日曜(22日)の晩、Junior Mance Trioの‘Junior’をBGMにラフロイグを注いだグラスを傾けていると、山下から電話が入った。
「すみません、お寛ぎのところ」
「おー、元気か?」
「はい、なんとか落ち着いて仕事ができる様になってきました」
「そうか、それじゃこれからは毎日お前と電話で話ができるな。
ところで、今は世界中の市場が閉じてるのに、何か急用か?」
「急用ってわけじゃないんですが、金曜日に山際さんからバジェット(収益目標)の変更を告げられました。
支店長の指示で、トレジャリー部門は500万ドルのアップだそうです。
理由はファイナンス部門が被った不良債権2000万ドルの償却分を稼ぎ出すためだそうですが、妙な話ですよね?」
「ああ、その件は沖田から大凡の話を聞いてるが、確かにお前が言う様に本部制で予算が組まれている以上、勝手に支店長の裁量でそんな決定をできるはずはない。
本店と協議の上での話なら別だが、東城さんからはそんな話は一切聞いていない。
仮にそういう話が正式にあったとしても、お前は心配しなくていい。
俺が何とかする」
「ありがとうございます」
「それで、ご家族はいつそっちに?」
「6月に入ってからでしょうか」
「そうか、それまでの間、独身生活をエンジョイするんだな。
話は分かった。
心配するな。
それじゃ、切るぞ」
‘そうは言ったものの、勝手に動くのは拙い。
このイッシュー、やはり東城さんに相談するしかないな’
少しニューヨーク支店長のやりくにちに腹立たしさを覚える。
ソファーテーブルに置いてあるウィスキーグラスを手にすると、残りを一気に飲み干し、そのままベッドに倒れ込んだ。
寝ころんだまま、再びミュージック・システムとWalkman をbluetooth 接続し、Keith の ‘Somewhere’をセレクトした。
重いトーンで始まる楽曲だが、次第にKeith のピアノが軽快になり、Gary Peacock のベースがそれを浮き立たせる。
少しずつ気分が解れてきた様だ。
翌日(23日・月曜日)の午後、東城の執務室に出向き、ニューヨークの件を話した。
「これでは、山下が潰れてしまいます。
収益の問題だけなら私が彼を助けることも可能ですが、本件はうちの本部制のルールからすれば、筋が違うのかと・・・」
「そうだな。
お前なら、彼を救えるのは分かってる。
だが、これはお前の言う通り、何かがおかしい。
もしかしたら、内々に清水さんが日和出身の各部門担当常務に話をしているのかもしれないな。
この話、俺が預かる。
暫く時間をくれ。
お前のことだ、もう山下には‘何も心配するな’と言ってあるんだろ?」
半ば決めつけ気味に問われた。
「お察しの通りです」
二人は笑みを交わし合った。
信頼の証である。
自席に戻ると、4時を回っていた。
ロンドン市場が厚みを増してくる時間だ。
「どうだ場は?」と沖田に聞く。
「さっきから90(107円90銭)を食い始めています」
「あっち(米国)の長期金利の上昇と北絡みの地政学的リスクの後退が、メディアの論調か?」
「まあ、そんなところです」
「うちのポジションはどんな感じだ?」
「そうですね、うちの客は総じてドル売りが多かったので、随分買わされましたが、マーケットはなんとなくビッド気配なので、全部はカバーをとってません。
まだ30本ほど、ロングのままです」
「それは正解だな。
90が食われたってことは、まだ上があるってことだ。
俺もここで買う。
ロンドンで50本買ってくれ」
「93です」
「了解。
ところで、例の件だが、いま東城さんに話してきた。
とりあえず、彼にゲタを預けた。
その結果次第では、俺達が山下をサポートしてあげることになる。
それだけは覚悟しておいてくれ」
「了解です」
「それと上の25(108円25銭)がtakenされたら、50本の買いを入れておいてくれないか?
ここは少し買いに乗ってみるよ」
「今週の上はどの辺ですかね?」
下降局面の2月中旬に9円を挟んで揉んでるから、9円前半かな。
とりあえず、週末まで9円25で50本の利食いを回しておいてくれ。
残りの50本は放っておく。
ところで、ここから下はあるかな?」
「うちのオーダー状況を見てください。
50から丁度(7円50銭~7円丁度)までで資本の買いが300本あります。
潜在的な買いを含めれば、50の下は恐らく相当な本数にのぼるはずです。
多分、この局面で7円前半はないかと」
’沖田の返事はきっぱりしているのが良い’
「ということは、先に8円台があれば、そのうちの何分の一かは高値を追ってくる可能性があるってことか」
「そうだと思います」
「そんな結論で行くか」
「はい」
その日の海外からドル円は力強く上昇し始め、翌日には9円台へと上昇した。
週末の金曜日の午後、月末の定例取締役会議が開かれた。
東城も出席する。
‘彼が「本件、俺が預かる」と言ったのはこの日に何か行動を起こすということか’
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「他に何かないか?」
中窪頭取が発するいつもの会議終了前の言葉である。
東城は挙手をすると、
落ち着いた声で言った。
「これは伝聞ですが、宜しいででしょうか?」
「おう、東城君か、もちろんだ。
君が発言をするぐらいだから、重要な話に違いない。
構わん、続けてくれ」
日和銀行出身の頭取だが、出身銀行に捉われない公平な見識の持ち主で、住井出身の東城を高く評価している人物である。
「ありがとうございます。
それでは、続けさせて頂きます。
我が行が本部制を敷いているのは言うまでもないことですが、最近ある海外店において支店裁量で物事が進んでいるやに聞いております」
出席者の一部から‘ほー、どこだどこだ’などのどよめきが上がる。
そのどよめきが静まるのを待って東城は話を続けた。
「その海外店では、それを実行する資金を稼ぎ出すために、支店内の一部の部門に‘本来のバジェット以上の収益を生み出せ’という通達を出したとのことです。
仮にこれが事実だとすれば、当該支店長の一存ではなく、ここにご出席の常務以上の役員と内々に打ち合わせをしていることが推測されます」
再び、会議室内にどよめきの声が上がった。
その声を振り払う様に、東城は語調を強めてさらに続けた。
「仮にこのことが事実だとすれば、海外で予期せぬグレー債権が蓄積したり、良からぬ支店長申し送り事項が延々と後世に残されてしまう危険性があります。
我が国で最も信頼に足るべきはずの「霞が関」においてすら改竄問題などが噴出していることに照らしても、ここは我が行も襟を正すべく、念のため頭取からのご言葉を賜れればと存じます。
私の申し上げるべきことは以上です」
東城の話が終わると室内がまた騒然となったが、頭取がそれを制した。
「東城君の話、一応伝聞とのことだ。
よもや当行においてその様なことはないと信じている。
だが、仮に事実だとすれば、彼の言っている様に将来への負の遺産となりかねない。
6月の株主総会前の行内会議が開かれる際に、海外支店長並びに現地法人社長と面談する。
それでは、本日はこれで散会とする」
ほぼ末席に位置する東城は、他の役員連中が会議室を後にするのを待って席に留まった。
すると、その肩を後ろから軽く叩く者がいた。
頭取の中窪である。
「ありがとう。
少しこれで、行内が引き締まると良いのだが。
ところで、君のところの仙崎君はなかなか評判が良いな。
顧客の社長連中と会食をする度にそんな話を耳にする。
流石、君の部下だ」
「恐れ入ります。
少し無茶をするところもありますが、頑張ってくれてます」
二人は既に役員連中が消え去った後の誰もいない廊下を談笑しながらエレベーターの方へと向かった。
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人事担当役員の島がこの会議でのやりとりを伝えてきた。
「聞いてる方は冷や冷やしたが、相変わらず肝が座ったやつだ。
多分、仙崎君に関連しているイッシューだと思うので、電話した」
と笑って言う。
島は東城と同期入行で、俺のコロンビア大MBA行きを後押ししてくれた人物である。
「どうも、ご連絡ありがとうございます」と言い、頭を下げながら受話器を置いた。
東城に呼ばれたはのそれから数分後のことだった。
執務室のドアを開けると、皇居の森を見据えて立つ、普段と変わらない凛とした後ろ姿があった。
東城は振り返ると、
「例の件、もう片付いた。
山下にはそう伝えておいてくれ」
と言葉を渡して寄越した。
その顔には優しい笑みが浮かんでいる。
「ありがとうございます」と、深々と頭を下げた。
目頭が熱くなりそうだったが、必死に堪えた。
週末のニューヨークでドル円は109円54銭を付けた後、109円05銭前後で週を終えた。
土曜の晩、ラフロイグをグラスに注ぐとデスクのPCに向かった。
国際金融新聞の木村に来週のドル円相場のメールを打つためである。
木村様
109円台は実需の売りが結構出ていますね。
企業が日銀のアンケートにまともに回答しているとは思えませんが、とりあえず短観の想定レート109円66銭を前に上げ渋っているのは事実です。
うちでも109円台後半~110円台前半には実需を中心とした有象無象の売りが並んでいます。
一応、私も108円台前半のロングを持っていますが、来週初の状況次第でスクエアにします。
落ちれば、108円近辺まで速いかと。
ここでホールドすれば、110円台前半もありでしょうか。
予測レンジ:107円50銭~110円50銭
IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了
(つづく)
この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。