ですが、細かな事情は分かりません」と言葉をつないだ。

「それで、あいつの携帯に電話を入れてみたのか?」

「はい、今独身寮に帰る途中の様です。
嘘を付く様な男ではないので、多分、あと30分ほどで寮には着くと思いますが」

「先週お前に、‘月末まではカバーに徹する様に皆に指示しておけ’と言ったが、それは伝えてあるよな?」

「はい、今朝のミーティングで伝えてあります」

「ふーん、そうか。
とすると、何か裏があるな。
確かあいつの限度(取引可能額)は5本までだったよな。
それが何で10本のディールをやったんだ??? 
その辺に理由があるのかも知れないな。
万が一のことがあると拙い、俺が寮まで行ってみるよ」

「だけど課長、これから奈川へ出かけるところじゃないんですか?」

「それより、前島のことが気になる。また後で電話を入れる。お前はデスクに残れ」と命令口調で言った。

‘今日はもう、あっちに向かうのは無理そうだ’
奈川のペンション‘野麦倶楽部’に電話を入れ、チェックインを明日にしてほしい旨を伝えた。

 前日に四谷のトヨタレンタカーで借りておいたプラドに乗り込むと、船橋にある独身寮の住所をナビに入力した。

かつて自分が住んでいた場所だが、神楽坂からの道順はさっぱり分からない。

取り敢えず、飯田橋ICから首都高5号線に入り、後はナビの指示従うことにした。

‘こういうときはナビが便利だ’

一時間ほど走ると、京葉道路の‘原木’で高速を降りろという指示が出た。

ランプウェイを降りた後は一般道を船橋市内に向けて走れば良いらしい。

指示通りに20分ほど走ると、ランドマークの船橋市役所近辺に出た。

確か独身寮は市役所の裏手方面だったはずだ。

寮を離れてから8年以上も経つが、この辺りは昔とあまり変わっていない様子で土地勘が甦ってくる。

同時に‘目的地周辺です’のナビの案内が聞こえ、間もなく見慣れた寮の建物が目に入ってきた。

敷地内に入り、車を玄関の前に止めると、管理人が近づいてきた。
見慣れた顔である。

「おう、了君か。元気だったか? 活躍してる様だな。
寮に居た人間が活躍してるのを聞くと、管理人としても嬉しくなるよ。
ところで、今日はどうした?」

「唐突な話ですみませんが、前島君は戻ってますか?」

「ああ、さっき戻ってきた。調子悪いので、早引けしてきたと言ってたけどな」

「そうですか、彼の部屋番号は?」

「303だ」

「ありがとうございます。車、このままで良いですか?」

「ああ、大丈夫だ」

「ちょっと、部屋に行かせてもらいます」

303は3階の3号室だ。
4階建ての寮にはエレベーターが付いていない。
一挙に3階まで駆け上がり、303のドアをノックした。

中から
「おじさんですか?」
前島の声だ。

声を聞いたところで、安堵した。

そして一息つき、
「管理人さんじゃない、仙崎だ。中に入れてくれ」
と落ち着いた声で言う。

「えッ、課長。本当ですか? ちょ、ちょっと待って下さい」
ドア一枚を隔てただけなので、少し慌ててる様子が伝わってくる。

数分すると、前島がドアを開け、
「どうぞ、入って下さい」と招じ入れてくれた。

「おう、どうした? 心配したぞ。山下から電話を貰ったが、突然消えたそうだな」

「はい、申し訳ありませんでした。どうもあの場にいるのが辛くなってしまったので・・・」

「良かったら、話を聞かせてくれないか?」
急かせずに、相手の出方を待った。

前島は状況をとつとつと語り出した。
その目にはかすかに涙が滲んでいる様だ。

・・・・・

一年先輩の中村と相場感を照らし合わせているうちに、‘ここは買い場だ’という話になった。

そこで二人合意のもと、5本・5本、計10本を75で買ったが、その直後に中村が寝返った。

中村は
「やっぱり俺は止めた。
10本全部のお前のポジションにしておいてくれ。
俺は今月マイナスでちょっとこれ以上は拙い」
と命令口調で言い放ったという。

その後、言い争っているうちにドルがオファー(売り気配)になり、50でストップを置いて銀行を後にした。
・・・・・

というのがお凡そのストーリーである。

改めて聞けば、大した話ではないが、問題は先輩に裏切られた前島の心が傷ついている点だ。

限度オーバーも気にしているに違いない。

かつての俺も田村の罠に嵌り、深く傷ついた。

同僚や上司に裏切られた気持ちは痛い程分かる。

‘真剣に対応してあげなければな’

「凡その内容は分かった。
ところで、お前はまだ、市場に残っていたいのか? 
むろん、遠い将来のことではなく、今の話だ」

「はい、課長の下で仕事を続けたいと思ってます」

「そうか、ちょっと待ってろ」と言い、
携帯を取り出し、山下に電話を入れた。

「あっ、課長。どうでしたか?」
真剣な声だ。
余程心配していたのだろう。

「前島は大丈夫だ。
悪いが、前島の限度枠を今日付けで10本に訂正しておいてくれ。
また詳しいことは後で連絡する」

「課長、どういうことですか?」と前島が訝しげに尋ねてきた。

「お前は今日、正当な枠の中でポジションを取ったわけで、行内ルールを犯していないということだ。
そしてこれからは、これまでの倍のポジションを取れることになる。
不足ならもっと枠を増やすか」
微笑みながら答えた。

「いえ、10本で十分です。ありがとうございます」
深々と頭を下げ続けている。

「もう良い、顔を上げろ。
じゃ、俺は帰るが、山下に電話を入れておけよ。
その時、25と30(11円25、30)で5本ずつ、買いのリーブを入れておくと良い。
今週中にまだドルは上がる。
きっと利食える。
ただ、これは俺が特別に許可した月中の最後のポジション・テイキングだ。
10月に入るまではカバー以外に手を出すな」
きっぱりと言った。

’もうこれ以上、言うことはない’
そっと、部屋を後にした。

階段を下りかけたところで、
「課長、ありがとうございました。また頑張ります」
という前島の声が聞こえた。
寮中に響き渡る様な大声である。

 管理人夫妻がホールのテーブル席で待っていてくれた。
仲の良い夫妻である。

「お帰りですか?」
奥さんが言う。

「はい、今日は手ぶらで来てしまって申し訳けありません。
次回はお二人が好きだった‘岡埜栄泉の豆大福’を持ってきます。
あいつの件は、もう心配要りません。
昔の僕ですよ」
管理人夫妻はかつて俺が悩んでいたときのことを良く知っている。

「それは良かった。
かつての了君の経験が今日は生きたってところだな。
それじゃ、気を付けてな。
今度は泊りがけで来いよ。
いつでも部屋は空いてるから」

「はい、是非。それじゃ、失礼します」
と言い残し、プラドに乗り込んだ。
フェンダーミラーに手を振る二人の姿が映っている。
窓を開けて、手を振り返した。

帰路の途中で幾度も渋滞に巻き込まれ、神楽坂の社宅に着いたときには、時計の針は8時を回っていた。
‘今日も、宅配ピザだな’

ピザが届くのを待つ間、ベッドに横たわって目を瞑った。
疲れが出たのか、眠りに落ちた様である。
夢の中で携帯電話の鳴る音が聞こえる。
やがてそれが現実の音に変わった。

「了、私」
岬である。

「どうした?」

「来るのは金曜日よね?」

「ああ、そうだけど。何か都合でも悪くなったの?」

「うーん・・・。上手く説明できないんだけど、どうもここ最近、見知らぬ人がお店の様子を窺っているの。
母は夫が雇った私立探偵じゃないかって。
そう言われてみれば、そういう気もするの。
猜疑心の強い人だから、やりかねないわ」

「つまり、岬が誰かと付き合ってるかどうか、探ってるってことか?」

「多分。もちろん、了にこの間、会ったことも知らないし、他に疑われる様なことは何一つないわ」

「でも、そういう状態だと、金曜日は拙いな。
少し間を空けて様子をみた方が良いかも」

「そうね。でもせっかく了が奈川に来てるのに会えないのは残念だわ」

「実は、今まだ神楽坂にいるんだ」
前島の件を説明した。

「そうなの。大変だったのね。でもフライフィッシングはやりたいんでしょ?」

「まあな。でもこの際、釣りはどうでも良い。また10月に入って、状況が変わったらそっちに行くよ」

「分かった。なんだか貴方に迷惑をかけそうで、とても恐いわ。ごめんね」
涙ぐんでいる様だ。

「そこまで心配しなくて良いよ。
それじゃ何かあったら、連絡をくれ。おやすみ」

「おやすみなさい」

電話を切ってから、彼女が別居を始めた理由が少しずつ分かり出した。

 今回の奈川行きは取り止めにし、翌日から横浜の実家へ帰ることにした。

久しぶりに見る母の顔である。

中華街でペキンダックを奢り、みなとみらいでハンドバッグを買ってあげた。
母の喜ぶ顔を見ながら、‘早く結婚しないと拙い’という気持ちになったが、当分は無理そうだ。

かつて岬とロイヤルパークから夜のベイブリッジを延々と眺めていたことが思い出される。
‘もうあんな日は来ないのかも’

ドル円は木曜日に7月17日以来の高値水準となる112円72銭まで上昇し、112円前後で週末のニューヨークを終えた。
どこかで前島は利食えたはずだ。

7円32(107円32銭)から続いている一連のドル高局面で、調整らしい調整が入っていない。

この先の焦点はフィボナッチ水準の12円99(112円99銭)*だが、その直前に年初来高値18円60(118円60銭)を起点とする抵抗線が走っているし、来週は調整かな。

もっとも、10月に入るまではポジションを取らない。

深く考えるのは止めておこう。

(つづく)


*11円65: 118円66銭(昨年12月15日)と107円32銭の38.2%戻し
*12円99:同50%戻し

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。