月別アーカイブ: 2018年5月

第51回 「岬の決意」

「俄かロングがこの先も踏み止まれるかどうかに疑問があります。

10円台(110円台)の売りを飲み込みながら買っているので、彼らも苦しいはずです。
12円を見る前に一旦落ちても不思議ではないですね。

予想レンジは108円65銭~111円90銭です」

と今週の相場予測を伝えた。

今週の相場は正にそんな展開となった。

週初(21日、月曜)こそ、ドル円は111円39銭を付けたものの、翌日(火曜)から上値が切り下がり出したのだ。

トランプ米大統領による米朝首脳会談の延期示唆や‘輸入車に25%の関税を賦課する’という示唆がドル売り円買いを誘発し、俄かロングの落としを誘ったのだ。

水曜に心理的節目の110円を割り込むと、木曜には一挙に108円96銭まで下落した。

そんなドル円相場も、週末(金曜)のトランプ米大統領による「今後の(米朝)首脳会談は6月12日に開催される可能性すらある」という発言で、地政学的リスクが後退し、下げ止まった。

だが、米10年債イールドは3%を割り込んだままで、軟調なドルの地合いは変わらず、結局109円40銭前後で週を跨いだ。

111円20銭と30銭で振った都合100本のドルショートは上手く機能した。

109円台前半で50本は利食ったが、残り50本はキープしたままである。

ユーロドルは1.16台へと沈み、先週からキープしている1.1975のユーロドル50本のショートも相当に利が乗っている。

金曜のニューヨーク市場を見届けた後、月曜は休むことを決めた。

土曜日の午前中、国際金融新聞の木村にメールを送った。

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木村様

来週は揉み合う展開と見ますが、バイアスはドルの下方リスク。

再び110円台に乗る様であれば、111円を覗く可能性もありますが、そこからは上値は重たいと予測します。

下値圏では108円65銭が肝で、ここが抜ければ、107円台前半も。

予想レンジ:107円25銭~110円80銭

簡単で申し訳ありません。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

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木村にメールを送った後、沖田に電話を入れた。

「来週の月曜、休むが、いいか?」

「はい、問題ありません。
今週はたっぷり稼いだ様ですから、存分にロッド(竿)を振ってきてください」

‘俺がフライフィッシングに出かけると思ってるらしいが、今回は無理だろうな’

「ありがとう。
それじゃ、休むことにする。
時折、電波が届かない処にいるかもしれないから、その時はお前に一任だ」

「ええ、今週の課長の稼ぎ、全部飛ばすかも知れませんけど」

「お前なら、そんなことはないと信じてるよ。

一応、ドル円50本の利食いは、10円10銭(110円10銭)takenで入れておいてくるれか。
Minimum profit だが、無いよりましだ。

そこが抜けなければ、放っておいてくれ。

ユーロドルもそのままでいい」

神楽坂の社宅を出たときには、既に11時を回っていた。

車は早朝に四ツ谷のトヨタレンタカーで調達してきたプラドである。
関越道・長野道を一気にプラドを駈り、更埴ジャンクションで松本方面へと向かった。

快晴の下、高速をひた走るのは気持ちが良い。
途中、横川SAのタリーズでコーヒーを飲みながら休憩しただけだが、全く眠くならない。

‘最高のドライブ日和だ’

安曇野インターに差し掛かると右手の遠方にまだ雪を残す北アルプスの連山が眩しい。

ふと、Yoshiko Kishino の アルバム 「face」が聴きたくなった。
トラックに‘凛嶺(rinrei)’が入っているからだ。

木住野はこの楽曲を‘雄大で凛とした立山連峰をイメージして作った’という。

かつて岬と付き合っていた頃、‘松本市街から北アルプスを見ると、勇気が湧いていくるの’と彼女が語ったことがあった。

‘凛嶺’のメロディーが岬の言葉と重なって流れる。

‘無性に当時が懐かしい。
もう時間は取り戻せないのか。

9年前に、田村の罠に嵌まり、ディールで1億円のロスを出した。
そのことがきっかけとなって、‘強く握っていた’はずの岬の手を放してしまったことが悔やまれる’

そんな後悔の念が脳裏を強く叩き出したところで、プラドは松本インターに着いた。

インターから20分程のところに宿泊予定のホテル・ブエナビスタがある。
岬と初めて結ばれたホテルだ。

チェックインを済ますと、客室係が12階にあるエグゼプティヴ・ゲストルームへと案内してくれた。

係が部屋を出ていくと、ツインベッドの一つに体を投げ出した。

‘もう何を言われようと、岬の好きにさせておくしかないな。

坂本と結婚した後、岬は長い間苦しみ続けたきた。
そんな今の彼女にとって、俺と結婚することだけが幸せではない’

そんなことを考えているうちに、寝入ってしまった様である。

大分寝た様な感覚で目覚めたが、この時期の日は長い。
時計に目をやると、6時半である。

一人で所在がなくなり、‘縣倶楽部’へと出向くことにした。
‘縣倶楽部’は岬の伯父が営む小料理屋である。

松本では毎年5月の最終土日にクラフトフェアが‘あがたの森公園’で開催される。

初日のこの日、フェアを目当てに県内外からの観光客やクラフトマニアで街は結構な賑わいだ。

岬が以前、‘松本クラフト・フェアは規模・レベル共に日本一よ’と自慢げに言っていたが、
街の賑わいでそのことが良く分かる。

ホテルを出て20分ほどで‘縣倶楽部’に着いた。

季節の良いこの時期、店の一間引き戸の片側が開いている。
暖簾をくぐる様にして入ると、岬の伯父がカウンターの向こうで忙しそうに動いているのが見えた。

「今晩は」と声を掛ける。

「おっ、了さん、やっと来たか」と岬の伯父が応えてくれた。
待ちわびていてくれた様子が声の調子で分かる。

「空いてますか?」

「岬から了さんが来るかも知れないって聞いていたので大丈夫ですよ」

「久しぶりですね。
今日はフェアの初日で店が混雑していて話相手になれないけど、
旨いものを出すからゆっくりしてってください」

「それじゃ、料理はお任せで、アルコールはビールの後に辛口の冷酒にします」

二杯目の冷酒飲み終えたところで酔いが回った。
話し相手のいない、外での一人酒は酔いが回るのが早い。

早々に店を後にして、ぶらぶらと歩きながらホテルへと戻った。

ホテルの部屋に着いたところで、岬に電話を入れた。

「今、伯父さんの店で飲んできたところだ。

ホテルはブエナビスタにした。
部屋番号は12XXだ。

明日、来られそうか?」

「ええ、フェアの打ち上げの途中で抜けるわ。

多分、8時頃になると思う」

「分かった」

「了は明日の日中、どうするの?」

「気が向いたら、奈川。

そうでなかったら、‘あがたの森’にでも行ってみるよ」

「本当に!

了がクラフトに興味を持ってくれるととっても嬉しいわ」
何故だか本当に嬉しそうな声を返してきた。

「へぇー、そうなのか。

意味が良く分からないけど。

それじゃ、明日の晩、待ってるよ」

「おやすみなさい」

‘俺がクラフトに興味か・・・’

結局、翌日の日曜日は奈川に行かなかった。
プラドを飛ばせば、1時間半ほどで行ける場所だが、体が動かなかった。

昼頃、クラフト・フェア会場の‘あがたの森’へと足を向けた。

確かに人気のフェアの様だ。
誰もいなければ、広々とした公園だろうに、人で埋め尽くされている。

人混みを縫う様に園内をザーッと一回りすると、どっと疲れた。
クラフトを見るどころではない。

やっとの思いで公園の外に出ると、旨いコーヒーを飲みたくなり、気に入っている‘まるも’へと足を向けた。

ここも凄い混みようで、店の外に待ち客が並ぶ。

‘こんな日もあるか’と思いつつ、コーヒーも飲まずにホテルへと戻った。

岬が部屋にやってきたのは8時過ぎだった。

「打ち上げ会、上手く抜けられた様だな」

「ええ、結構な人数に上るので一人ぐらい抜けても分からないの」

「そっか、それは良かった」と言うと、いきなり岬が胸に飛び込んできた。
愛おしさに力を込めて抱きしめた。

息苦しくなったのか、少し俺を後ろへ押しながら「シャワーを浴びてくるね」と言って、バス・ルームへと消えて行った。

30分後、バスローブ姿の岬がベッドで寝転ぶ自分の方に近づいてきた。
少し痩せて見えた。

それを確認する様に抱き寄せると、やはり少し痩せた感触が伝わってくる。

’フェアの準備で忙しかったのだろうか’

二人が結ばれたのは、岬が失踪した冬の奈川以来のことである。

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薄明りの下、
「了、話があるの」と恐々と岬が声を出す。

「この間言ってた、真剣に考えてっるて話のことか?」

「ええ、真剣なの」
少し泣き声である。

‘Head wind(向かい風)のポジションか・・・。
市場の向かい風には慣れているが、この向かい風は手強いな’

(つづく)

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第50回 「失われた方向感」

週初月曜日(14日)の早朝、ドル円は小緩んだものの、9円(109円)を割り込む気配は失せていた。

持ち込まれる顧客のフローもドル買いばかりだ。

「沖田、上手く捌けてるか?」
場の感触を確かめるのには、インターバンク・ディーラーの肌感覚に頼るのが良い。
沖田は人一倍その感覚が鋭く、意見も頼りになる。

「はい、少し捌きづらくなってきたのは事実です。
この状態が続くと、カバーするので一杯一杯でしょうか」

‘時間を追うごとにビッドになって行く感じがする’

「そっか、そんな感じか。
10円台の客の売りオーダーも先週末の半分に減ってるな。
先日から持ち続けてる90(109円90銭)の売り50本、手仕舞っておくか。

どうも今週は上だな」

「そうですね。
10円(110円)は2回蹴られて、今度で3回目ですか。
抜け頃、落ち頃ですが、場から受ける感触は上でしょうね」

「大京(大京生命)をはじめとした8円台後半の資本の買いオーダーは300本か。
この状況だと、彼らは買い水準を上げてくるな。

もしかすると、今日の午後にでもリーブを外して、買ってくるかもしれない。
沖田、カバー用として150本、上の売りの手仕舞い用に50本、合わせて200本買うことにする。

それと、ユーロドルを100本売る。
ドル円は一連の流れで利益こそ出ているが、居心地が悪い中での稼ぎだ。

その点、ユーロドルは自信を持って臨めそうだ」

「であれば、資本が買ってくる前に、私もカバー用にドル円50本、買っておきます。
どんな感じでやりますか?」

「そうだな。
ドル円は時間差を付けてこっちとシング(シンガポール)で買う。

ユーロドルは戻り売りのリーブで行く。

始める前に、マイクにメールを入れておくから少し待っててくれ」

「了解です」

 

沖田との打ち合わせを終えると、直ぐにマイクにチャット・メールを入れた。
マイクはコロンビアMBA時代の親友で、コネティカットでヘッジファンド‘パシフィック・フェローズ’のCEOである。

俺が大きく動くときは、彼に連絡することにしているが、それは自分のためでもあり、そして彼のためでもある。

‘Hi, Mike!
How are u doing?’

‘I’m all right.
How abt yourself?’

‘ Tks, fine same as usual.
I don’t have much time, tdy.
Just a point.
I’ll buy usdjpy here.
Institutions are likely to buy it’

‘Gotcha!
I’ll follow u.
Tks.
Oops!
I’ve got a phonecall.
One second’

‘急ぎの電話の様だ’

‘I’m back.
Here’s a present for u.
There’s a rumor Italy will ask ECB to reduce their debt.
This is just a rumor, but may be useful.

Good Luck!
I’ll let u go’

‘Talk to u soon.
Bye now’.

「沖田、マイクへの連絡は終えた。

イタリアがECBに債務の減額を申請するという噂があるらしい。
メディア・ネタにはなるな。
ヘッドラインだけでも、ユーロ売りだ。

それはそれとして、ドル円を仕込むとするか。

まずはこっちで小刻みに150本を買い、ビッド気配を作っておく。
これで恐らく、30(109円30銭)以下に落ちづらくなると思う。

その後、100本をシングとこっちで分けて買う。

小野寺と一緒にすべてを1時間以内に終わらせてくれ」

「了解です」
沖田が小野寺を呼び、手配を始めた。

「野口、ユーロドル100本売りたいが、どこまで戻りそうだ?」

「1.20は無理かと思います。
1.1975辺りでしょうか・・・。

やはり、売りでしょうか?」

「だろうな。

どうもドイツをはじめ、ユーロ圏の景気動向が悪化しているのが気になる。
この状態では、ECBの正常化は儘ならないはずだ。

それに、ほぼ利上げと同じ意味を持つユーロ高はECBにとって好ましくない。
ユーロ安は外需増効果がある一方、正常化(緩和解除)の環境を整えるのに都合が良い。

何よりも、IMMの投機的ユーロの買い越しが相当残っているのが気になる。

ともかく、リーブを頼む。

お前が推薦する1.1975で100本の売りをuntil further noticeで出しておいてくれ。
ストップロスは不要だ」

「了解です」

 

一時間後、沖田からディールの結果が届いた。

沖田の分と合わせて250本、9円28銭(109円28銭)で仕上がった。

「沖田、利食いに充てる50本以外は、全部客のカバーで使っていいぞ」

「ありがとうございます」

ドル円が上がり始めたのはそれから30分後のことである。
大京をはじめとする大手生保や有象無象の客がドル買いに動き出したのだ。

沖田が隣で大口のフローを捌いているが、余裕でこなしている。
予め買っておいて分は客に全て持って行かれたが、それで良い。

インターバンク・ディーラーのこうした対応は、自らのカバー業務の助けになる一方、顧客にも良いプライスを提供できるというメリットもある。

そして、それが顧客のフローを増やし、コーポレート・デスクへ収益をもたらすのだ。

 

その日以降、ドル円は上がり続け、週末には11円08(111円08銭)まで跳ねた。

ユーロドルは1.1996まで戻した後、週後半に1.1750まで下落した。
50本を利食い、残りの50本はそのままキープした。

方向感を失ったドル円とは逆に、ユーロドルの方向は合っている。

‘このまま、根っこのポジションになればいいが・・・。

米中通商交渉が縺れるなか、そのトバッチリがドイツの対米黒字話に向かえば、米国サイドからのユーロ安牽制に繋がりかねない、それだけが気懸りだ’

 

ドルが上昇した今週、インターバンク・デスクも上手く乗り切り、コーポレート・デスクの収益も上出来だった。

まずまずの気分で迎えた週末の土曜日だが、少しだけ憂鬱なことを抱えている。

昨日、テレビ国際の中尾からメールが送られてきた。

‘俺のコメンテーターとしての評判は良く、視聴率が上昇していることに感謝している。

だが、コメントがいささかマーケット・オリエンティド(市場寄り)になっているため、修正してくれ’

という趣旨のことが書かれていた。

面倒なことは早く片付けておくのに越したことはない。
その日の内に、返事を書いて送った。

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中尾様

御趣旨は良く分かりました。

しかしながら、私は為替市場という現場で体を張っているディーラーであり、コメントがマーケット・オリエンティドになるのは当然かと考えています。

仮に私のコメントが番組の趣旨を曲げているとすれば、中尾様や貴局にご迷惑を掛けることになりかねません。

従って、差し障りのない、通り一遍の講釈を得意とする人物をあなたの横に座らせては如何でしょうか?

他の銀行や総研のアナリストなど、テレビに出演したい人間は山ほどいる様ですから、私の後釜にお困りになることはないでしょう。

来週の月曜日からという訳にはいかないでしょうから、今月最後の月曜日までは出演させて頂きます。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

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話がこのまま終わるハズがないことを承知の上で送ったメールである。

その日のうちに、中尾から電話があった。

「メールでの依頼の仕方が悪かった。
撤回したい」
というのが電話の趣旨だったが、最後に「詫びとして、近いうちに一席設けます」という言葉が付け加えられた。

‘本件、手仕舞いまでに時間がかかりそうだな’

憂鬱な気分を引き摺りながら、週末の一日が無下に過ぎて行く。

 

夕飯は神楽坂のイタリアン・レストランで済ませた。
その帰り道、国際金融新聞の木村から電話が入った。

「今晩は。
これからメールを打とうと思ってたところです」

「いや、話は相場の件じゃないんです。

例の番組、テレビ国際の若手局員によると月曜の視聴率が相当上がったそうで、それをお伝えしようと思いまして。

月曜の視聴率が上がったということは仙崎効果ですから、仙崎ファンの私としても嬉しい限りですよ」
本当に嬉しそうな声を出して言う。

「そうですか・・・。
それはそれで悪い話じゃないんですが、例の彼女にはあまり嬉しい話じゃないみたいですね」
昨日の経緯を話した。

「そんなことがあったんですか。

他の曜日も視聴率が上がったのであれば、彼女の実力や番組構成の成果ですが、月曜だけだとそうではないことになる。

それは彼女にとって都合の悪い出来事ですね」

‘先日若手局員が、
「これは今、視聴者から局に送られてきたメールの一部です。
中尾にも渡されているものですが、仙崎さんにお渡しすることは伏せてあります」と言っていた意味が少し分かってきた’

「結構、彼女も崖っぷちに立たされてる様ですね。

木村さん、暫く放っておきましょう。
仕事以外の悩み事は増やしたくないんで。

頂いた電話ですが、ついでに来週の相場の話をしておきます。

うちでも今週、結構資本が入ったのは事実です。
ただ、俄かロングがこの先も踏み止まれるかどうか?

10円台(110円台)の売りを飲み込みながら買ってるので、彼らも苦しいはずです。
12円を見る前に一旦落ちても不思議ではないですね。

予想レンジは108円65銭~111円90銭です」

「そうですか。
分かりました。
後は適当に埋めておきます。

それでは、失礼します」

‘視聴率か・・・。
キャスターって仕事も大変だな’

 

社宅に戻ると、冷蔵庫からハートランドのボトルを出し、栓を開けた。
グラスに注がず、ボトルのまま口に運んだ。
いつもより、少し苦い感じがした。

BGMはKeith の ‘Standard, Vol.2’。
どのトラックのタイトルも、岬を失いかけている今の俺には相応しくないが、Keithのピアノが軽快なのが良い。

In love in vain
Never let me go
If I should lose you

‘それにしても暗いタイトルが多いな・・・’
自然と苦笑いが漏れる。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第49回 「久々のTV出演」

テレビの経済番組に出演するのは久々のことである。
昨年の今頃までニューヨークのテレビ局の経済番組に出演していたが、それ以来のことだ。

番組の放送が始まるのは午後11時、とてもやっかいな時間だ。
相場が動いているときは、銀行で市場と向き合っていればいいが、相場が死んでいるときはそうもいかない。

番組出演の初日(7日)の欧州時間、ロンドン市場が休場で銀行に残るほどのこともなさそうな相場付きだった。

‘一旦、社宅に帰って、テレビ局に向かうことにするか’

緊急時の出勤や居残り以外は銀行からタクシー代は支給されないが、帰国後の通勤はタクシーである。

この日も銀行を出ると日比谷通りの反対側に渡り、タクシーを拾って神楽坂の社宅に戻った。

 

社宅の敷地に入ると、何故か自分の部屋の灯りが点いている。

不思議に思いながら、自室のある棟の階段を上がりだすと、そこで母と出くわした。

「あら早いのね、今日は」
時刻は午後7時半である。

「なんだ、母さんか。
部屋に灯りが点いていたので、誰かと思ったよ。

今日から毎週月曜日にテレビ出演するんだけど、番組までに時間があるから、一旦社宅に戻ることにしたんだ。

外で酒を飲んでから生出演するってのも流石に問題があるからな」

「そうなの。
それなら、丁度良かった。

お前の好きな稲荷寿司と簡単なおかずを作っておいたから、それを食べてから出掛けるといいわ」

「本当、そいつは良い。
ありがとう、いつも助かるよ」

「いい加減、お嫁さんを貰ってよ。
こっちはもう歳で、家政婦仕事でこんな遠くまで出かけて来るのも大変だからね。

その後、岬さんとのお付き合いはどうなの?」

‘痛いところを突かれた’

「ああ、だめそうだな」
小さい頃から母には誤魔化しが効かないので、正直に答えた。

「そう、残念ね。
まぁ、こればっかりは縁だから。

ところで、今日はテレビ何時から。
どうせお前の出る番組だから、局はテレビ国際だろうけど」

「ああ、11時からだ」

「そう、でも今日はお前の顔を見ちゃったから、番組を見る必要ないわね。
それじゃ、帰るわ」
微笑みながら言う母の顔は年齢を感じさせながらも、若かった頃の美しい面影を残している。

「気を付けてな・・・。

週末には永田に帰るから、中華街に何か旨いものでも食べに行こう」
少し大きな声で言った。

今度の日曜日は母の日である。

‘たまには親孝行もしないとな’

 

麹町のテレビ国際には10時半に着いた。
初日とあって、セキュリティー・ルームの前で若手局員が出迎えてくれ、10階にある経済部の応接室へと案内してくれた。

「時間が来たら、また私がお迎えに上がりますが、その前に中尾が5分程度打ち合わせにくると思います」
と言い残すと、若手局員は部屋から出て行った。

ほどなくして、ノックと同時にドアが開いた。
中尾佐江とアシスタントと見られる中堅の男子局員である。

「お疲れのところ、今日はありがとうございます。
さっそくで恐縮ですが、打ち合わせをさせてください」

番組の打ち合わせ場所を兼ねている応接室のテーブルは少し高い。

男子局員が今日の番組スケジュールをテーブルに広げて、こっちに向けた。
テーマと進行時間が書かれている。

「仙崎さんには、11時20分ぐらいからお話をお伺いする予定です。

今のホットな話題となっている米中貿易摩擦などを私の方で適当に話させて頂きます。

その後、仙崎さんをご紹介させて頂き、FRBの金融政策、それに市場のお話をお聞きしたいと考えておりますが、それで宜しいでしょうか?」
畳み込むように中尾が言う。

「結構です」

「それに仙崎さん、今日は初めてのご出演なので、プロとしての市場の考え方についてお聞かせ願えればと・・・」
こっちの出方を窺う様に言葉を切った。

「構いませんが、市場の機微を語ると長くなるので、大凡でということであれば・・・」
こっちも、言葉を切った。

「ええ、それでもちろん結構です。
それでは、本日は宜しくお願い致します」
言い残すと、素早くドアの方へと歩き出した。
その後を男子局員が追う。

‘小池都知事も人気経済番組のキャスターを務めていたそうだ。
その頃の彼女、こんな感じだったのだろうか’
高校生の当時、小池百合子の番組を見た記憶がないので、二人を結びつけることはできない。

 

11時5分前になると例の若手局員が応接室にやってきてスタジオのゲスト・コメンテーターの席まで案内してくれた。

11時になると、番組のテーマ音楽が勢いよく流れ出した。
ニューヨークのTV局よりも若干音が大きく聞こえる。

「今日はまず、このニュースからです」という言葉で番組は始まり、米中貿易摩擦問題、米長期金利上昇と新興国利上げなど、主要なテーマが紹介されていく。

予定の11時20分になると、中尾の声のトーンが少し変わった。
「ところで今日は、新たなゲスト・コメンテーターとして、東京国際銀行の仙崎了さんをお招きしております」

一台のカメラが寄ってくるのが分かる。
カメラの先端部にある赤色の光を向けられると、自然とそこに目が向く。
カメラ目線に自然となっていくのが分かる。

少し長い様に思われた紹介も終わり、今年の米金融政策についてのコメントを求められた。

この手合いの質問の答えは簡単である。
有体の答えにプロとしてのコメントを少しだけ付け加えた。

俺のコメントに対して、
「なるほど、流石プロらしいお考えですね」と言って、中尾がほめてきた。

次の質問が難しかった。
「ところで先崎さんは、為替市場でのキャリアがお長いですが、為替ディーラーとして生き残るための秘訣とは何でしょうか?」
時速100マイルのフォーシームを苦手なインサイド高目に投げ込まれてきた感じだ。

‘体を後ろにステップして逃れれば、今度は外角について行けなくなる’

上半身のみをスウェイして、かわした。

「そうですね、短時間で市場の機微まで答えるのは難しいですが、一言で言えば、‘市場のポジションの偏りを把握すること’でしょうか」

「つまり、市場で言うところの逆張りですか?」
案の定、外角のスライダーが投げ込まれてきた。

「むろん、その意味も含みますが、市場参加者の立場によってその捉え方は異なるのかと考えています。

インターバンク・ディーラー、ポジション・テーカー、機関投資家、そして実需筋など、それぞれの立場でポジションの考え方が異なります。

刹那刹那のポジションの偏り、中長期の基礎的需給はどうなのか、という様に」
下半身が浮くのを必死に堪えながら、アームを一杯に伸ばし、少しだけ手首のコックを解いてバットをボールに当てた。

そして間違いなく、右打ちの俺が打ったボールはファーストの頭上を越えて行った。

‘時間が限られた中で語ることのできる、プロとしてのコメントはこれが限界だ’

中尾もそれを察知した様だ。
「なるほど、流石ワールド・ファイナンス誌で常にトップ・ディーラーの座を維持している仙崎さんならではのコメントですね。

仙崎さん、本日はどうもありがとうございました」
打ち合わせでは、自分のコーナーが終わったら退席して良いことになっている。

中尾の
「それでは、ここでトレンド・ビジネスについてのコーナーに移らせて頂きます」
という言葉を聞き終えると、スタジオから出た。

エレベーターに向かう通路の途中で、誰かの呼び止める声が聞こえた。
先刻案内してくれたの若手局員である。

俺に追い着いた彼は、十数枚程度のA4版の一束を渡して寄越した。

「これは今、視聴者から局に送られてきたメールの一部です。
中尾にも渡されているものですが、仙崎さんにお渡しすることは伏せてあります。

凄い評判ですね。
本日はどうもありがとうございました」
彼はそう言い残すと、再びスタジオの方に戻って行った。

‘なぜ、俺に渡すことを伏せておくのだろうか’

正面玄関の車寄せには数台のハイヤーが待っていた。
局員から告げられたナンバーのハイヤーを見つけると、‘東京国際銀行の仙崎ですが’と告げて乗り込んだ。

神楽坂の社宅までは僅かの距離だが、手持無沙汰に先刻渡された紙の束に目をやった。

・・・先崎さんの様な方がコメンテーターになることを待ち望んでいました・・・
・・・流石に市場のど真ん中にいる人のコメントは迫力がある。彼にもっと市場のことを語らせる時間を与えてほしい・・・

どのメールにもそんな内容のことが書かれたいた。

‘なるほどね。
今はそんな時代なのか’

 

その日以降、ドル円相場は強含みに推移し、木曜日(10日)には10円02(110円02銭)まで上昇した後、9円40で週を終えた。

市場から北朝鮮絡みの地政学的リスクという言葉が忘れ去られ、「WTIの上昇が米物価上昇期待を煽り、その結果FEDが利上げを加速させる」といった観測が今はドル買いの軸になっている。

‘そう簡単に行くのだろうか’

 

土曜の晩、ラフロイグを注いだグラスを片手に国際金融新聞の木村にメールを送った。

木村様

110円台でうちが預かっているドル売り、ほとんど捌けていません。

こんな状況は知らない方が良いのか、知っていた方が良いのか。

不思議なことに、一つのオーダーが外れると、それを見ていた様に、別のオーダーも外れて行くことがあり、気を付けたいところです。

そんなことを思いながらも、まだドル・ショートで頑張ってますが(笑)。

来週の予想レンジ:107円50銭~110円20銭。

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第48回 「杞憂か事実か」

ゴールデンウィーク中の2日、ニューヨーク市場でドル円は米長期金利の上昇を背景に一時10円05(110円05銭)を付けた。

臨場感のない社宅にいるせいか、大台が変わった割にはモニターの値動きが淀んで見える。
もう6杯目になるラフロイグで緩み切った脳の影響があるのかもしれない。

先週仕込んだドルロングを手仕舞うのなら、この局面しかないはずだがピンと来ない。

既に日付が変わった夜中、山下に電話を入れてみることにした。
ニューヨーク支店長に背負わされた収益増の話が潰れたことも連絡しておく必要がある。

サイドテーブルに置いてあるスマホに手を伸ばした。
「今、大丈夫か?」

「あっ、了さん、今晩は。
大丈夫ですが」

「どうだ、儲かってるか?」

「はい、こっちにいるとユーロが良く見えて助かります。
ユーロドルの売り回転が順調で上手く行ってます」

「そうだな、確かにそっちはユーロが見やすいことは事実だ。
いずれにしても何よりだ。

ユーロが軟調な理由は、正常化に向けてのECBの具体的言質が得られないことやドイツの景気悪化というのがメディアの理屈だが、何かお前からのコメントはないか?」

「1.19の手前では、欧州のファンドが一旦買い戻すという話ぐらいでしょうか・・・」

「そこは年初来安値だからそうだろうな。

ドル円はどうだ?

東京から110円台の売りオーダーが大分回ってるはずだが、追加は入ってないか?」

「大京(大京生命)から40(110円40銭)で100本、豊中から50で50本がダイレクトで入ってきました。

10円台は都合、400本ほどの売りでしょうか」

「予想以上に10円台の売りが多いな。

今いくらだ?」

「92(109円02銭)アラウンドです」

「それじゃ、ロンドンで50本、そこで50本、売ってくれ」

「Both 93です」

「了解、90で良いよ」

「ありがとうございます」

「ところで例の件、片付いたぞ。

もう心配しなくても良い」

「えっ、本当ですか! 一体、どんな手を?」

「俺は東城さんを頼っただけだ。

あの人が役員会で大博打に出たらしい。

そのうち、田村経由で嶺さん(常務)の仕返しが俺に飛んでくるかもな」

‘粘着質の彼らのことだ。
あり得ない話ではない’

「ありがとうございました。
でも、了さんに迷惑がかかると拙いですね」
心配そうに言う。

「彼らの嫌がらせにはもう慣れっこだから大丈夫さ。

ところで、さっきの売り50本は利食いだけど、残りの50本はショートメイクだ。

こっちが休みの間、上の50(110円50銭)がtakenしたら電話をくれ。

それじゃ、頑張れよ」

「はい、頑張ります。

ありがとうございました」

‘ディールも上手く行ってる様だし、彼も当分の間は大丈夫だな’

 

それ以降、ドル円は週末まで高値を更新することはなかった。

週末のニューヨークで発表された米4月雇用統計ではNFP(非農業部門雇用者数)増が市場の予測を下回ったことや平均時給が前月比低下したことがドルの上値を抑え込んだ。

’FEDの利上げペースの加速観測が後退したことがドル売りにつながった’というのがメディアの論調だが、統計前に作り過ぎたドルロングの投げもある。

ドル円は一時8円65(108円65銭)まで下落した後、再び9円台へと反発したところで週を越すことになった。

 

土曜日の晩、BGMにKeithの‘Last Dance’を流しながら、社宅のベッドで仕事のことを考えていた。

Keithの優しいピアノの音色に乗せてCharlie Hadenのダブル・バスが2LDKの空間に響く。

時折ベッドから起きては、サイドテーブルに置いてあるハートランドのボトルを口に運ぶ。

口を潤してはまた寝転ぶ。
1時間ほど前からこんなことを繰り返しているが、考えがまとまらない。

新年度に入ってからも収益を重ねてはいるものの、最近根っこのポジションが持てていないことが苛立ちにつながる。

確かに4月以降はそんな相場付きではあったが、自分本来の稼ぎ方ではないのが気に入らない。

本店の外国為替市場課長のポジションは何かと会議などの雑務が多く、一日中ボードに張り付いていられないという問題もある。

だからこそ、根っこのポジションが必要なのだ。

あれこれ考えているうちに、少しずつ足元のことが頭の中でまとまってきた。

 

‘一連のドル買いの正体は資本筋と投機筋だが、腹いっぱいになるまで売りを飲み込んだはずだ。

週末の米雇用統計で投機のロングはそこそこ投げさせられた感じもするが、まだ結構残っている。

とすれば、来週の9円台後半は彼らのヤレヤレ売りが出る可能性が高い。

とりあえず、来週前半までは90(109円90銭)のドルショートは放っておくことにしよう。

もしかしたら、こいつが根っこのポジションになってくれるかもしれない’

 

そんな期待感が湧いてくると、少し気分も晴れ、岬の声が聞きたくなってきた。

‘現金なものだ’

 

ピローの横に置いたスマホを手にすると、岬の短縮番号を押した。
「まだ、金沢か?」
連休中は金沢美術工芸大の集中講義を受けると言っていた。

「ええ、明日松本に戻る予定。
了は、また社宅でスコッチ?」

「まあ、そんなところだ。
いつ会えそうだ?」

「今月の松本クラフト・フェアが終われば、母の店が少し暇になるわ。
そしたら、いつでも」

「そっか、わかった。
ところで、金沢では何か収穫があったのか?」

「ええ。
特に工芸に関してはなかったけど、何となく将来の方向性が見えてきた様な気がする」

「ふーん、例えば?」

「そうね、上手く言えないけど、やるべきこととかかな・・・。
今度会う時までにまとめておくわ」

「随分、大袈裟だな?」

「坂本の件で懲りたし、少し新しい生き方を考え直してるところ。

だから大袈裟になったって当然でしょ」

「何となく分かるけど、その新しい生き方ってやつに俺は入ってるのか?」

「入っている様な、いない様な」
電話越しの笑い声もどことなく思わせぶりである。

やりとりが面倒になり、
「まぁ、何だか込み入ってる様なので、会った時に聞くよ。
それじゃ、切るけど」と半ばなげやりに言った。

「おやすみなさい」という岬の声が普段通りに返ってきた。

 

音量を落としたままの‘Last Dance’がまだ流れている。
トラックは皮肉にも‘Goodbye’だ。

岬の姿が少しずつ遠くなるのがわかる。

‘勘が当たらなければ良いが’

自然とデスクに置いてあるラフロイグのボトルに手が伸びる。
ショット・グラスに注いだ琥珀色の液体がいつになく濃く見えた。

 

国際金融新聞の木村宛ての来週のドル円相場予測のメールには、

「再び110円台を覗けなければ、108円台割れも。
予測レンジ:107円~110円20銭」

とだけ書いて送った。

 

ほどなく返信があった。

「いつもありがとうございます。

来週からのTV出演も宜しくお願いします」と書かれていた。

‘余計なお世話だ’

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第47回 「東城の賭け」

日曜(22日)の晩、Junior Mance Trioの‘Junior’をBGMにラフロイグを注いだグラスを傾けていると、山下から電話が入った。

「すみません、お寛ぎのところ」

「おー、元気か?」

「はい、なんとか落ち着いて仕事ができる様になってきました」

「そうか、それじゃこれからは毎日お前と電話で話ができるな。
ところで、今は世界中の市場が閉じてるのに、何か急用か?」

「急用ってわけじゃないんですが、金曜日に山際さんからバジェット(収益目標)の変更を告げられました。

支店長の指示で、トレジャリー部門は500万ドルのアップだそうです。

理由はファイナンス部門が被った不良債権2000万ドルの償却分を稼ぎ出すためだそうですが、妙な話ですよね?」

「ああ、その件は沖田から大凡の話を聞いてるが、確かにお前が言う様に本部制で予算が組まれている以上、勝手に支店長の裁量でそんな決定をできるはずはない。

本店と協議の上での話なら別だが、東城さんからはそんな話は一切聞いていない。
仮にそういう話が正式にあったとしても、お前は心配しなくていい。
俺が何とかする」

「ありがとうございます」

「それで、ご家族はいつそっちに?」

「6月に入ってからでしょうか」

「そうか、それまでの間、独身生活をエンジョイするんだな。
話は分かった。

心配するな。
それじゃ、切るぞ」

‘そうは言ったものの、勝手に動くのは拙い。

このイッシュー、やはり東城さんに相談するしかないな’

少しニューヨーク支店長のやりくにちに腹立たしさを覚える。

ソファーテーブルに置いてあるウィスキーグラスを手にすると、残りを一気に飲み干し、そのままベッドに倒れ込んだ。

寝ころんだまま、再びミュージック・システムとWalkman をbluetooth 接続し、Keith の ‘Somewhere’をセレクトした。

重いトーンで始まる楽曲だが、次第にKeith のピアノが軽快になり、Gary Peacock のベースがそれを浮き立たせる。

少しずつ気分が解れてきた様だ。

 

翌日(23日・月曜日)の午後、東城の執務室に出向き、ニューヨークの件を話した。

「これでは、山下が潰れてしまいます。

収益の問題だけなら私が彼を助けることも可能ですが、本件はうちの本部制のルールからすれば、筋が違うのかと・・・」

「そうだな。
お前なら、彼を救えるのは分かってる。

だが、これはお前の言う通り、何かがおかしい。
もしかしたら、内々に清水さんが日和出身の各部門担当常務に話をしているのかもしれないな。

この話、俺が預かる。
暫く時間をくれ。

お前のことだ、もう山下には‘何も心配するな’と言ってあるんだろ?」
半ば決めつけ気味に問われた。

「お察しの通りです」
二人は笑みを交わし合った。
信頼の証である。

 

自席に戻ると、4時を回っていた。
ロンドン市場が厚みを増してくる時間だ。

「どうだ場は?」と沖田に聞く。

「さっきから90(107円90銭)を食い始めています」

「あっち(米国)の長期金利の上昇と北絡みの地政学的リスクの後退が、メディアの論調か?」

「まあ、そんなところです」

「うちのポジションはどんな感じだ?」

「そうですね、うちの客は総じてドル売りが多かったので、随分買わされましたが、マーケットはなんとなくビッド気配なので、全部はカバーをとってません。

まだ30本ほど、ロングのままです」

「それは正解だな。
90が食われたってことは、まだ上があるってことだ。

俺もここで買う。
ロンドンで50本買ってくれ」

「93です」

「了解。

ところで、例の件だが、いま東城さんに話してきた。
とりあえず、彼にゲタを預けた。

その結果次第では、俺達が山下をサポートしてあげることになる。
それだけは覚悟しておいてくれ」

「了解です」

「それと上の25(108円25銭)がtakenされたら、50本の買いを入れておいてくれないか?

ここは少し買いに乗ってみるよ」

「今週の上はどの辺ですかね?」

下降局面の2月中旬に9円を挟んで揉んでるから、9円前半かな。

とりあえず、週末まで9円25で50本の利食いを回しておいてくれ。
残りの50本は放っておく。

ところで、ここから下はあるかな?」

「うちのオーダー状況を見てください。
50から丁度(7円50銭~7円丁度)までで資本の買いが300本あります。

潜在的な買いを含めれば、50の下は恐らく相当な本数にのぼるはずです。

多分、この局面で7円前半はないかと」

’沖田の返事はきっぱりしているのが良い’

「ということは、先に8円台があれば、そのうちの何分の一かは高値を追ってくる可能性があるってことか」

「そうだと思います」

「そんな結論で行くか」

「はい」

 

その日の海外からドル円は力強く上昇し始め、翌日には9円台へと上昇した。

 

週末の金曜日の午後、月末の定例取締役会議が開かれた。
東城も出席する。

‘彼が「本件、俺が預かる」と言ったのはこの日に何か行動を起こすということか’

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「他に何かないか?」
中窪頭取が発するいつもの会議終了前の言葉である。

東城は挙手をすると、
落ち着いた声で言った。

「これは伝聞ですが、宜しいででしょうか?」

「おう、東城君か、もちろんだ。
君が発言をするぐらいだから、重要な話に違いない。
構わん、続けてくれ」

日和銀行出身の頭取だが、出身銀行に捉われない公平な見識の持ち主で、住井出身の東城を高く評価している人物である。

「ありがとうございます。
それでは、続けさせて頂きます。

我が行が本部制を敷いているのは言うまでもないことですが、最近ある海外店において支店裁量で物事が進んでいるやに聞いております」
出席者の一部から‘ほー、どこだどこだ’などのどよめきが上がる。

そのどよめきが静まるのを待って東城は話を続けた。
「その海外店では、それを実行する資金を稼ぎ出すために、支店内の一部の部門に‘本来のバジェット以上の収益を生み出せ’という通達を出したとのことです。

仮にこれが事実だとすれば、当該支店長の一存ではなく、ここにご出席の常務以上の役員と内々に打ち合わせをしていることが推測されます」
再び、会議室内にどよめきの声が上がった。

その声を振り払う様に、東城は語調を強めてさらに続けた。
「仮にこのことが事実だとすれば、海外で予期せぬグレー債権が蓄積したり、良からぬ支店長申し送り事項が延々と後世に残されてしまう危険性があります。

我が国で最も信頼に足るべきはずの「霞が関」においてすら改竄問題などが噴出していることに照らしても、ここは我が行も襟を正すべく、念のため頭取からのご言葉を賜れればと存じます。

私の申し上げるべきことは以上です」

東城の話が終わると室内がまた騒然となったが、頭取がそれを制した。
「東城君の話、一応伝聞とのことだ。
よもや当行においてその様なことはないと信じている。

だが、仮に事実だとすれば、彼の言っている様に将来への負の遺産となりかねない。
6月の株主総会前の行内会議が開かれる際に、海外支店長並びに現地法人社長と面談する。

それでは、本日はこれで散会とする」

ほぼ末席に位置する東城は、他の役員連中が会議室を後にするのを待って席に留まった。
すると、その肩を後ろから軽く叩く者がいた。
頭取の中窪である。

「ありがとう。
少しこれで、行内が引き締まると良いのだが。

ところで、君のところの仙崎君はなかなか評判が良いな。
顧客の社長連中と会食をする度にそんな話を耳にする。
流石、君の部下だ」

「恐れ入ります。
少し無茶をするところもありますが、頑張ってくれてます」

二人は既に役員連中が消え去った後の誰もいない廊下を談笑しながらエレベーターの方へと向かった。
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人事担当役員の島がこの会議でのやりとりを伝えてきた。
「聞いてる方は冷や冷やしたが、相変わらず肝が座ったやつだ。
多分、仙崎君に関連しているイッシューだと思うので、電話した」
と笑って言う。

島は東城と同期入行で、俺のコロンビア大MBA行きを後押ししてくれた人物である。
「どうも、ご連絡ありがとうございます」と言い、頭を下げながら受話器を置いた。

東城に呼ばれたはのそれから数分後のことだった。
執務室のドアを開けると、皇居の森を見据えて立つ、普段と変わらない凛とした後ろ姿があった。

東城は振り返ると、
「例の件、もう片付いた。
山下にはそう伝えておいてくれ」
と言葉を渡して寄越した。

その顔には優しい笑みが浮かんでいる。

「ありがとうございます」と、深々と頭を下げた。
目頭が熱くなりそうだったが、必死に堪えた。

 

週末のニューヨークでドル円は109円54銭を付けた後、109円05銭前後で週を終えた。

 

土曜の晩、ラフロイグをグラスに注ぐとデスクのPCに向かった。
国際金融新聞の木村に来週のドル円相場のメールを打つためである。

木村様

109円台は実需の売りが結構出ていますね。
企業が日銀のアンケートにまともに回答しているとは思えませんが、とりあえず短観の想定レート109円66銭を前に上げ渋っているのは事実です。

うちでも109円台後半~110円台前半には実需を中心とした有象無象の売りが並んでいます。

一応、私も108円台前半のロングを持っていますが、来週初の状況次第でスクエアにします。

落ちれば、108円近辺まで速いかと。

ここでホールドすれば、110円台前半もありでしょうか。

予測レンジ:107円50銭~110円50銭

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。