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第50回 「失われた方向感」

週初月曜日(14日)の早朝、ドル円は小緩んだものの、9円(109円)を割り込む気配は失せていた。

持ち込まれる顧客のフローもドル買いばかりだ。

「沖田、上手く捌けてるか?」
場の感触を確かめるのには、インターバンク・ディーラーの肌感覚に頼るのが良い。
沖田は人一倍その感覚が鋭く、意見も頼りになる。

「はい、少し捌きづらくなってきたのは事実です。
この状態が続くと、カバーするので一杯一杯でしょうか」

‘時間を追うごとにビッドになって行く感じがする’

「そっか、そんな感じか。
10円台の客の売りオーダーも先週末の半分に減ってるな。
先日から持ち続けてる90(109円90銭)の売り50本、手仕舞っておくか。

どうも今週は上だな」

「そうですね。
10円(110円)は2回蹴られて、今度で3回目ですか。
抜け頃、落ち頃ですが、場から受ける感触は上でしょうね」

「大京(大京生命)をはじめとした8円台後半の資本の買いオーダーは300本か。
この状況だと、彼らは買い水準を上げてくるな。

もしかすると、今日の午後にでもリーブを外して、買ってくるかもしれない。
沖田、カバー用として150本、上の売りの手仕舞い用に50本、合わせて200本買うことにする。

それと、ユーロドルを100本売る。
ドル円は一連の流れで利益こそ出ているが、居心地が悪い中での稼ぎだ。

その点、ユーロドルは自信を持って臨めそうだ」

「であれば、資本が買ってくる前に、私もカバー用にドル円50本、買っておきます。
どんな感じでやりますか?」

「そうだな。
ドル円は時間差を付けてこっちとシング(シンガポール)で買う。

ユーロドルは戻り売りのリーブで行く。

始める前に、マイクにメールを入れておくから少し待っててくれ」

「了解です」

 

沖田との打ち合わせを終えると、直ぐにマイクにチャット・メールを入れた。
マイクはコロンビアMBA時代の親友で、コネティカットでヘッジファンド‘パシフィック・フェローズ’のCEOである。

俺が大きく動くときは、彼に連絡することにしているが、それは自分のためでもあり、そして彼のためでもある。

‘Hi, Mike!
How are u doing?’

‘I’m all right.
How abt yourself?’

‘ Tks, fine same as usual.
I don’t have much time, tdy.
Just a point.
I’ll buy usdjpy here.
Institutions are likely to buy it’

‘Gotcha!
I’ll follow u.
Tks.
Oops!
I’ve got a phonecall.
One second’

‘急ぎの電話の様だ’

‘I’m back.
Here’s a present for u.
There’s a rumor Italy will ask ECB to reduce their debt.
This is just a rumor, but may be useful.

Good Luck!
I’ll let u go’

‘Talk to u soon.
Bye now’.

「沖田、マイクへの連絡は終えた。

イタリアがECBに債務の減額を申請するという噂があるらしい。
メディア・ネタにはなるな。
ヘッドラインだけでも、ユーロ売りだ。

それはそれとして、ドル円を仕込むとするか。

まずはこっちで小刻みに150本を買い、ビッド気配を作っておく。
これで恐らく、30(109円30銭)以下に落ちづらくなると思う。

その後、100本をシングとこっちで分けて買う。

小野寺と一緒にすべてを1時間以内に終わらせてくれ」

「了解です」
沖田が小野寺を呼び、手配を始めた。

「野口、ユーロドル100本売りたいが、どこまで戻りそうだ?」

「1.20は無理かと思います。
1.1975辺りでしょうか・・・。

やはり、売りでしょうか?」

「だろうな。

どうもドイツをはじめ、ユーロ圏の景気動向が悪化しているのが気になる。
この状態では、ECBの正常化は儘ならないはずだ。

それに、ほぼ利上げと同じ意味を持つユーロ高はECBにとって好ましくない。
ユーロ安は外需増効果がある一方、正常化(緩和解除)の環境を整えるのに都合が良い。

何よりも、IMMの投機的ユーロの買い越しが相当残っているのが気になる。

ともかく、リーブを頼む。

お前が推薦する1.1975で100本の売りをuntil further noticeで出しておいてくれ。
ストップロスは不要だ」

「了解です」

 

一時間後、沖田からディールの結果が届いた。

沖田の分と合わせて250本、9円28銭(109円28銭)で仕上がった。

「沖田、利食いに充てる50本以外は、全部客のカバーで使っていいぞ」

「ありがとうございます」

ドル円が上がり始めたのはそれから30分後のことである。
大京をはじめとする大手生保や有象無象の客がドル買いに動き出したのだ。

沖田が隣で大口のフローを捌いているが、余裕でこなしている。
予め買っておいて分は客に全て持って行かれたが、それで良い。

インターバンク・ディーラーのこうした対応は、自らのカバー業務の助けになる一方、顧客にも良いプライスを提供できるというメリットもある。

そして、それが顧客のフローを増やし、コーポレート・デスクへ収益をもたらすのだ。

 

その日以降、ドル円は上がり続け、週末には11円08(111円08銭)まで跳ねた。

ユーロドルは1.1996まで戻した後、週後半に1.1750まで下落した。
50本を利食い、残りの50本はそのままキープした。

方向感を失ったドル円とは逆に、ユーロドルの方向は合っている。

‘このまま、根っこのポジションになればいいが・・・。

米中通商交渉が縺れるなか、そのトバッチリがドイツの対米黒字話に向かえば、米国サイドからのユーロ安牽制に繋がりかねない、それだけが気懸りだ’

 

ドルが上昇した今週、インターバンク・デスクも上手く乗り切り、コーポレート・デスクの収益も上出来だった。

まずまずの気分で迎えた週末の土曜日だが、少しだけ憂鬱なことを抱えている。

昨日、テレビ国際の中尾からメールが送られてきた。

‘俺のコメンテーターとしての評判は良く、視聴率が上昇していることに感謝している。

だが、コメントがいささかマーケット・オリエンティド(市場寄り)になっているため、修正してくれ’

という趣旨のことが書かれていた。

面倒なことは早く片付けておくのに越したことはない。
その日の内に、返事を書いて送った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

中尾様

御趣旨は良く分かりました。

しかしながら、私は為替市場という現場で体を張っているディーラーであり、コメントがマーケット・オリエンティドになるのは当然かと考えています。

仮に私のコメントが番組の趣旨を曲げているとすれば、中尾様や貴局にご迷惑を掛けることになりかねません。

従って、差し障りのない、通り一遍の講釈を得意とする人物をあなたの横に座らせては如何でしょうか?

他の銀行や総研のアナリストなど、テレビに出演したい人間は山ほどいる様ですから、私の後釜にお困りになることはないでしょう。

来週の月曜日からという訳にはいかないでしょうから、今月最後の月曜日までは出演させて頂きます。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

話がこのまま終わるハズがないことを承知の上で送ったメールである。

その日のうちに、中尾から電話があった。

「メールでの依頼の仕方が悪かった。
撤回したい」
というのが電話の趣旨だったが、最後に「詫びとして、近いうちに一席設けます」という言葉が付け加えられた。

‘本件、手仕舞いまでに時間がかかりそうだな’

憂鬱な気分を引き摺りながら、週末の一日が無下に過ぎて行く。

 

夕飯は神楽坂のイタリアン・レストランで済ませた。
その帰り道、国際金融新聞の木村から電話が入った。

「今晩は。
これからメールを打とうと思ってたところです」

「いや、話は相場の件じゃないんです。

例の番組、テレビ国際の若手局員によると月曜の視聴率が相当上がったそうで、それをお伝えしようと思いまして。

月曜の視聴率が上がったということは仙崎効果ですから、仙崎ファンの私としても嬉しい限りですよ」
本当に嬉しそうな声を出して言う。

「そうですか・・・。
それはそれで悪い話じゃないんですが、例の彼女にはあまり嬉しい話じゃないみたいですね」
昨日の経緯を話した。

「そんなことがあったんですか。

他の曜日も視聴率が上がったのであれば、彼女の実力や番組構成の成果ですが、月曜だけだとそうではないことになる。

それは彼女にとって都合の悪い出来事ですね」

‘先日若手局員が、
「これは今、視聴者から局に送られてきたメールの一部です。
中尾にも渡されているものですが、仙崎さんにお渡しすることは伏せてあります」と言っていた意味が少し分かってきた’

「結構、彼女も崖っぷちに立たされてる様ですね。

木村さん、暫く放っておきましょう。
仕事以外の悩み事は増やしたくないんで。

頂いた電話ですが、ついでに来週の相場の話をしておきます。

うちでも今週、結構資本が入ったのは事実です。
ただ、俄かロングがこの先も踏み止まれるかどうか?

10円台(110円台)の売りを飲み込みながら買ってるので、彼らも苦しいはずです。
12円を見る前に一旦落ちても不思議ではないですね。

予想レンジは108円65銭~111円90銭です」

「そうですか。
分かりました。
後は適当に埋めておきます。

それでは、失礼します」

‘視聴率か・・・。
キャスターって仕事も大変だな’

 

社宅に戻ると、冷蔵庫からハートランドのボトルを出し、栓を開けた。
グラスに注がず、ボトルのまま口に運んだ。
いつもより、少し苦い感じがした。

BGMはKeith の ‘Standard, Vol.2’。
どのトラックのタイトルも、岬を失いかけている今の俺には相応しくないが、Keithのピアノが軽快なのが良い。

In love in vain
Never let me go
If I should lose you

‘それにしても暗いタイトルが多いな・・・’
自然と苦笑いが漏れる。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第49回 「久々のTV出演」

テレビの経済番組に出演するのは久々のことである。
昨年の今頃までニューヨークのテレビ局の経済番組に出演していたが、それ以来のことだ。

番組の放送が始まるのは午後11時、とてもやっかいな時間だ。
相場が動いているときは、銀行で市場と向き合っていればいいが、相場が死んでいるときはそうもいかない。

番組出演の初日(7日)の欧州時間、ロンドン市場が休場で銀行に残るほどのこともなさそうな相場付きだった。

‘一旦、社宅に帰って、テレビ局に向かうことにするか’

緊急時の出勤や居残り以外は銀行からタクシー代は支給されないが、帰国後の通勤はタクシーである。

この日も銀行を出ると日比谷通りの反対側に渡り、タクシーを拾って神楽坂の社宅に戻った。

 

社宅の敷地に入ると、何故か自分の部屋の灯りが点いている。

不思議に思いながら、自室のある棟の階段を上がりだすと、そこで母と出くわした。

「あら早いのね、今日は」
時刻は午後7時半である。

「なんだ、母さんか。
部屋に灯りが点いていたので、誰かと思ったよ。

今日から毎週月曜日にテレビ出演するんだけど、番組までに時間があるから、一旦社宅に戻ることにしたんだ。

外で酒を飲んでから生出演するってのも流石に問題があるからな」

「そうなの。
それなら、丁度良かった。

お前の好きな稲荷寿司と簡単なおかずを作っておいたから、それを食べてから出掛けるといいわ」

「本当、そいつは良い。
ありがとう、いつも助かるよ」

「いい加減、お嫁さんを貰ってよ。
こっちはもう歳で、家政婦仕事でこんな遠くまで出かけて来るのも大変だからね。

その後、岬さんとのお付き合いはどうなの?」

‘痛いところを突かれた’

「ああ、だめそうだな」
小さい頃から母には誤魔化しが効かないので、正直に答えた。

「そう、残念ね。
まぁ、こればっかりは縁だから。

ところで、今日はテレビ何時から。
どうせお前の出る番組だから、局はテレビ国際だろうけど」

「ああ、11時からだ」

「そう、でも今日はお前の顔を見ちゃったから、番組を見る必要ないわね。
それじゃ、帰るわ」
微笑みながら言う母の顔は年齢を感じさせながらも、若かった頃の美しい面影を残している。

「気を付けてな・・・。

週末には永田に帰るから、中華街に何か旨いものでも食べに行こう」
少し大きな声で言った。

今度の日曜日は母の日である。

‘たまには親孝行もしないとな’

 

麹町のテレビ国際には10時半に着いた。
初日とあって、セキュリティー・ルームの前で若手局員が出迎えてくれ、10階にある経済部の応接室へと案内してくれた。

「時間が来たら、また私がお迎えに上がりますが、その前に中尾が5分程度打ち合わせにくると思います」
と言い残すと、若手局員は部屋から出て行った。

ほどなくして、ノックと同時にドアが開いた。
中尾佐江とアシスタントと見られる中堅の男子局員である。

「お疲れのところ、今日はありがとうございます。
さっそくで恐縮ですが、打ち合わせをさせてください」

番組の打ち合わせ場所を兼ねている応接室のテーブルは少し高い。

男子局員が今日の番組スケジュールをテーブルに広げて、こっちに向けた。
テーマと進行時間が書かれている。

「仙崎さんには、11時20分ぐらいからお話をお伺いする予定です。

今のホットな話題となっている米中貿易摩擦などを私の方で適当に話させて頂きます。

その後、仙崎さんをご紹介させて頂き、FRBの金融政策、それに市場のお話をお聞きしたいと考えておりますが、それで宜しいでしょうか?」
畳み込むように中尾が言う。

「結構です」

「それに仙崎さん、今日は初めてのご出演なので、プロとしての市場の考え方についてお聞かせ願えればと・・・」
こっちの出方を窺う様に言葉を切った。

「構いませんが、市場の機微を語ると長くなるので、大凡でということであれば・・・」
こっちも、言葉を切った。

「ええ、それでもちろん結構です。
それでは、本日は宜しくお願い致します」
言い残すと、素早くドアの方へと歩き出した。
その後を男子局員が追う。

‘小池都知事も人気経済番組のキャスターを務めていたそうだ。
その頃の彼女、こんな感じだったのだろうか’
高校生の当時、小池百合子の番組を見た記憶がないので、二人を結びつけることはできない。

 

11時5分前になると例の若手局員が応接室にやってきてスタジオのゲスト・コメンテーターの席まで案内してくれた。

11時になると、番組のテーマ音楽が勢いよく流れ出した。
ニューヨークのTV局よりも若干音が大きく聞こえる。

「今日はまず、このニュースからです」という言葉で番組は始まり、米中貿易摩擦問題、米長期金利上昇と新興国利上げなど、主要なテーマが紹介されていく。

予定の11時20分になると、中尾の声のトーンが少し変わった。
「ところで今日は、新たなゲスト・コメンテーターとして、東京国際銀行の仙崎了さんをお招きしております」

一台のカメラが寄ってくるのが分かる。
カメラの先端部にある赤色の光を向けられると、自然とそこに目が向く。
カメラ目線に自然となっていくのが分かる。

少し長い様に思われた紹介も終わり、今年の米金融政策についてのコメントを求められた。

この手合いの質問の答えは簡単である。
有体の答えにプロとしてのコメントを少しだけ付け加えた。

俺のコメントに対して、
「なるほど、流石プロらしいお考えですね」と言って、中尾がほめてきた。

次の質問が難しかった。
「ところで先崎さんは、為替市場でのキャリアがお長いですが、為替ディーラーとして生き残るための秘訣とは何でしょうか?」
時速100マイルのフォーシームを苦手なインサイド高目に投げ込まれてきた感じだ。

‘体を後ろにステップして逃れれば、今度は外角について行けなくなる’

上半身のみをスウェイして、かわした。

「そうですね、短時間で市場の機微まで答えるのは難しいですが、一言で言えば、‘市場のポジションの偏りを把握すること’でしょうか」

「つまり、市場で言うところの逆張りですか?」
案の定、外角のスライダーが投げ込まれてきた。

「むろん、その意味も含みますが、市場参加者の立場によってその捉え方は異なるのかと考えています。

インターバンク・ディーラー、ポジション・テーカー、機関投資家、そして実需筋など、それぞれの立場でポジションの考え方が異なります。

刹那刹那のポジションの偏り、中長期の基礎的需給はどうなのか、という様に」
下半身が浮くのを必死に堪えながら、アームを一杯に伸ばし、少しだけ手首のコックを解いてバットをボールに当てた。

そして間違いなく、右打ちの俺が打ったボールはファーストの頭上を越えて行った。

‘時間が限られた中で語ることのできる、プロとしてのコメントはこれが限界だ’

中尾もそれを察知した様だ。
「なるほど、流石ワールド・ファイナンス誌で常にトップ・ディーラーの座を維持している仙崎さんならではのコメントですね。

仙崎さん、本日はどうもありがとうございました」
打ち合わせでは、自分のコーナーが終わったら退席して良いことになっている。

中尾の
「それでは、ここでトレンド・ビジネスについてのコーナーに移らせて頂きます」
という言葉を聞き終えると、スタジオから出た。

エレベーターに向かう通路の途中で、誰かの呼び止める声が聞こえた。
先刻案内してくれたの若手局員である。

俺に追い着いた彼は、十数枚程度のA4版の一束を渡して寄越した。

「これは今、視聴者から局に送られてきたメールの一部です。
中尾にも渡されているものですが、仙崎さんにお渡しすることは伏せてあります。

凄い評判ですね。
本日はどうもありがとうございました」
彼はそう言い残すと、再びスタジオの方に戻って行った。

‘なぜ、俺に渡すことを伏せておくのだろうか’

正面玄関の車寄せには数台のハイヤーが待っていた。
局員から告げられたナンバーのハイヤーを見つけると、‘東京国際銀行の仙崎ですが’と告げて乗り込んだ。

神楽坂の社宅までは僅かの距離だが、手持無沙汰に先刻渡された紙の束に目をやった。

・・・先崎さんの様な方がコメンテーターになることを待ち望んでいました・・・
・・・流石に市場のど真ん中にいる人のコメントは迫力がある。彼にもっと市場のことを語らせる時間を与えてほしい・・・

どのメールにもそんな内容のことが書かれたいた。

‘なるほどね。
今はそんな時代なのか’

 

その日以降、ドル円相場は強含みに推移し、木曜日(10日)には10円02(110円02銭)まで上昇した後、9円40で週を終えた。

市場から北朝鮮絡みの地政学的リスクという言葉が忘れ去られ、「WTIの上昇が米物価上昇期待を煽り、その結果FEDが利上げを加速させる」といった観測が今はドル買いの軸になっている。

‘そう簡単に行くのだろうか’

 

土曜の晩、ラフロイグを注いだグラスを片手に国際金融新聞の木村にメールを送った。

木村様

110円台でうちが預かっているドル売り、ほとんど捌けていません。

こんな状況は知らない方が良いのか、知っていた方が良いのか。

不思議なことに、一つのオーダーが外れると、それを見ていた様に、別のオーダーも外れて行くことがあり、気を付けたいところです。

そんなことを思いながらも、まだドル・ショートで頑張ってますが(笑)。

来週の予想レンジ:107円50銭~110円20銭。

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第48回 「杞憂か事実か」

ゴールデンウィーク中の2日、ニューヨーク市場でドル円は米長期金利の上昇を背景に一時10円05(110円05銭)を付けた。

臨場感のない社宅にいるせいか、大台が変わった割にはモニターの値動きが淀んで見える。
もう6杯目になるラフロイグで緩み切った脳の影響があるのかもしれない。

先週仕込んだドルロングを手仕舞うのなら、この局面しかないはずだがピンと来ない。

既に日付が変わった夜中、山下に電話を入れてみることにした。
ニューヨーク支店長に背負わされた収益増の話が潰れたことも連絡しておく必要がある。

サイドテーブルに置いてあるスマホに手を伸ばした。
「今、大丈夫か?」

「あっ、了さん、今晩は。
大丈夫ですが」

「どうだ、儲かってるか?」

「はい、こっちにいるとユーロが良く見えて助かります。
ユーロドルの売り回転が順調で上手く行ってます」

「そうだな、確かにそっちはユーロが見やすいことは事実だ。
いずれにしても何よりだ。

ユーロが軟調な理由は、正常化に向けてのECBの具体的言質が得られないことやドイツの景気悪化というのがメディアの理屈だが、何かお前からのコメントはないか?」

「1.19の手前では、欧州のファンドが一旦買い戻すという話ぐらいでしょうか・・・」

「そこは年初来安値だからそうだろうな。

ドル円はどうだ?

東京から110円台の売りオーダーが大分回ってるはずだが、追加は入ってないか?」

「大京(大京生命)から40(110円40銭)で100本、豊中から50で50本がダイレクトで入ってきました。

10円台は都合、400本ほどの売りでしょうか」

「予想以上に10円台の売りが多いな。

今いくらだ?」

「92(109円02銭)アラウンドです」

「それじゃ、ロンドンで50本、そこで50本、売ってくれ」

「Both 93です」

「了解、90で良いよ」

「ありがとうございます」

「ところで例の件、片付いたぞ。

もう心配しなくても良い」

「えっ、本当ですか! 一体、どんな手を?」

「俺は東城さんを頼っただけだ。

あの人が役員会で大博打に出たらしい。

そのうち、田村経由で嶺さん(常務)の仕返しが俺に飛んでくるかもな」

‘粘着質の彼らのことだ。
あり得ない話ではない’

「ありがとうございました。
でも、了さんに迷惑がかかると拙いですね」
心配そうに言う。

「彼らの嫌がらせにはもう慣れっこだから大丈夫さ。

ところで、さっきの売り50本は利食いだけど、残りの50本はショートメイクだ。

こっちが休みの間、上の50(110円50銭)がtakenしたら電話をくれ。

それじゃ、頑張れよ」

「はい、頑張ります。

ありがとうございました」

‘ディールも上手く行ってる様だし、彼も当分の間は大丈夫だな’

 

それ以降、ドル円は週末まで高値を更新することはなかった。

週末のニューヨークで発表された米4月雇用統計ではNFP(非農業部門雇用者数)増が市場の予測を下回ったことや平均時給が前月比低下したことがドルの上値を抑え込んだ。

’FEDの利上げペースの加速観測が後退したことがドル売りにつながった’というのがメディアの論調だが、統計前に作り過ぎたドルロングの投げもある。

ドル円は一時8円65(108円65銭)まで下落した後、再び9円台へと反発したところで週を越すことになった。

 

土曜日の晩、BGMにKeithの‘Last Dance’を流しながら、社宅のベッドで仕事のことを考えていた。

Keithの優しいピアノの音色に乗せてCharlie Hadenのダブル・バスが2LDKの空間に響く。

時折ベッドから起きては、サイドテーブルに置いてあるハートランドのボトルを口に運ぶ。

口を潤してはまた寝転ぶ。
1時間ほど前からこんなことを繰り返しているが、考えがまとまらない。

新年度に入ってからも収益を重ねてはいるものの、最近根っこのポジションが持てていないことが苛立ちにつながる。

確かに4月以降はそんな相場付きではあったが、自分本来の稼ぎ方ではないのが気に入らない。

本店の外国為替市場課長のポジションは何かと会議などの雑務が多く、一日中ボードに張り付いていられないという問題もある。

だからこそ、根っこのポジションが必要なのだ。

あれこれ考えているうちに、少しずつ足元のことが頭の中でまとまってきた。

 

‘一連のドル買いの正体は資本筋と投機筋だが、腹いっぱいになるまで売りを飲み込んだはずだ。

週末の米雇用統計で投機のロングはそこそこ投げさせられた感じもするが、まだ結構残っている。

とすれば、来週の9円台後半は彼らのヤレヤレ売りが出る可能性が高い。

とりあえず、来週前半までは90(109円90銭)のドルショートは放っておくことにしよう。

もしかしたら、こいつが根っこのポジションになってくれるかもしれない’

 

そんな期待感が湧いてくると、少し気分も晴れ、岬の声が聞きたくなってきた。

‘現金なものだ’

 

ピローの横に置いたスマホを手にすると、岬の短縮番号を押した。
「まだ、金沢か?」
連休中は金沢美術工芸大の集中講義を受けると言っていた。

「ええ、明日松本に戻る予定。
了は、また社宅でスコッチ?」

「まあ、そんなところだ。
いつ会えそうだ?」

「今月の松本クラフト・フェアが終われば、母の店が少し暇になるわ。
そしたら、いつでも」

「そっか、わかった。
ところで、金沢では何か収穫があったのか?」

「ええ。
特に工芸に関してはなかったけど、何となく将来の方向性が見えてきた様な気がする」

「ふーん、例えば?」

「そうね、上手く言えないけど、やるべきこととかかな・・・。
今度会う時までにまとめておくわ」

「随分、大袈裟だな?」

「坂本の件で懲りたし、少し新しい生き方を考え直してるところ。

だから大袈裟になったって当然でしょ」

「何となく分かるけど、その新しい生き方ってやつに俺は入ってるのか?」

「入っている様な、いない様な」
電話越しの笑い声もどことなく思わせぶりである。

やりとりが面倒になり、
「まぁ、何だか込み入ってる様なので、会った時に聞くよ。
それじゃ、切るけど」と半ばなげやりに言った。

「おやすみなさい」という岬の声が普段通りに返ってきた。

 

音量を落としたままの‘Last Dance’がまだ流れている。
トラックは皮肉にも‘Goodbye’だ。

岬の姿が少しずつ遠くなるのがわかる。

‘勘が当たらなければ良いが’

自然とデスクに置いてあるラフロイグのボトルに手が伸びる。
ショット・グラスに注いだ琥珀色の液体がいつになく濃く見えた。

 

国際金融新聞の木村宛ての来週のドル円相場予測のメールには、

「再び110円台を覗けなければ、108円台割れも。
予測レンジ:107円~110円20銭」

とだけ書いて送った。

 

ほどなく返信があった。

「いつもありがとうございます。

来週からのTV出演も宜しくお願いします」と書かれていた。

‘余計なお世話だ’

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第47回 「東城の賭け」

日曜(22日)の晩、Junior Mance Trioの‘Junior’をBGMにラフロイグを注いだグラスを傾けていると、山下から電話が入った。

「すみません、お寛ぎのところ」

「おー、元気か?」

「はい、なんとか落ち着いて仕事ができる様になってきました」

「そうか、それじゃこれからは毎日お前と電話で話ができるな。
ところで、今は世界中の市場が閉じてるのに、何か急用か?」

「急用ってわけじゃないんですが、金曜日に山際さんからバジェット(収益目標)の変更を告げられました。

支店長の指示で、トレジャリー部門は500万ドルのアップだそうです。

理由はファイナンス部門が被った不良債権2000万ドルの償却分を稼ぎ出すためだそうですが、妙な話ですよね?」

「ああ、その件は沖田から大凡の話を聞いてるが、確かにお前が言う様に本部制で予算が組まれている以上、勝手に支店長の裁量でそんな決定をできるはずはない。

本店と協議の上での話なら別だが、東城さんからはそんな話は一切聞いていない。
仮にそういう話が正式にあったとしても、お前は心配しなくていい。
俺が何とかする」

「ありがとうございます」

「それで、ご家族はいつそっちに?」

「6月に入ってからでしょうか」

「そうか、それまでの間、独身生活をエンジョイするんだな。
話は分かった。

心配するな。
それじゃ、切るぞ」

‘そうは言ったものの、勝手に動くのは拙い。

このイッシュー、やはり東城さんに相談するしかないな’

少しニューヨーク支店長のやりくにちに腹立たしさを覚える。

ソファーテーブルに置いてあるウィスキーグラスを手にすると、残りを一気に飲み干し、そのままベッドに倒れ込んだ。

寝ころんだまま、再びミュージック・システムとWalkman をbluetooth 接続し、Keith の ‘Somewhere’をセレクトした。

重いトーンで始まる楽曲だが、次第にKeith のピアノが軽快になり、Gary Peacock のベースがそれを浮き立たせる。

少しずつ気分が解れてきた様だ。

 

翌日(23日・月曜日)の午後、東城の執務室に出向き、ニューヨークの件を話した。

「これでは、山下が潰れてしまいます。

収益の問題だけなら私が彼を助けることも可能ですが、本件はうちの本部制のルールからすれば、筋が違うのかと・・・」

「そうだな。
お前なら、彼を救えるのは分かってる。

だが、これはお前の言う通り、何かがおかしい。
もしかしたら、内々に清水さんが日和出身の各部門担当常務に話をしているのかもしれないな。

この話、俺が預かる。
暫く時間をくれ。

お前のことだ、もう山下には‘何も心配するな’と言ってあるんだろ?」
半ば決めつけ気味に問われた。

「お察しの通りです」
二人は笑みを交わし合った。
信頼の証である。

 

自席に戻ると、4時を回っていた。
ロンドン市場が厚みを増してくる時間だ。

「どうだ場は?」と沖田に聞く。

「さっきから90(107円90銭)を食い始めています」

「あっち(米国)の長期金利の上昇と北絡みの地政学的リスクの後退が、メディアの論調か?」

「まあ、そんなところです」

「うちのポジションはどんな感じだ?」

「そうですね、うちの客は総じてドル売りが多かったので、随分買わされましたが、マーケットはなんとなくビッド気配なので、全部はカバーをとってません。

まだ30本ほど、ロングのままです」

「それは正解だな。
90が食われたってことは、まだ上があるってことだ。

俺もここで買う。
ロンドンで50本買ってくれ」

「93です」

「了解。

ところで、例の件だが、いま東城さんに話してきた。
とりあえず、彼にゲタを預けた。

その結果次第では、俺達が山下をサポートしてあげることになる。
それだけは覚悟しておいてくれ」

「了解です」

「それと上の25(108円25銭)がtakenされたら、50本の買いを入れておいてくれないか?

ここは少し買いに乗ってみるよ」

「今週の上はどの辺ですかね?」

下降局面の2月中旬に9円を挟んで揉んでるから、9円前半かな。

とりあえず、週末まで9円25で50本の利食いを回しておいてくれ。
残りの50本は放っておく。

ところで、ここから下はあるかな?」

「うちのオーダー状況を見てください。
50から丁度(7円50銭~7円丁度)までで資本の買いが300本あります。

潜在的な買いを含めれば、50の下は恐らく相当な本数にのぼるはずです。

多分、この局面で7円前半はないかと」

’沖田の返事はきっぱりしているのが良い’

「ということは、先に8円台があれば、そのうちの何分の一かは高値を追ってくる可能性があるってことか」

「そうだと思います」

「そんな結論で行くか」

「はい」

 

その日の海外からドル円は力強く上昇し始め、翌日には9円台へと上昇した。

 

週末の金曜日の午後、月末の定例取締役会議が開かれた。
東城も出席する。

‘彼が「本件、俺が預かる」と言ったのはこの日に何か行動を起こすということか’

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「他に何かないか?」
中窪頭取が発するいつもの会議終了前の言葉である。

東城は挙手をすると、
落ち着いた声で言った。

「これは伝聞ですが、宜しいででしょうか?」

「おう、東城君か、もちろんだ。
君が発言をするぐらいだから、重要な話に違いない。
構わん、続けてくれ」

日和銀行出身の頭取だが、出身銀行に捉われない公平な見識の持ち主で、住井出身の東城を高く評価している人物である。

「ありがとうございます。
それでは、続けさせて頂きます。

我が行が本部制を敷いているのは言うまでもないことですが、最近ある海外店において支店裁量で物事が進んでいるやに聞いております」
出席者の一部から‘ほー、どこだどこだ’などのどよめきが上がる。

そのどよめきが静まるのを待って東城は話を続けた。
「その海外店では、それを実行する資金を稼ぎ出すために、支店内の一部の部門に‘本来のバジェット以上の収益を生み出せ’という通達を出したとのことです。

仮にこれが事実だとすれば、当該支店長の一存ではなく、ここにご出席の常務以上の役員と内々に打ち合わせをしていることが推測されます」
再び、会議室内にどよめきの声が上がった。

その声を振り払う様に、東城は語調を強めてさらに続けた。
「仮にこのことが事実だとすれば、海外で予期せぬグレー債権が蓄積したり、良からぬ支店長申し送り事項が延々と後世に残されてしまう危険性があります。

我が国で最も信頼に足るべきはずの「霞が関」においてすら改竄問題などが噴出していることに照らしても、ここは我が行も襟を正すべく、念のため頭取からのご言葉を賜れればと存じます。

私の申し上げるべきことは以上です」

東城の話が終わると室内がまた騒然となったが、頭取がそれを制した。
「東城君の話、一応伝聞とのことだ。
よもや当行においてその様なことはないと信じている。

だが、仮に事実だとすれば、彼の言っている様に将来への負の遺産となりかねない。
6月の株主総会前の行内会議が開かれる際に、海外支店長並びに現地法人社長と面談する。

それでは、本日はこれで散会とする」

ほぼ末席に位置する東城は、他の役員連中が会議室を後にするのを待って席に留まった。
すると、その肩を後ろから軽く叩く者がいた。
頭取の中窪である。

「ありがとう。
少しこれで、行内が引き締まると良いのだが。

ところで、君のところの仙崎君はなかなか評判が良いな。
顧客の社長連中と会食をする度にそんな話を耳にする。
流石、君の部下だ」

「恐れ入ります。
少し無茶をするところもありますが、頑張ってくれてます」

二人は既に役員連中が消え去った後の誰もいない廊下を談笑しながらエレベーターの方へと向かった。
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人事担当役員の島がこの会議でのやりとりを伝えてきた。
「聞いてる方は冷や冷やしたが、相変わらず肝が座ったやつだ。
多分、仙崎君に関連しているイッシューだと思うので、電話した」
と笑って言う。

島は東城と同期入行で、俺のコロンビア大MBA行きを後押ししてくれた人物である。
「どうも、ご連絡ありがとうございます」と言い、頭を下げながら受話器を置いた。

東城に呼ばれたはのそれから数分後のことだった。
執務室のドアを開けると、皇居の森を見据えて立つ、普段と変わらない凛とした後ろ姿があった。

東城は振り返ると、
「例の件、もう片付いた。
山下にはそう伝えておいてくれ」
と言葉を渡して寄越した。

その顔には優しい笑みが浮かんでいる。

「ありがとうございます」と、深々と頭を下げた。
目頭が熱くなりそうだったが、必死に堪えた。

 

週末のニューヨークでドル円は109円54銭を付けた後、109円05銭前後で週を終えた。

 

土曜の晩、ラフロイグをグラスに注ぐとデスクのPCに向かった。
国際金融新聞の木村に来週のドル円相場のメールを打つためである。

木村様

109円台は実需の売りが結構出ていますね。
企業が日銀のアンケートにまともに回答しているとは思えませんが、とりあえず短観の想定レート109円66銭を前に上げ渋っているのは事実です。

うちでも109円台後半~110円台前半には実需を中心とした有象無象の売りが並んでいます。

一応、私も108円台前半のロングを持っていますが、来週初の状況次第でスクエアにします。

落ちれば、108円近辺まで速いかと。

ここでホールドすれば、110円台前半もありでしょうか。

予測レンジ:107円50銭~110円50銭

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第46回 「沖田の帰国」

やっと、ニューヨークの沖田が戻ってきた。
これで、新年度の臨戦態勢が整う。

週初(16日)の早朝、いつも通りの時間にディーリング・ルームに入ると、既に沖田はインターバンクのデスクに座っていた。

数週間前までは山下が陣取っていた席である。
太目の山下の体形とは違い、痩身で精悍だ。
日頃、テニスで体を整えてきた成果だろう。

沖田はあっちで地元のカントリークラブに所属し、週中の疲れを発散していた。
彼と幾度か対戦したこともあったが、学生時代にテニス同好会に所属していただけあって、ただひたすら遊ばれたという記憶しか残っていない。

「一年ぶりか、顔を見るのは。
毎日の様に電話で話してるから、あまり懐かしさも湧かないな」
右手を差し出しながら、声をかけた。

「そうですね。
でもまた、リアルな現場でご一緒できて光栄です」
その右手を力一杯握り返しながら、元気そうな声で言う。

‘一段と頼もしくなった様だ’

「それじゃ、とりあえず、この部屋の皆に紹介しておくか」
と言い、ディーリング・ルームを一緒に回った。

一通り、紹介し終えたところで、
「東城さんには自分一人で挨拶してこい。
その方が良い」と指示した。

 

週末の米英仏のシリア攻撃も単発で終わるとの見方が拡がり、金融市場全体にどことなくリスク・オンの気配が漂う。

日本株がそこそこ堅調に推移するなか、ドル円も107円前半で強含みに推移している。

翌日(17日)、日米首脳会談で‘トランプが安倍首相に通商上の厳しい注文を突き付けてくるのでは’との懸念が浮上し、午後に入るとドル円は一時6円89銭(106円89銭)まで下落した。

だが、下値圏でのドルは底堅さを示す。

‘もう今週は落ちそうもないな’

「沖田、ここはどう思う?
俺は先週末にショートを振ってる。
コストは60(107円60銭)だ」

「そうですね。
仲の良いヘッジファンドがドルショートを手仕舞うと言ってました。
週末までに買い戻してくるでしょうから、7円後半までは上がるかもしれませんね」

「そうか、それじゃ、50本買い戻すか。
そして新たに50本ロングする。
俺はこっちで50本買うから、お前はロンドンで50本買ってくれ」

「96(106円96銭)です」

「了解、こっちは95だ。
そっちの50本は上の利食いに充ててくれるか。

お前、昨日のニューヨークで7円25で20本ショート・メイク(ドル売り)した様だが、コストがあまり良くないな。

俺が買った50本のうち20本使うか?」

「はい、そうですね。
お言葉に甘えて、95の20本、使わせて頂きます。
残りの30本はどうしますか?」

「先週の高値は7円78だったから、
75で利食いのリーブを週末まで回しておいてくれ。
もう落ちないから、ストップは不要だ」

「了解しました」

「ところで、山下はどうだ?」
沖田がディールの処理をし終えたところで聞いてみた。

「多少英語に問題はある様ですが、何とかこなしている様なので大丈夫だと思います。
それより、支店の問題で少し気になることがあるのですが」

その会話が右手のデスクに座る野口に聞こえたらしく、こっちを向いた。

‘沖田の話は公にできない内容らしい。
場所を変えた方が無難だ’

「急ぎの話でなければ、お前の歓迎会を兼ねて金曜日の晩に聞くということでどうだ?
もっとも、帰国して間もないから、ご家族のこともある。
日を改めて構わないが」

「大丈夫です。
家内は金曜から週末にかけて、実家に行くと言ってましたから」

 

その日以降、ドル円は、日米首脳会談が波乱なく終了したことや日経平均が節目の2万2000円を抜いたことで、107円台で強含みに推移した。

 

金曜日の晩、沖田を銀座の寿司処‘下田’に連れて行った。

「旨いですね。
ここは東城さん御用達のお店ですね」

「ああ、昨年の俺の帰国祝いもここだった。
今日は東城さんの支払いで良いそうだ。
だから存分に食って飲んでくれ」

「それじゃ、遠慮なくいきますか」
小上がりに座る二人の笑い声がカウンターの方まで響き渡った。
6時半という時間のせいか、まだ店内には二人だけで、他の客に気を遣う必要もない。

その笑いに乗じて、大将が声を掛けてきた。
「了さん、楽しそうだね。
お酒は、あの時と同じ獺祭の極上版で良いかい?

東城さんからさっき電話を貰ったよ。
お二人に最高の寿司と最高の酒をだってね」
あの時とは、東城が俺の帰国祝いをしてくれた日のことだ。

‘相変わらず、気の付く人だ’

旨い寿司と酒で気持ちがほぐれたところで、
「例の支店の話って何だ?」
と切り出した。

「実は、現地企業に融資した金が焦付き、その件で山下さんにも影響が出そうなんです。
金額は2000万ドルほどですが、支店としては小さくありません。

貸出前の審査が甘かったことが原因の様ですが、支店のコーポレート・ファイナンス部門が負う不良債権に変わりはありません。

支店長は、他の部門でターゲット以上の収益を上げ、その分で不良債権を償却するという考えの様です。

要は、山下さんにも負担がかかる可能性があるということです」

「それは理不尽な話だな。

部門ごとの損失は本部制の縦割りで解決すべきことだが、支店長にも統括の責任がある。
だから店内の他部署の上がりで償却分を賄い、支店収益を落としたくないってことか。

それは、既定事実なのか?」

「支店上層部ではそうですね。
山際さんからはそう聞いています。

コンフィデンシャルとは言っても、店全体に行き亘るのは時間の問題でしょう」

「それで、山下には伝えてあるのか?」

「はい、ただ各部署の具体的負担額が決まっていないので、今の処は山下さんも動き様がありません」

「あいつも赴任早々、ついてないな。
山際さんの後任はもうスイスの横尾さんで決定だし」

‘いざとなったら、助けるしかない’

「俺も山下のことは気遣うが、お前もあいつと話していて気づいたことがあったら、教えてくれ。

あいつは体形に似合わず繊細なところがある」

「はい、心得ています」

それから一時間後、その場をお開きにした。

明日の早朝、沖田は仙台の実家に帰国の挨拶に行くという。
無理に二件目を誘わなかった。

 

沖田と別れた後、数十メートル歩いたところにある‘やま河’へと足を向けた。

「いらっしゃい、お一人?」

「ええ、山下の替わりが着任したので、今度連れて来ますよ」

「お願いします。
仙崎さんの同僚や部下でしたら、品も良いでしょうから大歓迎よ。
飲み物とアテは、いつもので良いかしら?」

「はい。
BGMはColtraneの‘Ballads’を。
音量は他のお客さんの邪魔にならない程度で」
カウンターの奥に、男同士の二人連れ、二組が静かに話し込んでいる。

‘Say it(Over and Over Again)’がTenor Saxの音色に乗って流れ出すと、彼らの聴き入る空気が伝わってきた。

トラックが‘Too Young to go steady’に移る頃には、どこからともなく「ママ、もう少し音量を上げて」という声が聞こえた。

‘嬉しい限りだ’

ラフロイグとColtrane、最高の組み合わせで至福の時が流れる。

 

社宅に戻ると直ぐ、デスクの上のPCにログインした。
モニターで全ての通貨ペアを一覧した後、チャートに目を移す。

ドル円は7円86(107円86銭)へと跳ねた様だが、その後は伸び悩んでいることを映し出している。

‘日米金利差拡大が背景’と、メディアは伝えているが、実態は沖田が言っていたヘッジファンドが買っていた円を売り戻しただけだ。

色気のない相場に見切りをつけて、Outlookをクリックした。
国際金融新聞の木村宛てに来週のドル円予測を書かなければならない。

 

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木村様

見えている与件でポジションを持つと、やられる展開ですね。

ここからは上はドルの需給が緩いと思うのですが、本邦の機関投資家も少しずつ外物を買いたがっているのは事実です。

8円台(108円台)は売りたい実需がいて、6円台は買いたい実需と機関投資家がいる。
つまり、来週もその間での揉み合いでしょうか。

でも、いずれはUSTR(米通商代表部)が動いてきますね。
中間選挙の時期を考慮すると、その動きは年前半でしょうか?

1990年代前半のパターンだとすると、ライトハイザーが‘右手に自動車部品等の輸入数量増、左手に円高’というプラカードを掲げてくることは間違いないと思います。

日本が歴然とした対米黒字国であり、‘実質実効レートで円は25%も過小評価されている’というIMFのエヴィデンスを持っているのであれば、‘ドル円の下値’はまだ深いところにあると考えておいた方が無難かもしれません。

問題は、上で書いた様にその時期ですね。
木村さん、USTRの動きで何かあったら、教えてください。

来週の予測レンジ:105円50銭~108円50銭

IBT国際金融本部外国為替課長  仙崎 了

追伸:埋め草はいつも通りお任せ致します。

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第45回 「誘い」

週初(9日)の東京市場で107円直前で寄り付いたドル円は、米中貿易摩擦やシリアを巡る米露の対立を材料に、週後半まで揉み合いが続いた。

だが、ドルの下値は先週よりも1円ほど切り上がり、安値は週前半の106円62銭で止まっている。
少しドルが上に動く兆しである。

‘1月上旬に113円台で推移していた相場が3月下旬に104円64銭まで下落したことを振り返れば、この程度のドルの戻りは当然のことだ’

相場が変化したのは、週末の金曜日のことだった。

シリア情勢を巡って米国の態度が軟化したため、日本株が堅調となり、ドル円も2月下旬以来の水準となる107円後半まで上昇したのだ。

‘ただこの先、誰が積極的にドルを買うのかが問題だ。
買うとしたら、短期のスペック(投機筋)か新年度入り直後の機関投資家か’

シリア問題の行方が見えないなか、週越えのポジションを持つにはリスクが高い状況だ。
だが、ポジションを持たないことには場が良く見えない。

思い切って、ドルを売ることにした。

 

「小野寺、ロンドンを読んでドル円50本(5000万ドル)売ってくれ」

「はい、60(107円60銭)です」
山下に匹敵するぐらいのレスポンスだ。

「了解。
ストップは入れなくて良い。
8円25(108円25銭)taken のコールレベルだけ頼む」

小野寺は「はい」と言いながら、
「課長はキナ臭い与件があるときに、週越えのポジションを持って怖くないんですか?」
と聞いてきた。

「怖くないと言えば嘘になるが、仮にトランプのシリアに対する姿勢が軟化しても、ドル円は精々108円台前半だ。

逆にシリア攻撃が行われた場合は、ドル円の下値は結構深いかもしれない。
そんな状況では様々な情報が飛び交い、市場はバタつく。

そんなときに作ったポジションは、持ち切るのが難しい。
だから、今売ってみただけだ。

それにまだ新年度が始まったばかりだ。
やられても取り戻せるしな」

「そうですか、僕はそんな勇気を持てませんが」

「ならば、試しにここで売ってみろ。
でないと、場の味も良く分からないだろ?」

「はい、それじゃ、勇気を出して10本売ってみます」
EBS(電子ブローキング・システム)のキーを叩き終えると、ニコッとしながらこっちを見た。
覚悟が決まった顔つきである。

 

そんな折、
「課長、テレビ国際の中尾さんからお電話です」
と誰かの声がした。

‘来たか’

「ディーリング用でない電話番号を教えて、そこに掛けてくれと伝えてくれ」
こっちから掛け直す必要もない相手だ。
時を待たず、デスクの上のディーリング用でない電話が鳴った。

「初めまして、仙崎です。
さっきの電話はディーリング用のなので、こちらに掛けて頂きました。
失礼致しました。

話は番組の件ですね?」

「はい、番組のキャスターを務めている中尾と申します。
番組の件でお電話させて頂きました。

お忙しいところ、突然申し訳ありません。
それで早速ですが、打ち合わせで今晩お時間を頂けませんでしょうか?」

急な話である。

「4月入りでコメンテーターを入れ替えているのですが、仙崎さんにご担当をお願いする予定の月曜日だけが決まっておりません。

今は、局の経済部の人間が担当していますが、できればゴールデンウィーク開けからでもお願いできればと存じます。

そのためには、来週中にも上に報告書を提出する必要があります。

今日の番組打ち合わせは8時からですので、その前にお時間を頂けたらと・・・」

言葉は丁寧だが、相手の言い分は関係なく、畳みかける様な口調である。
局内では誰も太刀打ちできないほどの才女らしい。

「分かりました。
それで、局にお伺いすれば、良いのですね」

「はい、そうして頂ければ、助かります。
局の入り口のセキュリティーで仙崎さんのお名前を伝えて下されば、問題ない様に手配しておきます。

今5時半ですから、6時半頃ということで宜しいでしょうか?」

「はい、それで結構です」

「それでは、お待ちしております」

 

6時過ぎに銀行を出たところでタクシーを拾い、
運転手に「麹町のテレビ国際へお願いします」と告げた。

タクシーは日比谷通りを南に下り、日比谷濠、桜田濠を右手に見ながら、局へと向かう。
桜の時期を終え、綺麗な新緑が濠沿いの歩道を飾る。

6時過ぎという時間帯のせいか三宅坂付近で少し渋滞に出合ったが、6時半前には局に着いた。

セキュリティー室の脇で待っていてくれた若手男子局員が10階にある経済部の応接室まで案内してくれた。

数分すると、身長160センチほどの細身の女性が現れた。
ウィキペディア調べでは43歳だが、幾分若く見える。
細面の美人だが、冷たい印象を受けるのは彼女の性格のせいなのか、局内で一線を維持するために被ったベールのせいなのかは分からない。

国際金融新聞の木村が言う様に男癖が悪い様には見えないが、先入観を持たない方が無難だ。

「初めまして、中尾佐江です」
と言いながら、名刺を差し出す仕草は腰が低い。

「仙崎です、宜しくお願い致します」
こっちも名刺を渡した。

早速、番組の申し合わせ事項についての説明を切り出してきた。
「ワールド・マーケット」という番組の趣旨や内容についての説明はない。
当然、銀行員ならこの番組を見てるという前提で話は進む。
とんでもない思い込みである。

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経済番組のコメンテーターの話には全く興味がないので、ほとんどこの番組を見たことがない。

ポジションも持ったことのない経済学者やエコノミスト連中の市場の話が役に立つはずはない。

一般経済についても、ロイターや新聞の情報があれば十分だ。
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暫しの間、番組の進行や事前の打ち合わせ事項についてのレクを受けた。

大凡の話を終えたところで、
「仙崎さんは独身ですか?」
と聞いてきた。

「ええ、そうですが・・・」

「私もですの。
でもバツイチで、子供付きですが」
何となく顔付きが普通の女性に変わっていた。

「へぇー、そうですか。
それは何かと大変ですね」

「ええ、でも母が子供の面倒を見てくれてますから、日常は全く独身と変わりませんのよ」
やたらと独身を強調してくる。

「そうは言っても、これだけの番組のキャスターを務めてらっしゃるのだから、何かと大変かと思いますが」

「‘慣れてしまえばって’とこかしら。
それより先崎さんのお仕事こそ、24時間だから大変でしょ。
さぞおモテになるでしょうに、デートも儘ならないんでしょうか?」

「そうかもしれませんね」と笑いながら言い、彼女の言葉をあしらった。

‘そろそろ潮時だな’

「申し訳ありません。
これから銀行に戻らなければならないので、そろそろ失礼します」
と言い、ソファーから立ち上がった。

「そうですか、それは気づきませんで、失礼しました。
それでは、5月7日にお待ちしていますので、宜しくお願いします」

応接室から出たときの彼女の顔は、既に仕事モードのベールを被っていた。
‘流石だな’

 

局を出たところでタクシーを拾うと、青山へと向かった。
ジャズ・バーの’Keith’が目的の場所だ。

人と会ったときに日時と場所を名刺に記入しておくのを習慣にしている。
車中でそれを記入しようと、彼女の名刺を取り出すと、裏面に何かが書き込まれているのが目に留まった。

そこには手書きで携帯番号、090xxxxxxxxと書かれていた。
「男癖が悪い」という彼女の片鱗を見た様な気がした。

 

Keith の重いドアを押し開けると、
マスターの「お久しぶり」という元気な声が飛んできた。

「本当にお久しぶりです。
今日は一人だから、カウンターで。

酒とアテはいつもの、そしてBGMはMiles の‘Round about midnight’をお願いします」

「山下さんがいなくなって、連れに困るでしょ?」

「でももう直ぐ、ジャズ好きがニューヨークから帰ってくるから、連れて来ますよ」

そう言いながら、スマホを取り出すと、メールを書き出した。
国際金融新聞の木村宛てである。

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木村様

今日、例の中尾さんに会って来ました。
噂は本当かも知れませんね。

だとすると、この先疲れそうな気がします。

それはそれとして、来週の予測をお伝えします。

あっちの友人からの話では週末に米国がシリアを叩く可能性が高いとのことです。

もしそうであれば、とりあえずは「株安→ドル円下落」でしょうか。

‘今晩にも発表されるかもしれない「米財務省の為替政策報告書」では日本が監視対象国に入るでしょうし、来週の日米首脳会談でトランプが貿易不均衡を追求してくることも間違いないと思います’、そう考えれば円高に振れる。

ですが、そんな筋書きは誰にでも描けそうなので、疑問が残るところです。

私もドルショートで構えていますが、先週と同様にチャートの顔つきからはあまりドルが下がらないのかもしれません。

与件から離れて予測すれば、揉み合い継続の様な気がします。

予測レンジ:104円50銭~108円25銭

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第44回 「新年度」

左斜め前のディーリングボードの席に山下の姿はもうない。
沖田がニューヨークから戻るまでは、そこが空席になる。

少し落ち着かない感じだ。
‘当分の間、誰かをそこに座らせておくか’

「小野寺、沖田が戻るまでの間、今日からお前はここに座って野口や浅野、そして俺のサポートをしてくれ」
小野寺は昨年、IBT証券外債部から銀行に引き抜いてきた男だが、今は若手のホープとして頑張っている。

「はい、分かりました」
というと、直ぐに荷物をまとめて山下の席に移ってきた。

ボードに着くなり、周辺の皆が‘チーフへの昇格、おめでとう’などと言って冷やかした。
少し照れた様子を見せながら、‘何だか、一日警察署長みたいですね’と上手く返している。

‘何となく、良いチームに仕上がりつつあるな’

立ち上がると、‘皆聞いてくれ’と声を掛けた。
「今日から新年度だ。
また今年度もよろしく。

今年は新人の受け入れゼロだ。
沖田が戻るまでは一人欠員になるから、彼が戻るまで皆協力して頑張ってくれ。
話はそれだけだ」

言い終えると、‘はい’とか‘了解です’という元気な声が部下から聞こえてきた。

週初(2日)の市場は、静かである。
ドル円は106円台前半で寄り付いた後も、様子見の展開が続いた。

朝方に発表された日銀短観には、大企業・製造業の今期通年の想定レートは109円66銭と記されている。

‘足下のドル円相場に比して、想定レートは少し甘すぎないだろうか?’

短観上の想定レートは調査対象企業が事業の基準である。
それだけに、このままドル円が続落する様なことがあれば、ドル売りが集中することになる。

まだ米政権は通商政策で一定の距離を対日で維持しているが、中間選挙までの7カ月の間、どこかで距離を縮めてくるはずだ。

目先では、米財務省が議会に提出する「為替政策報告書」の中で、日本への言及がどの程度のものになるのかが気懸りである。

報告書は今月15日前後に公表される。

ムニューシン財務長官はかなりトランプ寄りの人物だ。
トランプが論功行賞型の人材登用に傾いていることを見抜いている彼は数カ月前、‘ドル安は、米国(の貿易)にとって良い’と臆面もなく言い放った。

そんな彼が「報告書」に対米黒字では世界ナンバー2の日本を厳しく批判してくる蓋然性は高い。

そうなれば、一挙にドル安円高が加速し、輸出企業が慌ててドルを売ってくる。

そんなことを考えていると、東城から呼び出しが掛かった。

 

執務室に入ると、東城はソファーでウォールストリート・ジャーナルをテーブルに広げていた。

「まあ、座れ」
とテーブルを挟んで反対側のソファーに手を向ける。

「何か、興味深い記事でも?」

「いや、役員会議が終わったばかりで、一休みがてらに読んでいただけだ。

ところで、前年度はよく頑張ってくれたな。
お陰で国際金融部門は好成績を残すことができた。
礼を言うよ。

そのうち、お前の好きなものでも食べに行くか」

「はい、ありがとうございます。
場所は考えておきます」
と少し笑みを浮かべなら答えた。

「年度替わりで、忙しいだろうから、もう少し先だな。

年度替わりと言えば、先週、テレビ国際の友人から電話があった。
例の経済番組への出演依頼だ。

番組自体は継続するそうだが、コメンテーターの入れ替えを行うので、このタイミングで頼みたいと言ってきた。

彼にはお前が落ち着いてからと伝えてあるが、どうする?」

「半年もお待たせしてますから、そろそろ決めないと拙いでしょうね。

分かりました。
引き受けますと、ご友人に伝えて頂いて結構です」

「分かった。
そう伝えておこう。

悪いな、お前には一銭も入らないのにな」
済まなそうに言う。

「本当にそうですね。
その分、本部長の小遣いが減るってことですが」

「そりゃ、そうだ」
二人の笑いが部屋に流れた。

心地の良い笑いを最後に、
「それでは、失礼致します」
と言って、執務室を後にした。

 

ドル円はその日のニューヨークで105円66銭まで下落した。
NYダウが大幅に下落したのに連れたのだ。

翌日(3日)の東京でも、軟調となったNY株式市場の地合いを受け継ぐ格好で、日経平均が大幅安となった。

為替市場もこれに連れてドル売り円買いの動きとなったが、前日の安値を更新するまでには至らなかった。

少しドルがショート気味だな。
ここで下がらないと、週末の米雇用統計に向けてショートの踏み上げが起きる。
果たして、その日の海外でドル円は106円台後半へと跳ね上がった。

翌日(4日)の夕方、ドルが少し下がったところで、
「課長、ここの辺は買いどころでしょうか?」
小野寺が聞いてきた。

ドル円は106円10前後で動きが止まったままだ。

「ロングしたいけど、貿易制裁を巡って米中の出方が気になるってことか?

それを頭の隅に残しておくのは良いが、今は市場の心理だけを考えろ。
先週と今週前半、ドルを叩いても落ちなかったんだ。

こんな状況では、少しドルが上がると思った方が良い。

来週以降は分からないが、今週はもう6円(106円)割れはないと思う。
それで、幾ら抜きたいんだ?」

「1円です」

「そっか、7円25(107円25銭)辺りで利食いを入れておくんだな。
もう少し伸びると思うが、雇用統計前だから深追いしない方が良い。

確か7円30近辺にチャートポイントがあったはずだ」

「えーと、30が3月13日の戻り高値です」

「そうか、とすれば、それより上は髭になるはずだ。
どうせ買うなら今買え、俺も買う。

俺は50本、シング(シンガポール)に行く。
お前の分はこっちのEBSで買え」

「15で10本」

「こっちは、13で30本、15で20本だ。
お前は13の10本を使え。

15の10本は、俺が引き取る。
利食いはさっきの通りで良い。
ストップは入れるな。
但し、コールレベルだけは海外に伝えておけ。

大丈夫だ。
絶対、利食えるから安心しろ」
笑みを見せながら言う。

「ありがとうございました」
不安な気持が消えたのか、小野寺の顔が先刻よりも和らいだ様に見えた。

‘少しずつ、若手を育てて行かなければ’

 

ドル円は5日のニューヨーク市場で、107円49銭まで上昇した。

週末の米3月雇用統計は、NFP(非農業部門雇用者数)の増加が予想外に低迷したため、ドルは全通貨に対して緩んだ。

ドル円は結局、前日の高値を抜くことが出来ないまま、106円95銭前後で来週を迎える格好となった。

 

土曜日の晩、社宅でBGMに Paul Desmond の Feeling Blue を流しながら寛いでいると、
スマホが鳴った。
国際金融新聞の木村からである。

「珍しいですね、木村さんから電話とは。
どうしたんですか?」

「仙崎さんにやっとテレビに出演して貰えるって話を聞いたもんですから。
ワールド・ファイナンス、いえ今月からワールド・マーケットに改名になりましたが、局の担当者達は喜んでましたよ。

期待されてますよ、仙崎さん」

「私が出たって、視聴率は上がらないですよ。
所詮、一為替ディーラーに過ぎないんですから」

「いや、財務省のセミナーも省内で大好評だった様ですし、仙崎人気は上がっているはずです」

「えっ、私がそこで講師を務めたことを知ってるんですか?」

「まあ、仕事柄、財務省やBOJ(日銀)には知り合いが多いので。
それはそうと、その番組出演の件で一つお伝えしておくことがあって、電話をさせて頂きました。

実は、番組のニュース・キャスターの中尾佐江には良くない噂が出回っています。
男癖が悪いそうなので、気を付けて下さい。

仙崎さんは風貌も仕事ぶりも格好良過ぎるから。
まぁ、その点で困ったことがあったら言って下さい。
こっちにもルートもありますから。

ところで、来週の予想はどんな感じでしょうか?」

「妙な話を聞かされたせいで、いい加減な予想になりますが、いいですね?」

笑い声だけで返事がない。
仕方なしに続けた。

「今回のNFPは意外な結果でしたが、元々データ収集の方法に問題があるので、修正の多い統計です。

とは言え、この結果を見ると、感覚的には誰しもドルを買う気にはなりませんよね。

でも、少し幾つかのチャートに変化が見られるため、目先ではドルは予想外に底堅いかもしれません。

107円台後半では少し需給が緩いと思うので、簡単にはドルが上がらないでしょうが。

そう考えれば、来週も揉み合う展開と読むのが正着かと。

予測レンジは105円~108円20銭です。

埋め草は任せます。

良い情報、いや悪い情報かな、ありがとうございました。

それじゃ、失礼します」

電話を切った後、木村の話が少し気に懸った。

テレビ国際の役員だという東城の友人からの依頼だったため出演を引き受けたが、何となく気が重くなってきた。

 

デスクに置いてあるウィスキーボトルから琥珀色の液体をグラスに注いだ。
液体はボウモア12年である。
普段ならダークチョコレートを想わせる味がするはずのアイラも、今日はどことなく違う。

途中で止めたミュージック・システムを再びオンにすると、Paul の ソフトなアルトサックスが流れ出した。

木村の話でざらついた心がソフト過ぎるぐらいソフトな音色に少しずつ癒されていく。

リンツの70%ダークチョコレートを齧りながら、ボウモアの注がれたグラスを呷り続けると、一切のざらついた気持ちが消え、急に岬のことが恋しくなった。

既にスマホを手にしている。

「元気か?」

「えっ、昨日も話したばかりなのに、元気かって変じゃない?」

「そう言えば、そうだな」

「それより了はどうなの。
相棒がいなくなってしょぼんとしてるんじゃないの?」

「まあな。
それはそれとして、5月の連休に会えないか?」

「それが、ゴールデン・ウィークに集中講義があるので、金沢に行かなければならなくなったの。
少し九谷とかも見ておきたいから丁度いいかも」

「えっ、そうなんだ。
その頃は会えると思ったのに、それは残念だな」

「ごめんなさい。
また、機会を作るから・・・」

「わかった。
それじゃ、切るぞ。
おやすみ」

「おやすみなさい」

‘何故かこのまま会えなくなる様な気がする。
いつも通りの会話だったが、ディーラーの勘だろうか?’

釈然としない気持ちを振り払う様に、再び液体を喉に流し込んだ。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第43回 「旅立ち」

週初(26日:月曜日)、早朝のドル円は先週末の円買いの流れを受け継ぐ形で、下値を試す展開となったが、104円65銭止まり。

日経平均もやや堅調地合いに転じつつある。

‘これだと、今週はもうドル円の下押しは難しいかもしれないな’

「山下、俺の114円台のショート50本、買い戻してくれ。
期末前の10円抜きは無理だったな。

今日で利益を確定しておくことにする」

「80(104円80銭)です」

「了解、これで今期の俺のポジションは一切なくなった。

明日からお前は出発前の束の間休暇に入る。
これが、お前がニューヨークへ行く前の最後の仕事だな。

そろそろ昼か。
山下、昼飯、外でどうだ?」
ニューヨークのトレジャラーの入れ替えについて、話しておく必要があった。

「はい、良いですね」

「とりあえず、最後の昼飯になる。
和食にしておくか」

「高級和食ですか?」

「調子づくな」
と笑って返しながら、パレスホテル内にある会席料理‘和田倉’に電話を入れた。
運良く、個室が空いていた。

 

銀行の建物から出ると、二人は同時に深呼吸をした。

日比谷通りを走る無数の車から吐き出される排気ガスは気にはなるが、ビル内の空気よりもマシな感じがする。

一週間後の山下は、日比谷通りではなくパーク・アベニューを行き交う車の排気ガス混じりの空気を吸うことになる。

だが、ニューヨークの空は東京の空より断然青いのが良い。
その空の青さを思い出すと、ふとあっちへ戻りたくなった。

‘仮にそうできれば、山下も要らぬ苦労をしなくても済むのに’

パレスホテルは徒歩で5分ほどのところにある。

「これで当分、こっちの和食にもありつけないってことですね」

「そうだな、でも、あっちでも和食は食えるさ」
などと言っているうちに、ホテルに着いた。

‘和田倉’は6階にある。
通された部屋からは和田倉壕と和田倉橋を臨むことができる。
話が湿っぽい内容なので、眺望に救われそうだ。

「何でも良いぞ。
向こうでも和食は何でも食べられるが、まあこっちの方が旨いし、安い。
ここは高いけどな」
笑って言う。

「それじゃ、ビールと春の会席で良いでしょうか」

「ああ、そうだな。
そうしよう」

食事はニューヨーク生活の話が弾むうちに進んだ。

 

会食も終わり、デザートとコーヒーが運ばれてきた頃合いを捉えて、
「ところで山下、俺も先週末に東城さんから聞かされたばかりだが、お前に話しておかなければならないことがある・・・」と切り出した。

少し言い淀んでいると、
「何か拙いことでも?」
不安そうに聞いてきた。

「まあな。
実は山際さんの体調が悪いそうだ。
つまり、お前はそう長くは、山際さんと一緒に仕事をできない。

彼の下であれば、お前が安心して働けると思ってこの人事を進めたが、少し不安だ。

スイスの横尾さんが後を引き継ぐらしい。
日和出身の嶺常務と清水支店長とが進めている人事だ。
間違いなく決まる」

「横尾さんって優秀だそうですが、少し癖のある人だとか・・・」

「このところ彼は為替業務に携わってないし、俺も一緒に仕事をしたことがない。
だから、正直なところ、分からない。

だが、お前までもがそんな話を知っているほどだから、一応用心した方がいい」

「そうですか。でも、僕なら大丈夫ですよ、こんな性格ですから。

それに毎日、了さん、いえ課長とも話ができますしね」
と笑ってみせた。

「そうだな。
でも何かあったら、一人で抱え込まずに必ず俺に言えよ」
と返して、束の間の宴を閉めた。

‘ここでネガティヴなことを言って、ニューヨークでの仕事や生活に希望を抱いている山下を気落ちさせては拙い’

ホテルを出たところで、
「おい、お濠沿いを歩くか。
今年は桜の開花も早い。
これで当分、お前も日本の桜の見納めだ」

「そうですね。
和田倉の会食の締めが桜、最高ですね」

‘少し元気が出てきた様だ’

 

火曜日(27日)に行われた、森友文書改竄に絡む佐川元国税庁長官の国会証人喚問は大方の予想どおり、何の言質も得られないまま終えた。

それをメディアはこぞって「より深まった、行政への不信」などと伝えるが、当然のことだ。

似非資料を基に1年以上も国会が無駄な時間と税金を費やした。

反省の欠片もない政治家と官僚とのやりとりが行われている日本の状況を尻目に、世界情勢は時々刻々と変化していく。

北朝鮮問題では、中朝首脳会談、南北朝鮮首脳会談、米朝首脳会談と、矢継ぎ早に状勢が変化し、日本は完全に「蚊帳の外」に置かれた。

そんな状況下で迎えた翌日の水曜日、「北朝鮮の金正恩政権が日朝会談の開催を模索」とのヘッドラインがニューヨーク時間に飛び出た。

北朝鮮状勢が深刻化する度にリスク回避のドル売り円買いを進めてきた市場は、逆の動きに転じ、107円を覗いたのである。

その日以降、海外がイースター休暇に入り、市場は徐々に模様眺めの展開に落ち着いて行った。

日朝首脳会談の報で作られた俄かドルロング(円ショート)も次第に整理され、週末は106円25~30銭の気配で市場は終えた。

 

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山下健太郎さま

ここまで俺をサポートしてくれてありがとう。

本当に助かったよ。

残念ながら、これからはお前と俺には物理的な時差が生じることになる。

つまり、公私に亘ってこれまでの様な付き合いができなくなるってことだ。

だが、俺達は時差のない空間で生きている、そして夜討ち朝駆けも得意な人種だ。

だから、何かあれば、俺に何時でもコンタクトしてこい。

これは俺の命令だ。

お前独りで悩むことはない。

俺はお前の悩み、苦しみをすべて受け止めてやる。

東城さんが俺にしてくれている様に!

仙崎 了

追:沖田にはミッドタウン・トンネンル*に入る前に、マンハッタンの摩天楼を見渡せる場所で車を停める様に伝えてある。

その場所で、お前はきっと‘やってやる’という強い意志を抱くことになる。
間違いない。

そして仕事が苦しくなったら、そこに戻り、摩天楼を見上げろ。
きっと、‘やってやる’という気持ちが甦って来る。

その場所はそんな場所だ。
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和田倉での食事の後、濠の桜を眺めながら「機内で読め」と山下に渡した手紙である。

 

土曜の晩、いつものとおり、ラフロイグのボトルとグラスを持って、PCの置いてあるデスクへと向かった。

国際金融新聞への来週のドル円相場予測を書く為である。

だが、キーボードを叩く気にもならない。
山下のこの先のことが気に懸っているのだ。

山下は今日、羽田10時40分発のJL6便でこれからの主戦場となるニューヨークへと向かった。

見送りには行かなかった。
彼が「来なくていい」と固持したからだ。

銀行を離れれば、俺を「了さん」と馴れ馴れしく呼ぶ。
俺自身も弟みたいに接してきた。

涙を見せてしまうのが人情だろう。
見送りに来た家族に、それを見られたくない。

‘格好をつける柄でもないくせに’

頭を振りながら、グラスを一気に空けた。
ラフロイグ独特の薬くさい香りが口の中に残る。
でも、それが徐々に脳を覚醒させる。

偶然か、BGMにはYOSHIKO KISHINO の ‘Manhattan Daylight’ が流れ出した。

‘あいつもそろそろ、彼の地のデイライトを浴びる時刻だな’

 

木村様

来週から新しい期に入りますが、また宜しくお願い致します。

これで再び、私もトレーディングすることができる様になります。

2月末で収益を固めたため、3月はほとんどポジションなしの状態でした。

実際にポジションを持たないと、相場を見る目が曇り勝ちになります。

きっと来週以降は、もう少し気の利いた予測ができるかと思います。

目先の焦点は誰が積極的に107円台のドルを買うかでしょうか。

今週、107円台を覗きましたが、ドルショートの巻き戻しの結果とも言えます。

来週もまだ、下値圏での揉み合い程度と踏んでいます。
(リスク・ウェイトはまだ、下方に掛けていますが)

ところで、今週の財政金融委員会において、森友問題の渦中で喘ぐ麻生財務相は「過去数十年の歴史を見ると、(日米の長期)金利差が3%ならドル高円安に振れる」などと言ったらしいですね。

もちろん、財務省の誰かが作成した委員会用の資料に基づいての発言でしょう。

現時点で10年債の利回り格差は約2.7%ですから、このまま米金利が上昇すれば、現状の円高にも歯止めがかかると言いたかったのでしょうが、前提は金利上昇に米経済と米株式市場が耐えられるかどうかです。

また米金利上昇の持続性にも限界があるでしょう。

確かに、短期的には米金利上昇はドル買いのインセンティヴになるのは事実ですが、金利平価説を考慮すれば、金利差拡大は先のドル安円高の示唆でもあります。

まあ、麻生さんにそんな話をしても理解されないでしょうが。
未曾有も読めなかった方ですからね。

 

来週の予測レンジ:104円50銭~108円

IBT国際金融市場本部外国為替課長 仙崎了

 

(つづく)

注:
*ミッドタウン・トンネル
JFK(ケネディー空港)はクイーンズ地区の最南端にある。

ミッドタウン・トンネルはクイーンズ地区とマンハッタン島の中心部をつなぐ重要な役割を果たしている。

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第42回 「山下を襲う知らざる敵」

週初19日(月曜日)、財務省文書改竄問題で揺れる安倍政権の支持率が急低下するなか、株式市場に急落の兆しが見え始めた。

そんな状況下、為替市場は円買いに動いた。
106円近辺で寄り付いたドル円は、いきなり105円68銭まで下落。

 

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日本株の軟調で円買いに動くのは不自然だが、世の中に不透明感や地政学的リスクが漂い始めると、為替市場は慣行的にそんな動きをする。

これを、新聞の経済欄は真面な論調で ‘相対的に安全度が高い資産である円が買われた’ などと表現する。

円が通貨である以上、資産には違いないが、そんな表現は稚拙であり、記者の程度が知れる。

こんな時に円買いに動く参加者の多くの拠り処は、脳内に深く刷り込まれてしまった「相対的に安全資産である円」というフレーズである。

短絡的だが、短期のスペック(投機)はそれに乗らないと、日銭が稼げない。
そうしたなかで、市場の機微を見分けらながら、俊敏に立ち回れる為替ディーラーのみが生き残れる。
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それ以降、ドル円相場は106円を挟んで揉み合う展開となった。

106円半ばに近づくとドル売りが出る、105円台に入るとドル買いが出る。
そんな展開である。

21日(水曜日)のNY時間に開催されたFOMCでは、FFレートの目標値が従来の1.50%から1.75%に引き上げられることが決定され、利上げペースも今回を含んで年内3回という見込みも不変だった。

市場の予測通りの結果だ。

ドルを積極的に買う向きはいない。

声明後の記者会見でパウエル議長から「遅すぎる利上げは経済にリスクを齎す」というタカ派的なコメントが発せられたが、市場はドル買いに動かなかった。

逆に言えば、今回利上げがなかったとすれば、ドル売りが殺到するという見方もできる。
市場はドル買い材料に反応せず、ドル売り材料に反応する、そうした展開が続いていると考えるべきだ。

106円を挟んだ展開が続いているが、やはりドルの急落が起きそうな気配を感じる。

ドル円の下落では、ドル売りなのか円買いなのかを見極める必要がある。
一連のドルの下落では、両方の動きが重なるという混沌の中で、資本筋や実需の動きが複雑に絡み合う。

森友文書改竄→日本株売り、トランプの無手勝な通商政策→内外経済への悪影響→米株売り、こんな状況の中で ‘リスクオフ(回避)’ というフレーズがメディアによって吹聴されれば、市場参加者の円買い(ドル売り)を勇気づける。

決して円が安全通貨ではないのに。

‘節目の105円を試す展開は近い’

先週の土曜日に国際金融新聞の木村に送った「ドル円相場予測」では、ドルの下値(円の高値)を103円50銭に置いた。
そこまで届くかどうかは別としても、節目の105円を割り込む’ことは間違いない。

果たしてそんな展開は22日(木曜日)に訪れた。

トランプが中国に対する貿易制裁発動を命ずる文書に署名したことを契機に、NYダウが急落した。
それに連れて、ドル売りが加速し出したのだ。

その日、ドル円は105円26銭で踏み止まったが、翌日の週末には一時1000円を超える日経平均の急落に連れる格好で104円65銭まで沈んだ。

そんな折、東城からお呼びがかかった。

 

東城の執務室のドアをノックすると、
いつも通りの「おう、入れ」という落ち着いた声が聞こえた。

「お早うございます。
だめですね、ドルは」

「そうだろうな。
貿易戦争という怪しいフレーズが流布するなか、来週には佐川氏の証人喚問とあっては、
市場が不安心理に駆られても当然か。

それにしても、まだメディアは‘リスク回避の円買い’だなんて言葉を使ってるのか。
異常な金融緩和が続いてる一方で、政局がこんな状況だ。
それに日経平均も2万円の大台割れが迫っている。
円が安全通貨とは呆れるな。

スペックが円を買うだけなら、それはそれで勝手にさせておけば良いが、知らぬ間に大台が変わると、資本や実需が慌てることになる。
やっかいだな。

国際通貨としての諸機能をすべて満たしているドルが有事通貨だった遠い昔、そんなものかとも思った。

だが、円は第三国通貨としての利用度は数パーセントに過ぎないローカル・カレンシーだ。
もっとも、理論尽くめで読めないのが相場だからな」

「はい、円買いが市場の反応なら仕方ないですね。
こんなとき、市場の動きに合わせて反応しなければならないインターバンクの連中は辛いですよ」

「そうだな。
それはそうと、山下君は来週、ニューヨークに向かう予定だったな。
これを渡しておいてくれ」
餞別の品である。

「お気遣いありがとうございます。
彼が少し慣れたところで、奥さんとお子さんが向かうそうです」

「そうか。
それが、良い。

車の免許など、家族を呼び寄せる前に本人のやるべきことは多いし、仕事にも慣れておく必要がある」

「そうですね。
もっとも、ボードに座るのは同じですし、仕事の方は問題ないかと思いますが」

「ああ、ただ少し心配ごとが出てきた。
トレジャラー(為替資金部長)の山際の体調が悪いらしい。

本人は鬱気味だというが、恐らくは5年間の重責で疲れが溜まってのことだ。
こっちで暫く、楽な仕事に就かせてあげたい。

問題は人材だ。
この件は、嶺常務にも伝えてある。

嶺さんはスイスの横尾を推してきた。
統合前の片割れである日和銀行では屈指の為替ディーラーと言われた男だ。
だが、彼は性格に難点がある。

気性の良い山下と真逆の性格の持ち主、その二人のディーリングの力が同じだとしたら拙いことになりそうだ」

「そうですか、山際さんなら山下を預けても問題ないと思ったのですが、それは拙いですね。
と言って、あそこのトレジャラーのポジションは重要ですから、力のない人間は送れないですよね」

「そうだな。
もう嶺さんはニューヨーク支店長に話をしている様だから、ほぼ決まるだろう。
俺も色々と考えてみたが、今は横尾に優る人材は見つからない。

まだチューリッヒの内部事情もあって、入れ替えは数カ月先になると思うが、山際の体調のこともある。
悪戯に時間を延ばすわけにもいかない。

山下には一応、このことを伝えておいてくれ」

「仕方のないところでしょうか・・・」
東城もその言葉を引き取らない。

‘そのまま受け入れるかしかないか’

「了解しました」
と言い残し、部屋を辞した。

‘拙いな。
やはり二人に確執が生じそうで気懸りだ‘

 

その晩のニューヨークでも、ドルの軟調地合いは続いたが、ドル円は東京の安値104円65銭を下回ることはなかった。

そして104円70銭近辺で、週を終えた。

 

土曜日の晩、山下の先々のことが気になり、外食に出る気になれず、宅配ピザを頼んだ。
宅配ピザが届いたが、何となく食欲がない。
冷蔵庫からハートランドを取り出すと、ボトルごと液体を胃に流し込んだ。

いつもならBGMの選択に躊躇はないが、今日は何も思い浮かばない。
仕方なしにCDボックスから無作為に一枚を取り出した。

Kimiko Itoh の ‘Best of Best’ である。
もう内容も忘れたアルバム、一曲目のトラックは‘follow me’ だった。

Follow me to a land across the shining sea
Waiting beyond the world we have known
Beyond the world the dream could be
And the joy we have tasted

今頃、山下は憧れていたニューヨークでの楽しい生活を思い描いているはずだ。
‘間の悪いアルバムを抜いてしまった様だな’

来週早々にも、彼にニューヨークの人事について話さなければならない。
横山については人伝にしか聞いていないが、伝聞通りだとすれば、最悪の性格だ。

山下が持前の明るさで乗り切ってくれれば良いが、俺がかつて経験した様なことが彼に起きれば、潰れるかもしれない。

‘やり切れない’

半分ほど液体が残っているハートランドのボトルを一気に飲み干すと、ラフロイグのボトルとウィスキーグラスを持って、PCの置いてあるデスクへと向かった。

国際金融新聞の木村に来週のドル円相場の予測を送る前のいつものプロセスである。

 

木村様

来週のドル円相場の予測をお送りします。

まだ基調に変化はないと思います。

こうした流れはドルが急落し、そして急反発する様な形で一相場が終わることが多いと考えています。
まだそんな相場展開にはなっていません。

与件が多い、否多すぎるので、深読みし過ぎると相場に乗り遅れる、そんな感じの展開が続くと思います。

今週、シカゴ(IMM)筋が大きく投機的円ショートを手仕舞いましたが、そんな彼等の動きが今の流れを象徴しているのかと。

うちの実需(輸出関連企業)の取引先にも少し焦りがある様で、105円台でドルを売り出しました。

この先、ドルの戻り高値が105円台前半でキャップされる様だと、ドルの一段安、つまり100円割れを意識する必要があるかもしれません。

ただ、来週は102円台が一杯かと考えています。

予測レンジ:102円50銭~106円20銭

埋め草はお任せします。

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第41回 「春来たれり」

週初の12日(月曜日)、森友文書問題で日本中がざわつくなか、外国為替市場は模様眺めの展開となり、朝方からドル円は106円台後半での保ち合い状態が続いている。

先週の金曜日に発表された米2月雇用統計の結果だけで判断すれば、多少はドルが買われも良いはずだが、107円を試す雰囲気もない。

‘この様子だと、今週もドルの上値は重いはずだ。
ここはドルを売っても悪くはないが、期末を控えて余計なことはしたくない’

そんなことを考えていると、自分専用の電話が鳴った。

財務省の坂本からである。
「貴様、誰に何を頼んだ?」
いきなり怒り狂った様な声で食って掛かってきた。

財務省主計局から札幌財務局への転勤、しかも主計課付きという空気の様な立場での転勤は、‘将来は局長の上も間違いなし’と踏んでいた彼にとって、想像すらしなかった厳しい宣告だったに違いない。

電話の怒声に今の彼の気持ちが滲む。

「ご転勤だそうで、吉住さんから聞きました。
坂本さんは私がその件に関わったと言いたいのですか?」

「ああ、そうだ。
だから、誰に何を頼んだと聞いている」
怒りが収まっていないのか、まだ声が震えている。

こんなとき、こっちは冷静に受け止めればいい。
「勉強会の日、この先余計なことをすれば、‘霞が関にあなたの居場所がなくなる’と伝えたはずです。

それを単なる私のブラフと受け取ったあなたの思慮が足りなかったのでは?

’官邸の意向なら聴く’耳を持つあなたが、一民間銀行の為替ディーラーの言うことを無視した。

それだけのことでしょう。

でも良かったじゃないですか、主計畑だそうで」

「貴様、俺を馬鹿にするのか。
一度左遷されたら、ほとんどカムバックはない」

「あなたなら出来ますよ。
同期の中でトップを走ってきたそうじゃないですか。

でも、パワハラだけは気を付けた方が良い」

「貴様、どこまで知ってるんだ。
いつか必ずこの仕返しはしてやるから、覚えてろ!」
凄まじい声で捨て台詞を残すと、彼の方から電話を切った。
エリートを誇った男にしては、有体の捨て台詞である。

坂本の左遷理由は公にはならないが、吉住によればパワハラだという。
課内だけでなく他部署に於いても、彼の言葉によるハラスメントは相当酷かったそうである。
俺を無理やり勉強会の講師に仕立て上げたのも、そんな彼の圧力が働いてのことだった。

永田町の意向云々が取り沙汰されるなか、今回の件で俺はその意向を使った。
岬と志保を守ることが出来たが、世間で官邸主導に傾斜する政治のあり方が取り沙汰されているなか、少し負い目を感じざるを得ない。

佐川氏が理財局長だった頃の国有地売却価格を巡る決済文書問題では、オリジナル文書があまりにも克明に記され過ぎている。

その不自然な文書は、官邸により行政が歪められたことを示すエヴィデンスとして、当時の佐川理財局長とその配下の一部が残したものだったのかも知れない。

‘真相が分かれば良いが’

事の起こりや性質は異なるが、リクルート事件の影響は内閣総辞職に及んだ。
当時の首相は竹下登、そして蔵相(現財務相)は宮沢喜一。

今回は、安倍晋三首相、そして財務大臣は麻生太郎。
今、彼等の立場が問われている。

 

翌日(13日、火曜日)以降、ドル円は一時107円30銭を付けたが、伸びに欠けた。
テクニカル上では20日~25日移動平均線がドルの上値を抑えた格好である。
移動平均線はその期間の売買コストを概ね意味する。

であれば、その水準で投機筋のドルロングの投げが出やすく、ドルショートを持ちたい投機筋の売りが出やすい。

ドル建ての輸入筋は高値でのドル買いを手控える一方、その逆にドル建ての輸出筋はドルの戻り売りを狙う。

そしてドル建て資産を持つ資本筋は未ヘッジ部分を減らす*一方で、期末を控えて新規の海外証券投資を手控える。

ドルの上値が重たくなるのは当然だ。

週末(16日、金曜日)に、ドル円は105円60銭まで下落した。

 

土曜日の晩、岬からの電話があった。

「今日、主人から印鑑の押してある離婚届けが送られてきたの。
同封された手紙には札幌に転勤する旨とこれまでの詫びが書かれていたわ。

でも、これまでの主人らしくないの。
まるで人が変わったみたいに穏やかな筆致だった。

了、この間、‘何が起きても構わないか?’って私に聞いたわよね。
彼に何かした?」

‘志保の父親に働きかけたことを言える訳がない’

「いや、特に何も・・・」
言葉が続かない。
その間合いに何かを感じ取った彼女の様子が電話越しに伝わってくる。
‘拙いな’

「そう、それならいいわ。
安心した。

了には色々と心配を掛けたけど、これからは全て前向きに考えられそうな気がする。

月末までに官舎を引き払う必要があるらしいの。
それが終わるまではばたばたしそう。

ところで、山下さん、もう直ぐニューヨークね。
淋しいでしょ、了?」

「まあな。
これであいつが飲み食いする分の支払いは減るけど、正直言って淋しいよ」

「でも、毎日電話で話するんでしょう?

羨ましいわ、了と山下さんとの関係、それに東城さんとの関係もね。

私とどっちが大事?・・・・・・
なーんて、ありふれた質問はしないから大丈夫よ」

‘最後の台詞は彼女の強がりだろうか’
ふと、岬の心が遠のいて行く不安に駆られ、慌てて言葉を繋いだ。

「ありふれた質問って?

そんなことはないと思うけど。

でも、いつか他の言葉で面と向かって聞いてみたら」

「分かったわ。‘つまり、つまり’ってことね。
それじゃおやすみなさい」

電話の向こうで‘In other words,・・・・・’と彼女が歌い出す。

「ああ、おやすみ」
‘hold my hand’
‘ please be true’
という結びのフレイズまで聴くことはできなかったが、心が満たされた。

いずれにしても、坂本から離婚届けが送られてきたのは良い知らせだ。

でも、坂本はどんな内容で転勤話を岬に伝えたのだろうか。
見えを張り続けたであろう彼のこと、札幌での自分の新たな立場は伝えていないはずだ。
彼の気持ちを思うと、少し心に痛みを覚える。

‘彼が売ってきた喧嘩を買って出たまでのことだ。
売りと買いは為替ディーラーの宿命か’

頭を振りながら、テーブルの上のウィスキー・ボトルのネックを掴むと、PCの置いてあるデスクへと向かった。

昨日から洗わないままのグラスにラフロイグを注ぐと、一気に飲み干した。
そしていつもの様に、国際金融新聞の木村宛てのメールを打ち出した。

 

木村様

来週のドル円相場予測をお送りします。

内外で与件が多くて、木村さんも忙しいのでしょうね。

僕も多すぎる与件に辟易としています。

そうしたなかで、FOMCが一つの焦点ですが、利上げ決定云々よりもドットチャート(政策金利見通し)の方が気になります。

現在、長期の中立金利・中央値は2.75%ですが、これが一挙に3.25%や3.5%という水準になるまで政策メンバーの気持ちが景気過熱制御に傾いているとは思えません。
この先、精々3.0%が良い処でしょうか。

本邦では、「麻生辞任→安倍政権の崩壊」というイメージが市場で強まっている点でしょうか。

つまり、アベノミクスによる円安・株高のシナリオが崩れ、株暴落・ドル円急落という展開は有り勝ちかと。

今はそうした短絡的な読みこそが、市場に受け入れられやすいのだと考えています。

現局面では、損得勘定を気にしなくても済むエコノミストやストラテジストが綺麗に仕立て上げた悠長な相場予測は不要ということです。

そうしたなかで、ドットチャートの中立金利の水準調整はまともに採り上げて良い与件の様な気がします。・・・木村さんなら、これで一味違う記事を書けると思います。

一応、来週のFOMCにおけるドットチャートの中央値は+10bp程度(2.85%)を考えています。

予測レンジ:103円50銭~107円90銭

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

 

(つづく)

注:
*未ヘッジ部分を減らす=ヘッジ率の引き上げ→ドル建て資産であれば、フォワードのドル売りを増やすか、ドルプットの購入を増やすことで、先のドル安リスクを軽減する行為

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。