第二巻 第13回 「内通者」

ニューヨーク市場が休場となった週初(12日)の午前中、ドル円は114円を挟んで方向感のない展開を続けていた。

だが午後になると、日経平均株価が前日比プラスとなり、これに連れてドル円は114円21銭まで上昇した。

「沖田、10(114円10銭)以上で売れるだけ売ってくれ」

「了解です」

沖田が15分後、「今のところ、アベレージ15(114円15銭)で200本売れてますが、続けますか?」と聞いてきた。

「俺も16で100本売ったから、とりあえず止めてくれ。
それにしても、なかなか落ちないな」

「そうですね、先週の高値(114円9銭)を抜いたので、55(114円55銭)を試すと思ってる連中が多いのかもしれません」

暫くそんな話をしていると、やっと114円が売りになった。

欧州株が大幅に下落したことでリスクオフ・ムードが一挙に高まり、円が買われ出したのだ。

「どうします?」と沖田が聞いてくる。
利食いの買い戻しを入れるかという意味だ。

「100本の買いを75(113円75銭)でリーブしておいてくれないか。
どうせまた、114円台に戻すだろうから、その時に売り余力が必要だ。

ちょっと、東城さんに呼ばれてるので、執務室に行ってくる。
俺が戻るのを待たないで、適当なところで帰って良いぞ」

「了解です」

 

「先週の大阪出張、ご苦労だった。
好評だったそうじゃないか」
執務室のソファに腰を下ろすなり、東城が労いの言葉をかけてくれた。

「はい、お陰様で」

「ところで今朝、MOF(財務省)の吉村さんから電話があった。

‘最近、うちのフローが頻繁に飛び交ってるが、特に理由があるのか’と聞いてきた。

来年からアメリカとの物品貿易協定(TAG)の交渉が始まるので、上層部は円相場が荒れるのを嫌ってるらしい」

「それで、本部長は何とお答えになったんですか?」

「海外のファンドや日本の機関投資家を客に持ってるが、最近彼らのフローはうちに流れて来ない。

だが、うちもディーリングで稼ぐ必要があるので、積極的にディールもやってる。

必要があれば、その点はお前に直接聞く様にと言っておいた。

うちに好意的な吉村さんのことだ。

お前のディールがMOFに漏れてることを暗に知らせてくれたんだろう。

情報源は内部の人間かもな」

「そうですか。

たとえ吉村さんからでも、MOFのヒアリングには違いありません。

頻繁に動かない方が良いでしょうか?」

「まあそうだろうが、あまり気にせずに動きたいときに動け。

通常のディールに法的規制はないからな」
笑みを浮かべて言う。

その笑みは‘最後は俺に任せておけ’と言ってる様だった。

「了解しました」
と言って、その場を辞した。

 

翌日(火曜日)の朝方、ドル円は113円58銭を付けたものの、午後に入ると急騰し出した。

200本のドルショートは残したままだ。

 

‘でも、ここは手仕舞わずにじっと耐えるしかない。
自分でも少し掌に汗をかいているのが分かる’

 

そんな折、ロンドンの岸井から電話が入った。
「仙崎さん、パーマー銀行とシッスルズ銀行がそれぞれ300本ずつ買ったそうです。

裏はスイス系と英系のファンドというのがこっちの情報です。

上は14(114円14銭)までですが、少し下がると買いが湧いて来る感じですね。

もしかしたら、横尾さんの差し金でしょうか・・・?」

「彼がファンドに働きかけたとすれば、俺のショートを潰しにかかってるってことだ。

いずれにしても、情報ありがとう。
また何かあったら教えてくれ」

「承知しました」

 

翌日(水曜日)になっても、ドル円が落ちない。

113円70~80銭で執拗に買って来るヤツがいる。

上値も重いが下値も堅いといった展開が続く。

ここを潰さないと、上に持って行かれかねない状況だ。

その日の晩、社宅から山下に電話を入れた。

「どうだ?」

「欧州通貨は不安定過ぎて、あまり手を出す人間はいない様です。

ドル円は買いも出てきますが、少し上値が重たい感じでしょうか・・・」

「分かった。

ドル買いが出たら、その買いを叩く様に売ってくれ。

そして114円が付く様なら、そこで売れるだけ売ってくれないか。

電話を待ってる。

頼んだぞ」

電話を切ると、マイクに電話を入れた。

 

「Hi Mike, it’s me」

「Hi Ryo, how can I help u today?」

「昨日からスイス系のファンドがドル円を買ってるらしいけど、お前の客じゃないか知りたいんだ。

俺はこれからドル円を落とすつもりだから、念のために確認してくれないか?

お前の客だったら、悪いからな。

もしそうでないなら、80(113円80銭)が売りになったら、客に売る様に勧めてくれないか。
必ずドルは落ちるから」

「Wait a second」と言うと、少し間が空いた。

「ああ、俺の客じゃないみたいだ。
80givenで売る様に頼んでおいたよ。

ところで、いつこっちに来てくれるんだ?」

「今その準備中だ。

この電話もその一環だから、もう少し待ってろ。
約束はできないけどな」

「そうか、期待してるぞ。

それとクリスマス・プレゼント、来月の20日頃に届けるよ。

今のお前が一番欲しいものをな。

それじゃ、Good luck!」

 

ドルが落ち出したのは0時を過ぎてからだった。

80がgivenし出した(売りになり出した)頃、固定電話が鳴った。
山下からだ。

「課長、114円以上では30本しか売れませんでした。

それと小刻みに売った合計は120本です」

「そっか、今幾らだ?」

「一度80がgivenした後の80-82です」

「良く聞け。

ここからマイクの客も売る、俺も売る。

70以上で売れるだけ売ってくれ」
止めを刺しておきたかった。

 

‘必ずドルは落ちる’

 

ラフロイグをなみなみと注いだグラスを片手に、ソファーに座り込んだ。

BGMには明るい曲が良い。
Michael Franks の CD‘The Music In My Mind’をBose のミュージック・システムに挿入した。

ジャズ・フュージョン・ボッサを融合した都会的メロディーにヴォイスが上手く乗っている。

4杯目のグラスを空けたところで、山下から電話が入った。

「今、50がgivenしたところです。

こっちで売れたのは都合250本です。

どう処理しますか?」

「放っておけ。

もう直ぐ彼等が全部投げる(買ったドルを損切る)。

それで決着はつく。

横尾の様子はどうだ?」

「さっきから、誰かにあやまり続けている様子です。

横尾さん自身もロング(ドルの買い持ち)なので、相当に焦っている感じでしょうか」

「分かった。

ところで、誰かが俺のディールをMOFに漏らしてるらしいんだ。

横尾か田村だとは思うが、お前はどう思う?」

「レポーティング・ライン(業務報告ライン)を考えると、横尾さんは課長のディールを見ることができません・・・。

とすると、田村さんということになるんでしょうか?」

「そっか、本部の序列では、俺のポジションを見ることができるのは田村と東城さん。

管理やコンプライアンスの観点からは、バックオフィスの連中かコンプライアンス・オフィサーってことか。

消去法でいけば、田村だ。
横尾が俺のポジションを直ぐに把握していたのも、田村が流していたのか。

まぁ、そんなとこかな。

今日のお前は冴えてるな」

「冴えてるのはいつもでしょ」
笑って言う。

「そうだな、いつもだな。
それじゃ、今日はありがとう」

「お疲れ様でした」

 

ドル円は週末の金曜日に112円65銭まで下落し、112円80銭前後で週を跨いだ。

 

週末の土曜日、天気は完璧な秋晴れだった。
たまには横浜の実家へ帰ろうかとも思ったが、一昨日に夜通しのディールを行ったせいか、ベッドから起き上がることもできない。

二度寝を決め込んだ。

目が覚めたとき、外は既に暗かった。

 

‘長時間眠れるのはまだ若いってことか、本当に疲れ切っていたのか。
「秋の日は釣瓶落とし」って便利な言葉もあるか’

 

やっとの思いでベッドから出ると、冷蔵庫からハートランドを取り出し、喉を潤すと今度はソファーにどかっと座り込んだ。

テーブルの上のスマホを手にし、国際金融新聞の木村宛てに来週の予測を書いた。

 

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木村様

112円台前半が抜ければ、111円台前半もあるかと。

ドルの反発があったとしても、113円台後半までと予測します。

予測レンジ:111円50銭~113円75銭

筋書きはお任せします。

 

IBT 仙崎 了

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10分もすると、木村からの返信が届いた。

 

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仙崎様

いつもありがとうございます。

先週の予測‘114円台は上髭’は流石でしたね。

大分お疲れの様なので、神楽坂にある行きつけの寿司屋に特上寿司を届ける様に頼んでおきました。

‘旨いですよ’

 

国際金融新聞 木村

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‘泣かせてくれるな’

夕飯の心配をしなくて済む安堵感から、ソファーに寝そべった。

再び覚えたまどろみの中で、ミッドタウンを歩く岬の姿を見た。
だが、直ぐにその姿は消え、脳裏には明るく手を振る志保の姿が浮かんできた。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。