第35回 「噂」

大きな節目を割り込むと、有象無象の売りが出る。

節目の110円を割り込んだ先週のドル円相場、ドルロングの投げ、輸出筋のドル売り、そしてこれらの動きに乗じた投機筋のドル売りなどが堰を切った様に流れ出た。

だが、こうした相場は必ずオーバーシュートする。

巡航速度で下落している相場はごく短期間の調整を経てから再び安値を更新するが、今週はその流れが一旦途絶えるに違いない。

そんな考えから、国際金融新聞の木村に送った先週末のメールでは「今週はドル売りを手控える」と伝えた。

週前半(5日~6日)、市場は先週の流れを受け継ぐ格好でドルの下値を試したが、直近最安値の108円28銭を抜くことは出来なかった。

週半ばになってもドルの戻りは悪かったが、下げ渋った。
その日の東京の夕方に108円60銭を付けたものの、ドルは底堅さを増すばかりである。

‘一旦ガス抜きをしないと落ちない’
スクリーンのプライス・アクションがそう囁いている。

「少しビッドアップしてきた様だ。
買ってみるか」
と呟く。

山下にその声が届かなかった様で、
「課長、何か言いましたか?」
と尋ねてきた。

「ああ、‘買ってみようか’と言ったけど。
声が小さくて悪かった」

先刻から部長席で資金課長の大河内と田村が楽しそうに話しているのに気を取られていたせいで、
山下への言葉が知らぬ間に小さくなっていた様である。

部長席は俺の座席から後方6・7メートルのところにあり、ほとんど会話の内容は分からないが、その中に‘阿久津志保や女性誌の名前’が途切れ途切れに聞こえたのが気になっていた。

気の良い山下はそんな事情も知らずに、
「いいえ、自分の集中力が足りないせいです。
50本の買いで良いですか?」
と、恐縮しながら言う。

「ああ」

「67で20本、68で30本」

「了解」

ディールの処理を終えた山下が
「課長、何か気になることでも?」
と心配そうに聞いてきた。

「ああ、後ろの会話が少し」
自分の胸の前で右手の親指を部長席の方に向けて見せる。

「どうせいつものご注進話でしょうが、あいつら本当に呑気なもんですね。
こっちがいつも収益に追われて奮闘してるのに」

「まあ、そうぼやくな。
お前だって奮闘するのが好きでこっちの世界にいるんだ」

「それもそうですね」
と言いながら、スクリーンに目をやりながらEBS(電子ブローキング・システム)のキーを叩き出した。

何かジョビングの手掛かりを得たらしい。

暫くすると、ディーリング用ではない方の電話が鳴った。
バックオフィスを仕切る山根からである。

「仙崎君、今市場は大丈夫?」

「ええ、静かですが。
何でしょうか?」

「電話では少し話しづらいので、
上で良い?」
上とは社食のことである。

「はい、それじゃ今行きます」
と言って電話を切った。

「山下悪いが、少し山根さんが事務処理の件で話があるそうだ。
上にいってくる」

「了解です」

社食に着くと、直ぐに山根の姿が目に入った。
窓際に立ち、眼下の日比谷通りを眺めている。

「山根さん、ヘッドライトの流れでも見てるんですか?」

「あっ、仙崎君。

ええ、昼間は皇居の森が綺麗で、夜は日比谷通りが綺麗。
これだけでも、IBTに勤めてる価値ありってとこかしら」

「そうですね・・・。
ところで、電話で話づらいことって何です?
結婚でも決まったんですか?」
半ば茶化して聞いてみた。

「馬鹿ね。
もうこの歳になって、それはないわよ」

「へぇー、そうなんですか。
まだイケルと思いますが」

「おばちゃんをからかわないでよ」
と言いつつも、少し嬉しそうな顔を見せる。

眼鏡を外せば、なかなかの美人だと思うが、
今までそれに触れたことはない。

「それで、話って?」

「‘大河内が仙崎君のことで変な噂を流してる’そうよ。

‘最近、女性誌や経済誌を賑わしてる’阿久津志保と君が帝国ホテルで会ってたのを彼が目撃したというのがその噂。

どうなの?」

「それは本当のことですが、他には?」

‘嘘を言っても仕方がない’

「うちの若い子がスマホの写真を見せられたらしい。

二人のハグの瞬間で彼女の顔は確認できるけど、君らしい人物は後ろ姿ではっきりしない
みたいね。

そっか、会ったのは事実か。

それが事実だとしたら、行内に悲しい思いをする女の子達がいるわね」

「ちょっと待って下さいよ。

僕が彼女と帝国ホテルで会っていたのは事実だけど、付き合ってるなんて言ってませんからね」

それ以外のことは言う必要もないし、伏せておいた。

「そっか。

でもどうせ田村の手下みたいな男だから、話に尾鰭が付いてると思う。

まぁ、二人がどういう関係かは知らないけど、気を付けてよ。

うちのホープがスキャンダルで潰れるなんてゴメンだからね」

「大丈夫ですよ。

それに彼女はもう、表舞台に立つことは当分の間ありませんから」と言い切った。

言う必要のないことだが、志保がコネティカットのファンドに移籍し地味な仕事に就くということも明かした。

マイクには当分、志保をバックオフィスの仕事に就かせる様に言ってある。

納得した山根は、
「そっか、‘人の噂も何とやら’。
頑張ってよ」
と激励の言葉を残してオフィスに戻って行った。

‘これで、先刻の部長席の会話の中身が解けたってことか。
どうせこの話は既に田村から坂本に伝わってる’

デスクに戻ると山下がまだ頑張っていた。

「どうだ?」

「やはりビッドですね。
先程の買いの処理はどうしますか?」

「週内には10円を抜けると思うが、長続きはしないはずだ。
お前なら何処で利食う?」

「10円25(110円25銭)辺りでしょうか」

「それじゃそこで売り50本、週末まで回しておいてくれ」

「まだやるのか?」

「はい、もう少しだけ」

「悪いけど、俺は先に帰るぞ。
もう3末(3月末)の見通しも立ったことだし、お前も早く帰れよ」

日比谷通りでタクシーを拾うと、青山の’Kieth’に向かった。

まだ時間の早いせいか、店内には自分以外に客はいなかった。

「マスター、いつもの酒と何か食事を頼む。
少し腹が減った」

「パスタだったら、直ぐにペペロンチーノが出来ますが?」

「ああ、それで良い。
それにサラダも適当に。

あとBGMはKiethの‘Staircase’を」

目を閉じながら財務省の勉強会のことを考えていた。
テーマは何でも良いと言うが、週末に纏めておく必要がある。

為替相場の見通しはそこらに幾らでも転がってる。
『行動経済学と為替相場』で行くか・・・。

暫くして目を開けると、ラフロイグのボトルが置かれていた。

マスターの方に目をやると、
「今日は相当に飲みそうなので、ボトルごと置いておきます」
とでも言いたそうな笑みを浮かべている。

こっちも笑って返すしかなかった。

ドル円相場は週末に110円47銭を付けたが、それ以上は伸び切れなかった。

週末の土曜日、国際金融新聞の木村宛てに来週のドル円相場の予測をメールした。

木村様

少しドルが買われても伸び切れないと思います。

とすれば、後に反落でしょうか。

予測レンジ:107円50銭~111円50銭

与件は沢山あるので、行間の埋め草は適当にどうぞ。

P.S. 米10年債の利回りが前回FOMCの中立金利(FEDの利上げの落としどころ:2.75%)まで到達しています。

FEDが正常化路線を急ぐのかどうかが注目されます。

仮にややハト派的なカシュカリ(ミネアポリス連銀総裁、来週に講演予定)がFFレートの経路の変更を示唆する様な発言をすれば、ドルショートが踏まれる可能性もありでしょうか。

ただ、米株が大きな調整を迎えそうな局面では、前向きなドル買いが出るとも思えません。

また2月中旬の米国債償還と利払いに合わせて、本邦機関投資家のレパトリも考慮しておきたいところです。

3月末を控えての実需のドル売りも恒例行事です。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

(つづく)

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。